2014/08/28

"Henry IV, Part II" (The Royal Shakespeare Theatre, 2014.8.23)

名優を活かしたオーソドックスな演出で楽しめた

劇場:The Royal Shakespeare Theatre
2014.8.23  19:15-22:25 (含む, 1 interval)

脚本:William Shakespeare
演出:Gregory Doran
デザイン:Stephen Brimson Lewis
照明:Tim Mitchell
音楽:Paul Englishby
音響:Martin Slavin
衣装:Laura Hunt

配役:
King Henry IV: Jasper Britton
Prince Hal, Duke of Lancaster: Alex Hassel
Prince John, Lord of Lancaster: Elliot Barnes-Worrell
Duke of Gloucester, the king’s son: Leigh Quinn
Duke of Clarence, Gloucester’s son: Martin Bassindale
Earl of Westmorland: Youssef Kerkour
Earl of Warwick: Jonny Glynn
Earl of Northumberland, Henry Percy: Sean Chapman
Archbishop of York: Keith Osborn
Lord Hastings: Nicholas Gerard-Martin
Sir John Folstaff: Antony Sher
Mistress Quickly, tavern landlady: Paola Dionisotti
Bardolph: Joshua Richards
Doll Tearsheet: Mia Gwynne
Pistol: Antony Byrne
Justice Shallow: Oliver Ford-Davis
Justice Silence: Jim Hooper

この劇を見た日は、朝からあちこち動きまわった。午前中にはストラットフォード観光でこの日はHoly Trinity Churchをじっくり見た。午後は20年以上お付き合いのある老婦人とお食事とお茶、その後、また別の、妻が親しくしているイギリス人カップルにお会いして旧交を暖めた。充実した一日だったが、この劇を見る頃にはすっかり疲れ果てていて、劇の間中、うとうと・・・。もちろん目覚めていた間の方が長いけれど、残念ながらまともに鑑賞したとは言い難いので、☆はつけていません。

ほとんどは歴史的なセットとコスチュームによるオーセンティックな舞台作りで、Gregory Doranらしい公演。こういう奇をてらわない演出をするほうが、今のNTやRSCではかえって勇気がいるのではないか。Antony Sherを中心として、俳優の演技力と見事なアンサンブルで楽しませてくれる。Sherはやや年齢と哀愁を感じさせるFalstaff。大変スローな台詞回しと動きで、吉田剛太郎フォルスタッフとは対照的。そのSherといいコンビを見せるのが、Oliver Ford Davis演じる、これまた大ボケのJustice Shallow。ほとんど何も言わず、ぼーっとして座っているJustice Silenceとともに、楽しい老人トリオだった。SherとFord Davisは間の取り方が絶妙。たとえば『ゴドーを待ちながら』のMcKellenとStewartを思い出させる、年を取った俳優だけが出せる味わいがあった。また、イーストチープの酒場のシーンでは、Mistress Quicklyもかなり年配の配役で、Sherの役作りに合っていた。Pistolだけは、突拍子もないぶっ飛びぶりではあった。

この二人の治安判事が出てきて兵隊を募集するシーンは、コミカルな色眼鏡を通して描かれてはいるが、薔薇戦争の時代、中世の封建制が崩壊して騎士を中心とした戦いが終わり、戦争が起こる度に金で雇われる兵隊が軍隊の主流になったいたことをうかがわせ、興味深い。

メインプロットの王家の変転の方では、王とPrince Halの間の疎遠さがかなり強調されていた気がした。歴史上は、この時期、BolingbrokeはHalの反乱さえ恐れる程、親子の中は悪かったと何かの本で読んだ。シェイクスピアのテキストではそこまでは強調されていないと思うが、しかし、ふたりの間に相互不信があったことを示唆する演出だったと思う。

Halを演じたAlex Hassellは癖がない明るい2枚目の演技。父のBolinbrokeのJasper Brittonは不安と権威や自負が入り混じった陰影のある人物になっていたような(でもうつらうつらだった私の印象は当てにならないが)。

私としては、Antony Sherのフォルスタッフに加えて、Oliver Ford Davisのボケっぷりが堪能できたのが大きな収穫だった。

"The White Devil" (The Swan Theatre, RSC, 2014.8.22)

とてもモダンで刺激的なプロダクション

劇場:The Swan Theatre, The Royal Shakespeare Company
2014.8.22  19:30-22:30 (含む, 1 interval)

脚本:John Webster
演出:Maria Aberg
デザイン:Naomi Dawson
照明:James Farncombe
音楽と音響:David MaClean & Tommy Grace
音響:Tom Gibbons
衣装:Ed Parry

配役:
Vittoria Corombona: Kirsty Bushell
Camillo (Vittoria’s husband): Keir Charles
Flaminio (Vittoria’s sister & servant of Bracciano): Laura Elphinstone
Marcello (Vittoria’s brother & Francisco’s attendant): Peter Bray
Cornelia (the mother of Vittoria, Flaminio & Marcello): Liz Crowther
Bracciano (Isabella’s husband & Vittoria’s lover): Davi Sturzaker
Isabella (Bracciano’s wife): Faye Castelow
Francisco (Isabella’s brother, Duke of Florence): Simon Scardifield
Cardinal Monticelso: David Rintoul
Lodovico (a disgraced & banished nobleman): Joseph Arkiley
Dr Julio: Michael Moreland

☆☆☆☆☆/5

私はウェブスターが大好き。この濃密さ、男女の死闘が生む刺激がたまりません!彼の作品の大きな柱は、家父長的男性中心社会の孕む矛盾。シェイクスピアではオブラートに包まれてその残虐さが目立たないが、ウェブスターは容赦なくそれを利用してセンセーショナルなドラマに仕立てあげる。しかし、現代の作家と違い、作家の道徳的な視点から構成されているわけではなく、男も女もアモラルな闘争に明け暮れて、復讐の連鎖のうちに自滅していくという陰惨なドラマ。今回の上演は現代のセットとコスチュームで、退廃と残虐さを一層際立たせたが、いつの時代にセットしても、ウェブスターの基本的な面白さに変わりはないと思う。

(物語)Lodovico伯爵は汚職や殺人の罪でローマから追放されている。Bracciano公爵はIsabellaという妻を持ちながら、Camilloの妻のVittoria Corombonaと密通している。Vittoriaの姉妹で、Braccianoの使用人であるFlaminioはこの二人の密会を手伝っていて(チョーサーのパンダルスの役割)、一種の女衒(英語で”pander”)の役割を果たす。彼らは二人の恋路の邪魔になるIsabellaとCamilloの二人の邪魔者を殺害する計画を立てる。
 Isabellaがローマの宮廷にやってくる。彼女の兄弟FranciscoとMonticelso枢機卿はVittoriaとBranccianoの不貞の噂を聞きつけて激怒する。しかし、Isabellaは自分と夫の結婚の失敗の責任を引き受けて、宮廷を去る。FlaminioとBraccianoは医者のDr Julioを使ってIsabellaを毒殺する。また、酔ったうえでの喧嘩を利用して、FlaminioはCamilloを殺害させる。
 Vittoriaは夫を殺害した濡れ衣で裁判にかけられ、Monticelso枢機卿に激しく糾弾される。彼女は、売春婦を収容する施設に送られる。BraccianoとFlaminioはパデュアに逃れ、そこでVittoriaと落ち合って結婚する計画だ。追放されていたLodovicoがローマにもどってきて、Franciscoに亡くなったIsabellaを愛していたことを告白する。ふたりは、Isabellaの死の復讐を誓う。
 Monticelsoは教皇に選ばれ、BranccianoとVittoriaの破門宣告を下す。そのふたりはパデュアに逃れるがLodovicoが彼らを追っていく・・・。(英語のプログラムより)

この劇の前日に見た“The Roaring Girl”同様、ジェンダーを強く意識した演出。また、男装のMoll Cutpurseを思い出させるかのように、Flaminioは原作の男性ではなく、女性に変えられていた。Vittoriaは夫を裏切る妻ではあるが、彼女の裁判での反論や殺される前の台詞はたいへん力強い居直りぶりで、女の底力を見せつける。彼女のアモラルな強さを強調したKirsty Bushellの演技が素晴らしい。また、マリアのように貞淑で、夫の罪まで引き受けるIsabellaも毒を盛られて殺害される前には、やさしいだけではない芯の強さを見せる。逆に言うと、彼らを辱め、苦しめる男たちの家父長的な女性への偏見、女嫌い(ミソジニー)の激しさもくっきりと描かれる。とりわけ、キリスト教会の権威的で教条的な男性中心主義と保守的倫理観はMonticelso枢機卿によく体現されている。こういうところは非常に現代的であり、むしろ南アジアやイスラム諸国、そして現代の日本にぴったり当てはまる。Monticelsoみたいな化け物、今でも日本の男の中にも結構いる。彼とVittoriaが対決する裁判のシーンはこの劇の白眉であり、帰国したらまたテキストでじっくり読み返したい。

Monticelso枢機卿(のちに教皇)が宗教裁判所で姦婦Vittoriaを裁くので分かるように、非常にキリスト教的な伏線が濃い劇だ。Vittoriaはいわば旧約聖書のイブを象徴しているとも見れるだろう。夫の姦通まで自分の責任とする貞淑なIsabellaは生身のマリア。ふたりは家父長的男性社会が女性に与えた二つのイメージであり、現実の生身の女性とは離れた男性の罪の意識、願望/欲望の化身でもある。Monticelsoに典型的に示される家父長的モラルの男性達は、女性が自らの肉体や欲望を蔑み、自らを男性の支配に従順に従うだけの存在におとしめることを要求しているかのようである。

原作では男の女衒的な役であるFlaminioを、Vittoriaの「妹」に変えてしまったのは、どういう意図なんだろうか?男たちが寄ってたかって、Isabellaを苦しめる、それも兄弟に至るまで、という構図は、Flaminioを女にすることで、文字通り一役分薄められた。しかし、同じ女同士までも家父長的な権力構造に組み込まれて動かされる、という新しい視点は感じる。女も、Flaminioみたいに仕事をしていれば、自分のジェンダーを押し隠し、同性も犠牲にせざるを得ない、という構図の極端な形かもしれない。Flaminioの台詞には、せっかく大学を出て貴族Braccianoの家中に就職したが、全く何の財も築けず(キャリアにならず)、貧乏なままだ、というような嘆きがあったが、彼女の上昇志向が、姉妹さえ売り飛ばすという行為に走らせたとも言えるだろう。キャリア志向の女性が他の女性を貶めたり、蹴落とすことを強いられるという構図か。更に演出家はもうひとひねりを加える。即ち、このFlaminioを演じる長身で短髪のLaura Elphinstoneは、男装した女性として宝塚のスマートな男役のようにこの役を演じ、また原作にはないことだが、Flaminioには女性の恋人がいるように演じられているので、レズビアンということだろう。ジェンダーの境界を限りなくあいまいにした配役と役作りである。女衒という役回りに、そういう中性的、あるいはその時に応じて男にも女にもカメレオンのように変化できる人物を充てるのは上手いアイデアだ。

FlaminioはVittoriaとBraccianoという主人公たちを罪に陥れる悪魔の手先である。だとすると、演出家は、背が高く、くねくねとした肢体を持ち、黒い衣装に身を包んだElphinstoneを、アダムとイブをそそのかした蛇のイメージに重ねているのかもしれない。中世の絵画における蛇は、時に男、時に女の顔を持って描かれ、ジェンダーが定まらないのも、Flaminioと共通する。

この劇のステージを黒々とした色調の陰鬱なデザインでまとめることもできるだろうが、Naomi Dawsonのデザインはその逆で、基本的にまぶしいばかりの白々とした光線とシンプルな背景が特徴だ。まさに、The WHITE Devilである。地獄に落ちる前のルシファーと家来の堕天使達がまぶしい黄金の光に包まれていたことを思い出させる。ローマ・カトリック教会の本山、金色の僧服や装飾に輝くキリスト教の中心から、まさに地獄に転げ落ちようとしている人々のドラマ。

最後にこの劇を象徴するような印象的なFlaminioの台詞を一行:

“Of all deaths, the violent death is best.” (Act V, Scene II)

2014/08/27

"The Roaring Girl" (The Swan Theatre, RSC, 2014.8.21)

英語がむつかしくて、ちんぷんかんぷん

劇場:The Swan Theatre, The Royal Shakespeare Company
2014.8.21  19:30-22:30 (含む, 1 interval)

脚本:Thomas Middleton & Thomas Dekker
演出:Jo Davies
デザイン:Naomi Dawson
照明:Anna Watson
音楽と音響:Simon Baker
衣装:Janet Bench

配役:
Mol Cutpurse (the Roaring Girl): Lisa Dillon
Laxton: Keir Charles
Mary Fitzallard : Faye Castelow
Mr Gallipot: Timothy Speyer
Mistress Gallipot: Lizzie Hopley
Sir Alexander Wengrave: David Rintoul
Jack Dapper: Ian Bonar
Sebastian Wengrave: Joe Bannister
Mistress Tiltyard: Liz Crowther
Geoffrey Greshwater: Ralph Trapdoor

今回、ストラットフォードに行ったのは、20年来お付き合いのある老婦人にお会いするためであったが、せっかくだからとRSCで3本の劇を見ることにした。特に2本はジェイムズ朝の劇であまり見られないということもあり、切符を購入した。しかし、ストラットフォードに行く前から疲れがひどく溜まっていて、劇の間中うとうとしてしまい、特にこの”The Roaring Girl”は期待していたのに、セリフがわからず、ちんぷんかんぷんのまま3時間終わってしまった。したがってまともに感想も書けない。但、見た記録として、パンフレットに沿って、配役や粗筋は書いておくこととした。シェイクスピアだと、日本語で見たり読んだりしているので、大筋は理解できるのだが、私の英語力では、初めて接する古い劇の場合、出発前に、せめて日本語ででもテキストを読んでおかないといけない、と大いに反省している。わかっているのだけどねえ・・・。

(粗筋)Sebastian WengraveはMary Fitzallardと結婚しようと目論んでいるが、彼の父のSi Alexanderは大反対。そこで、Sebastianは一計をめぐらせる。つまり、悪名高き男装の女スリ、Moll Cutpurseと恋仲になったと父親に思わせて、父が「それならMary Fitzallardのほうがずっとまし」と思うように仕向けようという企みだ。
 一方、Sebastianの伊達男の遊び仲間達(The Gallants)は、現代の能天気のプレイボーイみたいに、盛り場の店に集まり、最新流行の服を試したり、店主を冷やかしたり、お店の奥さんをからかったりしている。中でも、この軽薄な若者たちのひとりのLaxtonは、タバコ屋の奥さんのMrs Gallipotを誘惑してお金をせしめようと企んでいる。しかし、その裏で、彼はMollに魅力を感じて近づこうとする。MollはLaxtonが女性を売春婦みたいに軽く見ていることに憤り、彼と激しく敵対する。
 Sebastianの計画通り、Sir Alexanderは息子が女スリと結婚したら大変、と大慌て。そうなるのを防ぐためにRalph Trapdoorというチンピラを雇って、Mollに近づかせて彼女の様子を彼に報告させようとする。Ralph Trapdoorの報告に基づいて、Sir AlexanderはMollの目の前に高価なダイヤモンドの指輪や腕時計を盗みやすいように置いておき、彼女がそれらを盗もうとしたところを現行犯で捕まえる、という作戦を考える。
 しかし、MollはTrapdoorの様子がおかしいと疑惑を持つようになり、Sir Alexの計略は彼が思うようには進まない・・・。

というようなストーリー。この大筋はパンフレットで読んでいたのだが、これはコメディーで結構笑えるシーンが多いようなのに、英語がむつかしくてちっとも笑えない。それからSebastianとSir Alexの行動は大体フォローできたが、Laxtonの行動や台詞はさっぱりで、彼が何を言ったりしたりしているのかは、さっぱりわからずじまいだった。劇場が笑いに包まれているときに、ちんぷんかんぷんで苦笑いは、一層悔しいな。

モダンなプロダクションになっているが、現代ではなく、ビクトリア朝のセットとコスチュームらしい。Mollはたいへんたくましい男装の女性として描かれるだけでなく、「女は根は皆売春婦」と言わんばかりの男達の偏見にさらされることをひどく憤っているようだ。よくわからないながらも、テキストにある以上に、Mollの強さ、たくましさ、そして女性としての誇りを強調した演出のように感じたがどうだろうか。そうした演出意図にLisa Dillonは精一杯答えていたが、いささか小柄な俳優で、一生懸命肩をいからせている感じはした。Mistress Gallipot、Mary Fitzallardなど、他の女性たちも活き活きと演じられていて、女性のたくましさを称賛する劇という感じは出ていた。

商店のシーンはとても明るくて、ビクトリア朝のショッピングモールみたいな感じだった。私の好みとしては、滅多に上演されない(おそらく私は2度とステージでは見られない)劇だから、やはりジェイムズ朝劇らしいオーセンティックなコスチュームとセットで演じてもらって、17世紀初めのロンドンの猥雑な雰囲気を嗅いで見たかったな。

2014/08/18

“Holy Warriors” (Shakespeare’s Globe, 2014.8.17)

劇場:Shakespeare’s Globe
2014.8.16  19:30-21:50 (1 interval)

☆☆☆/5

演出:James Dacre
脚本:David Eldridge
デザイン:Mike Britton
作曲:Elena Langer

配役:
King Richard the Lion-heart: John Hopkins
Eleanor of Aquitaine: Geraldine Alexander
King Philip of France / Lawrence & other roles: Jolyon Coy
Saladin / Begin: Alexander Siddig
Hugh of Burgundy / Blair & other roles: Philip Correia
Reynald of Chatillon / Carter & other roles: Ignatius Anthony
Conrad of Montferrat & other roles: Peter Bankolé
Reymond of Tripoli / Bush & other roles: Paul Hamilton
Gerald of Ridefort / Napoleon & other roles: Sean Jackson
Balian / Ben Grion & other roles: Sean Murray
King Guy of Jerusalem / Weizmann & other roles: Daniel Rabin
Queen Sibylla / Berengaria of Navarre / Golda Meir: Sirine Saba
Az-Zahir / Faisal & other roles: Satya Bhabha
Imad al-Din  & other roles: Kammy Darweish
Al-Afdal / Sadat: Jonathan Bonnici

第3次十字軍を描いたディヴィッド・エルドリッジのオリジナル歴史劇。十字軍と20世紀の中東紛争を絡ませて、中世と現代の二つの時代を比較して西欧と中東イスラム世界の関係の共通点を考えさせようとしている。極めて意欲的で、スケールの大きな作品。中世史に興味のある私には参考になったし面白かったが、演劇としては、歴史の大きな流れを何とか辿るだけで精一杯で、演劇作品としての緊張感や盛り上がりには欠けていた。また、ナショナルのオリヴィエ・シアターなどならもっと面白くできたと思うが、グローブ座という劇場が持つ物理的な制限も大きい。

第3次十字軍は、英仏の王侯貴族が中心になって行われ、イングランドからはリチャード獅子心王が参加した。エルサレムは第1次十字軍によりキリスト教徒の手に下ったが、この時までにはイスラムの英雄サラディンによって奪回されていた。第3次は、そのエルサレムを再度西ヨーロッパのキリスト教徒が奪い取ることをもくろんだ遠征だった。西側は、アクレ(Acre)などパレスチナの重要拠点を落としていくが、フランスやバーガンディーの貴族が徐々に退却し、リチャード王は結局エルサレム攻略を諦め、サラディンと講和を結んで帰国の途に就く。しかし、その帰国の途上、フランスで病死する。劇の前半では、この第3次十字軍の顛末を描く。後半では亡くなったリチャードの魂が遠征を振り返る。その間に挟まれるのは、20世紀の中東紛争の流れ。シオニストのパレスチナ移住からイスラエルの建国、繰り返されるパレスチナ紛争などを、ロレンス、ワイツマン、ベン・グリオン、ビギン、サダト、カーター、ブッシュ、ブレア―、その他数多くの主要人物とともに辿りつつ、それを十字軍と重ね合わせる。これだけのことを2時間ちょっとの劇に収めるのだから、意欲は素晴らしいが、かなり駆け足になり、無理があった。一種の年代記劇としての意義を感じるが、特定の戦いなり事件なりに焦点を合わせて、中世と現代の通底音を探ってみてはどうかと思った。あるいは、前半のストレートな歴史劇を、もっと人物を掘り下げて2時間以上で描けたのではないだろうか。

題材を考えると、男ばかりの戦記ものになっても不思議ではないのだが、男たちの戦いに翻弄される王侯貴族の女性たちに、セリフを多く割り当ててあったのには好感が持てる。特に西欧の中世史においてもっとも重要な人物であるアキテーヌのアリエノールはリチャードに大きな影響を与えた人物として、たくさんの台詞が振られていた。

内面をじっくり掘り下げるような台詞やシーンに乏しくて、残念ながら俳優の実力を十分に発揮できる場面は少ないと思った。シーンによっては、ドラマティック・リーディングみたいな感じになっていた。シェイクスピア時代の作品みたいに韻文であったなら、まったく違った印象になっただろうけれど・・・。

セットはグローブ座であるから工夫はむつかしいのだが、それでもできるだけの事をやっていた。張り出しステージの上にさらに一段高くなった大きな円形のステージを作って、主にその上で演技が行われる。中世劇で時折見られる円形舞台を意識しているのだろうか。ステージ上方の張り出し屋根からは巨大な香炉が下がり、そこから劇場中にお香の香りが流れていたのは雰囲気を作るうえで効果的だった。また、劇の始まりでは、数多くの蝋燭がステージに置かれ、まるでラテン典礼劇のように、修道士の衣装を着た人々が賛美歌らしき歌を歌いつつ行進(procession)をして、劇のトーンを定める。やはり天井からは、大聖堂のように巨大な十字架がロープ(チェーン?)で吊るされていて、ステージで描かれる事件に応じて垂直に近く起こされたり、逆に横に寝かされたりしているのも面白い。細かく注意していなかったが、十字軍の戦況の良し悪しを表しているのだろうか。こうしてみると、少なくともデザイン担当のMike Brittonは中世演劇、特に教会内で行われた典礼劇の上演空間を念頭に置いているように思えた。但、そうだとすれば、演技や台詞の発話も儀式的というか、様式的にすると面白かったと思う。

登場人物と言及される歴史的事件が多いので、中東紛争や十字軍の知識が乏しい人(私もそうだが)には劇の大体の流れを追うのさえ困難と思う。私は脚本を買っておいたので、それを時々のぞいて、その時にしゃべっているのは誰か大体確認できただけも随分助かった。でなければ、全くちんぷんかんぷんのまま終わったかもしれない。

私は、十字軍については、中世史のひとつの事件として、通史の本の記述で読んだくらいなので、ちゃんとした専門家による『十字軍の歴史』みたいな本を一冊ちゃんと読まなきゃと思った。

2014/08/16

“1984” (Playhouse Theatre, 2014.8.15)


劇場:Playhouse Theatre, London
2014.8.15  19:30-21:10 (no interval)

☆☆☆☆/5

An Almeida Theatre, Headlong Theatre & Nottingham Playhouse co-production

演出、脚色:Robert Icke & Duncan Macmillan
デザイン:Chloe Lamford
照明:Natasha Chivers
音響:Tom Bibbons
ビデオ・デザイン:Tim Reid

配役:
Winston: Sam Crane
Julia: Hara Yamas
O’Brien (an interrogator): Tim Dutton

“1984”というと、私にはマイケル・ラドフォードが演出し、ジョン・ハートとリチャード・バートンが出演した傑作映画のイメージが強い。SFの世界を描くには、より制約の少ないメディアであるフィルムの方がやり易いだろう。しかし、この舞台は、生の舞台の特色、感覚に直接訴える説得力を活かした、力強い公演で、1時間半強の短さにも関わらず、十分満足できた。

最初、原作にはないフレームワークで始まるので、それでなくても英語の理解に難がある私は何が起こっているか分からなかったのだが、数人の人達が本を読みつつ話し合っている。一種の読書会か、ブッククラブのような雰囲気。劇が終わる時も同じようなシーンになったのでやっと合点がいったが、1984年から約100年後の人々が(歴史家?一般読者?ブッククラブ?)、すでに忘れ去られたオーウェルの作品を再発見して、その意味を語り合っているシーンらしい。

そのシーンがやがて平凡な役所のシーンと転じ、ウィンストンや彼の同僚がおなじみの、単調な、完全にビッグ・ブラザーに管理された毎日を過ごしているのが描かれる。この辺りはやや退屈で、うとうと・・・。ウィンストンとジュリアの密会のあたりは、もっと生々しいエネルギーが欲しい気がした。しかしその一方で、ウィンストンが自分の感情を明確にできず、彼の人間性がなかなか開花しないことを的確に表現しているのかもしれないとも思える。このあたりでは、舞台の上方に大きなスクリーンを作り、そこに舞台の背後で起こっていることをビデオで映して見せる。これは私の好みを言えば観客の注意を分散させて、説得力を薄めていると思う。せっかくのライブ・シアターなんだから、なるべく舞台上のアクションに集中できるような演出にしてほしい。

後半、ウィンストンとジュリアが逮捕されるシーンからは、一気にボルテージが上がる。ステージは床も壁も天井もすべて白一色で、強い照明で照らされて観客も目がくらむ程。そこでは、尋問をする役人、オブライエンが、単調かつ冷徹な声音でウィンストンを責めたてる。ウィンストンのまわりには、オブライエンの手足となって動く数人の拷問者がいるが、まるで新型インフルエンザかエボラ熱患者の看護人みたいな、真っ白な服に顔全体を覆うマスクという異様ないでたち。ウィンストンは爪をはがされたり、歯を抜かれたりといった、言わば古典的な拷問にさらされ、最後には激しい電気ショックを科せられる。このシーンは、生のステージの迫力が凄い。こうして、ウィンストンは取り戻した人間性を再び失っていく。

最後はエピローグとしてまた最初のブック・クラブらしいシーンに逆戻り。2084年の人々はオーウェルの作品がよく理解できないらしい。未来の人々はすでにあまりにも真っ白に洗脳されていて、オーウェルの描く恐ろしささえ感じないのだろうか。ウィンストンの世界と同様、世界中で常時進行中の戦争(イラク、ガザ、アフガニスタン、ウクライナ・・・)、秘密保護法、対テロ法等の情報管理と個人の権利の制限―1984年から20年が過ぎた今、現代世界はオーウェルがフィクションで構想したのと同じくらいか、あるいは一層悪くなっているかもしれない。2084年には私は生きていないが、考えると恐ろしい。

主な俳優3人は共に説得力ある演技だった。特に、尋問官オブライエンを演じたTim Duttonが強い印象を残した。後半の尋問室のセットと照明も、このプロダクションの大きな強みだろう。



2014/08/15

古今のSheep Rustling(家畜泥棒)

前回のエントリーでロンドンでの観劇を取り上げたので分かるようにイギリスに来ている。私はこちらに来ると、大抵時差ボケと出発前の疲れのため胃腸の調子が悪くなり、特に最初の一週間くらいは最低の体調となる。出かけるとふらふらするし、突然胃腸が痛くなったりするので宿舎で寝たり起きたりしていることが多い。そんな具合だからテレビのニュースをよく見ていると、昨日からBBCではイギリスの農民が盗難被害にあっていることを繰り返し報道している

同様の盗難は日本でも頻発していて、イギリスに来る前にも豚が一度に何十頭も盗まれたというニュースをテレビで見た。家畜以外にも、野菜や穀物、農薬、そしてとくにトラクターなどの高価な農業用の車両や機械が狙われているようだ。

さて、東西におけるこのニュースは大変嘆かわしいが、それを伝える"sheep rusling"という表現は知らなかった。rusltle とは葉とか衣類がサラサラ音をたてることを表現する言葉だが、ここでは「家畜を盗む」という意味で使われている。この語には、「さっさと動く」「せっせと活動する」「努力して集める」というような意味があり、それらから派生した意味なのだろう。なるべく音を立てないで、こっそり、しかし急いで家畜を追い立てて盗んだりすることからできた用法かしら、なんて想像する。比較的新しい用法で、この意味での『オックスフォード英語辞典』(OED) の初出は1886年のテキサス州の上訴審裁判所の法廷記録からの例:

He and Turner...went to Coppinger's pasture, intending to kill the negro Frank, and ‘rustle’ six head of fat cattle, then in Coppinger's pasture. (Texas Court of Appeals Rep. 20 408)

家畜泥棒なんて、如何にもアメリカ、それもテキサス州で頻発しそうな事件だ。

さて、"sheep rusling"について私が思い出すことというと、タウンリー・サイクル(別名、ウェイクフィールド・サイクル)の聖史劇の「第二の羊飼い劇」(The Second Shepherds' Play) に描かれる羊泥棒。このエピソードはキリストの生誕を描くクリスマス劇で、マックという農民が羊飼い達から一頭の子羊を盗み、自分の子供と見せかせて揺りかごの中に隠すが、捜しに来た羊飼いたちに見つかってしまう。キリストを子羊に例える(やがて磔刑になるキリストは贖罪の捧げものの羊)ことを巧みに利用した傑作であり、英語の聖史劇の中でも、おそらく最もよく知られた作品だ。

中世イングランドに関してもうひとつ思い出されるのは、『パストン家書簡集』(The Paston Letters)における家畜泥棒。パストン家は、15世紀、バラ戦争の前後に中部イースト・アングリア地方で大きな勢力を持っていたジェントリ階級の一族。彼らの手紙の中で、家畜の奪い合いがしばしば述べられている。パストン家の人々は長年近隣の有力者たちと土地や不動産をめぐって争いを繰り広げるが、その際、係争中の土地に住んでいる農民から無理矢理年貢を徴収したり、家畜を奪い取ったりするのが常套手段なのである。二つの家の勢力争いのとばっちりを食っている農民にとっては耐え難い迷惑だったことだろう。パストン家の女主人マーガレットが1465年5月20日に夫のジョン(一世)に宛てた手紙によると、ドレイトンという荘園の賃貸料や小作料の一種の抵当として牛を77頭も奪っていったとある(J &  F ギース『中世ヨーロッパの家族』("A Medieval Family: The Pastons of Fifteenth-century England")三好基好訳(講談社学術文庫)p. 222)。古い英語を読んでみたいという方に、原文の抜粋:

Please it you to wyte that on Satour-day last youre seruauntys Naunton, Wykys, and othere were at Drayton and there toke a dystresse for the rent and ferm that was to pay, to the nombere of lxxvij nete, and so broght them hom to Hayllesdon and put hem in the pynfold, and so kept hem styll there from the seyd Satour-day mornyng in-to Monday at iij at clok at aftere-non.   出典はこちら。

現代英語の綴りに直すとこうなる:

Please it you to wit (know) that on Saturday last your servants Naunton, Wykes, and others were at Drayton and there took a distress for the rent and farm that was to pay, to the number of lxxvii net, and so brought them home to Haylesdon and put them in the pinfold, and so kept them still there from the said Saturday morning into Monday at iii at clock at afternoon.

"rent and farm"は地代、"distress"は現代でも使われる法律用語で、差し押さえ動産、"pinfold"は家畜を入れる囲いのこと。

2014/08/14

"Richard III" (Trafalgar Studio, 2014.8.13)

主演俳優が休演でがっかり

☆☆ / 5

劇場:Trafalgar Studio, Studio One
2014.8.13  19:30-21:50 (含む, 1 interval)

演出:Jamie Lloyd
デザイン:Soutra Gilmour
照明:Charles Balfour
音楽と音響:Ben and Max Ringham

配役:
Richard III: Philip Cumbus (understudy)
King Edward IV / Bishop of Ely: Paul McEwan
Buckingham: Jo Stone-Fewings
Stanley: Paul Leonard
Hastings: Forbes Masson
Clarence / Lord Mayor: Mark Meadows
Catesby: Gerald Kyd
Tyrrel: Simon Coombs
Richmonnd: Joshua Lacey
Queen Margaret: Maggie Steed
Lady Anne: Lauren O'Neil
Queen Elizabeth: Gena McKee
Duchess of York: Gabrielle Lloyd


この公演、ジェイミー・ロイドという若い売れっ子の演出家が演出していることもひとつの注目点だが、なんといっても、BBCの『シャーロック』でワトソンを演じるマーティン・フリーマンが主役のリチャードを演じて、人気を集めている。切符はほぼ売り切れだろう。ところが、昨日はそのフリーマンが体調不良でお休み。私はフリーマンのファンではないので、彼を見られなくても構わないが、突然出演することになる代役(アンダースタディー)は、如何に上手い人でもセリフを間違わずに無難にこなせれば上出来であり、最初からその役を受けて稽古を重ねている役者の演技とは比べ物にならないし、演出家の意図を十分に表現できるはずもない。今回、リチャードの役はPhilip Cumbusという若い俳優がやったが、セリフは全く間違えず、アンダースタディーの責任を見事に果たした。しかし、個性の乏しい教科書的な演技で(無理もない!)、脇役よりも目立たないほどであり、ガッカリした。時差ボケもあって、本当に眠り込むことはなかったが、終始かなり眠かった。 もちろん、俳優も病気になるし、休む時があるのも仕方ない。これもライブ・シアターの特性だからねえ・・・。

現代のセッティングだが、ブラウン管テレビやマニュアルのタイプライターがあったり、古めかしいデザインの固定電話が置いてあり、衣装から見ても、1970年代前後を意図しているのだろうか。次々と変わる指導者、政治の変転、背後で常に進行する権力闘争、といったこの劇と現代政治の共通点を意識させようという演出だろうか。しかし、特定の国際情勢とか独裁者に結び付けるようなモチーフは見当たらず、その他でも特に新鮮さは感じられなかった。

ステージは、舞台の奥にひな壇のような観客席を追加して、演技する場所を前後からはさむような形にしている。ステージ上には、大きな長い机を2つ置き、その前に数脚づつ事務用椅子が置かれている。つまり会議室のような風景。王の椅子だけがやや大きくて肘掛がついているが、玉座と言えるようなものではない。現代の政府で閣議が行われる部屋、というところだろう。このセットはインターバルの後も全く変わらない。

特に奇抜なところのない、オーソドックスな演出だと思う。それだけに俳優の演技が重要と思うが、主演俳優の休演で、気の抜けた公演になってしまった。フリーマンが出ていたら、全く違った感想になったかもしれない。また、実質2時間半程度にカットされているせいだろうか、マーガレットやエリザベスなどの魅力的な女性の出番がいま一つ目立たないのが残念だった。但、私の好きな女優であるGena McKeeには満足。BuckinghamのJo Stone-Fewingsは印象に残ったが、残りの貴族の男性たちは、十分に特徴が出ていなかった気がする。ケイツビーやティレルもさほど凄みはない。リッチモンド役は元々は、今回主役をやったPhilip Cumbusがやっていたので、アンダースタディで、これも影が薄かった。やや驚いたのは、リチャードが自らLady Anneを殺したこと。