2011/04/30

クライム・ノベル、Val McDermid, "A Place of Execution" (1999)

工夫豊かなクライム・ノベル
Val McDermid, "A Place of Execution"


(1999; HarperCollins , 2010) 603  pages.

☆☆☆ / 5

書店で何となく手にとって買った本。Val McDermidは、大変有名な犯罪小説作家でたくさん出版している。これは第一作のようだ。作家本人がBBCの討論番組に登場して見たことがあり、また、サラ・パレツキーが何処かで言及してしていたため、試しに買ってみた。

話はイングランドの片田舎の、かなり孤立した寒村で起こる少女誘拐・殺人事件のミステリ。誘拐されたAlison Carterという十代の女の子の血の付いた服や犯行に使われたと思われる拳銃や弾丸など種々の痕跡が発見される。怪しい人物が浮かび、数多くの状況証拠が積み重ねられ、死体が発見されないまま、婦女暴行と殺人の罪で男が起訴される。この死体が発見されないという事実が、警察にとって捜査や裁判を大変難しいものにする。

上記のように、他ではまず見ない(と思える)工夫のある小説。また、大変サスペンスあるシーンが多くて、読むのが非常に遅い私でも引き込まれる時が多かった。最近、これまで以上に体調が悪いのだが、横になってこの小説を読むことで、数日気をまぎらわせることが出来た。『処刑の方程式』という題で翻訳も出ており、テレビドラマにもなっているので、評価は高いのであろう(日本でもケーブル局で放映されたようだ)。このドラマには、Juliet Stevensonが出ていて、その点でちょっと興味あり。

しかし、全体としてみると、それ程感心しない。今のところ、この作家のものをまた近々読みたいとは思えない。というのは、主なキャラクター、主人公の警察官コンビ(D I George BennettとD S Thomas Clough)、が特に個性豊かとか、深みあるキャラクターとは言えず、魅力を感じないためだろう。また、パレツキーとか、Sansomに見られるような政治・社会に関するメッセージ性も無い。田舎の人々の軋轢とかゴシップなどがわんさか出てくるところは、バーナビー警部もの("Midsomer Murders" series)とちょっと似ているが、あのシリーズよりはかなりシリアスではある。

私には向いてないが、純粋にクライム・ノベルがお好きな方にはおおいに楽しめる作品だろうと思う。

2011/04/29

Rattigan原作の映画、"Separate Tables" (1958)

冬の保養地の孤独
Rattigan原作の映画、"Separate Tables" (1958)


アメリカ映画、白黒

鑑賞した日:2011.4.28
映画館:NFT2, British Film Institute (BFI)

監督:Delbert Mann
脚本:Terence Rattigan, John Gay
原作:Terence Rattigan
制作:Harold Hecht
音楽:David Raksin
撮影:Charles Lang Jr.

出演:
Burt Lancaster (John Malcolm)
Rita Hayworth (Ann Shankland, John's ex-wife)
Wendy Hiller (Pat Cooper, hotel manager & John's fiancée)
Deborah Kerr (Sibyl Railton-Bell)
Gladys Cooper (Mrs Railton-Bell, Sibyl's mother)
David Niven (Angus Pollock, retired military officer)
Rod Taylor (Charles, hotel customer)
Audrey Dalton (Jean, Charles's girlfriend)
Cathleen Nesbitt (Lady Matheson)

☆☆☆ / 5

British Film InstituteのTerence Rattigan特集のうちの1本。有名スターを散りばめたハリウッド映画であり、無理にドラマチックにしようとしているのか、演技や音楽がこってりした味付けで、しつこい感じがしたが、それでもベースにあるRattiganの原作と脚本が素晴らしいため、結果的には大変楽しい時間を過ごせた。

この劇は、日本で2005年に自転車キンクリートが全労済ホールで上演し、私も見ているが、それも大変楽しめたという印象が残っている。他の方のブログを見てみると、久世星佳、山田まりや、坂手洋二、他、出演。脚本(翻訳?)、演出はマキノノゾミ。

この映画版では、話の内容は同じだが、原作では2つの幕で前後半に別れてオムニバス形式だったストーリーをひとつに組み合わせて同時進行していて、全体として1つのストーリーになっている。舞台でも、このシナリオを使って上演してみるのも面白いのではないか。オリジナルの舞台用脚本と遜色ないかもしれない。脚本もラティガン自身が関わって他の人と一緒に書いている。50年代のハリウッド映画なので、あまりにも作りものらしい感じが玉に傷。音楽がやたらお節介に鳴り響き、騒々しい。

状況設定は、イギリス南西部Dorcet州の海辺の保養地Bournemouthの安ホテル。季節は冬で、長期滞在者しか残っていない。その一人が飲んだくれのJohn Malcolm (Burt Lancaster)、ホテルの支配人Pat Cooperと婚約している。しかし、そこにRita Hayworth演じるJohnの元の妻、Ann Shanklandが彼を追ってやって来る。Johnは二人の間にはもう何の気持ちも残っていないと言うが、会話を重ねる内に彼女が彼を必要としていることが分かり、情熱に火が付く。一方、いつも軽口をたたきつつダンディーぶりを発揮しているMajor Angus Pollockという退役軍人に、母親に一から十まで指図され、仕事も持たず、男性とつきあえないままオールドミスになってしまったSibyl Railton-Bellは憧れている。しかし、モラルに厳しく口うるさい母親のMrs Railton-Bellは、Angus Pollockが映画館で女性を触ったという罪で裁判にかけられたという地方紙の記事を見つける。またPollockは、第一次大戦で戦功をたて、階級もMajor(少佐)だったと言っていたが、それらは全て嘘であり、人間関係に不器用な小心者に過ぎなかった。Mrs Railton-Bellは、彼をホテルから追放しようと他の住民と画策し、支配人のCooperに申し入れる。Pollockはいたたまれなくなり、自らホテルを出ると申し出るが、娘のSibylは始めて母親に反抗して、彼を引き留める。

Rattiganらしい、心優しい孤独な人々が散りばめられた脚本。また押し込められてきた情念が一気に発露される時があるのも彼の特徴と思う。とりわけ、Ann Shankland、Sibyl Railton-Bellと言った女性達が男性を積極的に求めるところや、ロマンチックなだけでなく、Annやホテルの客のひとりのJeanがボーイフレンドを私室に誘うところなど、女性にとってもセックスは大事であると示すところもRattiganらしいかもしれない。一方、JohnやMajor Pollockは現実を逃避して酒に溺れたり、嘘やごまかしで逃げたりして生きているし、JeanのボーイフレンドのCharlesも、積極的な恋人に押されっぱなしのだらしない男。題名は、ホテルの食堂で住人達がそれぞれ別のテーブルに座って食事することから。つまり孤独を表すのだが、やがてその離ればなれのテーブルの間に気持ちの繋がりが生まれる。昔の映画だから仕方ないが、Burt Lancaster, Rita Hayworthというふたりの大スターの、演劇よりも芝居くさい演技が鼻につき、私にとってはこの二人にいまひとつ共感しづらいのが難点だった。格好良すぎて、気持ちのすさんだ生活を送っている人達に見えない。ただ、他の役者は良かった。特にSibylを演じたDeborah Kerrが印象に残る。劇場は私と同世代かそれ以上の年配の観客、特にカップル、で一杯、上映終了時には拍手が起こった。

(余談)イギリスの劇場や映画館、展覧会等に行くと、年配のご夫婦で連れ立って見に来ている方々の多いこと!こういう人々が文化を支えているのだとつくづく思う。一方日本では女性のグルーブが大変多いし、男性はやや少なく、またひとりで来る男性が多いという印象だ。英米は夫婦で趣味を共有するというのが当たり前の文化なのに対し、日本では女性は友人や地域の知り合いと、そして男性は仕事仲間との結びつきが主なのかな? イギリスではレストランでも夫婦やカップルが主だし、食事に招いたり招かれたりする時も夫婦単位。良いことだと思う。ただし、ひとり者は寂しい。でもだから一人の人でも、パートナーを捜すインセンティブになるし、男女のゲイのカップルも多く、夫婦を招くように自然にゲイのカップルを招いたり招かれたりする人も多いだろう。

日本では、『旅路』というタイトルでDVDが発売されている。米国のAmazon.comでは、これ以外に、Julie Christy, Alan Bates, Claire Bloomなどが主演した同名の作品も見つかった(VHS, 1993)。そちらは2つの幕に分けた構造を踏襲しているようだ。

2011/04/27

Harold PInter, "Moonlight" (Donmar Warehouse, 2011.4.26)

死の床から見つめる家族の肖像
"Moonlight"

Donmar Warehouse公演
観劇日:2011.4.26  19:30-20:40
劇場:Donmar Warehouse

演出:Bijan Sheibani
脚本:Harold Pinter
セット:Bunny Christie
照明:Jon Clark
音楽、音響:Dan Jones

出演:
David Bradley (Andy, former civil servant & a man in his 50's)
Deborah Findlay (Bel, Andy's wife, 50)
Daniel Mays (Jake, Andy's son, 28)
Liam Grrigan (Fred, Andy's son, 27)
Lisa Diveney (Bridget, 16,  ghost of Andy's daughter, now dead)
Carol Royle (Maria, Andy's former lover, 50)
Paul Shelley (Ralph, Maria's husband and a football referee, in his 50's)
(年齢は私の推測ではなく、脚本に書いてある。)

☆☆☆☆ / 5

ステージ中央に大きなベッドが置かれ、男が寝ている。その男、主人公のAndyは病気で死にかけており、妻のBelが付き添って、ベッドの横で刺繍などしながら、辛抱強く相手をしている。そのAndyの妄想から生まれたのか、現実なのか、舞台の別のところでは、彼と関係の切れている息子2人が会話を繰り広げる。また、彼の元の愛人のMaria、彼女の夫でサッカーのレフリーのRalphなども現れる。更に、Andyの亡くなった娘(多分自殺?)のBridgetがステージを彷徨うように漂いつつ独白をする。

Andyは、常識的に見ればひどく横暴で無神経。しばしば乱暴な言葉を吐く。しかしBelは長年そういう男と連れ添ってきたので慣れていて、手慣れた言葉でやり過ごすし、大変したたか。強い精神と、その背後に隠された繊細さを感じさせる。彼のMariaとの浮気も、今は人生の些細な一コマのようでもあり、また、夫婦間の裏切りを超えた、人間同士の繋がりのようでもある(Mariaはその後、Belの恋人になったとAndyは言っている)。

JakeとFredは2人で意味のない(ように聞こえる)会話を延々と繰り広げる。時には激しい動きもする。ウラディミールとエストラゴンのような、あるいはローゼンクランツとギルデスターンのような2人。Fredは浮浪者のようなみすぼらしい風体。双子のような感じがし、寄席漫才のようでもある。脚本では指定されてないと思うが、Fredは最初寝床のようなものに寝ているので、この2人と、両親が視覚的に対照されていると感じる。彼らの会話には親はあまり登場しないが、それだけに、彼らがその他の話をせわしなくすればするほど、彼らが父との関係に捕らわれているのが感じられるし、同じステージ上に同時に居る死にかけた父親や彼を看病する母親との関係の断絶が際立つ。後半、Belが2人に電話をし、Andyが死にかけていることを告げるが、彼らは間違い電話をかけられたクリーニング店のふりをして、繰り返し"Chinese Laundry"と冷たく機械的に答えるのみ。

終わりに近づくに連れ、Andyは子供や生まれもしなかった孫のことを言い出し、焦燥感をにじませる。何も解決せず、カタルシスもなく、突然劇は終わる。

十分に理解出来たとは到底言えないが、それでも素晴らしい作品だと感じた。死を前にした現代人を、Pinter独自の文法で徹底的に余計なものをそぎ落として見せる。そこには、結局妻と子供、そして愛人といった人だけが残っていた。最後は人間、自分と家族だけが残される、ということだろう。しかし、その家族との関係がAndyの場合疎遠になって全く会えなかったり、娘はもう死んでいたりする。人と人は断絶している、しかし、人は他の人、特に家族を求め続ける、という切実な思いが痛いほど伝わる作品。リアリズム劇の感動とは全く違う不思議な説得力を感じさせてくれる。

今回、脚本を最後まで読んでいったので、観劇までにある程度作品の意味を考えていたが、実際のステージを見ると、言葉が見事に生気を帯びたのを感じたし、読んだだけでは分からないこともよく分かった。特に同じ舞台に親子が常に居続けることで生まれる効果が興味深かった。繰り返し見ると、もっと発見があるだろうと思う。

俳優が皆素晴らしいのだが、特にDavid Bradleyの存在感、間の取り方、緩急のつけ方など、いつもながら感心する。彼はテレビ・ドラマにも脇役で良く出るが、出てくるといつも強い印象を残す俳優。今回の我が儘な病人Andyは、色んな人が、「こういう病人いる/いたよね」とか、「私はこうはなりたくないね」と思うような、ひとつの「タイプ」を見せてくれる。

タイプということで思い出すのは、この劇の設定、ステージ中央に置かれたベッドや、死に至る病人は、まさに中世道徳劇の設定と同じ。キリスト教の教えは無いが、"The Castle of Perseverance"とか、"Everyman"に類似した面がある。Ralphがサッカーのレフリーであることから、神の法や裁きを連想させる台詞もある。Bridgetがあの世からの魂として彷徨っていること、Andyの台詞にこの世とあの世の境についての彼自身の混乱を示しているものがあることなど、中世劇との関係で考えると含蓄豊かであり、すぐに答の出ない面白い点がいくつかある。舞台を見た上で、台詞を細かく見て行くと、色々と面白いに違いない。例えばAndyの何気ない台詞に、"The bell ringing for Evensong in the pub round the corner?"なんていうのもあった。

この劇は1993年の作品。その前の年、Pinterは母親を亡くしている。彼自身も1930年生まれなので、老境を迎えつつある時期の作品。また当時彼は一人息子と疎遠になり、連絡を取れない状態であったそうであり、色々と自伝的要素が影響を与えていると思われる。

Donmarのステージにはベッド以外にはほとんど何も置かれず、裸の「ユニバーサル」な空間となっていた。漆黒のステージを縁取りする四角い照明が囲み、そして、台詞を言う登場人物に照明が当てられていた。グローブ座などとは違う小さな空間だが、ある意味、そのユニバーサルな広がりは、中世・ルネッサンス劇の伝統を思い出させる。いや、Blackfriarsなんて、暗くてこういう感じだったかも知れない。ステージの縁取りをする照明は、昔なら並んだロウソクだ。

死、病、家族、愛、裏切り、記憶・・・。劇そのものに加えて、色々な事を自分に引き寄せて考えさせる劇だ。


2011/04/26

Rattigan原作の映画、"The Winslow Boy" (1999)

私の夢の中のイギリス人達
映画版"The Winslow Boy" (1999)

鑑賞した日:2011.4.25
映画館:NFT2, British Film Institute (BFI)

監督:David Mamet
シナリオ:David Mamet
原作:Terence Rattigan

出演:
Nigel Hawthorne (Arthur Winslow)
Rebecca Pidgeon (Catherine Winslow, Arthur's daughter)
Jeremy Northam (Sir Robert Morton, barrister)
Gemma Jones (Grace Winslow, Arthur's wife)
Guy Edwards (Ronnie Winslow, Arthur's second son)
Matthew Pidgeon (Dickie Winslow, Arthur's elder son)
Colin Stinton (Desmond Curry, family solicitor)
Aden Gillet (John Waterstone, Catherine's fiance)
Sarah Flind (Violet, maid of the Winslows)

☆☆☆☆☆/ 5(Rattiganへの私の偏愛に基づく評価)

Terence Rattigan生誕百年にちなみ、Rattigan作品の上演が相次いでいるが、既に書いたように、BFIではRattigan原作の映画の特集もやっていて、その中の1本。私は日本で"The Winslow Boy"を見た覚えがあるのだが、これを見たのではない気がしている。でもひどい健忘症なので、自信ない。

さて、この作品は実際に起こった事件にかなり基づいていると言われるが、それはさておき、劇と映画では第一次大戦開戦前夜の1911年に設定。引退した豊かな元銀行員のArthur Winslowの息子、Ronnieは海軍幼年学校(寄宿制)に入っているが、そこで他人の金を盗んだ疑いをかけられ、突然退学勧告を受ける。だがRonnieは自分はやっていないと頑固に主張、息子を信じたArthurと家族、特に成人した娘(30歳位)のCatherineは、Ronnieにかけられた疑いを晴らし、名誉を回復するために、法廷闘争に邁進する。しかしその為に一家は、マスコミの好奇の目にさらされ、多額の法廷費用がかかることから、長男のMatthewはオックスフォードでの学問を諦めて銀行に就職する。更にCatherineのフィアンセで軍人のJohn Waterstoneの父親は、Winslow家の援助(持参金)が難しくなったことで、結婚を許さないと言い、John自身もその父親に同調。彼女の結婚が難しくなる。そうした経済的な問題にも関わらず、Arthurは最も優秀という世評の敏腕法廷弁護士、Sir Robert Mortonに高価な費用を払って弁護を依頼。Mortonは大変困難な弁護を引き受け、彼自身もこの裁判の弁護を続ける為に大きな犠牲を払うが、最後にはWinslow側の勝訴に至り、一家の努力は報われる。最後の場面は、勝訴の喜びと共に、MortonとCatherineの間に芽生えたほのかな好意を感じさせるロマンチックな幕切れ。

私は原作を呼んだり見たりしていないので、映画と舞台の比較は出来ないが、見た感じでは、映画向きにややMortonとCatherineの美男美女に大きな焦点が当てられ、Nigel Hawthorneが霞んでいた気がするのが幾らか不満だった。しかし、全体として見ると、個人的には非常に楽しめた作品。Rattiganらしいところがたっぷり見られる。ArthurやCatherineの、悲しみを押し殺して努力する姿、大騒ぎせず、静かにフィアンセが自分を去っていくのを諦めるCatherine、法律家としての最高の職を棒に振っても弁護を全うするだけでなく、そのことを自分では誰にも言わないSir Morton、経済的には大変苦しくても20年働いてくれたメイドのVioletに暇を出さない決断をするArthur夫婦、弟の為にオックスフォード大学の卒業を不平も言わずに諦めるMatthew・・・、一家の人々が犠牲につぐ犠牲を払うだけでなく、それを大げさに騒いだり嘆いたりせず、胸の内にしまって裁判闘争を支え続ける様子が胸を打つ。国民性のひとつと言われるイギリス人の自己抑制が、美しく描かれているが、これこそRattiganの真骨頂でもある。

ただし、今のイギリスは多文化・多民族国家となり、階級の垣根も低くなり、こうしたEnglish Middle Classの伝統的な雰囲気を感じさせる人々はあまり居ないかもしれないし、アメリカ人に見られるような、開放的で、自己主張の強い人々が多くなったのではないかとも思える。それはそれで良い面も多く、時代の変化を映しているとは思う。ここに描かれているのは、かってのイギリスのミドル・クラスの、ある意味で理想像かも知れない。丁寧で礼儀正しい言葉使いや質素でもきちんとした服装も含め、私が大変好み、謂わば、夢にみるイギリス人達(でもまず滅多に出会わない人々)がここに描かれている。Catherineがsuffrage(女性参政権運動)の熱心な運動家であることも嬉しい。

故Nigel Hawthorneは蜷川の "King Lear"で主役をやったことで日本でも良く知られていると思うが、素晴らしい貫禄。彼の地味な姿が、如何にもイギリス人らしい、演劇界のスターである。Arthurの妻の役のGemma Jonesも重みがあった。Rebecca Pidgeonはこれまで私は見たことが無かったが、りりしい雰囲気が見ていて心地よい。David Mametの奥方でアメリカで主に活動しているが、育ちやドラマスクールは主にイギリス。しかももともとsinger-song-writerとしても有名な人らしい。Mametの"Oleanna"は彼女が主演で初演されたそうだ。Jeremy Northermは堂々とした、格好良いイギリス紳士らしい役がぴったりの俳優だ。ちょっと苦みを押しつぶしたような表情が良くて、私から見ると、こういうイギリス紳士の役ではColin Firthより素敵。不器用な求婚者で、事務弁護士を演じたColin Stintonも、格好は良くなくても、Jeremy Northamとは違う、イギリス紳士らしい地味な朴訥さが強く印象に残る。あえて器用な生き方をしない人々、いや器用に生きようと思っても生きられない愛すべき人々が魅力的に描かれた作品。Rattiganはやはりイギリスのチェーホフである。

VHSでは『5シリングの真実』 (2001)として日本語版がでたようであるが、DVDは今のところ輸入盤だけのようだ(?)。でもRattiganの好きな方は必見の作品!いつか舞台でも見てみたい。法廷ものの映画と思って見ると失望すると思う。かといって、ロマンチックな映画でもない。Rattigan独特の世界であり、イギリス演劇の映画化として見る作品だろう。

2011/04/21

"Brontë (Tricycle Theatre, 2011.4.20)

ブロンテ姉妹の生涯と作品を想像力豊かに組み合わせて描く
"Brontë"

Shared Experience公演
観劇日:2011.4.20  14:00-16:10
劇場:Tricycle Theatre

演出:Nancy Meckler
脚本:Polly Teale
セット:Ruth Sutcliffe
照明:Chahine Yavroyan
音響、音楽:Peter Salem
Movement:Liz Ranken
衣装:Yvonne Milnes

出演:
Kristin Atherton (Charlotte Brontë)
Elizabeth Crarer (Emily Brontë)
Flora Nicholson (Anne Brontë)
Mark Edel-Hunt (Branwell Brontë, Heathcliffe, Arthur Huntingdon)
Stephen Finegold (Patrick Brontë, Bell Nicholls, Rochester, Heger)
Frances McNamee (Cathy, Mrs Rochester)

☆☆☆☆ / 5

ブロンテ姉妹の半生を 劇団Shared Experienceの劇作家でディレクターのPolly Tealeがが劇化し、2005年に初演。2010年にはWatermill Theatreで再演され、今回、Tricycleでで3度目の上演。子供の頃のシーンなども挿入されるが、大体において、1845年夏からCharlotteが亡くなった1855年までを描いている。

現実の姉妹、弟のBranwellや父のPatrickの暮らしの中に、『嵐が丘』や『ジェイン・エア』のシーンが時々混ざり、CathyやRochester、Mrs Rochesterなどが登場する。CharotteがJane Eyreになって語ったりするシーンもある。姉妹と彼らの作品の繋がりを強調した脚本である。そうしたことで、やや分かりにくいところもあり、ブロンテや彼女たちの作品についてまったく予備知識がないと難しいかも知れない。私は、幾つかブロンテ姉妹について知らない事を学べて良かった。Emilyはもう一冊小説を書いていたらしいが、多分Charlotteが妹の死後破棄したらしいこと、Charlotteは妹2人の詩をかなり書き直して出版したらしいことなど始めて知った。責任感の強いCharlotte、実際的で社会問題に関心を持ち、自分達よりも更に貧しい人達に同情するAnne、ひたすら自分の世界に沈潜しつつ想像の世界に生きるEmilyと、それぞれの個性が良く表現されていた。CharotteとEmilyは2人とも大変情熱的なところは共通している気がするが、姉はその情熱を倫理観で押し殺し、妹は自分だけの想像の世界だけで開花させる。また、一家の期待を一身に背負いつつ、その圧力に負け、また才能豊かな姉妹に引け目を感じるBranwellの悲劇も大きく扱われていた。『嵐が丘』などは、時代を超越した世界だが、この劇では、鉄道の開通のこと、作家が有名人としてもてはやされたこと、工場労働者の生活苦や労働争議など、姉妹の生きた時代の社会の動きも背景に書き込まれていた点も良かった。

簡素な舞台だが、黒い壁に時折鮮やかな光線を当て、ヨークシャーの気候の明と暗を感じさせた。映像は使わないが、照明の使い方が巧みで、また、若い体力ある俳優達を目まぐるしく、驚くほど激しく動かして、雰囲気としては、コンプリシテなどに共通するものがあった。

ちょっと分かりにくいところがあるので、劇の世界に引き込まれるのに時間がかかる。インターバルで帰った客もいた。しかし、一旦この劇の雰囲気に馴染んでくると面白く、終盤は大変感動的だった。ブロンテ姉妹の作品のファンでなくても大いに楽しめる内容の劇で、演技もしばしば激しく複雑な動きもあるが、熟練していて素晴らしく、大変満足できた。

Shared ExperienceはArt Councilの補助金を完全に打ち切られて、存続が危ぶまれてるとのこと。大変残念である。観客は女性が圧倒的に多かった。ブロンテ作品のファンは脚本を読むだけでも興味を持てるかも知れない:
Polly Teale, "Brontë" (Nick Hern Books, 2005) £9.99


(追記)この劇、Daily TelegraphのCharles Spencerは星2つのみで酷評していました。それはそれぞれ劇評家の意見だから仕方ないのですが、こんな劇を作るようではArt Councilの補助金がなくなって当然、という意味の事を書いているのはかなりむごい。芸術家団体は、まるでカゲロウのように資金的にはひ弱でしょう。劇団がなくなった後、スタッフはどうなるのでしょう。倒れた人を足蹴にするような批評家だと思い、わびしい気持ちになりました。批評家も演劇界で生きる1人ですから、率直な批評とは別に、資金難で苦しんでいる劇団・劇場には暖かい視線を注いで欲しいですね。但、Spencerには彼なりの言い分があるので(公演が少なすぎる、2人の芸術監督は多すぎる、古典の劇化が多くマンネリになっている、云々)、詳しくは直接批評を読んでください。確かにこの劇は取っつきにくい劇ですが、劇評は全体としては好意的なものが多いようです。また3回目の再演に耐え、劇場も満員ということでもそれがうなずけます。

2011/04/17

"Mary Broome" (Orange Tree Theatre, 2011.4.16)

金持ちのどら息子と女中が結婚したら・・・
"Mary Broome"

Orange Tree Theatre公演
観劇日:2011.4.16  15:00-17:00
劇場:Orange Tree Theatre, Richmond

演出:Auriol Smith
脚本:Allan Monkhouse
セット:Sam Dowson
照明:John Harris
衣装:Jude Stedham

出演:
Jack Farthing (Leonard Timbrell)
Katie McGuinness (Mary Broome)
Michael Lumsden (Edward Timbrell, Leonard's father)
Eunice Roberts (Mrs Timbrell, Edward's wife)
Bernard Holley (Mr Pendleton, family friend)
Harriet Eastcott (Mrs Pendleton, Barnard's wife)
Kieron Jecchinis (John Broome, Mary's father)
Moir Leslie (Mrs Broome, Mary's mother)
Paul O'Mahony (Edgar Timbrell, Edward's elder son)
Emily Pennant-Rea (Shiela Ray, Edgar's wife)
Martha Dancy (Ada Timbrell, Edmund's unmarried daughter)
Eve Shickle (Mrs Greaves, Leonard's landlady)

☆☆☆☆ / 5

第一次世界大戦前夜、1911年の劇。作者のAlan Monkhouseは現在のGuardian紙の前身、The Manchester Guardianの劇評家で、マンチェスターの劇場を中心に活動した演劇人。日本でもそうだったと思うが、映画もテレビもない時代、地方の演劇界も今では想像しがたいような繁栄をし、高いレベルを保っていたであろうことがうかがえる一作。

ジェントルマンのEdward Timbrell家のどら息子で、軽薄でユーモア溢れるが実は非常に冷淡なLeonardが、Mary Broomeという不器用で生真面目な女中に手を出して妊娠させ、それが発覚したところから劇は始まる。Timbrell家の家長としての権威を振り回すEdwardは、やむを得ず金の力で二人を無理矢理結婚させるが、その結婚によって、階級差などから色々な笑いが生まれる。今の観客から見ると、Timbrell家の連中は、どいつもこいつも、階級制度にふんぞり返った鼻持ちならないろくでなし、ということになるが、これが当たり前だった時代もあるのだろう。しかし、MaryとMrs Timbrellだけは、血の通った、人間らしい感情を持った人物として描かれている。第3幕では、Maryの慎ましい両親や借家の家主といった庶民の登場人物達とLeonardやMrs Timbrellが対面して、Timbrell家の人々に囲まれたMaryとは逆のシチュエーションが作られる(ここがいささかコメディーのボルテージが低下)。

テレビドラマの"Upstairs, Downstairs"みたいな劇で、comedy of mannersの伝統上にある作品と言えるだろう。非常に良く計算された、まさにwell-made play。ウィット溢れ、台詞のタイミングが抜群で、ずっとにやにやしつつ見た。これほど楽しい喜劇は久しぶりだ。しかし1911年の劇だから、階級制度批判の諷刺も効いているし、おかしいだけでは終わらない。Leonardは仕事もせず、親に寄食し、父親に経済的に放り出されると、母親に金をせびって暮らすが、病気の赤ん坊をMaryに任せきりにして、田舎の友達の家に長逗留。しかも彼の不在の間にその赤ん坊が亡くなっても、葬式にさえ戻って来ない有様。最後は、イプセンのノラみたいに、無責任極まりなく、優しさのかけらもないLeonardに愛想を尽かしたMaryが、夫を捨て、イングランドも捨てて、愛人とカナダへ移住するために出ていくという結末で、20世紀の演劇らしい幕切れとなる。また、Maryの気持ちが分かるMrs Timbrellと、全く理解が出来ないEdward Timbrellの間にもすきま風が漂い始める。今までも事実上の家庭内離婚のような、気持ちの通わない結婚だったことがほのめかされている。更に、Edward同様、能力あるビジネスマンらしいが階級的な偏見に縛られた息子のEdgarと、彼の身重の妻Sheilaの間さえおかしくなりそうな気配である。

この劇場は、四角い舞台を観客席が四方から囲むという上演スペース。円形劇場ならぬ、正方形劇場、というわけ。ギャラリーは2階のみ。収容人数は150くらいだろうか。切符は土曜のマチネでは13ポンドしかせず(学生は11ポンド)、レベルの高い公演なのに非常にお得(勿論、Arts Council of Englandによる公費補助を受けている劇場)。どら息子Leonard役のJack Farthingは大変な才能が感じられる名演だったし、MaryのKatie McGuinnessも不器用な生真面目さの表現や、古い労働者階級の言葉使いが出色だった。その他の俳優も名演。どうしてこう上手いんだろうと思ったが、考えてみると、イギリス人俳優が、イギリス人の冷たさ、気取ったところ、階級的偏見を、目一杯デフォルメして見せてくれているので、彼らの血にしみ込んだものを自然に発散しているわけだろう。ネイティブ・スピーカーでも、英語圏の他の国の人がやればこうは行かないだろう。今回の観劇は、期待を大きく超えたクリーン・ヒットだった。最近2本続けて空振り同然の観劇だったので、今回は楽しい劇に当たって大変嬉しかった。脚本("Mary Broome")も安価に手に入るので、イギリス演劇のお好きな方は読むだけでも結構楽しいと思う。

観客は、マチネでもあったし、ほとんど白人の年金生活者ばかりだったが(有色人種は私以外には、白人男性の奥様らしき方一人しか目にしなかった)、この劇ばかりは年配のミドルクラスの人にこそぴったりの劇だ。彼らの若い頃は今よりももっと階級システムが安定していただろうから、この劇の可笑しさをより良く実感できるのかも知れない。という私もこの観客達とほぼ同世代になってしまった。

2011/04/16

Sara Paretsky, "Writing in an Age of Silence" (Verso Books, 2007)

現代アメリカの言論状況を作家の視点から抉る
Sara Paretsky, "Writing in an Age of Silence"


(Verso Books, 2007)  138  pages.

☆☆☆☆☆ / 5

女性探偵、V. I. Warshawskiシリーズでお馴染みのアメリカの作家Sara Paretskyによる2007年出版のエッセイ集。

先日読んだパレツキーの小説、"Hardball"は大手出版社、Hodder and Stoughtonから出版されていたが、この本はVerso Booksという、私は多分聞いたことのない会社から出ている。この会社のサイトによると、"Verso Books is the largest independent, radical publishing house in the English-speaking world, publishing eighty books a year."(Verso Booksは英語を話す国々のなかで最も大きい独立系のラジカルな出版社で、年間80冊を出版している)とある。パレツキーがこの本の中でも触れているが、アメリカの出版やマスコミは極端な寡占状態となり、しかも多くの会社は、更にタイム・ワーナーとか、ディズニー、マードックのニューズ・コーポレーションなどの親会社の傘下にある。文学作品はその芸術的価値とは離れ、歯磨きとか、スナック菓子同様に、商品として売れるか売れないかだけで判断される時代になっているそうであり、今、ウィリアム・フォークナーが出ても、全く陽の目を見ることはないだろう、とパレツキーは書いている。

この本の中身は、タイトルによく示されている。2007年の出版であるので、9/11以降のBush政権下、そして、国家の安全保障の題目の下に基本的人権を徹底的に制限できる"The Patriot Act"(愛国者法)下におけるアメリカの言論の恐るべき状況を、作家、そしてリベラルな知識人の視点でえぐり出している。また、そうした現代の言論・人権状況と、彼女の作家としての出発点や生い立ち、キング牧師と公民権運動の事などが関連づけて語られ、パレツキーのファンにとっても、そして現代のアメリカの政治と文化に関心にある人にとっても、大変興味深い本となっている。

最終章に書かれたアメリカ合衆国における、FBIなどの国家権力による言論の自由の侵害には、愕然とせざるを得ない。特に図書館や書店が利用者の個人情報を提出させられている様は、まるで鉄のカーテンの時代の東欧である。一例を挙げると、イリノイ大学のLibrary Reserch Centreの2002年の調査によると、愛国者法の通過以来、米国政府はアメリカの図書館の個人情報を、少なくとも11パーセント、多ければ30パーセントの図書館から、勿論図書館の利用者には断り無しに、提出させているという。しかも、各図書館はそうした命令を受けたことを公表すれば、訴追される危険を冒すことになるので、どの図書館が利用者の個人情報を提出したかも公には分からない。もし、政府や警察に個人情報や、借りた本の種類、図書館のパソコンでのインターネットの閲覧歴などを知られたくないなら、アメリカでは図書館は使えないということになる。更に、このイリノイ大学の調査をした女性研究者を、FBIはWall Street Journalの紙面において、"supporter of terrorism"(テロの擁護者)として非難したということだ。こうした大学におけるリサーチに関する国家権力の脅迫は、即ち、国による「学問の自由」 (Academic Freedom) の侵害でもある。マスコミにおけるリベラルな言論が自己規制や、経済的な制約に縛られがちなアメリカ合衆国において、大学の人文社会科学分野における言論と研究の自由は大変貴重なのだが、それさえも危機に瀕しているのかもしれない。

私から見ると、今のアメリカはマッカーシズムの時代に近い状態にあるように見える。オバマ大統領になって良くなりそうに見えたが、しかし、彼が極端に不人気になり、世論が離れるに連れ、共和党政権時代に作られた仕組みや国民感情が再び息を吹き返しているようだ。そもそもアメリカは、西欧に見られる(そして多分日本にもある?)ような複眼的なマスコミや世論形成の仕組みがあまり機能していない。例えば、社会主義とか共産主義を少しでも擁護するような事を言えば、道徳的な欠陥を持った人間のように言われ、激しく非難されかねない。一方で安定した民主主義制度を保っているのは確かではあるか、それも国民世論がバランスを取れていればこそ機能するが、現在はそのバランスが怪しい。パレツキーのこのエッセイは、そうした今のアメリカを良く捉えている。

政治やアメリカ社会の話だけでなく、ハメットやチャンドラーのハードボイルド小説と、女性探偵の登場などについても興味深い分析があり、また、アメリカの個人主義と宗教的原理主義の伝統の関連など、アメリカ史を考える上でも貴重な考えが書かれている。従来のパレツキーの愛読者には、彼女の創作や出版、生い立ちについてのこぼれ話もあり、色々な読者に読んで欲しい一冊。138ページと薄い本だが、中身は大変に濃密。

C. J. Sansom, "Revelation" (2008; Pan Books, 2009)

期待を裏切らないチューダー朝エンターティンメント小説
C. J. Sansom, "Revelation"


(2008; Pan Books, 2009)  629 pages.

☆☆☆☆ / 5

このブログでも何回か取り上げているC. J. Sansomのチューダー朝ミステリ。主人公は法廷弁護士のMatthew Shardlake、そしてワトソン役はいつもの、ユダヤ人の血筋をひいたJack Barak。このShardlakeシリーズでは、"Dussolution", "Dark Fire", "Sovereign"に続く4作目。既に読んだ3冊同様に大変楽しめる。

今回の時代設定は1543年。Henry VIIIが亡くなるのが47年なので、もう晩年であり、作品では直接登場はしないが、王は肥え太り、足に潰瘍が出来て歩くのもままならず、かなり病弱であるらしい。しかし彼はこののち妻となるCatherine Parrに求愛中という体たらくである。政権の中枢を担うのは依然として宗教改革者のThomas Cranmerであるが、王はこの頃はすっかりカトリック的な信仰に逆戻りして、改革を後退させたくないCranmer派の旗色は大変悪く、保守派のロンドン司教、Edmund Bonner、ウィンチェスター司教、Stephen Gardinerらの一派に押されっぱなしである。(この物語はそこまで進まないのであるが、Cranmerはカトリック女王のQueen Maryの時に処刑されることをついつい考えつつ読んでしまう。また、Bishop BonnerはEdward VIの時代、改革派に破れて投獄されるが、Maryの治世で釈放。しかし、Elizabethの時代にまた投獄され、獄死するという変転多き人生をたどる。GardinerもEdwardの時に投獄され、Maryになって釈放されてまた活躍するが、Elizabeth時代到来の前に病死した。)

さて、クライム・ノベルとしては、連続殺人鬼の登場である。どうも、改革派だったがその理想を捨ててしまった人が続けてねらわれているという兆候をMatthewは読み取るが、そうなるとMatthew自身にも当てはまる。実際彼も何度も命を狙われるし、彼の周囲の人々の間でも、親友の弁護士Roger Elliardが無惨な姿で殺害され、またBalakの妻Tomasinも襲われる。更に殺害のパターンは聖書のヨハネ黙示録から取られていることが明らかになる。

娯楽小説の枠組みではあるが、作者Sansomは原理主義的な宗教の非人間性を訴えているのは、後書きを読まなくともあきらか。アメリカ合衆国に見られるキリスト教原理主義は勿論、神と信仰の名の下にテロ行為や戦争を正当化する他の宗教の信者にも当てはまる。また、チューダー朝の事について幾らかでも知っている人には、精神病者を収容していたBedlam監獄や当時の精神医療の話が出てくるのも興味深い。Matthewの親友でムーア人のGuy Malton医師は、彼の徒弟Piersの扱いをめぐりMatthewとの間に決定的な溝が出来てしまうのもひとつの見どころ。また、当時のヨーロッパへの解剖学の知識の導入も言及されている。Matthewの私生活では、亡くなったRogerの未亡人Dorothyとの間にしばし男女の感情が芽生えたり、BarakとTomasinの夫婦喧嘩の仲裁に腐心したりと、サービス満点。彼のこれまでの作品と比べても、他の歴史ミステリと比べても、見劣りのしない秀作だ。

この後、Sansomはこのシリーズをどの時期に進めるのだろうか。プロテスタント王、Edward VIか、カトリック女王Maryか、それとももっと下ってElizabethの治世か。大変楽しみである。

2011/04/14

"Terminus" (Maria Theatre, Young Vic, 2011.4.13)

難しい内容でさっぱり・・・
"Terminus"

Abby Theatre公演
観劇日:2011.4.13  14:45より
劇場:Young Vic

演出:Mark O'Rowe
脚本:Mark O'Rowe
セット:Jon Bausor
照明:Philip Gladwell

出演:
Olwen Fouérè  ( A )
Catherine Walker  ( B )
Declan Conlon  ( C )

☆☆ / 5

アイルランドの国立劇場、Abbey Theareの制作による、現代アイルランド演劇作品。私は、マクドナー、マクファーソンなど、幾つか見たアイルランドの劇は大いにたのしんで来たので、期待したが、今回は空振り。

登場人物は単に、A, B, Cと呼ばれている。最初に登場するA(女性)はNGO、Samaritansのボランティアで、日本の「命の電話」のような電話相談をしている。その電話相談に電話してきたのがHelenという望まない妊娠をしている若い女性で、Aが教師をしていた時の生徒。彼女はHelenが苦しんでいるのを聞いて、彼女の家に出かけ、救おうとする。Aには自分と上手く行っていない娘がいて、その娘との影をHelenに投影しているようなのだ。Bは、20歳代の若い、孤独な女性で、友人夫婦とパブに出かけるが、この夫婦がとんでもない連中で、Bをトラブルに巻き込む。Cは30歳代の男性で、恋人を捜しているが、その為に、悪魔とファウスト的な契約を結び、やがて彼自身の悪魔的正体を表し、殺人鬼と化す。3人の関連の無さそうな人物が、行ったことや夢想していることを順番に独白する。彼らの話が徐々に関連を持って全体が繋がって来るようなのだが、そのあたりが全く理解出来ない。

この劇はアイルランドのプロダクションなので、おそらく台詞は聞き取りにくいだろうと思い、予めテキストを買い、ざっとではあるが終わりまで読んでいったのだが、テキスト自体が読んでみても何が起こっているのか良く分からない。例えると、いささかジョイスのユリシーズみたいな感じの作品。セットもアクションもなく、それどころかダイアローグもなく、3人の俳優が交代で10-15分くらいずつひたすらモノローグを言う形式の劇で、現実と夢想が渾然となった内容。ネイティブは分かるのだろうが私にはハードルが高すぎる。俳優の演技は素晴らしかった。同じ分からなくても、本で読むよりは、彼らの語りを効いている方が説得力を感じた。その点では、AlmeidaがKing's Crossに在った時に見たブライアン・フリールの"Faith Healer" (2001) においてのKen Stottの名演を思い出した。Abbey Theatreの製作で、エジンバラ芸術祭で賞もとっているし、2007年初演以来、これが3回目のリバイバルだそうなので、見る人が見れば良い作品なんだろう・・・。残念!

音楽はなく、音響効果もほとんど使われず、ひたすら独白だけ。劇場はYoung Vicのメインハウスではなく、2階にあるMaria Theatre。ステージ全体が、割れた鏡の形をしており、プロセニアム・アーチは、鏡の枠になっている。

更に、この日は朝から体調が悪く、観劇の途中からひどい腹痛に見舞われて、最悪の一日だった。また、台詞にあまりにもfour-letter wordsが多いのには、かなりうんざりした。

写真はこの日のYoung Vic前。


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2011/04/11

"Rocket to the Moon" (National Theatre, 2011.4.9)

一体何が言いたいのか分からない劇
"Rocket to the Moon"

National Theatre公演
観劇日:2010.4.9  14:15-16:50
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Angus Jackson
脚本:Clifford Odets
セット:Anthony Ward
照明:Mark Henderson
音響:John Leonard
音楽:Murray Gold
衣装:Rebecca Elson

出演:
Joseph Millson (Ben Stark, dentist)
Keeley Hawes (Belle Stark, Ben's wife)
Jessica Reine (Cleo Singer, Ben's secretary)
Nicholas Woodeson (Mr Prince, Belle's father)
Peter Sullivan (Phil Cooper)

☆☆ / 5

アメリカの1938年初演の劇。作者のClifford Odetsは、当時の新しいアメリカ演劇をリードしていたThe Group Theatreというカンパニーのメンバーだそうだ。プログラムによると、この劇団にはLee Strasbergも入っていて、Method Actingを定着させた重要なカンパニーでもあるらしい。Odetsは共産党のメンバーだった時も数ヶ月あり、労働運動を支援するような社会主義の劇も書いているようだ(そういうのを見たかった)。しかし、この劇は、男女関係を扱った個人的な作品。これからの人生に夢を持てず、妻に支配され、毎日のルーチンに縛られた平凡な歯科医が、20歳くらいの歯科助手の女性に夢中になって何とか自分の殻から抜け出そうともがくが、やはり元の鞘に戻らざるを得ない、と言う話。人間的には愛すべき人物で、教養も豊かだが、どうしようも無く保守的で臆病な男と、社会の因習に縛られた女性達の話。女性の描き方がとても保守的で、古めかしい感じがし、説得力無かった。まあそういう時代ではあったんだろうが、今見ると古色蒼然だ。大まかに言うと、家を守る主婦(Belle)とセクシュアリティー満開のマリリン・モンロー風の若い女(Cleo)、マリアとイブ、というパターン化されたキャラクター。当時としては革新的な作品だったんだろうけど、今やってもねえ、と思う。ただ、俳優の演技や堂々とした、お金のかかったセットは素晴らしかったので、そうした点では十分に楽しめて、見て良かったとは思う。口うるさい奥さん役でKeeley Hawesが出ていたが、出番はそう長くなく、脇役。テレビばかり出て来た彼女にとってはこれが始めての舞台。主役は歯科医を演じたJoseph Millsonと歯科助手のJessica Raine。Raineは良い俳優だ。色んな役が出来る。少し前、"Inspector Calls"で見たNicholas Woodesonが歯科医の義父の役で出ていた。

台本は読んでなくて、最初の3分の1くらいはちんぷんかんぷんでうとうとしていた。全く内容を知らない作品は難しい。イギリス人俳優が無理にアメリカ訛りの英語を話しているから、尚更英語が難しくなる。もっとよくわかると多少面白かったかも知れないけど、でもどうも何が言いたいのがはっきりしない、力のない劇だとおもう。

2011/04/10

"Mogadishu" (Lyric Hammersmith, 2011.4.2)

無政府状態の戦場と化した学校
"Mogadishu"

A Royal Exchange Theatre (Manchester) Production
観劇日:2011.04.02. 16:30より
劇場:Lyric Hammersmith

演出:Matthew Dunster
脚本:Vivienne Franzmann
セット:Tom Scutt
照明:Philio Gladwell
音響:Ian Dickinson

出演:
Malachi Kirby (Jason, the pupil who accuses the teacher)
Julia Ford (Amanda, the teacher who is accused)
Ian Bartholemew (Chris, the head teacher)
Tara Hodge (Chloe)
Farshid Rokey (Saif)
Tendayi Jembere (Chuggs)
Michael Karim (Firat, a Turkish pupil)
Savannah Gordon-Liburd (Dee, Jason's girlfriend)
Shannon Tarbet (Becky, Julia's daughter)
Fraser Jame (Ben, Jason's father)
Christain Dixon (Peter, Julia's black husband)

☆☆☆☆ / 5

今回の劇、"Mogadishu"は、その名前とは違い、イギリスの荒れた学校を舞台にした劇。ある問題の多い黒人の男の子(Jason、15歳位の設定か)がトルコ人の優等生Firatをいじめており、それを止めに入った女性教師、Juliaを突き飛ばすが、それで自分が処分され、除籍処分になるのを恐れ、まわりにいた子達に嘘の証言をさせて、その女性教師が彼に人種的な暴言を使い、彼に暴力をふるったという話しをでっち上げる。ところが女性教師の方は、子供の内面の良心を信じようとして、校長に彼を処分しないよう、穏便に済ませようとする。そうして女教師がうかうかしている間に、男の子の側は、強面の父親を巻き込んで教師を処分させようとして、役人(children's service)や警察を巻き込む。彼女は仕事を失い、刑事訴追の対象にされ、さらに子供を育てるには不適格な人間との疑いをかけられて、役所から娘の養育権までも奪われかねない事態に発展する。母の働く学校に通う娘にも影響は甚大で、リストカットを繰り返す。ところがこの男の子には幼い頃母親の自殺という悲惨な過去があり、父親との意思の疎通も全く上手く行っていない。結局、口裏を合わせてくれた悪童達とも上手く行かなくなり、彼らは最初の証言を翻す。最後は、教師は学校を辞める事を校長に次げ、また、男の子の自殺で終わる。

非常に面白い劇だった。Mogadishuというのは、ソマリアの首都だが、ソマリアは常時内戦が続き、無政府状態の国。海賊が跋扈する国としても知られいる。つまり、この舞台になっている学校はそういうところなのである。イギリスの一部の教室の酷さがうかがえる。また、教条的なPolitical correctnessが一旦一人歩きをし出すと、一人の良心的な教師を組織としてどんどん追い込んでいる様子が迫力を持って描かれていた。

円形のステージは金網で囲まれ、学校が牢獄であり、またローマの円形競技場のような戦闘の舞台でもあると連想させる。

ハイティーンと思われる(でもそれぞれかなりプロとしての経験があるようなので、実際は20歳以上になっているかも)若い俳優達が大変リアリティーある演技で素晴らしかった。強いて言えば、トルコ人の男の子がステレオタイプ化されていたか。まわりの客も、インターミッションの時、盛んに、面白いと言っていた。それに、テーマがこういうものなので、若い観客が多く、また黒人を中心に非白人の観客も割合いた。黒人やアジア人を主人公に据え、彼らが中心となる劇を打てば、それなりに観客層が広がると実感した。もっとこのような、若い人、有色人種の人が興味を持てる劇が必要だと感じた。

作家のFranzmannは12年間、教師をした経験を持つとのことであり、劇にリアリティーがあるのも分かる。

このLyric Hammersmithは多分2回目に来た。もう10年以上昔、多分ウェブスターの劇を見たような気がする。

(追記)そういえば思い出したことがある。2,3日前、イギリスのある中高等学校で先生たちが何十人か終日ストをした。その原因が、生徒の教室での問題行動(上手い言い方を見つけられない)とそれに対する校長等管理職側の先生へのサポートの乏しさだったと記憶している。もちろん、そういう問題で困っている学校ばかりでもないだろうし、日本でも同様の問題はたくさんあるが、イギリスではかなり大変のようである。日本にやってきているイギリス人の先生の中には、母国の中高校で教師をしていて、ストレスで辞めてしまい、日本に職を求めた人も結構多い、と聞いたことあり。どこの国でも、いつの時代でも、ティーンの子達を教えるのは大変だ。たとえ教え方の上手下手はあったとしても、あの仕事を何十年もやっている先生達には感心する。