2010/01/26

歌舞伎座さよなら公演『初春大歌舞伎』(昼の部)2010.1.25


歌舞伎座さよなら公演、『初春大歌舞伎』 (昼の部)

観劇日: 2010.1.25 11:00-4:00
劇場: 歌舞伎座
制作: 松竹

1. 春調娘七種
(はるのしらべむすめななしゅ)
2. 梶原平三誉石切
(かじわらへいぞうほまれのいしきり)
ー鶴ヶ岡八幡社頭の場ー
3. 勧進帳
4. 松浦の太鼓

主な役者:
1. 橋之介、染五郎、福助
2. 幸四郎、左団次、東蔵、歌昇
3. 団十郎、勘三郎、梅玉
4. 吉右衛門、歌六、吉之助、芝雀、梅玉

私は歌舞伎は滅多に見ず、伝統に関する知識も無く、良し悪しの判断も出来ないので、ここでは、見た、という記録だけです。1は踊り、2から4の中では、2が特に面白かったです。梶原平三という武士が、金が必要で刀を売りに来た町人の、その刀の試し切りをする話。4は忠臣蔵の外伝。吉良屋敷の隣りに屋敷を構える松浦鎮信(吉右衛門)のところで、討ち入りの夜に起こった出来事。

歌舞伎座が閉じるまであと3ヶ月あまりかと思います。閉館する前に行っておこうと思い、妻と出かけました。上記のような超豪華キャスト! 日頃、ロンドンの劇場ばかり行っている私には、実にエキゾチックな世界。弁当を食べたり、居眠りをしたり(笑)、のんびりとした日本の演劇文化の楽しさを満喫し、大いに満足。歌舞伎では、休憩時間が長いこともあるけれど、5時間も劇場に居ても、そう大変とは感じません。劇がそれ程緊張感が無く、ゆったりした時間が流れるのが、かえって心地良いですね。西洋演劇にはなかなか無い、種類の違ったエンタティメント体験だと思います。

2010/01/17

Susan Hill, "The Vows of Silence" (2008; Vintage, 2009)



刑事Simon Serraillerシリーズ、第4作
Susan Hill, "The Vows of Silence" (2008; Vintage, 2009) 328 pages

☆☆ /5 (又は、2つ半くらい?)


Susan Hillの刑事Simon Serraillerシリーズも4作目になり、固定客もかなりいることだろう。古典的な推理小説ではなく、犯罪を素材にして、サスペンスを盛り上げつつ、人間の心理を掘り下げるのを主眼とした作風がこのシリーズの特徴。一般小説で既に多くの秀作を発表してきたHillの手慣れた人間描写の技が冴えるシリーズ。

今回、Serraillerが住む町、Laffertonは連続狙撃殺人事件に見舞われる。新婚の女性Melanie Drewの銃撃を皮切りに、特に脈絡のないように見える殺人が静かな地方都市で4件も続き、町はパニック状態になる。Serraillerと彼のチームには何ら手がかりがつかめないまま事件は進行し、彼らの焦燥感は募る。更に、Laffertonでは多数の人が集まり、王家の来賓もある大きな行事が迫っており、そこでまた恐ろしい狙撃事件が起こるのではないか、との不安が高まる。

Serrailler個人や彼の一家をめぐるサブプロットもこのシリーズの魅力のひとつ。今回は特に、彼が大変親しくしている姉のCat Deerbon(Catherine)の夫で医師のChrisが癌に冒され、その闘病が事細かに描かれる。また、異性のパートナーを求めつつも、なかなか自分と気持ちの合う人を捜せないSerraillerが、以前つき合いかけていた女性の司祭Jane Fitzroyについても、ある程度の紙幅が割かれる。前作まで、彼ととても気のあっていた部下が出世してヨークシャーに転勤し、その後に来たGraham Whitesideという巡査部長がとんでもない、無礼で愚鈍な男で、Serraillerを悩ませる。狙撃犯自身や彼の犠牲になった人々についてもある程度、バックグラウンドや心理状態の描写がある。更に、Serraillerや彼の姉の一家や狙撃犯ともほとんど関係のない、未亡人のHelenの恋愛、彼女の息子でキリスト教原理主義に夢中になっているTomのエピソードもある(これが何故必要だったのか、分からない)。

という具合に書いていて分かるのだが、これは色々な内容を詰め込みすぎではないだろうか。私は今回この作品に充分感情移入出来なかったが、それは、ある人間やひとつの事件について読者としてコミットする間が与えられる前に次のエピソードに移ってしまい、消化不良になりがちだと感じたから。その中では、Chrisの闘病は、かなり感動的なエピソードではあり、それだけでも読む価値はあった。しかし、その他のエピソードは数を絞り込むか、あるいは小説全体を更に長くして、より詳しく書いたほうが良かったかも知れない。また、Janeのことなど、Serraillerのパートナーに関しては、このシリーズを始めて読む読者には前後の脈絡が分かりにくく、いささか不親切。

Hillは初期の作品以来、人間の孤独、人と人のコミュニケーションの難しさを描くことに秀でている。癌に冒されたChrisと彼を何とか慰めようとするCat、心を通じ合える人を捜しつつも、どうしても見つけられないでいるSerraillerなどの描写に、Hillのそうした才能が光る。そうしたHillの作風には惹かれるので、今回はかなり失望した時もあったが、今後もこのシリーズを読み続けたいと思った。



2010/01/16

Sir John Boys' House (King's School Bookshop), Canterbury





メイン・ストリートにあるThe Weaversと並んで、カンタベリーにある今も使われている古い世俗の建物の中で、最も有名なのがSir John Boys' Houseだろう。別にこれを見たいと思ってきた人で無くとも、Palace Streetでこの建物のところまで来ると(28 Palace Street)、きっと目をひかれることだろう。写真を撮っている人も時々見かける。何と言っても斜めになっているのが不思議である。私は建築当初からそういう風に建てられているのかな、と誤解していた。なぜなら、近代初期の、市内の古い建物は、2階以上がいくらか張り出したような造りのものが多いから。しかし、カンタベリー考古学協会のウェッブサイトにあるPaul Bennettさんの記述で、そうじゃないことを学んだ(Bennettさんは、この協会のディレクターで、カンタベリーの歴史、特に建築物などの考古学的側面については、並ぶものなき権威者)。

この建物は1617年におそらく建てられたと考えられている(1647年という説もある)。一方、Sir John Boysは1612年になくなったらしいので、この通称は正確ではないようだ。ちなみに、Sir John BoysはカンタベリーのRecorder(裁判官の一種)。

もうひとつのウェッブサイト("Canterbury Building")によるとこの建物は、織物商Avery Savineによって建てられた可能性が高いとのこと。破風の先端にイニシャルがあるというのが根拠。Avery Savineは外国人、おそらくフランス人、の名前である。この地域にはこうした豊かな外国人が多く住んでいたそうである。

18、19世紀にかなり大きな改築が施された。一階正面の斜めになっている大きな窓もそのひとつ。これらの改築、特に1階に設置された新たな暖炉と廊下の重みにより、建物全体が斜めにかしいだのではないか、とBennettさんは書いている。木造の建物であり、基礎となっている木材や礎石もかなり老朽化しており、根本的な補強を必要としているそうだ。いつまでこのユニークな姿を保ってくれるか、いささか心配である。

参考ウェッブサイト:
カンタベリー考古学協会
http://www.hillside.co.uk/arch/kshop/survey.html
"Canterbury Buildings: A Survey of the Buildings of Canterbury, England"
http://weblingua.hostinguk.com/invictaweb/canterburybuildings/pages/plcst28.htm

2010/01/12

Whitefriars, Canterbury, No. 2

前項を掲載した後、Whitefriars Shopping Centreのオフィシャル・サイトを見つけた。そこにこの街区の歴史について、割合詳しく書いてあったので、まとめてみたい。サイトを直接見る方は:

http://www.whitefriars-canterbury.co.uk/about-whitefriars/







Whitefriars地区はカンタベリーのその他の地域同様ローマ時代からかなり開発された街区だった。考古学調査で3世紀頃の3つの建物が発見され、これらは町のエリートの住居だったと考えられている。このあたりにはローマ時代の城壁もあり、その城壁についた小塔(a Roman wall turret)の跡も見つかった。また、この場所から4世紀頃の、8人のローマ時代の人の遺骸が見つかっている。折り重なるようにして、ぞんざいな有様で埋められていたようであり、正式のローマの埋葬とは違うようだ。

アングロ・サクソン時代の名残も見つかっている。敷石の道路 (cobbled roads) や木造の建物の痕跡である。この時代に、今日のカンタベリーの街の通りの輪郭が形を成し始めたのかも知れない。

しかし、この地区の遺跡の中心は、何と言っても聖オースティン会(聖アウグスティノ会)のホワイト・フライヤー僧院(Whitefriars)そのものである。この僧院ができたのは1324年。教会、回廊 (cloister)、施療院 (infirmary cloister)、台所、食堂 (refectory)、寝所 (dormitory)、便所 (latrine)からなっていた。また2メートルかそれ以下の壁があった。便所には、恐らく修道院が閉鎖された後に、陶器など色々なものが投げ込まれていて、興味深い発掘品があったらしい。

1538年、この僧院はヘンリー8世により閉鎖された後、Sir Henry Finchという人物の屋敷となった。その後、どのような変遷を辿ったのか分からないが、19世紀末にはグラマースクール (The Simon Langton Girls and Boys Grammar Schools) があった。

第2次世界大戦時に繰り返し爆撃を受け、この地区の歴史的建築は姿を消した。その後、商業的な建物が作られる。現在のショッピングセンターは1980年代に計画され、長い準備期間を経て1999年から2005年まで工事が行われ、現在の形が出来上がった。その工事と並行して、地区の考古学調査が、カンタベリー考古学協会 (Canterbury Archaeological Trust) により、地域の多くのボランティアや学校の生徒達の協力を得て行われた。ちなみにこの考古学協会のディレクターはポール・ベネットさんで、私もレクチャーを聞いたことがある。

もしドイツ軍の爆撃がなかったらきっとカンタベリーにはWhitefriarsを始め、もっと色々な歴史建造物が残ったことだろう、と思わざるを得ない。でもそれはイギリスの、いやヨーロッパの多くの都市について言えることだが。

上の写真はFacebookで見つけた発掘時のサイトの写真。

2010/01/09

Whitefriars Shopping Centre, Canterbury




Friarシリーズの最後は、Whitefriars Shopping Centreです。ここはカンタベリーのショッピング街でももっとも賑やかなところ。2002年に私が留学した時にはまだ工事中でした。カンタベリーの外からも沢山の買い物客を集め、カンタベリーは、今や、観光と大学の町と言うだけではなく、ショッピングの町となって、隣接のAshfordと競い合っています。このショッピング街には、以前に僧院(Whitefriars Priory)があったようです。White Friarsというと、一般的にはカルメル会修道士 (Carmelites) なのですが、カンタベリーにあったのは、聖アウグスティヌス修道会(Augustinians / Austins)の僧院だったようです。彼らは14世紀にこの地に僧院を築いたと書いているウェッブ・ページがあります。この修道院もBlackfriarsやGreyfriars同様、16世紀前半、ヘンリー8世時代の宗教改革により閉鎖されました。その後、建物がどうなったのか、まだ私も調べておらず、最近まで何か残っていたのかもしれませんが、不明です。この街区は1942年のドイツ軍の大爆撃により、ほぼ完全に破壊された地域です。従って、何か修道院の後が残っていたとしても、その時に無くなったことでしょう。

2010/01/08

Greyfriars, Canterbury








Blackfriarsのあとは、カンタベリーのもう一つの修道院遺跡、Greyfriars (フランシスコ修道会の小修道院)。これも川縁にあり、この建物はご覧の通り、川をまたいで建っている。フランシスコ会士が最初にカンタベリーに現れた記録は1224年、その後1267年には、彼らの修道院が建立されたようだ。現在残っているのはひとつの小さな建物だけだが、Blackfriars同様、かなり大きな、回廊(cloister)を持った修道院だったようである。現存する建物がどういう用途で使われていたかはよく分からない。 ウェッブ資料では、chapelとするものや、dormitory(寝所)とするものがあった。しかし、暖房もほとんどない時代、薄着の修道士達が長い冬の夜をどうしのいだか・・・。さぞ大変だったことだろう。亡くなる人も多かったに違いない。庶民も同じではあるが。写真は2009年12月に撮った。

2010/01/06

Blackfriars, Canterbury








旧ブログでも写真を載せていたカンタベリーのBlackfriars僧院。12月に写真を撮ったので、再度掲載する。これはDominican Priory(ドミニコ修道会の小修道院)。ドメニコ会修道士が黒い服を着ていたため、この名で広く呼ばれている。大小8つ前後の建物があったようだが、今は2つしか残っていない。ドミニコ会士は1221年にはカンタベリーにやって来て、大司教Stephen Langton(在位1213-28)の前で説教をしている。1236年には彼らの小修道院を建設している。下の写真の建物は1260年建設のrefectory(食堂)とのこと。中世末期、30人くらいの修道士が滞在していたようだが、その多くは、旅の途中にここに泊まった人であっただろう。現在この建物は地元の名門私立学校、King's SchoolのArts Centreとして使い続けられている。壁はフリント石(火打ち石にも使われる非常に硬い石)を積んで出来ている。屋根は当時の王、ヘンリー3世によって寄進された。場所はスタウアー川(The River Stour)を挟むように湿地帯に建っており、中世においては、あまり良い場所とは言えなかったことだろう。もうひとつの建物は、訪問者を泊めるguest hallだったようだ。この2つの建物は元のPriory(小修道院)のごく一部。四角い中庭を囲む4つの回廊状の建物(cloister)が立っていたとされている。丁度、オックスフォードやケンブリッジの学寮(college)みたいになっていた。

参考資料:
Marjorie Lyle, "Canterbury: 2000 Years of HIstory", revised ed. (Stroud, Gloucestershire: Tempus, 2002) この本はカンタベリーの歴史を適当な長さにまとめてあり、大変便利。この街に関心のある方にはお勧めします。

ちなみに、Blackfriarsというと、演劇好きには、ルネサンス期ロンドンにおける代表的な室内劇場でもある。この劇場は宗教改革以前、Saint Paulの南西方向、テムズ川に近く、ドメニコ会の小修道院があった。その建物の一部を利用して作られた劇場なのでこの名前になった。2期に分けられ、1期は1576-84年頃まで。2期は1597-1642年の清教徒革命勃発まで。但し、1期と2期は同じ建物ではない。第1期にはいくつかの子供劇団 (Children's Companies) が使用。第2期には、Shakespeareの所属した劇団、King's Menが使用した。

なお、単にドメニコ会修道士を指す場合には、ふたつの単語で、Black Friarsと書くようだ。