2018/01/16

中世の教会におけるサンクチュアリーの権利(シャノン・マクシェフリー教授の記事より)


カナダのコンコーディア大学のシャノン・マクシェフリー教授(Shannon McSheffrey)による以下のブログを紹介したい(ブログと言うべきか、オンラインの論文というべきか、かなり長い文章)。


中世イングランドの教会が持っていたとされる ‘sanctuary’(罪人庇護権、聖域)の権利についての具体的な例を挙げての論考。中世の法について、素人ながら色々と関心を持っている私としては、興味を持って読んだ。ここで挙げられている具体例は、1430年、エセックスのウォルサム僧院(a priory at Waltham)に所属していたアウグスティヌス会の聖堂参事会員(canons)2名が所属する僧院から逃亡して、ロンドンのシティーにあった(今はない)St Martin le Grandという教会に逃げ込み、教会がサンクチュアリー(罪人庇護の権利)を行使したケースだ。ウォルサムの僧院長は王室の役人に彼らの逮捕を依頼した(これが通常の手続きだったそうである)。この依頼に対応して、ロンドンの世俗の権力者であるシェリフが教会に入ってこの二人を逮捕した。当然ながら、St Martin le Grand 教会の主席司祭(dean)はこれに抗議。それに対して、ロンドン市当局も反論をする。この争いを裁定する役割を担ったのは、the king’s council(枢密院)。

サンクチュアリーというと、罪人が教会や修道院に逃げ込んで罪を逃れる方法として、中世イングランドでは確立していたと思いがちだが、このブログ(と一応呼ぶ)によると、期限を区切らずに罪人を教会の施設で保護できるようになったのは、15世紀初めに過ぎないと言う。これは、Westminster Abbey で始まった。それに続きこの制度を取り入れたのが、この件の St Martin le Grand 教会だそうである。それまでのサンクチュアリーは、40日間の保護のみで、その後は、外国に追放という処置が取られたそうだ。こちらは12世紀末から13世紀初め頃に出来た制度らしい。

さて、私がこのブログで特に面白いと思った部分は、ロンドン市当局が the king’s council に提出した文書において彼らのサンクチュアリーの権利を主張する根拠である。その主張を述べた文書の作成者はおそらくJohn Carpenter という書記官(recorder)らしい。彼らの主張とは:

1.St Martin le Grand 教会は、常に ‘St Martin le Grand, London / of London’ と呼ばれてきたのであるから、ロンドン市の法的効力が及ぶと言う。いささかこじつけという感じがするが、言語上の理由。

2.ロンドン市はそもそもトロイの残党ブルータスによって設立されたのであるから、アングロ・サクソン人の渡来よりも前に遡る。従って、ロンドン市当局の権利は、市内にある教会の敷地にも及ぶと主張。

3.過去における重罪の訴追例や、教会の敷地(precinct)にある店舗は市の他の店舗同様、市当局に税金やその他の料金を払う義務を負っている、などの法的前例。

この3点の中で、2番目がとりわけ面白いと思った。こういう法的な係争事件において、しかも国権の最高機関である the king’s council に提出する主張として、トロイのブルータスによる「建国神話」とでも言うべきものを持ちだしているからだ。この建国神話は、ジェフリー・オブ・モンマスの『イングランド列王伝』とか、中世の英語ロマンス『ブルート』などを経て、14世紀の『ガウェイン卿と緑の騎士』などへと受け継がれる。しかし、14,15世紀ともなると、こうしたロマンスは、当時の読者にとってもいにしえの物語、ファンタジックなお話として受容されていると思う。しかし、こういう法的係争の記録で、しかも1430年にもなっても堂々と市当局の権威の根拠として上げられていたとは!このブルータス伝説、どこまでこのような現実的な使い方で生き残ったのだろうか?近代初期の文学ではどうなのか?きっと既に色々と研究されていることと思うが。

この係争は、結局、教会側のサンクチュアリーの権利が認められて終わったそうだ。しかし、その後この判例が教会側によって言及され、前例として利用されることはなかったらしく、従って、恐らく両者の言い分をある程度取り入れた仲裁のような形を取ったのだろうと筆者の Shannon McSheffrey 教授は推測している。

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