2010/12/30

"Glass Menagerie" (2010.12.29, Young Vic Theatre)

AmandaとLauraに感動
"Glass Menagerie"



Young Vic公演
観劇日:2010.12.29  19:30-22:10
劇場:Young Vic

演出:Joe Hill-Gibbins
脚本:Tennessee Williams
セット:Jeremy herbert
照明:James Farncombe
音響:Mike Walker
音楽:Dario Marianelli
振付:Arthur Pita



出演:
Leo Bill (Tom Wingfiedl)
Deborah Findlay (Amanda Wingfield)
Sinéad Matthews (Laura Wingfield)
Kyle Soller (Jim, Tom's friend)


☆☆☆☆ / 5

多くの演劇ファン同様、私もテネシー・ウィリアムズが大好きだ。このシンプルな出世作も、本でも映画でも、そして勿論舞台で見られれば尚更、大変面白い。日本では、緑摩子と南果歩が出演した上演(1993年、シアター・コクーン)は大変感動した記憶がある。AmandaとLauraのふたりには、母娘関係のひとつのarchetypeが見られると思う。色々な人が、このような母、このような娘を自分の周囲に、そして自分自身の中に発見するのではないだろうか。

但、Williamsはキャラクターやステージの作り方がしっかり書き込まれているので、上演の個性を強く打ち出すのは難しいのではないだろうか。それ故、俳優の演技力が大事になってくると思う。

ところがこの上演は、しきりとプロダクションの個性を主張する。いや、主張しすぎてしつこく感じた。特に、大変大げさな、誇張されたTomの台詞回しはイライラした。如何に彼が自分の世界にどっぶり浸っているかをしめしているのだろうが。最後の、もっとも感動的でリリカルなモノローグなんか台無しになって、何を言ってるか分からないうちに終わってしまい、ガクッと来た。「終わりよければ」、ではなく、「終わり悪ければ」、である。また、しつこい、説明的な音楽が良くない。LauraとKyleが親しくなっているところで、センチメンタルなピアノ演奏をするなど、安手のテレビ・ドラマみたいな感じになった。ウィリアムズ作品は、そもそもセンチメンタルになりやすい弱点があるので、まずいと思う。余韻とか、叙情が消えて、騒々しいプロダクションになってしまった感じだ。そういうのをぶち壊すのが、この演出家の意図なのだろうか?

しかし、それでも脚本自体の素晴らしさがそうした事を補ってあまりあるし、さらに、Deborah FinlayのAmandaの演技は一級だ。特に、Tomがやって来た時に、まるでLauraではなく、彼女自身が主役になってしまうシーンなど、説得力たっぷり。但、私が見た夜は、彼女は明らかに風邪を引いており、声が枯れてきて、最後にはかなり疲れも見えたのは少し残念だし、可哀想だった。俳優さんにとって、今年のような寒い冬のお仕事は大変だ。Sinéad Matthewsは、Tom同様やや変わったLauraだと感じた。あまり弱々しくなくて、ガラスの動物のようなもろさ、という感じはしない。しかし、足の引きずり方からかなりひどい障害で、口を開くのにいちいち時間がかかり、言葉を絞り出すように話す様子といった特徴に、非常に頑なに自分の世界に閉じこもっていることが強調されていると思う。私はとても良いLauraだと思った。彼女はマイク・リーのお気に入りだそうで、ふたつの映画に出ている。私は、Gate Theatreで上演された、Frank Wedekindの"Lulu"で見たが、その時は劇自体がつまらなくてうんざりしたのだが、今回は劇が一級であり、彼女の実力が発揮されたと思う。

BBC One drama, "Accused" (全6話)

BBC One drama, "Accused" (全6話)

☆☆☆☆ / 5

11月から12月にかけて放送されたJimmy McGovern脚本によるドラマシリーズ(毎回、もう一人別のライターが加わり、2人による共同執筆のようである)。以前にも3話目までみたところで少しこのブログで触れたが、iPlayerでやっと全6話を見終えた。もう1回目は忘れてきてしまったのだが、覚えている印象だけもメモしておく。

内容は、Accused、つまり、告発された人々の話。殺人や殺人未遂等を犯した人を取り上げ、彼らがどうしてそういう事をするに至ったかを、夫婦や親子関係などの家庭生活や、アルコールやギャンブルなどの中毒、仕事のストレス、性、いじめ、その他の多面的な視点から、各回1回完結で取り上げる。

徹底的に憎むべき主人公で、救いようも無い犯罪者とか、職業的犯罪者は出てこない。初犯かそれに類した人で、その人の性格の問題や、環境、たまたま不幸な偶然などが重なって罪に落ちてしまった人が取り上げられる。しかし、その中でも、6話が、大きく分けて3種類に分けられるような気がした。

具体的には、その人の性格の弱さなどが、不運な条件と重なって犯罪に繋がってしまったケース:
1. Willy's Story
4. Liam's Story

もうひとつのタイプは、その人にはあまり、あるいは全く非は無いが、警察の捜査の不備(あるいは警察の腐敗や怠慢)、法や裁判の不備、そして周囲の無理解により、止むにやまれず、自分の人生や命をかけても殺人を犯すところまで追い詰められたケース:
2. Frankie's Story
3. Helen's Story

最後の2話は、本人達にも問題はかなりあったが、周囲の状況も非常に不幸なものであったケース
5. Kenny's Story
6. Alison's Story

2話と3話は、従って、かなり主人公に感情移入してみることが出来、1話と4話は、距離を置いて見る感じであり、5話と6話は、その中間か。ただし、1話と4話にしても、犯罪を犯すに至った子細が丁寧に描かれているので、ただひどい男だな、という印象ではなかった。

特に私は4話がとても記憶に残っている。Liamは慎ましい暮らしの、タクシーの運転手。奥さんは、難病患者であり、自宅介護が必要である。可愛らしく才能豊かな娘がおり、立派な私立学校に入れそうで、親子で面接に出かけたりしている。しかし、彼は、ギャンブル中毒で、いつもお金に困っており、子供が試験に受かってもプレゼントもあげられない。快復の見込みの薄い病気の妻の介護で、気持ちもふさぎがち。そう言う時に、たまたまお客として知り合った美しく若いキャリア・ウーマンに心を奪われる・・・。彼女に近づくために、彼は坂を転げ落ちるように、いかがわしい事を次々とやってしまう。見ていて苦しくなるような、気が滅入るドラマだが、しかし、大変説得力があり、勧善懲悪の犯罪ドラマとは違った面白さ。私は途中で、見たくない、と思って一旦見るのを止めたくらいだが、また見たくなって、iPlayerで最後まで見た。

2話のFrankie's Storyは軍隊における凄まじい虐めと、それを隠蔽する軍隊の体質を描いた作品。非常にパワフルで、エモーショナルなストーリーだ。しかし、この作品は、軍関係者や軍人の家族、そして多くの一般視聴者から非難の声が上がったようである。現在、アフガニスタンに兵士を送り、死傷者も次々と出ている国としては、軍をけなすようなドラマは許せないと思う人がいて当然だろう。しかし、数年前には、イギリス陸軍での重大な虐めの暴力事件も報道されている。軍隊というのは、典型的な縦社会で、職務も、謂わば敵に対する暴力をふるうことを仕事とする人の集まりだけに、こういう問題も起こりやすいのではないか。BBCでは、こうした苦情に対して、これはあくまでフィクションであると、正式に回答している


もうひとつ特に印象に残っているのは、3話のHelen's Story。彼女は真面目な小学校の先生で、彼女自身は問題の無い立派な人格と行いの人。愛する息子がアルバイト先の事故で無惨な死を遂げる。しかし、息子を雇っていた会社に対しては、全く責任が問われず、彼女は警察を動かそうとして、自分の足で事故の起こった背景を調べ始める。この主人公の場合は、視聴者はほぼ100パーセント彼女に寄り添って見ると言う風に物語が作られているので、興味の中心は、警察は彼女にどう対応するか、そして、最終的には、彼女の犯した罪が、陪審員によってどのような判断をされるか、ということである。

最後の回(6話)のAlison's Storyでは、仕事と家庭の板挟みでストレスがたまり、職場でとても同情して親切にしてくれた同僚の男性に惹かれてしまう既婚女性の話。そこまでは彼女にも多少の非はあるのだが、その後の夫の反応がひどい。しかも、警察官の義父が、その夫と一緒になって彼女を迫害し、視聴者の共感はAlisonのほうへ移ってゆく。

犯罪ドラマというと、リアリティーの無い娯楽作品(例えば、ポワロ・シリーズとか、Midsomer Murdersシリーズ)なども多く、それはそれでエンターテイメントとして楽しめるが、このシリーズは、あくまでも人間の煩悩や社会を描いたドラマ。主人公の行動を通して、イギリス社会のかかえる問題点や警察の腐敗、裁判の至らなさなども描かれて、考えさせられる。日本と比較して、イギリスは犯罪の件数も多いようだが、特に一旦火が付くと、暴力が凄まじい。ナイフ犯罪や、喧嘩や襲撃で人が殴り殺されたりする事件が多いという印象だが、そういう事を背景に感じた。

芸達者の主役、脇役がたくさん出ていて、その点でも楽しめるシリーズ。主な人としては次のような俳優がいる:
1  Christopher Eccleston
2  Mackenzie Crook, Benjamin Smith
3  Juliet Stephenson, Peter Capaldi
4  Andy Serkis, Judy Wittaker
5  Mac Warren, Andrea Lowe
6  Naomi Harris, Warren Brown

特に2話のJuliet Stephenson、4話のAndy Serkisなど、私には印象深い。

このサイトで、1話から順番に内容の説明がある。


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2010/12/24

イギリスの学生デモ/日本の大学の授業料の安さ


イギリスの学生デモ/日本の大学の授業料の安さ

(以下はしばらく前に書いたまま放っておいた記事で、学生デモについては古いニュースとなりつつあります。でも、それをきっかけに高等教育の費用の問題について、一市民として、また学生として、少し考えてみました。誤解等あれば、ご指摘いただければ幸いです。)

12月11日のロンドンの学生デモは大変な騒ぎになりました。そうなっても当然のような気がします。大量の若い学生、それも一部は入学前の高校生や、それ以外の若者も含んでいるわけですから、アドレナリン旺盛な一部が暴走するのは当然でしょう。また、元々この機会に便乗して、騒動を起こそうという、謂わば武闘派のグループや一種のギャングも幾らかいたようです。荒れた教室や、週末の夜、酒を飲み街角でたむろして騒ぐ若者と同じです。しかし、そういう人も含め、不況になって以来のイギリス社会で若者が感じている閉塞感、将来への不安、を、授業料値上げの問題が刺激したのだと感じます。若者の政治意識の高まりは投票という、政治家に都合良い手段ではなく、直接行動になりがちですね。極端に単純化すると、無関心か直接行動か、というのが若者の政治行動パターンですね。警察に届けたとおりに静かに街角を練り歩き、署名などを提出し、でも結局、警察に引率されて、遠足に来た幼稚園児みたいに解散し、大人しくお家に帰る、そして、法案は無事国会を通過する、というシナリオ通りだと政権側は都合良いでしょうけれど。

今度の大学の授業料値上げは、大学経営者や保守党の政治家から見るとやむを得ぬものでしょうが、消費者である学生やその保護者から見ると、どう見ても極端です。国が大学に交付する予算のうち、直接教育にかけられる予算(teaching grant)は80パーセント削減だそうです。20パーセント残っている分は、理系の実験実習などに使われるのでしょうか。費用のかからない人文社会の学生には援助が完全になくなると報じられています。つまり、国立でありながら独立採算に近づき、経済的には事実上私立大学と同じような状況になる、と非難されています。自分が教えて貰う費用については、完全に自分で払う、ということですね。多分、直接の教育支出以外、つまり、校地の取得、校舎の建設や維持、図書館等の施設の費用、大学全体の事務局の費用などについては、国の財政支出が零になるというわけではないのでしょうが・・・(どこで予算の線引きをするのか、私は知りません)。国庫からかなりの補助金を交付される日本の私立大学(大学によるが、概して、支出の10パーセント強)と比べ、どちらが学生にとっては得な計算になるのでしょう?少なくとも、日本の国公立大学と比べると、自国民の学生にとっては、日本のほうが大変お得です。イギリスの学生の教育には、理系も含め、平均して年7000ポンドかかると言われています。ということは、人文社会の学生はそれより大分安く済んでいるでしょう。授業料が6000ポンドから9000ポンドになると、人文社会の学生は実費以上に支払い、理系の学生の分を援助する計算になる可能性も出て来ますね。

ちなみに、日本において高等教育を受けている学生一人当たりにかけられている金額は、先進国の最低レベル、いや世界でまともな大学を要している国の中でも最低レベルとは、統計的に言われています。日本の大学は極端な安売りスーパー状態であり、安かろう悪かろう、という研究・教育内容ではないでしょうか。かけられている税金は少なすぎるし、私学の授業料もかなり安いと思われます。米国の私立大学の授業料は、農村部の小さなリベラル・アーツ・カレッジなどで250万円前後、東部の名門校などで、300万以上かかります。その位の費用をかけないとちゃんとした教育は出来ないと言う事なんだと思います。アメリカの私学の場合は寄付金収入や事業収入の比率が高いにも関わらずこのくらいの授業料は取るわけです。イギリスの大学の急激な授業料値上げ案も、国際的な高等教育の水準に遅れをとりたくないということの現れでもあります。特に英語圏では、若い才能の獲得や研究水準の維持などで、アメリカやオーストラリア、西欧諸国の一流大学との競争に直接さらされます。授業料に大幅に依存する日本の私立大学で、年間授業料が文系で100万円程度で済んでいるのは、国際的には異常なレベルです。日本の大学は、そもそも国際レベルの高等教育の競争の蚊帳の外にあり、脱落しているのを承知で安売りを行っているように見えます。多くの大学では、ちょっときつい言い方をすれば、大学レジャーランドと長年言われているような環境を作り、大量の学生を受け入れ、若者をあまり勉強させずに卒業させ、その代わり、安い授業料しか取らない、という状況でしょう。しかし、産業界同様、東アジアにあり、日本語という言語環境に守られて、一種の研究・教育鎖国状態に置かれていて、国も学生も研究者も低水準の教育・研究でも仕方なし、としているのです。産業界の「ガラパゴス化」と似た状況にあると言えるでしょう。

それでも私は、色々な弊害はあっても日本の大学の授業料が比較的安いのは良いことだとは思います。また、日本国内の経済事情や教育への国の投資等、色々な要素が重なって出来ている授業料の金額であり、やむを得ない面もあります。結果的に、日本の高等教育界の行っている選択は、レベルは低いが、多くの庶民にも手が届く高等教育、ということですね。但、そうした日本の高等教育の特殊性を多くの国民、いや大学関係者さえ十分に自覚していないように見えるのが気になります。結局、若者も他国の大学という選択肢をしっかり考慮しないまま、手近で比較的安価な日本の大学を選んでいるのです。英語圏諸国や、EU諸国の様に、授業料や言語において、互いの高等教育の垣根が低く、競争にさらされている国々と比べ、大学も島国で孤立しています。

(追記)西欧の大陸諸国の大学については、私は全く無知であるので、比較できません。ただ、未だに授業料が無料の国が多いのは知っています。しかし、これは、大陸諸国の税率が日米は勿論、イギリスに比べてもかなり高く、教育・医療・福祉等を通じ、高負担による高レベルのサービスが実現可能なのでしょう。しかしそれにしても、国民の半数以上が大学に行くような時代には、これらの国においてもかなり無理が生じているのではないでしょうか。講義室や図書館に入りきれない学生、少人数授業が少なく、学期末の試験やレポートで成績の全てが決まる日本式の授業形態などの弊害は、やはり起きているように聞いています。一方、これを補うためにフランスでは、エコール・ノルマルなどの少数エリート養成機関や研究だけを行う主として理系の研究所により、大学の不備を補っているのかも知れませんね。


"The Winter's Tale" (Royal Shakespeare Company in London, 2010.12.22)

BBCのコメディー番組、"QI"における被爆者の扱いについて読むためにこのブログに来られた方は、このページをご覧下さい

また、その後に続くふたつのポストで、抗議のメールを送りたいという方へのご案内もあります。

雰囲気溢れるセットと照明、Greg HIcksの名演
"The Winter's Tale"

Royal Shakespeare Company公演
観劇日:2010.12.22  19:15-22:30
劇場:Round House, London

演出:David Farr
脚本:William Shakespeare
セット:Jon Bausor
照明:Jon Clark
音楽:Keith Clouston
音響:Martin Slavin
振付:Arthur Pita
衣装:Janet Bench
人形:Steve Tiplady


出演:
In Sicilia:
Greg Hicks (Leontes, King of Sicilia)
Sam Troughton* (Polixenes, King of Bohemia)
Kelly Hunter (Hermoine, Queen of Leontes)
David Rubin* (Antigonus, a servant of Leontes)
Noma Dumezweni (Paulina, Wife of Antigonus)
John MacKay (Camillo, a courtier of Leontes)

In Bohemia:
Larrington Walker (Old Shepherd )
Guffudd Gryn (Young Shepherd)
Brian Doherty (Autolycus)
Adam Burton* (Florizel, Polixenes's son)
Samantha Young (Perdita, Leontes's lost daughter)
*印の配役は、当初予定の俳優が病気のため、代役。

☆☆☆☆ / 5

若い時、理性が働かず感情に押し流され、大変大きな失敗をしてそれを長く後悔し続ける。しかし、当人は晩年になって人生の機微を学び、またその人にひどく傷つけられた周囲の人々も、彼/彼女の若気の過ちを許す時がやってくる、いや、そう言う時がやってきて、円熟した幸福の時が訪れて欲しい・・・私の様に老境を迎えようとする者ならは時として思うことではないか。"The Winter's Tale"は1616年に亡くなったシェイクスピアが1610年に書いた劇。この劇の執筆後まもなく彼はロンドンでの活動を止めてストラットフォードに残していた家族と合流し、おそらく静かな晩年を過ごして亡くなる。そうした年代にあった彼の胸中を反映していたと思われるメランコリックな作品だ。

この劇を見た夜も、ずっとお腹の具合が悪くて、そわそわしながら見ていた。それにも関わらず、素晴らしい上演で、大変楽しめた。前半が終わる時の仕掛けには、体調が悪くてうとうとしていた私も本当に目が覚めた。後半の始め、七色のライトに照らされた樹にPerditaが登っているシーンも非常にきれいで、印象に残る。しかしその後、後半のババリアで、前半の終わりから引き継いだセットの残骸をそのまま使ってしまったのは、成功していないと思う。あれを使ってみようというコンセプトの意味は何となく理解出来るが、一旦片付けたほうが良かった気がするが・・・。お祭りのダンスはやり過ぎで、それまで保たれていたロマンチックな雰囲気がぶち壊しになり、いただけない。しかし、それを割り引いても、全体的に、セットや照明が大変充実した、"The Winter's Tale"らしいメランコリックな雰囲気溢れる舞台だった。コンスタントに奏でられる生演奏の音楽も効果的。

俳優の演技の良し悪しを判断する眼力は私には無いのだが、しかし、今回は俳優が3人も病気のために代役だったのは、不運だった。特に、ババリア王はDarrell D'Silvaではなく、先日見た舞台でRomeoを演じていたSam Troughtonに変わっていたのは残念だった。彼では終盤が、若すぎる。Greg Hicksは、ふさぎ込んだり怒ったりしている時の演技が、特に良い。”Lear"のコーディリア同様、Perdita役のSamantha Youngが、不思議な、所謂「天然」の雰囲気があって、私にはとても印象的だった。但、TelegraphのCharles Spencerの評では、彼女の台詞は聞いておられないひどさだとのことだ。Autolycusは魅力的な役柄だが、Brian Dohertyはその割には平凡な印象。Old Shepherdを演じたLarrington Walkerの田舎くささがとても良い。PaulinaのNoma Dumezweni、CamilloのJohn Mackayなど、要所を締める実力ある名脇役ぶり。HermoineのKelly HunterはHicksの相手役として、大変説得力ある感動的な演技を見せてくれた。

代役が多いにも関わらず、RSCのアンサンブルの実力を見せてくれ、またセットや照明、音楽なども素晴らしい一級の舞台だった。


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"Romeo and Juliet" (Royal Shakespeare Company in London, 2010.12.11)

BBCのコメディー番組、"QI"における被爆者の扱いについて読むためにこのブログに来られた方は、このページをご覧下さい

また、その後に続くふたつのポストで、抗議のメールを送りたいという方へのご案内もあります。

この夏のRSCの演目の中で最も好評を得た公演
"Romeo and Juliet"

Royal Shakespeare Company公演
観劇日:2010.12.11  13:15-16:15
劇場:Round House, London

演出:Rupert Goold
脚本:William Shakespeare
セット:Tom Scutt
照明:Howard Harrison
音楽・音響:Adam Cork
振付:Giorgina Lamb
衣装:Rachel Dickson
殺陣:Terry King

出演:
David Carr (Prince of Verona)
James Howard (Paris)
Forbes Masson (Friar Laurence)

David Rubin (Lord Montague)
Simone Saunders (Lady Montague)
Sam Troughton (Romeo)
Oliver Ryan (Benvolio)
Jonjo O'Neill (Mercutio)

Richard Katz (Lord Capulet)
Christine Entwisle (Lady Capulet)
Mariah Gale (Juliet)
Joseph Arkley (Tybolt)
Noma Dumezweni (Nurse)

☆☆☆ / 5 (3.5程度)

劇評や見た方の直接の感想を聞くと、この夏のRSCの公演の中では、最も好評を得た演目のようであり、期待して出かけた。しかし、どうもこの劇は私は面白いと思ったことがほとんど無くて、今回もやや退屈した。比較的オーソドックスな演出だが、演出家はRupert Gooldであり、彼らしい新鮮さは感じられた。

最初の殺陣やその後のアクション・シーンは、火や煙などを使って迫力があり、歴史的なコスチューム劇と、近未来SFのような、たとえば『ブレード・ランナー』的雰囲気を組み合わせ、迫力ある音響と共に、観客の注意を釘付けにする。ほとんどの人が黒い服、黒の背景、そしてRound Houseの黒い壁ーイタリアの都市国家の明るさではなく、まるで『マクベス』のスコットランドや、『ハムレット』のエルシノアのような不吉な幕開けだ。但、主役の2人だけがトレーナー、ジーンズ、バスケット・シューズなどの、現代の若者のカジュアル・ウェア。またふたりは美男美女でない庶民的な風采の若者、台詞もうたいあげないであっさりしていて、他のキャラクターとのコントラストが際立っていた。若い観客には大変身近に感じるかもしれない。しかし、彼ら2人自身は魅力に乏しく、悲劇のヒーロー・ヒロインに見えない。私には、彼らが台詞を言うシーンは退屈で、眠くなった。また、台詞の美しさで聞かせるシーンがほどんどない。むしろ、強い方言などをそのまま使わせて、シェイクスピアの台詞を身近にする(あるいは壊す)ように意図している感じがある(それが悪いと言うわけではないが)。下品なマキューシオと犬みたいなベンボリオのコンビの個性が際だっていて、印象的。キャピュレットは暴力的で、妻や娘に恐れられる家長。全体的に暴力が印象的なプロダクションだ。レディー・キャピュレットが最初に現れた時、妙に生々しい印象を与える。あたかも彼女自身がこれから男を誘惑しかねないような雰囲気。他のプロダクションでのコンベンショナルな母親像とは大変異なっていた。Friar LaurenceとNurseもしっかり個性が出ていて良かった。

最後、恋人達が亡くなった後に親たちやプリンスが現れた時、今度は彼らが現代服を纏っていて、世界が変わってしまったのを感じさせる。まるで、ハムレットが死んだ後にやって来たフォーティンブラスのように。

概して、コスチュームとかアクションとか、ステージ作りが目立った公演だった。

ロミオの俳優、Sam Traughtonは、名優David Traughtonの息子だそうだ。

ちなみに、BillingtonやSpencerは主役の2人の演技を絶賛している。Billingtonはこの夏に聞いたStanley Wellsとの対談でも、この公演をかなり褒めていたが、私は大して楽しめず残念。私の鑑賞眼が鈍いこともあると思うし、またそもそも、こういう若者の恋愛劇に内容として興味が持てないことも一因だろう。

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抗議のメール送信のお礼、及び再度のお願い

(BBCからQIでの山口さんの扱いについて正式の謝罪が出されましたので、私達の抗議の当面の目的は達成されたと思います。従って、これ以上抗議送付のお願いはいたしません。しかし、前後の経緯について調べてみたいと思われる方がおられるかも知れませんので、これらのページは、当面、このままにしておきます。)

前回、前々回のポストで、BBCの番組"QI"において、広島と長崎で2度の被爆をされた山口彊(つとむ)さんを冗談の種にした非礼と無理解について書きました。私の呼びかけに賛同され、抗議のメール等をBBCへお送り下さった方、ご協力ありがとうございました。こういう事は、多くの方がメール送ることで反応が違ってくると思いますので、まだの方で賛同される方は是非お願い致します。なお、前々回のビデオのついたポストを加筆修正し、ビデオの内容について簡単な説明をつけておきました。

また、英語が苦手でメールを送ることが出来ないと言う方がおられるかも知れないので、以下に簡単に要領をご説明します。

苦情の宛先はこちらです。手順をお知らせします。
1 真ん中より左のコラムの大きな青い字"Make a Complaint"の下の、"Email: send your complaint"をクリックすると新しい画面が開きます。
2 プルダウン・メニューの一番下の"Make a complaint" を選びます。
3 Nextをクリックすると新しいプルダウン・メニューが開きます。
4 以降、プルダウン・メニューで、順番にカテゴリー、視聴した場所、チャンネル等を選ぶ様になっています。Television--Outside UK--BBC Twoと選んでいき、Programme Title(番組名)は"QI"、そして放送されたのは2010年12月18日、イギリス式の順番では日本と逆の、18/12/2010です。苦情の種類はOffenseで良いと思います。Summary(要旨)は空欄でも構いません。苦情の本文は、もし英語の大変苦手な方は、例として次のような文を、ある程度単語を変えて書いていただけると幸いです:

As a Japanese citizen, I am deeply offended by this progamme, which used the extreme misfortune of the victim of the two atomic bombs, Mr Tsutomu Yamaguchi,  as a source of joke.

上記の意味は、「私は、原爆被害者の山口つとむさんの大変な不幸を冗談の種にしたこの番組に、日本人として、大変傷つけられました。」

以上、よろしくお願い致します。このことは、詰まるところ、イギリス人やBBCの問題である以上に、私達個々の日本人が、原爆という大量破壊兵器をどう考えるかということだと思います。

(追記)ブログをお休み中のはずが、この件で3回書くことになりました。しかし、一市民としての意見を、こうして色々な人に考えていただく場所があったことは良かったと思います。昨日劇を見に行ったりしておりますので、また改めて観劇の感想などでブログを再開したいと思います。

2010/12/21

QIにおける被爆者の心ない扱いについて(お願いも兼ねて)

(BBCからQIでの山口さんの扱いについて正式の謝罪が出されましたので、私達の抗議の当面の目的は達成されたと思います。従って、これ以上抗議送付のお願いはいたしません。しかし、前後の経緯について調べてみたいと思われる方がおられるかも知れませんので、これらのページは、当面、このままにしておきます。)

昨日のポストの続きですが、人気コメディー番組QIで被爆者を無神経に扱った件について、私はBBCに苦情を送りました。しかし私一人の声ではどうにもなりません。今後の為にも、同様に思われた方がおられたら、BBCに苦情を送りましょう。簡単な英語でも、間違いがあっても、充分です。要は日本人としてこのような被爆者の扱いに非常に傷ついた、ということを一人でも多くの日本人が伝える事だと思います。苦情を送るのはこのページからです。残念ながら、コメントを送る前の手順が、英語を読めないと分からないのですが、コメント本文は簡単でも良いと思います。英語を書くことがほとんどない方は、1,2行でも結構でしょう。"As a Japanese citizen, I am very offended by this programme."というような一言でも、たくさんの人が送れば、担当者が反省するきっかけになると思います。英語を日常使われない方の為に、次のポストで、より詳しい苦情の送り方についても書きました。

BBCでは苦情には返事をくれることになっているので、誰からも読まれないで放って置かれることは無いものと思います。担当者が、そういう見方もあるのか、と考える機会になってほしいと思っています。なお、私はこの他にこのような番組があって、私としては大変問題だと思ったことを、在英日本大使館、朝日新聞、日本被団協に伝えました。

また、私は現在Twitterをやっていないのですが、もしアカウントをお持ちの方で、私と同様に感じられた方は、TwitterでこのビデオのURLを流していただければありがたく存じます。少なくとも、文化相互理解の問題として、多くの方が考える機会になればと思います。

一般論として、イギリスでは王室を始め、どのようなことでもジョークの種にし、笑い飛ばすのが伝統であり、そうした「お笑い」に目くじらを立てるのは野暮なことと見なされると思います。イギリス人にこのことを話せば、「何でも笑い飛ばすのがイギリスのコメディの文化だ」という返答が帰ってくるかも知れません。しかし、どの国や文化にも、笑いの種に出来ないこと、してはならないことはあります。9/11とか、アウシュビッツ、ドレスデンの大爆撃などについて、イギリスのお笑い番組でネタにするでしょうか?あるいは、日本人が7/7のロンドン・テロの被害者とか、アフガニスタンで重傷を負ったイギリス兵の不運な偶然について、お笑い番組で取り上げ、笑い転げたら、イギリス人はどう思うでしょうか。今回の事は、東洋の、非西洋人、しかも通常何の文句も言わない日本人のことであるから、お笑い番組で取り上げることが出来るのだと思います。NHKのバラエティー番組で被爆者を取り上げて笑いの種にしてはならないでしょう。日本で許されないものは、欧米でもちゃんと抗議しないといけないと思います。まして、世界的に影響力のある公共放送のBBCですから。イギリスではこういう事は認められるかどうかが問題ではなく、詰まるところは日本人がこういう事を看過するかどうか、という私達自身の問題でもあると思えます。

2010/12/20

被爆者をコメディー番組で無神経に扱ったBBC

(BBCからQIでの山口さんの扱いについて正式の謝罪が出されましたので、私達の抗議の当面の目的は達成されたと思います。従って、これ以上抗議送付のお願いはいたしません。しかし、前後の経緯について調べてみたいと思われる方がおられるかも知れませんので、これらのページは、当面、このままにしておきます。)


今ブログは休止中のはずだが、これだけは書いておく。


12月18日夜、BBCの大変人気のあるコメディー番組“QI”を見ていたら,広島と長崎の原爆で二重被爆をした山口彊(つとむ)さん取り上げ、笑いの種にするシーンがあって絶句した。You-Tubeに既に載っている。これを載せたのはBBC自身であるから驚く(BBCがyou-tubeに載せた動画は削除されたので、他の方がアップロードして下さったものに差し替えました):






コメディーなので、言葉の上で、冗談の内容を理解するのが難しいが、面白いとしているのは、山口さんが広島と長崎の両方で原爆に遭うという、途方もない、世界一の不幸者(the unluckiest man in the world)であること。更にそのような二重の不運に遭ったにも関わらず生存でき、93歳まで長生きした、つまり非常に幸運な人(!)かもしれないと言っている。また、広島原爆があった直ぐその後に、長崎まで鉄道で行くことが出来たという当時の日本の鉄道の優秀さを自国の情けない鉄道事情に比較して笑ってもいる。従って、特に悪意のある冗談でも、日本人や被爆者を馬鹿にしているわけでもない。しかし、そもそも原爆という非人道的な大量破壊兵器の犠牲者をこのようなコメディーで取り上げること自体、許し難いことだと思う。まるで他の星で起こった出来事を語っているようだ。


山口さんは今年亡くなられたそうだ。Independent紙が詳しい記事を書いている。


この後に書いたポストもこのトピックに関連していますので、是非ご覧下さい。

2010/12/07

BBC FourでRupert Gooldの"Macbeth"放映、その他

今日はBBCの事について3つの話題。

GooldとStuartの"Macbeth"、テレビで放送

Chichester Festival Theatreで大変評判になり、ウェストエンドやブロードウェイでも公演したRupert Goold演出、Patrick Stuart , Kate Fleetwood主演の"Macbeth"が、12月12日日曜日午後7時半よりBBC Four(無料デジタル・チャンネル)で放映される。私は残念ながらアナログ・テレビしかないので、見られないが、近々iPlayerでも見られるものと期待している。当然ながら、これはDVD化されるだろうし、これだけ有名なプロダクションだから、日本語字幕版も出て欲しいものだ。

BBCの発表はこちら

BBCのUView Boxとは?

5日朝のAndrew Marr ShowでBBC会長のMark Thompsonが語ったところでは、来年中頃、BBCはUView Boxと呼ばれる機械を発売するそうだ。これはテレビとBroadband Internetをつなぐ機械のようであり、BBC iPlayerの内容、つまり過去の番組やその他のBBCの持つリソースをテレビでも視聴できるようにする機械らしい。値段は100-200ポンドの間とのこと。

BBC iPlayerが海外でも有料で利用可能?

BBC iPlayerはイギリス国内においてBBCの番組が放送された後、一定の期間パソコンでも視聴できるソフトウェアである。これは国内の視聴者料金を払っている人、例えば私(^_^)、の為のサービスであり、現在のところ海外では利用できない。しかし、Mark Thompsonによると、来年半ばから、海外向けのiPlayer、Global iPlayer、が利用可能になるそうである。最初は、アメリカで始められ、iPad用のバージョンかららしい(Wikipediaによる)。ただし、勿論それには無料というわけにはいかない。例えばドラマの1エピソードのついて最高で10ポンド(約1300円)程度の視聴料金を予定しているようだ。勿論日本語字幕などは付かないだろう。従って、料金設定にもよるが、余程イギリスのドラマやドキュメンタリーが好きな人や、仕事上、イギリスのエンターティンメントや文化情報等を必要とする人々以外には、あまり縁のないものとなるかも知れない。普通のドラマを英語で見るだけであれば、英語版DVDをAmazonなどで取り寄せた方が安く上がるだろう。主に、北米やオセアニアの英語国民向け商品と考えられる。英語版Wikipediaの'BBC iPlayer'の項を見ていただければ、末尾のほうに簡単な説明あり(見出しは、'Overseas Availability')。

放送ビジネスの国際化

Global iPlayerの登場について聞いていて思ったのであるが、長い目で見れば、世界のテレビ局、特に英語圏(そしてスペイン語、フランス語、アラビア語等も)のテレビ局は、これから一層世界全体の視聴者に向けてビジネスをするようになるのではないか。丁度、CNNやBBC、アルジャジーラ等がニュース局として世界中で商売しているような状況が、ドラマやドキュメンタリー、教養番組その他を含むテレビ番組全体で起こってくるのだろうと思える。こういう状況の中、圧倒的に日本語中心の日本のテレビ局は他国のテレビ局と比べ、ビジネスとしては大きな差がつくことになるだろう。丁度、携帯電話市場と同様の「ガラパゴス化」と言える。また、国際語を通じて、広い視野を持てる他の国々の人々と違い、常に翻訳に頼っている日本人の視聴者の多くは、政治や経済、学問、文化面で、今まで以上に国際的な常識から取り残されるだろうという気がしている。

(追記)上記の"Macbeth"は12月12日の放送後、iPlayerで見られるようになっている。


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2010/11/28

"The Train Driver" (Hamstead Theatre, 2010.11.27)

鉄道線路で心中した母子を悼む運転士
"The Train Driver"



Fugard Theatre公演
観劇日:2010.11.27 15:00-16:20 (no interval)
劇場:Hamstead Theatre

脚本・演出:Athol Fugard
セット:Saul Rdomsky
照明:Mannie Manim
音響:John Leonard

出演:
Owen Sejake (Simon [Andie] Hanabe, a grave-keeper)
Sean Taylor (Roelf [Rudolf] Visagie, a train driver)

(体調が悪く、集中出来なかったので、☆はつけません)

南アフリカ共和国で実際に起こった母子心中事件に基づいて、Fugardが書き、自ら演出した作品。貧民街で暮らす母子が絶望して鉄道線路で自殺する(これは過去のことで、ステージは描かれない)。その電車を運転していたRoelfはこの事件がトラウマとなり、ノイローゼ状態で、仕事も手につかない。彼はこの気持ちを何とか整理したいと思い、無名の死者が葬られている粗末な墓地にやって来て、そこの墓守、Simon、に自分の不満や苦しみを打ち明ける。Simonは南アフリカの大地にしっかりと根付いた不思議な包容力を持つ人物で、Roelfの頑なな心を徐々にほぐしていき、Roelfにわずかな救いの気配が漂ってくるが・・・。

体調が悪く、また前夜よく眠れなくて、半分くらいうとうとしてしまったので、劇を十分味わえなかった。大変残念。Fugardは一体何を観客に訴えたいのか、どうもよく分からないまま終わってしまった。自殺した女性の事は、貧しく孤独な人生であったのだろうが、所謂無縁仏で、ほとんど何も分からないので、イメージの結びようがない。Roelfはおそらく、自分が運転していた列車がひいてしまった女性がどういう人だったかよく分からないから、尚更悩んでいるようだが。ほとんどアクションがなく、Roelfのモノローグが延々と続き、ドラマとしては単調。外国語で、100パーセント理解出来ない私としては、台詞の細かいニュアンスをかみしめることも難しいが、台本を熟読すれば面白いのかも知れない。

しかし、2人の俳優の演技はすぐれていた。特にSimonを演じた黒人俳優、キラキラ輝く目と堂々とした巨体のOwen Sejakeの存在感は素晴らしい。アフリカの俳優には、例えばJohn Kaniのように、こういうずば抜けた力強さを放つ人が時々いる。荒涼として、カラカラに乾いた荒野そのままの墓地のデザインも良く出来ていた(どこか荒野に赴いたキリストを連想)。Hamsteadの張り出し舞台のシンプルなステージに役者が2人だけ。亡くなった女性や赤子のこともよくは分からず、Simonはどこか寓意的なキャラクター。そう考えると、つかみどころが無いのは、ベケットの劇を思い起こさせる。ベケット劇のような気持ちで向き合うと良いのかも知れない。

長いモノローグの多い台詞も、なかなか難しかった。もうちょっと集中出来ていれば、と悔やまれる。

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2010/11/27

"Men Should Cry" (National Theatre, 2010.11.23)

大恐慌期のグラスゴーの庶民の暮らしを描く傑作
"Men Should Weep"



National Theatre公演
観劇日:2010.11.23 14:15-17:00
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Josie Rourke
脚本:Ena Lamont Stewart
セット:Bunny Christie
照明:James Farncombe
音響:Emma Laxton
音楽:Michael Bruce
方言指導:Carol Ann Crawford

出演:
Morrison family:
Sharon Small (Maggie Morrison)
Robert Cavanah (John Small, Sharon's husband)
Anne Downie (Granny Morrison, John's mother)
Pierce Reid (Alec Morrison, Sharon & John's son)
Sarah MacRae (Jenny Morrison, Sharon & John's daughter)
Morven Christie (Isa Morrison, Alec's wife)
Conor Mannion (Ernest Morrison,  Sharon & John's son)
Jayne McKenna (Lily Gibb, Maggie's siser)
Thérèse Bradley (Lizzie, John's sister)

Neighbours:
Karen Bunbar (Mrs Harris)
Lindy Whiteford (Mrs Wilson)
Isabelle Joss (Mrs Bone)

☆☆☆☆☆ / 5

1930年代のスコットランドの工業都市グラスゴーの労働者家庭の非常に貧しげな賃貸アパート(tenement)を舞台にしている。戦後すぐの日本で4畳半や6畳の下駄履きアパートに家族4人が住んでいた時代、小津の『東京物語』の世界を思い出させる。それでなくとも暗く寒いスコットランドの、多分レンガで作ったアパートであるから、寒く湿っていて、住環境として健康には大変悪い。隣の人のやっていることは筒抜け。上階に住む男性が酒を飲んで妻に暴力をふるう時の物音が聞こえたりする。しかし、もめ事もあるが、近所の人々と気取りのない暖かい助け合いもある。

Morrison家は大変貧しく、主人のJohnは失業状態で毎日職探しをし、日雇い仕事があれば出かける、という生活。やがて妻のMaggieが掃除婦(らしい?)などをし、わずかだが収入を得るようになる。子供は自宅に5人。更に独立し、結婚していた長男のAlecが、自分達が住む借家が壊れて行き場を失い、妻のIsaと共に転がり込んでくる。Isaは金持ちの男が見つかれば直ぐにでもAlecを捨てて乗り換えようとしており、Alecは嫉妬で半狂乱になり、度々暴力をふるいそうになるが、その一方で子供のように気が弱い。幼い息子のBertieは病で長く寝込んでいるが、病院に連れて行くと結核と診断されて入院。病状が持ち直しても、寒く湿った自宅に戻れば、また悪化するのは目に見えている。年頃の娘Jennyは華やかでお洒落なIsaに影響されて、惨めな両親との暮らしに我慢できなくなりつつある。Johnの母親は高齢で、身体が自由にならず、Johnのアパートと、彼の姉妹のLizzieの家をたらい回しされている。仕事が見つからず、一家の主人としての体面を保てずに自信喪失するJohn、家計の苦しさや子供の反抗、Bertieの病気に悩む妻のMaggie。更に、Maggieは仕事の見つからない夫に代わって外で働いても、家族は我が儘ばかり言って、彼女に頼りこそすれ、助けても同情してくれもしない。疲れ切って帰宅すれば、部屋は朝食を食べた後の汚れた食卓のまま片づいてもいない状態。都市の話ではあるが、アイルランドの寒村を舞台に貧困のどん底に沈む姉妹の家庭を描いたBrian Frielの"Dancing at the Lughnasa"を思い出した。しかし、Frielの作品同様、この劇はただ陰鬱な、資本主義社会の残酷さを告発する左翼的な劇ではない。庶民、特の女性達の生命力の強さ、家族や隣人が助けあい、共にしぶとく生き残って人生を楽しみたいという意欲を描き、観客に生きることの素晴らしさを生き生きと伝える。悲惨な生活の中に、ユーモアや人情の温かさが散りばめられて、スコットランドの暗い冬の暖かいかがり火のような輝きを放つ。女性作家が書いたためだろうか、とりわけ女性達の描き方が秀逸。小さな子供も、若い娘達も、Maggieをはじめ中年の「おばさん」も、口うるさくてお節介な「オールドミス」の叔母さんのLilyも、歳取ってボケかけたおばあちゃんも、皆血の通った魅力的なキャラクターだ。

ただし30年代のスコットランドで、しかもあまり教育を受けていないワーキング・クラスの人々の会話であるから、大変英語が難しい。私は、観劇前に脚本を半分程度読んでおいたが台詞は3割くらいしか聞き取れない。しかし込み入ったプロットの劇ではないので、何が起こっているかは大体分かった。

こういう劇は、貧しいアパートの雰囲気をセットで如何に出すかが大変重要だが、さすがにNational Theatreは費用もかなりかけられるだろうし、セット・デザインのBunny Christie (最近では"White Guard"や"Our Class"、"Women of Troy"など担当)はじめ、スタッフの技術も素晴らしい。俳優も皆文句なしだった。ただし、如何に上手に演じても、皆ドラマスクールなどで勉強したインテリだから、顔つきが上品でワーキング・クラスに見えないのは致し方ないか・・・。何人も出てくる子役達が実に可愛くて、劇に優しさを与え、その魅力を増していた。

現代のイギリス人劇作家が、カウンシル・ハウジング(低所得者向け公営住宅)に住む失業者家庭を描いたとしてもこれに似た劇になるかも知れないと思うほど、古さを感じさせない。しかし、よく考えてみると、この劇が書かれたのはJohn Osborneが"Look Back in Anger" (1956)を発表する10年近く前であり、ロンドンの演劇シーンでは、カワードなどのdrawing room comedyがまだ全盛の時代であるから、Stewartが如何に時代を先取りしていたかを感じる。しかも、"Look Back in Anger"は女性嫌悪の臭いを感じる人もあるが、この劇は、家族を、女性や子供を取り巻く状況から描いていて、大変人間味のある作品。そこかしこに見られるユーモアとともに、Brian Frielの傑作を想起させる。

作者のEna Lamont Stewart (1910-2006) はこの戯曲だけでしか知られてないらしいが、これ一本だけでも、スコットランド演劇史上、重要な傑作として残っていくのは間違いないと確信する。☆が5つというのは、私の好きなタイプの作品であることも影響しているが、誰が見ても素晴らしい傑作と思えるだろう。 もともと1947年にGlasgow Unity Theatreの為に書かれ、上演された。大変好評で、エジンバラ、そしてロンドンの劇場にトランスファーされる。しかし、その後、作者が女性であったために差別されたのか、スコットランドの演劇エスタブリッシュメントに完全に黙殺された。Stewartは作品の発表の道を閉ざされ、また、この劇も、イギリスの演劇シーンから35年間もの長い年月、完全に忘れ去られる。1982年、彼女が72歳の時になってグラスゴーで再演され、やっと彼女の真価が認められたようである。

脚本を読むだけでもかなり面白いので、演劇好きで、英語の読める方にはお勧めししたい。出版社はSamuel French。但、英語は、スコットランド英語のphonetic spellingであるので、かなり手こずる。例えばこういう感じ(以下は息子のEdieにシラミ(1行目のthem)がいるかどうかという話):

Edie: Mary Harris has got them, so she has. Teacher says so.

Maggie: Mary Harris! And her up this very close! Jist wait till I get the haud of that lazy mother o hers, I'll gie her a piece o my mind. Listen you tae me, Edie, there's tae be nae mair playin wi Mary Harris till she's got her heid cleaned. We've no very much this side o repectability, but there's aye soap and water.

Lily: Tae look at her, ye wouldna think it.

Edie: I wis playing in the back coort.

Maggie: Nae back-chat. Get oot the soap and flannel and dae yer neck in case the teacher taks it in tae her impident heid tae look the morn.

以上、綴りの打ち間違いをしないように気をつけました。写真はMaggie (Sharon Small)とJohn (Robert Cavanah)。


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2010/11/22

チョーサーを学び始めた頃

(昨日のエントリーに続き、学会に行って感じたことをMixiに書いたので転載します。)

昨日の学会で発表をした人に、Queen Mary, University of LondonのPh.Dの院生がいたが、チョーサーのテキストの引用を音読する時、ちゃんとMiddle Englishの発音で読んでいた。当然のことなのに、これがイギリスでは意外とめずらしい。彼の指導教授は有名なProfessor Julia Boffey。テキストの編纂などもして語学にも詳しい人だと思うので、ちゃんと発音も教えるのでしょう。こちらの中世英文学の先生は、MEも現代英語みたいに読んでしまう人が結構多い。でも現代英語にない語彙もあるし、綴りや屈折が甚だしく違う言葉もあるので、何だかごちゃごちゃした音読になり、詩としては体をなさないし、専門家としてそれではよろしくないと思う。それなら最初から現代英語訳か、綴りをモダナイズしたテキストを使えば良い。15世紀の過渡期となると、現代英語読みで済ませるのが良いかどうか、意見は分かれるかも知れないが。

それで感じたのだが、英米では分かって当然と思われているので、チョーサーなど中英語文学をやるのに、ちゃんと発音や文法を教えないことが多い。私がアメリカでチョーサーを習った時もそうだった。John Fisherの'Complete Poetry and Prose'を教科書に使っていたが、教科書には文法説明は表紙の裏にちょっと書いてあるだけ。各ページに語注がついてはいるが、グロッサリーは貧弱で、丁寧に理解しようと思うと分からないところだらけ。1回目の講義で簡単に音読の練習をやったら、すぐに文学的説明に入ってしまい、その後語学の解説は一切なしだった。その後、中世演劇を履修した時は、Bevingtonのアンソロジーが教科書だったが、あの本は、語の意味が横にちょっとあるだけで、グロッサリーもなかったと思う。だから、文学的な事は理解出来ても、英文の意味が分からないところが実に多いままでコースが終わってしまった。劇は中部か北部方言だし、Towneley Cycleなんか、かなり難しいところもあるのに。まあ、授業ではそういう細かい意味や古い言葉のことなどには、拘泥しないんだが、中世文学を学ぶのにそれでいいのか、とずっと思っていた。しかも、そういう授業だったのに、卒業試験の時には、チョーサーのテキストが少し出て、現代英語訳を書け、という問題だった!

一方文学としての解釈も、当時のアメリカでは、D. W. Robertson Jr.などに代表されるキリスト教的解釈が圧倒的な勢いで、私が習った先生の解釈も極めてキリスト教的であり、チョーサーは神父様か神学者かと思えた程だった。私は初心者ながら、何かおかしいと感じていたようだが、あの手の解釈がはっきり変だと感じるのには、その後長い時間を要した。ただ、「学部の授業では批評は読まなくて良いから、とにかくテキストを繰り返し良く読みなさい」、と教えてくれたのは、良かったと思う(私は院生だったが、チョーサーは学部の授業を取っていたので)。結局、中世文学に大変関心を引かれたのにも関わらず、基本的に読みこなすことも出来ないままになってしまった。

日本に帰ってきて、日本の大学院に入り、Sisam ('Fourteenth Century Verse and Prose")やBennet and Smithers ('Early Middle English Verse And Prose') を教科書として、語学的に細かくテキストを勉強して、やっとMEを正確に読んで意味を取ることことが出来、少しは分かったという自信もついて、胸のつかえが取れた。正確に言うと、自分で分かるところ、分からないところ、難しいところが判断できるようになった、と言えるだろう。また、小野茂・中尾俊夫、Mosse、Wright、その他スタンダードな中英語の文法書を読んで、やっとMEの構造が素人なりにも理解出来るようになってきた。その一方で、言語としての分析ばかりで、文学作品としての解説はほとんど受けなかったので、philology(史的言語学)の先生に教わった文学志向の学生には不満が残るだろうと感じた。私は文学的な事はアメリカで一応基礎をやっていたので、あとは自分で勉強する事が出来たが。

一般的に言って、日本の大学でチョーサーを習っている人は、和訳しつつでゆっくりとしか進まず、説明は語学的なことばかりで退屈に感じるかも知れない。英語圏諸国の大学で学んでいる人は、ネイティブに合わせた授業なので、日本人には、中英語そのものがかなり分からないままなのに授業はどんどん進み、フラストレーションが溜まるだろうし、試験やレポートが書けるか、常に不安がある。細かい英語の理解と作家・作品を見渡しての文学的解釈の両方が必要なんだが、バランスを取るのは難しい。ただ、これはどの科目でも言えるのだが,大学の授業はイントロダクション。授業が終わってから、深く理解したい本は、自分の足取りに合わせて、もう一度読んだり、調べ直したり、自分でやるほかないと思う。

と言うようなことを、昨日の発表を聞きつつ感じたり思い出したりしたので、書いてみました。ちなみに、チョーサーの作品をたくさん読む時に良い本というと、私は、A. C. Baughの'Chaucer's Major Poetry'が好きだ。かなり親切なグロッサリーや文法説明があり、註は脚注で参照しやすい。やはりこういう本は、昔の、フィロロジーの訓練を受けた大学者のエディションが信頼が置ける。

日曜とは言え、こんな駄文を書いている閑があれば勉強すべきなんだけど、ついつい・・・。大いに反省中 (^_^;)

(追記)Mixiで私の記事にコメントを書いて下さったチョーサー研究者の先生によれば、日本では近年チョーサーの若手研究者が減っているとのこと。確かに、学会のプログラム等を見ると、そういう印象だ。若手の人を育ててきたチョーサーの大家が段々と現役を引退されたり亡くなったりして、後進の研究者が育たず、いつの間にか寂しい状態になってしまったのだろうか。著名な先生の退職と共に、中世文学の先生のポストが廃止された大学もあるし、そもそも英米文学科がなくなることも長らく続いているから当然か。残念。シェイクスピア研究者は沢山いるんだけどなあ。この先生によると、近年は割合マイナーな作品を取り上げる研究者が目立つとのこと。その方が国際的にも通用する論文を書けるためだろうか。"Piers Plowman"なんか、本格的に研究している人は、現役の先生では3人も居ないだろう(間違っていたらすいません!)。実は私は一人しか思い浮かばない。あれだけの傑作なのにね。一方で、初期印刷本や写本の研究は大変盛んになった。これは大事な事だと思うが、しかし、チョーサー、ラングランドというイギリス中世文学の大作家の作品を文学作品として研究する人が少なくなって良いわけがない(と思いたい)。しかし、古英語、中英語の語学研究では、日本の学会で養われてきた伝統は綿々と続いて、立派な研究者を輩出しているので、喜ぶべき事と思う。


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2010/11/19

おめでとう!Takaoさんが博士論文を提出されました。

ブログで知り合った友人、ブラッドフォード大学博士課程のTakaoさんは、しばらく前に口頭試問も一発で合格して、11月17日にはめでたく博士論文を提出されました。私も同じく博士課程にいるので、大変嬉しいです。おめでとうございます!

彼のブログに提出された論文の写真が載っていたのですが、もの凄いボリューム。凄いなあ、と改めて感心! 劣等生の私は、つい「こんなの私が出せるかしら? 多分駄目だわ」、なんて、思ってしまいました。でも、大学からもう駄目って言われるまでは、だらだらやって、自分からは諦めませんけどね。

私は彼のブログを、留学について色々調べていた2年以上前から読み始めました。彼は毎日(!)日記形式で更新し、写真もたくさんあります。私にとってはそれを読むのが日課になり、勉強や雑事の合間にTakaoさんのブログを時折チェックする、ということが良い気分転換になっています。他の方のコメントを読むのも面白いですね。自然と彼の暖かい人柄が伝わり、こちらの気分もほぐれます。同様に、彼のブログを楽しみにして、毎日愛読している人は、沢山いるでしょう。Takaoさんのようにブログを頻繁に更新する筆者と、それをかならず読む読者とは、たとえ会ったことが無くても、そして一方通行の場合も多いですが、不思議な心の繋がりが出来る気がします。私も彼の努力を見て、勉強の動機づけにになる感じです。向こうは迷惑しているかも知れませんが (^_^;

Takaoさんの学位取得は大変お目出度いですが、日本に帰国されれば、今の形の留学生ブログが続けられないかも知れないのはちょっと寂しいです。しかしイギリス国内に就職される可能性もあるようなので、そうなるとこれからも楽しみに出来るかも知れませんね。その場合、私は嬉しいけれど、息子さんの帰国を楽しみにされているだろうご両親がちょっと可哀想ですが・・・。まあ、どこにおられても、大変忙しくなっても、週に一回程度でも何か書いていただければ愛読者としては嬉しいですね。


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2010/11/15

"Piers Plowman"とイングランドの福祉改革:"the Undeserving Poor"の概念

自分の研究に関係があり、最近はずっと"Piers Plowman"(『農夫ピアズの夢』)をあちこちピックアップして読んでいる。14世紀のウィリアム・ラングランドによる英文学作品。チョーサーの"The Canterbury Tales"と並ぶ、中世英文学の後期を代表する傑作とされている作品だが、長いし、英語もチョーサーよりかなり難しく、遅々として進まない。しかし、面白い作品だし、私はチョーサーより好きかもしれない。でも長大な作品で、通してちゃんと読んでなくて、あちこち必要に応じて読むので、大きなことは言えません。

今面白く思っているのは、この作品には、the deserving poorとthe undeserving poorの概念がかなりはっきりと現れているように見えること。英文学では、この時代が始めてではなかろうか(ご意見のある方、コメント下さい)。the deserving poorとは、情けを与えられるに値する、つまり社会から保護されるべき貧乏人で、当時は身体に障害のある人とか、助ける人のいない未亡人などが典型的な例としてあげられている。その一方、the undeserving poorとは、働けるにも関わらず、楽して、怠けて働かない者、特にずるをして施しを受けたりしている者はラングランド作品でも特に厳しく非難される。五体満足なのに働いていない乞食や浮浪者を指すが、更に、施しで生計をたてる職業的巡礼者、あちこちで求められて儀式を執り行ったりして小銭を稼いで渡り歩く、所属する教会の無い乞食坊主、見習い僧侶や托鉢修道士、下世話な物語を語ったり曲芸などを見せて日銭を稼ぐ芸人(ミンストレル)なども含まれる。封建制度の騎士、聖職者、農民、という3つの大きな身分(the three estates)の中にしっかりとおさまりきらない連中は、働いていても、the undeserving poorにくくられることが多い。働かざる者、食うべからず。軽々に他人様の施しにすがってはならん、というわけ。でも、14世紀末でも、働きたくても仕事が無かった人は山ほどいた。チョーサーの描くオックスフォードの学僧も、今のポスドクみたいに、学問だけは積んではいるが、ちゃんとした仕事は見つかっていない。このthe undeserving poorの考え方は、チューダー朝時代になると一層強まり、浮浪者をかり集めて強制収容所に入れて、強制労働を課すという政策も試みられるようになる。ブライドウェル矯正院(ブライドウェル監獄、と呼ばれることもある)はその典型。産業革命の時代を経て、ビクトリア朝へと、この考えは綿々と受け継がれる。

さて、現在のイギリスの政権党、保守党では、前の党首であり、党の重鎮のジョージ・イアン・ダンカン・スミスの発案で、大幅な福祉制度の見直しが始まりつつある。その重要な柱は、失業者を大幅に減らすために、失業者のうち、職探しをしていない者や職業を斡旋されてもそれを受け入れようとしない者には、強制的に道路清掃などの仕事を週4日程度自治体がやらせる、そして、それをやろうとしない者は、失業手当の支給を最高で3ヶ月間カットする、という制度。実際は、かなり多岐にわたる改革であり、また、現場では、このような懲罰的な(?)労働を課せられる人や手当をカットされる人は大変少ないと思われる。細かくはBBCのこちらのページを参照して下さい

イアン・ダンカン・スミスがテレビなどで繰り返し主張しているのは、何年も十何年もに渡って,失業したままの人、親も兄弟も働いていない家庭など、働く文化や労働倫理の基本を見失っていた人には、まずは仕事を与え、働く習慣を植え付けることが大切だ、そして福祉行政に、経済的にだけではなく、精神的にも依存する人々を減らさなければならない、という基本的な考えだ。社会福祉が日本よりは手厚いイギリスでは、福祉依存の問題は広く国民に共有されており、今回の改革は、国民の7割以上の支持を集めていると見られ、労働党支持者も過半数が賛成しているという世論調査もある。

しかし問題は、現場での実施段階において、かって日本の自治体で生活保護受給希望者をできるだけ窓口で追い返したように、働かざる者食うべからず、という懲罰的な面が強調されないかということだ。イギリスでも、斜陽の鉱工業都市などで、働きたくてもどうしても仕事が無い地域は山ほどある。もともと単純な肉体労働をしていたワーキング・クラスの人が大多数の都市で、町の主な企業が潰れたら、どうなるだろうか。その時に40歳、50歳で、学齢期の子供、介護の必要な親、そして家のローンを抱えた人は、若い労働者と違い、ロンドン近辺に職を求めて引っ越すことも出来ない。また、働けない人の中には、鬱病などの慢性的な障害や病気を抱えた人も沢山いるが、これらの病気や障害については、どこまでが「働くことが可能か、不可能か」の線引きが難しい。障害者団体などから、既に不安の声が上がっている。

確かに福祉への依存は、その人や家族を負のスパイラルに投げ込むことが多いだろう。何年、何十年も働かないまま、家に閉じこもっている大人は、牢獄に入れられたようなものであり、それ自体、一種の懲罰である。しかし、the undeserving poorの考え方は、一歩間違うと、働かない者は理由の如何に関わらず食うべからず、という強者の論理になりかねない。アメリカのTea Party Movementの連中など、そういう事を唱える人もいる。というのは、福祉制度を基本的に全廃しようというのだから。

さて日本ではどうか。西欧に比べると、もともと福祉が手厚いとは言えない国だが、不況の今、生活保護の不正受給を非難する声は以前に増して強まっているのではないか。その向こうには、小さなパイを争って取り合う国民の姿が透けて見える。ふと、以前、東京のバスか電車の中で見た親子連れの会話を思い出した。幼児が若いお父さんに、道端の浮浪者のおじさんは、何故あんなところで暮らしているの、と尋ねていた。そうすると、そのお父さんは平然と、「あの人達は、あれが好きなんだよ」と答えていた。ふ〜ん・・・。


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2010/11/14

"Blood and Gifts" (National Theatre, 2010.11.13)

アフガニスタンでアメリカがしてきたこと
"Blood and Gifts"



National Theatre公演
観劇日:2010.11.13  14:15-17:00
劇場:Lyttleton, National Theatre

演出:Haward Davis
脚本:J T Rogers
セット:Ults
照明:Paul Anderson
音響:Paul Arditti
音楽:Marc Teitler

出演:
Lloyd Owen (James Warnock, a CIA operative)
Matthew Marsh (Dmitri Gromov, a Soviet operative)
Adam James (Simon Craig, an MI6 operative)
Demosthenes Chrysan (Abudullah Khan, an Afgan warlord)
Philip Arditti (Saeed, a subordinate of Khan)
Gerald Kyd (Colonel Afride, a Pakistani colonel)
Duncan Bell (Jefferson Birch, an American Senator)

☆☆☆☆ / 5

アメリカの劇作家J T Rogersが、昨年、ロンドンのTricycle Theatreで上演され、好評だった新作劇に加筆して、ナショナルとリンカーン・センター(ニューヨーク)で上演されることになったそうである。1981年から10年間のソビエト軍が侵略した時代のアフガニスタンにおけるCIA、そしてアメリカの果たした役割について描いている。アフガニスタンの戦争が終わっていない今、こういう難しいテーマを、イギリスの左翼劇作家が書いたのならともかく、アメリカ人が正面から批判的に取り上げただけでも、非常に素晴らしいことだ。演出はHoward Davis、演技人も素晴らしく、充実した台詞劇として、演出と演技は申し分ない。ただ、台本の内容は現在のアフガニスタンの戦争に繋がるだけに、ちょっとひっかかるところがある。しかし、日本人も含め世界中の市民ひとりひとりにとって重要な問題を真面目に考えさせてくれるこの作品は、大変価値のある試みであり、色々な劇団にやって欲しい。

主人公のJim WarnockはCIAの現地責任者で、パキスタンとアフガニスタンに駐留して、パキスタン軍の司令官Colonel Afride、そして、アフガニスタンの反ソビエト・ゲリラ(ムジャヒディーンと呼ばれていた)の指導者のひとりAbdullah Khanと交渉し、ソ連軍をアフガニスタンから追い出すことに奔走する。彼の活動がひとつの山場に達するのは、スティンガー・ミサイルをゲリラ軍に供与することをアメリカの政治家に説得する時だ。

パキスタンの軍人も、現地のアフガニスタン人ゲリラの頭も、一筋縄ではいかない。それぞれ計算高く、自分達の都合の良いようにアメリカの武器援助を利用しようとする。CIAの一員である主人公にとっては、最終目的はソビエト軍を追い出し、この地域に"freedom"をもたらすことであり、それに私生活を犠牲にして情熱を注いで休むことがない。色々なプレイヤーの打算がぶつかり合う中で、結局ソ連軍を追い出すという目的は達せられた。CIAもソ連軍も去っていったが、アフガニスタンには平和が訪れることはなく、ゲリラのAbdullah Khanと彼の部下達は、かっての敵と結び、イスラム武闘派となって、新たな戦いに明け暮れる結末。つまり、ソ連とアメリカがかき回した後には、9/11の前のアフガニスタンが残ったわけである。

致命的な問題点があると思われる劇だが、しかし、1つの点だけは素晴らしい。それは、現在のアフガニスタン戦争は、80年代のCIAの介入の延長であり、アフガニスタンをタリバンなどの過激なイスラム化に追いやり、更にアラブの多くの外人部隊が入るきっかけを作り、アルカイダ、そして9/11のテロの土壌を作ってしまったのも、アフガンのゲリラにソビエトと代理戦争をさせたアメリカのアフガン政策の過去がかなりの原因になっていると言うことが、この劇を見てよく分かった。

その一方で、明らかに気になることもある。主人公のCIAの現地チーフWarnockは、あまりにも立派な男に描かれ過ぎている。地域に"freedom"をもたらすという理想を追って頑張ったヒーローみたいにも見えるが、多くのアフガニスタン人からすると、ありがた迷惑、とんでもないことだろう。彼の理想はアメリカの価値観の押しつけだったかもしれない、と劇は指摘しているのは分かる。しかし一方で、Warnockは彼の理想を信じて良心的に頑張った、と肯定的であり、インディアナ・ジョーンズ的な、未開の国で頑張るアメリカン・ヒローの臭いもする。また、アフガニスタン人ゲリラのキャラクターは、アメリカン・ポップスに夢中だったりとコミカルに描かれていたり、ステレオタイプであったりして、血肉が通っていない。あくまでアメリカ人の目から見た現地ゲリラ。私もアフガニスタンについて知っているわけではないけれども、アフガニスタン人の事をよく調べていない、現地でのリサーチが足りない、という感触を持った。全体としては、外国を描いたハリウッド映画等と同じで、良心的ではあっても、現地の人々に寄り添い、欧米の尺度をはみ出した描き方はされていない。あくまでもアメリカのリベラルな作家の視点から自国の果たした役割を検証した劇であり、アフガニスタンの人々の視点が十分には入っていないと感じた。無いものねだりのような気もするが・・・。

既に書いたように、演技人は素晴らしかった。主役のLloyd Owenに加え、イギリス人の諜報部員(MI6)のSimon Craigを演じたAdam Jamesの熱演が大変印象的。老獪なソ連の諜報部員Dmitri Gromovを演じたMatthew Marshも深みある演技。

キャラクターの掘り下げ方が足りない点、アフガニスタン人の視点が弱い点などが気になった台本だが、難しい素材に取り組んだ貴重な現代劇であることに変わりなく、また演技や演出の力量は圧倒的だった。テキスト重視のストレート・プレイをやらせたら、Howard Davisを超える演出家はなかなかいない。

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2010/11/11

"Saturn Returns" (Finborough Theatre, 2010.11.10)

一人の男性を三つの年代で描く
"Saturn Returns"

Treasuretrove Productions in association with Neil McPherson
for Finborough Theatre




観劇日:2010.11.10 19:30-21:00 (no interval)
劇場:Finborough Theatre (Earl's Court, London)

演出:Adam Lenson
脚本:Noah Haidle
セット、コスチューム・デザイン:Bec Chippendale
照明:Chris Withers
音響:Sean Ephgrave
作曲:Richard Bates

出演:
Lisa Caruccio Came (Suzanne / Zephyr / Loretta)
Richard Evans (Gustin Novak at age 88)
Nicholas Gecks (Gustin Novak at age 58)
Christopher Harper (Gustin Novak at age 28)

☆☆☆ / 5

作者のNoah Haidleはアメリカの新進劇作家。リンカーン・センターなどで劇を発表して、好評を博しており、今後が大変期待されている人らしいし、この劇でもその才能がうかがえる。この劇を見た限りでは、若い劇作家には珍しく、個人の内面や家庭の問題を描く、クラシックな雰囲気を持つ台詞劇の作風。

劇場のホームページによると、"Saturn Returns"という題名は、土星は30年毎に、ある人が生まれた時にあった宇宙の同じ位置に戻ってくるという事に由来している。そして、この30年毎の土星の回帰と共に、大きな変化がその人に訪れるそうである。勿論これらは近代天文学によるのではなく、占星術の考え。

この劇は、主人公でレントゲン技師のGustin Novakの88歳の現在の彼に始まり、30年前の、所謂熟年、いや初老(と言うべきか)の彼と娘、そして、愛する妻との結婚生活を楽しんでいる60年前の彼の姿へとさかのぼって進行する。更に、30年前の彼の回想シーンには、今の彼自身が出て来てコメントをする。60年前のシーンでは、老人の彼に加え、更に58歳の彼も出て来て、3つの年代のGustin Novakが対話するという形式を取る。なかなか興味深い工夫であり、それだけでも一見の価値がある劇だ。Novakの3つの年代を、それぞれ別の男優が描くのに対し、彼の妻、娘、そして88歳の彼を往診に来た看護婦の3人は、Lida Caruccio Cameが一人三役をこなす。これは、母と娘は似ており、また、看護婦もNovakから見ると、娘に似ていた、という設定の為でもある。Novakにとっては、妻と娘が彼の人生の全てであり、物語は死の近づいたNovakにとっての二人の女性への愛惜の情を描いたものである。

劇はNovakの家に看護婦のSuzanneがやって来て、血圧などを測って問診しているところから始まる。Novakはお金を払ってわざわざ彼女を呼んだのだが、実はどこも悪いところはない。彼は非常に孤独な暮らしをしており、誰とも一言も口をきかない毎日を過ごしていた。やってきた看護婦のSuzanneに娘の面影を見た彼は彼女に大変親しみを覚え、またSuzanneも彼の孤独な暮らしに同情して聞き役に回り、彼は色々と身の上話を始める。そうして、30年前の彼、60年前の自分へとさかのぼっていくことになる・・・。

現在の年老いた彼の部分がとてもユーモラスで、笑いに包まれながらも同情や共感を誘う。彼は、これまでにも、誰かと話すためにどこも壊れてないのに配管工を呼んだりしているくらいだった。しかし、一方で自分の孤独な生活習慣に閉じこもり、勿論老人ホームなどには入る気は毛頭無く、趣味のサークルなどの集まりにも絶対に出たがらない。どこの国にでも良くいるタイプの頑固で柔軟性のない老人男性である。その傾向は既に58歳の時の彼にもあって、まるで依存心の強い子供のように一人娘にくっついて離れない。Haidleは若いにも関わらず、こうした年取った男性の描き方が特に秀逸だ。一方、それに比べると28歳の時のNovakはそれ程精彩がない。

俳優は皆上手で、特に88歳のNovakを台詞に込められたユーモアを生かして演じたRichard Evansと、3役を巧みにこなしたLisa Caruccio Cameが強い印象を残した。しかし、フリンジのプロダクションなので、やはり衣装やセットなどが安手で、雰囲気が上手く表現出来ていないし、時代の違いを示す工夫がないことが気になった。またHaidleの台詞は大変テンポの良い、しばしばユーモラスなダイアローグ中心だが、観客に向けてじっくり聞かせるようなところが少なくて、例えばAlmeidaなどで上演される同種のミドルクラス家庭の心理劇と比べるとやや深みに欠け、なかなか感動を呼ぶところまでには至らなかった。

とは言え、90分の短い劇ながら、かなり充実した佳作だった。Novakの老年は、娘や妻にくっついて、日常生活も心理的にもすっかり依存している日本人男性の多くにもあてはまりそうであり、私も笑ってばかりはいられない気持ちになった。


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2010/11/10

Sara Paretsky, "Bleeding Kansas" (2007)

アメリカの病巣をえぐるパレツキーの本格小説
Sara Paretsky, "Bleeding Kansas" (Hodder & Stoughton, 2007) 480 pages

☆☆☆ / 5

Sara Paretskyはシカゴの女性探偵V. I. Warshawskiを主人公としたシリーズで日本でも大変人気が高く、翻訳もかなり売れている。彼女は今回取り上げた2007年のこの作品まで、全ての長編小説がWarshawskiシリーズだと思うので、おそらくこれが最初の本格的な小説(間違っていたらすいません)。長年プランを温め、自分の出身地であるカンサス州の農村部を舞台に、アメリカ合衆国の心臓部(the heartland of America)に巣くう問題を描いた作品。文学作品としての深みにはやや欠ける気がするが、アメリカ社会の病理を描くリベラルな視点が、探偵小説以上に発揮されている。また、Warshawskiシリーズでもお馴染みの力強い、緊迫感あるシーンも随所にあり、楽しめる。

(要旨) 物語は、カンサスの田舎町Lawrenceの近くに慎ましい農場をかまえるSchapen家とGreiller家の二つの家族を中心に進行する。両家族共に、1850年代からこの地におり、南北戦争(1861-65)の前後には助けあって、奴隷解放勢力を加勢した歴史があり、Greiller家のリベラルな妻Susanはそれを誇りとしているが、一方、Schapen家は1970年代頃より極めて保守的となり、現在は原理主義的キリスト教の教会に属している。保安官補を務めるArnie Sharpenはリベラルな都会人を憎悪しており、一家の女主人とも言うべきArnieの母、Myra Shapenは、狂信的なタカ派の原理主義者であり、自家のウェッブサイトで、リベラルな隣人Greiller達を明に暗にこき下ろす。Arnieは妻に逃げられたが、二人の息子、高校のアメリカン・フットボールのスターで暴力的傾向のあるArnie Juniorと、この一家で唯一文化的で、詩を作り音楽を愛するRobbie、がいる。Greiller家の方は、穏やかで素朴な農夫のJim、進歩的で情熱的な妻のSusan、そして高校の人気者の息子Chipと成績優秀で、子供ながら細かい気配りも出来て何かと父母の世話をするローティーンの娘Laraの4人家族。

隣同士として農場を営む2家族は、常日頃からことごとく非常に考えが違う上に、Myra Shapenは攻撃的な性格で、何かにつけてGreiller家を挑発している。そういう一触即発の環境の中に、ニューヨークから反戦主義者で非キリスト教徒のGina Haringが引っ越して来る。Susanはそれまで自分が精魂込めて育てていた有機農場を放り出して、Ginaとイラク戦争反対の活動に奔走する。反戦活動に没頭して家庭を顧みない母に反発したChipはSusanと大げんかした挙げ句、家を出、皮肉なことに、軍に志願する。Ginaはその他にも、Greiller家に様々な波紋を及ぼして、一家はバラバラになりそうだ。また、そのGreiller家の危機にMyra Shapenがつけ込んで非難を繰り返す。そんな中、自分の家族に違和感を覚え続けていたRobbie ShapenがLara Greillerに恋心を抱いてしまったから、事は一層複雑になり、カンサスの田舎を舞台にした"Romeo and Juliet"のようなサブ・ブロットが現れる。

小説全体の筋書きの上でもうひとつの大事な要素は、Shapenの農場に生まれた赤い子牛が、ユダヤ・キリスト教の伝統において伝えられている「完璧な赤い子牛」 (a perfect red heifer) と目される、ということが一部のユダヤ教の聖職者によって言われたこと。これがマスコミで取り上げられ、Shapen農場は一躍、地域の話題の中心になり、かなりの富をもたらすと予想されることになった。しかし、私が宗教的なモチーフに理解が足りないせいかも知れないが、この点が、いまひとつ小説の主要な要素としては説得力に欠け、作品全体の力を弱めている気がした。

私はSara Paretskyの長編小説、及び短編集は、最新作の"Hard Ball"を除きほぼ全部読んでいるはず。いや3つ4つの作品は2度読んでいる。その位好きな作家。彼女の作品は、素晴らしく魅力的なヒロイン、V. I. と、主人公、および作者の社会正義への飽くことない探求、そしてシカゴというダイナミックな町とそこに住む人々の魅力に満ちている。今回はそのシカゴという背景も、V. I.も出てこず、従来のParetsky作品のファンにはちょっと拍子抜けするかもしれない。しかし、探偵小説のWarshawskiシリーズでは表現しきれないParetskyの社会派作家としての面が強く押し出された秀作である。とりわけ、今回の中間選挙で、先日このブログでも触れたTea Party Movementに象徴される超保守派の台頭が見られたように、今のアメリカの政治状況の根っこに常にあるアメリカの白人大衆の保守主義が描かれ、時宜を得ている。これは昨今始まったものではなく、南北戦争前後の混乱期から1970年代のヒッピーの時代、そして今も続くイラン戦争を始めたアメリカにいたるまで、長い歴史を背景として綿々と続いていることが先祖達の日記や、昔の新聞記事なども挿入して示されており、作者の工夫が見える。

一方、現在のSchapen家とGreiller家の葛藤を描くにあたっては、ParetzkyはこれまでのWarshawskiシリーズで磨いた腕前を発揮する。LaraがShapenの農場の牛小屋に忍び込むシーンや終盤にRobbieがLaraを探し回るところなど、緊迫したアクション・シーンは、いつものWarshawskiシリーズで見られる腕前が発揮され、息をつかせない。Laraは、元気いっぱいで、フェアーで、知的な女の子。時々すねるが、立ち直りも早い。つまり、ミニV. I.みたいな感じで、V. I.ファンとしても読んでいて特に楽しめる。

但、読み終わってみると、シリアスな小説としてはそれ程の深みは感じられない。また小説の構造上大事な要素である「完璧な赤い子牛」のモチーフが珍奇に感じられるだけで説得力がないのが残念だ。しかし、草の根のアメリカに巣くう根深い病根を描いた作品として、アメリカ社会に興味のある人には面白い作品。Laraを始めとする個性的なキャラクターや生気溢れるアクション・シーンなどで、エンターテイメントとしても満足できる。

旧ブログで私は一作品、V. I. Warshawskiシリーズについて書いています。その、"Fire Wire" (2005)の感想はこちら

(追記)『ブラッディ・カンザス』という題で早川書房から邦訳が出ていました。山本やよい訳。"bleed"というのは「血を流す」という意味ですが、「ブリーディング」というカタカナ語はまず使われないし、多くの読者は意味も分からないでしょうから、「ブラッディ」(血まみれの)という時々カタカナでも使われる語に差し替えた苦心の邦題なのでしょう。ただ、"bleed"を理解する、英語がかなり分かる読者には違和感があるかもしれません。映画や舞台の字幕や吹き替えなど特にそうですが、意訳とは難しく、英語の出来る読者や視聴者は不満を感じがちなものです。私は、プロとして訳をつける人のご苦労は想像しますし、タイトルなどでは出版社の営業上の意向が大きいとは思います。しかし、個人的には、日本語を使うことにこだわり、「血を流すカンザス」、あるいは「血まみれのカンザス」などを使って欲しかったとは思いますが、出版社としては、多少意味不明でもカタカナ言葉の方が読者の注意を引きやすいとの判断なんでしょう。苦労しても日本語を工夫する努力が欲しいとは思いますが・・・。




2010/11/05

チョーサーの描く女子修道院長のフランス語

このブログに時々コメントを下さる守屋様のブログ "London Love & Hate"は興味深いロンドン情報や生活実感が沢山あります。そちらの新しいポスト「英語に関するあれこれ2:外国語を学ばないイギリス人」において私のブログにリンクを貼っていただきましたので、私もコメントを致しました。そのコメントに更に加筆訂正をして、ここにも2度に分けて掲載させていただきます。

チョーサーの描く女子修道院長のフランス語

守屋様はブログで、イギリス人のお友達から聞いた話として、チョーサーの描く女子修道院長のフランス語について言及されています。

ジェフリー・チョーサーは、『カンタベリー物語』の「プロローグ」(「序歌」と訳されることが多いです)でひとりの女子修道院長の肖像を描いています。彼女は、フランス語を優雅に話すが、彼女のフランス語はイングランド訛り、正確には、Stratford-at-Bow(ロンドン郊外の地名)流儀のフランス語であり、(王宮で話されているような)パリのフランス語とは違う、と書かれています。こうしたイギリス訛りの中世のフランス語をアングロ・ノルマンと言います。これは伝統的には、この女性の田舎くさいフランス語を皮肉ったものと解釈することが多いようです。この女子修道院長の描写は概して諷刺的であるとされてきましたが、近年は専門家の間でも異論があり、一概に彼女を皮肉ったり批判しているとは言えないという意見もあるようです。

この部分を一応引用しておきます:

And Frenssh she spak ful faire and fetisly,
After the scole of Stratford atte Bowe.
For Frenssh of Parys was to hire unknowe. (ed. L. D. Benson, ll. 124-26)

背景としては、当時は英語もフランス語も標準語というものは定まっておらず、各地でその土地の方言が今よりずっと広く使われていました。中世末期、イングランドを治めていたプランタジネット王家は、元来フランスからやって来た貴族であり、現在のフランス西部にも広大な領地を持ち、家来も配置していた、英仏海峡にまたがる大国でしたので、イングランドでは広くフランス語(前述のアングロ・ノルマン方言)が使用されていました。お妃も大陸の仏語圏から来ることが良くありました。チョーサーが生まれた14世紀前半は、王宮ではまだ主としてフランス語が話されていた可能性が高いと思われます。但、王宮で話されたフランス語は、主としてパリのフランス語であったと言われています。更に、書き言葉や、ローマ教会、裁判所等で使用された知識人の国際共通語はラテン語でした。ラテン語の使用はかっての日本における漢文の役割に似て聖職者の言語であり書き言葉中心ですが、中世ラテン語は、書かれるだけでなく、話す人もかなりある言語でした。加えて、チョーサー自身は、国際的な商都ロンドンの下町の裕福なワイン商人の息子であり、フランス語は勿論、イタリア語やフラマン語なども日常的に聞いていたと思います。10代から宮廷に出仕してフランス語環境に慣れ、成人してからは、官吏としてイタリアへ長期出張もしたので、イタリア語もかなりできました。奥さんは宮廷の侍女で、フランドル出身の家系です。奥さんの第一言語は、おそらく英語ではなかったでしょう。従って当時のイングランドは、特に王宮に出入りする知識層(貴族や官僚、侍女など)、聖職者の多く、裁判所関係者などは、複数言語使用者が多く、自然に習得するにしろ、意識的に教育を受けるにしろ、母語以外の言語を学ぶことは当たり前でした。そもそも当時の教育は、まず知識人の共通語であるラテン語の読み書きを学ぶことから始まったわけです。これは近代になっても変わらず、その名残は最近まであり、grammar schoolのgrammarは、英語文法ではなく、ラテン語(その次には古典ギリシャ語)の文法を意味しています。ルネサンス・オランダの大知識人エラスムスは、イングランドの大法官トマス・モア(ヘンリー8世に処刑された人)の親友でしたが、エラスムスはモア、あるいはコレットやフィッシャーなどその他のイングランドの友人とは、おそらくいつもラテン語で会話していたでしょう。何しろ、エラスムスが母国語のオランダ語を話したのは、息を引き取る前だけという逸話があるくらいラテン語を常用していたようですから。

なお、エラスムスの英語力については存じておりません。ケンブリッジ大学の教壇に立っていたので、英語も出来たとは思いますが、講義はおそらくラテン語で行ったでしょう。同僚との会話はどうであったのか、モアの家などで、モア・サークルの人々と会話する時はどうしていたのでしょう。モアの娘マーガレットはエラスムスのラテン語の著作を翻訳していたと思いますし、子供の頃から親しかったはずです。何かご存じの方がいらっしゃれば是非教えて下さい。その他、英語史や英仏史、ラテン語などを勉強されている方、私の間違いの訂正、その他のコメントなど大歓迎です。

(大学生の方へ:今回は多少勉強めいたポストですのでお願いですが、もしレポートなどに利用する場合は、公刊されている書籍でちゃんと調べなおし、出典を示して引用や言及をして下さい。一般的に、ブログは気軽に書いた文章で、学術文献ではありませんので、間違いも多いです。私自身もいちいち典拠を再確認しているわけではありません。勉強の出発点としてのヒントには出来ますが、ブログを引用するなどしてレポートに利用すればご指導の先生の印象を悪くするだけですし、出典を示さなければ剽窃となります。)


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2010/10/31

"Passion" (The Donmar Warehouse, 2010.10.30)

ミュージカルは苦手なので・・・・
"Passion"

The Donmar Warehouse公演
観劇日:2010.10.30  14:30-16:10 (no interval)
劇場:The Donmar Warehouse

作曲・歌詞:Stephen Sondheim
演出:Jamie Lloyd
脚本:James Lapine
セット:Christopher Oram
照明:Neil Austin
音響:Terry Jardine & Nichi Lidster for Autograph
振付:Scott Ambler
オーケストレイター:Jonathan Tunick
衣装:Poppy Hall
Musical Director & Piano: Alan Williams
(他に演奏家が8人)

出演:
Elena Roger (Fosca)
David Thaxton (Giorgio)
Scarlett Strallen (Clara)
David Birrell (Colonel Ricci)
Allan Corduner (Doctor Tambourri)
Tim Morgan (Major Rissoli / Fosca's father)

ミュージカルを最後に見たのはいつか思い出せない。そもそも、これだけ劇場に行っているのにミュージカルを見たことがほとんど無いのである(5本程度だろう)。私に向いてない、興味が持てないのだ。このブログの劇の感想を定期的に見て下さっている方は分かると思うが、私が演劇に求めるのは、社会とか歴史、人生の困難な問題(例えば、貧困や狂気)を扱うテキストに基づいたステージである。ミュージカルにもそのような作品がないとは言えない。例えば『レ・ミセラブル』など、そういう面もある。しかし、多くのミュージカルは純粋のエンタテイメントであり、現実を忘れさせるひとときの夢だろう。私が音楽に関心が薄いことも大きな原因。

と前置きが長くなってしまったが、Donmarでやったのでウェストエンドの商業劇場の公演とはちょっと違うかなと思い、久しぶりにミュージカルなるものを見て来た。でも退屈だった。大家Stephen Sondheimの作品、演出は売れっ子のJamie Lloyd。劇評では大変評判が良いようであるが(GuardianもDaily Telegraphも4つ星)、私は「ふーん」とぼんやり見ているうちに終わってしまった。しかし、ちょっとひねった筋で、演出や演技の力量が問われる面白い作品だと言うことは分かった。

ストーリーは、醜く、薄幸で、身体が大変弱いFoscaという夫に捨てられた女性がイタリアの田舎町にすんでいるが、ミラノから仕事でやってきてこの町に駐屯することになった軍人Giorgioに出会い、全身全霊をかけて愛してしまう。一方このGiorgioは、女性なら誰でも心を奪われかねない美男子(俳優のDavid Thaxtonも甘いマスクの、とってもいい男だ)。彼はミラノに美しい人妻Claraという愛人がいて、2人とも又の逢瀬を心待ちにしている。Foscaは命も危ないくらいの病身であるが、その弱々しい身体を酷使して、愛するGiorgioにつきまとって離れない。劇の中盤までは、彼女は、現代で言うところのストーカーのような存在。Giorgioは何とか彼女から逃れたいと彼女を説得するが、Foscaの愛は燃えさかるばかり。無理をするので、彼女の病状は危機的な程に悪化する。しかし、GiorgioはFoscaの命を賭けた愛に打たれ、彼女の心身の健康に段々と責任を感じるようになり、彼女をいたわり始めるが、そのいたわりの心がいつしか別の感情に変わっていくのだった・・・。

主役のFoscaを演じたElena Rogersは、私は見なかったがDonmarで"Piaf"をやってオリヴィエ賞を貰った人。パンフレットの写真を見る限りでは、かなりきれいな方に見える。しかし、真っ黒に染めた髪をひっつめにし、黒っぽい服を着て、目のまわりに深い隈をメークで入れて、病人の修道女とでも言うべき地味で悲劇的な雰囲気の役作りしていた。華やかな美人のClara (Scarlett Strallen) と良いコントラストをなしていた。ステージはイタリア風の茶を基調とした壁画が描かれた壁に、大きな扉が3つという、簡素だが、雰囲気のある舞台。

Foscaは言うならば醜いアヒルの子みたいなもので、劇の終盤では、愛の為に美しく羽ばたく、ということに観客の気持ちの中ではならなくちゃいけないのだろう。しかし私には最後までアヒルの子のままで、彼女が麗しく見える瞬間は来なかった。ただし、確かに最初は狂ったストーカーのようだったが、最後は大変哀れに思えるようにはなった。

ジャンル自体が私には向いてないが、ミュージカルをお好きな方は、楽しまれることと想像する。でもほとんどの批評家が絶賛している一方で、What's on stage.comのMichael Coveneyだけは、2つ星で、ブログのなかには、つまらなかったという人もあるようなので、皆に気に入られるとも言えないようだ。

(今回は私はまったく判断できないので、☆はつけません。)


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2010/10/28

"says"は「セズ」、あるいは、「セイズ」?

もちろん、[sez](セズ)です。でも、今の若いイギリス人は、綴りに影響されてか、「セイズ」という人もいるようです。今日(10/28)の朝のBBCのニュース・ショー、Breakfastによると、今、大英図書館では、イギリス英語の発音変化を調べているそうです。同様の変化として例に挙がっていたのには次のようなものがありました。

ate エイト / エト
H エイチ / ヘイチ
schedule シェジュール / スケジュール
mischievous ミスチィヴァス / ミスチィーヴィアス

前者が伝統的な発音(辞書におけるStandard British)、後者が若い人が言いがちな、あるいは、間違いと思われる発音。しかし発音は常に変化し続けますから、何が正しいかは時代によって変わってきます。scheduleで[ske-]の音で始めるのはアメリカ英語の影響でしょうね。仏語源の単語など、他の語では語頭の[h]音は無くなっていることが多いのに、文字の"H"を読むのには、逆に[h]音を新たにくっつけているのは面白い。これも綴りの影響かなあ。"mischievous"の-v-のあとに[i]の音を入れるのは、Webster's Unabridged Dictionaryによると、substandard pronunciationということになっていますが、何故[i]の音が入る事になるのか、興味深いです。2番目の発音にすると、4音節語として発音されていますね。もしかしたら、"-vious"で終わる他の形容詞の影響でしょうか。結構多いんです。例えば、envious / serious / gregarious / laboriousなど。

この番組のクリップはこちら

視聴者から次々とアナウンサー(こちらでは、プレゼンター)の発音についてもコメントが寄せられ、司会の2人も焦っていました。最近のアナウンサーの発音はおかしい、というのは洋の東西を問わず良く言われることですが、年配者や言葉にうるさい人からみると、いつの時代もそのようなものかもしれません。言葉は意思伝達の道具、大事にしたいです。あまりうるさく言うのも反発を招くかも知れませんが、新奇な表現を追いかけていると、言語の継続性が薄くなり、職場や地域での世代間のコミュニケーションがぎくしゃくします。また、日本語学習者にとっても大変困ります。今の日本語の場合は、何と言っても外来語のカタカナ言葉の乱用が大問題ですね。お年寄りには、分からなくて困っている人も多いと思います。この乱用は、特にビジネス界の人に目につくように思います。また逆にカタカナ表現であるべきところをひらがなで書く人も多くなっている気がします。これは若者言葉でしょうか。

さて英語の発音に戻りますが、外国人学習者の私としては、まずは正しい、あるいは伝統的な発音を身につけたいと思います。日本人として日本語学習者を見ると、ちょっと堅苦しくても折り目正しい日本語を丁寧に話す外国人には良い印象を持ちますからね。


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2010/10/27

"Or You Could Kiss Me" (Cottesloe, National Theatre, 2010.10.26)

リアリスティックな人形劇の試み
"Or You Could Kiss Me"



Handspring Puppet Company公演
観劇日:2010.10.26  19:30-21:10 (no interval)
劇場:Cottesloe, National Theatre

演出:Neil Bartlett
脚本:Neil Bartlett
セット:Rae Smith
照明:Chris Davey
音響:Christopher Shutt
音楽:Marcus Tilt
人形のデザイン:Adrian Kohler

出演:
Basil Jones
Adrian Kohler
Adjoa Andoh
Finn Caldwell
Craig Leo
Tommy Luther
Mervyn Millar
Marcus Tilt
(Adjoa Andohが狂言回し的役割、他の人は人形遣いであるが、同時に台詞も言い、人形とは独立した人物として演技をすることもある。)

☆☆☆/ 5

National Theatreで大好評を博し、ウエストエンドにトランスファーして未だにロングランをしている"War Horse"を作ったのが、Basil JonesとAdrian Kohlerのペアが率いるHandspring Puppet Companyである(私は"War Horse"は見ていない)。日本の文楽は別として、欧米の人形劇というと、子供向けだったり、そのことと少し関係があるが、内容がファンタジックなおとぎ話や昔話であったりすることが多いのではないか。また、"War Horse"のように、動物、あるいは空想上の人や生き物であることも多いだろう。そういう作風からは離れて、この作品はリアリスティックな現代の大人の人生を題材に選んでいる。主人公の2人は、前半生はJonesとKohlerの自伝的要素に基づいているようで、南アフリカ共和国に住むゲイ・カップルである。主な時代と状況は、2030年代、つまり未来、このカップル、Mr AとMr B、のうちBが肺気腫になって命が危なくなって、病院に入院し、致命的病気であると宣告され、病院から追い出されて自宅に戻り、Aに介護をされる。その間、彼らが出会って恋に落ちた60年程前の若き日の想い出がフラッシュバックで挿入される。命が段々枯れていく2人と、今まさに若さの真っ盛りという2人のコントラストが切ない。黒い舞台に浮かび上がる精巧な人形の精密な動き。リアリスティックでありながら、人形であるが故に幻想的でもある。リアリティーのあるアニメのような感じか。あるいは白黒の写真のスライド・ショーをみているようでもあった。

人形は非常に良くできており、かなりリアリステック。動くマネキンと言っても良い。大きさも生身の人間の7、8割くらいの大きさである。しかもお年寄りの人形では、しわとか背中の曲がり具合とか、顔の皮膚が下がっていることとか、そういう事まで丁寧に作ってある。老人のペニスや睾丸も生々しく見えている。セックスも表現される。大体において、ひとつの人形を3人で動かしていた。

生死に関わる大変シリアスな物語であるが、残念ながらかなり退屈だった。私の感情を動かしてくれない。劇評や他の観客の感想もあまりかんばしくない。それは人形劇だから、というより、脚本に力が無いからではないか、あるいは、脚本が人形を見せることを優先して書かれているためではないか、という印象を持った。人形劇でも、かなりシリアスな素材を扱えるのは、文楽を見れば明らか。人形だから出来、人間では出来ない事や、その逆の事を考慮しつつも、人間がやっても人形がやっても、大きな説得力を持てるテキストを使う事が重要ではないかと感じた。

とは言え、人形も人形遣いの技術も素晴らしかった。貴重な試みであり、今後もこうした劇が上演されることを望みたい。

(追記)劇とは直接関係ないが、老齢と病が主題の作品で、そろそろ初老を迎えている私としても、切実な内容だった。私自身、以前は何気なくやっていた日常的な事が出来なくなったり、後で身体が痛んだりする、ごく簡単な作業や外出でも驚くほど疲れる、そういうことが多くなった。例えば先日までの様に、一旦体調を壊すとなかなか戻ってくれない。日常生活も結構大変になってきたなあ。

劇中のゲイ・カップルのいたわり合いが大変印象的。ロンドンの街で見るゲイのカップル、特に年配の人達のむつまじさは、異性のカップルに増して強く細やかな愛情で結ばれているように見えることが多い。彼らは社会的に多くの苦労を乗り越えて来たから、そして結婚という社会制度で縛られることがないので、2人の愛情が唯一の絆であるためだろうか。翻って、自分の性的アイデンティティーを明らかに出来ない日本のほとんどのゲイの人達の不幸も思わざるを得ない。色々困った問題があっても、マイノリティーの人々への寛容度ではイギリスは素晴らしく、日本はかなり閉ざされた国だと感じる。


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2010/10/24

"House of Games" (Almeida Theatre, 2010.10.23)


映画を基にした気楽な娯楽作品
"House of Games"

Almeida Theatre公演
観劇日:2010.10.23  15:00-16:40 (no interval)
劇場:Almeida Theatre

演出:Lindsay Posner
脚本:Richard Bean
原作(映画脚本):David Mamet
セット:Peter McKintosh
照明:Paul Pyant
作曲:Django Bates

出演:
Nancy Carroll (Dr Margaret Ford)
Michael Landes (Mike)
Trevor Cooper (George)
Dermot Crowley (Joey)
Peter De Jersey (PJ)
Amanda Drew (Trudi / Carla)
John Marquez (Bobby)
Al Weaver (Billy Hahn)

☆☆☆ / 5

主人公のDr Margaret Fordはハーバード大卒の秀才で、大学の心理学の先生。また、心理学のベストセラー作家でもある。彼女がギャンブル中毒者としてカウンセリングをしているのがBilly。Billyは最近ギャンブルで大負けして、借金に苦しんでいる、と言う。BillyをたぶらかしているMikeというギャンブラーのいる賭場にMargaretは出かけて行き、Billyの手助けをすると共に、この手のばくち打ちを観察して、謂わば、専門の研究対象とするつもりだったようだ。ところが、彼女はMikeの男性としての魅力に取り憑かれ、冷静な心理学者として観察をするつもりが、いつの間にか、Mikeと彼の率いるペテン師一味の共犯に仕立て上げられていく。しかし、観客がそう思ってやきもきしていると、更に思わぬ展開が待っていた・・・。

逆転に次ぐ逆転ー意表を突いたどんでん返しを楽しむ娯楽作品。BBCが制作し、日本でもNHKで放映された、Adrian LesterやRobert Glenister主演の「華麗なるペテン師」("Hustle")というドラマがあったが、ああいう感じの洒落た娯楽作品。多くの観客は楽しそうにくすくす笑いつつ見ていたが、私の好みとしては、テレビで見れば充分、という程度の話で、劇場にわざわざ出かけることもないと思った。でも娯楽性溢れる劇を好む方にはとても良い作品かもしれない。

役者はとても良かった。小気味よいテンポ、きびきびした台詞のやり取りが大事な劇だが、大変うまく噛み合って、ユーモアをかもし出していたと思う。特に、主演のNancy Carrollは、今年National Theatreの”After the Dance"で主演し、好評を博した人だが、繊細な表現のできる、大変魅力的な女優。ペテン師Mikeを演じたMichael Landesの二枚目ぶりも良い。お話は私にはつまらないが、俳優陣の演技を買って、☆は3つ。

劇に行くのはロンドンに戻ってきて以来初めてで、この作品は好みではなくても、劇場に行くこと自体はとても気分転換になり、楽しい午後を過ごせた。

(追記)見て損の無い楽しい作品ではある。しかし、AlmeidaのようにArt Councilから多額の公費補助を得て運営されている劇場で、こういうウェストエンドの商業劇場と全く同じような作品をやる必要があるのだろうか。また、映画の焼き直しというのも気になる。テネシー・ウィリアムズの映画のように、芝居にしても定評がある作品もあるが、しかし若い作家を発掘したりあまり上演されない古典を見いだしたりするのが、Almeidaのような劇場の役割ではないだろうか。Daily TelegraphのCharles Spencerは4つ星をつけていたが、Michael Billingtonは2つだけだったのも、そんな事も理由にあるようだ。似たような性格の劇場であり観客層も共通するDonmarと比べて見ても、いやNationalと比べてさえ、Almeidaは最近どうも覇気に欠けるような印象を持つのは私だけ・・・?


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2010/10/21

Anne Tyler, "Noah's Compass" (2009; Vintage 2010)

初老の男性の生き方探し
Anne Tyler, "Noah's Compass" (2009; Vintage 2010), 277 pages

☆☆☆☆/5

アメリカ合衆国の小市民の生活を淡々と描く作家Anne Tyler。彼女の小説は英語も易しく、変わったテクニックを使わない伝統的な小説で、そんなに努力しなくても気楽に読める。しかし、しみじみとした味わいがあり、根強い人気があるようだ。イギリスでも、地味だしアメリカの小説なのに結構色々な本屋で何冊も並んでいるのを見かける。

この小説は2009年出版であるから、多分最新作だろう。Anne Tylerは1941年生まれなので、彼女が60歳代後半で書いた作品である。テーマのひとつは退職後の人生の過ごし方だ。主人公のLiamは60歳の元学校教師。結婚は2度しており、一度は妻が早死にし、もう一回は離婚。彼らとの間に娘が3人いるが、独立したり、別れた妻と一緒に住んだりしていて、彼自身は今はひとり暮らしである。彼の趣味はギリシャ・ローマの哲学書を読むこと。大学では哲学を専攻し、博士論文も書きかけたらしい(しかし、家庭や仕事の為に、論文を完成できないままになってしまった)。その後、生活の為に歴史の教師として60歳になるまで子供達を教えてきた。ところが勤務していた学校で予算削減のために歴史の教師をひとり減らすことになり、ほぼ自発的に貧乏くじを引いてしまい、定年を数年後に控えて、解雇されることになった。

まわりの家族などは彼が当然次の仕事を探すものと思っていたが、彼はそこそこの蓄えがあり、また特に働きたいという意欲も感じず、これからはのんびりと日がな一日哲学書など読んで暮らしたいと思って隠退生活に入る。節約のために、今までより小さなアパートに引っ越したが、その引っ越した当日の夜、眠りについた後、次に目を覚ました時は病院のベッドの上だった。夜の間に何か重大な事件が彼に起こり、頭に打撲傷を負ったのだが、何が起こったのか、その間の記憶だけがすっかり消えてなくなっていた。

短い時間だけとは言え、この記憶の空白は彼の気持ちを著しく乱す。無くした記憶を取り戻したいと思っているうちに、彼はふとしたことからEuniceという、自分よりかなり年齢の低い女性と知り合い、お互いに一目惚れとも言える気持ちを抱き、彼の人生は思いがけない方向へと展開し始めた・・・。

Liamは温厚で、ちょっと偏屈で、地味で、かなり没個性な初老の元教師。友達と言えば前の職場の同僚Bundyのひとりだけ。しかし、面倒な人付き合いをするよりも、のんびりひとりで暮らした方が性に会っているようだ。家族としては、父親、弁護士の妹がひとり、そして3人の娘達と孫がひとり、そして離婚した妻。前妻も含め、そうした家族とも、特に仲が悪いわけではない。しかし、彼らは何か必要がある時以外は彼に連絡しては来ない。毒にも薬にもならない平々凡々たる男性だ。人と対立するのは大嫌いで、強く自己主張することもなく、家族に対しても何でも譲ってしまう。別れた妻のBarbaraからも、あなたは必要以上に自分の欠点を認めてしまうのね、と呆れられている。このシーン、よく書けているので引用してみる:

"But!" he [Liam] told her. "As for Kitty [his teenage daughter]! You know, you might have a point. I would probably make a terrible father over the long term."
  Barbara gave a short laugh.
  "What," he said.
  "Oh, nothing."
  "What's so amusing?"
  "It's just," she said, "how you never argue with people's poor opinions of you. They can say the most negative things--that you're clueless, that you're unfeeling--and you say, 'Yes, well, maybe you're right.' If I were you, I'd be devastated!"

だけど、実際の彼はclueless (手のつけようがない)でもunfeeling(冷たい)でもない。ただ、自己表現が下手、あるいは自己表現、自己主張をしたがらないだけで、実は大変暖かい人物なのである。

物語は、このほとんど愚鈍なまでに不器用なLiamと、やはり不器用で、それまで自分が理解されていると感じることなく生きてきたEuniceとの間に芽生えたひとときの恋愛を軸に、反抗期の娘Kittyとの同居、既に結婚し子供もいる娘で原理主義的クリスチャンのLouiseやLouiseの賢い息子、つまり彼の孫Jonahとの関係など、家族とのやりとりを挟みつつ展開する。が、しかし、それ程大きな事件も起こらず、Liamが今までの人生を振りかえりつつ、段々と自分の老後の生活のペースをつかみ、落ち着くところに落ち着くというストーリー。

60歳の地味な男性、真面目くさった元教師で、首になった失業者。浮気もしたことがなく、お洒落でもハンサムでもなく、金持ちでもないが生活に困るほど貧乏でもない、特に面白みもない、しかし見ようによってはなかなか味のある、暖かい人柄。Liamとふたりきりになると、何を話して良いか話題に困りそうだ。そういう人を主人公に据えてじっくり描く。だから、それだけで、ひどく退屈そうに思う人もいるだろう。実際、大学生など若い人が読んでもおそらく退屈するだろう。しかし、年代の近い、元教師の私にはとても面白く、共感しつつ読めた。

Liam自身の人柄同様、この小説は隠れた、小さなユーモア、ささやかな感情の発露に満ちている。ゆったりとした気分で読み、静かな気持ちで読み終えることが出来る作品だ。

なお、タイトルのいわれは、作中で、孫のJonahに聖書のノアは箱船に乗ってどこに行こうとしているのと尋ねられ、Liamは、ノアには目的地はない、ただ沈まないように浮いているだけで良いのさ、だからコンパスは要らないんだ、と答えるというやりとりから来ている。今のLiamも、あたふたしつつも、何とか浮いていようとしているわけである。

私は旧ブログでも一冊Anne Tylerの小説、"The Accidental Tourist"、の感想を書いています。


Rory Clements, "Martyr" (2009; John Murry, 2010)

シェイクスピアと言う名の探偵
Rory Clements, "Martyr"
(2009; John Murry, 2010)

☆☆☆/5

日本に帰省中に読んだ本だが、読み終わってもうかなり時間が経ってしまっているので、記憶が大分薄れてきた。でも結構楽しい本だった。肩の凝らない娯楽小説としてお勧めできる。

主人公がJohn Shakespeareというので、謂わばシェイクスピアに便乗した歴史捕物帖。このJohn君はWilliamの兄貴と言うことになっているが、これはいささか疑わしい。実際のWilには2人の姉がいたと思われるが、彼らは赤子のうちになくなり、生き残った兄弟姉妹としては彼が一番上というのが一応の定説のようだ。但、長子はJone Shakespeareという記録だそうで、そうすると、Joan (女)かJohn(男)か、という解釈の幅が出来るのだろうか。ちなみに、Wilの父はJohnという名前である。劇場やら演劇人の世界を舞台とした推理小説かな、と思って楽しみにしていたのだが、そういう世界はほとんど出てこず、前半を読んだ所くらいでは、この主人公とBardとは関係ないのか、と危うく思いそうになったが、後半で弟があまり重要でない(でも物語を進める上では無くてはならない)役で出てくる。

お話は1587年を舞台としている。エリザベスの治世。物語が始まる時にはまだ生存しているが、Mary, Queen of Scotsが幽閉されており、この年に反逆罪で処刑されることとなる。また、翌年88年にはスペインの無敵艦隊(The Spanish Armada)がイギリスに侵略しよう年、ネルソンに指揮されたイングランド艦隊に殲滅されるという、イギリス史上最も輝かしい出来事が起こる。John Shakespeareはエリザベスの寵臣で、謂わば諜報局長官のような役割を担っていたSir Francis Walsingham(これは実在した、歴史上も重要な人物)の主要な部下のひとりである。カトリック君主であるスペイン王はイングランド海軍のかなめであるNelsonを暗殺しようと刺客をイングランドに送り込んだとの情報がWalsinghamに届く。またその正体不明の刺客が訪れたと思われる先々で、極めて残酷な連続殺人事件が起こる。WalsinghamはJohn ShakespeareにNelsonの警護、刺客の逮捕、そしてこれらの殺人事件の解決を指示する。しかし、エリザベスの信頼するもう一人の諜報官的人物で、カトリック教徒の残虐な迫害で名を馳せたRichard Topcliffe(実在した)がことごとくJohnの邪魔をする。Johnは穏健な人間で、ひとつひとつ証拠や証言を積み重ねて事件を解決しようとするが、Topcliffeは当時は当然であった拷問を使って犯人を追い詰めようとし、Johnの生ぬるさをあざ笑う。それどころか、Topcliffeはサディスティックな性格で、拷問をすること自体を楽しんでいる気配まである。このあたりは、9/11以降の、国家安全保障をめぐる米軍やCIAの諜報戦略を色濃く繁栄していると言える。

Rory Clementsは年配の作家で、この小説が第一作。作家になる前はジャーナリストだったそうである。文章は書き慣れているわけで、第一作目とはとても思えない器用さを持っていて、読者を飽きさせない筆致。時代背景も良くかき込まれているが、登場人物が大変個性的。特に売春婦や彼女らのポン引き、Johnの人の良い助手など、下層の庶民の描写が生き生きしている。 豪放磊落なNelson、慎重な政治家Walsinghamなどの性格描写も良く出来ている。28歳のJohnはカトリック貴族の侍女と恋をするなど、ロマンスでソフトな色をつけることも忘れていない。更に、当時の世相や政治を背景に、激しい暴力犯罪や拷問も描く。色々な面でサービス精神たっぷりのテンターテイメント小説。エリザベス朝を舞台にした探偵小説としては、C. J. SansomのMatthew Shardlakeシリーズが傑作として思い浮かぶ。Sansomほどの迫力は無いが、歴史探偵小説の好きな人、エリザベス朝の歴史に関心のある人にとっては、読んで損は無い作品。まだhardcoverだが既に続編が出ているようであり、今後もシリーズとして続くようなので、これからはかなり演劇の世界も出てくるのではないかと、私も以後の作品を楽しみにしている。

Rory Clementsはオフィシャル・ウェッブサイトを開設しており、この小説のことだけでなく、作品の時代背景などについても手短に纏めてあって歴史の勉強にもなる。


2010/10/20

The York Mystery Plays 2010 (3):後半


The York Mystery Plays 2010 :後半
At the Eye of the York (at the square in front of the Clifford Tower of the York Castle) 2010.7.11

まだの方は、まず「The York Mystery Plays 2010 (1):イントロダクション」のポストを読んでください。劇の物語やその背景等について説明していたらきりがないので、ここではプロダクションの特徴についての私の感想のみとしています。

広場に近づいて来る後半最初の劇のパジェント・ワゴン。


(後半)
(1) The Tapiters (person who wove worsted cloth) & Couchers (person working in paper making trade) Pageant of The Prophetic Dream of Pilate's Wife
by York Settlement Players in association with
the Company of Merchants of the Staple of England
17:15-45

「ピラトの妻の予言的な夢」

ローマ総督ピラトは、キリストの裁判をする。しかし、彼の妻はキリストを殺害するのは危険であると、夢の中で悪魔に告げられ、ピラトにキリストを死刑にしないようにと伝言する。キリストは死ぬことにより人類の現在を償うという使命を帯びているので、それを成就されれば悪魔にとっては都合が悪いからである。

ピラトの大言壮語(rant)で始まる。ピラトは堂々として豪華なコスチュームを身につけ、有力者らしい雰囲気。ピラトの妻, Proculaも紫の目立つ衣装で、華やかで誇り高い貴婦人の雰囲気。2人のいちゃつく様子はユーモラスで観客の笑いを誘っていた。裁判所の役人(Beadle)は真面目臭い、しかめ面をした、テキストでもうかがえるような官僚的な事務官。Proculaは彼から追い出されて不機嫌。
ひとつのワゴンにふたつのloci(上演スペース)を作って(ピラトの宮廷の玉座と自宅の妻のベッド)、カーテンで囲んである。中世劇におけるカーテンの使用について考えさせられた。舞台全体を隠したり出したりするプロセニアム・アーチの劇場のカーテンと違い、こういうベッドや玉座の天蓋から垂らすような日常で見られるカーテンを演劇的に用いることがなされた可能性は高いと思う。
悪魔は黒いコスチュームで、顔は緑に塗り、なかなか恐ろしい風采。
ユダヤの聖職者アンナス(Annas)やカヤパ(Caiaphas)は女性。中世のクリスチャン聖職者風でなく、ユダヤの司祭と分かるようなコスチューム。キリストは青い服。
ワゴンの上以外のスペースも広く使っていて、地位の違い、訪問者と裁判官の差、などもある程度表現。ピラトはワゴンの上の玉座、ユダヤの祭司は地面の上に立ち、beadleはその間を行ったり来たり。キリストと兵士も地面の上。



(2) The Shermens Pageant of Christ, Cruelly Beaten and Led Up to Calvary
by The Company of Merchant Taylors
17:54-18:12

「ゴルゴダ(カルバリ)の丘を引き立てられて登るキリスト」

ゴルゴダの丘を引き立てられるキリスト。聖書におけるように鞭打たれ、嘲られる。

ワゴンは道具を運ぶのが主な使い道で、ワゴンを組み込みはするが、かなり大きなセットをその場で組み立てた。
第一の兵士は大変台詞が上手く、悪漢という感じが良く出ていた。
今回の衣装は皆中近東風、様々の頭巾を使っている。
十字架を運ぶのを手伝わされる商人のSimonは豪華な衣装を着て、太ったいかにも豊かな商人風の人物にしてあった。



(3) The Pinners Pageant of The Crucifixion with the Butchers Pageant of The Death of Christ
by The Company of Butchers with the Parish Church of
St Chad on the Knavesmire
c. 18:18-42

「キリストの磔刑と死」

キリストは十字架に釘で打ちつけられ、彼を乗せた十字架を兵士達が縄で持ち上げて経たせる。キリストは人々に呼びかけた後に息を引き取る。

この劇では小さなワゴンだが、しっかりした木材を使った重厚な造りで、大変に重そうである。今までで唯一、殺陣に置いて使う(進行方向を前にしている)。重厚なワゴンが必要なのは、十字架をこの上に立てるための土台になるから。
十字架上のキリストの台詞は、聴衆に直接呼びかけ、なかなか説得力に富んでいて、観客ひとりひとりの内面に呼びかけていた。マリアの嘆きと共に、感動的な、サイクル全体のクライマックスとも言えるシーン。
アリマテヤのヨセフ(Joseph of Arimathaea)達はキリストの体に紐状にして使った長い布を巻き付けて、遺体を十字架から降ろした。







(4) The Scriveners Pageant of The Incredulity of Thomas
by The Guild of Scriveners
18:50-19:05

「キリストの弟子トマスの疑い」

劇が始まる時点でキリストは既に蘇っている。そのキリストの再生を信じられない弟子のトマスに対し、キリストは自らの身体の傷に触れさせる。

The Crucifixionは若いキリストが出てきたが、今回は前の劇のキリストより15歳程度は年上の、40代後半(?)俳優。ややギャップの不自然さを感じる。劇の内容も素朴だが、今回は少人数の素朴なプロダクション。
劇の始まりに置いて、Thomasはワゴンから10メートル以上離れたところから台詞を言いながらワゴンに近寄ってきて、その点が印象的だ。




(5) The Mercers Pageant of The Last Judgement
by The Company of Merchant Adventurers※
    with Pocklington School
19:22-52

「最後の審判」

Mystery Playsの大団円。これは未来の出来事だ。最後の審判の日、良き魂と邪悪な魂が天使と悪魔によってキリストの右と左に分けられて、天国へ登る者と永遠に地獄落ちする者に二分される。我々観客のその中に含まれるというメッセージが込められている。

 サイクルの最後を飾る劇で、長いし、力を入れた上演。
真っ黒なコスチューム、足の先に高下駄みたいなものをつけ、黒いヘルメットを付けた悪魔に先導されて、大人数の登場人物からなる行列がやってくる。なかなかドラマチックな始まり方。
最初全員でヨークシャーの(?)フォークソングを歌い、ローカル色を出す。
このグループはコスチュームがとても凝っていて、お金もかかっており、効果的だ。特に仮面が良い。ステージも印象的。
生の演奏や効果音が上手く生かされ、素晴らしい。
大きな叫びと共に、邪悪な魂が悪魔によって連れ去られる。これは中世の客にとっては恐ろしい光景だったに違いない。悪魔が観客のなかにも入り込んできて恫喝もし、ステージの光景と観客の将来の運命が連動していることを感じさせるような仕組み。
キリスト役の役者が残念ながら威厳を感じさせず、それが玉にきず。
中央の神の左右にずっと立っている2人のマスクと羽根をつけたエンジェルが実に印象的。
キリストが最後には非常に怖い裁判官ぶり。
終わりのほうでは、魂たちが客席に入り、観客の手を取って一緒に演技の中に入り、ぐるぐると回る。これは死の舞踏の変形か。
また、皆でフォークソング風の歌を合唱。貴方たちも皆同じ運命です、と言いたげな幕切れ。
最後は父なる神の厳かなスピーチ。
この劇は本当に良く出来ていて、大団円に相応しく、深い満足感を得た。

(※ "merchant adventurer" : merchant who establishes foreign trading stations and carries on business ventures abroad; especially : a member of one of the former English companies of merchant adventurers operating from the 14th to the 16th centuries)






全体を振り返って:

様々なグループがそれぞれの制作・演出意図の下に作っているので、統一感に乏しい。非常に優れたプロダクションとかなり甘いものとの落差も大きい。コミュニティーのより多くの人、例えば小さな子供達などの参加を優先させたような作品と、最終的に観客に訴える力を優先させたもの、コスチュームや音楽、セットのつくりなどの差がかなりあった。しかし、こういう劇は元来中世においても、各ギルドに任されていたので、そうあるべきかも知れない。ただ、日本のお祭りの山車や子供歌舞伎のように、職能ギルドが自分達の宣伝の機会として利用したのでもあっただろうから、昔はもっと明白に山車やコスチュームの豪華さを競ったのではなかろうか。

日本の山車の上での歌舞伎の場合、そもそも山車の豪華さ、その特定の姿形、そしてそれから来る制約が大変大きい。しかし、あの山車が全体の統一感を生むし、そもそも多くの山車のモデルは神社であろうから、あれが主役で、その上に載せるものはオーナメントである。建物やセットの一部としての出し物があると言って良いだろう。また、皆歌舞伎であることもやはり統一感を生む原因。音楽などもそれにより制約される。それに対し、この現代のヨーク劇は、パジェント・ワゴンはあくまでもバックグラウンド。単にセットを運ぶだけの役割しかしていない場合まである。

とは言え、大変楽しい午後だった。特に「キリストの磔刑と死」や「最後の審判」などには圧倒され、感動した。日頃テキストでしか接することの出来ないThe York Mystery Playsをこの目で見ることが出来たのは、幸せだった。上演した各団体の方々に感謝したい。

以上でThe York Mystery Playsの3回のレポートは終わりです。全てお読み下さった方、ありがとうございました。なお、写真や文章を使われる場合は、用途など、予めご連絡下さい。


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2010/10/17

The York Mystery Plays 2010 (2):前半

The York Mystery Plays 2010 :前半

At the Eye of the York (at the square in front of the Clifford Tower of the York Castle) 2010.7.11

まだの方は、まずこのポストの前の、「The York Mystery Plays 2010  (1):イントロダクション」を読んでくださると、幾らかはこの上演の背景が分かります。劇の物語やその背景等について説明していたら非常に長くなるので、ここではプロダクションの特徴についての私の感想のみとしています。

開始は12時とウェッブサイトにあったが、それは最初の上演場所のDean's Parkで、私がチケットを買っていたThe Eye of Yorkは最後の上演場所であったので、14時15分くらいからだった。以下の劇の時間は大体の目安。

The Eye of Yorkでの観客席の様子。ここは有料だが、このまわりの芝生に立ったり座ったりして無料で見ることも出来る。


最初のパジェント・ワゴン(山車/曳山)が到着し、上演準備をする人々。「天地創造」のペイジェント。


楽隊が劇の開始を告げるファンファーレを鳴らす。


(1) The Plasterers Pageant of The Creation of the World to the Fifth Day
by the Guild of Building
14:15-30

「天地創造から五日目まで」

ワゴンは約8人で動かしていた。軽々と動いていた感じ。楽隊が4人。
絵を描いた板のパネルを神の言葉に合わせて動かして、ユーモアたっぷりに天地創造を見せる。謂わばtableaux vivants/紙芝居。鳥だの鯨だのライオンだのが描かれたパネルが出てきて、客は大喜び。台詞があったのは神だけ。神を演ずる俳優のろうろうとした声が素晴らしい。時々その神が水筒から飲み物を飲んで喉を潤したり、巻物を見て台詞を確認したりしているところも笑いをよぶ。



(2) The Armourers Pageant of The Expulsion of Adam and Eve from the Garden of Eden, with the Glovers pageant of The Tragedy of Cain and Abel  
by the Guild of Freemen
c.14:35-?(終わった時間をメモしていなかったので)

「アダムとイブの楽園からの追放」

舞台は極めてシンプル。アダムとイブがエデンから追放されるシーンで始まる。Angel(女性)が二人に説教。アダムがイブに責任を押しつけようとするところで大きな笑い声が起こる。アダムがイブに対し、「女の話を信じてはならんな」というところでは、観客(女性?)からブーイング。Cainは観客に対し、God's curse right on you!と罵って劇を閉じる。そこでブーイング、そして拍手。こういう観客とのやり取りがいかにもミステリー・プレイらしい雰囲気をかもし出す。



(3) The Parchmentmakers & Bookbinders Pageant of Abraham and Isaac
by York St John University
?-15:20

「アブラハムとイサク」

旧約聖書のエピソード。アブラハムは神に息子のイサクを犠牲として捧げるように命じられ苦しむ。イサクはキリストの予示。

女性だけの5人で演じる。布を上手く使い神やAbrahamその他の男性のキャラクターを表現。台詞のdeliveryは大変様式化されていた。Isaacの両手を棒にくくりつけ、十字架を背負っているように見せる。その後、目隠しをする。



(4) The Pewterers & Founders(鋳造業者) Pageant of Joseph's Troubles about Mary
by Heslington Church
c. 15:25-45

「マリアの懐胎についてのヨセフの悩み」

ヨセフは、マリアが妊娠したと知って、誰の子かと悩むが、天使が現れて、マリアは処女懐胎であり、神の子を宿していると教えられる。

天使の役でとても小さな子供も出てきて、微笑みを誘う(台詞は無し)。幼稚園児から小学生程度の子供が8人も出て、それが大きな魅力(森の木や天使の役割)。教会のグループらしい個性。
最初からこの劇まで、大体においてシンプルな、中世風のコスチューム。
こういう素人の魅力を発揮するコミュニティー・グループもあって良いと思うが、一方で、ミステリー・サイクル全体の統一感や芸術的完成度はさして大事にされていないとは思う。



(5) The Girdlers (person who made girdles and belts of leather, mainly for the Army) & Nailers Pageant of the Most Tragic Massacre of the Innocents
by Aquare Pegs Theatre Company, St Peter's School
c. 15:50-16:20

「嬰児虐殺」

新しい王が生まれると聞いて恐れたヘロデ王がベツレヘムの全ての男性嬰児を手下の兵士に殺させるという良く知られたエピソードの劇化。

このグループはワゴンをワゴンとしてはステージを運ぶだけの為に利用。その上に白い布を掛けて、車輪を全く見えないようにしてステージにした。また、スピーカーで音楽や効果音を鳴らし、コスチュームも現代服。兵士は現代の迷彩色の軍服と軍用ヘルメット。
不気味な子供のパペットが最初に出てくる。
帽子を子供に見立て、兵士が押しつぶす。女達は一斉に絶叫し、かなりドラマチック。音楽も使用(ヴァイオリンとアコーディオン)。軋むような不協和音が不吉な雰囲気を醸成。
最後にステージには人形の子供だけが残される。他の俳優は厳かに去っていく。カーテンコールもない。大変印象的で良く出来た劇。



ステージを準備中の様子



(6) The Curriers(皮の仕上げ職人) Pageant of The Transfiguration of Christ
by the Lords of Misrule
14:16-30

山上のキリストの変容(マタイ伝17. 1-9)の劇化(イエスは3人の弟子だけを連れて山に登るが、そこでイエスはモーセとエリアと語り合う)。

ユーモアたっぷりの口上を述べつつ、ステージを巧みにもり立てる。手慣れたグループらしさ。劇は地上のオープンスペースを使って始められる。
台詞のデリバリーが全員素晴らしく、声も良く通り、単純な劇でドラマチックなシーンもほとんど無いが、とても説得力があった。キリストは多分20歳代後半の割合若い小柄の人。衣装は中世風。



(7) The Cordwainers (shoemakers) Pageant of Christ's Agony in the Garden and of His Betrayal into the Hands of His Enemies by Judas Iscariot
by The Parish Church of St Luke the Evangelist
16:36-?

「キリストの懊悩とユダの裏切り」

キリストは自らの使命(間もなくやってくる受難と死)を前に苦しむ。弟子のひとりユダは、主人をユダヤ人に売り渡す約束をする。

衣装は中世風。
非常に多くの人々が参加。合唱隊として12人が出る。教会の合唱隊そのままかも知れない。前回のキリストとはかなり違い、今回は40歳代後半くらいに見える年配の頭の禿げた男性。別のグループがやっているので、こういうずれが出るのは仕方がないが、違和感がある。
年配の人ばかりが主要な役をやっているせいか、演技のレベルは割合高いように見え、ドラマティック。
カヤパとアンナスは中世のキリスト教の聖職者(司教のような)雰囲気の衣装でまぎらわしい。しかも、アンナスは女性。テキストでは感じるようなこの二人の邪悪さは感じられない。
最後は全員の賛美歌の合唱で終わり、教会のグループらしい幕切れ。




この劇で前半が終わり、30分ほどの休憩が挟まれた。(後半は、数日以内に掲載します)

この上演や、同様の地域に伝統的に伝わる聖書劇(例えばオーバーアマガウにおけるキリストの受難劇)、中世劇等の上演を見た方、研究されている方、また大学等で勉強・研究されている方、今後の私の勉強の為にもコメントをいただければ幸いです。

写真や文章を使われる場合は、用途など、予めご連絡下さい。

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