2015/12/30

【アメリカ映画】 リュック・ベッソン監督作品、『ジャンヌ・ダルク』(1998)



『ジャンヌ・ダルク』
158分、アメリカ映画、1998年公開

監督:リュック・ベッソン
脚本:アンドリュー・バーキン、リュック・ベッソン
美術:ユーグ・ティサンディエ
音楽:エリック・セラ
撮影:ティエリー・アルボガスト

出演:
ミラ・ジョヴォヴィッチ(ジャンヌ・ダルク )
ジョン・マルコヴィッチ(シャルル7世)
フェイ・ダナウェイ(ヨランド・ダラゴン )   
ダスティン・ホフマン(ジャンヌの良心?)
パスカル・グレゴリー(アランソン公 )
ヴァンサン・カッセル(ジル・ド・レ )
チェッキー・カリョ(デュノワ伯)
ティモシー・ウェスト(ピエール・コーション司教)

☆☆☆ / 5

先日、WOWOWで放送されたので、録画しておいて見た。

15世紀の百年戦争における女性戦士にして、神のお告げを聞いたと思い、フランスのためにイングランド軍と戦った聖女ジャンヌ・ダルクの生涯をたどる。激しい戦闘シーンやクローズアップの連続など、私の好みから言うと、如何にもハリウッド的歴史絵巻。大変な数のエキストラを使い、血しぶきの飛ぶ戦闘場面など、いささかやり過ぎに思え、最初は空回りしている気がした。しかし、実際に存在した中世西欧の人物を現代的な感性をもった人間として表現しようというリュック・ベッソンの試みには共感できた。戦争の残虐さ、政治の不毛と指導者の権謀術数、女性への暴力など、当時は勿論、現在の国際政治や戦争に通じる問題が強調されているようだ。

更に、ジャンヌ自身の神の声についての不安と錯乱、自分が率いた戦争の無残さ、裁判にかけられている彼女への神の沈黙など、ひとりの若者の揺れ動く内面を捉えようとしている。彼女は神がかりの女性であるが、中世末の西欧では、ノリッジのジュリアンやマージャリー・ケンプ他、「神秘家」(mystic)と呼ばれる神の声を聴いた女性たちが人々の関心を惹きつけていた。これらの人物の中には、ケンプのように、教育を受けておらず、文字も読めない市井の庶民も含まれたが、ジャンヌも歴史家によってそうした人物のひとりとしても論じられているし、その視点はこの作品にも見られる。

ジャンヌは本当に神の声を聴いていたのか、という疑問と重なって、ジャンヌは正気であったのか、という問いも垣間見える。実際、彼女の、周囲を顧みない興奮と、不安にかられて我を忘れる様子に、精神疾患の双極性障害を思い起こさせる。

この映画では、現代的にしようとするあまり、中世らしい様式的振る舞いとか言葉使いがまったく無視されている。折角の歴史巨編なのにもったいない。マルコビッチを始め上手い俳優も出ているが、彼らの魅力を引き出すような脚本とは言えない。ジョヴォヴィッチは美しい女性ではあるが、演技に深みは感じられないし、また俳優の演技を楽しむような脚本ではなさそうだ。

ハリウッド・アクション映画らしいところが好きになれないが、考える材料は幾つかあり、見る価値のある映画と思う。ジャンヌ・ダルクを描いた映画は他にも色々あり、今後見てみようと思った。

2015/12/14

NHK ETV特集 「“医師の罪”を背負いて~九大生体解剖事件~」

NHK ETV特集 「“医師の罪”を背負いて~九大生体解剖事件~」(2015/12/12、23時)

先日、再放送だったが、戦争中に九州帝国大学医学部で、軍の指導により医学部の外科医師達によって行われた米軍捕虜の生体解剖事件についての番組が、ETV特集で放送され、 録画しておいて見た。私はこの事件について全く知らず、この番組を見られて本当に良かった。
NHKのホームページにある番組の概要を引用する:
終戦間際の1945年5月から6月、九州帝国大学医学部で米兵の捕虜を使った生体実験がひそかに行われた。墜落したB29の搭乗員8人が、海水を使った代用血液を注入されたり、片方の肺を切除されたりして死亡した、いわゆる「九大生体解剖事件」。医学生として生体実験の現場に立ち会った東野利夫さん(89)は、戦後、福岡市内で産婦人科医院を営みながら、国内外で事件関係者に取材を重ねながら事件と向き合い続けてきた。
事件についてより詳しくはウィキペディアに説明がある

 この番組で取り上げられている東野医師は、医学生だったと言うことで戦後も駐留軍による起訴や投獄は免れた。しかし、事件について苦しみ続け、ついには心療内科に入院するが、医者が匙を投げるほど、病状が悪化した時もあったとこのことだ。その後、産婦人科医として働きながら、一生をかけて事件の証言を集め、資料を探し、更にアメリカに渡って、そのB29の乗組員の中で、ただ一人生き残った捕虜の方にも面会して話し合われた。彼が経営していた病院では資料展示会をやり、また、講演活動もなさっているようだ。それが彼の贖罪であり、自分の正気を保つ手段なのかもしれない。

 今年、九州大学医学部は、学部の歴史を後世に残すための立派な資料館を作った。東野さんは彼の持つ資料を提供し、展示に協力しようと申し出て、担当者と話し合いを重ねたようだ。しかし、九大は東野さんの資料も証言も全く展示せず、部屋の片隅に事件の概略を記したパネル一枚と、終戦直後に大学が出した反省文が載っている『九州大学五十年史』の書物を1冊置いただけに過ぎない。こうした展示となったことについて、九大の医学部長のインタビューが映されたが、彼は言う:
医師の立場で言うと、カルテとか、診療記録とか言う形での[この事件の]一次資料は実は残っていない。私たちの感覚では、一次資料があればそれは文句なく展示すべきだが、残るのは二次資料、三次資料、あるいは全くの小説というようなものだから、そう言うようなものをここにあえて展示する必要はないと判断した。
東野さんをはじめ、そこに立ち会った関係者の証言は、例えば裁判でも重要な決め手になるような種類のものである。医学上のカルテがない、つまり文書化された記録でなければ振り返って噛みしめるに値しない、あるいは信用できない、というのだろうか。これは、日本軍がアジア諸国で行った残虐行為を、証言が信用できない、歴史上異論もある、と言って、忘れ去ろうとし、自虐史観として片付けてきた人々と同じ発想に聞こえた。
私にとっては、戦時中に今は想像も出来ないような残虐行為がなされてきたことは他にも、そして他国においても色々とあってそれほど驚かない。しかし、戦後70年の今、日本を代表する医学部の大御所達に、戦時中の大きな問題をしっかりと噛みしめて後の教訓とする姿勢が乏しいと見える事にはショックを受けた。こうした日本の医学界の土壌から、未だに無理な手術をまるで実験のような感覚で行って患者を次々と死なせてしまうような例が、大きな病院でしばしば出てくるのではなかろうか。また、そういう人命をモルモットのように扱った医師の背後には、倫理に反することが行われているのをはっきり、あるいはうすうす知っていながら、見て見ぬ振りをしていた上司、同僚、部下、看護師、事務職員がいるのだろう。おそらく、当時の九大でそうであったように。
この番組は、まだNHKオンディマンドで見ることが出来ます。

(追記)ウィキペディアの記事を読んでいて、これが遠藤周作の『海と毒薬』の題材となった事件だと教えられた。私もこの小説は多分高校生の時くらいに読んだと思う。それで、何となくどこかで読んだ事件のような気がしていたが、すっかり忘れていた。小説は好きで次から次に読んでいたけれど、折角読んでも、ろくに何も考えない馬鹿な高校生だった。

先日再放送があったETVの「ナチスから迫害された障害者たち、(1)20万人の大虐殺は何故起きたのか」でも、障害者を国家に役に立たない不要な人間と考えナチスの手足となって、障害者をガス室で殺したのは、医療者たちであったことが紹介されていた。

2015/11/26

プラド美術館展(三菱一号館美術館)

プラド美術館展 (三菱一号館美術館) 2015年11月25日

11月25日、仕事を終えた後、三菱一号美術館に、プラド美術館展を見に行ってきた。絵のサイズとしては、ほとんどが小品だった。ヒエロニムス・ボスやヤン・ブリューゲル2世の「地上の楽園」、ピーテル・ブリューゲル2世の「バベルの塔の建設」など、フランドルの北方ルネサンス絵画が印象に残った。フランドルの画家達の絵の多くがかなり小さくて、ものすごく精密なのに驚く。貴族のお屋敷とか、豊かな教会などではなく、商人の家などに置かれたので、ああしたサイズになったようだ。よくあんな精密な絵が筆で描けるものだなあ、と感心した。針みたいな筆で描いたのかしら。ボスの有名な傑作で、今回の目玉の「愚者の石の切除」が来ていたが、想像していたよりずっと小さな絵だった。専門的には色々な解析が出来る絵と思うが、ただ見ただけでも面白い。

中世好きの私には、最初の部屋の中世末からルネサンス初期の展示作品に大変魅せられた。後のほうに進むにつれてやや関心が薄れてきた。でも、ギリシャ・ローマの古典に影響を受けたイタリア絵画と、北方ルネサンスの絵画がどのようにして影響し合い、結びついて行くか、わかりやすく展示してあった。

今回は、損傷しやすいためになかなか国外に出されない多くの板絵が見られる貴重な機会という点でも特筆すべき展覧会。来年の1月31日まで開催。

URL: http://mimt.jp/prado/

2015/11/23

『桜の園』(新国立劇場、2015.11.22)

『桜の園』 
新国立劇場公演
観劇日: 2015.11.22   13:00-15:40(休憩1回含む)
劇場: 新国立劇場 小劇場

演出: 鵜山仁
原作: アントン・チェーホフ
翻訳: 神西清
美術: 島次郎
衣装: 緒方規矩子
照明: 沢田祐二
音響: 泰大介

出演:
田中裕子 (ラネーフスカヤ、女主人)
榎本佑 (ロバーヒン)
木村了 (トロフィーモフ、学生)
宮本裕子 (シャルロッタ、家庭教師)
平岩紙 (ドゥニャーシャ、女中)
奥村佳恵 (ワーリャ、養女)
山崎薫(アーニャ、娘)
大谷亮介 (エピホードフ、事務員)
石田圭祐 (ガーエフ、ラネーフスカヤの兄)
金内貴久夫 (フィールス、老いた召使い)
吉村直(ピーシチク、近所の地主)
田代隆秀(浮浪者)
木場允視(ヤーシャ)

☆☆☆ / 5

チェーホフの時代を踏まえた、オーソドックスな上演。ベテラン演出家の手腕と経験豊かな俳優やスタッフを使い、安心して楽しめる古典の上演に仕上がっている。最近の私の様に、月に1度くらい劇を見る観客に取っては、失敗の無い劇場、演出家、演目、と言ったところで、ちょうど良い感じ。充分楽しめた。しかし、逆に言うと、驚きがなく、退屈とまでは言わないけど新鮮さはほとんど感じられない。

この前見た『マクベス』でも感じたが、田中裕子は、何だか自分なりの「型」を作っている。森光子なんかの時代がかった大芝居になるところまでは行っていなくて、丁度良い程度で、主役としては、はっきりした個性があって印象的。馬鹿な男に貢ぐ、世情に疎いダメ女の感じが良く出た。榎本は、出た途端に、「こりゃまた若々しいロバーヒン!」と、かなり違和感を感じたが、10分もすると、すっかり引き込まれた。あのひねくれた感じを出すのが実に上手い。上手く息を抜いて台詞の緩急をつけるのにすぐれた俳優だし、この役には特にぴったり。彼が若いことで、学生のトロフィーモフと並んで、二人の若者が新しい世界に向かって違った生き方を選ぶコントラストがくっきりした。娘2人は、いまひとつ印象が薄い。一方、宮本裕子は、折角個性を感じさせる俳優なのに、何だかあの小さな役には勿体ない感じがした。非常に重要な役であるトロフィーモフは、ロバーヒン同様、屈折した演技が必要かと思うが、個性に乏しく、一本調子の演説になりがちで、俳優の技量の不足を感じた。台詞の分かりやすさだけでは駄目だなあ。逆に存在感が傑出していたのは、女中の平岩紙。ちょっと台詞を言うだけで、凄く目立って、ラネーフスカヤを食いかねないほどで、笑ってしまった。

それまでとは全く色合いの違う最後の工夫は、蜷川風の悪のりに見えて、しらけた。桜の木の切り倒される音と老人の孤独死だけで充分感動的な幕切れだったのに、と残念。

この公演が小劇場だからかもしれないが、家具などがみすぼらしい。特に重要な家具として真ん中に置かれた本棚も、大きいだけで、まるでホームセンターの組み立て家具のようだ。新国立劇場、予算不足なのかなあ、と思わせる。全体に美術にもっと予算と工夫が欲しい。

と幾つかの不満も書いたが、私の鑑賞眼の不足故だったり、無いものねだりと言うべき点が多いだろう。全体としては大きな問題はなく、充分に楽しい時間を過ごせた。

2015/10/26

演劇集団「円」公演『フォースタス』(東京芸術劇場、2015.10.25)

『フォースタス』 

演劇集団「円」公演
観劇日: 2015.10.25   14:00-15:50 (休憩無し)
劇場: 東京芸術劇場 シアター・ウエスト

演出: 鈴木勝秀
原作: クリストファー・マーロー
上演台本:鈴木勝秀
美術: 伊東雅子
衣装: 西原梨恵
照明: 倉本泰史
音響: 井上正弘
制作: 宮本良太、加藤晶子

出演:
井上倫宏(ジョン・フォースタス博士)
乙倉遙 (メフィストフィリス)
藤田宗久 (ローマ法王エードリアン)
高間智子 (ベルゼバブ、他)
横尾香代子 (ルシファー、他)

☆ ☆/ 5

円は、去年同じ東京芸術劇場でベン・ジョンソンの『錬金術師』をやり、多くの観客の喝采を浴びた。演出は今回同様鈴木勝秀だったが、出演者には今回と違い、人気者の橋本功、金田明夫の2人が出ていない。その他、前回特に印象に残っている役者達の名前が見当たらないのが残念。私はこの作品はルネサンス劇の中でも特に好きな劇で、昨年の円のジョンソン作品の面白さもあり、期待して出かけたが、その期待を完全に裏切られ、大いに失望。退屈だった。

そもそも『錬金術師』は円を中心となって支えた安西徹雄先生の翻訳を使っていたが、今回は「翻訳者」の名前がなく、演出の鈴木勝秀が「上演台本」なるものを書いたことになっている。上演時間の短さを見ると、カットも非常に多いのだろう。つまり、翻案と言って良い台本だ。カットに加え、あちこちに現代日本の時事ネタを入れ、また全体を老人ホームに入っている孤独な大学教授フォースタスの話にするなど、台詞も構造も作り替えている。英国ルネッサンス詩劇としてのマーローを味わうつもりなど毛頭ないかのようだ。壊し、作り替える事でしか西欧古典を「消化」できないと思っている一部の演劇人の悪いところが出た気がする。それでも上手く行っていれば文句はないのだが、私から見ると失敗。

但、この失敗に同情すべき点は大いにある。マーローの『フォースタス博士』は上演の難しい作品だ。劇の目ざすところは違っても、この劇の構造は中世道徳劇そのもの。つまり、主人公は悩み、人生の方向を見失った人間であり、それに様々の寓意化された誘惑や悪魔が襲いかかり、現世の欲望の成就と引き替えに、永遠の魂を手に入れようとする。道徳劇であれば最後に悔い改めて神のもとに帰ろうとするのだが、この劇では絶望し、地獄へ落ちる。擬人化された悪徳の概念をどう表現するか、演出家、衣装、そして俳優にとって困難な課題。ひとつのやり方は、現代の物欲や性欲、貪欲と重ねて、現代のシティーとかウオール街といったところにうごめく人間模様を思い起こさせるような場面に重ね合わせることだろう。ロンドンで大ヒットした『エンロン』みたいに。但、そのためには、衣装とかセットや照明などで、かなりの専門的技術と高額な費用が必要になりそうで、今回のような劇団では難しい。もうひとつのやり方は、シンプルな衣装やセットで寓意性を活かし、役者の演技に集中するやり方。円の場合、これしかないだろう。でも、魂の奪い合いを、妙に安っぽくけばけばしい衣装と演技でコメディーにしようとしており、笑えもせず、見ていてしらけた。

この劇の最大の魅力は主人公の魂の彷徨であり、彼とメフィストフィリスとのやり取りにある。この2人が上手く噛み合えば劇は面白くなり、他の役は彼らの引き立て役として機能する。別の劇で言えば、オセローとイアゴーみたいなコンビ。今回、残念ながら、主演の井上倫宏は、充分な苦悩が感じられなかったし、メフィストフィリスの乙倉遙とも噛み合っていなかった。また、『オセロー』の本当の主人公で、劇の核心がイアゴーであるように、メフィストフィリスこそ、この劇の中心、複雑な顔を見せる存在。過去の挫折と嫉妬にさいなまれるイアゴーのように、悪魔メフィストフィリスもまた、人間に神の寵愛を奪われた存在なのだから。しかし、鈴木の演出も、乙倉の演技も、そういう陰影を表現出来たとは思えない。何よりもマーローの台詞の深い読みこみが必要だが、表面のチャラチャラした面白くもない仕掛けに目を取られているうちに劇が終わってしまった感がある。

2015/09/26

『海辺のカフカ』(埼玉芸術劇場、2015.9.19)

『海辺のカフカ』 
埼玉県芸術文化財団、ホリプロ、TBS 公演
観劇日:2015.9.19   18:30-21:55 (20分の休憩含む)
劇場:埼玉芸術劇場

演出:蜷川幸雄
原作:村上春樹
脚本:フランク・ギャラティー
翻訳:平塚隼介
美術:中越司
照明:服部基
音楽:阿部海太郎

出演:
古畑新之 (カフカ、東京に住む15才の少年)
木場勝巳 (ナカタ、知的障害者)
宮沢りえ (佐伯、図書館長/少女)
藤木直人 (大島、図書館員)
鈴木杏 (さくら、美容師)
柿澤勇人 (カラス [カフカの分身])
高橋努 (星野、トラック運転手)
新川将人(ジョニー・ウオーカーの姿の作家)
鳥山昌克(カーネル・サンダースの姿のポン引き)
土井睦月子(アルバイト売春婦の学生)

☆☆☆☆ / 5

私は日本の小説をほとんど読んでない。中学・高校の頃は、明治以降の小説を結構読んだが、それ以後は滅多に読まなくなった。それで村上春樹の作品も読んでなくて、『海辺のカフカ』についても予備知識がないまま、今回観劇した。そのせいで、シェイクスピアなどの英米演劇と違って、かえって自由に楽しめたかも知れない。見て居る間も楽しかったし、見終わってからも色々想像が膨らむ舞台だ。但、最初の30分くらい、何となく劇の世界に入っていけるまでは、疲れて体調が悪ったせいか、うとうとしてしまい、いまひとつ良く憶えてない。でもその後は最後まで本当に楽しかった。

公式サイトによる物語の紹介は:
主人公の「僕」は、自分の分身ともいえるカラスに導かれて「世界で最もタフな15歳になる」ことを決意し、15歳の誕生日に父親と共に過ごした家を出る。そして四国で身を寄せた甲村図書館で、司書を務める大島や、幼い頃に自分を置いて家を出た母と思われる女性(佐伯)に巡り会い、父親にかけられた〝呪い〟に向き合うことになる。一方、東京に住む、猫と会話のできる不思議な老人ナカタさんは、近所の迷い猫の捜索を引き受けたことがきっかけで、星野が運転する長距離トラックに乗って四国に向かうことになる。それぞれの物語は、いつしか次第にシンクロし…。
この作品についての常識のようだが、オィディプス・コンプレックスが主要なモチーフになっている。カフカの父、ジョニー・ウォーカーはナカタさんという知的障害者によって殺害される(正しくは、ナカタさんを脅迫して、自分を殺させる)。一方で、カフカはその事件以前に父親のもとから家出して、知り合った美容師のおねえさんと共に、四国へ向かう。殺人犯にさせられたナカタさんも、運転手の星野のトラックに乗せて貰って四国へ。カフカは四国で、大島の助けを得て小さな私設図書館に泊まり込むが、そこで働いていたのが、若い頃に彼を残して家を出ていった彼の母親の佐伯。その佐伯は彼を誘惑してセックスをする。つまり、カフカとナカタさんをひとりの人物の分身のように考えると、「父親を殺して母と交わる」というオィディプス伝説の大枠と一致する。もっとも、ナカタさんは穏やかで心優しい知的障害者なのに、無理に殺人を強いられるし、カフカは佐伯に誘惑されるので、どちらも自分からというわけではない。

私にとっては、この話はまず「巡礼」、英語で言うと”pilgrimage”、と見えた。主人公もナカタさんも東京から四国へと旅をする。四国というとお遍路さんの地、そして、ナカタさんが不思議な石を見つけるのは神社の森。カフカも森の中で戦争の時代を生き続ける逃亡兵に出会う。2人は、四国の森で時間や空間の切れ目に入り込み、異次元空間、所謂「異界」(the other world)に迷い込む。宗教的、神話的要素豊かで、ケルトの巡礼譚を思い出した。ナカタさんは猫と会話が出来るが、動物と人間の交流もまたケルト民話のようだ。ただし、こういう要素は日本の民話でもその他の国の民話でも良く出てくると思う。

この巡礼譚は、同時にカフカの成長物語でもある。父親の影響を超克し、母を通して性を知って大人になっていく男の子の旅物語である。母と交わると言うと、かなりドロドロした感じもするが、広くシンボリックに考えると、男の子が女性を、母という身近な人を通じて、性の相手として意識し始めるというのは、具体的な行為に及ばなくても、不思議なことではない。そうした大人の性の入り口にいるカフカの後見人的役割を果たすのが図書館の職員、大島だが、彼が男女を越えた両性的存在であるのも興味深い。

原作はかなり複雑な小説だと思うが、脚本はその筋書きを上手くまとめていて、比較的分かりやすい舞台になっている。蜷川は、彼らしいビジュアルの要素を最大限に活かした。舞台には、蛍光灯で照明された大小の透明な長方形のコンテナみたいなコンパートメントが次々と現れ、それらが舞台上のもう一つの舞台のように機能する。その四角い透明の空間の中でドラマが進行し、一区切りつくと、中世劇のペイジェント・ワゴンやお祭りの山車のように、力強い黒子達に押されて舞台の外に移動する。それらの流れるような動きは実に見事に、時間の流れと空間の移動を感じさせる。まさに「巡礼」の旅にふさわしい。

観客はまるでお祭りの山車の上で繰り広げられる芸能を見るかのように、現れては去って行く複数の透明コンパートメントの中のドラマをのぞき込む。テレビ・モニターの向こうの世界を見るように。こうした複数のシーンを受け手のひとつの視野の中に並列させるのは、マンガのやり方であり、古くは日本の絵巻物とか、西欧の近代初期までの絵画に良く見られる。最後には、こうしたコンパートメントが消えていって、ひとつの舞台に広がって終わった。

それで思い出したのが、同じく蜷川演出の『ペール・ギュント』(1994)。あれはゲームセンターのゲーム機のスクリーンの中で展開するドラマとして設定されていた。小さなスクリーンの中のドラマが舞台全体に広がり、最後は舞台がゲーム機のスクリーンに収斂されて終わった。今回はその逆だ。カフカが分身のナカタさんと共に、幾つかの小さな物語に加わり、最後にまた、カフカに戻っていく。ちなみに、『ペール・ギュント』も、若者の成長物語であり、一種の巡礼譚とも言えるだろう。

透明コンパートメントの中でも異色なのが、佐伯(宮沢りえ)が体を精一杯縮めて入った小型のチェストほどのもの。この小さなコンパートメントは、山車のような大きなコンパートメントを縫うように、なめらかで自在に動き回る。佐伯は、その透明な箱の中から、舞台の他の人物や出来事ではなく、ひたすら観客を無表情に凝視し続ける、まるでテレビをじっと見ているかのように。観客に、自分達の持つドラマを意識させる異化効果を感じた。大きなコンパートメントは、舞台の中の舞台となって、観客と舞台の距離を広げてしまうが、佐伯が観客を凝視し続けることで、観客も含めた劇場全体がひとつのドラマとして結ばれる効果を産むと感じた。

森のシーンで、木々が植わった透明コンパートメントが動くのを見て、『マクベス』での動くバーナムの森を思い出した。そんなところに蜷川の着想があったかも?

ちょっと歌謡曲調のテーマソング、カラフルな照明やネオンサイン、きれいなんだけど、全体として、いつものウェットであか抜けない蜷川節全開っていう感じだったな。先日会った大先輩が、「私、蜷川、嫌いなの」と言っていたけど、それも分かる。昭和歌謡の世界というか・・・。『海辺のカフカ』も、他の演出家がやってみると、全く違うものになって面白いだろう。ちなみに、この脚本は、元々、シカゴの著名な劇団、Steppenwolf Theatre Companyによる上演のために劇団員フランク・ギャラティーが村上の原作を元に英語で書いたものだ。Steppenwolfの公演は2008-09年だった。興味深いことに、Steppenwolfの公演は、休憩も含めて2時間15分だったとのこと。カットもあったかもしれないが、蜷川版よりも台詞中心の劇だったんだろうと想像する。

カフカを演じる古畑新之は、本当に主人公の年齢くらいだそうで、しかも子役経験もほとんどないみたいだ。当然、台詞は下手だし、明らかなタイミングのずれもあった。しかし、その素朴さこそ、蜷川の意図したことだろう。15歳位の役は難しい。演技慣れした子役だと、こましゃくれた感じで悪い印象を生みかねない。今回のキャスティングは適切だと思う。その他では、ナカタ役の木場勝巳が、いつもながら安心して楽しめる演技。鈴木杏の平々凡々のおねえさんぶりにも好感が持てた。対照的に、細かなところまで絵に描いたような幻想の母を演じ続ける宮沢りえも良い。但、大事なセックスのシーンで下着をつけ、透けたカーテンでオブラートに包んだようにしてしまっては、リアリティーがかなり落ちた。スターだから、仕方ないか。他の俳優もそれぞれ好演していたと思うが、特に鳥山昌克(カーネル・サンダースの姿のポン引き)、土井睦月子(売春婦の学生)は、コミカルな役割で大いに楽しませてくれた。

この夜もカーテンコールが3回もあって、しかも3回目はスタンディング・オベーション。あの熱狂によって、余韻に浸ることもしづらいし、じっくりと考える余韻を失いそうになる。

2015/09/23

『NINAGAWA・マクベス』(シアター・コクーン、2015.9.22)

『NINAGAWA・マクベス』 

主催:ホリプロ
観劇日:2015.9.22   13:30-16:15 (20分の休憩含む)
劇場:Bunkamura シアター・コクーン

演出:蜷川幸雄
原作:ウィリアム・シェイクスピア
翻訳:小田島雄志
美術:妹尾河童
照明:吉井澄雄
音楽:甲斐正人
音響:高橋克司
振付:花柳寿楽
衣裳:辻村寿三郎

出演:
市村正親 (マクベス)
田中祐子 (マクベス夫人)
橋本さとし (バンクォー、マクベスの戦友)
砂原健佑(フリーアンス、バンクォーの息子)
瑳川哲朗 (ダンカン王)
柳楽優弥 (マルカム、ダンカン王の長男)
内田健司(ドナルベーン、ダンカン王の次男)
吉田鋼太郎 (マクダフ、バンクォーの家臣)
長内映里香(マクダフ夫人)
沢竜二 (門番)
中村京蔵(魔女1)
神山大和(魔女2)
清家栄一(魔女3)

☆☆☆ / 5

蜷川幸雄を世界的な演出家として知らしめた傑作舞台の再演。もう何度目の再演だろうか。おそらくこれが最後になるのだろう。私は一度も見たことがなく、今回のチケット代は今の私には高価すぎたが、これが最後の機会になるかもと思って出かけることにした。一度も見たことが無いとは言え、写真とか、リビューとか、他人から聞いた感想などで、断片的なイメージは湧く。それに、蜷川はビジュアル的要素や音楽を繰り返し使うので、その公演がビジュアルに依存すればするほど、どこかで見たような?という感覚に陥るのだが、今回、特にそうだった。全体が蜷川ムードで埋め尽くされている:散る桜、赤い満月、エモーションを掻き立てる音楽、スタイライズされた殺陣・・・。仏壇というプロセニアムに囲まれた紙芝居。商業演劇、あるいは大衆演劇的要素がいっぱいで、日本人にとって親しみやすいチャンバラ・シェイクスピアになったとも言えるだろう。特に、市村正親という俳優はそういう芝居が身についていて、サービス精神たっぷりだ。最後のモノローグが多い場面では、劇場全体の注目を一身に惹きつけるカリスマを持つ。体の動きも、計算されているかのように一瞬一瞬が絵になっている。しかし、逆に言えば、パターン化しており、実に田舎くさい大衆演劇の看板役者風とも言える。圧倒的な熱演と見るか、役に溺れた独りよがりの演技と見るかは、個々の観客の好みだろう。彼の問題点は、滑舌がやや悪いこと。台詞が潰れて聞き取りにくい。モノローグで1人で話すところでは、ゆっくりと言うので分かりやすいが、ダイアローグでは聞きづらく、従って台詞が生きない。

田中祐子のマクベス夫人は、充分に悪女の凄みを感じさせ、台詞のキレも良い。柳楽優弥が演ずるマルカムも、台詞は良く聞き取れ、姿も内面も真っ直ぐな王子を好演していて、印象に残る。バンクォー役の橋本さとしも、声がとおり、台詞回しが良かった。問題は吉田鋼太郎のマクダフ。マクダフがやたらと目立つ『マクベス』になってしまったのは、制作や演出側に、人気急上昇の彼を見に来るファンにサービスしようという意図があるからだろうか。上手いんだが、役柄以上に派手で目立ちすぎ。吉田はまた、台詞の末尾を張り上げる癖があるようだが、そういう日頃さほど気にならないことまで気になってしまった。3人の魔女を女形にしたのは面白い工夫だが、その動機とか必然性は、私には不可解。3人のうち、1人は本当に女形の訓練を受けたような印象だったが、他の人(少なくとも1人)は、女形の台詞になってないのも気になった。

極めて人工的なセットは、観客とステージの距離を広げ、まるで映画のスクリーンを見ているような感じを与えかねない。その距離を縮め、観客とステージの仲達をする者として、芝居見物をする2人の老婆をステージの両脇に置いたが、これは蜷川の他のプロダクション(多分、『ペリクリー ズ』)でも使われていた手法。埼玉ゴールド・シアターの年配者を配したことでリアリティーを増して良かった。

市村、田中、吉田、柳楽などの人気俳優の個性と、それを包む蜷川組の豪華なセットが、それぞれ印象的な舞台。『NINAGAWA・マクベス』を体験して良かったとは思うが、全体としては、私には不満が残った、シェイクスピアの台詞の面白さ、奥深さが、ビジュアルやスターの輝きに圧倒されて、心に響いてこなかったからだ。それとも、私の感受性が乏しいからだろうか?

3回のカーテンコールと、最後にはスタンディング・オベーション。あの熱狂ぶり、もう少し押さえられないのかなあ。マクベスの死を静かにかみしめつつ、運命と人生の不思議に思いを巡らす時間と雰囲気を奪われた気分。

2015/09/08

ユージン・オニール『夜への長い旅路』(シアター・トラム、2015.9.7)

『夜への長い旅路』 

企画・制作:梅田芸術劇場
観劇日:2015.9.7   18:30-21:00 (休憩1回)
劇場:シアター・トラム

演出:熊林弘高
原作:ユージン・オニール
翻訳・台本:木内宏昌
美術:島次郎
衣装:原まさみ
照明:笠原俊幸
音響:長野朋美

出演:
益岡徹 (ジェイムズ・ティローン)
麻実れい (メアリー、ジェイズの妻)
田中圭 (ジェイミー、長男)
満島真之介 (エドマンド、次男)

☆☆ / 5

ユージン・オニール(1883ー1953)によるアメリカ演劇史上最高傑作と言われる事もある名作の上演。私は原作を読んでないが、そのまま上演すると5時間はかかるという大作らしい。オニールの自伝的作品で、エドマンドがオニールの分身だそうだ。しかし、亡くなった赤ん坊が名前だけ出て来て、その子はユージーンでもある。

映画やテレビが主流になる前の時代、商業的に成功した舞台俳優だったジェイムズ・ティローンとその一家がジェイムズの妻メアリーの麻薬中毒の問題を中心に苦しむある一日の様子を、朝から夜遅くに到るまでを長々と描く、文字通り「夜への長い旅路」。ジェイムズは人気俳優で、広いアメリカを劇場から劇場へ、旅回りの毎日。妻は、自分の音楽への夢を捨て、旅先の安ホテルで夫の帰りを待つ生活を長く続けていた。ジェイムズは、収入は多いだろうが、吝嗇で家族にはケチなことばかり言う。それなのにいい加減な不動産投資に乗せられて借財を作ったりしており、家屋敷は抵当に入っている。妻は昔、息子のユージーンを失って以来、麻薬中毒に苦しんで、最近まで施設に入院していたが、今は家に戻っている。しかし、家族は彼女が今日にもまた麻薬を始めるのではないかと気が気ではない。一方、長男ジェイミーは酒浸りで、まともな社会人生活を送れておらず、エドマンドは咳ばかりして、結核を疑われており、この日、専門医から正式な診断を告げられることになっている。そうなれば、彼は療養所行きで、その後には死が待っているかも知れない。4人は、それぞれ、昔抱いていた夢が破れていったことを思い出しつつ、互いに今の不幸の責任を押しつけ合い、いがみ合う。時間が経ち、夜になるにつれ、家族の窮地は刻々と深まっていく・・・・。

古典的な三一致の法則(劇の時間と劇中の物語の時間が一致し、1つの場面で行われる形式)をほぼ守る長尺の劇。但、実際は、5時間を越えるテキストそのままの上演は滅多になく、かなりカットせざるを得ないようだ。そこで今回の上演だが、どのくらい時間がかかるのか知らずに見始めたところ、あっという間に休憩時間。その時点で、1時間。そこでロビーの貼り紙を見て、休憩を含め2時間半、正味2時間15分程度の公演と知った。道理で、さっさと話が進む。しつこい会話劇と思ったのにあっさりしたものになっている。謂わば、「夜への短い旅路」。原作を読んでいない私が偉そうなことは言えないが、5時間もある劇を半分以下にカットしてしまって、それで、この作品を上演しました、と胸を張って言えるのだろうか、と思った。カットのせいかどうか分からないが、物語の背景がかなり薄くしか語られない印象だし、ユージーンの死にまつわるメアリーのショックも、いまひとつそのインパクトが伝わってこない気がした。

原作ではコネチカットの海辺のティローン家の屋敷が舞台。今回のステージは、ほぼ何もない、裸の、幅広い廊下みたいな舞台で、奥に扉がある。両側には砂地みたいな場所があり、戸外を示す。モダンな、一種の「何もない空間」で、意図的にこの劇の時代や地域の背景を切り捨てて、ユニバーサルな家族の劇に仕立てようという演出上の意図を感じた。衣装も、麻実れいはドレスだが、益岡徹はしわくちゃのスーツみたいなもの(上はベストだけだったか)、若い2人は現代のカジュアルウェア。ボディータッチが多く、息子達が取っ組み合ったりして、20世紀初頭の人々の振るまいとは思えない。ジェイムズとメアリーの間にある教養とか育ちとか感受性の差なども、あまり伝わらない。もっとそういうことをうかがわせる台詞が沢山あるはずと思った。演技の問題と台詞のカットが重なってか、息子2人の生活感やキャラクターの違い、特にエドマンドの繊細さが感じられない。それでもオニールは面白くて、後半はある程度引き込まれた。しかし、ずっと、「こんなはずじゃない」という気持ちが続いた。

この劇はオニールが自分自身の家族と人生を通じて、今昔のアメリカという国の夢とその挫折の原型を描いている点に、その説得力の源があると思う。夢、成功、欺瞞、嘘、犠牲・・・、そういったものが家族を追い詰めるプロセスが、長い時間見ている間に、観客にじわじわと、真綿で締められるように迫ってきて、最後には、苦しいほどの悲痛な気持ちを与えて終わる。つまり、『セールスマンの死』とか、『欲望という名の電車』同様、アメリカン・ドリームの挫折を描いた傑作と言える。しかし、今回、アメリカ的なものが感じにくいユニバーサルな家族劇にしてしまい、この点はすっかり霞んでしまった。それで得たものはあったのだろうか。

初日だから、台詞や俳優同士のタイミングに多少の問題はあったようだが、これは仕方ないだろう。このブログでも良く書いているように、私も俳優の演技を見る目には、全く自信がない。その上で、若い2人の俳優はものたりないと感じた。田中圭は、アル中の人生破綻者には見えず、荒れてはいても、格好良すぎるお兄さんのままだ。満島真之介は台詞が棒読みみたいに単調なところが時々あったし、重い結核で苦しんでいるには元気に見えすぎる。ジェイムズを演じる益岡徹は、ジェイムズのキャラクターが要求する家長としての権威、力強さ、虚勢が出ていただろうか。そして、麻実れいだが、立ち姿が美しい実に見栄えのする俳優だが、それだけに、麻薬中毒で崩れていく人物としてのリアリティーには決定的に欠けていた。最後は狂ったオフェーリアのような滅びの姿だったが、美しすぎる。

珍しいオニールの作品を上演して貰った事に感謝したいし、一定の満足感はあった。しかし、期待があるだけに、物足りなさも大いに感じた。飽きるぐらい、退屈するくらい、3時間半はやってほしいな。

2015/09/04

Sara Paretsky, “Critical Mass” (2013)

Sara Paretsky, “Critical Mass”

(2013; New York: Hodder & Stoughton, 2014)  465 pages.

☆☆☆☆ / 5

私にとって、ParetskyのV. I. Wawshawski シリーズは、どの作品も楽しめる定番ミステリ。2回読んだ作品もあり、今回も期待を裏切らない。ナチス時代のウィーンで原子力を研究していた科学者達と現代のシカゴのハイテク企業の間にある繋がりは何か、シカゴの女性私立探偵V. I. がいつもの様に全力で、体を張って追及する。

V. I. は親友の医者、Lotty Herschelから行く方不明の麻薬中毒患者(ジャンキー)Judy Binderの捜索依頼を受ける。Judyは消息を絶つ前に、助けを求める必死の電話をV. I. にかけていた。Judyの母親KätheとLottyは、戦前のウィーンで一緒に育った幼なじみ。Judyには息子Martinがおり、コンピューターやセキュリティーを扱うハイテク企業Metargonの研修生だったが、彼もまた消え失せてしまった。Judyに麻薬を売っていた売人Ricky Schalaflyの繋がりから、V. I. が麻薬工場と化していた打ち捨てられた農場に行くと、そこにはカラスに食い荒らされ、腐敗した売人の死体があった。更にそこに残されていた古い写真には、戦前のウィーンにあった放射線化学研究所という原子力研究機関の研究チームが写っていた。そのチームのひとりが、Kätheの母親で、天才的科学者Martina Saginorだった。Lotty、Käthe、Martinaはユダヤ人であったので、ウィーンを脱出し、アメリカに流れ着いた。その過程で、Martinaは才能を搾取され、発明を盗まれてしまう。一方、ウィーンの研究所の同僚達も、ナチスの信奉者だった者も含め、米国の「ペイパークリップ作戦」(The Project Paperclip)と呼ばれる作戦により、アメリカに移民して、立派な研究職を得ており、その中には後のMetargon関係者も含まれていた。Martinaのアメリカでの足取りは全く分かっていなかったが、V. I. は Judy BinderとMartinを捜すうちに、ウィーンの研究所におけるユダヤ人や女性科学者達の搾取と迫害、軍需ハイテク企業やアメリカ政府の国土安全保障省(The Department of Homeland Security)の暗黒部に分け入ることになる・・・・。

ミステリとは言え、リベラルな視点からアメリカの社会問題を扱うParetskyらしい作品。軍事関連のハイテク企業と、通常の法律や個人のプライバシーを国家の安全の名の下にいとも容易く踏みにじる国家安全保障省の闇。それらをたどると、ナチスによるユダヤ人迫害によって破壊された人生や、今昔の科学界の女性差別に行き着く。Project Paperclipは実際に行われた作戦で、このおかげで沢山のドイツの研究者が太平洋戦争の為の武器開発、特に原爆の開発や、その後のロケット開発の為にアメリカに連れてこられた。その中には、おそらく、ナチスの一員として残虐行為に荷担した者もかなり含まれていたのではないか、とParetskyは末尾の「歴史的ノート」に書いている。表題の”Critical Mass”とは、原子力における「臨界量」(核分裂の連鎖反応が持続する核分裂物質の最少質量)のことだそうだ。

V. I. はいつもながらエネルギッシュ。Paretskyはアクション・シーンの書き方が上手くて、息もつかせない。但、戦前のウィーン、戦後のシカゴ、そして今のシカゴと、3つの時代を行きつ戻りつするストーリーを英語で読むのは、かなり集中力を要し、私の読解力や英語力を越えている時もあった。Mr Contreras、Lotty、Max、彼女の愛犬たちなど、いつものV. I. ファミリーとの和やかなシーンが込み入ったプロットや目まぐるしいアクション・シーンを適度に和らげてくれる。全体として、大変満足感ある小説に仕上がっている。

(追記)以上を書いた後で検索して見たら、『セプテンバー・ラプソディー』というタイトルでハヤカワ・ミステリ文庫から和訳が出ていた。和訳が早々に出ているのは結構だし、短期間で翻訳された山本やよいさんにも敬意を表したい。私も、最初にパレツキーを読んだのは翻訳を通してだった。それにしても、出版社の意向だろうけど、このヤワなタイトルには不満。シリアスな社会問題を扱った内容の雰囲気をぶち壊し。女性の探偵だから女性読者が多いだろうと考え、そうなるとハードな社会小説風のタイトルだと売れない、という想定だろうか?だとしたら、パレツキーの女性ファンを馬鹿にしてないか? そもそも、訳本のパステル色の表紙のイラストが本の内容にそぐわないんだけど。英語版とえらい違いだ。

2015/09/02

イプセン『人民の敵』(吉祥寺シアター、2015.8.30)

オフィス・コットーネ公演『人民の敵』 

観劇日:2015.8.30   14:00-17:00
劇場:吉祥寺シアター

演出:森新太郎
原作:ヘンリック・イプセン
翻訳:原千代海
構成・上演台本:フジノサツコ
美術:長田佳代子
照明:奥田賢太
音響:原島正治

出演:
瀬川亮(トマス・ストックマン、湯治場の勤務医)
山本亨 (ベーテル・ストックマン市長、トマスの兄)
松永玲子 (トマスの妻)
有薗芳記 (ホブスタ、新聞「民報」の編集者)
青山勝 (アスラクセン、家主組合の組合長、印刷所オーナー)
塩野谷政幸 (ホルステル、船長)
若松武史 (モルテン・キール、製革工場主、トマスの義父)

☆☆☆☆/ 5

本当に久しぶりの観劇だったが、良い劇を見させていただいた。イプセンの劇でも滅多に上演されない作品で、今回初めて見た。素晴らしい戯曲、公害や民主主義の脆弱さを扱い、19世紀(1882)の作品と思えない先見性を持っている。演出は、近年活躍している森新太郎。

ストックマン医師は、ある田舎町の湯治場に勤める医師。彼は最近、温泉のお湯が製革工場から出る汚水のバクテリアで汚染されていることを発見した。ナイーブな事に、ストックマンは、その発見でで自分は町の人々から英雄視されるに違いないと有頂天になっている。何しろ、優れた科学的な知見により、正しい事をしているのだから。しかし、もちろん、こんな事が公になれば温泉の人気はガタ落ちだし、温泉の配管を改修するために巨額の費用と長い休業を必要とすることになる。ストックマンの兄の市長は何とか発表を押さえようと説得にかかる。市長と政治的には対立していた新聞編集者や家主組合の組合長などは、最初、ストックマンを支援するが、温泉の改修や休業の事を聞いた途端にストックマンと対立。妻でさえ、身重で、これからの生活の事を考えると、夫の正義感に首をかしげる。医師は最後には妻と旧友の船長以外、誰ひとり支援者もなく、孤立していく。

上のようにまとめると、まるで善と悪の人物が対立するような構図だが、トマス・ストックマンは立派な聖人ではない。劇のほとんどでは、彼の行動は子供っぽい名誉欲、功名心にかられてのことであり、正義や真理を純粋に追い求めているわけではない。自分の発見が町にどういう深刻な影響を与え、どんな反響を巻き起こすかまったく予想せずに有頂天になっているあたりは、世間知らずの科学者のステレオタイプで、カリカチュアとも見える。しかし、兄に説教され、ホブスタやアスラクセンに裏切られ、妻にも責められることで、彼は裸にされて、自分の置かれた状況を理解する。彼に最後まで寄り添うのは、悩みつつも夫を支える妻と、友情を体現したような船長の2人のみ。

子供のようなナイーブな主人公が、様々の善悪の人物の誘惑や励ましに翻弄されつつ、自己認識に到る、という筋書きは、『エブリマン』のような中世道徳劇の伝統を思わせる。ストックマンが、悪魔のような市長や義父からの誘惑を退けてあえて人民の敵に甘んじるというのは、謂わば、世俗から離脱し、神の教えに戻ると言えるかも知れない。死を前にして神の元に帰って行く道徳劇の主人公を思い出す。ノルウェー人の作品ではあるが、イプセンはイギリスの道徳劇を知っていたのか、それともノルウェーにそういう劇の伝統があるのだろうか。一方で、ディケンズのような19世紀の小説も含めて、直接の影響関係はなくても、西欧文学全体に、こうした道徳劇的な文学の伝統が綿々として続いているとも言えるだろう。自我の成長とか覚醒を、最も原初的な姿で劇化したのが、道徳劇なのだから。

四角い舞台を観客席が四方から囲むように劇場を使って、心理的に観客を劇に包み込む。イギリスで言うと、Orange Tree Theatreと同じ形。2階席には客を入れず、後半で、集まった市民達が烏合の衆として様々にストックマンに罵声を浴びせかけ、彼を民衆の敵に仕立て上げる。受難劇でキリストを断罪するユダヤ人のようだ。そうした2階の俳優達(市民達)と舞台の俳優に挟まれた、我々実際の観客もまた、烏合の衆の一部と化すという、シェイクスピア上演などではよく使われる仕掛け。舞台には、椅子しかセットはなしで、裸の舞台は、極めて道徳劇風である。

俳優は皆熱演であったが、小劇場にふさわしくない大声を張り上げての演技には、年寄りの私には、耳鳴りがしそうな時もあった。概して、もっと押さえて、緩急、強弱のめりはりをつけた台詞回しができないものだろうかと、ずっと思いながら聞いていた。その中で、市長を演じる山本亨は、役柄や台詞の質によるとは言え、押さえた演技で俳優としての優れた技術を感じさせた。市長とトマスの義父モルテン・キール(若松武史)の演技は、これらのキャラクターのメフィストフェレス的な側面を充分に浮き上がらせた。但、若松はちょっと役をいじりすぎとは思った。ホブスタとアスラクセンのふたりも、かなり面白い皮肉な造形なので、ふたりのベテラン俳優はそれなりに上手く演じてはいたが、もっともっと面白く、ベン・ジョンソンの喜劇の人物のように演じられそうな気がした。ストックマン医師を演じた瀬川亮は、精一杯の頑張りを感じたし、甘いマスクにすねた表情が似合っていたが、フォルテシモの時が多すぎ、まだ成長の余地があるような・・・?

公害が及ぼす危険、それを告発した者を町の経済的利益の為に圧殺する市長、マスコミ、経済界の指導者、そして一般市民達。中世劇と関連づけて書いてしまったが、非常に現代的な作品で、日本の水俣病、新潟水俣病、カネミ油症、原爆病、そして福島原発・・・と繰り返されてきた事件と同じ展開とも言える。告発者が聖人君子とは限らない点も、マスコミが風見鶏のように寝返る点、圧力をかける側は告発者の弱点として、生活の基盤や家族を攻める点なども、大変リアリティー豊か。市長がどこかの政治家にそっくりに見えた観客は多いだろう。

関連する歴史的事実として、ノルウェーでは、1814年に憲法を制定したが、それが定める選挙は、当時、世界でも最も民主的なもののひとつだったとのこと。この時、全ての公職を持つ男性と土地を持つ男性に選挙権が付与された。ノルウェーの場合、多くの農民が土地を所有していたので、選挙権保持者は大変多かったらしい。しかし、全ての成人男性に選挙権が与えられたのは、この劇の書かれた大分後の1898年、そして、女性が選挙権を得て、真の普通選挙となったのは1923年。どちらもイングランドよりは大分早い。いずれにせよ、西欧諸国の中でも特に早くから民主主義国家の骨格が形作られた国だからこそ、「大衆」の愚かしさも認識されていたのだろう。また、民主主義とは言っても、アスラクセンに代表される有産階級が政治を牛耳っており、労働者とか使用人などが出てこないのも、当時のノルウェー社会の限られた民主主義を反映しているのだろうか。以上はこのサイトから

2015/07/18

ガーディアン紙の新編集長、Katherine Viner

 
ガーディアン紙をイギリスのリベラル新聞として、そして最も読まれているインターネット新聞として一層強固にしたチーフ・エディターAlan Rusbridgerがこの夏退任する。彼の後任のチーフ・エディターが昨年から今年にかけて選ばれ、結果は3月に発表されていた。その人は Katherine Viner(写真の方)、ガーディアン史上、初めての女性チーフ・エディター。3月にはよく記事を読まなかったのだが、その選抜方式や結果が日本から見る とあまりに凄いので、書いておきたい。

ガーディアンのチーフ・エディターは、まるで民主的な大学のような、ユニークな選抜システムで決まる。今回、29人がこの職にアプライ(つまり立 候補)した。演説会が開かれ、その後、フリーランスだがガーディアンにしばしば寄稿する人も含め、839人のガーディアン所属ジャーナリストによる投票が 行われた。その結果、獲得票数は:

1. Katherine Viner 438
2. Emily Bell 188
3. Janine Gibson 185
4. Wolfgang Blau 29

4人とも、ガーディアン・メディア・グループで既に要職に就いている人のようだが、実質的に争いをした3名が皆女性! 日本のメディアでは何十年先でも考えられないこと?

新しいチーフ・エディターについて

チーフ・エディターの選挙について

なお、Alan Rusbridgerは、来年、ガーディアン・メディア・グループの経営母体、Scott Trustの理事長に就任することが決まっている。現在のScott Trustの理事長は、Dame Liz Forgan。彼女は、かってChannel 4やBBCの幹部だった人。Scott Trustはガーディアンの編集方針には一切口を挟まないことになっている。

ガーディアン・グループは、近年本業でずっと赤字が出ているようだ。それを自動車販売会社など他業種への投資やリストラなどでカバーして凌いでき た。2年くらい前には、赤字を生み続ける紙媒体での発行から完全に撤退するらしい、という報道もあったが、今のところそうなってはいない。とにかく楽観で きない状態のようだ。世界各国の主要新聞のように、デジタル版で利益を出そうと頑張ってはいるが、どうなんだろう。ガーディアンが選んでいる方策は自社の ニュースサイトを無料にし、広告収入を増やすということのようだ。記事を有料化しているタイムズとは対照的。

2015/05/29

展覧会「ボッティチェリとルネサンス」






ボッティチェリとルネサンス:フィレンツェの富と美 
(Bunkamura ザ・ミュージアム、2015.5.26午後)

都心で用事があって、それを済ませた後、標記の展覧会に行って来た。とても楽しく見ることが出来た。親しい友人夫妻から招待券をいただいて出かけた。ご夫妻にはこの場を借りてお礼を申し上げます。

サンドロ・ボッティチェリ(1445-1510)というと、美術に疎い私でも、「春」(プリマヴェーラ)とか、「ヴィーナスの誕生」などが思い浮かぶ。今回、チラシによると「国内市場最大規模」の展覧会だそうで、かなりの数(17点)の彼の作品が見られた。中でも巨大なフレスコ画「受胎告知」(243 x 555 cm)は大変見応えがあった。但、彼の「工房」の作品となっている絵の中には、素人目にも平面的で深みに欠けるものはあった。

彼の絵に描かれる男女の、私にとっての魅力は、独特の透明感、生きた人間としての生臭さがない美、みたいなもの。そう言うと失礼かも知れないが、もの凄く良く出来た陶器の人形とかロボットを、美しい絵にしたような感じがする。描かれるのは天使とかマリア様だから、むしろ、汗をかいたり、体臭がしたりしそうな人間くささよりも、リアリティーを越えた美しさがふさわしいと思っても許されるかも知れない。特に、どこを見ているか分からないような、透明感溢れる目がきれい。目を伏せていたり、つぶっていたりしても、そのまぶたやまつげに、表現しがたい魅力がある。マリアとか天使の姿勢や表情は、細かいところまでパターン化していると思うので、一種の様式美なのだろうか。しかし、そうしたパターンを使いながら、その制約を生かして、他の平凡な画家とは違う魅力を作り出すところが天才なんだろう。

今回の展覧会が私にとって特に面白かったのは、副題になっている「フィレンツェの富と美」に焦点を当てていることだ。英語のタイトルでは、’Money and Beauty: Botticelli and the Renaissance in Florence’ となっている。ボッティチェリはフィレンツェに生まれ、あの町で成功し、そして亡くなっている。作品の良き顧客であったコジモ(1389-1464)とロレンツォ(1449-92)の2人を中心としたメディチ家の支配するフィレンツェの経済界、政治、国際金融などと関連づけて、彼の作品を展示している。最初の展示室には、当時のフィレンツェの金貨、フィオリーノ金貨、がたくさん並べられていた。そして、1540年頃の絵、マリヌス・ファン・レイメルヴァーレに基づく模写「高利貸し」。これに描かれた金融業者のずる賢そうな表情がとても良い。後のイギリスのホガースの絵のような諷刺画を思いださせると共に、中世の絵画や演劇における寓意的な悪徳(「吝嗇」など)を表す人物のようでもある。更にこの関連で印象に残った絵は、フランチェスコ・ボッティチーニ作「大天使ラファエルとトビアス」(1485年頃)。旧約聖書の「トビト記」で語られる話を絵にしてあるそうで、天使が少年トビアスの手を取って旅立つシーンが描かれている。「トビト記」は、病気の父親が、貸した金の回収のために息子のトビアスを旅に出すが、両親の祈りを聞き入れたラファエルが旅に同行したという話だそうだ。天使が借金取りを保護してくれるという、如何にも金融業者の喜びそうな題材の絵である。前述の「高利貸し」の絵とは違って、ここでは大天使もトビアスも美しい、理想化された姿で描かれている。

ところで、当時、カトリック教会はキリスト教徒に、原則として、利子を目的とする金融業に従事することを禁止していた。そのため、中世においてはユダヤ人がその役割を担ったのは、『ベニスの商人』を見れば良く分かる。一方で、そうは言っても、様々な形で金の貸し借りは行われ、実際上金融業は盛んだったし、メディチ家もそれによって巨万の富を築いたそうだ。彼らが主に用いた手段は、国際金融において為替の差額を利用して利子を取ることだった。メディチ銀行発行の為替手形も展示されていた。ちなみに、15世紀頃のイングランドの宗教裁判所における民事裁判の多くは、借金の支払いに関するものだったというから、可笑しい。

聖母子の絵が何枚かあったが、マリアは、他の画家の絵でもしばしばそうであるように、赤い服の上に濃紺、ないし青のガウンを羽織っている場合が多い。赤い服は当時、奢侈条例で規制され、原則禁止された色だったと展示の説明にあった。但、奢侈条例で贅沢品を規制することで、商業活動を抑えることになり、市政府は困った。そこで、富裕層は罰金を払えばそうした贅沢品も購入出来るという制度が作られた。一種の累進的な消費税であり、現代にも通じる。しかし、金があれば法律を越えて(あるいは新しい法を作って)何でも出来、社会の格差も広がる、というのでは、庶民の間では不満も高まるだろう。

15世紀末になると、フィレンツェではメディチ家が失脚し、フランシスコ会指導者のジオラモ・サヴォナローラ(1452-98)が世の贅沢を糾弾し、禁欲的な信仰に戻るように唱える。彼は民衆に支持されて政治的権力を得、神権政治を行う。修道女プラウティッラ・ネッリによる「聖人としてのジオラモ・サヴォナローラ」(1550年頃)という絵も展示されていた。修道士の装束に身をまとった、如何にも厳格で禁欲的そうな人物の横顔が描かれている。この頃には、ボッティチェリもサヴォナローラに感化されてか、あるいは変化した世間に順応してか、絵も地味なものに変わっていったそうだ。そのサヴォナローラも、教皇から裁判にかけられ、絞首刑の後に火刑にされるという2重の刑罰を受ける。ボッティチェリの晩年も貧しく孤独なものだったらしい。

彼は一生結婚しなかった。ある高貴な既婚女性を一方的に愛し続けた、という伝説もあるそうだし、また、ホモセクシュアル、ないし、バイセクシュアル、という説もある(Wikipedia英語版による)。絵を見ているとホモセクシュアル説にはうなずける。彼の描く人々は、性別を超えた美しさを放っていると感じる。私は、ラファエル、ミケランジェロ、ダヴィンチなどよりも好きだ。彼は死後長らく美術史では忘れ去られた存在だったらしいが、彼の再評価を行ったのはラファエル前派の人達だったとのこと。なるほど、と思った。

展覧会のホームページに色々な解説や絵の画像、そして紹介ビデオがある。

2015/05/23

Jacob Savereyによるオランダの中世劇 (?) の絵とブリューゲル2世の絵

オランダの大学の先生、Johan Oostermanのツィッターを見ていると、中世劇のシーンの画像があった。中世劇の絵は色々な本やウェッブで見ているが、このオランダの画家Jacob Savereyによる中世劇のシーンは今まで見たことがなかった。

ハーグにあるマウリッツハイス美術館(Mauritshuis Museum of Fine Arts)に所蔵されているJacob Saverey, the Elderが1598年頃に書いた絵、「聖セバスチャンのお祭り」(Fair on Saint Sebastian's Day)の一部だそうである。残念ながら、あまり大きくない絵(41.5 x 62 cm)のごく一部なので、かなりぼんやりしている。絵全体はこうなっている

絵の右上のほうに、小さく野外ステージのまわりに集まっている人々が描かれている。もう17世紀に手が届くという時代であるから、「中世劇」とい うより、初期近代演劇、というべきだろうか。民衆演劇は、中世末から近代初期までそれほど変化していないと思うので、呼び方はどちらでもかまわないだろう。

ところで、この関連で有名な絵は、 ピーテル・ブリューゲル2世の「田舎の祭り」。16世紀末から17世紀にかけての時期の絵だ。こちらはパブリック・ドメインにある画像なのでコピーしておく:

真ん中に野外舞台が設えられて、劇が演じられている。そのあたりだけを切り取ると、


カーテンがあり、その裏が楽屋みたいになっている。ステージの背後をカーテンで隠すというアイデア、随分早くから始まったんだな、とちょっと意外。こういう風に後にカーテンを垂らすという慣例から、劇場が出来ると始まる前や終わった後に、前にカーテンを垂らすというアイデアが起こったのだろうか? イングランドでも、『マンカインド』など小さなグループによる劇はこういうステージで上演されたかも知れない。

2015/05/15

BBCの新しいピリオド・ドラマ:"Jonathan Strange and Mr Norrell"

イギリスのBBCテレビで、先日、新しい本格的ピリオド・ドラマが始まりました。19世紀初期を舞台に、科学と産業革命の時代に抗って活躍する魔術師達を描く"Jonathan Strange and Mr Norrell”、全7話。主役のひとり、Mr Norrellには、私の大好きな俳優Eddie Marsan (エディー・マーサン)、もうひとりの主役Jonathan Strange役は、Bertie Carvel。他にサミュエル・ウェストも出演。コスチュームを見るだけで楽しそうです。

物語の枠組は: Mr Norrellはヨークシャーの田舎に住む魔術師。ヨーク大聖堂の石像を動かして見せ、彼の魔術の威力を見せつけます。彼のポテンシャルの大きさを知った召使いのJohn Childermass (演じるのはEnzo Cilenti) は、ロンドンへ行って対仏戦争において、魔術で国を助けるようにと主人を説き伏せ、2人は上京します。一方、ロンドンでは、 若者Jonathan Strangeが、魔術師Vinculus (Paul Kaye) と遭遇します。VinculusはJonathanが大魔術師になる運命にあると吹き込み、Jonathanは魔術師修行を始めました・・・。

ある記事では、この番組は、『ハリー・ポッター』と『虚栄の市(Vanity Fair)』 と『ドクター・フー』を混ぜ合わせたような感じ、と表現しています。歴史的な壮大さ、ファンタジックな面白さ、そして奇想や特撮の魅力、というところでしょうか! 期待が膨らみます。

このYouTube videoの予告篇が雰囲気を伝えています。


エディー・マーサンの声が何とも言えない魅力。たまりません。

BBCの番組サイトは、こちら

2015/05/04

【イギリス映画】『家族の波紋』(Archipelago)2010年制作

連休の夜、先日WOWOWで録画した再放送のイギリス映画を見た。ジョアンナ・ホッグ脚本および監督の2010年のイギリス映画。日本では劇場公開してないらしいが、DVDが今年の夏、発売されることになっている。私個人は、描かれている題材やテーマにそれ程興味が持てず、特に面白いとも感じなかったが、かと言って、退屈もしなかった。とても知的な映画だが、見る人によっては、徹底的に退屈と思うかもしれない。

出演
エドワード (息子):トム・ヒドルストン
パトリシア (母):ケイト・フェイ
シンシア(娘) :リディア・レオナード
クリストファー (画家、絵画教師):クリストファー・ベイカー
ローズ(料理人) :エイミー・ロイド

☆☆☆/5

以下のストーリーは、WOWOWの紹介文より:

裕福な家庭に育った青年エドワードは、ボランティア活動のため1年間アフリカへ旅立つことになった。母パトリシアは息子との別れを惜しむため、シリー諸島にある別荘で旅立ちまでの間を過ごそうと家族を集める。エドワードと姉のシンシア、それに料理人のローズと絵画教師クリストファーが島にやって来るが、父だけが現われない。美しい島で優雅な日々を過ごしながら、家族の間には漠然とした不安が漂い・・・。

という話だが、何も大きな事件は起こらない。家族の間のわだかまりと緊張感を描くのみ。エドワードは、リベラルなミドルクラス。30歳位で、安定した職を捨てて、アフリカのボランティア活動に身を投じようとしているが、実際的で保守的な姉のシンシアはその無鉄砲さが許せず、イライラしている。エドワードの方は、姉が、そして大なり小なり母も、人生の最大の転機を祝福してくれないことに大いに不満だ。そもそも、こうして母や姉が別荘で使用人付きの休暇を用意したこと自体、彼がこれから踏み出そうとしている「清貧の」生活のアンチテーゼであり、無言の圧力と感じている。姉弟の間には、表面では穏やかに言葉を交わしていても、緊張感が漂う。母のパトリシアは、エドワードと暖かい別れのひとときを過ごしたいと、期待に満ちてこの機会を作ったのに、子供達がピリピリしているので、段々憂うつになってくる。父親も来ることになっているようで、時々電話もかかってくるのだが、本人は現れず、パトリシアを一層悩ませる。いつも育児は自分に任せきりだった夫は自分にとって何だったのか、自分が人生を捧げてきた子供の教育は失敗に終わったのか---子供達の争いを通して、パトリシア自身の人生の価値も問われる。

アッパー・ミドルクラスの人らしく、シンシアは使用人を使用人として扱うが、エドワードは、まるで友人のように雇われた料理人のローズを遇し、自ら朝食を出したり、皿を洗ったりするので、シンシアは怒るし、ローズは当惑する。ローズはインテリジェントな女性で、英語もスタンダード・イングリッシュ。料理の「プロフェッショナル」だ。雇われ絵画教師のクリストファーは、母親と息子の相談相手になる。一方、エドワードはボランティア活動に身を投じて、豊かさを捨てようとしている。使用人達の存在は、かってのアッパー・ミドルクラスの家庭におけるものとは大きく違う。外国人の私からすると、イギリスの階級差の変容が感じられ、興味深かった。知性のありそうなローズがどのような気持ちでこの家族を観察しているか、観客にははっきりとは知らされないが、想像を膨らませられる。

シンシアの咎めるような言葉には反駁しつつも、エドワード自身も自分の後先を顧みない進路の変更に、充分には自信が持てない。アフリカに行って、エイズ予防の性教育の為に働こうとしているのだが、それが本当に現地の人々の暮らしに違いを生むような成果を上げられるのか心許なく感じ、絵の家庭教師のクリストファーに悩みを打ち明ける。また、クロエというガールフレンドがいるようだが、1年も離れたままになることも不安である。

原作の題名、"Archipelago"は「群島」という意味。シリー諸島のことも意味するだろうが、家族がひとつひとつの島のように、血縁で結びついていながら深い海で隔てられてもいる、その孤独も指しているのだろう。

コーンウォールの沖合にあるシリー諸島の灰色の風景が非常に美しく、登場人物の心象風景を見事に表現している。繰り返し見て、細部を検討すると、色々な発見がありそうな映画。ただし、映像や語りのテクニックが如何に面白くても、英国アッパー・ミドルクラスの人々の悩みに興味を感じる人は、そう多くはないだろう。限られた観客にのみ訴えかける映画に思えた。

主演のトム・ヒドルストンはコリオレーナスの名演などで、実力を発揮しており、主人公の揺れる心理を上手く表現。他の俳優も難しい役を巧みにこなしている。

2015/05/03

Dick Gaughan, "Workers' Song"

今日5月3日の朝日新聞にイギリスの労働者の「ゼロ時間契約」の記事が出た。雇用主の都合の良い時に都合の良い時間だけ働かせられる契約。ある週には30時間、しかし、別の週には10時間働く、という不規則で不安定な労働を、しかも最低賃金で強いられるイギリスの若者のケースが取り上げられていた。それでもこの人は大学院出である。こういうその日暮らしの不安定な労働をしている人は、イギリスにはとても多い。

日本でもイギリスでも、労働者の権利はここ20年くらいで無惨に踏みにじられ、労働組合もどんどん弱体化してきた。それで、久しぶりに、スコットランドのフォークシンガー、Dick Gaughanのプロテスト・ソング、"Workers' Song”を聞いている。アイルランドやスコットランド、ウェールズなどのケルト系シンガーの中でも、私が特に好きな人だ。


私の乏しいリスニング力では、英語の歌を聴いて歌詞を理解するのはなかなか難しいんだが、幸い、ネットのDick Gaughan自身のサイトに歌詞がある。 この歌はEd Pickfordという人の作だそうだ。

Dick Gaughanは私の最も好きな歌手のひとり。シャープな歌声に加え、彼が歌う歌の内容も素晴らしい。 代表作は、"Handful of Earth"というアルバム。他にも良い歌が沢山。

2015/05/01

西欧文学研究の衰退について(内田樹先生のブログを読んで)

内田樹先生が、能や舞などの稽古事に関連して、ブログで、仏文学研究の衰退の一因について触れているが、英米文学を含む、他の外国文学研究についても同じ事が言えるかも知れない。


高度に専門的な議論に拘泥して、裾野を広げたり、わかりやすい議論をすることを怠ってしまった大学教師達。ふと気がついて足下を見ると、日本に仏文学研究を支えてきた裾野(つまり、フランス文学の愛読者、素人だけど玄人顔負けに関心のある人、仏文学大好きの熱心な学生などか)がなくなってしまっていたと、言われている。一部引用すると、
他の歴史的理由もあるかも知れないが、私は(私をも含めた)専門家たちが「裾野の拡大」のための努力を止めてしまったからではないかと思っている。「脱構築」だとか「ポストモダン」だとか「対象a」だとか、難解な専門用語を操り、俗衆の頭上で玄人同士にだけ通じる内輪話に興じているうちに、気がついたら仏文科には学生がぱたりと来なくなってしまっていた。
欧米文学研究者は、この20-30年の間に、欧米文学の紹介者、啓蒙者から、高度のテクノクラートになっていった。欧米の大学院で学位を取り、欧米の学会で発表し活躍する少数の知的エリートが生き残った。今、仏語や独語、あるいはそうした言語の文学の専門家として大学の専任教員になる人は、当該国で博士号を持っているのが当たり前になった。その一方、内田先生の言う「旦那芸」の延長のような学者は落ちこぼれの能なし扱いされつつあり、絶滅しつつある。全体としては、日本の大学において仏文学の学科はほとんどなくなり、学部の専攻分野として勉強できるところも非常に少なくなった。従って、日本で仏文学の大学院レベルの教育をして、専門家を養成する素地が消えてしまったということ。戦後、いや明治以降、先人が長年かけて築き上げてきた研究と人材育成の伝統が消えつつあるのだろう。寂しいことだ。

時代の変化、高校生の変化、大学というものに対する考え方の世界的な変化、その他色々な理由はある。しかし、内田先生が反省しておられるような点もなかったとは言いがたいと思う。




2015/04/24

【イギリス映画】『パレードへようこそ』 (Pride)  2014年制作

『パレードへようこそ』 (Pride)  2014年イギリス映画、2015年日本公開

鑑賞した日:2015.4.23
映画館:シネスイッチ銀座

監督:マシュー・ウォーチャス
脚本:スティーブン・ベレスフォード
音楽:クリストファー・ナイティンゲール
撮影:タト・ラドクリフ
美術:サイモン・ボウルズ

出演:
炭鉱町ディライス(ウェールズ)の人々:

ビル・ナイ (クリフ)
イメルダ・スタントン (へフィーナ)
パディ・コンシダイン (ダイ)
ジェシカ・ガニング (シアン)
モニカ・ドラン (マリオン)
リズ・ホワイト (マーガレット)
リザ・ポールフリー (モーリーン)
メンナ・トラッスラー (グウェン)

ロンドンのゲイ・レズビアン・コミュニティーの人々:

ジョージ・マッケイ (ジョー)
アンドリュー・スコット (ゲシン)
ベン・シュネッツァー (マーク)
ドミニク・ウェスト (ジョナサン)
ジョセフ・ギルガン (マイク)
フェイ・マーセイ (ステフ)
フレディ・フォクス (ジェフ)

☆☆☆☆☆ / 5

去年、イギリスで評判になっているのを向こうの新聞で読み、日本で公開されたら見たいと思っていて、映画館に出かけたが、大当たり。映画が、これ以上私を楽しませてくれることはまず無い、と言うレベルの楽しい作品だった。概してリベラルな考えを持ち、マイノリティーや労働運動に共感できる人には最高の作品だろう。

ストーリーは実話に基づいているそうで、今回、脚本家のスティーブン・ベレスフォード(ナショナル・シアターの”The Last of the Houssmans”の脚本家)は、色々な関係者に直接取材したようだ。そうして見いだしたウェールズの炭鉱町の関係者やゲイ・レズビアン・コミュニティーの人々がこの作品の撮影にも参加、協力をしてくれたそうである。イギリスの好きな人にも是非勧めたい、イギリスへの愛と興味を刺激される作品。

1984年、サッチャー政権下のイギリス政府は斜陽産業である炭鉱の多くを閉山に追い込もうとし、これに炭鉱労働者の組合は激しく反対して長期のストが続いていた。収入をたたれた鉱夫とその家族達は、経済的に苦しい毎日を過ごしていたし、デモやピケットの現場では、警察による過剰な暴力や拘禁が続いていた。このことを知ったロンドンのゲイ&レズビアン・コミュニティーの人々、”Gay’s the Word”というゲイ・レズビアン関連書店に集まっていたグループが、同じく政府や警察に苦しめられている者同士として鉱夫と家族達を応援しようというリーダーのマークの提案に賛同する。彼らはLGSM (Lesbians and Gays Support the Miners)というグループを結成し、街頭募金を始める。しかし、その募金を送ろうにも、炭鉱労働者の組合の正式窓口ではまったく取り合って貰えない。同性愛者の支援を受けるということが、組合にはマイナスに働くと考えたからだろう。そこで、マーク達は、ストをしているウェールズの小さな炭鉱町、ディライスに直接電話し、募金を送りたいと申し出る。組合のディライス支部の指導者ダイや彼を補佐するクリフ、シアン、グウェンなどは、この申し出を受けることにするが、保守的なモーリーンは頑強に反対する。やがて、募金を持ってロンドンのゲイ・レズビアンの連中がウェールズにやって来る。お互いに警戒し、ぎこちない雰囲気のうちに集会が始まるが、握手をし、歓迎と返礼のスピーチをし、ビールを飲み、歌を歌ったり踊ったりしているうちに、ふたつの全く異なったコミュニティーの間にあった壁が徐々に溶けていく。更に、次はウェールズのコミュニティーの代表がロンドンのゲイとレズビアンのコミュニティーを訪ねる番となった。彼らを迎えて、ロンドンのゲイやレズビアン達は、人気ミュージシャンに呼びかけて、盛大なチャリティー・ボウル(この場合のボウルは、所謂ディスコ・パーティー)を開く・・・。

良い点ばっかりで、ケチのつけようがないが、まず私の趣味を言えば、特にロケーションが好ましかった。ロンドンの普通のごちゃごちゃした通りにある、これまたごちゃごちゃした本屋の雰囲気が良い。このGay’s the Wordという本屋は今でもあるようで、英語版ウィキペディアにも載っているし、店のホームページもある。一方、ウェールズの寂しい町の感じも良い。でも特に、ロンドンの連中を乗せたマイクロバスがウェールズに入っていく時や、ビル・ナイ演じるクリフがロンドンの連中を地元の廃墟に案内した時の、ウェールズの雄大な景色が美しくて、なんとも言えない。

音楽が良い。私は音楽には無知だが、80年代のポップスが満載のようで、あの時代の雰囲気を盛り上げる。さらに、ウェールズでは地域の民衆の歌(?)も混じる。そして、それに加えてのジョナサンのダンスが素晴らしかった。その他、セットや衣装などを通じて時代の雰囲気がたっぷり盛り込まれていることで、一層魅力的なドラマになった。時代背景という点では、ドラマの背景に市場万能を唱えるサッチャー政権の重苦しい影があるのは勿論だが、ゲイの人達を物理的にも精神的にも圧殺しつつあったエイズの、死に神のような影も見える。当時はエイズは死に至る病と考えられ、また、これにより、患者に対して、そしてゲイの人々全体に対する差別も激しかった。映画の中にもエイズを患う人が混じる。

群像ドラマだが、ひとりひとりの登場人物にちゃんと個人のドラマがあって、それが短い時間にも関わらず効果的に描かれているところが、脚本の良さを感じさせる。特に、ジョージ・マッケイ演じる若い専門学校生ジョーは、保守的な家庭で、自分がゲイであることを言い出せずに苦しんでいるが、この運動を通して、自分のアイデンティティを確立し、親離れをしていく。同様に、ゲシンも田舎に母を残して、十数年会っていない。保守的で、ゲイやレズビアンと組合との関係に強行に反対するモーリーンは、段々と孤立し追い詰められる。静かに組合運動を支えるクリフには、表面では分からない、彼なりの個人的な思い入れがある。

俳優としてはビル・ナイとイメルダ・スタントンという著名な名優は勿論、日頃地味な脇役で良い味を出しているイギリスの俳優達が個性的なキャラクターを造形して飽きさせない。地味だが、偏見がなく暖かい人柄の組合の指導者ダイをパディ・コンシダインが説得力を持って演じる。このダイという実在している組合指導者は、凄い人だな、とつくづく感じるし、それを見る者に訴えるのがコシンダインの演技。屈折した若者ゲシンを演じるアンドリュー・スコットも良い。ロンドンの若者達のリーダー、マーク役のベン・シュネッツァー(アメリカ人俳優)の元気いっぱいさも印象に残る。大柄のエネルギッシュで、しかしとってもチャーミングなシアンを演じたジェシカ・ガニング、組合の元気なおばあちゃん、グウェン役のメンナ・トラッスラーも記憶に留めたい。

貧しい鉱工業地域の住民が、芸術を通じて元気を取り戻したり、創造性を発揮したりする映画としては、『リトル・ダンサー』や『ブラス』がすぐに思いだされる。また演劇では、傑作”Pitman Painters”なんて作品も思いだす。この映画の背景もそうした作品に似ているが、仕事や生活に困っているワーキング・クラスの人々が、今回は、同じように抑圧された状況にあったゲイ・レズビアン・コミュニティーと「連帯」した点が斬新。というのも、地方の鉱工業地帯のワーキング・クラスの人々は、左翼政党を支持はしても、道徳や社会通念においては概して保守的であり、都市でボヘミアン的な生活をするゲイやレズビアンの人達とはかなりの隔たりがあるからだ。しかし、そうしたふたつのコミュニティーが、おそるおそる、恥ずかしかったり恐がったりしながら近づいて、段々と打ち解け合い、理解し合い、そして手を繋ぐ。つまり、これは内気な都会の若者達と溌剌とした田舎の労働者達の、2つのコミュニティーのラブ・ロマンスなのである。

予告編ビデオ

監督のマシュー・ウォーチャス(という発音で良いのかどうか分からないが)は、演劇の世界で幅広い実績のある人で、私もOld Vicで彼が演出したエイクボーン作品の上演を見たことがある。現在のOld Vicの芸術監督は、ケビン・スペイシーだが、次期はこのウォーチャスに決まっているそうだ。

(追記)
上記のジェシカ・ガニングが演じた人物、シアン・ジェイムズは、この炭鉱ストの後、たしか映画の中でもジョナサンからそうしろと言われていたように、大学に行き、職を得、政界に入って、労働党の議員として働き続けた。2005年に国会議員となり、その後10年間、今に至るまで下院議員だ。国会における女性進出のパイオニアのひとりであったとも言われる重要な議員のようだ。しかし、今回の選挙は、以前から引退を表明していたようで、出ていない。彼女は党の公式の方針に反して、イラク爆撃再開に反対しているそうで、労働党の現状に不満を持っているのかも知れない。別の人物では、ウェールズの組合指導者ダイ・ドノバンは今も他の組合で労働運動を続けているそうである。また、エイズだったジョナサンは厳しい時代を生き残り、舞台衣装の仕事をしているそうだ。しかし、エイズで亡くなられた人もいる。その後の登場人物達の人生もまた、色々興味深い。詳しくは、ガーディアンのこの記事を

2015/04/20

『ウィンズロウ・ボーイ』(新国立劇場、2015.4.19)

『ウィンズロウ・ボーイ』 
新国立劇場公演
観劇日: 2015.4.19   13:00-16:15(休憩1回)
劇場: 新国立劇場 小劇場

演出: 鈴木裕美
脚本: テレンス・ラティガン
翻訳: 小川絵梨子
美術: 松岡泉

出演:
小林隆 (アーサー・ウィンズロウ)
竹下景子 (グレイス・ウィンズロウ、アーサーの妻)
森川由樹 (キャサリン・ウィンズロウ、娘)
山本悠生 (ディッキー・ウィンズロウ、長男、オックスフォード大学の学生)
近藤礼貴 (ロニー・ウィンズロウ、ウィンズロウ家の次男、海軍管轄の幼年学校の生徒)
チョウ・ヨンホ (デズモンド・カリー、事務弁護士)
川口高志 (ジョン・ウェザストーン、軍人、キャサリンの婚約者)
中村まこと (サー・ロバート・モートン、法廷弁護士)
渡辺樹里 (ヴァイオレット、ウィンズロウ家のメイド)
デシルバ安奈 (ミス・バーンズ、記者)

☆☆☆☆ / 5

ルネサンスの古典的作家を除けば、おそらく私が最も好きなイギリスの劇作家、テレンス・ラティガンの代表作の上演。こちらの期待も大きいので、翻訳上演という大きな制約があるのにもかかわらず、つい大きな期待をする。公演自体は、私の好まない点が目についたが、脚本が素晴らしいので、とても楽しめた。

演出の鈴木裕美はラティガンが大好きなようで、2005年にラティガンの3作品を連続上演する企画をしたのは彼女だったそうだ。その3作には『ウィンズロウ・ボーイ』も含まれていたが、私は残念ながら見ていない。しかし残りの2作、『ブラウニング・バージョン』と『セパレート・テーブルズ』は見て、それ以来、ラティガンがとても好きになったので、鈴木さんには感謝しなければ。

ストーリーは、海軍幼年学校に行っていたウィンズロウ家の次男ロニーが、友人のロッカーから郵便為替を盗んだという疑いをかけられ、本人は否定するが一方的に退学処分を宣言される。これを不服として、ウィンズロウ家の人々は全力を傾けて戦い、法廷闘争に至る、というもの。詳しくは映画版を見た時の粗筋を参照して下さい。

非常に目障り耳障りだったのは、ディッキー、デズモンド、メイドのヴァイオレットや新聞記者の役の、時として寄席芸人のような、笑いを取ろうと言わんばかりの大げさにコミカルな演技。段々慣れてきたが、最初の方は、腹立たしくて苛々し、集中出来なかった。その他の配役も、全体にコミカルにしようとし過ぎていないか。また演技全体が大げさで、所謂「赤毛もの」的なあざとさ、人工的すぎるドラマチックさを感じた。西洋人らしく殊更に大げさなジェスチャーや映画の吹き替えのような大げさな台詞回しをしていないだろうか。また、過剰に説明的な演技になっていないか。笑いを自然と引き起こすような台詞はあるので、それはそれで自然に笑いが生まれるのに任せれば良いと思う。ラティガンの素晴らしさは抑制の美だ。表面にはわずかしか表れないが、水面下に大きな情念が隠れているのが観客に伝わることが大切だ。その点で言うと、小津安二郎の映画に似ている。日本人の多くが備えている謙遜とか抑制の態度を自然に使って欲しい。隠されている感情を、開けっぴろげに外に出してしまったら台無しになると思うが・・・。この作品の時代は20世紀初期。まだビクトリア朝の雰囲気が残っている頃だ。イングランドのミドル・クラスの、今は失われつつある(?)自己抑制が色濃い作品のはず。

以前に見たマメットの映画版(1999)と比べて見ると、娘のキャサリンのフェミニストぶりがはっきり表現されているように思ったが、これはむしろマメット版ではその点では抑えられているのではないか(マメットはミソジニスト的傾向があると言われる)。逆に、マメット版であった、最後のキャサリンとサー・ロバート・モートンとの今後のロマンチックな展開を予想させる終わり方は、この舞台ではほとんどない。これも映画版ではアメリカの観客に媚びたのかもしれない味付けか。こうした点では、今回の舞台のほうがずっと良かった。

今日本でこの舞台を見て特に感じたのは、国家権力に対して、慎ましいミドルクラスの家族が必死で、様々な犠牲を払っても個人の自由と正義のために戦う、という点。米国的な勇ましいヒロイズムではなく、イギリスらしい、地味な粘り強さが称えられた作品。日本人なら、こんな事やっても仕方ない、時代の流れに逆らってもどうしようもない、ということになるだろう。そもそも、世界大戦前夜の日本には、海軍の意図に反して個人の権利を主張できるような環境はなかっただろう。この作品は、やはり軍の学校で窃盗の罪で退学させられた少年、ジョージ・アーチャーーシーとその家族が、権力に対して抵抗し、ついに濡れ衣を晴らすという、1908年に実際にあった事件をモデルにしている。戦争の近づく時代に、個人の正統な権利を主張した家族に対し、様々の圧力がかかる点は、今の日本において、国家、経済や公共の福利のためと言われて、沈黙を強いられる多くの人々を思いださせる。

モデルとなったアーチャー-シー一家は、ウィンズロウ家よりも大分豊かだったようだ。大学を中退して銀行に勤めたディッキーのモデルとなっているマーティン・アーチャー-シーは、保守党の国会議員になった。また、女性参政権論者のフェミニスト、キャサリンは実在せず、ラティガンが作り出したキャラクター。そう見ると、ラティガンは、ウィンズロウ家の国家への抵抗の姿勢を、アーチャー-シー一家の事件よりも意図的に際立たせているように思える。そうしてその点で、アーサーの同志であるキャサリンへの作者の思い入れは深いと感じた。

劇の内容は国や文化を越えた普遍性を持ってはいるが、一方でイングランドのミドルクラスの抑制された言葉や態度の雰囲気がもの凄く大切な劇だと思うので、翻訳で演じるのは難しいと思う。その上で、上記にあるように分かり易すぎ、オーバー・アクティングであると感じる。しかし、俳優は破綻無く、良く演じていたのも確か。特に小林隆のアーサー、竹下景子のグレイスは良かった。森川由樹は台詞がまるで宝塚の男役みたいな、「芝居がかった」台詞の言い方で、私はかなり違和感を感じた。ディッキー、ヴァイオレット、ミス・バーンズ、デズモンドの役では、寄席のような、笑わせようとする大げさな演技をやめて欲しい。それだけでも随分全体の印象が良くなると思う。特に、デズモンドは、胸の想いを押し殺して密かに苦しむ役。彼が結婚を求めるシーンは、観客に静かな悲しみを与えるシーンであったら、と思う(ラティガンの言葉は含むところが色々あり、応用もたくさん出来て、ああも出来る、こうもやれると、盛りだくさんの演技にしたい気持ちは理解出来る)。

2015/04/16

【英・伊映画】 『おみおくりの作法』(Still Life)2013年

『おみおくりの作法』(Still Life)  
 2013年制作 2015年日本公開 約90分

映画館:新所沢シネパーク
鑑賞した日:2015.4.16

監督・脚本:ウンベルト・バゾリーニ
出演:
エディー・マーサン (ジョン・メイ、市の民生係)
ジョアンヌ・フロガット(ケリー・ストーク )
カレン・ドルーリー(マリー)
アンドリュー・バカン(ミスター・プラチェット )

☆☆☆☆ / 5

この前映画に行ったのは、確か舞台のライブ映像を記録した映画だったと思う。本当に、滅多に映画館で映画を見なくなったが、学生時代は、週に3回くらい映画に行った年もあった。やはり大きなスクリーンで見ると、集中出来て良い。

さてこのイギリス映画、小品ながら結構ヒットしているらしい。2月初旬に公開されたようだが、まだあちこちで上映しているのだから。SNSや口コミ等で評判が伝わったのだろう。特に私のようなシニアにとっては、心を打つ内容だ。

主人公のジョン・メイはロンドンのケニントン地区の公務員。身寄りがなく、孤独死をした人のために葬儀をあげ埋葬をする係。たいていは近親者などが分からず、メイが調べて連絡しても、家族なのに「もう縁を切っているので私には関係ない」と言われたりして、葬儀も埋葬も彼一人が立ち会う。どうせ誰も気にしないし、死者も見ているわけではないから、形式だけ簡単に済ませることも可能だ。そしてそういうビジネスライクなやり方を、上役で、鼻持ちならないエリート風のミスター・プラチェットは望んでいる。しかし、彼はひとりひとりの死者を自分の家族のように扱う。近親者に連絡を取り、片身となるものを捜し、生前の写真をアルバムに貼って残す。葬儀ではその人の宗派を尊重し、その人にふさわしい音楽を選んで流し、そして牧師が読む弔辞の原稿さえ、遺品を手がかりにして代筆する。そのように手厚く死者を遇するメイだが、彼自身も質素な公営住宅で、きちんと暮らしてはいるが、天涯孤独な暮らし。妻や子供はおらず、尋ねて来たり、一緒にパブでおしゃべりする友もおらず、親しい同僚もいない。社会の片隅で、極めて真面目に、しかし透明人間のようにひっそりと暮らしている。

そんな真面目な公務員の彼だが、市当局は経費削減のために人員整理の対象とする。メイは、あと3日でやりかけの仕事を終えて辞めてくれ、とブラチェットに申し渡される。最後の仕事は、彼と同じ団地に住んでいて、孤独死した老人ビリー・ストークの葬儀と埋葬だった。都会の公営団地らしく、メイは生前のビリーとは全く面識がなかった。これが最後の仕事となったためだろうか、メイはビリーの件については、特別の思い入れを込めて、家族や友人を捜し、遠い北部の町ウィットビーなど、あちこち旅をする・・・。

最後はちょっと驚かされるが、それがこの映画をびりっと締めている。

エディー・マーサンという地味な俳優の魅力が映画全体に染み渡る。彼は主役をすることはまずないが、テレビの色々なシリーズもので脇役としてお馴染みの俳優。ほとんど表情を変えず、淡々と仕事をこなすが、心の中には、とても暖かい、しかし複雑な感情がいっぱいに詰まっていることを感じさせる。彼のオフィスの机まわりも、住んでいる質素な公営アパートの中も、驚くほどきれいに片づいているし、いつも同じ黒いスーツと白いシャツをきちっと着ていて、もの凄く几帳面な人であると分かる。と言うか、今時こんな人いるのかな、と思う。『名探偵モンク』という病的潔癖症の探偵を主人公にした人気ドラマ・シリーズがあるが、ずっと質素だけど、あのモンクの暮らしぶりを思い出した。

でもこれほど真面目で親切な人に、妻やパートナーも友人も仲の良い同僚もいないなんて、あり得ない。つまりかなりリアリティーに乏しい人物設定。そう考えると、彼は居そうで居ない、一種の寓意的人物と思えてきた。死者を弔うために神からこの世に派遣された天使であり使者みたいな存在だ。彼は神の使者として「あなたの家族のAさん(この場合、ビリー・ストーク)が亡くなりましたよ」と知らせを運んでくる。メイという使者により、故人との絆を取り戻し、自分の生を振りかえる人が現れる。ある意味、神のもとへと帰って行った人々から、生きている家族や友人への最後の贈り物を運んでくれる人、と見えた。でも彼は天使だから、この世にはルーツも家族もなくて当然・・・。この仕事がなくなったら、彼の役割も終わりか。再就職なんてする意味ない。

映画を見終わってしばらくしてからジョン・メイを思い出すと、テレンス・ラティガンの描く人物に似ている気がした。非常に堅苦しく、ルールどおり生真面目に生きるが、心の中には滅多に見られないような優しさやナイーブさを秘めている。『ブラウニング・ヴァージョン』のアンドリュー・クロッカー=ハリス先生とか、『ウィンズローボーイ』のウィンズロー家の人々や事務弁護士カリー、法廷弁護士モートンなど、ジョン・メイと共通するストイックさ、不器用さ、そして世間的な計算を度外視した優しさを見せる。古き良きイングリッシュ・ミドルクラスの理想像がうかがえる。ただし、あくまで理想だが。

ビリーの娘ケリーを演じたジョアンヌ・フロガットも大変印象に残る。彼女はテレビ・シリーズ『ダウントン・アビー』でメイドのアンナを演じている。執事のベイツに恋してついに結婚する役。派手さのない、さっぱりした顔つきの人で、庶民を演じるのにぴったりだ。プラチェットを演じたアンドリュー・バカンのドライで気取った役作りも上手いと思った。この俳優は、ドラマ『ブロードチャーチ』の第一シリーズで被害者の子供の父親を演じた人だが、あの演技も、人物の裏表が上手く表現されていて、良かった。

現題の"Still Life"が良い。普通、「静物画」を意味する英語。直訳すれば、「静かな暮らし/命」。ジョン・メイの暮らしも、映画の多くの場面も静物画のように静かだった。でも、静物画には、作者の深い思いが隠されているんだよね。ふと、学部生時代に良く読んだ作家アイザック・シンガーの短編、「短い金曜日」を思い出した。ジョン・メイは幸せな人だろう。

映画は、シニア料金でとても安く鑑賞できるから助かる。私のような人達がかなり見ているだろう。我々年寄りにとっては、「こりゃ、他人事じゃないね」という、大変身につまされる内容だった。私自身、フルタイムの勤めを辞めて以来、妻や郷里の母と話す以外、全く人と話すこともなく毎日が過ぎているからなあ。

ケニントンは、ロンドンの南部にあり、貧しい人の多い地域だと思う。地下鉄のケニントン駅は、ノーザン・ラインがキングス・クロス方面とチャリング・グロス方面に別れる駅で、時々列車を乗り換えたものだが、駅改札の外に出たことはほとんどない。しかし、一度、この街にあるパブ・シアターのWhite Bear Theatreで上演されたジョン・オズボーンの劇 "Personal Enemy" を見に行っていた。お店などもほとんどなく、とても飾り気のない、ジョン・メイにぴったりの地味な街並みだった気がする。う〜ん、ロンドンがなつかしい。

予告編はこちら

2015/04/14

【イギリス映画】『あなたを抱きしめる日まで』 (Philomena)

『あなたを抱きしめる日まで』 (Philomena) 
  2013年イギリス映画(日本公開、2014年)

監督:スティーブン・フリアーズ
脚本:スティーブ・クーガン、ジェフ・ホープ
原作:マーティン・シックススミス

出演:
フィロミナ・リー:ジュディ・デンチ
マーティン・シックススミス:スティーヴ・クーガン
若い頃のフィロミナ :ソフィ・ケネディ・クラーク
メアリー :メア・ウィニンガム
シスター・ヒルデガード :バーバラ・ジェフォード
マザー・バーバラ :ルース・マッケイブ
ピート・オルソン :ピーター・ハーマン
マイケル(フィロミナの息子) :ショーン・マーホン
ジェーン(フィロミナの娘) :アンナ・マックスウェル・マーティン

☆☆☆☆ / 5

昨年の日本公開時、結構話題になったと思う。私は先日WOWOWで放送されて、見た。主役のフィロミナを演じるジュディ・デンチとマーティン・シックススミスのスティーブ・クーガンが素晴らしい。

BBCのジャーナリスト、労働党政権のメディア担当官(所謂”spin doctor”)、そして作家で現代ロシア史の専門家という多彩な才能と経歴を持つマーティン・シックススミスが書いた原作を基にしており、実話である。主人公のフィロミナはイングランドに住む老人の女性だが、アイルランドの出身。セックスや避妊の知識も全く教えられない時代、十代で祭りで出会った若者とセックスして妊娠し、女子修道院に預けられて出産した。カトリックの戒律がアイルランド社会の隅々を支配していた頃、修道院の中は「罪」を犯した未婚の若い母親たちにとっては事実上の監獄だった。自分の赤ん坊には1日に1時間しか面会が許されず、あとは週7日間、強制労働の日々を過ごす。更に、知らない間に彼女たちの子供は大金を払ったアメリカ人の養父母に売り飛ばされてしまっていた。こうしてフィロメナの息子、マイケル、もアメリカに送られた。その後、大人になったフィロメナは息子の行く方を探し続ける。勿論かって収容されていた修道院にも足を運ぶが、門前払いを食う。

労働党政府のメディア担当官としての職をスキャンダルで失って困っていたジャーナリストのマーティン・シックススミスは、たまたまパーティでフィロメナの娘と知り合い、彼女の運命に興味を持つ。彼は新聞社と話をつけて、フィロメナの息子捜しを手伝う代わりに、それを記事にさせて貰うことにした。こうして、オックスフォード大学出身のエリート・ジャーナリストと、敬虔なカトリック教徒で、ワーキング・クラスの素朴な老女との、失われた息子を捜す旅が始まる。二人は、まずアイルランドの修道院へ行くが、以前フィロメナがひとりで行った時同様に何も教えてもらえず、直接、アメリカに息子マイケルを捜しに行くことになった・・・。

失われた子供を捜す旅ということで、いささかセンチメンタルな作品かな、と思い、あまり期待せずに見たが、完全にそんな予想をくつがえされた。勿論、全体としては大変感動的な作品だ。しかし、センチメンタルには陥っていない。主役の2人のキャラクターと監督の描き方が、物語をあまりシリアスにし過ぎず、適度の距離感が生まれている。デンチ演ずるフィロメナが実に愉快。素朴で何事にもナイーブに驚く。アメリカで泊まったホテルの立派さ、部屋に色々とお菓子が供えてあったり、バスローブが2枚あったり、朝食のメニューが豪華だったりするのにいちいちびっくりして、シックススミスに報告する。その一方で、しっかりした世間知を備えていて、色々と変わっていく状況に対し、柔軟で的確な判断をし、理性を失わない。カトリック教会に裏切られても、彼女の神への信仰は揺るがず、ホテルの従業員のような行きずりの人々にも、そして例え自分を騙したり虐待した人々に対しても、他人には礼儀正しく、優しい。スティーブ・クーガン演ずるマーティン・シックススミスは、この時丁度自分としては極めて不本意に職を失っており、屈折した感情を持ちつつ、際物的なジャーナリズムのネタとしてこの取材を始めた。無神論者のインテレクチュアルである彼は、フィロメナのナイーブさをおもしろがりもするが、苛々する時もある。しかし、徐々に彼女の誠実さ、息子への愛の深さに引き込まれ、また修道院の不誠実さに怒って、当面の日銭稼ぎの仕事を越えて、フィロメナの息子捜しに精力を傾注するようになる。ナイーブなワーキング・クラスのおかみさんと、世間を斜から眺めるジャーナリストの珍道中ー2人のちょっとずれた会話がしばしば漫才コンビのように響いて愉快だ。演劇では特に重要なんだが、この映画でも、台詞の「間の取り方」が絶妙だ。

ジュディ・デンチの演技力がいつもながら凄い。彼女は「普通」の大スターと違い、デンチというスターの幻影をを観客に押しつけない。しかし、それでいてどこまでもジュディ・デンチであり、計算して作り上げたものでなく、自分の内面から出てくる演技であると印象づける。それとも、これも彼女の技術であり計算か・・・。スティーブ・クーガンという俳優は、コメディアンとしても活躍している人のようだ。シニカルで屈折した表情が上手く出ていて、なかなかクレバーな役者と感じた。

児童や若者の虐待など、カトリック教会が犯してきた罪は数多いことはしばしば報道されてきた。21世紀になって、やっと本格的な反省と謝罪が始まっているようだ。最後に登場する老いた修道女が口にする「罪」という言葉を聞いて、教会の罪深さを強く感じさせられた。

(追記)以上を書いてから思い出したが、 中世のカトリック教会が行っていた、道徳や信仰に関わる問題を裁く宗教裁判においては、禁固刑を科された者の多くは、少なくともイングランドでは、修道院に閉じ込められることがほとんどだったようだ。20世紀まで延々とその伝統が続いていたとも言える。

2015/04/09

【英・米映画】『クレアモント・ホテル』 ”Mrs Palfrey at the Claremont”

『クレアモント・ホテル』 ”Mrs Palfrey at the Claremont” (英・米映画 2005年)

監督:ダン・アイアランド
脚本:ルース・サックス

出演:
ポールフリ夫人:ジョーン・プラウライト   
ルードヴィック・メイヤー:ルパート・フレンド   
アーバスノット夫人:アンナ・マッセイ   
オズボーン氏;ロバート・ラング   
グェンドリン:ゾーイ・タッパー   
ルードヴィックの母:クレア・ヒギンズ   

☆☆☆ / 5

2005年に英米合作で製作されたようだが、日本では2010年に岩波ホールで公開。私は先日WOWOWで放映されたので見た。地味で慎ましい佳作、というタイプの作品。主演は、最近はお目にかからないが往年の大女優で、ローレンス・オリヴィエの最後の奥様だったジョーン・プラウライト。

ロンドンの小さな、古めかしい長期滞在者用宿、クレアモント・ホテルにプラウライト演じるポールフリ夫人がやってくるところから映画は始まる。彼女は70歳弱くらいか。かっては愛する夫アーサーのために、そしてその後は娘のために生きてきたが、今やっと自分一人、気ままな生活を楽しもうとロンドンにやって来た。しかし、やって来るはずの孫デズモンドからは何週間経っても連絡がなく、他に尋ねて来る人も知り合いもおらず、ぽつんとホテルの食堂で一人きりの食事をするのみ。しかし、同宿の他の客とは言葉を交わすようになる。彼らもポールフリー夫人同様、年配の孤独な老人たち。ある時、彼女は道で転んで膝を打つが、その時に駆けつけて助けてくれた26歳の青年ルードヴィックと親しくなる。貧しい小説家志望のルードヴィックも、母とは疎遠になっており、他に家族はおろか、ガールフレンドもおらず、街角で弾き語りをしては日銭を稼ぐ根無し草の毎日。ポールフリ夫人はそのルードヴィックをホテルの夕食に招くが、同じホテルに住んでいる人々が彼の事をポールフリ夫人の自慢の孫、エドモンド、と勘違いしたからややこしいことに。ルードヴィックはそれから他人の前では彼女の孫を演じ続けることになるが、やがて本当の祖母と孫の間にあるような愛情がふたりの間に生まれていく。

というような、いかにも心温まる、寂しい老人と社会の主流から落ちこぼれた若者の交流の話。よくありそうな話で、かなり陳腐と言えるかも知れないが、それでも充分楽しめた。私のような、すっかりくたびれ、知人・友人も少ない老人には、共感してほろりとくるところもあるし、クスッと笑えるところも結構あった。テンポがゆっくりで、大して大きな事件も起こらず、退屈する場面もあるが、その古風なのんびりしたところが魅力でもある。2005年制作なのに、随分昔のイギリス映画を見ているような錯覚に陥るが、原作が1971年出版なので、恐らくそのくらいの年代の出来事のように作ってあるのかな。

原作はエリザベス・テイラーの小説だそうだが(俳優ではありません)、こういう長期滞在ホテルを舞台にしたお話、イギリスの映画、演劇、小説などでは良くあるのではないだろうか。すぐ思い出したのが、テレンス・ラティガンの作品、『それぞれのテーブル』(Separate Tables)や、『炎の道』(Flare Path)など。特に『それぞれのテーブル』はこの映画に似た雰囲気を持っている。ホテルという、人々が次々と訪れては去って行く場所、そして食堂に集まっての交流、しかし、個室に入ってしまえば、何をする人か分からない。更に、ホテルで他の客に見せている顔は、本当は仮面にしか過ぎなかったりと、ホテル、特に長期滞在型ホテルは、人生の変転を映し、ドラマを生む場所だ。

プラウライトも良いが、まわりの脇役が光る。特に、ポールフリ夫人同様ホテルに長く住んでいる他の女性たちが実に個性的で人間味溢れた造形で、見応えがある。ルードヴィックを演じるルパート・フレンドと、後に出来る彼のガールフレンド、グウェンドリン役のゾーイ・タッパーも好感が持てる演技。

しかし、世界中からおびただしい観光客が集まるロンドンに、今でもこんなのんびりしたホテルがあるか疑問。あっても、うらぶれたホテルの冴えない部屋でも宿賃が途方もなく高価で、とてもポールフリ夫人には手が届かないと思うけど。

DVDも出ています。

2015/03/30

ウィリアム・シェイクスピア『十二夜』(青年団リンクRoMT)

ウィリアム・シェイクスピア『十二夜』

観劇日:2015年3月29日(日)14:00-16:45

青年団リンクRoMT公演
翻訳:河合祥一郎
演出:田野邦彦
劇場:アトリエ春風舎

出演:
ヴァイオラ:李そじん
セバスチャン:磯谷雪裕
オーシーノ:佐藤誠
マルヴォーリオ:太田宏
サー・トービー:永井秀樹
マライア:荻野友里
フェステ:菊池佳南
サー・アンドリュー:亀山浩史
フェイビアン:伊藤毅


久しぶりに観劇をし、楽しい休日を過ごした。見たのは若い俳優がほとんどの劇団。私は初めて見た。SNSで評判が良いようなので、行ってみた。若い人たちの意欲が感じられる元気いっぱいの公演だった。台詞もしっかり入っていて破綻がなく、奇をてらわないオーソドックスな舞台だった。特に後半、マルヴォーリオ役の俳優の名演があり、楽しめた。彼の役どころは誰がやってもある程度面白い筋書きではあるが、彼は間の取り方が抜群。

小規模劇団の公演であるので、やはりセットや衣装は非常に簡単で、この劇の祝祭的な雰囲気を醸し出すのは難しかったのは仕方ないだろう。クリスマスの祝祭喜劇であるから、なんとかそのあたりのざわめいた雰囲気と、宴の後のメランコリックな気怠さなどが欲しいところだが、セットも音楽も衣装も大した費用がかけられない以上、ちょっと難しい要求かな。

ステージの向こう側を映画館の座席のようにしつらえて、そこでフェステがスナック菓子を食べながら手前のステージの役者を見たりするところは目立つ工夫だった。ただ、その工夫に明確なメッセージとして訴えるものがあったかのか、私には理解できなかった。むしろ向こうにも客を入れて、ステージを観客で両側から囲んではどうか、と思いつつ見ていた。

台詞はほぼ間違いなく言えているんだが、何だか、味わいがない、と思ったら、多分言いにくいところ、観客がわかりにくいところを、大幅カットしてしまったのではないだろうか。そのせいだと思うのだが、イングランドのルネサンス劇特有の華やかで装飾的なイメージの世界が広がらない。まあ、親しみやすいシェイクスピア、というところか。こういうグループに求めても仕方ないだろうけれど、シェイクスピアって、日本で言えば歌舞伎みたいなもの。イングランド文化と上演の伝統、そしてなんと言ってもその豊穣な詩的言語によって、つづれ織りのような美しさが醸し出される。そういうものに敬意を払った上で、よく考えて新しいことを盛り込んで欲しいなあ、と思った(日本で見ると、いつも思うんだけどな)。

ヴァイオラをやった女優さんは台詞がややたどたどしかった。主人公だけに残念。オーシーノは、何だか柄が悪くて、公爵という感じがしないが、これは河合訳のせいもあるかもしれない(?)。貴族階級と使用人との超えがたい壁が態度と言葉使いで表現できないと・・・。サー・トービーとフェステは深いニュアンスを込めた演技を要求される役柄だと思うが、十分役を消化できず、台詞をなぞるので精一杯という感じがした。フェステ、味わい深い役柄なんだけど、今回私には魅力感じなかったな。

この小さな劇に入った途端、ロンドンのフィンバラとか、ゲイトのような小劇場を思い出して、懐かしい気持ちとともに期待が膨らんだ。しかし、公演自体はそうしたロンドンの小劇場の演目のクオリティーとは、今回はとても比べられない。この違い、どこから来るのかしら。

しかし、蜷川の舞台じゃないんだから、うるさいことは言うべきじゃないだろう。大劇場の客寄せアイドル俳優ならいざしらず、別に仕事を持って生活している若い方達が、頑張ってここまで作り上げたことに大きな拍手をしたい。また、日本で良くある、シェイクスピアの権威に挑戦するとか言って何か突拍子もないことをやったりせず、作品の基本的なストーリーを生かしたのも良かった。高校生や大学生など、若い人たちに気軽に見て欲しい公演だった。 

2015/03/27

NHK「こころの時代〜宗教・人生〜『この軒の下で』」:東八幡教会牧師 奥田知志さん


少し前になってしまったが、3月14日土曜日の午後1時過ぎ、お昼を食べながらテレビをつけたら、つまらない番組が並ぶ中で、NHKの宗教の時間「こころの時代」が放送中で、福岡県の東八幡キリスト教会の牧師、奥田知志さんが出られていた。

奥田先生はNHKの「プロフェッショナル」などでも取り上げられた、カリスマのある、行動力に溢れた社会運動家でもあり、今は随分有名な方。北九州市を日本でホームレス支援では最も進んだ自治体のひとつにした功労者。しかし、ここまで来るには、市当局の無理解、いや市との争い、教会をおろそかにしているという信徒からの非難、助けられず死んで行ったホームレスの人への罪の意識、等々、様々な公的、私的葛藤を乗り越えてこられた。地べたを這うような活動の中で宗教者としての理想を追い続け、しかも街の一教会の牧師としての義務も果たされてきた方。昔からの信者の中には、とてもついて行けないと教会に来なくなった方もおられるそうだが、そういうことも悩みつつ、何とか色んな人を弱者を助ける運動に巻き込んで、その活動を通してキリスト教徒としての生き方を信徒と共に求めようとしておられる。ホームレス支援の話をしつつ、自然と聖書の言葉、キリストの行いへの言及を口にされるという、信仰と行動がひとつになった人。

彼が言っていることや書いたものを読むと、相当にリベラルな人で、今の政府の政策もはっきり批判している。というか、彼の様な弱者の立場に立ったら、格差を拡大している今の政治には批判的にならざるを得ないだろう。でも日本中から講演の依頼があり、自治体からも研修の講師として招かれ、NHKでもこのように取り上げられる。福祉への取り組み方において考えの違う人でも、彼の信仰に基づいた無私の活動には人間として尊敬せざるを得ないからだろう。

奥田先生が始めたNPO法人、「抱撲」(ほうぼく)のホームページはこちら

NHK ハートネットTV、シリーズ「20代の自殺」 「生きるためのテレビ2」(全2夜)

NHK ETV、3月24日、25日の午後8時から放送された標記の番組を見た。

 日本では、若者の死因の第一位は自殺だそうである。去年からETVの福祉番組、ハートネットTVでは何度か若者の自殺の問題を取り上げている。番組には1000通も反響のメールが寄せられているそうで、その中には、自分も自殺をしようとしたという人からのものも多いようだ。今回は2夜にわたり、自殺を考えたり、自傷行為を繰り返したりした若者自身が登場して、自分の経験を語った。日本の社会の息苦しさが良く分かる番組だった。番組での証言や紹介された例から、同性愛や性同一性障害、学習障害などを持つ子供・若者への差別が特に若者を苦しめていると感じられた。

自殺を考える多くの人が、自分は社会にとって「迷惑」なんだ、と思い込んでいた。つまり、話し相手や相談できる人がいない、共感を寄せてくれる人がいないのである。迷惑をかけてもいないのに、自分は社会に要らない人間と思い込み、自傷行為や自殺に至る。集団生活になじめず、暗い子だったりすると、子供の時は酷くいじめられる。大人になると、まったく友人、知人がいなくて孤立する。就職も難しく、就職してもまわりに溶け込めないうちに、つまはじきにされ、鬱病になったり、仕事に出られなくなったりする。それで思ったのだが、この国は、若者に「若者」らしさを期待しすぎるのではないか。明るさ、ポジティブ、生命力、若々しさ、等々を持った若者でないと、「若者」と認めてくれない。農業や職人の仕事、単純労働などが大変少なくなり、大多数が高学歴にもなって、オフィスで事務職をしたり、色々な営業活動に従事したりする今、ほとんどの人に、現在の高度企業社会に適した積極性、明るさ、自己表現能力、知的な器用さや俊敏さなどが求められる。これが内向的だったり、不器用だったり、多少の学習障害を背負い、急速な環境の変化についていけない人達を追い詰めている。逆に、不器用で地味な人柄だが、真面目にコツコツ努力するような人は評価されづらい世の中になってきたと思う。自殺や若者の悩みを越えて、今の日本の姿を考えさせる番組だった。

最近私はNHKのニュースがとても信用できず、ほとんど見なくなった。しかし、ウィークディ午後8時のこの福祉の時間だけは、ある意味、ニュース番組としても関心を持って視聴できる。貧困の問題、ジェンダーや性的少数者の差別の問題、孤独死など東北の被災地の問題、ギャンブル依存の問題など、日本社会の色々な問題が政治性を越えて、人間的な視点で取り上げられているから。

番組のウェッブ・ページ

2013年のものだが、ハートネットTVプロデューサーが語る番組の意義と気をつけていること。

イギリスITVのドラマ『ブロードチャーチ』

イギリスの民放、ITVが制作し、「ドクター・フー」の人気俳優ディヴィッド・テナントが主演するクライム・ドラマ。来月(4月)、WOWOWで放映されるようだ。私は2月に英語版DVDで見た。

ひとつの殺人事件について、1シリーズ全8話で追いかけるという長編(民放なので、1話が45〜50分くらいか)。イギリスのドラマは、1~3話でストーリーが終わる場合が多いが、このようなスタイルは、「キリング」や「ブリッジ」、「スパイラル」などのヨーロッパ大陸のクライム・ドラマの影響かと思う。

南イングランドの小さな田舎の保養地で、一人の少年の遺体が発見される。最初は平穏で和やかに見えた町だったが、事件の捜査を通して、その隠されていた入り組んだ人間関係が徐々に明らかになっていく。こういう展開は、クリスティーのミス・マープルとか「ミッド・サマー・マーダー」等と似たイギリス伝統のクライム・ドラマのスタイルと思う。

主人公のハーディ警部補(ディヴィッド・テナント)は、過去に重大殺人事件の解決に失敗して大きな負い目を背負っており、この田舎町にやってきたのも、謂わば左遷されてのようだ。精神的トラウマを抱えていて、時々制御が効かなくなる。一方、彼の部下となったミラー巡査部長(オリヴィア・コールマン)は、とても温厚で、まわりの人に気を遣うバランスの取れた人物。自分がやりたいと狙っていた警部補の仕事を、外からやって来たハーディに取られて悔しがるが、プロの刑事らしく彼と協力し、懸命に働く。家庭的で、仕事と共に子供や夫との生活をとても大事にもしている。被害者の少年の一家は彼女の隣人で、親しい友人でもあり、この殺人に強いショックを受ける。こうした刑事達の個人的な生活も巻き込んで、事件は錯綜する。

DVDには付録としてスタッフや俳優へのインタビューが付いているのだが、それを見て分かったのは、監督とプロデューサー、シナリオ・ライターを除き、役者やスタッフの多くは、最終回前まで誰が犯人かを知らずに演じていたそうだ。皆、この人物が犯人か、いやあの人物だろう、と、犯人になりそうな役を演じている俳優自身を含めて、色々想像しながら演じたとのこと。それが一層俳優の演技をニュアンスに富むものにしたのかもしれない。ちなみに、この最後まで犯人を知らされずに俳優が演技する、というのは、北欧ドラマ「キリング」でも使われた趣向だ。

一人一人の役者の演技が素晴らしい。テナントも良いが、オリヴィア・コールマンの表情豊かな演技が特に楽しめる。他に、舞台にも良く出る名脇役ディヴィド・ブラッドリーやテレビドラマで定評あるポーリーン・カークのいぶし銀の演技に惹かれれた。他の魅力としては、ドーセットの美しい景色とひなびた海辺の町の様子も出色(北部の海辺を舞台にした人気シリーズ「ヴェラ」を思い出した)。クライム・ドラマとしては、欠点を探すのが難しい。最近、イギリスでは第2シリーズも放映され、DVDも発売されたようなので、そちらも楽しみだ。ロンドンに行ってドラマを見ることが出来ず、たまに通販で買うDVDを見る他ないのが残念!

2015/02/08

マグナ・カルタの写本がケントで発見される

ガーディアン紙によると、マグナ・カルタの写本がケントの州古文書館で眠っていたのを発見された!

1215年のオリジナル写本ではないが、1300年にエドワード1世の命で作られたものらしい。マグナ・カルタは、国家の威信を示すためにあちこちに広く配られたようだが、今までの説よりも更に広範囲に流布したと考えられる、と専門家が言っている。

現在世界に24写本が残っているそうだ(この写本を含んでかしら?)

値段をつけると10ミリオン・パウンド、っていうと、18億円くらいか・・・。メイドストーンにあるケント州文書館にあるヴィクトリア朝に作られたスクラップ・ブックに貼り付けてあったそうだ。森林に関する勅許状(A charter of the forest)を調べていると、その隣にこれがあったということだ。大発見をしたのは、古文書の専門家でケント州文書館(ケント・カウンティ・アーカイブ)の職員のマーク・ベイトソン博士。この方、私がかって受講したパレオグラフィー(古書体学)のクラスを教えてくださった方。温厚で、学識豊かな先生だった。当時はカンタベリー大聖堂の図書室(ケント州の古文書館を兼ねる)で勤務しておられた。ベイトソン先生、人生最大の大発見! 特別ボーナスもらえるかな。

ケントの小さな地方都市サンドウィッチにとっては思ってもない宝物だろう。売却しないで、町の観光の助けになるようにしたい、とのこと。良かった。

2015/01/25

日本の古文書

昨日市民講座の前後に控え室でお会いした若い先生は、日本史の研究者で、古文書の講座を担当されているとのことだった。彼女はなんと江戸時代よりも前(だったと思う)の本物の古文書を持って来ていらして、その一部を講座で受講者と解読されているようだった。かなり長い巻物で、何百年も前の、縁があちこち欠けたり、少し破れている古い和紙、そして驚くほど鮮明な墨の色!中身は分からなくても見ているだけで感激だった。悔しいけど、自国の歴史や文学を研究されている方のレベルの高さが羨ましかった。イギリス演劇研究でも、写本の上演資料をかなり読めれば、国際的に通用するレベルの研究も夢でないが、今からどんなに頑張っても一生無理・・・。

それで思い出したのだが、以前、うちの近所のカフェで休憩していたら、となりの若い学生が日本語の古文書を懸命に読んでいた。多分日本史か日本文学の授業の宿題などだろう。それを見た私はえらく感激して、カフェを出るときにその人につい、「凄いですねえ、写本が読めるなんて!がんばってください」と声をかけてしまった。

こういうことがあると、中世文学は良いけど、中世英文学でなくても充分に興味を持てたかな、と一瞬思うな。

市民講座担当

先週から5回シリーズで社会人向け有料市民講座を担当している。ほぼ一週おきで、3月まで続く。毎回90分、遅れて始めたり、切りの良いところだからと早めに終えたりするわけには行かないから、予定の時間目一杯しゃべる。5回という事は、全部で7時間半。また、それだけ話す材料を準備しておかなければならない。話ばかりで退屈にならないように、ビジュアルの資料も用意する必要がある。雑談みたいな話でも喜んで下さる方もいるが、相手は人生経験豊かな大人で、長年海外で働いた方、留学された方などもちらほらおられ、とても厳しい質問や注文を出される方もたまにいるし、自分もうっかり初歩的な間違いをすることもあるので大変緊張する。初日の前夜はよく眠れなかった。90分話した後、疲労困憊していた。頑張ったが、パソコンが上手く動かなくなって写真も映せず、話し方もせかせかと落ちつきなくて、上手くいかなかったなあ、と後悔しきり。

今回話す内容については、これまで論文を書いたり、大学の授業で扱ったりしているので、ある程度予備知識はあるが、これから毎回、更に勉強しつつ講義ノートを作って行かなけばならない。正直言って一週おきでも準備が間に合うかどうか不安である。

この社会人講座もこれが確か6回目。このための準備は大変勉強になるので、余裕があるときはやり甲斐を感じることが出来る。他人から何かを期待されることがない今の私には、大学の職員さんや受講者の方々などに喜んで貰えると大変嬉しい。今回の講座を引き受けたのは去年5月で、その時には今頃は既に博士論文を提出できているだろうからじっくり腰を据えて準備する時間がある、と能天気な予想を立てていたが、今になってみれば論文執筆がいつ終わるとも知れぬ泥沼、というのが現実だ。論文の行き詰まりを考えると、公開講座をやっている余裕はないのだが、講座担当日は予定どおりにめぐって来る。3月まではしばらく博士論文の勉強から離れて、この講座の準備に集中せざるを得ない。

2015/01/04

NHKアーカイブ「戦後70年 吉永小百合の祈り」

正月4日の日曜の午後、NHKアーカイブ「戦後70年 吉永小百合の祈り」を2時間弱見入ってしまった。 彼女がライフワークとして各地で、そして長崎や広島でも続けてきた老若男女の被爆者の詩の朗読を伝える番組。朗読する吉永さんのことより、彼女の読む詩の重さ、それらの詩の意味するものに打ちのめされる。特に、被爆した子供たちの詩、親や兄弟姉妹を目前で失っていった小さな小学生などの詩には、計り知れない重さがあり、涙が自然とこぼれる。

後半で紹介された詩では、被爆のすぐ後、重傷者のうめき声も響く焼け跡のビルの一室で出産した女性のことがうたわれている。赤ん坊を取り上げた助産婦は、その直前まで痛みでうめいていた重症の女性だった。彼女は新しい命の誕生を見届けたのち、亡くなられたそうだ。

更に2011年の震災以降、吉永さんは、原爆の詩と一緒に福島の被災者の詩も朗読している。平和利用という名のもとに日本人が長崎・広島の惨事とは関係のないものとして受け入れた原子力が、多くの人の故郷を破壊し、彼らを漂浪の民にしてしまった事を忘れてはならない、と彼女は言う。

彼女は団塊の世代の、最も知的なアイドル。街をデモで埋めた同世代の男女が、やがて高度成長の波に飲み込まれ、経済第一のエコノミック・アニマルに甘んじて若い日の理想を失っていく中、「これからもずっと『戦後』であり続けてほしい」、「戦争を忘れないように次世代に粘り強く継承したい」と努力を続ける彼女に敬意を表したい。

彼女の今年の大きな仕事は、山田洋二監督の「母と暮らせば」(松竹映画、2015年12月公開)。原爆投下後3年を経た長崎を舞台に、原爆の残した深い傷を描く作品のようだ。

私も含め、組織の一兵卒になりきり、もみくちゃにされ、景気に一喜一憂し、我を失ってきた戦後の日本人も、少しでも吉永さんを手本にしたい。歳を重ねて人はその人の元の姿に戻るようでもあり、またその人の人生で得てきたものを、良くも悪しくも表に出すようでもある。吉永さんは、姿かたちだけでなく、年輪を経て一層美しい。団塊の世代にとって、今後も素晴らしいアイドルでありつづけるだろうな。

これからもずっと「戦後」であることを意識して生きようと呼びかける吉永さん。一方、「戦後レジームからの脱却」を呼びかける日本の首相、原発とその輸出、武器輸出、ギャンブル振興を国策として推し進めようとする政府・・・。吉永さんはどう思っておられるだろうか。