2014/03/21

あるブログを読んで

先日芋づる式にリンクをたどっていて偶々見つけたBroccoliさん(ペンネーム)という方の、”a pile of thougts”という素晴らしい英語のブログ。但、筆者は日本人。立派な、情感のあるきれいな英語で羨ましいです。私も英語を書くのは好きなんですが、どうも上手くありません。どうしてこういう風に書けるようになるんだろう、海外で育ったのかなあ、なんて思っています。早速ブックマークしました。この方の、プロフィール欄の文章がとても印象に残ったので、一部引用します:

“So I come here and write, sometimes imagining someone on the other side of the screen, sitting face to face with me in a place I've never been to. You know when it's sometimes easier to talk to strangers? It's probably something like that.”

(それで私はここ[このブログ]にやって来て書く。時にはスクリーンの向こうにいる誰かを想像しながら、私の行ったこともない場所で私と向き合って座っている誰か。時々は、赤の他人のほうが話しやすいことってあるでしょう?多分そういう感じ。)

シンプルな単語を使ったシンプルな文、でもなかなかこういう風にさりげなく書けないなあ。この文、多くのブロッガーの気持ちを良く表していますね。多くのブログにはほとんど反響がありません。コメント・ゼロのエントリーがずっと並んでいるブログは結構多いです。このBroccoliさんのところも、2回のエントリーに一度くらいの頻度でコメントがある程度。でもスクリーンの向こうで誰かが読んで、何かを感じているかも知れない、と思って書かれるのでしょう。

ブログって、TwitterやFacebookと違い、逆説的だけど、反応があまりないのが良いと思います。反応がたくさんあると、それに振り回されますから。それに、少ない友達を大事にするのと似ています。友達がとても多いと、どうしても物理的に個々の相手と向き合う時間も少なくならざるをえないかもしれません。読者の少ないブロッガーにとっては、ひとりひとりの読者がとても大切なのです。

私のブログは、アクセス分析によると、一日のアクセスが、私自身を除くと2,3人という日が多いようです。先日は1人という日もありました。検索か、何かのリンクをたどってたまたま来られる方が主でしょうが、多分定期的にチェックされる方も数人、2、3人?くらいはおられるかもしれない・・・? あなたが、繰り返し「スクリーンの向こうにいる・・・私の行ったこともない場所で私と向き合って座っている誰か」だとしたら、お礼を申し上げます。

2014/03/18

カフカの思い出

先日のブログ・エントリーで紹介した「アリスの英文学日記」で筆者のアリスさんがフランツ・カフカの『変身』の感想(注)を書いておられた。彼女の記述で、大変鋭いと思った点は、『変身』が「ひきこもり」の話だと書かれている点である。自室の、謂わば囚人となってしまったグレゴール・ザムザは、まさしく今の言葉で言えば、元サラリーマンの、ひきこもり中年である。中高年の男性で、自分はひきこもってはいなくても、会社とか役所、社会や家庭で色々な断絶や疎外感に悩まされている人々の中には、「なるほど!」と共感される方もおられるのではないだろうか。

私にとって、カフカは10代後半から20代にかけて、最も好きな作家のひとりだった。彼が好きだったせいもあって、私の大学の第一志望は独文だった。もちろん落ちてしまったが(^_^;)。英文科に入ったのは、単に英文科がたくさんあって、私の様な落ちこぼれでも入れてくれる学校があったからに過ぎない。中高生のころ、私はイギリス文学にもイギリスにもほとんど関心を持っておらず、オースティンやディケンズの良さを幾らかでも感じるようになってきたのは、20歳代半ばになったからだ。

昔のことで、細かい事は思いだせないが、カフカは高校生の私をぐいぐい引きつけたと思う。『変身』は『審判』ほど印象は強くはないが、ザムザの置かれた状況は、毎日、先生とも級友ともほどんど話すこともなく学校にだけは通っていた、「学校内ひきこもり」とでも言うべき状態だった私にとって、かなり共感できる内容だった。また、思春期の、心と体が上手くコントロール出来ない状況は、カフカの意図にかかわらず、芋虫の体に苦しむザムザと似たところがあったと思う。ザムザの芋虫になった体は、高校生の頃の私にとって、自己嫌悪や劣等感が凝縮された姿のように見えたかもしれない。また、読者によっては、芋虫に性的な寓意を感じる方もあるだろう。

サラリーマンだったザムザに視点を置いて考えると、彼は近現代の資本主義産業社会における落ちこぼれである。どのような理由であれ、朝起きて、身なりを整え、会社・役所・商店に出勤する(子供なら通学する)、これが出来ない人は、社会でも家庭でも居場所を与えられない怪物、異邦人であり、同僚からも家族からも市民として失格とされる。産業社会において、通勤・通学し、社会の一員としての「生産的」役割を果たすことは、倫理的義務であり、それを実行できない人は、道徳的に欠陥があると見なされかねない。

カフカの作品で私が特に好きだったのは、『審判』である。わけも分からない警察・官僚機構から追及されるヨーゼフ・Kは、現代人の不安を実に良く代弁している。問題は、権力がどこにあるか、誰が責任を持っているのか、どこに抗議や相談をしたり、訴えたりすればよいか、分からない事だ。日常の生活と街角の延長にある底知れない闇。このディストピアは『1984』の、独裁者の見えないもう一つの形だ。『変身』においてもそうだが、平凡そうに見える役人、会社員、隣人、いや家族までもが、真綿で首を締めるように主人公の生活をあれこれと強制して、身動きが取れなくなっていく。20世紀以降、議会制民主主義が台頭してから、権力は、議会とか、委員会とか、官僚機構の中に、つかみ所なく、限りなく分散されて存在するようになった。平凡な多くの人々が寄ってたかって、「普通」でない少数者を押しつぶすメカニズム。ある意味で、議会制民主主義とは、多数派が少数派に思想とか国籍とか宗教を強制する手段としても大変有効なのは、昨今のウクライナ情勢を見てもつくづく感じることだし、日本でも同様だと思う。

カフカが生きた20世紀初頭は、ポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害が東欧やロシアで頻発した時代でもある。カフカはユダヤ人の居場所が確保されていた、比較的寛容なチェコのプラハで西欧の文化に親しんで育ったが、ヨーロッパの他地域でのポグロムを切実に感じてもいたのではないか。自室の囚人となったザムザは、後の、地下室に閉じ込められたアンネ・フランクと彼女の同時代人を思い出させもする。ひきこもったまま忘れ去られて死んでゆくザムザも、突然連れ去られて「犬のように」処刑されるヨーゼフ・Kも、後の多くのユダヤ人達の運命を予兆するかのようだ。

(注)アリスさん、ご自身のブログによると、今春、東大に合格された。研究者として名前が知られる日も遠くないかもしれない。すでにイギリス小説の研究者の間では、この若き秀才に注目している方もおられるようである。将来が楽しみだ。

2014/03/13

最後の審判の絵(カンタベリー大聖堂の写本から)

カンタベリー大聖堂のホームページには、”Picture This”というコーナーがあり、以前にも紹介した。このコーナーでは、大聖堂の図書館が所蔵する中世・近代初期の貴重な写本や刊本を取り上げて、写真付きで解説している。毎月1回更新されて、新しい写本や刊本が付け加わるので、私はそれを楽しみにしている。3月は、14世紀と15世紀の境目、1400年頃に出来た写本、Canterbury Cathedral H/L-3-2、から取られた1枚の彩色挿絵が取り上げられている。

この本は時祷書(A book of hours)。時祷(時課とも言われる)は、カトリック教会や正教会で一日の決まった時間に日課として唱えることを定められた祈り。これらは、朝課(matins, 3 am)、賛歌(lauds, 6 am)、一時課(prime, 9am)、三時課(terce, noon)、六時課(sext, 3 pm)、九時課(nones, 6 pm)、晩課(vespers, 9 pm)、終課(compline, midnight)である。その祈りを記した本がヨーロッパ中世においては、数多く作られた。それらはしばしば素晴らしい挿絵で装飾された豪華本であり、おそらくその中でも最も有名な本が、ランブール兄弟による『ベリー公の豪華時祷書』Les Très Riches Heures du Duc de Berry)だろう。

時祷書は、これらの時祷において唱える祈りを記した本。旧約聖書の雅歌、詩篇、聖者伝の一節、主の祈り、その他が、唱えられる。

さて、今回、カンタベリー大聖堂のホームページで紹介されている本は、『ベリー公の時祷書』のような豪華な本ではないが、それでも随分手が込んだ本だ。サイズは9x7センチとかなり小さい。20枚の彩色挿絵が綴じ込まれており、ホームページで見せてくれたのは、そのうち、「最後の審判」(The Last Judgment)を描いた1枚。頁の挿絵をクリックすると大きくなり、更にカーソルを合わせるとその部分のみが拡大されるので、大きくして見て欲しい。

ご存じのように、「最後の審判」はキリストの死後、復活してまた昇天した後、もう一度、今度は全ての魂を裁いて、永久に地獄と天国に行くよう振り分けるという神による裁判である。この日は、The Doomsday(審判の日)と呼ばれる。これは既に起こったことではなく、これからの未来の出来事であり、(もしそれを信ずるならば)今この地上で生きている我々にとっても大変重要な出来事となる。絵のデザインは、ご覧になれば分かるように、中央に紅の服をまとい、上半身は裸のキリストが描かれている。両手や脇腹に、磔刑の折につけられた傷口が見える。彼の足下にあるのは地球であり、彼が世界の支配者であることを示す。キリストが座っていると考えられる玉座は、伝統的な虹。下にいてキリストを見上げるのは、既に死んだ魂。彼らは最後の審判に出るために、地中からよみがえって来た。これらの魂は、彼らの弱さを示すため、主として裸体で描かれるそうだが、2人は未だに白い死に装束を身に着けている。右から2人目は剃髪をしているので修道士だ。キリストの上に飛んでいるのは2人の天使。左には聖母マリア、右は福音者のヨハネ。マリアとヨハネを左右に描くのは、キリスト磔刑図の決まったデザインでもあるので、この写本の中世の読者は、この絵を見ながら、キリストの磔刑も直ぐに頭に浮かんだことだろう。つまり、キリストが人間の犯した罪の為に払った犠牲と、我々が死後の魂として将来受けなければいけない裁きを常に胸に刻みつつ、祈り、これからの人生を生きよ、というメッセージであろう。

多くの最後の審判の図では、これらの人物に加え、大天使ミカエル(Archangel Michael)が描かれるそうだ。彼は、秤を持ってキリストの裁きの助手を務める。また、その他の聖者が描かれることもある。こちらは、フランドルのロヒール・ファン・デル・ウェイデン( Rogier van der Weyden, 1400?-1464)の「最後の審判」の祭壇画だが、中央で秤を持っているのが大天使ミカエル。

2014/03/11

大英図書館が取得した中世劇写本の続報

先日このブログで書いた大英図書館の取得した中世劇写本、British Library Additonal MS 89066/1と89066/2について、同図書館のMedieval Manuscript Blogで、学芸員のJulian Harrisonが更に説明を加えているので、概要を紹介したい。

この2つの写本は既にデジタル化され、インターネットで閲覧出来るようになっている:第1巻第2巻

挿絵画家Loyset Liédetについて

前回書いたように、この写本はLoyset Liédet(1420?-1479)による20枚の彩色挿絵が入っている。彼はフランス北部の町Hesdinの出身で、1469年にブルージュの出版業者(写本製造業者)の組合に加入している。彼はブルゴーニュ公のお気に入りのアーティストであり、少なくとも15冊、おそらく20冊くらいまでの「現存する」写本の装飾をしたと考えられている。ということは、大昔の事であり写本の多くは失われたので、それよりも遙かに多い数の写本制作に関わったに違いない。この写本においては、彼は特に、劇の世俗的な場面を想像力を駆使して描くことに長けている、とHarrisonは書いている。

Liédetの作品は当時のファッションや織物、世俗の生活などの貴重な記録であり、戸外の風景に加え、室内の様子への新たな関心がうかがえる。この写本で、Liédetはト書きを含む劇のテキストの記述を挿絵において綿密に表現している。

写本制作の費用

フィリップ善良公の死後に作られた出納簿により、写字生(scribe)と画家の名前、写本制作の費用が分かっている。写字生は、Yvonnet le Jeune。この本は全部で39帖(クワイア、quires、注1)あり、ひとつの帖について、16シリング(注2)を支払われている(総額で30ポンド強)。Loyset Liédetはそれぞれの挿絵につき18シリング、20枚あるので、全部で18ポンド受け取っている。大文字(capitals)の細密な装飾に対しては、各12ペンス、全部で24シリング(1ポンド強)支払われた。表紙や背などの装丁(binding)には31シリングかかった。また、当時の本は金具のベルトでしっかり閉じられる、と言うか、縛られるようになっていたりするが、この本もそうだったようで、この本を縛る金具に14シリングかかっている(但、当時のbindingは残っていない)。本全体の費用は、51ポンド19シリング。他の芸術・工芸品と比較すると、同時代の大きく豪華な3枚続きの祭壇画(triptych)の例で、33ポンド強かかっているという記録がある。生活費と比較すると、フィリップ公宮廷の上級の軍人(The Master of Cannon)、つまりかなりの高給取りの1年の給与が6ポンドという時代だったそうなので、少なくとも今の庶民感覚で言うと、数千万円単位のスケールの豪華本だったのではないかと(これは私が)推測する。

(注1)帖(quire):中世西欧の多くの写本は、まず4枚の羊皮紙を重ね、これを2つに折って8枚(16ページ)の冊子を作る。この一束16頁の折られた羊皮紙を"quire"と言う。こうした冊子を更に重ねて本とする。但、それ以外の枚数の羊皮紙を折り重ねる場合もある。また、近現代の植物性の洋紙における"quire"は別の重ね方:通常、24〜25枚の紙を重ね合わせた冊子。
(注2)1シリングは12ペンスで、1/20ポンド。

2014/03/09

大英図書館が取得したフランス語中世劇の豪華写本

3月6日に大英図書館(British Library)のインターネット・サイト、Medieval Manuscript Blogで発表された記事(筆者は学芸員のJulian Harrison)によると、大英博物館は、相続税の物納という形で、フランス語で書かれた貴重な中世演劇の写本を取得したそうである。これまでは、所蔵美術品でも大変有名なChatsworth Houseを所有するデヴォンシャー公爵(キャベンディシュ家)のコレクションの一部であった。今回、相続税の物納に加えて、更に、The Art Fund(美術館の作品購入を支援するNGO)など、幾つかの公益団体や個人篤志家による寄付、大英図書館友の会の資金等々もこの取得に貢献したとのことである。以下、この注目すべき記事の概要を、背景など多少の説明を加筆してまとめておきたい。なお、上記の記事とは別に、この写本に関するプレス・リリースもある。

この写本(British Library, MS Additional 89066/1 & 89066/2)は、元々、ブルゴーニュ公フィリップ3世、別名フィリップ善良公(Philip le Bon, 1396-1467)の為に作られた。ブルゴーニュ(Bourgogne)というのは、英語ではバーガンディー(Burgandy)であり、フランス東部の内陸部の地方。但、当時のブルゴーニュ公国は、主君であるフランス国王の権威と比肩しうる大国であり、大体において今のオランダ、ベルギーとその周辺を含む低地地方(the low countries)を領地に治め、西欧屈指の豊かな大国だった。低地地方は貿易の中心地であり、西欧の富が集積し、文化や流行の生まれる場所だったのは、この地で生まれたタピスリーなどの工芸芸術やその後の北方ルネサンスの絵画を見ても分かる。とりわけ、このフィリップ3世は、当時の西欧の王や貴族の中ではもっとも勢力があっただけでなく、芸術の庇護者としても著名だ。

この写本に記されているのは、フランス語の韻文で書かれた演劇作品で、ベネディクト会修道士のEustache Marcadé (-1440)作のLe Mystère de la Vengence(復讐の劇)。テキストは、中世のテキストとしては貴重な、欠落部分の無い完結した作品であり、羊皮紙に書かれ、2巻の書籍として綴じられている。更に注目すべきは、当時人気があり、ブルゴーニュ公の為に仕事もした挿絵画家、Loyset Liédet (-1479)によって描かれた20枚の豪華で大きな挿絵を含んでいることだ(大英図書館の記事に数枚が載っている)。その題材は、劇の内容に沿っており、ローマ人によるエルサレムの破壊である。

Le Mystére de la Vengenceは、14,972行のフランス語の韻文で書かれ、上演には4日を費やすことになっているそうだ。内容は、キリストの処刑の後の、第一次ユダヤ戦争におけるローマ軍によるエルサレムの破壊である。

より具体的には:

第1日:4つの擬人化された徳目(正義、慈悲、平和、真実)が、神が、エルサレムに対し、キリストの処刑の復讐をすべきか、議論する。神は、破壊の前に多くの警告を発する、と約束する。
第2日:ローマ皇帝ティベリウスは、キリストの為した奇跡について、総督ピラトからの手紙を受け取る。同時に、(後の皇帝である)ウェスパシウスはスペインでハンセン氏病を患っていたが、キリストが汗をぬぐった聖ベロニカのヴェールにより、奇跡的に治癒される。
第3日:皇帝ネロは、ウェスパシウスとその息子ティトゥスをエルサレムに派遣し、ユダヤ人の反乱を鎮圧。
第4日:ローマ内戦時代(AD 68-70)、別名「4皇帝の年」、が描かれる。ウェスパシウスがエルサレムの破壊を命じる。

この劇の作者、Eustache de Marcadé (-1440)は、聖史劇、Le Mystère de la Passionの作者として知られている。この劇は、しばしば、 La Passion d'Arras(アラスの受難劇)とも呼ばれる。今回発表された作品、Le Mystére de la Vengenceにはもう一つ写本があり、アラス市の図書館に所蔵されているようだ(Bbliothèque municipale MS 697)。こちらの写本は約1,000行短く、公演も3日で行われることとなっている。また、彩色の挿絵もついておらず、ペンとインクによる挿絵がある。紙は、大英図書館写本と違い、羊皮紙では無く、植物性の紙である。そういうことで、大英図書館写本と比べ、物理的にかなり質素な写本であると言える。

Le Mystère de la Vengenceはフランス北部の都市Hesdinの近くの町Abbevilleで1463年に上演された。その際、ブルゴーニュ公も観覧したと推測されており、今回の写本はその上演を記念して作られたと考えられている。

大英図書館のインターネットサイトでは、この写本について今後も続報を流すと言う事であるので、注目したい。また、おそらく、他の大英図書館の写本同様、この写本もデジタル化され、インターネットで公開されるだろうから、日本も含め、世界中の研究者の研究対象になることだろう。フランス語の中世劇は、刊本が出ていないものも多いが、やがて編集され、公刊されることを望みたい。写本は既に3月8日から、大英図書館の常設展示場、Sir John Riblat Treasures Galleryにおいて一般公開されているそうなので、美しい挿絵もついていることでもあり、観光等で行かれる方もご覧になる価値はあるのではないか。

なお、このブログでもこれまで何度か言及しているように、フランス語の中世劇については、片山幹生先生の専門のサイトがとても詳しいので、関心のある方にはお勧めしたい。あとの方の(最近の)記事で、今回の写本の作品のような聖史劇について書いておられる。

2014/03/06

Shrove Tuesday(懺悔の火曜日)とその文化

先日3月4日は、今年の「懺悔の火曜日」Shrove Tuesday (Pancake Day) だった。翌6日は「聖灰水曜日」Ash Wednesdayで、四旬節の始まり。Shrove Tuesdayは仏語圏ではMardi Gras(英訳すると、Fat Tuesday、太った火曜日、いや脂肪の火曜日、というべきか)、イタリア・スペイン・ポルトガル語圏では「カーニバル」(英語では、carnival、謝肉祭)となる。

"shrove"は多分動詞"shrive"の過去形から来ている。"shrive"は司祭が「懺悔を聞く」、あるいは「(懺悔を聞いた後)償いの苦行(penance)を課す」といった意味。既にアングロ・サクソン時代の古英語から英語にある、外来語ではない所謂「本来語」で、古英語の不定詞では"scrifan"と綴った。

カトリック圏ではカーニヴァルは好きなものを飲み食いする無礼講の日、という印象があるが、今イギリスではそれはない(と思う)。但、イギリスでも、カトリック時代の中世末期にはそういう傾向はあったみたいだ。道徳劇MankindはShrove Tuesdayの無礼講を背景としている、という解釈をした論文もある。Shrove Tuesdayが終わると禁欲のLent(四旬節)に入る。中世イングランドの代表的なロマンス『ガウェイン卿と緑の騎士』(Sir Gawain & Green Knight)で、主人公ガウェインが謎の城主ベルティラックの城にたどり着いたのは四旬節だったと記憶する。肉が食べられない期間なので、「申し訳ないが、お魚しかお出しできない」というような台詞があった。

Shrove Tuesdayは英語圏ではPancake Dayとして知られている。四旬節(Lent)の間に食べるのを控えられた食物として、肉類だけで無く、卵や乳製品も食べない場合が多かったようで、そのため、四旬節の直前にパンケーキを作って卵やミルクを平らげようとしたことがPancake Dayの名称と関係しているようだ。

Shrove Tuesdayには世界各地で大食いとか無礼講の慣習が残るが、イングランド各地では、Pancake raceという催しが行われる。これは日本で言うとパン食い競争みたいなもの。フライパンとパンケーキを手に持って駆けっこをする一種の障害物競走+仮装行列。男女ともにエプロンをするとか、男性も主婦みたいに女装するとか、それぞれの土地で、ルールが決められているようだ。Pancake Day raceの映像がたくさんネットにアップされており、ロンドンの一例がYouTubeにある

また、Pancake Dayには恒例のフットボール(サッカー)の試合が行われる場所も幾つかある。プロの試合では無く、町の人々が独自のルールに則って行うお祭りだ。中でも有名なのは、12世紀かそれ以前に始まったとされるダービシャーのアッシュボーンのRoyal Shrovetide Football。この町では、通りも野原や畑も人家の庭も、果ては小川の流れに浸かってまで、町全体を競技場として、何十人もの男達が2つのチームに分かれて午後2時から10時まで、死力を尽くしてひとつのボールを取り合う。以前、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがあるが、フットボールとは言っても、蹴るだけで無く、何でもありのラグビーみたいだった。詳しくはウィキペディア英語版に解説あり。日本にも、玉取祭とか、玉せせり、というお祭りがあるが(福岡県の筥崎宮など)、民俗学的共通点がありそうだ。

四旬節とか、カーニバルというと、私が思い出すのは、ピーテル・ブリューゲルの名作絵画、「カーニバルと四旬節の争い」(1559年)である。絵の真ん中に二人の人物が対峙している。右には、魚をのせたパン焼きに使うしゃもじを持つ痩せ細った男(いや女?)(四旬節の象徴)。左には、串刺しにした肉を持ち、酒樽にまたがった太った男(カーニバルの象徴)。人間生活の2つの面(禁欲と放縦)、がせめぎ合っている。まるでトーナメントに出て来た騎士が槍を構えて相手を威嚇するように、互いに肉の焼き串と、魚をのせたしゃもじを相手に向けている。彼らの周囲では、ありとあらゆる人々の日常の営みが繰り広げられているが、その人達もまた、この「カーニバルと四旬節の争い」を生きている。痩せた「四旬節の寓意」の周りにいる人達は、四角いワッフルだの、まるいパンケーキなんかを食べているし、この人物の足下の台にもパンケーキとプレッツェルが置いてあり、Pancake Dayとの繋がりを思い出させる。ミルクや卵がたっぷり入ったパンケーキやワッフルに対し、プレッツェルは卵もミルクもイーストも要らない質素な四旬節の食物。カーニバルはお祭りであるから、それらしい催しも描かれている。左手前の4、5人は仮面をかぶり、風変わりな服装をしており、仮装行列である。絵の丁度中央には、縞模様の服と角のついた帽子をかぶった道化らしき人がいる。1番左の建物(酒場)の前で、弦楽器の伴奏付きで行われているのは演劇だそうで、その劇のタイトルや詳細も研究されて分かっているようだ。ちなみに、イングランドで宿屋兼酒場(Inns)の中庭を利用したステージでの上演が始まったのも、ブリューゲルの絵と同じ頃の1557年前後。その他、素人でも近代初期の民衆の暮らしについて色々と想像を膨らませられる、見ていると時間を忘れる一枚だ。

この「カーニバルと四旬節の争い」は、西欧文化における伝統的テーマで、文学においてもラブレーの『パンタグリュエル物語』第4の書など、かなりの例があるようだ。季節の祭としてのカーニバルと、文学や説教の寓意(アレゴリー)における禁欲や放縦が結びつけば面白い作品が出来そうであるし、そういう視点で色々な作品の解釈が可能だ。バフチン的解釈とも言えるだろう。例えば、ロナルド・ノウルズ『シェイクスピアとカーニバル—バフチン以後』という研究書もある。第5章は、「シェイクスピアの “カーニヴァルとレントの戦い” ―フォールスタッフの場面再考(『ヘンリー四世』二部作)」というタイトルだ。私は読んでないが、ちょっと覗いてみたい本である。

2014/03/05

"-chester"と"-caster"についてもう一度

前々回から “-chester” と “-caster” のバリエーションについて考えているが、もう一度その続き。

“-chester” という語は古英語の辞書の見出しは “ceaster”であるが、これは古英語のスタンダードとなったウエスト・サクソン方言(イングランド南西部)で、口蓋音(palatal)の「チ」(入力の便宜上カタカナで代用)の後、母音が割れた(breaking)からだろう。元々は、そして他の地域では、”cæster”となるはずで、実際、トロント大学のDictionary of Old English Corpusにはかなりこの綴りで出ている。但、語頭の”c-“が口蓋化せず、”caster”(カスター)という語は無いか検索したら、見つからなかった。しかし、”caster”という例が残ってないにしても、中英語の”Lancaster”等から見て、そういう発音が古英語期にもあったのではないか。Fernand Mosséは、Handbook of Middle Englishで次の様に書いている:

The varieties of pronunciation which were produced in OE after a palatal consonant . . . before “æ” and “e” long and short are reflected in ME.  . . .  corresponding to OE “ceaster”, “caster”, “cester”, we find ME place-names in “-chester”(Manchester, Dorcheser, Lanchester) and “-caster” (Doncaster, Lancaster) . . . . (p. 26)※
確かにウエスト・サクソン綴りの"ceaster"ではなく、"cester"、及び、地名の "-cester" はかなり例がある("Exancester", "Ligcester") 。古英語の"æ"はケント方言とマーシア(中部)の一部の方言で、"e"となるので、その為か。但、Mosséの文によるとまるで 古英語の”caster”の例があるように見えるが見つからない。

より専門的になるが、ドイツの言語学者Richard JordanはHandbook of Middle English Grammar: Phonology, trans. Eugene J. Crook  (The Hague: Mouton, 1974) において次の様に説明している:

In “yet” (gate) . . . “e” is to be explained rather from position between palatal and dental as in “chester” (city) (Ormulum “chesstre” here instead of the expected “*chastre” < undiphthongized “cæster”) . . . . (p. 104)

The “caster” forms < OE ‘cæster” in which “c” was not assibilated before “æ”. In south Lancashire “chester” may be a relic of OE Mercian “cester”. The distribution of “caster” / “chester” then reflects a subdivision of Northumbrian into northern and southern Northumbrian. (p. 105)

ということは、同じ”-chester”の地名でも、地域によってその由来は違うと言う事だろうか?

ところで、ミシガン大学のMiddle English Dictionaryで”chester”を捜してみると、”chestre” という見出しで出ているが、1200年頃のテキスト、”Ormulum” だけと言って良い。その他は古英語の写本と言っても良い古英語から中英語への過渡期のテキストからの例になっている。但、地名の”Chester”と”Chestershire”はかなり出てくる。Oxford English Dictionaryでは"Ormulum"以降では近代の例があるが、それらは、人工的に古風な用語を使ってみたというarchaismだろう。

一方、"chester"が消える13世紀にはフランス語から"city"が借用される。また、古英語からのほぼ同意味の語として、"borough" ("byrig", "burh"その他の綴りで)が今も使い続けられている。

私の手に負えない(笑)このトピック、もうこれで終わりとします。

※ 上のMosséからの引用に"Lanchester"という地名があるが、"Lancaster"を私がタイプミスしたのだろうと思われるかも知れないが、原文通り。LanchesterはCounty Durhamの村だそうだ。ダラムから8マイルほどのところにあり、County Durhamの北部に位置する。人口は4000人ほど。ローマ時代には既に砦 (an auxiliary fort)  があったので、この"-chester"がついた地名もなるほど、とうなずける。

更に余談だが、現代作家でJohn Lanchesterという人がいる。近作の Capital (2012) はロンドンに住む色々な人物の生活を同時進行で描いてあの大都会の魅力を浮き彫りにしようという作品で、ロンドンの好きな私には大変面楽しめた(何故かブログに感想を書きそびれたかな)。ロンドンに関心のある方にはお勧めしたい作品。

2014/03/03

'Caister'という語で思い出したこと(前回の記事に続いて)

前回の記事で、-chester, -cester, -casterという、ラテン語のcastrum, -raから出た3つの地名について書いたが、もう一つこのラテン語から出た面白い綴りがあった。それが、”caister”。これは地名の一部と言うより、単独の地名で、Caisterという町が東部ノーフォークの海に面した場所にある。なぜこれを思い出したかというと、今論文の勉強の一部として”The Paston Letters”(『パストン家書簡集』)の2,3の手紙を読んでいるから。これは15世紀イングランド(主としてノーフォーク)に住んでいたパストン家の人々の手紙集であるが、このパストン家の人々と深い繋がりにあったのが、同じくノーフォークのジェントリー(騎士階層)、サー・ジョン・ファストルフ(Sir John Fastolf)。ファストルフは、現代の我々にとっては、シェイクスピアの『ヘンリー4世』の人気者、フォルスタッフ(Sir John Falstaf)の名前の元になった人として有名。みて分かるとおり、ファストルフの綴りを入れ替えて作った名前だ。(但、フォルスタッフという架空の人物の創造にあたっては、もうひとりの実在の人物、ヘンリー5世の友人、サー・ジョン・オールドキャッスル(Sir John Old Castle)に負うところがより大きいらしいが。)さて、このファストルフが所有していた、当時は優美な居城(今は廃墟)が今のWest Caisterという小さな町にあるCaister Castleなのである。

The Paston Letters の多くはこの城の所有に関して関係者の間で書かれている。サー・ジョン・ファストルフは子供がおらず、また正式の遺言書を残さずに亡くなった。彼の死が迫った頃、弁護士だったジョン・パストン1世は彼と長い時間を過ごし、また、妻のマーガレットを通じて彼と姻戚であったので、ファストルフの遺産、とりわけそのもっとも貴重な部分であるCaister Castleを相続すると宣言した。しかし、ノーフォークの大貴族、John Mowbray, 4th Duke of Norfolk、及び、パストンと同様、ジェントリーにして法律家だったWilliam Yelverton、その他も相続権を主張し、非常に長い間、極めて複雑な争いとなり、彼らは、法廷で、そして武力を行使して、この城の取り合いを繰り広げた。

ところで、地名に戻ると、Caisterは現在「ケイスター」と発音するようだが、中世末からそうだったのだろうか。また、だとすると、この /i/ は如何なる理由で入ったのだろう?ノーフォークという地域は独自の方言特徴を持つ地域なので、ちゃんとした理由が付けられるのかも知れない。

パストン家とその書簡集については、講談社学術文庫より、ジョセフ & フランシス・ギースによる平易な解説書が出ている。

社本時子『中世イギリスに生きたパストン家の女性たち―同家書簡集から』は、女性や恋愛・結婚に的を絞ってこの書簡集を読み解いている。物語のように読みやすく、大変楽しい本。ジェントリーであるジョン・パストン1世の娘、マージョリーと、平民で、パストン家の使用人のリチャード・コールの身分違いの恋、そして親兄弟の激しい怒りと反対にもかかわらず、2人がその恋を貫き通して結婚するに至るという事実など、実に面白い。

英語では、原典は中世の英語であり、膨大な量があるが、Norman Davis編のモダン・スペリングによるOxford Classics版が、興味深い手紙を集めていて手軽に読める。

2014/03/01

"Gloucester" という地名の発音

私がいつも楽しく読んでいるブログに、「アリスの英文学日記」がある。筆者は高校生で、この春大学受験をしておられるという若い方だが、英語原文でディケンズやコリンズの長大な小説を凄い速さで読んで、しかもなかなか鋭い感想を綴っている。そんじょそこらの大学生、いや大学院生や英語の先生でも太刀打ちできない読解力の持ち主だ。英語で書かれたブログも多く、英語表現力でもネイティブの若者に優るとも劣らない能力を備えておられると思う。私と同世代のアメリカ人の友人の文章は、彼女の文章に比べると、とても稚拙に感じるくらいだ。彼女は特にビクトリア朝の小説の愛読者で、ブロンテとかディケンズだけでなく、英米でも普通の読者は滅多に読まない珍しい作品も読破しておられ、その方面に無知な私には大変勉強になる。

さて、彼女の新しいブログ・エントリーに次の文章があった:

イギリスの磁器のブランドに "Worcester"というのがあるのですが、発音すると「ウースター」なのですよね!文字通り読めば「ワーセスター」とでもなりそうなものなのに!これと同じパターンでは他に"Leicester"(レスター)や"Gloucester"(グロスター)という地名があります。確かに、なんでこうなるのかな〜、と思って調べたのですが、由来や起源はハッキリ知られていないようです。 


このLeicester の読み方は、アメリカ人がよく間違うとイギリス人の間でも話題になることがある。私は以前ロンドンの中心部でバスに乗っていて、アメリカ人観光客が、「ライチェスター・スクウェアにはどう行ったら良いのかね」、と運転手に聞いているのを耳にした。私もこれらの発音に以前から興味を持っていたので、当面分かる事や推測できることをコメント欄に書かせていただいたが、その文章を、文体を修正して、このブログにも載せておきたい。

Leicester, Gloucester等の発音における第2音節の消失だが、一方でWinchester, Rochester, Dorchesterなど、綴りは少し違うが、音が残っている場合も多く、興味深い。-cheter, -cester(複合語ではなく、単独でも、Chesterという都市もある)は、もともと最終的な語源はラテン語のcastrum / -ra (壁をめぐらした砦)である。フランス語のchateau(シャトー)などもそうだし、英語のcastleも同語源だ。この語は既にアングロ・サクソン時代に英語に入り、ceaster (町、都市)と綴った。読み方は、あえてカタカナにすると「チェアスター」。この「チ」という語頭の音は、中世後半、ノルマン朝になると、ch-と綴られるようになる。

さて私は英語学の専門家では無いので、ここからはある程度、素人の推測だが、ノルマン人のイギリス征服による仏語の影響で、町によっては、それまでのceasterの語頭を破裂音の「チ」ではなく、摩擦音の「シ」と発音し、またそれに対応して、-chesterという綴りでなく、-cesterという綴りが残ったのではないかと思う。また、ノルマン・コンクエストの頃、中世フランス語自体、c-, ch- という綴り字の発音で破裂音の要素が無くなっていく(「チ」から「シ」へ)という過渡期だったことも、英語におけるバリエーションが生じた一因かも知れないと推測する(つまり、仏語のmerciは大昔は「メルチ」だったようだが、今は「メルシ」)。

さて、そうすると、Gloucesterなどは、ノルマン・コンクエスト後の一時期、「グロウセスター」に類似した名前で呼ばれただろうと思う。ところが、-ces- /ses/ は第2音節でアクセントが置かれず、しかも母音が同じ /s/ 音に挟まれれば母音が弱まり、やがてひとつの /s/ の音に収斂されるだろうから、グロスターという発音が出来ることになる。

-cesterの綴りでありながら、その発音が略されずに残った面白い地名にSirencester(サイ[ア]レンセスター)がある。-ces-が第3音節にあり、第2アクセントが置かれるであろうことがこの例外が出来た理由だろうと推測した。しかし、Wikipedia英語版によると、「シシスター」とか、「シスター」と呼ばれることもあるそうなので、Gloucesterなどと類似した力学も見られる。

ところで、アングロ・サクソンのceasterから派生した地名に、Lancaster, Doncasterなどもある。何故 /k/ の音になったのか、私は知らない(古英語時代から /k/ 音でそれを引き継いだ?あるいは仏語方言におけるバリエーションの影響から?方言の違い?etc. )、調べてみると面白そうだ。どなたかご存じだったら、教えて下さい。

以上、間違った事も含まれているかも知れません。訂正や、何か教えていただける方がおられたら、コメント欄に書いて下されば幸いです。

(捕捉)
その後ネット検索をしていたら、イギリスの地名研究者のKeith Briggsが、-chester, -cester, -casterの分布を調べて地図に書き込んで下さっていることを発見した。

この地図を見ると、-casterは中部から北部にかけての割合狭い地域、-cesterは南部から中部にかけての、やはり限定された地域にあるのに対し、-chesterはイングランド全体に広がり、特に南部と北部の北の方に多い。ウェールズやスコットランドにこれらの地名が無いのは、そもそも語源であるcastraは、ローマ人が陣地を築いたところに地名として定着したからであろう。また、その意味で、ハンバー川周辺に多いのは、その周辺で北方のケルト系民族に対抗するために砦を築いた為か。