2018/01/16

庶民の女性によるロンドンの教会裁判所の利用

ロンドン大学のInstitute of Historical Studies (IHR) のPh. Dの学生、Charlie Berryさんによる記事を紹介。タイトルは、 'Women, reputation and the courts in late medieval London: the case of Agnes Cockerell'。中世・近代初期における女性による法の利用について研究しているプロジェクトのブログ記事。

ここで取り上げられているのは、1521年にロンドンの宗教裁判所(the consistory court)で訴えた訴訟の記録。ふしだらな(おそらく売春)行為をしているとして教区から追い出されて引っ越しを余儀なくされ、不名誉な噂を広められた女性 Agnes Cockerell が、根拠なく悪い噂を流されたとして彼女の以前の隣人で帽子職人(a capper)のJohn Beckett とその妻 Elizabeth を訴えている。Agnesがロンドンの元々住んでいた地区、the parish of St Sepulcre without Newgate、から追い出された時は、区(a ward)のコンスタブルという、今で言うなら一種の警察官による世俗の権力行使によるものだった。しかし、裁判においては、カトリック教会の管轄下にある the consistory court に訴訟が提出されているのは興味深い。つまり中世や近代初期の人々は、彼らの目的に応じて、世俗や教会の法と裁判所を使い分けていたのであろう。特に、このような道徳や個人の評判、名誉毀損に関する件は教会裁判所が得意とする案件だった。Agnesは、狭い教区内の法権力に訴えても仕方ないと思い、より大きな範囲で裁判権を行使した教会裁判所に訴えたのだろう。更に、このようなおそらくあまり豊かでない女性や職人などが、こういう裁判所をしばしば利用したこともこの記事で分かる。『カンタベリー物語』の The Summoner (教会召喚吏)とか、バースの女房などを理解する上でも良い記事と思う。

なお、この記事は1521年という、中世とは言いがたい時期のものだが、国王至上法などによりイングランドの宗教改革が行われる少し前、カトリック時代の終わり頃である。また、国教会に移行しても、教会裁判所の制度はほぼそのまま引き継がれ、同様のモラルや名誉毀損などの訴訟が争われた。いやむしろ、プロテスタントの時代になり、このような係争は一層増加したのではないかと思われる。

中世の教会におけるサンクチュアリーの権利(シャノン・マクシェフリー教授の記事より)


カナダのコンコーディア大学のシャノン・マクシェフリー教授(Shannon McSheffrey)による以下のブログを紹介したい(ブログと言うべきか、オンラインの論文というべきか、かなり長い文章)。


中世イングランドの教会が持っていたとされる ‘sanctuary’(罪人庇護権、聖域)の権利についての具体的な例を挙げての論考。中世の法について、素人ながら色々と関心を持っている私としては、興味を持って読んだ。ここで挙げられている具体例は、1430年、エセックスのウォルサム僧院(a priory at Waltham)に所属していたアウグスティヌス会の聖堂参事会員(canons)2名が所属する僧院から逃亡して、ロンドンのシティーにあった(今はない)St Martin le Grandという教会に逃げ込み、教会がサンクチュアリー(罪人庇護の権利)を行使したケースだ。ウォルサムの僧院長は王室の役人に彼らの逮捕を依頼した(これが通常の手続きだったそうである)。この依頼に対応して、ロンドンの世俗の権力者であるシェリフが教会に入ってこの二人を逮捕した。当然ながら、St Martin le Grand 教会の主席司祭(dean)はこれに抗議。それに対して、ロンドン市当局も反論をする。この争いを裁定する役割を担ったのは、the king’s council(枢密院)。

サンクチュアリーというと、罪人が教会や修道院に逃げ込んで罪を逃れる方法として、中世イングランドでは確立していたと思いがちだが、このブログ(と一応呼ぶ)によると、期限を区切らずに罪人を教会の施設で保護できるようになったのは、15世紀初めに過ぎないと言う。これは、Westminster Abbey で始まった。それに続きこの制度を取り入れたのが、この件の St Martin le Grand 教会だそうである。それまでのサンクチュアリーは、40日間の保護のみで、その後は、外国に追放という処置が取られたそうだ。こちらは12世紀末から13世紀初め頃に出来た制度らしい。

さて、私がこのブログで特に面白いと思った部分は、ロンドン市当局が the king’s council に提出した文書において彼らのサンクチュアリーの権利を主張する根拠である。その主張を述べた文書の作成者はおそらくJohn Carpenter という書記官(recorder)らしい。彼らの主張とは:

1.St Martin le Grand 教会は、常に ‘St Martin le Grand, London / of London’ と呼ばれてきたのであるから、ロンドン市の法的効力が及ぶと言う。いささかこじつけという感じがするが、言語上の理由。

2.ロンドン市はそもそもトロイの残党ブルータスによって設立されたのであるから、アングロ・サクソン人の渡来よりも前に遡る。従って、ロンドン市当局の権利は、市内にある教会の敷地にも及ぶと主張。

3.過去における重罪の訴追例や、教会の敷地(precinct)にある店舗は市の他の店舗同様、市当局に税金やその他の料金を払う義務を負っている、などの法的前例。

この3点の中で、2番目がとりわけ面白いと思った。こういう法的な係争事件において、しかも国権の最高機関である the king’s council に提出する主張として、トロイのブルータスによる「建国神話」とでも言うべきものを持ちだしているからだ。この建国神話は、ジェフリー・オブ・モンマスの『イングランド列王伝』とか、中世の英語ロマンス『ブルート』などを経て、14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』などへと受け継がれる。しかし、14,15世紀ともなると、こうしたロマンスは、当時の読者にとってもいにしえの物語、ファンタジックなお話として受容されていると思う。しかし、こういう法的係争の記録で、しかも1430年にもなっても堂々と市当局の権威の根拠として上げられていたとは!このブルータス伝説、どこまでこのような現実的な使い方で生き残ったのだろうか?近代初期の文学ではどうなのか?きっと既に色々と研究されていることと思うが。

この係争は、結局、教会側のサンクチュアリーの権利が認められて終わったそうだ。しかし、その後この判例が教会側によって言及され、前例として利用されることはなかったらしく、従って、恐らく両者の言い分をある程度取り入れた仲裁のような形を取ったのだろうと筆者の Shannon McSheffrey 教授は推測している。

2018/01/13

中世のダラムの公現祭

Records of Early English Drama Northeast (REED Northeast)の新年のブログ、「中世のダラムの公現祭」(Epiphanytide in Medieval Durham)を紹介したい。

ダラムにおける中世の公現祭(the Feast of the Epiphany)のエンターテインメントの記録について。執筆者はMark Chambersさん。公現祭(顕現祭とも言う)は東方の三博士 (the Magi) が幼子イエスを訪れ、贈り物を贈った日を祝う。普通、1月6日、つまり十二夜が当てられており、クリスマスの祝祭の一部となっていて、シェイクスピアの『十二夜』でのようににぎやかな祝宴なども行われた。ダラムの小修道院(a priory)では、院長がお客を招いて宴席を設け、そこでミンストレル(ministrallus)などの芸人に演奏(演技?)をさせたようだ。当時のベネディクト会修道院が、今我々が考える「修道院」のイメージとは異なり、かなり世俗的だったことがうかがえる。

このブログにある幾つかの短い引用では、こうしたエンタティナーに関して、ラテン語でhistorioとか、roter(弦楽器 rote の演奏者)などの語が使われている。こういう一次資料は、芸人に対する支払いを記した出納簿などであるから、金額は分かっても、演奏や演技の内容はほとんど分からないことが多く、残念だ。恐らく、楽器演奏や歌謡が中心と思われるが、こういう用語の背後には物語を語ったり、アクロバット、そして演劇やそれに類似した芸能を行う人々もいただろう。

この項目では、更に、公現祭の直ぐ後の月曜日に行われたPlow Mondayの祝祭にも触れている。これはその年の農業の繁栄を祈るお祭りの一種と考えられ、しばしば音楽、仮装(異性装など)行列、ダンス、寸劇などを伴う。グループを作って、犂を引きながら家々を回り、寄付を集めたりする(日本で相当する行事としては、獅子舞などの新年の芸能にいくらか似ている)。中世末から近代初期にかけて特に盛んだったが、産業革命期に衰退した。しかし、20世紀になって各地で復活し、今も行われている(ウィキペディア英語版の解説)。

イギリスの中世劇の研究者は、中世から近代初期に行われたこうした芸能の研究をかなり行っているが、日本ではほとんど関心を持たれていないのは残念。