2010/02/27

森安達也先生の想い出:博覧強記のpolyglot

イギリスにいて、1人で静かに暮らしていると、忙しくしていた間にはあまり考えなかったことを色々と想い出す。今朝は何故か、大学院時代にラテン語の初歩を習った森安先生のことを色々と想い出していた。彼は1994年に52歳の若さで亡くなった東大教養部の先生。1980年頃、私のいた大学に非常勤講師として出講され、学部のラテン語を教えておられて、院生の私も聴講した。とにかく凄いpolyglot(多国語に習熟した人)だった。彼の専門は東欧の文化や言語、特に東欧のキリスト教史だったようだ。ワルシャワに長らくおられて、向こうでも先生をなさっていたようなので、ポーランド語はとても良くできたのだろうと思う。しかし、私の大学ではラテン語を教えられていた。東大では、多分ロシア語を教えていたのではないだろうか。更に英仏独語等はかなり出来て、私達が外国語としてそうした言語の科目を受講しているので、ラテン語を教えるのに常にそれらの言語と比較しながら教えて下さった。更に英語やフランス語では論文を執筆されるようで、英語よりも仏語の方がずっと書きやすい、と言われていたのを思い出す。彼はラテン語がもの凄く良くできるので、ラテン系のロマンス語は簡単だったようだ。しかし、彼の凄いのは、そうした専門に関連する近代語や古典語(古典ギリシャ語もどこかの大学で教えられていたと思う)だけでなく、中国語やアラビア語などの非西洋言語も一通り勉強しておられて、合わせて30カ国語くらいやった、と言われていたこと。大学の休み毎に新しく一言語をやり始める、と言われていて、絶句した。

勿論、彼は教室でラテン語とかロシア語を教える傍ら、専門分野としては東欧の歴史や宗教について研究しておられたわけである。先程Amazon.co.jpで検索してみたら、もう亡くなられて15年も経つのに、今でも単著、共著、翻訳が10冊くらい出てきて驚いた。せめて70歳くらいまで生きておられたら、どれだけ素晴らしい研究をされただろうと思うと、残念でならない。

私は、科目の一受講者で、個人的には、質問以外にはほとんど話をしたことはなかったし、卒業してからも連絡したこともお会いしたこともない。東欧の共産主義政権が崩壊した頃、森安先生は時々コメントを求められてテレビのニュースに出ておられて、なつかしく思ったくらいだ。しかし、あの博識と、並々ならぬ学問への情熱は、私に強い印象を残し、今でも彼の穏やかな表情や声、板書の様子など、実に生々しく想い出す。それだけの大学者でありながら、気取らず、偉ぶることもなく、学生の素朴な疑問にも親切に答えて下さる素晴らしい先生だった。今、中世の劇のテキストに出てくる幾らかのラテン語も辞書を引けば何とか読めるのは、彼のおかげである。

(追記)森安先生のことを考えつつ、また私が大学院で習った先生達のことも想い出す。他界されてしまった方もいらっしゃるが、元気な先生もおられる。近代小説の権威として著名なS先生には1月の帰省中にお会いし、色々とお話しできて楽しかった(S先生には、私が中世文学専攻だったので、教室では直接教わっていなかったが、院卒業後に縁があって、今は年に2回くらいお会いする。)彼らの世代、今80歳前後の学者は、私達とは教養のスケールが違うと思う。国内外の文学についての広範な知識は、私などとは比べものにならない。私が大学院で中世文学・語学を習った先生方3人は、森安先生のようなPolyglotでなくても、古英語・中英語に加えて、独仏やラテン語ギリシャ語等の古典語もかなり出来て当たり前だったようだ。古仏語や中世北欧語も読める方が多い。そういうことが大学院の授業でも自然に出てきた。今の大学教員は事務作業や入試広報などの営業活動ではとても器用ではあるが、そういうことばかりやって(やらされて)いて、研究者としては格段に見劣りがすると思う。まあ他の方々のことは分からないが、私はそうだった。だからこうして学生に戻って勉強のやり直しをしているわけだけど。以前は大学という組織は学生には不親切な点が多かったが、今は昔に比べると格段に親切になり、手取り足取りである。しかし、失ったものも大きい。良くなったのか、悪くなったのか・・・。時代が変わったと言う他ない。

2010/02/23

"The Habit of Art" (National Theatre, 2010.2.21)

複雑な構造と視点にびっくり
"The Habit of Art" (Lyttelton, National Theatre,
2010.2.21 15:00-17:20)


Director: Nycholas Hytner
Writer: Alan Bennett

Design: Bob Crowley
Lighting: Mark Henderson
Music: Matthew Scott
Sound Design: Paul Groothuis



出演者
劇中劇の俳優: 

Richard Griffiths (Fits / W H Auden, a poet) 
Alex Jennings (Henry Benjamin Britten, a composer) 
Adrian Scarborough (Donald / Humphrey Carpenter, a biographer) 
Stephen Wight (Tim / Stuart) 
以上、括弧は(役者の名前 / 劇中劇の役名)

劇中劇のスタッフ: 

Elliot Levey (Neil, author) 
Frances de la Tour (Kay, stage manager)
John Heffernan (George, assistant stage manager) 
Barbara Kirby (Joan, chaperone) 
Danny Burns (Matt, sound) 
Martin Chamberlain (Ralph, dresser) 
Tom Attwood (Tom, rehearsal pianist)


う〜ん、これは難しい、と見始めた途端に思った。まず台詞が分からない。大体の筋とか、台詞の輪郭は分かるのだが、この劇の場合は、面白さは微妙なニュアンスにあり、その中に沢山ユーモアが含まれているらしい。まわりの観客は大笑いしていたが、私は笑えなくてしらけた。途中でうんざりして出ようかと思ったくらいだが、うとうとしつつ(前の晩寝付きが悪くて、寝不足だったので)、最後まで見た。そうしたら、俳優の演技の素晴らしさとか、劇全体の構造の面白さで引きつけられて、最後まで見て良かった、それどころか、後で、もっと注意してみておればと後悔した程。あまり分からなかったことで、私としては不消化な観劇であったが、英語がもっと分かる人にはかなり面白い作品だろうと想像する。


“The History Boys”の時も思ったのだけれども、この劇はイギリスのミドルクラスの知識人(それも主に男性)が共有する若い頃の記憶にかなり多くを負っている。前作では、昔のパブリックスクールの伝統とその中に息づいていた若者文化だったようだが、今回は、戦後間もない頃のオックスフォードなど名門大学のカリスマのあるフェローやそのまわりのインテリ、そして彼らの周辺にいた人々、更に、そうした人に感化されて育ち、今まだ生きている世代(Bennettの世代で、今60歳以上の人か)などが共有する時代の残像がベースになっていると思う。日本で言うと、安部公房とか、田村隆一とか、あるいはもう少し古くて堀辰雄とか、朔太郎などと、その当時の若い読者の世代にまつわる劇のようなものか。だから、何だか、”We English are / were . . . “なんてお互いに言って、笑いながら「ああ、そうだった、そうだった」とうなずきあいながら喜んでいるような内輪の劇、という気もする。と言っても、ワーキング・クラスの人やマイノリティーの人などにはあまりピンと来なくて、単に時代錯誤の劇に見えるかも知れない。そういう点が、外国人の私としては、ちょっと癪に触る。


劇を見た後にパンフレットを読み、それからリビューも2,3読んで、なるほどねえ、と色々と分かって納得することは色々あった。言われてみるととても興味深い劇。特にその構造は大変面白い。劇の中心にあるのは、1972年にAudenとBrittenがOxfordのAudenの私室で会ったという架空の出来事。更に、AudenとBrittenの伝記を書いたHumphrey Carpenterという伝記作家がAudenに会ったのもその同じ日で、Brittenがやってくる前と言うことになっている・・・(と思う)。それが劇の核だが、外枠は、その二人の出会った日を劇作家のNeilという男が作品にしており、それを劇団が演じていて、今日は通し稽古の最中、という設定である。つまりAudenに関する劇をリハーサルしている様子を、Bennettは二重に劇にしているのだ。更にこれに複雑なニュアンスを持たせているのは、Carpenterが伝記作家として、稽古をさえぎって色々とコメントをするのである。しかもCarpenterという伝記作家と、彼を演じているDonaldという役者の視点がおそらく微妙にずれたりする(と思う)。劇というノンフィクション作品とは別に、Carpenterの伝記というもうひとつのノンフィクション作品の視点が介入する。また、今日は舞台のディレクターが用が出来て急に休み、ステージ・マネージャーのKayが進行役をするだけで、役者は自分達の思うように演じているので、色々とコメントを言い始める——こんなこと、あるはずがない、とか、不自然だとか、台詞が言いにくくて覚えられないとか(多分・・・)。そう言われると、作家のNeilも憮然として、反論する、というわけで、AudenとBrittenの会話のドラマと、それを演じている役者たちや劇作家やスタッフのドラマが交錯しつつ進み、それにクリエーターとしてのCarpenterとNeilの視点が斜めから入ってくるわけである。古い言葉で言えば、脱構築というわけ。


言葉にしてみると、実にややこしい。しかし、ふんだんにユーモアが散りばめられているようで、私は分からなかったが、イギリス人観客はとにかくよく笑っていた。 AudenとBrittenの会話の中身だが、ひとつは2人とも現実においてもホモセクシュアルだったので、その話。Audenはそのことを大っぴらにしており、あけすけにしゃべるが、Brittenは、Audenには話していても、公には秘密にしているようで、そのあたりを色々と議論している。もうひとつの話題は、創作について(つまり”The Habit of Art”)のようだが、私には、肝心のこの話の内容がどうもよく分からないままになってしまった。これについては、これから脚本を読んでみたい。


Auden役は当初Michael Gambonがやる予定だったのだが、健康上の理由でRichard Griffithに代わった。彼も勿論上手い。あの辛辣な輝きを放つ目つきで、こういう皮肉な男の役には特に向いている。芸術家の冷たさと毒気を感じさせた。Alex Jenningsも、ナーバスで堅苦しく几帳面なBrittenを名演。他の俳優も皆素晴らしいが、特に、我の強い役者たちをなだめすかしながら何とかリハーサルを進行させるために気を配るKayを演じたFrances de la Tourが最後に劇をまとめて、舞台全体をさらった感じだった。


そんなに言葉が分からなくても、演劇は充分楽しめ、理解出来ることが多いが、この劇は大変複雑な構造と屈折した視点を持ち、台詞の微妙なニュアンスが大切のようで、英語が十分に理解出来ないとついて行けないと思った。多分、これからテキストを読んで、もう一度公演を振り返るつもり。


(今回はよく分からないままなので、☆をつけていません。)



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2010/02/21

"Measure for Measure" (Almeida Theatre, 2010.2.20)

問題劇として、正統派の演出で楽しめる
"Measure for Measure" (Almeida Theatre, 2010.2.20, 19:30- 22:10)


Direction: Michael Attenborough
Scenario: William Shakespeare

Design: Lez Brotherston
Lighting: David Hersey
Music: Stephen Warbeck
Sound: John Leonard
Movement: Imogen Knight

Cast:
Rory Kinnear (Angelo)
Anna Maxwell Martin (Isabella)
Ben Miles (Vincentio, The Duke)
Emun Elliot (Claudio, Isabella’s brother)
Daisy Boulton (Juliet, Claudio’s lover)
Lloyd Hutchinson (Lucio)
David Annen (Provost)
David Killick (Escalus, the duke’s deputy) 
Trevor Cooper (Pompey, a pimp)

☆☆☆☆/5

シェイクスピアの戯曲の中では問題劇(problem plays)と呼ばれる作品のひとつ。主役のAngeloは都市を留守にするDuke(Ben Miles)に代わって、町を治め、裁判官をすることになる。法を非常に厳しく適用し、罪人に厳格に処罰を科すため、未婚で女性を妊娠させたClaudioも死罪とする。しかし、そのClaudio(Emum Elliot)への慈悲を請いに来たIsabella(Anna Maxwell Martin)の魅力に引きつけられ、彼女が彼に身を任せれば兄弟を許すと言って、職権を乱用して脅迫。それらを、修道士の衣で身を隠して全て目撃していたDukeは、色々な手を尽くして丸く収めようとするが・・・。「問題劇」といういわれは、最後がどうも丸く収まったような(ハッピーエンドのような)、そうではないような不消化な終わり方をするからだろう。しかし、その複雑さ、人間の行動の善悪に割り切れないところが、この劇の複雑な魅力である。

イギリスでも上演されることは多くなくて、私もきっと昔見たことがあるとは思うのだが・・・思い出せない。しかし、BBCのテレビドラマでは見た記憶あり。今回の公演は、現代服ではあるが、後はオーソドックスな演出だと思った。しかし、problem playのproblemたるところを最大限に引き出しているようだ。最後のシーンは本で台詞だけ読むと、19世紀のイギリス小説みたいに、Dukeが彼の権力で無理矢理丸く収めたという感じで、ちょっと陰のあるハッピーエンドという感じだが、この公演では、Dukeが皆も自分も幸せにしようとしたけれども、Duke自身も含めて、やはり上手くは行かなかった、という顔をして沈黙が重苦しくその場を支配したまま劇が終わる。Claudioの愛人だったJulietも最後にしかめ面をして立っていて、「私はどうなってしまうのよ」とでも言いたげだ。Dukeは中央の玉座に当惑したような顔で座っていた。

Roy Kinnearが上手い!特に内省的な台詞になると、とてもふくらみのある表現が出来る人で、その点ではサイモン・ラッセル=ビールを思い出させる。Anna Maxwell Martinは、元来Isabellaが持つ頑なな潔癖さと弟への思いの間で悩む内面をよく伝えていた。Ben MilesのDukeは、この二人に比べると、やや教科書的な台詞運びで、単調だったかも知れない。他では、道化的な役割のLucioを演じたLloyd Hutchinsonが聞いていて楽しかった。Donmar West Endの”Twelfth Night”でも道化をやった人だ。

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2010/02/19

"The Misanthrope" (2010.2.17, Comedy Theatre)


Knightly Can Act!!
"The Misanthrope"
観劇日: 2010.2.17 19:30-21:40
劇場: Comedy Theatre

演出:Thea Sharrock
原作:Molière
脚本:Martin Crimp
美術:Hildegard Bechtler
衣装:Amy Roberts
照明:Peter Munford
音響:Ian Dickinson for Autograph


出演:
Damian Lewis (Alceste, a playwright)
Keira Knightley (Jennifer, an American film star)
Dominic Rowan (John, Alceste's friend)
Tara FitzGerald (Marcia, an acting teacher at Juliard)
Tim McMullan (Covinton, a ctitic)
Kelly Price (a tabloid journalist)
Chuk Iwuji (an actor)
Nicholas Le Prevost (an agent)

☆☆☆☆ / 5

Keira KnightleyとDamian Lewisという2大スターが出るという鳴り物入りの公演。特に舞台の洗礼を受けていないKnightleyがどれ程舞台で力を出せるか、観客も批評家も注目していたと思う。そしてその結果は、"She can act!"と誰かが書いていたが、その通りだった。最初出てきた時は、台詞を聞いた途端、これじゃ舞台では声が細すぎる、と思ったが、嫌みな性格で浅薄なハリウッド・スターを、キーキーと軋むような金切り声と、うるさい女子高生みたいな身振りでで巧みに表現して、実に真に迫っていた。Knightley自身がハリウッド・スターであるために、実像とステージ上の虚像が重なって、一層効果的だった。但、彼女のやるJenniferは、ただ皮相なだけでなく、Alcesteに惹かれることから見ても、芸能界の醜さにうんざりもしているのだが、しかし、俗物たちからあこがれの目で見られ、名声の魅力からも逃げられもしないジレンマを抱えたかなり屈折した人物である。

Martin Crimpの脚本はモリエールの作品を英訳しただけでなく、設定を現代に置き換え、登場人物の名前も変え、おそらく台詞も大分変えてしまったと思うので、モリエールに基づいたCrimpの翻案戯曲と考えた方が良いかも知れない。モリエールを良く知っている人には不満に思えるかもしれない。しかし、モリエールの原作を見るとどういう感じか分からない私には、これはこれで大変面白く見ることが出来た。

現代の薄っぺらい刹那的な芸能界、セレブリティー・カルチャーにうんざりしている劇作家のArceste(Damian Lewis)。しかし、彼はその芸能界の女神たるJennifer(Keira Knightley)を愛していて、芸能界からなかなか逃れられない。ということは、つまり彼自身も、Jenniferを通じて、自分が毒づいている虚栄の世界の奴隷になっているという矛盾を示している。彼らの家には、気取った批評家のCovinton、タブロイドの記者、プロデューサー、エイジェント、役者や、演劇学校の教師などが、有名人のJenniferの回りに、砂糖に群がる蜂、いや、名声という腐臭に引きつけられるゴキブリの如くに集まってくる。東洋風の洒落た絵画の描かれた居間だが、これらの人物により、醜いゴミためのように見えた。Alcesteは彼らに向かって毒舌を吐くが、それはひたすら空にこだまし、彼はただ孤立するばかりだ。彼は愛するJenniferと共に、都会の虚飾を離れ、今の生活を捨てようとするが、Jenniferからは手厳しい反応を受ける・・・。

Knightleyは、「期待を裏切って」なかなか上手かったが、他の役者も絶妙だった。AlcesteのDamian Lewisは現実離れした理想主義を上手く表現。批評家CovintonをやったTim McMullan、薄っぺらい俳優役のChuk Iwuji、ころんでもただでは起きない芸能記者のKelly Priceなど、この世界に集まる人種を皮肉に表現していた。つまるところ、彼ら皆、俳優として実生活でよく知っているタイプの役をやっているわけであるから、上手くて当然と言えば当然。

最後の三分の一くらいは、Arcesteたちの部屋でのコスチューム・パーティとなり、Alcesteを除く皆がモリエールの時代の衣装を着て現れるという興味深い設定。カラフルでとても楽しい。モリエールの時代も今も、こういうセレブリティー・カルチャーの馬鹿さ加減は変わらないということか。

Crimp版は大いに楽しめたが、これを見て、日本語でも英語でも良いから、是非モリエールの原作に忠実な舞台を見てみたいと思った。

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2010/02/18

"A Midsummer Night's Dream" (Rose Theatre 2010.2.16)


Peter Hallの伝統的な演出
"A Midsummer Night's Dream"
Rose Theatre公演
観劇日: 2010.2.16 19:30-22:20
劇場: Rose Theatre, Kingston

演出:Peter Hall
脚本:William Shakespeare
美術、衣装:Elizabeth Bury
照明:Peter Mumford
音響:Gregory Clarke
音楽:Mick Sands

出演:
Judi Dench (Titania)
Charles Edwards (Oberon)
Annabel Scholey (Hermia)
Tam Williams (Lysander)
Ben Mansfield (Demitrius)
Rachael Stirling (Helena)
Oliver Chris (Bottom)
James Laurenson (Quince)
Reece Ritchie (Robin Goodfellow, a puck)
Sofie Scott (a fairy)
Julian Wadham (Theseus)
Susan Salmon (Hippolyta)
William Chubb (Egeus)

☆☆ / 5

Peter Hall演出、Judi Dench主演という、何十年か前から続いている名コンビによる『真夏の夜の夢』。エリザベス朝風のコスチュームで、特に新鮮な試みはなく、大変伝統的な演出だ。ロンドン郊外にあるキングストンの観客には、特に職人の寸劇が大受けして、大喝采を浴びていたが、私には面白く感じられる点のない平凡な公演で、Judi Denchを見たことだけが良い想い出になったくらいだった。

不満を言えば、例えば、TheseusやHippolitaが平民の夫婦みたいで威厳がない。Robinがさしてファンタスティックでなく印象に薄い。音楽が大して使われず、ファンタジックな雰囲気造りが出来ていない。そして、何よりがっくりしたのは、Bottomが本編を食って、妙に観客にこびた笑いを取りすぎて、うんざりした。漫才みたいだった。若い恋人たちも、今ひとつ精彩を欠き、特にHelenaは、喉が潰れていたのか、声が枯れて聞き苦しかった。

Judi Denchを、彼女のこれまでの役柄を踏まえ、また原作にもある意味を汲んで、エリザベス女王に例え、TitaniaとOberonを老境の女王と若い貴族の愛人エセックスになぞらえているようだ。DenchがTitaniaをやるのは大変不自然だが、そういうアイデアで補っているが、私には説得力は感じられない。彼女のverse speakingは大変素晴らしいことだけは間違いない。

主要な新聞の劇評では、絶賛と言って良い褒め方をしてあった。今回ほど、観客の反応や劇評と、私の感想が大きく違ってしまったことは少ない。イギリス人の多くが高く評価する要素を、私が充分感じることが出来ないのだろうか。こういうのを見ると、イギリス人が自分達のカルチャーを、お互いに「良いな、良いな」と言って喜び合っている感じがし、外国人客の私としては、仲間内のエンタティメントから排除されたという印象。しらけた。

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2010/02/16

"Enron" (2010.2.15, Noel Coward Theatre)


経済の病巣を視覚的に見せる
"Enron"

公演:Headlong Theatre, Chichester Festival Theatre & Royal Court Theatre co-production
観劇日: 2010.2.15 19:30-22:10
劇場: Noel Coward Theatre

演出:Rupert Goold
脚本:Lucy Prebble
美術:Anthony Ward
ビデオ、映像:Jon Driscol
照明:Mark Henderson
音響、音楽:Adam Cook
振付:Scott Ambler

出演:
Samuel West (Jeffrey Skilling, CEO of Enron)
Amanda Drew (Claudia Roe)
Tom Goodman-Hill (Andy Fastow, CFO of Enron)
Tim Pigott-Smith (Ken Lay, Chairman of the Board of Enron)

☆☆☆☆ / 5

昨年Royal CourtやChichesterで大評判になり、ウエスト・エンドにトランスファーしてきた話題作である。最近発表になったオリヴィエ賞の候補作品としても複数部門でノミネートされている。私も大変期待して出かけたが、それ程大きなインパクトを感じなかった。私自身の好みや、劇の素材である経済問題に興味が持てないせいだろう。しかし、大変工夫の多い公演で、見た甲斐は大いにあった。

Enronは1990年代に大きく成長したアメリカのエネルギー会社。クリントン政権末期に躍進を始め、90年代を通じて、アメリカの好景気を象徴し、ブッシュ政権の自由主義政策下の規制緩和/撤廃を最大限に利用した会社のようである。Enronの創業者で、Chairman(会長)がKen Lay (Tim Pigott-Smith)。彼が抜擢したenfant terribleが、Samuel West演じるJeffery Skillingである。Skillingは、石油などのエネルギー開発と販売で地道に利益を上げることに飽きたらず、たたき上げの幹部Claudia Roe (Amanda Drew)を押しのけ、エネルギーを商品として、大豆やダイヤモンドのようにトレードする。また、インターネットやビデオ配信などの畑違いの分野に手を出す。更に、利益が上がることを当然の事と見せかけて会社を無理に拡大するが、実際は赤字続きで実体のない、ブランドだけを空売りする事態に陥っていた。その急場をしのいでくれたのが、CFO(Chief Financial Officer)のAndy Fastow (Tom Goodman-Hill)。赤字を食い尽くす為だけに存在するダミー会社を幾重にも作り出して、本体のEnronを延命させるが、しかし、それもやがて限界に至ることになる。更にそのEnronの幻想の繁栄を支えたのが、リーマンブラザースやJ P モーガン、クレディ・スイス他のアメリカや他国の大金融機関。Enronが時代の寵児から、一転して詐欺師に操られた会社と見られるまでに転落したのは、アメリカの金融界全体、いや、金融やエネルギーの規制緩和を進めて、野放図な金儲けをあたかも美徳のように賞揚したブッシュ政権とアメリカという国そのものの失墜であったのではないか、とそこまで考えさせる内容の脚本である。今、金融恐慌に端を発して、不況からなかなか立ち直れない米国の落とし穴は、既にEnronの倒産の時には明白に見えていた、とLucy Prebbleは言いたいのであろうか。

Rupert Gooldの演出は、こうした経済のからくりを、言葉だけの説明に陥って舞台が硬直化しないように、目まぐるしい程に様々の視覚的なイメージを駆使して表現する。例えば、赤字を粉飾するダミー会社を、恐竜のような爬虫類で表現し、その恐竜が借金をバリバリとむさぼり食ったり、ダミー会社を何重にもなった入れ子の箱で表したり等、工夫たっぷりだった。また、Gooldらしいビデオの多用も大変効果的であったが、特に、ステージの背景に株式市況の数字が映し出され、エンロンの株が刻々と上がったり下がったりして行く様が映し出されるのも上手い。歌や踊りもふんだんに使われ、映し出されるイメージと共に、半ばミュージカルのようでもあった。

そうした工夫に加えて、主な登場人物を演ずる俳優4人が、大変迫力ある名演。WestやPigott-Smith、Tom Goodman-Hillが、それぞれ、救いようのない皮相で、貪欲な人物を巧みに表現。Pigott-Smithがブッシュ・ジュニアによく似ていたと思ったのは私だけだろうか。Samuel Westは、最後に落ちぶれて牢獄に繋がれるにあたって、マクベス的内省と悲劇性を感じさせる言葉を放ち、劇を印象深く締めくくった。Amanda Drewは、男どもの成功とセックスの繋がりを感じさせるセクシュアルなイブであると共に、野心を持つダイナミックな女性重役を演じて、劇にふくらみを持たせた。

昨年見たDavid Hare脚本、Angus Jackson演出の"The Power of Yes"と比べると、イメージ、歌、踊りなどを多用して、説明的でなく、堅い素材を扱いながらも大変娯楽性に富んだ劇になったのは、Gooldの演出アイデアの豊かさ、秀逸さを裏付けている。これに比べると、HareとJacksonの作品は、不器用で説明的だったと言わざるを得ない。更に、Enronの倒産から時間が経ち、しかもイギリスという他国から見ているので、距離を置いて批判的に描けている点でも、脚本のPrebbleはHareより得をしている。ひとつの会社とか、数人の経済人のドラマというだけでなく、Enronの倒産に象徴された時代とアメリカ文化を痛烈に批判しているのだ。しかし、これは脚本の意図でもあるが、人物の掘り下げはあまり無く、LayやFastowなどは特に漫画的な軽薄さが目立った。そういう人物に踊らされたのだ、と言いたかったかもしれないが、見終わって見ると、喜劇的印象が強く残る公演だった。

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2010/02/14

Ian Rankin, "Exit Music" (2007; Little Brown, 2009)


Rebus警部退場・・・?
Ian Rankin, "Exit Music" (2007; Little Brown, 2009) 530 pages

☆☆☆ /5 

タイトルを和訳すれば、『退場の音楽』。イアン・ランキンの人気シリーズもついに終わりを迎えるのか。この作品は、Rebus警部の退職の日まであと10日という時に起こった殺人事件を取り上げている。小説の主な興味は、Detective Inspector John Rebus (ジョン・リーバス警部)のプロフェッショナル・ライフの閉幕だ。殺人事件が3件起きるのだが、それはRebusの退場の花道、あるいは引き立て役となる背景に他ならない。そのせいかどうか、プロットはちょっと肩すかしに終わって、私としては少し不満。Rebusシリーズを何冊か読み、ある程度関心を持って読み始めた人でないと、あまり面白くは無いかもしれない。しかし、Rebusファンにとっては、彼らの大好きな警部の退職を控え、切ない哀愁を感じる一冊だ。

作品内容だが、事件は、ロシア人の反体制詩人Alexander Todorovの殺害である。生前、この詩人と関係のあったロシア人ビジネスマン、そのビジネスマンと繋がっていた銀行家やSNP(スコットランド独立党)の有力政治家、更に彼らと関係があったのは、Rebusの長年の宿敵で、エジンバラの暗黒街の帝王Big Ger Caffertyなどが次々と登場。国際政治、金、国内政治、そして組織暴力や麻薬などが絡み合い、事件は複雑な様相を呈する。Rebusはいつもながらのルール違反すれすれのやり方でこうした政財界の大物と渡り合うので、上役の機嫌を損ねて、引退の日まで、事件の担当から外され、職務停止を命じられる。しかし、彼は長年の同僚、DCI Siobhan Clarke(シボーン・クラーク警部補)と連絡を取りつつ、隠れて捜査を続ける。やがて重要証拠を握っていた人物が襲われたりするうちに、リーバスの退職の日が刻々と近づく・・・。

いつか逮捕せねばと長年捜査を続けてきたBig Gerとの腐れ縁。しかし、最後になって、意外と孤独なRebusと共通点もあって、一瞬互いに心が通じるようなひとときが訪れるのがとても面白い。Rebusの退職と時を同じくして、帝王Big Gerの終幕も又、秒読み状態だ。

DCI ClarkeはまもなくRebusを超えねばならない立場ながら、Rebusを尊敬し、彼の正義感に信頼を置き続ける。警察の公式通りに動き、真面目で気配りに長け、繊細なClarke。彼女はこのシリーズのもう一人の主役であり、切れ者のワトソンだ。一方、型破りで、一匹狼の自己破壊型、アグレッシブなのに心優しいRebus。男女である2人の間に横たわる不思議な友情、師弟愛、そして押し隠された恋愛感情・・・。この2人の様子を行間に読むのがたまらない魅力。

事件の解決の仕方がね、ちょっと拍子抜けしたんだよね・・・。政財界を巻き込んだ大がかりな陰謀の渦と思いきや・・・。

でもいつもながら、非常に濃密な雰囲気に溢れ、(私は行ったことがないけど)エジンバラの冷たく湿った霧が漂ってきそうな小説。その点では大変楽しめる。ランキン・ファンには必読書。しばらくランキンを読んでなかったけれど、又読みたいと思った。

これでリーバス警部シリーズは終わりか、と恐れるところだが、ランキンは彼を何らかの形で再登場させるつもりらしい。それに私の愛するクラーク警部補の今後も大いに気になるところだ。ランキン自身も1960年生まれと若いので、リーバス警部シリーズはまだ続くことだろう。

2010/02/11

"Twelfth Night" (Royal Shakespeare Theatre、2010.2.10)


地中海の雰囲気が漂う
"Twelfth Night"

Royal Shakespeare Theatre公演
観劇日: 2010.2.10 14:00-17:00
劇場: Duke of York Theatre


演出:Gregory Doran
脚本:William Shakespeare
美術:Robert Jones
衣装:Christine Rowland
照明:Tim Mitchell
音響:Martin Slavin
音楽:Paul Englishby


出演:
Nancy Carroll (Viola / Cesario)
Alexandra Gilbreath (Olivia, a Countess)
Jo Stone-Fewings (Orsino, Duke of Ilyria)
Richard Wilson (Malvolio)
Richard McCabe (Sir Toby Belch)
James Feet (Sir Andrew Aguecheek)
Mitos Yerolemou (Feste, Olivia's fool)
Tony Jayawardena (Fabian, Olivia's servant)
Pamela Nomvete (Maria, Olivia's chambermaid)
Sam Alexander (Sevastian, Viola's twin brother)
Alan Francis (Sea Captain, Sevastian's friend)

☆☆☆/ 5 (あるいは、☆3.5)

雪がひらひら舞う寒い一日、久しぶりにロンドンの劇場に行った。2ヶ月以上、出かけておらず、劇場にいるだけで何となく楽しい。この公演も、身を切る風に吹かれつつ出かけてきた私にとって、気持ちを暖かくしてくれるような優しい雰囲気に満ちていた。Gregory Doran演出のシェイクスピア作品であり、喜劇の名作であるから、楽しめるのは間違いない。しかし、欲を言えばちょっと物足りなかったかな、という印象ではあった。

まず目につく点としては、この作品の舞台Ilyriaにかなり忠実に場所を設定してあること。パンフレットによると、シェイクスピアの時代、オットマン帝国の一部であった地域で、今のアルバニア周辺にあたるそうである。従って、ヨーロッパとアジア、キリスト教文化圏とイスラム文化圏が交わる乾燥して暖かな東地中海の、エキゾチックな雰囲気のセット、照明やコスチューム。伝統的な演出での、エリザベス朝イングランドの、牧歌的でメランコリックな雰囲気は薄れ、それを不満に思う人もいるかも知れないが、私はきれいなセットや照明に好印象を受けた。芳醇な雰囲気に溢れた上演である。舞台の背景は、かなり歳月を経た感じが上手く出ている、薄茶色のレンガの壁。それを柔らかい照明が照らす。照明には細かい工夫も感じられた。フェステの台詞に合わせて、わずかな時間であるが、観客席も含めて劇場全体を明るくしたり、真っ暗にしたりした時もあった。観客席とステージを同時に明るくするのは面白い試み。室内劇場に、昼間のグローブ座のような祝祭的な雰囲気が一瞬かもし出されてハッとした。これは歌舞伎の劇場と共通するが、日本の演劇から色々と学んでいるGregory Doranの思いつきか?

この劇の最大の見どころは、もちろん清教徒的な潔癖さとプライドで膨れあがったMalvolioと、彼に対するTobyらの嘲笑である。ところが、Richard WilsonのMalvolioはどうも年を取りすぎで、好々爺に映ってしまった。憎たらしい毒気に満ちたMalvolioを笑い飛ばし、プライドをへし折ってこそ面白いのだが、Wilsonに十分なパワーが感じられず、なかなか憎たらしいところまで行かない。黄色い靴下のシーンも、それほどの笑いを誘わず、むしろ可愛らしい、と言う感じ。愛すべきMalvolioも悪くは無いが、そうなると、後の懲罰が残酷すぎて、悲痛な老人になってしまう。Richard McCabe演じるSir Tobyが非常に野卑で力強い人物に仕上がっているだけに、弱い者いじめに見えて仕方ない。それに比べると、Donmar WestendでのDerek JacobiのMalvolioとRon CookのSir Tobyの組み合わせは絶妙だったな、と思い出した。

そのRichard McCabeはMalvorioとは違い、酒と汗と体臭のぷんぷん臭う、たっぷり脂肪のついた腹からズボンがずり落ちそうな、エネルギッシュなSir Toby。Sir Tobyが一番目立つ"Twelfth Night"というのもちょっとバランスに問題があるが、見応えのあるキャラクターに仕上がった。McCabe扮するTobyが景気づけに本物の生卵を何個も割って一気に飲み干すシーンでは、彼の役者根性に脱帽!

Oliviaはかなり変わった造形。Alexandra Gilbreathはもうあまり若くない女優だ。自分よりずっと若くてハンサムなCesarioにうつつを抜かす、女盛りを過ぎた女性の屈折した感情の起伏をダイナミックに表現している。ただ、個人的な好みとしては、もう少し若い女性の方が、ロマンチックな雰囲気が出て良かったのに、とは思うが・・・。

Violaを演じたNancy Carrollも普通この役をやるような人よりやや年が上の女優に見え、その点はちょっと気になった。但、このキャラクターの持つ傷つきやすさ、繊細さを細やかに表現できていたと思う。こうして考えると、Malvolio、Olivia、Violaの3人を、一般的な公演よりやや年長の役者に当てているように見えるが、意図的なものだろうか。

船長を演じたAlan Francisがひどく癖のある台詞回しをしており鼻についた。FesteのMiltos Yerolemouは、フールらしい体つきやエキゾチックな雰囲気を持ち、巧みな表情で、狂言回しの役を上手くこなしていた。しかし、歌はかなり下手。歌が重要な劇だけにやや残念。

"Twelfth Night"は良く上演される演目だけに、ロンドンの観客の点も辛くなりがちだろう。しかし、多少の難点はあっても、十分に楽しめるエンターテイメントに仕上がっていたと思う。家に帰ると、道にうっすら雪が積もっていてびっくり。真冬を舞台にした劇を見た後に相応しい一日の終わり。

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