2018/09/15

NHK ハートネットTV「歴史部のぼく」

9月12日のETV「ハートネットTV」は「歴史部のぼく」と題された一種のドキュメンタリーだった。ぱっとしない、地味で内向的な39才の中年男性の城秀樹さん(テレビ・ディレクター)が主人公。自分の孤独な高校生時代を振り返り、当時の3人の男子クラスメート(生徒会長、サッカー部のスター、やはり孤独で謎の行動を取る生徒)を訪ね歩くという番組。

ディレクターの男性は、人間関係の構築が苦手な、口下手な男性で、私も似ていて、共感できる面が大いにあった。私には彼だけでも充分に面白いのだが、彼のクラスメート達が度外れてユニークで、とっても楽しい。

まず会ったのは、当時生徒会長だった男性。どのグループ(スクール・カースト)にも入り込まず、誰とでも楽しく話が出来るスキルみたいなものを持っていたようだ。そういう人だから城さんとも仲良く話してくれた。でも昼休みは他の人とサッカーをしていて、城さんはひとりで、ちょっと寂しかった。城さん自身はそういう時はひとりで本を読んでいた。この人、今は大学の英語講師になっている。スマートで長めの髪でカジュアルな雰囲気。いかにも大学の先生という印象を与える。でもその自由な感じから、多分非常勤講師じゃないかと思った(組織に属している専任の人達は、何となく堅苦しい雰囲気がある場合が多い)。城さんが、クラスに溶け込めなかった自分について語ると、彼は、「嫌なら行かなきゃ良いんだよ」みたいなことを言う。実際、彼自身も生徒会長なのに3分の1くらい欠席していたそうだ。何だ、それ、ほとんど不登校じゃん(^_^)。飄々としていて、39才の今も若々しく、魅力的な好男子。

次に城さんが会ったのは、格好良いサッカー部のスター。城さんにとっては最もまぶしい存在だった。会った場所はライブハウス。何と今はミュージシャンとしてバンドをやっている(そんなに売れてそうもないけれど)。サッカーの方はクラブ活動どまりでそれで生きていくほどには才能が開花せず、好きな音楽の世界に進んでいて、色々と苦労もしていそうだ。でも、若々しく、楽しそうに生きていて、迷わず自分の好きな道に進んだ人のすがすがしさが漂う。高校時代は部活、部活で一日中忙しくて余裕のない毎日だったらしい。

3人目は、クラスで城さん以上にひとりで悠々と我が道を行っていた正体不明の男の子。現れたのはカフェやゲストハウスを経営する実業家。でも見た目はヒッピー風(^_^)。高校時代は突然黒板に詩を書いてみたり、他の生徒に手紙を出したり(恋文ではなく、単なる手紙だそう)。昼休みはひとりで校内の散歩。孤独感は全くなくて、不幸ではなかったみたい。当時もユニーク、今もユニーク。

これはスクール・カーストを大人になった男性の視点から考える番組だったけど、中年になった個性的な男性達の生き方を見せてくれて、とっても楽しいドキュメンタリーだった。4人の中では、城さんが未だに青春の迷いをひきずっているみたいだけど、迷いながら生きるのも良いし、そんな彼はテレビのディレクターに向いていそうだ。

2018/09/13

NHK ETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」

8月18日に放送され、録画しておいたこの番組をやっと見た。小林多喜二の拷問による獄中死とか、共産党員の弾圧はよく知られているが、治安維持法が如何に拡大解釈されたかは私はよく理解していなかった。治安維持法が、共産党対策から、共産主義には関心も知識も無い一般大衆を統制するのに使われるようになった経緯は、天皇の緊急勅令による拡大解釈があった。特に、この法律の下、日本人以上に植民地の人々が苦しめられたことが明らかにされている。日本本土では、拷問による死はあったが、この法律の下での正規の死刑は科せられなかった。しかし、朝鮮では59人が死刑になった。共産党弾圧に始まった取り締まりは、やがて、労働組合員や組合関連の会合や読書会に出た人、新築地劇団などの劇団員等の文化人、燈台社など平和主義のキリスト教の信者、なども含まれるようになる。共産党員の家族も取り調べを受け、番組に登場した女性は14才で勾留され、手の爪を痛めつけられるなどの拷問で取り調べを受けた。その時の恐怖は100才近い今もトラウマとして残る。共産主義者を法廷で弁護した弁護士もまたこの悪法により検挙され、共産主義者を裁く法廷には弁護士がつきたくてもつけない、という法治国家と言えない状況が生まれる。更には、検挙者には単に庶民の人物画を描いていた高校生もいた。特高は共産主義が何かも知らない学生に「自白しろ」と迫り、無理矢理無知な若者に共産主義者であるとの嘘の自白をさせた。特高のこうした自白偏重はその後、日本の刑事司法の伝統になり、今の警察や司法に受け継がれたと、番組に登場した刑法学者は言う。この点は本当に重要だ。

特高に取り調べられた人は、20年間で10万1654人。第2次大戦後、特高警察にいた人々は罷免されたそうだが、罪を問われてはいないだろう。45年前から、治安維持法の被害者や支援者が、国に対して謝罪や実態調査をして欲しいという請願運動を続けているが、国はまったく応じていない。国の姿勢は、「治安維持法は当時適切に制定されたものであり、この法律による勾留・拘禁については謝罪や調査の必要はない」というものである(金田勝年元法務大臣の弁)。この非人道的答弁を見ても現政府が戦前の全体主義国家の要素を引きずっていることが分かり戦慄する。

治安維持法が作った悪しき伝統は今も脈々と引き継がれ、司法における自白偏重、警察と検察の無謬の原則、検察に刑事告訴された人の100パーセント近くが有罪になるという異様な現在の日本の司法を生んでいると言えるのではないか。日本では戦後が終わっていないどころか、これらの被害者やその家族にとっては、戦前も終わっていない。

2018/09/10

博士号取得の経済的な問題

「博士号取得への長い道のり」と題した3回の記事の中で、大事なことでありながらほとんど触れなかったのは、経済的な問題です。最後に、プライベートな事は控えつつも、少し書いておきましょう。私は全額私費のEU以外の留学生としてケント大学の大学院生となりましたので、もの凄くお金がかかりました。子供がいなかったので留学が可能になったのですが、それでも私と妻の老後の計画はすっかり様変わりしてしまいました。

結論から言うと、私自身は何とか修了できましたが、かなりの額の奨学金か、余程の家産が無い限り、私のようなことは絶対にやってはいけないと思います。英米の大学の授業料が高騰した今は尚更です(ケント大学の授業料も、私が始めた頃のほぼ倍になりました)。私も当時はまだあったが今は廃止になったイギリス政府による博士課程学生用奨学金(Overseas Research Student Award Scheme)と、ケント大学独自の奨学金に応募しました。修士で一番良い成績、distinction、を取ったので可能性はあると思ったのですが、どちらの奨学金も不合格でした。今思うと、そこで入学を諦めておけば良かったと思います。実際、イギリスの大学では、人文科学系でも奨学金が取れる場合に限り博士課程に行くという人が少なくありません。いやイギリス人の場合、大多数がそれでしょう。ケント大学で私が所属した中世・近代初期研究センター博士課程の学生の半分以上、恐らく7,8割は、授業料と生活費のかなりの部分をカバーする奨学金や授業料免除を受けていたと思われます。友達が全くいなかったので、聞くチャンスがありませんでしたが、奨学金を全く貰ってないイギリス人のフルタイム学生などほとんどいなかったのではないかと思います。更に、パートタイムの学生、奨学金を受けられなかった学生、あるいは奨学金の支給期限を過ぎて(つまり、普通3年以上)在籍する学生の多くはTAとして授業を担当し、生活費の足しにしているようです。しかし、私の所属部門、つまり中世文学や中世史分野でそれが出来るのはイギリス国内や英語圏からの留学生、一部の非常に優秀なヨーロッパの留学生のみでした(他の専門では、留学生がTAを勤めるのは良く見られます)。実際、TAをやるかと聞かれても、VIVAの受け答えですら覚束ない私には到底無理ですね。それに、留学生は、大学にとって、私費で高額の授業料を払ってくれる貴重なお客さんなので、国や大学の奨学金を出してまで入学して欲しくはないでしょう。

今考えると、私は奨学金が受けられないと分かった時点で日本国内の大学院の課程博士か論文博士を目ざすべきでした。そうすれば幾らか非常勤講師などのアルバイトも出来るし、そもそも、日本の住居を維持しつつイギリスでの滞在費等に莫大なお金を使う必要も無かったでしょう。大学の授業料も、特に国公立大学では日本のほうが遙かに安く、また、博士号も、ケント大学で費やした10年弱よりかなり早く取れたと思います。途中、短期間、学会やセミナーなどに出席するためにイギリスに勉強に行くことも可能だったでしょう。確かに専門分野の研究をリードしてきたスーパーバイザーやエクザミナーに論文を読んで指導して貰えたことは光栄であり、大変な励みになりました。しかし、払った代価は、率直に言って大き過ぎたと思います。

更に今になって思うのですが、現在の人文科学系のアカデミアにおいては、少なくとも必要額の半分以上をカバーできるくらいの国内外の奨学金を取ることが出来るような真に才能ある方だけが、短期間(3~4年)で論文を提出でき、更にその後に待っている厳しい就職戦線や研究競争を生き残っていけます。若い方で、家族の援助などを得て自費で留学し、私のように10年近く学位取得に要して年齢も高くなり、恐らく学生支援機構や銀行の学資ローンなどの借金も残る状態で、非常勤専業の教員などになったら大変です。まして、一部の方のように、研究上の問題や資金が尽きたなどの理由で退学をする、あるいは退学勧告を受けたり、M. Philに格下げになってしまったら、取り返しがつきません。何とか留学しようと奨学金に応募し続けて何年も頑張る方もおられるようですが、その間にさっさと国内の大学で博士号を取り、就職活動を始める方が良いと思います。

私はと言えば、最初にボタンを掛け違えたままこの長く高価な旅に乗り出してしまいました。途中で辞めれば良かったと思います。今考えると、奨学金を得られなかった時にすぐ方向転換をするか、あるいは「あと( )年だけやって、駄目なら退学しよう」、といった具体的計画を立て、家族や友人にもそう宣言すれば良かった、と思います。でも、いざ辞めるとなるとそれはまた非常に大きな精神的エネルギーの要ることです。関西のM先生のように大変親切な先輩も、親しい2,3人の友人も、私の試みを励まし続けてくれました。そうすると辞めようと思っていても決心が鈍るのです。5年経った頃からは常に辞めるか否か迷ってはいましたが、決断できませんでした。

一般論として、人間、後悔ばかりしていたのでは素直に生きていけず、劣等感の塊になってしまいます。過去を出来るだけ肯定し、失敗は大きくても、得られた満足感をかき集め反芻しつつ未来へと向かわなければ鬱になってしまいます。私も今、他人と話すときは、「やるべきじゃなかった」なんて言ってその場を白けさせるよりも、「留学して良かった」と言います。但、本音はどうなのか、自分自身分かりません。まあでも卒業式に出てとても嬉しかっし、何より老いた両親がとても喜んでくれたので、やっぱり良かったのかな。他人には勧めませんけど。

博士論文に関するエントリーもこれで最後とします。この一週間、この一連のブログを書くのに随分時間を使ったけど、色々な事を思いだせて良かったです。

2018/09/07

【新刊書】秋山晋吾『姦通裁判ー18世紀トランシルヴァニアの村の世界ー』の感想

秋山晋吾『姦通裁判ー18世紀トランシルヴァニアの村の世界ー』(星海社新書、2018)285ページ、1,100円

1765年夏、ハンガリーの一部でもあるトランシルヴァニア候国のコザールヴァールという村で、ある下級貴族の男性イシュトヴァーンの30代の妻ユディットと夫の従兄アーダームの間にあったとされる姦通事件について、近くの都市から判事が赴いて、2度の証人喚問が行われた。この村の人口は約800人、そのうち延べ100人以上が証人として聴取され、数十ページにわたる、ほぼ逐語的に記録されたように見える詳細な証言が残された。

筆者の秋山晋吾先生(一橋大学教授、東欧社会史研究)は、それらの証言から、この時代のトランシルヴァニアの結婚に関する道徳や社会通念に加えて、衣食住、宗教、地理、職業、教育や農業経営等々、ありとあらゆるテーマに渡って、証言の微細なディテールからジグソーパズルのように人々の日常生活をすくい上げ、組み立てようと試みる。アナール派などのマイクロ・ヒストリーの手法による社会史。新書版で、注や他の専門書への言及等はなく、一般の読者を対象にした分かりやすい語り口だが、285ページあり専門書に引けを取らぬ充実した内容。村の多くの農民が職人も兼ねており、魔女が出て来て媚薬を配合したり、当時のトランシルヴァニアではほとんどの農民は識字能力がなかったことなど、18世紀後半の東欧のこの村は、中世末から近代初期のイングランドの村によく似たところがあって、歴史愛好者だけでなく西欧の中世文学や文化に関心のある方にとっても興味深い本だろう。

ユディットという女性は、チョーサーの「粉屋の話」のアリスーンやバースの女房を思わせる逞しい女傑。夫イシュトヴァーンから殴られる時もあるが、彼を足蹴にしたことも目撃されている。夫からは娼婦呼ばわりされながら、自分は身持ちの悪い女ではないと主張し、恥じらいを見せるときもある。愛人アーダームの財産が入ったチェストの鍵もしっかり握っている。イシュトヴァーンはそもそもこの妻を裁判所に訴えた張本人だが、妙に弱気だったり、妻に対しへりくだったりすることもあるらしい。私から見ると、この3人の男女の関係自体が、一種のファブリオーのように見えておもしろかった。但、聞いたことのないハンガリー語の固有名詞の連続や、複雑に絡み合った人種や宗教の解説など、読み始めてしばらくはある程度辛抱が必要だった。

博士論文提出への長い道のり(3)

博士論文提出への長い道のり:(3)再出発から論文の完成へ

さて前回のブログでは2014年の夏頃に始まったスランプのことまで書きました。今回は、その後、スランプを抜け出して論文完成に至るまでを思い出してみます。

論文の方向が見いだせないまま2014年も終わり、2015年も同じ状況のまま数ヶ月が過ぎていきました。ケント大学ではPh.Dの学生は、フルタイムの学生なら毎月、パートタイム学生であれば2ヶ月に1回、先生と直接会うか、あるいはメールやスカイプなどで連絡を取り、研究の進行状況を報告し、指導を受けなければならないと決められています。そしてどのようなやり取りがあったかを大学に報告することにもなっています。これは、私の様にスランプに陥った学生が指導教授との連絡を絶ち、結果的に退学してしまうという状況を防ぐ為だろうと思います。あまり捗ってないときは報告することもなく、面倒でもあるのですが、でも退学を防ぐには良い制度です。当時私はパートタイム学生にして貰っていたので、一月おきにG先生に勉強の報告をしていましたが、この頃先生へ送ったメールを読むと、先生に報告することもなく、進むべき方向を見つけられずに毎日鬱々としていたことが分かります。こうした暗中模索が半年以上続きました。しかし、2015年の初夏には論文全体を組み立て直すための理論的な流れを見出し、イントロダクションのアウトラインを書くことが出来ました。6月に先生に送ったメールを読むと、長い暗闇のトンネルから抜け出しつつあると感じていたようです。

2015年10月のG先生宛のメールを読むと、暑い夏の間に大変苦労してイントロダクションを書き終えただけでなく、その内容には結構面白い点もある、即ちその後に来る本文の内容に関しても楽観できると感じていたことが分かります。それからは私の論文執筆はゆっくりですが着実な前進を始めました。既に書いていた1〜3章を、ほぼ同じ素材やアイデアを使いつつ、構成を変え、新しく書き直しました。イントロダクションで展開した方針に従って、各章が、バラバラの印象を与えず、何とかひとつの結論へと収斂していくようにと、章のあちこちに論文全体のテーマに沿ったコメントをくさびを打つように書き込んでいきました。そうして常に全体のテーマを意識しつつ書いて行くと、各章の初校を書いた数年前には思いつかなかった新しいアイデアが浮かぶこともあり、特に1章と2章は大変改善されたと自分でも感じました。更に、もう削除するか、せいぜい付録(appendix)として残す他ないと思っていた3章も、全体のテーマのもとに組み立て直して、本文に組み込むことが出来ました。こうした全体的な書き直しに2016年いっぱいかかり、2016年の暮れから17年の年頭にかけてはようやく結論を書く作業をしました。

私は現役の教授であるセカンド・スーパーバイザーのB先生の努力で、色々な制度を使って2017年3月末まで学籍を延長していただいていました。その延長期限がどんどん迫ってきたので、2016年の秋には論文の修正をしたり結論のアウトラインを考えつつ、論文全体の英語を直してくれるプルーフリーダーを探し始めました。20ページ程度の雑誌論文であれば、旧勤務校の同僚など知り合いの英米人の先生方に何人かあたって英語を直して貰えるか問い合わせたでしょうし、現役の専任教員の頃はそうしていました。しかし、私の博士論文は最終的に8万5千語程度、246ページになりました。博士論文としてはけして長い方ではありませんが、これを現役の忙しい先生に熟読して直していただくのは無理です。仮にやろうと言ってくださっても、申し訳なくてとてもお願いできません。企業や科研費などの公費がふんだんにある大学教授なら、日本で営業しているよく知られた幾つかの校正業者に発注することも出来ますが、高額で何十万円かかるかわかりません。ある業者のウェッブ上の自動見積もりでは、時間をゆっくりかけて貰う最低価格でも38万円でした。ウェッブで校正業者を検索すると、イギリスや北米の業者も色々とあり値段はかなり安いところもありますが、信頼出来ません。M.PhilからPh.Dへのアップグレードのための論文はそうした業者に発注したのですが、出来上がったドラフトにはまだ間違いが沢山残っていたようで、G先生は、あまり良くない、と言っておられました。そこで、今回は業者ではなく顔の見える人に頼もうと思い、人づてに探し始めました。私の旧勤務校の大学院を修了し、イギリスのリーズ大学でPh.Dを取られたWさんが、二人ほど友人を教えて下さり、ひとりはお忙しくて無理だったのですが、もうひとりの方に落ち着きました。日本の国立大学で長年英語の先生をなさり、数年前に定年退職されて今は自宅でこうした英文校正のお仕事をされているアメリカ人のH先生です。ご自分も博士号をお持ちです。論文の書式はアメリカとイギリスでは大分違いますし、もちろん、綴りが違う単語もかなりありますが、そうした点は自分自身で気を配ることにして、この先生に英語を直していただく事にしました。2017年3月末の提出を目ざし、論文全体の完成を待たずに、出来た章からH先生に送って、沢山の間違いを指摘していただきました。

2017年3月末には何とかして論文を提出したいと思っていたので、H先生のコメントに沿って英語の間違いを直したり、全体の書式の修正や引用文のチェックなどをしつつ、大学の事務局にPh.D論文の提出の予告をしました。Ph.D論文は学生が用意が出来たと思っても勝手に提出できず、ケント大学の規定では3ヶ月前に提出の予告をすることになっています。提出の予告があると、私の所属していたセンターの場合、スーパーバイザー2人に加え、センター長の提出許可が必要です。書式や英語の修正は残っていましたが、ふたりのスーパーバイザーからは提出許可を貰っていましたので、後はセンター長ですが、建前としては、スーパーバイザーとセンター長と私の4人が直接会ってミーティングを開くことになっていました。しかし、私が日本にいてそれは出来ないので、スーパーバイザーの提出許可が出ていることを前提として、センター長とはスカイプで面接をすることになりました。その頃丁度学期末で、センター長が多忙でなかなか連絡がつかず、結局3月末が過ぎ、4月に入ってしまいましたが、スカイプで15分ほどの簡単な質疑応答がありました。センター長は、ふたりの専門家が提出を許可しているので、このインタビューは形式だけです、とおっしゃいました。始めてお話しした方でしたが、和やかにおしゃべりしただけで済みました。

そういう手続きを済ませ、何度も原稿をチェックして、やっと論文が完成。4月上旬に業者に論文の製本をしてもらい、大学の事務局に2部を、更にメールでPDFファイルを送りました。その後の口頭試問や学位授与式については既に先日のブログで書いたとおりです。こうしてふり返ると、最後の半年くらいは、日頃の私らしくない急ぎぶりで作業を進めましたた。3月中という目標からは少し遅れましたが大学からおとがめはなく、ぎりぎりゴールに走り込めたのは幸運でした。まだまだこの後、口頭試問、そして最終評価という関門が残っていたので完全に安心はできないのですが、とにかく提出できたときには大きな安堵感で一杯になりました。この時にはまだ関西のM先生とは連絡が続いており、早速報告の手紙を出し、お返事でお祝いの言葉をいただきました。但、そのお手紙の字が弱々しく、「今年いっぱいの命かも知れない」と書かれているのを見て大変悲しくなりました。

さて、今回まで6回連続で、順序は一部逆になりましたがPh.D課程を始めてから学位授与式までの道程をふり返ってみました。やたら長いし、最初は反面教師としてでも役に立つかもと思ったけれど、劣等生で年配学生の個人的な回想なので、レベルが低すぎて若い優秀な院生さんの役には立ちそうもありません。しかし、私自身にとっては退職後これまでの10年をふり返る良い機会となりましたし、これからも時々読み返して昔を懐かしむことになりそうです。悪文にもへこたれずに通して読んでくださった方がおられましたら、ありがとうございます。

2018/09/06

博士論文提出への長い道のり(2)

博士論文提出への長い道のり:(2)出発してから道に迷うまで

今回は、前回に続き、Ph.D論文の試行錯誤の道のりについてです。特に2014年に方向を見失い、スランプに陥った頃までをふり返ることにします。

私の博士論文の萌芽は2001年度に勤務先の研修制度を利用してケント大学、中世・近代初期研究センター(当時は、中世・チューダー朝研究センター、と呼ばれていました)に1年間留学した時に始まります。日本の学年暦に沿っての留学でしたが、世界的にもよく知られたチョーサー研究の権威で後に私のセカンド・スーパーバイザーをしてくださるB先生のご努力で、MA課程に入学し、修士号を取ることが出来ました。日本の大学院でも修士を修了していたので2つ目の修士号です。普通の学生とは逆の順序で、まず修士論文を書き、次にコースワークをしました。その時、中世イングランドの道徳劇や聖史劇には法律や裁判、法律家などに関する題材や用語が大変豊富であることに気づき、コースワークの一環としてレポートにまとめ、更に帰国後、それを修正して学会誌に投稿、編集者の指示に従って書き直した上で珍しく採用されました。そこで、このテーマで今後研究できるのではないか、と思いました。博士課程に留学することにした時には、入学願書に「中世劇とチューダー・インタールードにおける法と法曹」(Law and Legal Professionals in Medieval English Drama and Tudor Interludes)をPh.D論文のテーマとして研究したい、と書きました。

指導教授は、MA時代同様 G先生になることは決まっていたので、カンタベリーのアパートに入り、日常生活が一応落ち着くと直ぐに彼の指導を受けつつ勉強に取りかかりました。前回までに書いたように、イギリスのPh.DではまずM.Phil課程に登録し、1年前後にある程度の長さの論文を提出して、認められればPh.D課程に変更(アップグレード)するのが一般的です。ケント大学でも1年弱を目処に1万語程度の論文を提出することになっていました。私はG先生と相談し、先生ご自身もかなり詳しくご存じの16世紀のチューダー・インタールードをまず扱うことにして、その時代の劇における法的なモチーフについてまとめて、2009年の初夏に提出しました。審査はG先生と、もう一人はセンター長代理だった法制史の学者、B先生(先程のB先生とは別人)でした。B先生は法制史の専門家ですから、幾らか緊張しましたが、スーパーバイザーのG先生が提出して良いと言われたわけすから、提出できた時点でほぼ安心です。ということで1年弱かかって、Ph.Dにアップグレードできました。その後もこの論文を加筆修正して、1万5千語弱になり、私の博士論文の最終章とすることにしました。しかし最終的なPh.D論文は10万語、少なくとも8万語以上は必要なわけで、長さは気にすることはない、と言われても、先は長いなあ、と溜め息が出ました。単純計算で行くとそれまでの1年で書いた分量の6倍位は書かねばならないわけです。しかもまだ長い旅が始まったばかりで、これから色々な困難があるだろうとは予想できました。

そういうわけで、その後は、まずは論文内容の良し悪しにこだわらず、書けるところから始め、手持ちのアイデアや材料で書けることは全て書いて行き、後で修正しよう、と思いました。ある程度の量を書いて、出来るだけ早く論文完成の目処をつけたいと思ったのです。イギリスに住み、高い授業料を払い続けることの金銭的な問題ももちろんありましたし、その他、研究や金銭問題以外にも、私の年齢になると誰しも抱えている心配事もいくつかありました。

そうして、あまり内容にこだわらず、中味を磨くのは後回しにし、出来るだけの量をコンスタントに書き論文の完成が見えてくるようにしたい、と思って作業を進めていきました。しかし、前回のブログで書いたように、私の能力の限界は如何ともしがたく、時間はどんどん過ぎ、しかし書ける文章の量は最初の1年間のペースのままでした。ひとつには、前回までに書いたように、私が学際的なアプローチを取って文学作品にみる法や法曹について研究したために、それまで全く読んだことのなかった法制史(legal history)の本を必要最小限でも読むために膨大な時間がかかったのです。法制史関連の本を読み、中世劇のテキストを繰り返し読む、という事を同時進行でやるのですが、前者に途方もない時間を使ってしまいました。しかも、既に書いたように、私の読書は、沢山のノートの取りながらのかたつむりのような読み方で、論文は遅々として進みません。結局、7万語程度書き、全体が大体において形を現したと感じ、これから序論と結論に取りかかろうと思った時には、始めてから6年後、2014年になっていました。その大分前、2011年の夏には私は日本に戻り、非常勤講師や家事の傍ら、勉強を続けていました。

それまで私は各章、あるいは長い章の場合はその中のセクション毎にG先生に送ってコメントをいただき、修正していました。また、日本に戻った後も、毎年1度か2度ロンドンで先生と直接会い、指導も受けました。全体が固まりつつあった2014年の夏頃、私はそれまで書いた5章をもう一度一括してG先生に送り、先生は全体を再読して下さいました。しばらくして彼から、長文のコメントが送られてきましたが、それはかなり辛い内容でした。そのことについては既にその当時のブログ「博士論文の行き詰まり」で書いたので、ここではリンクを貼るだけにします。先生がおっしゃるには、要するに、論文草稿の半分以上がそのままでは使えない、大幅な書き直しが必要とのことでした。本文の原稿を通して読んで、理論的な一貫性に欠けていることが分かったそうです。それまでの、まずは書けるだけ書く、というやり方のツケが一気に回ってきたのです。全体の理論的構築を考えつつ各章を書いて行かなければならなかった、とこの時に気づかされました。でもそれまで私は、少しでも先に進むことで精一杯で、正直に言って、論文全体の理論的な一貫性を保ちつつ書ける実力も余裕も無かったのです。私自身、その頃イントロダクションを書こうとして、かなり困っていました。各章がバラバラなので、序論をどう書いて良いか分からなかったからです。

それから1年弱、私の論文執筆期間において一番苦しい時期が続きました。何だかノイローゼみたいになり何もせずにボーッと過ごす日もありました。鬱々としていると、そもそも勉強をするエネルギーが出ないので、論文とは全く関係の無い気晴らしをする日も多かったと思います。毎週1回行っていた非常勤講師の仕事や友人の先生のクラスでのゲスト講義、旧勤務校の市民講座の担当などの仕事は良い気分転換になりました。しかし、そうしている間にも時間は経ち、論文完成のゴールは霞んでいきます。ケント大学がいつまで私の在籍を許してくれるのかもはっきりせず、焦っていました。それまで読んでいた中世劇や法制史の研究書から離れ、理論的な支柱や新しい視点を求めて、「法と文学」のテーマについて書かれた本を捜し、何冊か読んだりもしました。当時読んだ本の中には、文学理論、社会学、建築史などの本に加え、カフカの短編小説もあります。カフカは若い頃から私の好きな作家でしたが、彼は「法と文学」に関する研究で良く題材として俎上に載せられる作家です。こうした無駄な脱線のように見えた読書が私の視野を広げ、その後、イントロダクションを考える上で重要な役割を果たし、私のPh.D論文が息を吹き返すことになりました。

この長いスランプの期間、私は2ヶ月に1回程度イギリスのスーパーバイザー、G先生とメールのやり取りをしていました。彼は「こう書きなさい」という具体的ヒントは与えてくれませんでしたし、また私のやっているテーマには通じていないので、そうしたくても出来なかったとは思いますが、常に励ましの言葉をかけて下さり、私には論文を完成するのに充分な能力があると繰り返し書いて下さいました。そして、今まで書いた章、特に問題の多い1〜3章を無駄だったと思わず、何とか組み立て直して使うように、と指示されました。

さて、今回はここまでとします。最悪の期間を抜け出して論文完成へと進んだ頃のことは次回続けます。

2018/09/04

博士論文提出への長い道のり(1)

博士論文提出への長い道のり:(1)何故つまずいたのか

最近3回のブログ・エントリーで、Ph.D論文について個人的に備忘録として書いておきたいことはぼぼ書き尽くした気がします。しかし、2008年秋に博士号のための勉強を始めてから学位取得まで10年弱、論文提出まででも8年8ヶ月ほどかかってしまいました。始めた時は、3年では無理とは思っていましたが、遅くとも5年以内にはできるだろうと楽観していたので、大変な計算違い、自分の能力の過大評価をしていたと思います。ということで私の博論修行はどなたにとっても良い手本にはなりませんが、逆にここまで長くなっても何とかゴールに滑り込んだという割合珍しい例かも知れないので、良い反面教師になるかもしれません。

何が問題だったか考えているのですが、いくつもの要因があります:

1. そもそも私の知的能力の不足。
2. 若い研究者と違い、学位取得後の就職等がかかっているわけではないので、それ程必死ではなく、むしろ、退職後の楽しみという要素が大きく、比較的ノンビリと勉強していた。
3. 配偶者が、今もそうだが、非常に忙しい生活を送っているので、20011年夏に帰国後は、私の日々のプライオリティーは、主夫業になり、勉強は2番目になった。
4. 持病をかかえ、体調不良の時がとても多く、そのために勉強出来ない日もしばしばあった。
5. 帰国後は非常勤講師や、元の勤務先の市民講座、ゲスト講師などのアルバイトにかなり多くの時間を使った(これもプライオリティーの問題)。
6. 指導教授2人も、ケント大学の所属センターも、急ぐようにと圧力をかけることはなかった。これは上記2のような私の勉強の目的からするとありがたかったが、その分かなり時間がかかる原因になったとは思う。
7. おそらく、選んだテーマが私の能力を超えた大きすぎるものであった。

1の能力不足という点ですが、そもそも私は記憶力がかなり劣っているのは子供の頃から家族にも言われ、自覚もしています。小学校から高等学校までの成績は普通でしたが、高校は地方の平均的な公立高校で、その後、大学入試に6校も落ちて、やっと3月半ばに受験した7校目で全員合格みたいな入試を受けて滑り込みました。その程度の知的能力なので、イギリスの大学で、しかも中世英文学で博士号を取ると言うのは、考えて見れば無理があったかもしれません。但、やれるかなと思ったのは、2001年度に勤務校の研修制度を利用してケント大学でMAを貰い、その折に最優秀の成績(distinction)をいただき、博士課程でも指導教授をして下さることとなったG先生やその他の先生に、Ph.Dをやらないか、とお勧めいただいたからです。でも、MAとPh.Dは全く違います。イギリスの大抵の大学院博士課程の場合、日本や北米の大学院と違いコースワークはありませんが、論文の長さは普通約10万語(上限)です。私の場合、指導教授からは、8万語から10万語の間と言われていました。但、どの先生もそうおっしゃるのですが、長さを気にすることはない、あくまで内容が大事、とも言われました。逆に、長さが充分かを気にするようなレベルでは内容は薄くて駄目だという事です。一方、ケント大学のMAはコースワークがあって、その後、修士論文が2万語です。2万語程度なら、日本で修論を書いたり、雑誌論文を書いたりしている者なら、過去の論文とか、それまで養ってきた知識をアレンジすればそれほど苦労しなくても書けますし、また、MA論文では、新しい学問的な知見が含まれなくても、既存の研究を良く勉強し、自分なりの視点から租借し、一貫した論旨で議論を積み上げていれば、少なくとも合格点は貰えるでしょう。しかし、Ph.D論文では、ほとんどの専門家から見てもそうと分かる明確な新しい知見が求められます。先行研究を踏まえるのは大事ですが、ただダラダラと過去の研究の整理を10万語近く並べるだけでは済ませられません。

若くて才能があり学問的に活躍されている先生方の研究の様子を見聞きして思うのですが、彼らは文献を読み消化するスピートが早い。特に本を読んで、大事な点を見分けて記憶する能力が素晴らしいのに驚きます。私は本、特に英語の研究書を読むのが非常に遅く、しかも読んだ事を片っ端から忘れて行くので、非常に細かいノートを取ったり、あるいは後で引用することを考えて、頻繁に長文をそのまま書き写したりします。ですので、色々な部分が博士論文に役立ちそうな本や、基本的な知識を仕入れるのに必要な概説書を読み出すと、延々と何週間も、時には2、3ヶ月も、時間が経ってしまいます。また記憶の容量が小さいので、パソコンで言うとRAMメモリにあたる、議論を展開するための各種材料を頭の中に留めておく能力も乏しいことになります。従って、色々とアイデアを展開するためには、その度に以前に書いたノート(つまりハードディスクのデータに相当)にアクセスする必要があります。私の親類に京大を出た優秀な若者がいますが、受験勉強中、教科書や参考書で一度読んだことは大抵忘れなかったらしいです。「なんだこいつ、うらやましい!その記憶力、分けてくれ」と思ったことの「記憶」はあります(^_^)。私の勉強のやり方がそんなですらか、時間がかかるわけです。それで、何とかもっと早く読めないかと焦るのですが、無理に早く読もうとすると後には記憶も物理的なノートも何も残らないことになり、やはりダメだ、と元のかたつむりのような読書に戻る事になります。それぞれ、自分に与えられた能力でベストを尽くすより仕方ありません。

7番目に書いたテーマの大きさですが、私は自分の人生最後にして最大の楽しみとしてこの勉強を始めましたので、学位取得を第一の目標にしてテーマ設定を小さくまとめず、出来るだけ自分のやりたいようにやろうとは思っていました。それで、かなり学際的なテーマを選び、今までほとんど読んだことのない分野の本をかなり読み始めました。最初は基本的な概念や用語も分からず、延々と同じ入門書を読んで、「こんなことやっていて、役に立つんだろうか」と思いながら暗中模索していました。結果的には、最初の1、2年目のそうした勉強と、当時取った沢山のノートが随分役に立ち、私の博士論文の個性を支えることになりましたが、私が若くてキャリア形成のために早く博士号が必要だったならば、違ったやり方をとるべきだろうと思います。

テーマの選択や理論の組み立てにおける専門的な部分での試行錯誤については、指導教授のアドバイスが非常に大事です。私の論文はほとんどがイギリスの中世演劇を扱っていますが、メイン・スーパーバイザーのG先生は、専門分野が私とはやや異なっています。彼はご自身の博士論文では中世演劇を扱い、その後も、1980年代頃までは中世演劇を主に研究されていたと思いますが、その後、引退なさるまでは主として近代初期の演劇、つまりシェイクスピアや彼のほぼ同時代の演劇(16世紀始めから清教徒革命前[1640年頃]までの演劇)を中心に論文や研究書を出されてきました。従って最近のイギリス中世演劇の研究はフォローしておられず、またそもそも退職したこの数年は研究活動から完全に遠ざかっています。それ故、既に書いたように、G先生は論文の専門的な内容については、私の自由にさせて下さいました。そのことは、私が間違った方向にかなり進んでしまっていた時も、彼は直ぐには気づいてくれなかったということを意味します。すでにブログ・エントリー「博士論文の行き詰まり」で書いたように、2014年頃にG先生が論文の大きな問題に気づき、その後私が長い停滞に苦しんだ背景にはそういうこともありました。しかし、G先生の、やや古風な自由放任の指導は、今となって考えると、年配の学生である私にとって一番適していたと思います。細々と縛られ、あれこれ注文を付けられていたら、嫌になって途中で止めたかも知れません。

今回も既に長くなりましたので、ここで一旦止めます。次回以降で、私の論文執筆の試行錯誤をより具体的に書き、出発、挫折、停滞、再出発、完成の流れを跡づけたいと思います。

2018/09/02

口頭試問(VIVA)当日から、Ph.D論文の最終承認まで

前回のブログでは論文提出後、Ph.D 論文審査の試験官の決定や、口頭試問の準備について書きました。今回は、その口頭試問自体について、もう大分忘れてしまったのですが、憶えていることを書いておきます。

私は論文の評価がどうなるかについては、ある程度不安がありましたが、口頭試問自体が上手く行くか行かないかは、ほとんど心配していませんでした。と言うのは、教員として長年修士論文の審査をしてきて、口頭試問の受け答えの上手下手で論文の評価が変わることはまずない、と確信していたからです。私は、何度も長期留学をしているにも関わらず英語の会話能力はお粗末だし、近年は年齢のせいで多分平均的な老人よりも早くやや難聴を自覚するようになり、会話で聞き直すことが多くなりました。というわけで、とても上手に受け答えすることは出来ません。しかし、評価されるのはあくまで論文そのものです。口頭試問により、試験官がそれまで気づかなかった論文の長所とか短所、執筆者の努力などに気づかされていくらか評価が変わることはあり得ますが、根本的な判断、合格・不合格、あるいは、細かな訂正(minor corrections)で済むか、全体的な修正・書き直し(major revision)が必要か、という点が変わることはほとんど無いと思います。但、二人の試験官の評価が大きく異なることは偶にあるようなので、その場合は、口頭試問の結果と言うより、二人の試験官が直接話をするこの機会、つまり口頭試問の前後に、どちらかの試験官が、もう一人の試験官の意見を聞いて大幅に評価を変えることはあり得ます。

今回、改めて試験官二人が書いて大学に提出し、またサイン入り写しを私も郵送して貰った公式の報告書(Examiners' Report)を読み返してみました。その報告書は、ベースに大学の決まったフォーマットがあって、評価については後で述べるように幾つかの選択肢の中からひとつにチェックを入れたり、論文で修正すべき点について試験官が記入したりするようになっています。もらった時は、パスしたと言うことしか考えてなかったんですが、ケント大学ではPh.D論文の成績には、細かくは8つあることが分かりました。即ち簡単にまとめると:

1. 所謂ストレート・パス。そのままで良い、という一番良い評価。(Examiners' Report のフォーマットの文は、We recommend that the candidate be admitted to the degree of PhDだけ)

2. 小さな訂正(minor corrections)が必要。3ヶ月の猶予期間の間に修正して学内試験官のみがチェックした上でパス。(文面は、We recommend that the candidate be admitted to the degree of PhD subject to certain minor corrections to the thesis being carried out to the satisfaction of the Internal Examiner within three months . . . . で始まります。以下省略)

3. 内容に関するある程度実質的な修正(revision)が必要。その上で、6ヶ月以内に学内と学外の両方の試験官に再提出し、二人は再度合否を相談する。

4. 修正(revision)ではなく、全般的な書き直しの上で再提出(resubmission)が必要。しかもこれは試験官だけでなく、再提出を許可することを所属部門の会議でも承認される必要がある。その上で1年以内に書き直して、二人の試験官に再提出。

5. (論文の再提出ではなく)口頭試問を6ヶ月以内に再度受ける(これがどういう場合に当てはまるのかは不明。論文は合格だけど、口頭試問が不合格という意味だろうから、多分人文系はないケース?)。

6. 論文はPh.Dには相応しくないので、そのまま修正しない形で M.Phil (Master of Philosophy) の学位として再提出をすべきであるという評価。

7. 上記6に準じ、M. Phil授与に価するが、M.Philの学位としても小さな訂正(minor corrections)が必要なので、3ヶ月の間に必要な訂正をして再提出、という評価。

8. いかなる学位も授与することは出来ないし、修正や再提出も許されないという評価(その学生の人生に破壊的な影響を与えるので、ここまでこじれるケースはほとんど無いとは思うのですが、間接的に聞いたことはあります)。

イギリスの大学は大体似たような評価システムと思いますが、こうしてみると、論文の出来が悪い場合でも色々な救済方法が用意されているわけです。ほとんどすべての人は1から4までのどれかの評価を与えられます。6とか7は話に聞いたことはありますが、普通、論文を提出し口頭試問を受ける大分前に、指導教授から、Ph.Dは多分無理だろう、と言われるでしょうし、本人も自分は向いてないと思って辞めて行く人がある程度いると思います。またほとんどすべての大学では、Ph.Dを目ざす人もまずは形式上M.Phil課程に入学し、1年前後の時期にPh.D課程にアップグレードをする事になっているので、その時点で、アップグレードは不可という判断が下され、博士は難しいと言われると思います。私が間接的に知っている日本人の研究者で、Ph.Dを目ざしていたけれどM.Philしか貰えなかったという方のこと聞いたことがあります。その方は他の大学に移ってPh.Dを授与されたそうです。しかし私の知るほとんどの方は(と言ってもあまり知り合いはないのですが)、1か2の評価。たまに3か4もあるようですね。私の指導教授も、エクスターナルとして審査した論文で、4の全面的書き直しの評価を出したことがあるとおっしゃっていました。第一次資料が不足していたので、もっと資料を増やした上で書き直すように要請したとのことでした。

前回も書いたように私のVIVAの試験日は2017年9月11日、時間は午後2時からで、場所は大学のセミナー室(十数人座れる小さな教室)でした。私は折角イギリスに行くのだから、時差ボケを完全に解消して体調を整える事を考え、8月下旬からロンドンに行って、涼しい中で美術館、博物館や劇場に行ったり、勉強をしたりしていました。もちろん、論文を数回読み直しました。ロンドンに滞在していて、私の宿舎からカンタベリーの郊外にあるケント大学のキャンパスまでは、普通の電車を使っていくと電車やバスの待ち時間や歩く距離等も入れて2時間半〜3時間くらいはかかります。電車は良く遅れるので余裕を見て10時頃家を出たと思います。大学に着いたのは1時間くらい前だったのですが、図書館でメモを読んで準備していました。電車の中でも図書館でも、上で書いたような想定される質問の答とか、詳しいサマリーを読むことで、安心が得られました。実際にどれだけ役に立ったかは分かりませんが、精神的には、自分が思いつく限りの充分な準備をやっておいて良かったと思います。

会場のセミナー室に着いたのは、定められた時間、2時、の5分か10分前だったと思います。その時には既に2人の試験官は椅子に座っておられました。エクスターナルのM先生は私を憶えておられて、Nice to see you again と言われたように思います。インターナルのW先生は始めてお目にかかりました。質疑応答は主にベテランのエクスターナルの先生が先導し、インターナルの先生が捕捉するというペースで進みました。インターナルの若い先生は、大ベテランに大きな敬意を払っていることが窺えました。質疑応答の時間は1時間45分くらいで、その後、15分くらい私が席を外している間に2人が相談し、その上で、私が部屋に戻り、評価を言い渡されました。最初にこの流れをM先生が説明してくれたと思います。それから、最初に、何故中世イギリス演劇に関心を持つようになったか、そして、このテーマを選んだのは何故か、という2つの予想していた質問を受けました。その後は具体的にどういう質問があったかは、もう忘れてしまいました。というより、下手な英語を使って非常に苦労して質問に答えていたので、憶えている余裕も無かったという感じです。卒論や修論の口頭試問、入試の面接など、これまで教師として若い人に色々と質問する機会は多かったのですが、自分が質問を受ける側になってみると、なかなか上手く受け答えできないなあ、と思いました。その主な原因は英語力不足でしたが。但、上で書いたように、口頭試問では評価はほとんど変わらないと思っていたので、それ程緊張はしませんでした。

最初に全般的講評として言われたのは、「あなたの論文はとても良い。(序論で)この論文の目的としていることを、全体として成し遂げている」ということでした。英語では、'It's a very good thesis. You accomplished what you set out to do'というような表現だったでしょう。その上で、これからの質疑応答では、今後、この論文を本や学術雑誌論文など何らかの形で発表する場合、どういう風に直していけば良いか、という視点から質問やコメントをします」とも言われました。それを聞いただけで、ああこれで少なくとも大きな問題はないんだな、とは分かりました。しかし、その後に頂いた質問やコメントを聞いて、自分の実力不足や不用意な点を痛感しました。基本的に、この分野の新しい批評を充分な量読んでおらず、その点で議論の厚みや深みが足りない、という事を指摘されました。但、既に、これはどうしようもないと自覚していた点です。私の英語力では、英語圏やヨーロッパの院生と比べるとどうしても読んだ研究書や論文の量で見劣りがし、提出前から言われるだろうと思っていました。しかし、もっと沢山注をつけて、読んでいる参考文献に詳しく言及すれば良かったな、とは思いました。私自身は、注の非常に多い論文は、そうした注に気を取られて読みづらいと感じるので、注があまり多くなるのは好きではないのです。また、私のメイン・スーパーバイザーからも参考文献の不足についての注意が全くなかったのも、こういう指摘を受ける結果になってしまった一因でしょう。一方で、私のスーパーバイザーは論文の構成については、度々的確な指示をしてくれ、おかげで、VIVAでは、そういった点での駄目出しはまったくなく、むしろ評価するコメントをいただきました。著書、編著を色々と出されているベテラン教授のエクスターナル、M先生は、今の出版情勢を考えると、私の博論をこのままアカデミックな議論ばかりの状態で単著として出版するのは無理だが、より一般的な説明を付け加えて書き直せば、出版が可能かも知れない、と言われました。書籍にも出来ると言って下さっただけでも、私には大変光栄でしたが、正直言って、ここまで来るのに約9年もかかっているので、これ以上、また大幅に書き直し、出版社のエディターや何人かのレフリーに読んで貰って更に色々と書き直し、しかも補助金や自己資金なしでは、出版できるかどうかも分からない、という困難な道をたどる時間やエネルギーは、年寄りの私にはありません。ということで、口頭発表や学術雑誌への投稿という形で発表していきたい、と答えたと思います。

内容に関して、各章の要点となっている大きなトピックとか、私の考えた新しい解釈などについては、ほとんど問題ない、むしろかなり高く評価されているところも多い、という印象を受け、嬉しく思いました。日本の学会で過去に研究発表や論文の投稿をした時には、「それは考えすぎでしょう」とか「的外れ」というようなコメントを何度もいただいているので、部分的には、あるいは章によっては、内容面でそういうコメントをある程度いただくだろう、と思ったのですが、全くなかったと思います。上に書いたように、問題点としては、文献の読み方が足りず、議論が不十分な点を指摘された程度だったでしょう。また口頭試問の目的に沿って、論文についての試験官の評価や意見を言うよりも、私の考えを聞く方に主眼が置かれていました。

さて、質疑応答はあっという間に終わり、15分ほど私が席を外した後に戻ると、評価が言い渡されました。2人の試験官が紙面で出して下さる点について論文の細かな訂正をするということを条件にパス(pass with monor corrections)という、最も多い評価をいただきました。その後は、ではさようなら、という感じで、さっさと帰宅の途に就きました。色々な大学院では、VIVAの後、スーパーバイザーや試験官とシャンパンで乾杯したり、パブに行ったり、まあ少なくともお茶を飲んで苦労話したりくらいはするらしいのですが、ちょっとあっけらかんとした幕切れでした。何しろ指導教授はもうとっくに引退していて大学には来てないし、私は試験官2人とはほとんど初対面か、以前学会で挨拶しただけという程度の知り合いですからね。

VIVAの時に口頭で言われた評価は上記の通りなんですが、その後郵送で送られてきた公式のExaminers' Reportの評価は、既に書いた1から8までの成績のうち、1,つまりストレート・パスにチェックが付けてありました。しかし、添付文書で、訂正点として、M先生はシングル・スペースで1.5ページ、W先生は2ページちょっとにわたり色々直すべきところが書いてありました。それらはほぼすべて、語句やスタイルの訂正で、平凡なケアレスミス、冠詞の要・不要、前置詞の間違い、適切な単語への置き換えなどでした。つまりそういう内容には関わらない語句の訂正だけならば、評価は1となるんですかねえ。良く分かりません。それにしても、本文をしっかり見直し、更に元大学教授で、プロのプルーフ・リーダーをされている方に原稿を直して貰い、またメイン・スーパーバイザーのG先生も、単純な英語の修正はしないことにはなっていたのですが、それでもかなりの間違いを直してくれたのですが、なおも随分沢山の間違いが残っていたものです。やれやれ・・・。まあ、試験官が英文学の研究者ですから、言葉には厳しいですよね。

Examiners' Reportには、そうした細かな間違いの訂正の他に、試験官連名のVIVAの報告、インターナルのW先生による全体的な講評(シングルスペースで1.5ページ)があり、それぞれに私の論文の長所と、出版する場合に改善すべき点が書いてありました。その上、W先生は、ほぼ4ページにわたり、各章や序章、結論について、内容に関する大変具体的なコメントを書いて下さいました(すべてシングル・スペースですのでかなりの分量です)。今それを手元で見ているのですが、論文や学会発表の業績を矢継ぎ早に出され、大変お忙しいに違いないW先生が私の為に使って下さった時間や傾けて下った努力には本当に頭が下がります。VIVAの後、お礼のメールを書いたのですが、学位を貰った今、もう一回書かないといけないな。

VIVAを終えてホッとした翌日の9月12日、メイン・スーパーバイザーのG先生のロンドンのご自宅に伺って試験結果の報告をし、楽しい時間を過ごしました。本当に9年間も辛抱して付き合ってくれた彼には感謝し過ぎることはありません。また、最近のイギリスの大学では、決まった年限で博論を出させないとその学生の所属学科の評価が下がるようなので、急いで作業するように強力にプッシュするところが増えているようです。この歳で、しかも博士課程の学問を充分に味わおうと思って入学したのに、学部やセンターの方針で圧力をかけられるとウンザリして嫌になったと思うので、そうでないスーパーバイザー、そうでない所属機関とセンターで本当に幸いでした。

VIVAの3日後、14日の飛行機で帰国。帰ってからしばらくは時差ボケで、例によって体調もひどかったのですが、ぼつぼつ試験官に指摘された訂正点を直し、9月19日にケント大学中世・近代初期研究センターのセクレタリーに修正した論文を送りました。それをセクレタリーがインターナルのW先生に転送してくれ、10月27日に、セクレタリーから、W先生が訂正点を承認し学位授与が最終決定した、とのメールがありました。それで、私は博士論文を収める電子リポジトリに論文をアップロード。予めG先生と相談して、3年後の2020年10月に全面公開というスケジュールにして貰いました。

ケント大学カンタベリー・キャンパスの卒業式(学位授与式)は7月と11月に開かれます。直後の11月の卒業式には手続き上間に合わないので、私の卒業式は2018年7月になりました。論文提出後VIVAまで5ヶ月待ったし、最終承認が下りたのが11月の式の直前というタイミングの悪さで、卒業式の出席は提出の1年3ヶ月後となってしまいました。

さて、前回に続き、今回も長文になりました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。論文提出に関して、提出前後の仕上げの作業や全体的な執筆の反省点、私が抱えていた問題など、近いうち、多分もう1回か2回書こうと思っています。

2018/09/01

論文提出から口頭試問(VIVA)の前まで

前回、Ph.Dの学位授与式の様子などを書いたのですが、式というものはやはりかなりの感慨を生むように出来ていて、出席して良かったと思いました。しかし、私にとっては、遙かに大きな区切りであり、歓びを感じたのは、論文の提出と、口頭試問(英語ではVIVA、ないしはViva Voce)を終えた時でした。そこで、今回は博士論文提出からVIVA(ヴァイヴァ、と読みます)の前までの手続きや準備について書きたいと思います。というのも、私自身、昨年4月に論文を提出すると直ぐ、いやそれ以前からずっと、色々な元Ph.D学生の方々のブログやネット談話室の書き込みなどを読んで、VIVAというものはどういうものか、またどう備えたら良いか調べていました。知人の超優秀な日本人留学生がマンチェスター大学大学院に行かれたのですが、マンチェスターでは指導教授がVIVAの予行演習をやって下さったそうです。私の指導教授は何しろ引退していて大学にはいないし、私は日本にいるし、とても親切な方なんですが、そもそもそういう細かいケアをやって下さる方ではなく、VIVAについては、何のアドバイスもありませんでした。「君の論文は私ともう一人のスーパーバイザー、B先生が高く評価しているから、心配することはない」とは言ってくださいましたけれど・・・。ケント大キャンパスにいると、大学院には色々な実用的ワークショップがあり、そのひとつとしてVIVA preparation workshopという講演会を時々やっていて、それを受講したかったなあ、と思っていましたが、日本で勉強しているので無理・・・(これからイギリスでVIVAを受ける方はおそらく多くの大学院にあると思うので利用してください)。私は、前回書いたように、特にブラッドフォード大学の院生だったTakaoさんのブログと、イギリスに住んでおられる日本語教師のデコボコ・ミチさんのブログを参考にさせていただきました。分野が違うので、具体的な準備方法を教わると言うよりは、同じ日本人が受けた時の感想を日本語で読んで少し安心できた、という感じでしょうか。それから具体的には、大抵の大きな大学の大学院のウェッブサイトには、VIVAについての詳しい解説や準備方法が説明してあるでしょう。アドバイスや模擬VIVAのビデオは、YouTubeなどにもあります。

私の論文は4月始めに完成して、その後製本業者にソフトカバーで3部、製本を注文し、数日で送られてきました。製本業者にどういうところがあるかについては、日本の大学で博士論文を出された若い先生のブログを参考にしました。製本した一部は前回書いた関西にお住まいで、私の論文執筆の進行をずっと心配して下さっていた恩人の先生にお送りし、残り2部をケント大学の中世・チューダー朝研究センターの事務室に送りました。また、論文のPDFファイルをメールでほぼ同時に送付しました。現在、ケント大学では、製本した論文を最終的には提出する必要はありません。試験官が読むためのソフトカバーで製本された論文を提出する必要があるのみです。VIVAの後、訂正など済ませた論文のファイルを提出し、予め決められた時期に大学の電子リポジトリより公開されます。公開については、1)訂正等終わり、合格した時点での即時公開、2)一定の年限、遅らせての公開(例えば提出の3年後など)、3)本人の同意がない限り未公開のまま、の3種類から選ぶようになっています。2のケースを取る主な理由は、学術雑誌への投稿や研究発表の場合、未公開を原則とする事が多いからです。但、長大な博士論文をそのまま雑誌論文や口頭発表の原稿には出来ないので、同じ文章となることは少ないとは思いますが、1章をほぼそのまま使うというようなケースはしばしばあるでしょう。ハードコピーはその後、もう一部作り、セカンド・スーパーバイザーに送呈しました。メイン・スーパーバイザーの先生は、論文のファイルがあれば充分とのことでした。実は私自身も自分用に製本したものは持っていません。口頭試問の時も、自宅のプリンターで印刷し、文具店で買ったバインダーで綴じた論文を参照しました。

さて、口頭試問の試験官の人選ですが、丁度、論文を提出した4月頃に決まったと思います。人選にはスーパーバイザー2人と所属部門の(私の場合、中世・近代初期研究センターの)先生1人か2人がかかわります。後者はおそらくセンター長と学内試験官(an internal examiner、単にinternal と略すことも多い)。学内試験官は、大抵所属学部やセンターで学生の論文内容と専門分野が一番近い先生になるでしょう。私の試験の場合、論文の題材である中世イギリス演劇を主な研究対象とされている若い先生がおられたので、ほぼ自動的にその方がインターナルとなられるだろうと想像出来ました。そうすると、インターナルと指導教授が相談して、外部試験官(an external examiner、エクスターナル)を決めます。イギリスの大学の博士論文審査は、学内試験官一名と、学外試験官一名によってなされます。普通、研究室やセミナー室などの部屋を使い、非公開による開催です(日本やヨーロッパ大陸の大学では、公開審査が結構あるようですし、あるいは口頭試問自体は非公開で行われても、その後、公開の論文発表会が行われる場合もあります)。学位候補者の指導教授は審査に加わることは出来ませんが、オブザーバーとして試験に立ちあうことは許されます。日本の大学の場合、恐らく指導教授が試験官に加わるところが多いでしょう。私の指導教授も、自分は審査に参加できないので、「君の論文は充分合格すると確信しているが、こればかりはやってみないと分からない(You never know what will happen)」とは言っていました。指導教授がオブザーバーとして加わると、試験官ふたりはかなり緊張するかも知れませんね。なお、おそらく、学位候補者自身も指導教授を通じて試験官、特に学外試験官の人選について希望を出すことは可能でしょう。私は特に希望はなかったので、先生達にお任せしました。日本の大学と大分違う点として、試験官は教授とかその他のベテラン教員(イギリスでは例えばa senior lecturer)とは限らず、かなり若い先生も試験官になる可能性があります。そもそも、英語圏諸国では大学院のセミナーやチュートリアルを教えたり、博士論文の授業を担当するのは、ベテラン教員とは限らず、30歳代の方も沢山います。一般的に言って、学内の役職などで大変忙しい年配教員よりも、若い先生方の方が最新の研究に通じていることが多いのは、イギリスでも日本でも同じでしょう。ベテラン教授だけが大学院を担当するのが通例の日本のシステムは良くないと思います。

論文の提出後1ヶ月位過ぎた5月中旬にエクスターナルの先生が決まったのだろうと思います。セクレタリーがなかなか試験官の名前を知らせてくれないので(忘れていたのでしょう)、6月になってこちらから尋ねました。インターナルは予想していた若手中世劇研究者で、エクスターナルは、中世劇研究では知らない人がいない大ベテランの権威者でした。学会で2度会って少し言葉を交わしたことがありましたが、とても紳士的で、親切な方という印象を受けたので、彼に決まって安堵しました。彼は丁度大学を退職し、名誉教授になられたばかりだったと思います。その後、一月半くらい経った6月中旬、口頭試問の期日は9月11日と通知がありました。一応建前としては、論文の提出から3ヶ月以内程度で口頭試問があることになっていましたので、そして多くの大学ではその程度のようなので、5ヶ月近く経った後というのは、かなり時間がかかっています。私が国外にいて、連絡がいまひとつスムーズにいかなかった点に加え、エクスターナルは最初別の候補者が考えられていたのかも知れない、などと想像していますが、分かりません。さてそれであわてて飛行機の切符やらイギリスの宿舎やらを手配しました。

さて、そういう手続きを追いかけながらも、私はVIVAの具体的な準備をしていました。私自身は専任教員時代、所属学科に博士課程はなかったので博士論文の審査はしたことがなかったのですが、修士論文の審査は度々やりました。修士であろうと博士であろうと、口頭試問では、最初の方で幾つかの基本的な質問をしますので、それに対する答は用意しておかないといけません。私は次のような一般的な質問に対する英語の答を書いて、何度も読み返しました:

1. 何故私は中世劇に関心を持つに至ったか。-----これについては口頭試問で実際に聞かれました。

2. なぜこの論文で取り上げたテーマを選ぶに至ったか。-----これについても聞かれました。

3. この論文の特徴と長所-----5点ほど、長所を述べました。特に「長所を述べてください」というような聞かれ方はしませんでしたが、色々な質問に答える上で役に立ったとは思います。

4. この論文の短所や残った疑問点-----自分の能力不足などから、やりたくても手が届かなかったことなど3点をまとめました。直接こういう問いはなかったように思いますが、全体として、論文の欠点を自覚しておくことは役だったと思います。

5. もっと時間をかけることが出来ればやったであろう点-----4の続きみたいなことですが、2点ほど挙げました。しかし、こういう問いかけはありませんでした。

6. 今後どういう方向に研究を進めたいか、論文の成果をどういう風にして発表、ないしは社会に還元したいか。-----口頭試問でもちょっとこういう話はありました。但、答を準備するほどの問題じゃないですね。それに私はもう老人なので、今は正に、仕事も研究も引退です。

以上6点について、英語で2ページ半くらいの答を用意しておきました。更に論文の各章、序章、結論の簡潔なサマリーを3ページほどにまとめました。

以上の準備に加え、これが一番時間がかかったのですが(1ヶ月以上かけたかな)、博士論文の「詳しい」サマリーを12ページにわたって書きました。これは文章ではなく、各ページ毎に大体何が書いてあるか、数語(1行程度)でまとめるように心がけました。ひとつの理由は、何か具体的な事を聞かれたときに、論文のどこに書いてあるかが速やかに分かって、なるべく早く答えられるようにと思ったからです。でも口頭試問では実際にはそのような細かな質問はなく、実際、このサマリーを口頭試問の間に開くことはありませんでした。但、このような詳しいサマリーを作ることで、ほぼ9年近くの長い時間で書いてきた論文を読み返し、細かく思い出すことが出来たので、充分にやった甲斐はありました。

以上、英語で書いた文章をひとつの紙挟みに綴じて、プリントした論文を挟んだバインダーと共に口頭試問の会場に持参しました。

さて、この次は口頭試問当日の様子を書こうと思いますが、このエントリーもたいへん長くなってきたので、ここで一旦止めて、また改めて書きます。