2014/12/30

『ベーオウルフ』がテレビドラマ化

イギリスの民間テレビ会社 ITVが中世初期、アングロ・サクソン時代の英文学の傑作『ベーオウルフ』を13回のドラマシリーズにするというニュースを見た。撮影は2015年に開始、放映は2016年の予定。脚本家はもう書いているようだが、まだ、キャストは発表されていない。ニュースはこの記事。

イングランド北部のダラム州の石切場跡地に大がかりなセットを組んで撮影するそうだ。そのニュース記事。

『ベーオウルフ』の筋を13回に引き延ばすのは無理だと思うので、原作からはかなり離れて、キャラクターは使っても、各エピソードの多くは新たな創作になるだろう。そういう意味では、BBCの『マーリン』みたいに。しかし、それでもどういう作品になるか大いに興味はある。多分、中世を舞台にした西部劇、古くて新しいSF、未来と過去が入り交じったゴシック・ロマン、といったところかな。アクションたっぷりで、多少お色気もあって、コンピューター・グラフィックスをふんだんに使って、という具合だろうと想像する。

それで思ったのだが、日本の大学でも、「映画になった中世英文学」とか、「映画になった中世ヨーロッパ」というような授業があったら面白いだろうな。『ベーオウルフ』も私の見ただけでもすでに3本あるし、他にもあるに違いない。一方、『カンタベリー物語』は意外に少なくて、映画ではパゾリーニ版しか知らない。BBCのテレビ版はありとても面白いが、日本では売られていないはずで、また完全に現代の物語にしてあり、原作との関連は発想の源という程度。マロリーの『アーサー王の死』はかなりある。比較的原作をなぞっているジョン・ブアマン監督の『エクスカリバー』、原作からはかなりかけ離れていると思うが、リチャード・ギア、ショーン・コネリー主演の『トルー・ナイト』、ロバート・テイラー、エヴァ・ガードナー、メル・ファーラーという大スター主演の『円卓の騎士』など思い浮かぶ。

2014/12/26

博士論文の行き詰まり

秋から今までブログの更新が極めて少なくなっているのは、劇を見たり小説を読んだりしていないせいもあるが、執筆中の博士論文が行き詰って、その打開に時間を使っているためでもある。この秋、序論や結論、参考文献などを除き、論文の本体は一応書いて、これから編集作業をする、というところまで来た、と自分では思っていた。そこで、今までは各章を書き終えるごとに提出していたが、今回、全体をまとめて指導教授に読んでもらうために送っておいた。そこで、11月末に論文本体についての5ページにわたる長いコメントが届いた。

そのコメントは、「あまりがっかりしないように」という前置きで始まっていたが、まさにがっかりするようなものだった。私の草稿は5章に分けてあるが、大体において満足できるのは4章と5章のみで、1章と2章は根本的に書き直し、3章はほとんど役に立たないので、博論本体に含めるのはむつかしい、とのことだった。3章が本論から脱線しすぎて、問題が多いことは以前にも言われていて、私自身も自覚しており、本論とは別に巻末に付属資料(appendix)としてつけようかと考えていた。しかし、1章と2章、合わせて3万語以上が使えない、というのは予期していなかったので、愕然とした。最初にこれらの章を書いて指導教授に見せた時には、満足できる、という意味のコメントを貰っており、その折にも指導を受けてマイナーな書き直しも行っていたからだ。

しかし、彼の今回のコメントをじっくり読むと、これまで部分部分をばらばらに読んでいた折には気づかなった全体の理論的な統一性の問題点が、こうして全体を読むとはっきり分かったようなのである。彼も指導学生を困らせるつもりで厳しいコメントを送ってきたわけではないし、落胆させるのは不本意だろう。但、卒業論文などならともかく、審査するは指導教授ではなく、学内の他の専門家と、学外の専門家のふたりが原則であるから、自分の指導学生に甘くすれば、最後に彼自身が、どういう指導をしていたのか、と責任を問われることになる。

そういうわけだから、今、1章と2章をゼロから書き直し、また、序論を書くべく、新たに仕切り直ししたつもりで勉強中である。先生の指摘のうち、最も大事な点は、私の草稿全体を支える理論が弱くて、その為、全体の統一がとれていないということだ。これは私もいつも頭のどこかに引っかかっていた。しかし、今までは、どこかで、このくらいなら良いだろう、とにかく早く終わらせなくては、という甘さがあったように思う。

理論に弱点がありがちなのは、私だけでなく、日本の中世英語英文学の研究者の多くに見られると私は思う。資料はしっかり集め、テキストは正確に読み込んでいるのだが、最終的にいったい何を言いたい論文/発表なのか、よくわからないとか、膨大な資料と努力の割には、たどり着いた結論は些細な、あるいは曖昧なことに見える場合が多いように思う。語学の上でハンディの大きい我々は、学部の授業は文献の読解で精一杯で、中世の文献を読む前に、そもそも理論を組み立てる勉強がほとんどできてないのである。テキストを正確に熟読していけば、自然と疑問に思ったり、あるいは分かってくるものがあるはず、という「信仰」みたいな考えがあるかもしれない。テキストを自分なりに読み解いて昇華し、そこから理論を組み立てるのは、より自覚的で、日常的な理論構築の習慣が必要だろう。

さて、私は先生に色々と欠点を指摘していただいたおかげで、今は進むべき方向はかなりはっきりしている。時間的には、いったいいつ博士論文が完成するのか、またしてもわからなくなったが、あと3年も4年もということにはならないだろう・・・と希望的観測(苦笑)。先生のコメントが届いたときには相当に落胆したが、今は色々なヒントも貰って、大いにやる気が湧いてきた。博士論文として提出できなくても、必ず完成させるつもりだ。今の大学に提出する博士論文完成は、授業料とか、イギリスに先生に会いに行くとか、アルバイトもしづらいとかで、年々資金的に苦しくなり限界に来ている。3年、長くても4年で提出の計画だったから、円高など好材料があり今までやれたのが幸運だった。それにしても、始めたときには随分と楽観的で、過大な自己評価をしていたものだ。

2014/11/21

「ヨーロッパ 台頭するポピュリズム」(NHK BS世界のドキュメンタリー)

標記のドキュメンタリーの再放送を録画して見た。フランスのRoche Productionが今年作った番組。

イタリア、フランス、オランダ、ハンガリーにおける右翼民族主義政党のめざましい台頭を1時間弱で俯瞰してくれる。ひとつひとつの国の状況については、色々と説明不足の点があると思うが、ヨーロッパ全体に共通する問題として民族主義を捉え、そしてオランダやハンガリーなど、日本ではほとんど報道されない国の様子を教えてくれる番組として、大変貴重で、勉強になった。 先日同じシリーズで見た「左折禁止 社会民主主義は退潮しているか」(ドイツTaglicht Media, 2014)とは別の国の別の放送局の制作だが、ふたつが相互補完的になり、大変興味深かった。

こうした事が起こる大きな背景としては、グローバル化と経済不振による生活レベルの低下や失業者の増大がある。そうしたことへの不満が、分かりやすく身近なスケーブゴートとして、移民とEUへの反発に向かっている。更に中東情勢の不安定さから、反イスラム、反アラブへ結びつく。しかし、一旦他民族他文化排除の誘惑に屈した人々は、容易に反ユダヤ、反ロマなどの伝統的な差別も 受け入れるようになる。日本で言う「反日」の論理だ。番組のナレーターが言っているように、反――と唱えることで結びつく逆説のアイデンティティーがそこにはある。「イスラムではない私達の文化と歴史」というわけだ。だからといって、今のヨーロッパ人、とりわけワーキングクラスの人々が特に熱心なキリスト教徒なわけでも、自国・自民族の歴史や文化に深い知識や関心があるわけでも無い。むしろ教会は(少なくともイギリスでは)ガラガラであり、学校では実利的な科目が幅をきかせて、歴史や文学、芸術は二の次にされている国が多いだろう。それまで多数派で自分のアイデンティティーを深く考えることがなかった人々が、EUという国を超えた組織の成立やグローバル化された経済活動で自信を無くしたり、職を脅かされたりして、古い近代的民族国家の枠組に守って貰いたいと思っているようだ。

一方で、伝統的なリベラルで高学歴のミドルクラスの人々も、教育が行き届いてその数が増え、数少ないエリートでは無くなったことや、アジアを含めたグローバル競争の中で、仕事の取り合いになり、生活も苦しく、「ホワイトカラー・ワーキングクラス」という状況に陥っている。従来は、リベラル・ミドル・クラスは、東西の国々で、左翼政党の理論的支柱であり、根強い支持基盤であった。例えば、イギリス労働党の成立にはフェビアン協会が大きな役割を果たしている。しかし今、ホワイトカラー労働者の多くは組合組織の乏しいサービス業に属してミドルクラスから転落しており、ワーキングクラスと共に左翼運動や社会民主主義を支えるという物質的、精神的ゆとりがなくなっている。彼らは急速に左翼を離れ、経済第一主義で大企業の影響下にある政党(イギリスの保守党のような。日本では自民党)や民族主義政党を支持するようになった。

危険なのは、こういう民族主義政党の台頭に影響されて、政権を取っている保守系政党までが政策を変えたり、保守と民族主義の政党が連立したりすること。

興味深く、また恐ろしくもあるのは、民族主義政党は世界で同時に台頭するということ。今のEU諸国や日本もそうだが、第2次大戦前もまさにそうだった。各国で剥き出しの民族主義が敵を求めて徘徊し始めると、戦争の危険が増大する。怖い。

2014/09/21

ヴィクトリア朝イングランドの劇場: Morecambe Winter Gardens

Guardianオンライン版の演劇セクションを見ていたら、イギリスの地方演劇に詳しいリン・ガードナーが、”See Breeze”(「浜風」とでも訳すべきか)という演目について紹介していた。

これは通常の演劇公演では無く、ランカスター近郊の町、Morecambeに残るWinter Gardensという古くてあまり使われていない劇場(より正確には、ミュージック・ホール)に生気を吹き込むために企画され、ライティング・ショーと音楽と演劇の混在したような総合的で公演場所を特定された (site-specific) エンタテインメントのようである。その予告編で内容の一端が分かる

私はランカスター州に行った事も無いし、劇場の名前も今まで聞いたことがなかったが、今回初めてこの劇場について知って、ヴィクトリア朝演劇が如何に華やかに栄えていたか、あらためて驚いた。この町、Morecambe、は町議会に運営されていると同時に、ランカスター市議会管轄の行政区域に入るそうで、ランカスター市の一部のようだ。ヴィクトリア朝に多数の観光客を集めた海辺の保養地とのことだ。北部の工業地帯の労働者など、庶民が集っていたのだろう。

凄いのは席数で、2000席以上。劇場ならぬ、野球場かサッカー場のような規模。日本の劇場で匹敵する大きさというと東京の大きな商業劇場だろうが、帝劇でも1880席程度である。新国立劇場の中劇場が約1000席、オペラ劇場が約1800席。巨大と思いがちなナショナルのオリヴィエ・シアターが1180席だから、地方の劇場で2000席という数が如何に凄いか想像出来る。

この劇場にはホームページがあり、この劇場の歴史と現在の様子を紹介したビデオがある。

リン・ガードナーも書いているが、この劇場の魅力は、ビクトリア朝の雰囲気を伝える歴史価値だけでなく、かっての栄華を偲ばせつつ、今、時代に取り残され、徐々に寂れて朽ちつつあるという、その巨大なアンティークのような性格、滅びつつあるものの美しさ、が人々を惹きつけるようだ。また、こういう古い地方劇場が、Royal Shakespeare Theatreのような高尚な演劇の殿堂ではなく、大衆的なミュージック・ホールとして誕生し、そうした昔の派手で庶民的な雰囲気を感じさせることも、魅力のひとつではなかろうか。

Morecambeというと、私が思い出したのは、20世紀中盤、イギリスで最も良く知られた2人組コメディアン、Morecambe and Wiseのひとり、Eric Morecambeだ。彼は、自分の芸名を彼が生まれたこのランカスターの町の名前から取ったそうである。

これに関連したことで、もうひとつ、Guardianの劇評で、マンチェスターのVictoria Bathsという施設で行われた”Romeo and Juliet”の公演のAlfred Hicklingによる劇評があった。

Victoria Bathsという施設は、ヴィクトリア朝にできた室内プール施設で、近年、修復が進められ、往年の美しさを取り戻しつつあるようだ。現在修復途中で、日頃はプールとしては使われてはいない模様であり、そこでこの劇が演じられた。将来は更に修復を進めて、プールを使えるようにするらしい。この美しいアールデコ調の施設の写真がDaiily Mailのウェッブ・ページにあった

この2つの施設の維持と修復には、地元の人々のボランティア活動や沢山の人々の寄付が大きな役割を果たしている。かっての国力を失い、経済的に苦しい地域も多いにもかかわらず、こういう古い施設を何とか保存しようとするイギリス人の熱意には大変感心する。

2014/09/05

“Wolf Hall” / “Bring Up the Bodies” (The Aldwych Theatre, 2014.8.28 / 8.29)



後半、特に見応えがあった

劇場:The Aldwich Theatre, West End
“Wolf Hall” 2014.8.28  19:30-22:15 (含む、1 interval)
“Bring Up the Bodies” 2014.8.29 19:30-22:10 (含む、1 interval)

劇団:The Royal Shakespeare Company
原作:Hilary Mantel
脚本:Mike Poulton
演出:Jeremy Herrin
セット&コスチューム・デザイン:Christopher Oram
照明:Paule Constable (“Wolf Hall”) / David Plater (“Bring Up the Bodies”)
音楽:Stephen Warbeck
音響:Nick Powell
衣装:Stephanie Arditti

配役:
Thomas Cromwell: Ben Miles
King Henry VIII: Nathaniel Parker
Katherine of Aragon: Lucy Briers
Princess Mary / Jane Seymour: Leah Brotherhead
Anne Boleyn: Lydia Leonard
Mary Boleyn (Anne’s sister): Olivia Darnley
Thomas Howard, Duke of Norfolk & Anne’s uncle: Nicholas Day
Charles Brandon, Duke of Suffolk: Nicholas Boulton
Thomas Wyatt: a gentleman and poet: Jay Taylor
Harry Percy, Earl of Northumberland: Nicholas Shaw
Thomas Wolsey: Paul Jesson
Stephen Gardiner, Wolsey’s secretary: Matthew Pidgeon
Thomas Cranmer: Giles Taylor
Thomas More: John Ramm

☆☆☆☆ / 5

RSCがストラットフォードのスワン劇場で昨年の12月から初演し、ロンドンのウエストエンドに持ってきて、上演している。原作はブッカー賞を取ったベストセラー小説で、チューダー朝の冷徹な官僚、Thomas Cromwellの生涯を描く3部作のうちの最初の2作品。クロムウェルの失墜が描かれるであろう第3部にあたる作品はまだ出版されていない。脚本を担当したのは、古典の脚色で実績のあるMike Poulton。

ウエストエンドの劇場であるからストラットフォードよりもチケットも高額になっており、前半の”Wolf Hall”だけ見る人も多いだろう。”Wolf Hall”だけでも充分楽しめるが、しかし後半の”Bring Up the Bodies”の方が緊迫感があり、より面白い。

第1部のタイトル、”Wolf Hall”は、Henryの3番目の妻、Jane Seymourの実家であるシーモア家の屋敷の名前だそうだ。一方、第2部のタイトルは、原作の邦訳では『罪人を召し出せ』と訳されているそうで、王がAnneとその取り巻きを裁判にかけ、処刑していく様を示しているのだろう。第1部では王が妻Catherine of Aragonから徐々に離れ、Anne Boleynを妻に迎えられるような環境を作って行く、つまり、ローマ・カトリック教会と断絶し、国教会を作る過程を、当時の宮廷の最高権力者Wolseyと、Wolseyの秘書官として辣腕をふるうThomas Cromwellの活動を通して描く。第2部では、王とAnneの結婚が破綻し、王がJaneと結婚しようと思い始め、Cromwellが王の命令を実現するためにJaneと彼女の取り巻き達を裁判にかけ、死刑を宣告する様子を描く。この時、既にWolseyはこの世になく、宮廷の最高権力者はThomasであり、彼の活動が劇の中心となる。第1部では、多くの人物が出て来て、歴史におけるそれぞれの役どころを説明していくような印象となり、個人の内面まで描き切れているとは言いがたい気がし、やや平板に感じた。しかし、この第1部で描かれた人間模様を土台として、第2部ではThomasに強く焦点が当たり、彼の内面が掘り下げられている。また、Anne Boleynと彼女の取り巻き達への尋問や裁判は、大変緊迫感に満ちて、見応えがあった。

Cromwellという人物は、傭兵、官僚、法律家と色々な経歴を持つ。もともと慎ましい平民の出身であるが、明晰な頭脳と知識、そしてWolseyやHenryの庇護を利用してのし上がる。第1部ではひたすら個性を押し殺し、貴族達の軽蔑にも堪え、優秀な官僚としてWolseyや王の勤勉な手足となっているが、第2部では大きな権力を得て、時として、冷酷にその権力を行使する。Anneの取り巻きの裁判では、かって彼を苦しめた人々に復讐しながら、詩人のWyattだけは無理をしても助ける。また、第2部では、彼の脳裏に現れるWolseyが何度も登場して、Cromwellの人生にとって、彼を引き立ててくれたWolseyが如何に重要な恩人であったかをうかがわせる。

第1部で一番目だった人物はHenryだったかもしれない。Nathaniel Parker演じるHenryは私が抱いている巨漢の怪物的な人物像よりもずっと普通の人として演じられていた。男子の世継ぎが生まれないことが彼を苦しめ、妻を取り替え、そしてローマと縁を切って教会を支配下に置くことへと繋がる。しかし、Cromwellらが王の意思を実行に移す過程で、彼が思っていた以上に残虐な政策を行う羽目になり、戸惑っているように見えた。Thomas Moreは名作映画『我が命つきるとも』(A Man for All Seasons, 1966)で理想化された姿が記憶に残っているが、それにはほど遠い頑固で偏狭な老人として描かれている。また、Archbishop Cranmerも王やCromwellから色々と命じられるままにあたふたしている小人物のようだ。

官僚、聖職者、宮廷人などの男達と違い、CatherineとAnneの力強さ、個性の豊かさが際立っていると感じたのは、女性作家ならではか。王を挟んで敵対した二人だが、それぞれが自分の生き方を貫いた、いさぎよい人物として描かれている。カトリックの神への堅い信仰と自分の出自への誇りに支えられたCatherine、王の寵愛への自信と強い性格を持ち、更に頭脳明晰で新しい信仰への信念も備えるあの時代を代表する女、Anne。CromwellやCranmerを始め、宮廷の男達はこの強い女性二人に振り回されてもがく。

コスチュームはチューダー朝のものに忠実に作ってあると思うが、それ以外には、あまりセットを使わず、照明の変化を生かしたシンプルな舞台だった。但、第2部でのマスクのシーンは面白かった。20世紀始めに作られたThe Aldwych Theatreも決して悪くはないが、きっとスワンだと、チューダー朝の雰囲気がもっと良く出ただろうな、といささか残念。

Ben MilesのCromwellは大変抑制の効いた演技。この意思が強く、頭の切れる官僚の特性を良く出していた。一方、Nathaniel ParkerのHenryは私が抱いていたこの王のイメージよりはいささか小粒だったが、原作がそうなのかもしれない。既に書いたとおり、Lucy Briers演じるCatherine、Lydia Leonard演じるAnneが特に印象的。

まだ読んでないが、マンテルの原作を読みたくなる舞台だった。

(この2本が、今回の渡英で最後の観劇でした。その後、1日に帰国しました。)

2014/08/28

"Henry IV, Part II" (The Royal Shakespeare Theatre, 2014.8.23)

名優を活かしたオーソドックスな演出で楽しめた

劇場:The Royal Shakespeare Theatre
2014.8.23  19:15-22:25 (含む, 1 interval)

脚本:William Shakespeare
演出:Gregory Doran
デザイン:Stephen Brimson Lewis
照明:Tim Mitchell
音楽:Paul Englishby
音響:Martin Slavin
衣装:Laura Hunt

配役:
King Henry IV: Jasper Britton
Prince Hal, Duke of Lancaster: Alex Hassel
Prince John, Lord of Lancaster: Elliot Barnes-Worrell
Duke of Gloucester, the king’s son: Leigh Quinn
Duke of Clarence, Gloucester’s son: Martin Bassindale
Earl of Westmorland: Youssef Kerkour
Earl of Warwick: Jonny Glynn
Earl of Northumberland, Henry Percy: Sean Chapman
Archbishop of York: Keith Osborn
Lord Hastings: Nicholas Gerard-Martin
Sir John Folstaff: Antony Sher
Mistress Quickly, tavern landlady: Paola Dionisotti
Bardolph: Joshua Richards
Doll Tearsheet: Mia Gwynne
Pistol: Antony Byrne
Justice Shallow: Oliver Ford-Davis
Justice Silence: Jim Hooper

この劇を見た日は、朝からあちこち動きまわった。午前中にはストラットフォード観光でこの日はHoly Trinity Churchをじっくり見た。午後は20年以上お付き合いのある老婦人とお食事とお茶、その後、また別の、妻が親しくしているイギリス人カップルにお会いして旧交を暖めた。充実した一日だったが、この劇を見る頃にはすっかり疲れ果てていて、劇の間中、うとうと・・・。もちろん目覚めていた間の方が長いけれど、残念ながらまともに鑑賞したとは言い難いので、☆はつけていません。

ほとんどは歴史的なセットとコスチュームによるオーセンティックな舞台作りで、Gregory Doranらしい公演。こういう奇をてらわない演出をするほうが、今のNTやRSCではかえって勇気がいるのではないか。Antony Sherを中心として、俳優の演技力と見事なアンサンブルで楽しませてくれる。Sherはやや年齢と哀愁を感じさせるFalstaff。大変スローな台詞回しと動きで、吉田剛太郎フォルスタッフとは対照的。そのSherといいコンビを見せるのが、Oliver Ford Davis演じる、これまた大ボケのJustice Shallow。ほとんど何も言わず、ぼーっとして座っているJustice Silenceとともに、楽しい老人トリオだった。SherとFord Davisは間の取り方が絶妙。たとえば『ゴドーを待ちながら』のMcKellenとStewartを思い出させる、年を取った俳優だけが出せる味わいがあった。また、イーストチープの酒場のシーンでは、Mistress Quicklyもかなり年配の配役で、Sherの役作りに合っていた。Pistolだけは、突拍子もないぶっ飛びぶりではあった。

この二人の治安判事が出てきて兵隊を募集するシーンは、コミカルな色眼鏡を通して描かれてはいるが、薔薇戦争の時代、中世の封建制が崩壊して騎士を中心とした戦いが終わり、戦争が起こる度に金で雇われる兵隊が軍隊の主流になったいたことをうかがわせ、興味深い。

メインプロットの王家の変転の方では、王とPrince Halの間の疎遠さがかなり強調されていた気がした。歴史上は、この時期、BolingbrokeはHalの反乱さえ恐れる程、親子の中は悪かったと何かの本で読んだ。シェイクスピアのテキストではそこまでは強調されていないと思うが、しかし、ふたりの間に相互不信があったことを示唆する演出だったと思う。

Halを演じたAlex Hassellは癖がない明るい2枚目の演技。父のBolinbrokeのJasper Brittonは不安と権威や自負が入り混じった陰影のある人物になっていたような(でもうつらうつらだった私の印象は当てにならないが)。

私としては、Antony Sherのフォルスタッフに加えて、Oliver Ford Davisのボケっぷりが堪能できたのが大きな収穫だった。

"The White Devil" (The Swan Theatre, RSC, 2014.8.22)

とてもモダンで刺激的なプロダクション

劇場:The Swan Theatre, The Royal Shakespeare Company
2014.8.22  19:30-22:30 (含む, 1 interval)

脚本:John Webster
演出:Maria Aberg
デザイン:Naomi Dawson
照明:James Farncombe
音楽と音響:David MaClean & Tommy Grace
音響:Tom Gibbons
衣装:Ed Parry

配役:
Vittoria Corombona: Kirsty Bushell
Camillo (Vittoria’s husband): Keir Charles
Flaminio (Vittoria’s sister & servant of Bracciano): Laura Elphinstone
Marcello (Vittoria’s brother & Francisco’s attendant): Peter Bray
Cornelia (the mother of Vittoria, Flaminio & Marcello): Liz Crowther
Bracciano (Isabella’s husband & Vittoria’s lover): Davi Sturzaker
Isabella (Bracciano’s wife): Faye Castelow
Francisco (Isabella’s brother, Duke of Florence): Simon Scardifield
Cardinal Monticelso: David Rintoul
Lodovico (a disgraced & banished nobleman): Joseph Arkiley
Dr Julio: Michael Moreland

☆☆☆☆☆/5

私はウェブスターが大好き。この濃密さ、男女の死闘が生む刺激がたまりません!彼の作品の大きな柱は、家父長的男性中心社会の孕む矛盾。シェイクスピアではオブラートに包まれてその残虐さが目立たないが、ウェブスターは容赦なくそれを利用してセンセーショナルなドラマに仕立てあげる。しかし、現代の作家と違い、作家の道徳的な視点から構成されているわけではなく、男も女もアモラルな闘争に明け暮れて、復讐の連鎖のうちに自滅していくという陰惨なドラマ。今回の上演は現代のセットとコスチュームで、退廃と残虐さを一層際立たせたが、いつの時代にセットしても、ウェブスターの基本的な面白さに変わりはないと思う。

(物語)Lodovico伯爵は汚職や殺人の罪でローマから追放されている。Bracciano公爵はIsabellaという妻を持ちながら、Camilloの妻のVittoria Corombonaと密通している。Vittoriaの姉妹で、Braccianoの使用人であるFlaminioはこの二人の密会を手伝っていて(チョーサーのパンダルスの役割)、一種の女衒(英語で”pander”)の役割を果たす。彼らは二人の恋路の邪魔になるIsabellaとCamilloの二人の邪魔者を殺害する計画を立てる。
 Isabellaがローマの宮廷にやってくる。彼女の兄弟FranciscoとMonticelso枢機卿はVittoriaとBranccianoの不貞の噂を聞きつけて激怒する。しかし、Isabellaは自分と夫の結婚の失敗の責任を引き受けて、宮廷を去る。FlaminioとBraccianoは医者のDr Julioを使ってIsabellaを毒殺する。また、酔ったうえでの喧嘩を利用して、FlaminioはCamilloを殺害させる。
 Vittoriaは夫を殺害した濡れ衣で裁判にかけられ、Monticelso枢機卿に激しく糾弾される。彼女は、売春婦を収容する施設に送られる。BraccianoとFlaminioはパデュアに逃れ、そこでVittoriaと落ち合って結婚する計画だ。追放されていたLodovicoがローマにもどってきて、Franciscoに亡くなったIsabellaを愛していたことを告白する。ふたりは、Isabellaの死の復讐を誓う。
 Monticelsoは教皇に選ばれ、BranccianoとVittoriaの破門宣告を下す。そのふたりはパデュアに逃れるがLodovicoが彼らを追っていく・・・。(英語のプログラムより)

この劇の前日に見た“The Roaring Girl”同様、ジェンダーを強く意識した演出。また、男装のMoll Cutpurseを思い出させるかのように、Flaminioは原作の男性ではなく、女性に変えられていた。Vittoriaは夫を裏切る妻ではあるが、彼女の裁判での反論や殺される前の台詞はたいへん力強い居直りぶりで、女の底力を見せつける。彼女のアモラルな強さを強調したKirsty Bushellの演技が素晴らしい。また、マリアのように貞淑で、夫の罪まで引き受けるIsabellaも毒を盛られて殺害される前には、やさしいだけではない芯の強さを見せる。逆に言うと、彼らを辱め、苦しめる男たちの家父長的な女性への偏見、女嫌い(ミソジニー)の激しさもくっきりと描かれる。とりわけ、キリスト教会の権威的で教条的な男性中心主義と保守的倫理観はMonticelso枢機卿によく体現されている。こういうところは非常に現代的であり、むしろ南アジアやイスラム諸国、そして現代の日本にぴったり当てはまる。Monticelsoみたいな化け物、今でも日本の男の中にも結構いる。彼とVittoriaが対決する裁判のシーンはこの劇の白眉であり、帰国したらまたテキストでじっくり読み返したい。

Monticelso枢機卿(のちに教皇)が宗教裁判所で姦婦Vittoriaを裁くので分かるように、非常にキリスト教的な伏線が濃い劇だ。Vittoriaはいわば旧約聖書のイブを象徴しているとも見れるだろう。夫の姦通まで自分の責任とする貞淑なIsabellaは生身のマリア。ふたりは家父長的男性社会が女性に与えた二つのイメージであり、現実の生身の女性とは離れた男性の罪の意識、願望/欲望の化身でもある。Monticelsoに典型的に示される家父長的モラルの男性達は、女性が自らの肉体や欲望を蔑み、自らを男性の支配に従順に従うだけの存在におとしめることを要求しているかのようである。

原作では男の女衒的な役であるFlaminioを、Vittoriaの「妹」に変えてしまったのは、どういう意図なんだろうか?男たちが寄ってたかって、Isabellaを苦しめる、それも兄弟に至るまで、という構図は、Flaminioを女にすることで、文字通り一役分薄められた。しかし、同じ女同士までも家父長的な権力構造に組み込まれて動かされる、という新しい視点は感じる。女も、Flaminioみたいに仕事をしていれば、自分のジェンダーを押し隠し、同性も犠牲にせざるを得ない、という構図の極端な形かもしれない。Flaminioの台詞には、せっかく大学を出て貴族Braccianoの家中に就職したが、全く何の財も築けず(キャリアにならず)、貧乏なままだ、というような嘆きがあったが、彼女の上昇志向が、姉妹さえ売り飛ばすという行為に走らせたとも言えるだろう。キャリア志向の女性が他の女性を貶めたり、蹴落とすことを強いられるという構図か。更に演出家はもうひとひねりを加える。即ち、このFlaminioを演じる長身で短髪のLaura Elphinstoneは、男装した女性として宝塚のスマートな男役のようにこの役を演じ、また原作にはないことだが、Flaminioには女性の恋人がいるように演じられているので、レズビアンということだろう。ジェンダーの境界を限りなくあいまいにした配役と役作りである。女衒という役回りに、そういう中性的、あるいはその時に応じて男にも女にもカメレオンのように変化できる人物を充てるのは上手いアイデアだ。

FlaminioはVittoriaとBraccianoという主人公たちを罪に陥れる悪魔の手先である。だとすると、演出家は、背が高く、くねくねとした肢体を持ち、黒い衣装に身を包んだElphinstoneを、アダムとイブをそそのかした蛇のイメージに重ねているのかもしれない。中世の絵画における蛇は、時に男、時に女の顔を持って描かれ、ジェンダーが定まらないのも、Flaminioと共通する。

この劇のステージを黒々とした色調の陰鬱なデザインでまとめることもできるだろうが、Naomi Dawsonのデザインはその逆で、基本的にまぶしいばかりの白々とした光線とシンプルな背景が特徴だ。まさに、The WHITE Devilである。地獄に落ちる前のルシファーと家来の堕天使達がまぶしい黄金の光に包まれていたことを思い出させる。ローマ・カトリック教会の本山、金色の僧服や装飾に輝くキリスト教の中心から、まさに地獄に転げ落ちようとしている人々のドラマ。

最後にこの劇を象徴するような印象的なFlaminioの台詞を一行:

“Of all deaths, the violent death is best.” (Act V, Scene II)

2014/08/27

"The Roaring Girl" (The Swan Theatre, RSC, 2014.8.21)

英語がむつかしくて、ちんぷんかんぷん

劇場:The Swan Theatre, The Royal Shakespeare Company
2014.8.21  19:30-22:30 (含む, 1 interval)

脚本:Thomas Middleton & Thomas Dekker
演出:Jo Davies
デザイン:Naomi Dawson
照明:Anna Watson
音楽と音響:Simon Baker
衣装:Janet Bench

配役:
Mol Cutpurse (the Roaring Girl): Lisa Dillon
Laxton: Keir Charles
Mary Fitzallard : Faye Castelow
Mr Gallipot: Timothy Speyer
Mistress Gallipot: Lizzie Hopley
Sir Alexander Wengrave: David Rintoul
Jack Dapper: Ian Bonar
Sebastian Wengrave: Joe Bannister
Mistress Tiltyard: Liz Crowther
Geoffrey Greshwater: Ralph Trapdoor

今回、ストラットフォードに行ったのは、20年来お付き合いのある老婦人にお会いするためであったが、せっかくだからとRSCで3本の劇を見ることにした。特に2本はジェイムズ朝の劇であまり見られないということもあり、切符を購入した。しかし、ストラットフォードに行く前から疲れがひどく溜まっていて、劇の間中うとうとしてしまい、特にこの”The Roaring Girl”は期待していたのに、セリフがわからず、ちんぷんかんぷんのまま3時間終わってしまった。したがってまともに感想も書けない。但、見た記録として、パンフレットに沿って、配役や粗筋は書いておくこととした。シェイクスピアだと、日本語で見たり読んだりしているので、大筋は理解できるのだが、私の英語力では、初めて接する古い劇の場合、出発前に、せめて日本語ででもテキストを読んでおかないといけない、と大いに反省している。わかっているのだけどねえ・・・。

(粗筋)Sebastian WengraveはMary Fitzallardと結婚しようと目論んでいるが、彼の父のSi Alexanderは大反対。そこで、Sebastianは一計をめぐらせる。つまり、悪名高き男装の女スリ、Moll Cutpurseと恋仲になったと父親に思わせて、父が「それならMary Fitzallardのほうがずっとまし」と思うように仕向けようという企みだ。
 一方、Sebastianの伊達男の遊び仲間達(The Gallants)は、現代の能天気のプレイボーイみたいに、盛り場の店に集まり、最新流行の服を試したり、店主を冷やかしたり、お店の奥さんをからかったりしている。中でも、この軽薄な若者たちのひとりのLaxtonは、タバコ屋の奥さんのMrs Gallipotを誘惑してお金をせしめようと企んでいる。しかし、その裏で、彼はMollに魅力を感じて近づこうとする。MollはLaxtonが女性を売春婦みたいに軽く見ていることに憤り、彼と激しく敵対する。
 Sebastianの計画通り、Sir Alexanderは息子が女スリと結婚したら大変、と大慌て。そうなるのを防ぐためにRalph Trapdoorというチンピラを雇って、Mollに近づかせて彼女の様子を彼に報告させようとする。Ralph Trapdoorの報告に基づいて、Sir AlexanderはMollの目の前に高価なダイヤモンドの指輪や腕時計を盗みやすいように置いておき、彼女がそれらを盗もうとしたところを現行犯で捕まえる、という作戦を考える。
 しかし、MollはTrapdoorの様子がおかしいと疑惑を持つようになり、Sir Alexの計略は彼が思うようには進まない・・・。

というようなストーリー。この大筋はパンフレットで読んでいたのだが、これはコメディーで結構笑えるシーンが多いようなのに、英語がむつかしくてちっとも笑えない。それからSebastianとSir Alexの行動は大体フォローできたが、Laxtonの行動や台詞はさっぱりで、彼が何を言ったりしたりしているのかは、さっぱりわからずじまいだった。劇場が笑いに包まれているときに、ちんぷんかんぷんで苦笑いは、一層悔しいな。

モダンなプロダクションになっているが、現代ではなく、ビクトリア朝のセットとコスチュームらしい。Mollはたいへんたくましい男装の女性として描かれるだけでなく、「女は根は皆売春婦」と言わんばかりの男達の偏見にさらされることをひどく憤っているようだ。よくわからないながらも、テキストにある以上に、Mollの強さ、たくましさ、そして女性としての誇りを強調した演出のように感じたがどうだろうか。そうした演出意図にLisa Dillonは精一杯答えていたが、いささか小柄な俳優で、一生懸命肩をいからせている感じはした。Mistress Gallipot、Mary Fitzallardなど、他の女性たちも活き活きと演じられていて、女性のたくましさを称賛する劇という感じは出ていた。

商店のシーンはとても明るくて、ビクトリア朝のショッピングモールみたいな感じだった。私の好みとしては、滅多に上演されない(おそらく私は2度とステージでは見られない)劇だから、やはりジェイムズ朝劇らしいオーセンティックなコスチュームとセットで演じてもらって、17世紀初めのロンドンの猥雑な雰囲気を嗅いで見たかったな。

2014/08/18

“Holy Warriors” (Shakespeare’s Globe, 2014.8.17)

劇場:Shakespeare’s Globe
2014.8.16  19:30-21:50 (1 interval)

☆☆☆/5

演出:James Dacre
脚本:David Eldridge
デザイン:Mike Britton
作曲:Elena Langer

配役:
King Richard the Lion-heart: John Hopkins
Eleanor of Aquitaine: Geraldine Alexander
King Philip of France / Lawrence & other roles: Jolyon Coy
Saladin / Begin: Alexander Siddig
Hugh of Burgundy / Blair & other roles: Philip Correia
Reynald of Chatillon / Carter & other roles: Ignatius Anthony
Conrad of Montferrat & other roles: Peter Bankolé
Reymond of Tripoli / Bush & other roles: Paul Hamilton
Gerald of Ridefort / Napoleon & other roles: Sean Jackson
Balian / Ben Grion & other roles: Sean Murray
King Guy of Jerusalem / Weizmann & other roles: Daniel Rabin
Queen Sibylla / Berengaria of Navarre / Golda Meir: Sirine Saba
Az-Zahir / Faisal & other roles: Satya Bhabha
Imad al-Din  & other roles: Kammy Darweish
Al-Afdal / Sadat: Jonathan Bonnici

第3次十字軍を描いたディヴィッド・エルドリッジのオリジナル歴史劇。十字軍と20世紀の中東紛争を絡ませて、中世と現代の二つの時代を比較して西欧と中東イスラム世界の関係の共通点を考えさせようとしている。極めて意欲的で、スケールの大きな作品。中世史に興味のある私には参考になったし面白かったが、演劇としては、歴史の大きな流れを何とか辿るだけで精一杯で、演劇作品としての緊張感や盛り上がりには欠けていた。また、ナショナルのオリヴィエ・シアターなどならもっと面白くできたと思うが、グローブ座という劇場が持つ物理的な制限も大きい。

第3次十字軍は、英仏の王侯貴族が中心になって行われ、イングランドからはリチャード獅子心王が参加した。エルサレムは第1次十字軍によりキリスト教徒の手に下ったが、この時までにはイスラムの英雄サラディンによって奪回されていた。第3次は、そのエルサレムを再度西ヨーロッパのキリスト教徒が奪い取ることをもくろんだ遠征だった。西側は、アクレ(Acre)などパレスチナの重要拠点を落としていくが、フランスやバーガンディーの貴族が徐々に退却し、リチャード王は結局エルサレム攻略を諦め、サラディンと講和を結んで帰国の途に就く。しかし、その帰国の途上、フランスで病死する。劇の前半では、この第3次十字軍の顛末を描く。後半では亡くなったリチャードの魂が遠征を振り返る。その間に挟まれるのは、20世紀の中東紛争の流れ。シオニストのパレスチナ移住からイスラエルの建国、繰り返されるパレスチナ紛争などを、ロレンス、ワイツマン、ベン・グリオン、ビギン、サダト、カーター、ブッシュ、ブレア―、その他数多くの主要人物とともに辿りつつ、それを十字軍と重ね合わせる。これだけのことを2時間ちょっとの劇に収めるのだから、意欲は素晴らしいが、かなり駆け足になり、無理があった。一種の年代記劇としての意義を感じるが、特定の戦いなり事件なりに焦点を合わせて、中世と現代の通底音を探ってみてはどうかと思った。あるいは、前半のストレートな歴史劇を、もっと人物を掘り下げて2時間以上で描けたのではないだろうか。

題材を考えると、男ばかりの戦記ものになっても不思議ではないのだが、男たちの戦いに翻弄される王侯貴族の女性たちに、セリフを多く割り当ててあったのには好感が持てる。特に西欧の中世史においてもっとも重要な人物であるアキテーヌのアリエノールはリチャードに大きな影響を与えた人物として、たくさんの台詞が振られていた。

内面をじっくり掘り下げるような台詞やシーンに乏しくて、残念ながら俳優の実力を十分に発揮できる場面は少ないと思った。シーンによっては、ドラマティック・リーディングみたいな感じになっていた。シェイクスピア時代の作品みたいに韻文であったなら、まったく違った印象になっただろうけれど・・・。

セットはグローブ座であるから工夫はむつかしいのだが、それでもできるだけの事をやっていた。張り出しステージの上にさらに一段高くなった大きな円形のステージを作って、主にその上で演技が行われる。中世劇で時折見られる円形舞台を意識しているのだろうか。ステージ上方の張り出し屋根からは巨大な香炉が下がり、そこから劇場中にお香の香りが流れていたのは雰囲気を作るうえで効果的だった。また、劇の始まりでは、数多くの蝋燭がステージに置かれ、まるでラテン典礼劇のように、修道士の衣装を着た人々が賛美歌らしき歌を歌いつつ行進(procession)をして、劇のトーンを定める。やはり天井からは、大聖堂のように巨大な十字架がロープ(チェーン?)で吊るされていて、ステージで描かれる事件に応じて垂直に近く起こされたり、逆に横に寝かされたりしているのも面白い。細かく注意していなかったが、十字軍の戦況の良し悪しを表しているのだろうか。こうしてみると、少なくともデザイン担当のMike Brittonは中世演劇、特に教会内で行われた典礼劇の上演空間を念頭に置いているように思えた。但、そうだとすれば、演技や台詞の発話も儀式的というか、様式的にすると面白かったと思う。

登場人物と言及される歴史的事件が多いので、中東紛争や十字軍の知識が乏しい人(私もそうだが)には劇の大体の流れを追うのさえ困難と思う。私は脚本を買っておいたので、それを時々のぞいて、その時にしゃべっているのは誰か大体確認できただけも随分助かった。でなければ、全くちんぷんかんぷんのまま終わったかもしれない。

私は、十字軍については、中世史のひとつの事件として、通史の本の記述で読んだくらいなので、ちゃんとした専門家による『十字軍の歴史』みたいな本を一冊ちゃんと読まなきゃと思った。

2014/08/16

“1984” (Playhouse Theatre, 2014.8.15)


劇場:Playhouse Theatre, London
2014.8.15  19:30-21:10 (no interval)

☆☆☆☆/5

An Almeida Theatre, Headlong Theatre & Nottingham Playhouse co-production

演出、脚色:Robert Icke & Duncan Macmillan
デザイン:Chloe Lamford
照明:Natasha Chivers
音響:Tom Bibbons
ビデオ・デザイン:Tim Reid

配役:
Winston: Sam Crane
Julia: Hara Yamas
O’Brien (an interrogator): Tim Dutton

“1984”というと、私にはマイケル・ラドフォードが演出し、ジョン・ハートとリチャード・バートンが出演した傑作映画のイメージが強い。SFの世界を描くには、より制約の少ないメディアであるフィルムの方がやり易いだろう。しかし、この舞台は、生の舞台の特色、感覚に直接訴える説得力を活かした、力強い公演で、1時間半強の短さにも関わらず、十分満足できた。

最初、原作にはないフレームワークで始まるので、それでなくても英語の理解に難がある私は何が起こっているか分からなかったのだが、数人の人達が本を読みつつ話し合っている。一種の読書会か、ブッククラブのような雰囲気。劇が終わる時も同じようなシーンになったのでやっと合点がいったが、1984年から約100年後の人々が(歴史家?一般読者?ブッククラブ?)、すでに忘れ去られたオーウェルの作品を再発見して、その意味を語り合っているシーンらしい。

そのシーンがやがて平凡な役所のシーンと転じ、ウィンストンや彼の同僚がおなじみの、単調な、完全にビッグ・ブラザーに管理された毎日を過ごしているのが描かれる。この辺りはやや退屈で、うとうと・・・。ウィンストンとジュリアの密会のあたりは、もっと生々しいエネルギーが欲しい気がした。しかしその一方で、ウィンストンが自分の感情を明確にできず、彼の人間性がなかなか開花しないことを的確に表現しているのかもしれないとも思える。このあたりでは、舞台の上方に大きなスクリーンを作り、そこに舞台の背後で起こっていることをビデオで映して見せる。これは私の好みを言えば観客の注意を分散させて、説得力を薄めていると思う。せっかくのライブ・シアターなんだから、なるべく舞台上のアクションに集中できるような演出にしてほしい。

後半、ウィンストンとジュリアが逮捕されるシーンからは、一気にボルテージが上がる。ステージは床も壁も天井もすべて白一色で、強い照明で照らされて観客も目がくらむ程。そこでは、尋問をする役人、オブライエンが、単調かつ冷徹な声音でウィンストンを責めたてる。ウィンストンのまわりには、オブライエンの手足となって動く数人の拷問者がいるが、まるで新型インフルエンザかエボラ熱患者の看護人みたいな、真っ白な服に顔全体を覆うマスクという異様ないでたち。ウィンストンは爪をはがされたり、歯を抜かれたりといった、言わば古典的な拷問にさらされ、最後には激しい電気ショックを科せられる。このシーンは、生のステージの迫力が凄い。こうして、ウィンストンは取り戻した人間性を再び失っていく。

最後はエピローグとしてまた最初のブック・クラブらしいシーンに逆戻り。2084年の人々はオーウェルの作品がよく理解できないらしい。未来の人々はすでにあまりにも真っ白に洗脳されていて、オーウェルの描く恐ろしささえ感じないのだろうか。ウィンストンの世界と同様、世界中で常時進行中の戦争(イラク、ガザ、アフガニスタン、ウクライナ・・・)、秘密保護法、対テロ法等の情報管理と個人の権利の制限―1984年から20年が過ぎた今、現代世界はオーウェルがフィクションで構想したのと同じくらいか、あるいは一層悪くなっているかもしれない。2084年には私は生きていないが、考えると恐ろしい。

主な俳優3人は共に説得力ある演技だった。特に、尋問官オブライエンを演じたTim Duttonが強い印象を残した。後半の尋問室のセットと照明も、このプロダクションの大きな強みだろう。



2014/08/15

古今のSheep Rustling(家畜泥棒)

前回のエントリーでロンドンでの観劇を取り上げたので分かるようにイギリスに来ている。私はこちらに来ると、大抵時差ボケと出発前の疲れのため胃腸の調子が悪くなり、特に最初の一週間くらいは最低の体調となる。出かけるとふらふらするし、突然胃腸が痛くなったりするので宿舎で寝たり起きたりしていることが多い。そんな具合だからテレビのニュースをよく見ていると、昨日からBBCではイギリスの農民が盗難被害にあっていることを繰り返し報道している

同様の盗難は日本でも頻発していて、イギリスに来る前にも豚が一度に何十頭も盗まれたというニュースをテレビで見た。家畜以外にも、野菜や穀物、農薬、そしてとくにトラクターなどの高価な農業用の車両や機械が狙われているようだ。

さて、東西におけるこのニュースは大変嘆かわしいが、それを伝える"sheep rusling"という表現は知らなかった。rusltle とは葉とか衣類がサラサラ音をたてることを表現する言葉だが、ここでは「家畜を盗む」という意味で使われている。この語には、「さっさと動く」「せっせと活動する」「努力して集める」というような意味があり、それらから派生した意味なのだろう。なるべく音を立てないで、こっそり、しかし急いで家畜を追い立てて盗んだりすることからできた用法かしら、なんて想像する。比較的新しい用法で、この意味での『オックスフォード英語辞典』(OED) の初出は1886年のテキサス州の上訴審裁判所の法廷記録からの例:

He and Turner...went to Coppinger's pasture, intending to kill the negro Frank, and ‘rustle’ six head of fat cattle, then in Coppinger's pasture. (Texas Court of Appeals Rep. 20 408)

家畜泥棒なんて、如何にもアメリカ、それもテキサス州で頻発しそうな事件だ。

さて、"sheep rusling"について私が思い出すことというと、タウンリー・サイクル(別名、ウェイクフィールド・サイクル)の聖史劇の「第二の羊飼い劇」(The Second Shepherds' Play) に描かれる羊泥棒。このエピソードはキリストの生誕を描くクリスマス劇で、マックという農民が羊飼い達から一頭の子羊を盗み、自分の子供と見せかせて揺りかごの中に隠すが、捜しに来た羊飼いたちに見つかってしまう。キリストを子羊に例える(やがて磔刑になるキリストは贖罪の捧げものの羊)ことを巧みに利用した傑作であり、英語の聖史劇の中でも、おそらく最もよく知られた作品だ。

中世イングランドに関してもうひとつ思い出されるのは、『パストン家書簡集』(The Paston Letters)における家畜泥棒。パストン家は、15世紀、バラ戦争の前後に中部イースト・アングリア地方で大きな勢力を持っていたジェントリ階級の一族。彼らの手紙の中で、家畜の奪い合いがしばしば述べられている。パストン家の人々は長年近隣の有力者たちと土地や不動産をめぐって争いを繰り広げるが、その際、係争中の土地に住んでいる農民から無理矢理年貢を徴収したり、家畜を奪い取ったりするのが常套手段なのである。二つの家の勢力争いのとばっちりを食っている農民にとっては耐え難い迷惑だったことだろう。パストン家の女主人マーガレットが1465年5月20日に夫のジョン(一世)に宛てた手紙によると、ドレイトンという荘園の賃貸料や小作料の一種の抵当として牛を77頭も奪っていったとある(J &  F ギース『中世ヨーロッパの家族』("A Medieval Family: The Pastons of Fifteenth-century England")三好基好訳(講談社学術文庫)p. 222)。古い英語を読んでみたいという方に、原文の抜粋:

Please it you to wyte that on Satour-day last youre seruauntys Naunton, Wykys, and othere were at Drayton and there toke a dystresse for the rent and ferm that was to pay, to the nombere of lxxvij nete, and so broght them hom to Hayllesdon and put hem in the pynfold, and so kept hem styll there from the seyd Satour-day mornyng in-to Monday at iij at clok at aftere-non.   出典はこちら。

現代英語の綴りに直すとこうなる:

Please it you to wit (know) that on Saturday last your servants Naunton, Wykes, and others were at Drayton and there took a distress for the rent and farm that was to pay, to the number of lxxvii net, and so brought them home to Haylesdon and put them in the pinfold, and so kept them still there from the said Saturday morning into Monday at iii at clock at afternoon.

"rent and farm"は地代、"distress"は現代でも使われる法律用語で、差し押さえ動産、"pinfold"は家畜を入れる囲いのこと。

2014/08/14

"Richard III" (Trafalgar Studio, 2014.8.13)

主演俳優が休演でがっかり

☆☆ / 5

劇場:Trafalgar Studio, Studio One
2014.8.13  19:30-21:50 (含む, 1 interval)

演出:Jamie Lloyd
デザイン:Soutra Gilmour
照明:Charles Balfour
音楽と音響:Ben and Max Ringham

配役:
Richard III: Philip Cumbus (understudy)
King Edward IV / Bishop of Ely: Paul McEwan
Buckingham: Jo Stone-Fewings
Stanley: Paul Leonard
Hastings: Forbes Masson
Clarence / Lord Mayor: Mark Meadows
Catesby: Gerald Kyd
Tyrrel: Simon Coombs
Richmonnd: Joshua Lacey
Queen Margaret: Maggie Steed
Lady Anne: Lauren O'Neil
Queen Elizabeth: Gena McKee
Duchess of York: Gabrielle Lloyd


この公演、ジェイミー・ロイドという若い売れっ子の演出家が演出していることもひとつの注目点だが、なんといっても、BBCの『シャーロック』でワトソンを演じるマーティン・フリーマンが主役のリチャードを演じて、人気を集めている。切符はほぼ売り切れだろう。ところが、昨日はそのフリーマンが体調不良でお休み。私はフリーマンのファンではないので、彼を見られなくても構わないが、突然出演することになる代役(アンダースタディー)は、如何に上手い人でもセリフを間違わずに無難にこなせれば上出来であり、最初からその役を受けて稽古を重ねている役者の演技とは比べ物にならないし、演出家の意図を十分に表現できるはずもない。今回、リチャードの役はPhilip Cumbusという若い俳優がやったが、セリフは全く間違えず、アンダースタディーの責任を見事に果たした。しかし、個性の乏しい教科書的な演技で(無理もない!)、脇役よりも目立たないほどであり、ガッカリした。時差ボケもあって、本当に眠り込むことはなかったが、終始かなり眠かった。 もちろん、俳優も病気になるし、休む時があるのも仕方ない。これもライブ・シアターの特性だからねえ・・・。

現代のセッティングだが、ブラウン管テレビやマニュアルのタイプライターがあったり、古めかしいデザインの固定電話が置いてあり、衣装から見ても、1970年代前後を意図しているのだろうか。次々と変わる指導者、政治の変転、背後で常に進行する権力闘争、といったこの劇と現代政治の共通点を意識させようという演出だろうか。しかし、特定の国際情勢とか独裁者に結び付けるようなモチーフは見当たらず、その他でも特に新鮮さは感じられなかった。

ステージは、舞台の奥にひな壇のような観客席を追加して、演技する場所を前後からはさむような形にしている。ステージ上には、大きな長い机を2つ置き、その前に数脚づつ事務用椅子が置かれている。つまり会議室のような風景。王の椅子だけがやや大きくて肘掛がついているが、玉座と言えるようなものではない。現代の政府で閣議が行われる部屋、というところだろう。このセットはインターバルの後も全く変わらない。

特に奇抜なところのない、オーソドックスな演出だと思う。それだけに俳優の演技が重要と思うが、主演俳優の休演で、気の抜けた公演になってしまった。フリーマンが出ていたら、全く違った感想になったかもしれない。また、実質2時間半程度にカットされているせいだろうか、マーガレットやエリザベスなどの魅力的な女性の出番がいま一つ目立たないのが残念だった。但、私の好きな女優であるGena McKeeには満足。BuckinghamのJo Stone-Fewingsは印象に残ったが、残りの貴族の男性たちは、十分に特徴が出ていなかった気がする。ケイツビーやティレルもさほど凄みはない。リッチモンド役は元々は、今回主役をやったPhilip Cumbusがやっていたので、アンダースタディで、これも影が薄かった。やや驚いたのは、リチャードが自らLady Anneを殺したこと。

2014/07/10

NHKハートネットTV「曖昧な喪失の中で ―福島 増える震災関連自殺―」

7月7日火曜日に放送されたNHKハートネットTV「曖昧な喪失の中で ―福島 増える震災関連自殺―」を録画しておいて、今日10日に見た。タイトル通り、福島県で震災関連自殺が増え続けているが、その背景や、具体的に亡くなられたある男性のケースを報告している。今回はスタジオ・ゲストの話などはなく、一種のドキュメンタリー番組となっている。 

番組ホームページから引用すると: 

「内閣府自殺対策推進室による統計『東日本大震災に関連する自殺者数』によれば、福島県の自殺者数は、2011年が10人、12年が13人、13年が23人。同じ被災県、岩手、宮城と比較しても、福島県の増加傾向は顕著です。」 

今年もこの放送までの震災関連自殺者は、岩手、宮城での各1人に対し、福島では6人。岩手、宮城では、11、12、13年と後になるにつれて自殺者数は顕著に減少しているのに、福島は上記の様に増え続けている。明らかに、原発事故による放射能汚染、失われ帰還することの出来ない故郷、そしていつ終わるとも知れない避難生活、全く見えない将来、等々の要因が、福島だけ自殺者が増え続けている理由だろう。更に、地域で治療にあたる精神科医の先生によると、放射能汚染の避難に伴って、時間が経つにつれて問題が複合化し多岐にわたるようになり、一層避難者を苦しめているようだ。例えば、避難者の子供が新しい環境になじめずいじめにあったり、経済的な問題、職の問題、親の介護なども生じる。今回番組が取り上げられた自殺者、五十崎喜一さんのケースでも、彼の母親が避難生活の中で認知症になり、徘徊が始まったことで、息子さんを追い詰めた面もあるらしい。また、彼は原発事故前は、その福島原発で働いていたそうだ。だからこそ、奥様によると、一旦事故が起きたら収束は極めて難しいことを自分自身良く分かっていたので、一層絶望されたのかも知れない。 

番組の紹介ページ 
再放送は15日火曜日午後1時5分。 

国民の注意を故意にこの不都合な現実から逸らすかのような自民・公明政権の集団的自衛権への深入り。新聞やテレビを埋め尽くす安全保障問題や中韓との対立、オリンピック招致やワールドカップの狂騒・・・故郷から遠く離れてひっそりと暮らす避難民や、雨漏りしカビだらけの狭くて不健康な仮設住宅で、進む老いと向き合う老人達は、どう感じておられるだろうか。

2014/07/08

NHK「プロフェッショナル仕事の流儀:地域の絆で、“無縁”を包む」

7月7日(月)のNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」は「地域の絆で、“無縁”を包む」と題して、豊中市社会福祉協議会のコミュニティ・ソーシャルワーカー・勝部麗子さんを取り上げた。その仕事ぶりがドラマ『サイレント・プア』の主人公のモデルとなった方である。ひとりひとりの困窮者、ひきこもりの方などに細かく暖かい目を注ぎつつ、各種行政サービス・NGO・近隣住民との橋渡しをする。同僚を指導し、公務員とてきぱきと交渉する実務家の顔と、困窮者と共に涙を流す人情家の顔を併せ持つ人。ドラマ『サイレント・プア』が単なる作り話でなく、本当にこの人の日々の活動を元に作られていると感じられた。所謂「ゴミ屋敷」を、孤立していた本人を説得し、近所の住民も動かして一緒に手を携えて片付けるのは、『サイレント・プア』の第1回と同じだった。

21世紀に最も必要とされている日本人の姿だと思う。再放送は10日木曜深夜(日付が変わって金曜早朝)。

2014/07/04

NHK ハートネットTV「シリーズ 施設で育った私」

NHK Eテレ、「ハートネットTV」、今週火〜木曜日(7月1〜3日)は「シリーズ、施設で育った私」だった(再放送は8〜10日午後1:05より)。

最近、テレビの定時ニュース番組をあまり見なくなった。首相と副首相、官房長官の顔を見たり声を聞いたりすると気が滅入るから(固有名詞を自分のブログに書きたくないほど)。と言うわけで、その代わりに必ず見るのが(というか、以前から良く見てはいたが)、Eテレの「ハートネットTV」。食事を食べたり作ったりする時間に重なるので、録画して見る時も多いし、再放送で繰り返し見ることも時々ある。福祉の番組だが、しばしば他のドキュメンタリーではかなわない現場密着のミクロの視点で、貧困や差別、障害者やマイノリティー、外国人などに関する諸問題を取り上げる。今日本のテレビで私が最も良い印象を持っている番組。又、老人になりつつある私自身にとっては、介護のテーマが取り上げられる時も大いに参考になる。司会の山田賢治キャスターの語り口も暖かく、また、ゲストの人選も、学問的な専門家、現場で仕事をしている施設職員やNGO管理者、そして関心を持っているタレントなどを上手く組み合わせて、親しみやすく、かつ実際的にする工夫が見える。

さて今回は、虐待や貧困、育児放棄などで、施設で成長することを強いられた若者の自立の難しさを追ったシリーズ。いつもながら、福祉や教育の谷間を照射する大変良いシリーズだった。親に捨てられたり死に別れたりして精神的にトラウマを抱える難しい子供達。しかし、法令上は18歳で大人と見なされ、児童養護施設などから放り出される。外の世界に出された彼らを待っているのは、ホームレス、空腹からの窃盗と刑務所行き、女性の場合の売春や風俗産業、といった救いようのない状態(もちろん、そうならない人も沢山いるだろうけど)。大学進学も難しく、また社会人になっても貧困にあえぐ。そもそも、ちゃんとした家庭の子でも、ほとんどは、18歳ですぐに国民健康保険に入るとか、光熱費を手配するとか、部屋を借りるとか、収支を考えて支出し、健康な食生活をするなど出来ないだろう。ましてこの子達は破壊的な家庭環境を経ているわけだから。

希望を持てる事例を中心に紹介しつつ、懸命に努力する現場の職員、NGO、地域の篤志家などの奮闘を追っている。こういう番組を見ると、地域の中小企業の良心的な経営者が、施設出身の子とか、精神障害者、犯罪歴のある人など、他で嫌がるような若者の雇用に大きな役割を果たしてくれているのをつくづく感じる。地方自治体も場所や問題によって、色々と施策を試みている。しかし、国をあげての取り組みのあまりに薄いことには愕然とする。今日も今日とて、首相肝いりの教育再生会議とかいうところで学校教育の枠組みを変える事を発表していたが、そんなことより、こういう風に社会の片隅で親に捨てられたりして苦しむ若者の為に、国家全体で一定のサービスを提供できるようにお金を使って欲しいと切に思った。軍備にお金をかけている余裕はない。

私は歳を取れば取るほど、保守もリベラルも天下国家を論じるエリート政治家・学者・財界人が信用出来なくなってきた。国の進む方向を考える人達は、勿論マクロの視点で社会を考えることが必要だが、その際まずは社会の底辺(他の適当な言葉が見つからず恐縮です)で日々の生活に格闘している人々、そういう人達を支えようとしている末端のNGOや公務員、施設の職員などの目線を併せ持って、政策と税金の使い道を考えて欲しいものだ。


2014/06/11

『錬金術師』(東京芸術劇場シアターウエスト、2014.6.1)

『錬金術師』 

演劇集団「円」公演
観劇日: 2014.6.1   14:00-16:10
劇場: 東京芸術劇場シアター・ウエスト

演出: 鈴木勝秀
原作: ベン・ジョンソン
翻訳: 安西徹雄
美術: 二村周作
衣装: 西原梨恵
照明: 倉本泰史
音響: 井上正弘


☆☆☆☆☆/ 5

私には珍しく2日続けて観劇。『テンペスト』でかなり落胆したのだが、こっちが後で良かった!日本人でもこれだけ上手く英国ルネサンス劇がやれるんだ、というお手本みたいな舞台。無茶苦茶面白い。始まった途端に、ぐいぐい観客を引き込む橋爪、金田の演技力に仰天。

特に何の工夫もない小さな裸の舞台。劇が始まる前、ふたつのペンキを塗りたくったマネキンみたいな人形が舞台に置いてある。床にも、汚いペンキみたいなものがごてごて塗ってあった。私は、ルオーのドンキホーテの絵のイメージを借りてきたのかな、と想像したがどうだろう。近代初期ロンドンの猥雑なイメージを喚起するのは良かったかもしれない。劇の最初と最後にはこの公演のオリジナルと思われる口上がついていたが、不要な感じがした。特に最後はエピローグがちゃんとあるのに、更にそれに付け加えるような口上があって、しつこくなった。また、途中、インターバルが無くて、その代わりに主演役者を休ませるためだろうか、馬鹿馬鹿しいオリジナルのギャグというか漫才をいれてしまったのだが、知らない人が聞くとあれもジョンソン作と思われては困る。それに、その部分がちっとも面白くない。役者が休むためにはちゃんと休憩時間と取ってくれた方が良かったし、観客としても、結構集中を強いられる舞台なので、15分くらい真ん中で一息つきたい気がした。

ストーリーは細かく追うとかなりややこしいが、詰まるところはこれ: 

ロンドンでペストが大流行。大金持ちラブウィット(Lovewit)は自分の屋敷を執事のジェレミー、別名フェイス隊長 (Jeremy, or Captain Face)に任せて疎開する。その留守宅を存分に利用して、フェイスは、友人のペテン師サトル(Subtle)と売春婦のドル(Dol)とつるんで、次から次へと欲に目の眩んだ信じやすい連中を騙して金銀を巻き上げる。サトルは、錬金術師の博士を装い、今まさに新時代を切り開く真の錬金術を発見する瀬戸際という触れ込み(誰か思い出しません?)。今彼の技術に投資しておけば、それが何十倍かになって返ってくるという。この策にひっかかるのが、代書屋ダッパー(Dapper)だの、たばこ屋のおかみ、ドラッガー(Dragger、原作では男)、また既に金持ちなのに更に財産を増やしたいジェントリーのマンモン(Sir Epicure Mammon、注1)、新興宗教(原作では再洗礼派、Anabaptists)の神父達ホールサム(Wholesome)とアナニアス(Ananias)だの、田舎から出て来たカモの未亡人プライアント(Dame Pliant)と弟のカストリル(Kastril)といった、一癖も二癖もある個性豊かな綿々。これらの面白い輩が短時間の間に忙しく出たり入ったりし、ペテン師トリオは息つく暇もない。最後にはこうしたカモたちが鉢合わせしそうになって、時間と場所を上手くやりくりしつつ騙そうとする手管が面白い。結局、ペテン師3人組の方が、土壇場で、苦労していない奴にまんまと油揚をさらわれてしまうのだが・・・。フェイスやサトルのような小悪党は可愛いもので、大悪党はもっと上の奴ら、というわけだ。

ロンドンの巷にうごめくアクの強い輩は、『カンタベリー物語』の序歌を思わせる。人間の愚かさや欲望のある面を取り上げて誇張した性格付けは、ルネサンス劇において如何に道徳劇の伝統が綿々と息づいているかを証明しているし、そもそも、彼らの名前からして寓意的名前である。

この劇に出てくる職業で、代書屋とあるのは、英語では"clerk"。こういう下っ端の代書屋、事務官、司法書士、を兼ねたような連中が中世末から近代初期のロンドンにはかなりいて、私はとても興味を持っているので、その意味でも面白かった。それから、再洗礼派(anabaptists)のふたり。これはピューリタン急進派の一派(注2)。ピューリタンは演劇の廃止を叫んでいたので、ジョンソンの諷刺の舌鋒もこの二人には特に辛辣だ。また、プライアントとカストリルのようなロンドンに出て来たお上りさんをカモにして一儲けするというのは当時の文学で結構書かれたテーマで、ロバート・グリーンなど幾つかそういう散文を書いている。こういう一種の犯罪ものをエンターテインメントとして劇場で見るというのは、今なら大衆的なクライム・ノベルとかテレビの犯罪ドラマを見るのと似ているかと思う。フェイスやサトルみたいな連中は"cony-catcher"と呼んだようだ。"cony"とはウサギのことだが、日本語で言えばカモ。フォルスタッフと彼の仲間もこの手の連中の一種かな。

何もない舞台で、大変巧みに台詞を言っているだけなんだけど、途轍もなく面白い。円って、新劇臭い、お説教をたれるような「これが正しい演技です」というところが無くて良い。橋爪さんの個性かな。日頃テレビで軽く仕事をこなしているのが、かえってプラスになって、舞台に上がると溜まっているエネルギーを一気に放出して暴れまくるのか。要は緩急、強弱のつけ方と、間の取り方、タイミングなんだろうと思う。それを受ける金田も見事にキャッチボール。この2人が上手いと、他の俳優さんの演技も、橋爪キャプテンと金田似非博士に引きずられるように、見栄えが良くなる。特に、売春婦ドルを演じた朴璐美のすれっからしだが、憎めないところが良い。こんな上手くて素敵な女優があまり有名にもならずにいるなんて勿体ない!イギリス人俳優だったら、もっとエロチックになったところだろうが、日本人がやると可愛いらしい。橋爪、金田に匹敵する名演は、煙草屋のおかみドラッガーの谷川清美。欲深い中年女ぶりが、とても表情豊かで可笑しい。神父ホールサムの伊藤鐘一、アナイアスの戎哲史も役柄にぴったりの演技で印象に残る。

演劇集団円は30年以上前にジョンソンの作品を安西徹雄先生の訳・演出で、橋爪巧も出演して上演している。中谷昇も油がのっていた頃で、出演していたと思う。私は『錬金術師』は見ていないが、大変お世話になっていた大学の恩師に招待して貰って『ヴォルポーネ』を見ている。新宿3丁目あたりの円のスタジオでだったかなあ。この舞台が途轍もなく面白かった。舞台に天蓋付きのベッドがあり、その柱を橋爪さんがよじ登っていた記憶がある。貧乏大学院生だったので、チケット代は恩師が払って下さったと思う。今から思うと、色々お世話になったのに、その後、たまにしか連絡せず、本当に恩知らずな教え子で申し訳ない。またあの頃、既に故人になられたもう一人の恩師からも演劇に連れて行って貰った記憶がある。今演劇が好きなのも、この二先生のご親切のおかげである面も大きい。『ヴォルポーネ』の折は奥様と2人の息子さんも一緒で(当時は多分小学校低学年)、この2人もきゃっきゃとはしゃいでおもしろがっていたから、ジョンソンの戯曲と橋爪さん達は凄い!日本の劇団、劇場は『真夏の夜の夢』とか『リア王』ばかりやらず、たまにはジョンソンもやって欲しい。でも、このスピーディな劇を、タイミングをずらさず一気呵成にやれるのは、生半可な俳優にはできないな。

(注1)Mammonというのは聖書に出てくる悪の根源としての富。更に、物欲の神とか悪魔を表すようになった。

(注2)再洗礼派(Anabaptists)の流れは現代にも続き、その中でもメノナイト(Mennonites)やアーミッシュ(Armish)は良く知られている。メノナイトは広く世界で宣教活動をしており、日本にもかなりの信者がおられるようだ。

『テンペスト』(新国立劇場、2014.5.31)

『テンペスト』 


新国立劇場公演
観劇日: 2014.5.31   13:00-15:30(休憩含む)
劇場: 新国立劇場

演出: 白井晃
原作: ウィリアム・シェイクスピア
翻訳: 松岡和子
美術: 小竹信節
衣装: 勝柴次朗
照明: 井上正弘
音楽: mama!milk

☆☆☆ / 5

色々工夫があるプロダクションだったが、面白くない。新国立劇場はかなり予算もあり、広い人材を集められるから、こちらも期待するのだが、その期待には応えてくれなかった。

ヴィジュアル面で、小道具・大道具は贅沢。工夫は多い。エアリアルは車椅子で入場。障害に加え、足を固定されている感じで、謂わば足かせをはめられて、飛べないエアリアル。プロスペローの奴隷ということだろう。一度エアリエルは、つり上げられて「宙乗り」をするが、歌舞伎、あるいは、「エンジェルズ・イン・アメリカ」を思い出す。キャリバンの方は普通だった。嵐のシーンから舞台を無数の段ボール箱で一杯にし、それを動かしつつ嵐を表現。最初は新鮮だったが、それをそのままずっと舞台に置いて利用。その段ボールの中からは本が取り出され、舞台の脇にも本が積み上げられている。これが「プロスペローの本」というわけだ。最後にはその段ボールと本が片付けられる。大手書店かアマゾンの倉庫みたいな感じ。ヘルメットをかぶった男やエプロンをつけた女がそれらの箱を整理している。薄暗く、舞台裏、という印象。メルヘンチックなのどかな感じが醸し出されるが、それでかえって眠くなる。発想は面白いが、何だか地味過ぎ。箱の数は多すぎるし、色も、例えばピンクやグリーンや群青の箱がステージを一杯にしたら、なんて考えた。

後半、ミランダ達の結婚が近づくと、舞台は一気に明るくなってミラーボールの光が舞うダンスホールに早変わりする。「真夏の夜の夢」みたいだと思った。「テンペスト」って「真夏の夜の夢」に結構似ているな、と再確認。ここでやっと目が覚める思い。それまでずっと眠い。

上演時間が休憩を除くと正味2時間ちょっとくらいだろうか。シェイクスピア作品としてはあまりに短くないだろうか?部分的なシーンのカットではなく、台詞が全体的にかなりカットされていると思う。それで、台詞に含まれるあの素晴らしいシェイクスピアのイメージの世界がちっとも伝わらない。何だかとても言いやすいよう枝葉を取り除かれてしまっているようだ。これがつまらない事の最大の原因と思う。

演技陣、素人の私から見ても上手くない。多くの人が台詞の強弱や緩急に乏しく、やっと台詞を言っている感じを受ける。特に碓井将大のエアリエル、台詞を棒読みしている印象。古谷一行のプロスペローも単調だ。長谷川初範(アントーニオ)や羽場裕一(セバスチャン)などのベテランが脇役で出ていて、あまり目立たないが、活用されていない。若い恋人2人(高野志穂、伊礼彼方)は地味で魅力が乏しい。下手でももっとカリスマのある人を、と思った。キャリバン(河内大和)、トリンキュロー(野間口徹)、ステファノ(桜井章喜)の3バカトリオもまったく笑えない。段ボール箱の山の隙間からかくれんぼみたいに出たり入ったりするんだが、劇の筋を知らない人から見ると、なにやってるの?という感じじゃなかろうか。

俳優は皆、一生懸命やっているし、演出やデザイナーも色々工夫しているのだが、空回りという印象は否めない。やはり、台詞をカットしすぎたのだろう。またカットしないと上手く言えないのかもしれない。シェイクスピアの台詞は四方八方に植物が生い茂り絡まり合ったEnglish gardenが見せるような美しさで、日本語でも経験が非常に大事だと思う。歌舞伎ほどとは言わないが、400年以上前の作品だからたとえ翻訳でやるにしろ、俳優にも一定の訓練と作品への理解が必要だ。演出家自身も、どういう台詞回しをして欲しいか、しっかりしたヴィジョンが必要で、またプロダクション公演でも、それを実際に言えるような俳優を日頃から自分のチームとして集め、自分の考えを浸透させておく必要がある。そう考えると、日本のプロダクション公演で、レベルの高いシェイクスピアを期待するのは本当に難しいと改めて感じた。俳優も演出家も、少なくとも毎年シェイクスピアをやると良いと思うけど・・・。蜷川の場合、脇役にシェイクスピアを繰り返しやってきた俳優を揃えて、若い主役の足りないところを上手く補っているし、また、経験の乏しい俳優もベテランの演技から学びつつ稽古が出来ているだろうと推測するが、今回は上手く行ってないように思う。

2014/05/27

BBCドラマ“The Street” とティモシー・スポール

2006-2009年に放送されたBBCのドラマ・シリーズ"The Street"のボックスセットを昨年夏ロンドンで買ってきて、最近少しずつ見ている。第3シリーズまで、全部で18話あり、今は第2シリーズの2話(通しで言うと第8話)まで見終えた。全体を構想し監修しているのはJimmy McGovern。『心理探偵フィッツ』や"The Accused"(告発された人々)などの名脚本家。傑作との評判は聞いていたが、このドラマシリーズ、最高!下手な映画よりもずっと面白い。ワーキングクラスや、ミドルクラスでも慎ましい方(サービス業など)の普通のイギリス人の暮らし、悩み、葛藤が、センチメンタルにならずに、しかし実に暖かくヒューマンなタッチで描かれている。こんなシチュエーション、ありえない!と思えるようなエピソードもあるが、それもまたユーモラスで楽しい。しかし、貧困、家庭崩壊、犯罪、DV、親子の争い、麻薬、その他、イギリスの街角の至るところにある深刻な問題を真剣に、しかし温かい視線と一筋の希望を織り交ぜて描く。同じ作者の”The Accused”が私の最も好きなイギリスのドラマかなと思っていたが、”The Street”のほうが希望やユーモアもあって、幾らか気楽に見られ、より楽しい。

場所はマンチェスターの住宅地。白人のワーキングクラスやミドルクラスの下の方(Lower Middle Class)の人々が多く住む通り。出てくるのは、タクシー運転手、運輸会社の倉庫係、スーパーの店員、コールセンターのオペレーター、高等学校の先生、等々。借金、麻薬、万引き、家庭内暴力、浮気や夫婦げんか、自殺、移民問題、交通事故、等々に直面した時の慎ましい暮らしの家族の格闘を描く。日本で放送されるイギリスのドラマというと、犯罪ものか、あるいは『ダウントン・アビー』とかジェイン・オースティン原作作品のような古い上流社会を舞台にした時代劇か、いずれにせよ今のイギリス人の大部分の生活とはかけ離れたドラマが多い。その点、”The Street”は現代のイギリス人の庶民感覚満載。普通のイギリス人の良いところ、悪いところ、ださいところ、滑稽なところや愛すべきところが沢山。イギリスの事を知りたいなら、ジェイン・オースティンじゃなくて、これを見なくちゃ、という気がする(勿論、オースティンも欠かせないんですけどね)。NHKは、『シャーロック』など大変人気の出そうなドラマは民放に任せ、こういう地味だが質の高い作品こそ放映して欲しいんだが・・・(NHK、近年はBBCドラマでもスターのでるポピュラーな作品しかやらなくなった気がする)。英語版DVDしか手に入らないのが残念。Jimmy McGovern、いつも凄い。”The Accused”の次はBBC Twoのために”Banished”(追放された人々)というドラマを作っているらしい。これは18世紀にイギリスからオーストラリアに流刑になった人々を描いているそうだ。今年、シドニーとマンチェスターで撮影中のはずである(Wikipedia英語版による)。

さて、”The Street”は毎回一応話が完結しているが、舞台となっているのは同じ通りなので共通する人物が繰り返し出てくる。中でも、今まで見た部分、つまり第2シリーズの途中までで、毎回出てくるシリーズの中心的な人物がティモシー・スポール。稼ぎの少ないタクシー運転手、お人好しで気が弱い。奥さんは口達者で気が強く、いつも尻に敷かれているという役柄。彼は私の最も好きな俳優のひとりだ。そのスポールが今年のカンヌでベスト・アクター賞を受賞して非常に嬉しい!受賞作品は"Mr Turner”。名匠マイク・リーによる風景画の巨匠、ターナーの伝記映画。スポール・ファンで無くても、イギリス文化に関心のある人は必見だ。ガーディアンにスポールのインタビューと映画の紹介があった。

2014/05/20

"Lip Service" series one (BBC Three)

若いレズビアン達の愛と性をめぐるBBCドラマ
Lip Service series one (BBC Three) 

脚本:Harriet Braun
出演:
Ruta Gedmintas (Frankie)
Laura Fraser (Cat)
Fiona Button (Tess)
James Antony Pearson (Ed)
Emun Elliot (Jay)
Heather Peace (Sam)
Roxanne McKee (Lou)


前項で「アデル、ブルーは熱い色」の感想を書いたついでに、以前に見たBBC Threeのレスビアンを扱ったドラマ、”Lip Service” (series one)の感想も掲載しておくこ。なお、シリーズ1の後、シリーズ2も放映され(私は見てない)、両シリーズを収録したDVDがAmazon.co.jpで安価で売られている(但、リージョン・コードは日本仕様ではないので注意)。

2010年の秋から冬にかけてBBC Threeで放映されたドラマ。レズビアンの恋愛や性を扱っている点でやや珍しい。男性のゲイの人に関する映像としては"Brokeback Mountains"のような著名な、各賞を総なめにした映像作品もあり(私は見てない)、かなり一般的になってきたという印象だが、レズビアンの人達についての、特に誰でも家庭で見られるテレビドラマというと、かなり少ないだろう。アメリカのドラマでは、「Lの世界」というシリーズが有名らしい。日本でもケーブル・チャンネルで放送されていたようだ。

さて、"Lip Service"であるが、レズビアン・ドラマという前提で一部の人々(レズビアンの視聴者)が楽しむというだけではなく、ヘテロ・セクシュアルの男女でも、誰が見てもかなり面白いドラマだと思う。マイノリティーとしてのレズビアンに対する差別や偏見を告発する社会派ドラマでもない(そういう問題を感じさせる場面はわずかしか出てこない)。女と女、そしてたまに女(バイ・セクシュアル)と男の恋愛やセックス、また、彼女たちの仕事や生い立ちに関する悩みや喜びを扱った、20歳代の女性の生き方を描いたドラマだ。日本で言えば、OLの人達を主人公にした、ちょっとファッショナブルな、洒落たドラマ、というところ。但、主人公達がレズビアンで、またセックス・シーンがテレビ番組としてはかなり強烈な点が異なる。これはBBC Threeというデジタル・チャンネルで、遅い時間帯に放映されたドラマなので、大人だけの視聴を前提としている(DVDは18歳以上指定となっている)。

私が感心したのは、脚本家が、主要なキャラクターを実にはっきり、そして魅力的に作っていて、役者がそれに良く応えて演技できていること。もっとも重要な役の写真家のFrankieは、生い立ちに悩んでおり、家族とは絶縁状態。短気、不安定、そして衝動的な性格だが、芸術家肌。自分の苦しみを、相手を選ばないセックスにぶつけて、心の底では深く愛しているCatとの関係を壊してしまうが、彼女自身がCatなしには生きられない。そのFrankieの恋人で、しっかりした仕事を持つ建築家のCatは、堅実な性格で、少し年長(多分30代)の、(失礼ながら)お顔のしわや厚い白粉が目立ち始めた女性。Frankieに未練はあるが彼女の自己破壊的な性質や行いについて行けず、段々、頼りがいのある警察官のSam(女性)に惹かれていく。もうひとりの主人公Tessは貧乏な役者の玉子。笑えるへまを繰り返す、番組における道化的な存在だ。しかし、愛すべき性格で友人にも男性にも大いに好かれるが、自分は安定したrelationshipが作れず、悩みに悩む。俳優志望であるから、オーディションを受け続けるが、まともな仕事はなかなか見つからず、着ぐるみをつけてアルバイトをするなどお財布も自転車操業で苦しんでいる。

脇役も生き生きと描かれている。女運が悪いレズビアンのTessを密かに、しかし、ひたむきに愛し続ける優しい作家志望の男Ed。その不器用さや体型が、ちょっと"Rev"のTom Hollanderを思い出させるタイプ。TessとEdは、ふたりともとても不器用で、芸術家志望で、なかなか上手く考えられたコンビ。もちろんTessはレズビアンなので、Edにとっては切ないかなわぬ恋である。Catの務める建築事務所での同僚Jayはヘテロ・セクシュアルの男性だが、この3人のレズビアンの、享楽的な遊び友達。でもそろそろ年貢の納め時と思い、フィアンセがいて結婚の準備をしている。しかしプレイポーイの性癖が抜けず、性懲りも無くガールハントを繰り返して、フィアンセを不安にさせる。前述のSamは、Frankieとのつき合いで傷ついているCatの前に現れた刑事。Detective Sergeantと言う、平刑事ではなく管理職にある堂々とした貫禄のキャリア・ウーマンで、ベッドのなかでも、Catには最高の人。Tessと一時関係を結んだLouは、Tessを有頂天にした美人で、地元のテレビのニュース番組のアンカー・ウーマン。Tessを愛してはいたが、しかし地域のセレブリティーとしては、レズビアンであることを知られるわけには絶対いかない。また、職場で権力を持つ男性の同僚から好かれ、その好意を断り切れず、関係を持って利用しようとする。と言うわけでTessにとっては薄情な恋人なのだが、Louの目から見ると、男性社会の中で女性としてキャリアを築くだけでも難しいのに、レズビアンだと知られたら大変なのだ。

セックス・シーンはかなり多く、それを見たくないという人には不向き。でも考えてみると、ヘテロ・セクシュアルのセックス・シーンは日本のドラマでさえ、結構出てくるわけだし、性を真面目に扱ったドラマや映画も沢山ある。ところがホモ・セクシュアルの人、特にレズビアンの性を描いた映像は少なく、映画では幾らかあるにしても、テレビ・ドラマではほとんど皆無だ。同性愛者差別とか、啓蒙的な視点とかではなく、普通の恋愛、仕事、セックスなどを描く若者ドラマであり、レズビアンの視聴者が身近なものとして見られるこのドラマは貴重だと思える。きっと20歳以下の、日本人のレズビアンの人が見たら、こんなに自然にレズビアンとして悩み、愛し、仕事をし、つまり普通にレズビアンとして生きる女性を見て、安心したり、自信を感じたり、幸せな気持ちになるんじゃないだろうか。但、私としては、このドラマを「レズビアン・ドラマ」としてあまり強調したくはない。とにかく、魅力的なキャラクターを散りばめ、上手い役者達に支えられた楽しいドラマだから、誰にでも見て欲しいし、出来れば日本語字幕版も出ると良いが、まずあり得ないだろうなあ。

もうひとつの魅力は、このドラマの持つ雰囲気だ。多くの念入りに作られたイギリスのドラマに見られるように、カメラが大変工夫されていて、きれいな映像だ。背景の音楽も大変洒落ている。出てくる人も、建築家、俳優、写真家、テレビ局のプレゼンター、作家の玉子等々、クリエーティブな仕事の人達が多く、女性達の衣服もよく考えられており、全体として、非常にファッショナブルな雰囲気の仕上がり。逆に言うと、そういう風にスタイリッシュに作り過ぎていてリアリティーに欠ける気もするが、まあその雰囲気を楽しめるのもテレビドラマとしては重要な要素かな。

個人的にはこのドラマがグラスゴーを舞台にしている点が特に気に入った。スコットランドの黒っぽい町並みと、女性達の服装がマッチしてスタイリッシュだし、エジンバラだけでなく、グラスゴーのような伝統的な工業都市にもこういうボヘミアンの世界があるんだ、と知ることも出来た。言葉は、CatとJayを演じている2人の俳優はスコットランド出身者で、はっきりしたアクセントがあるが、全体としては、アクセントのためにそれ程分かりづらいということはない。むしろこの2人のアクセントが、地方色をかもし出して良い雰囲気だ。

さて、良いことばかり書いてしまったようだが、6エピソード全部として見ると、長すぎて退屈する時もあり、3人の主人公を扱っているので焦点が定まらない。もっと焦点を絞り3,4回でまとめたほうがインパクトがあるドラマになった気はする。ファッショナブルで人工的な雰囲気は、既に述べたようにリアリティーに欠けると言う面も持つ。同時期に放送されていた、David Tennant主演の"Single Father"の方が、私から見るとかなりレベルが高い。しかし、あまりシリアスに考えず、ヘテロ・セクシュアルであろうとレズビアンであろうと、娯楽作品としてのガールズ・ドラマとして楽しめるシリーズ。

グラスゴーという、もともと工場労働者の多い地方都市で、レズビアンの人達がデートをし、街角で抱き合ったりキスをしたりするシーンがドラマになってイギリスのNHKにあたる公共放送BBCで放映されるーー日本のレズビアンの人にしてみたら何と自由でうらやましい世界と思えることだろう。但、イギリスは日本よりもはるかに暴力的な事件も多い国なので、同性愛者に対する露骨な差別や街頭での暴力も多く、死者も出ていることも忘れてはならない。

番組のホームページ

2014/05/18

フランス映画「アデル、ブルーは熱い色」(2013)

鑑賞した日:2014.5.17
映画館:ヒューマントラスト・シネマ有楽町
上映時間:約3時間

監督・脚本:アブデラティフ・ケシシュ
原作(コミック):ジュリー・マロ
撮影:ソフィアン・エル・ファニ

出演:
アデル・エグザルコプロス (アデル)
レア・セドゥ(エマ)
サリム・ケシゥシュ (サミール)
モナ・ヴァルラヴェン (リーズ)
ジェレミー・ラユルト (トマ)
ヴァンジャマン・シクスー (アントワンヌ)

☆☆☆☆ / 5 

新聞の批評などでも何度か目にしたし、ブログでも、「良かった」と感想を書いている人が幾人かあって気になっていたが、やっと見に行った。”Girl Meets Girl”映画。『ロミオとジュリエット』タイプの”Boy Meets Girl”は、どんなに工夫しても陳腐さから抜け出すのは難しく、”Boy Meets Boy”タイプの映画もかなり作られつつあるが、思春期のレスビアンの恋と生活を描く映画やテレビドラマはまだそう多くはない。この映画が5年後10年後にも今の新鮮さを保てるかは疑問だが、しかし、今の私達(というか、私)にとっては、まだかなり新鮮に感じ、見に行った甲斐があった。但、カンヌでPalme d’Or(最高賞)を取るほど良いかというと、疑問には感じた。

(以下、最後まで筋を書いていますので、これから見る方はご注意)この映画は、時間的に大きく3つのパートに分けられているようだ。最初はアデルが高校生の時のエマとのなれそめ。2番目は、ふたりの同棲時代。そして3番目は同棲が崩れた後のこと。但、この第3のパートも時間的に2つに別れており、最後は謂わばエピローグのような形になっていて、かなりかっちりした作品造りがされていると感じた。順を追って紹介する。

(パート1)アデルは、庶民的な家庭に育った割合普通の女の子。この部分では高校生。同級生からも可愛いと思われていて、上級生の男の子から声をかけられデートし、セックスする。しかし、髪を青く染めた年上の子、エマと道ですれ違ったとき、すぐに惹かれる。その後、友達のゲイの子サミールにつれられてゲイバーに行ってみるが、近くにあったレズビアン・バーにも寄り、そこでエマと知り合って始めて言葉を交わす。ふたりはたちまちお互いに夢中になり、公園でデート。そしてすぐにセックス。若さ溢れる、元気いっぱいの、マット運動みたいな(^_^)セックスシーンが長く続く。エマは美術学校の学生で画家志望。彼女の両親(父親は再婚で義理の関係)も、インテリのボヘミアン風。生活レベルも、極めて庶民的なアデルの家よりは幾らか良いようだ。但、イギリスの映画などと比べると、それ程階級を意識させるように作られているとは思えない。家の様子や広さも、本人たちや両親の身なりも、極端に違っているわけでもない。しかし、文化的な違いはかなりありそうで、それがふたりの間のすきま風に繋がっていったようだ。

(パート2)1〜2年後だろうか、ふたりは同棲している。学校を出た後の進路の違いと共に、ふたりを分かつ環境の違いはよりくっきりしている。アデルは幼稚園の先生として働き、職場や同僚に溶け込んでいる。教え方もすっかり身に付いてきて、園児達の快活で元気なお姉さんという感じだ。一方、エマは芸術家としての第一歩を踏み出そうとしている。アデルの職場や同僚の様子、そしてエマの芸術家やインテリ仲間を招いたパーティの場面が丁寧に映され、ふたりを取り巻く環境の違いが、周辺の人々を通じて浮き彫りにされる。自分の知識とか感性についてのプライドが高そうで、気取っていて自由な生き方をしているエマの仲間たち。エマのセクシュアリティーも当然オープンだ。それに対し、先生らしい真面目さと平凡さがにじみ出るアデルの同僚たち。アデルは、自分がレズビアンであることを誰にも言っていないようだ。ふたつのサークルの人々が混じり合うことは無く、アデルはエマのサークルに混じるときは、家庭でかいがいしく料理をして裏方を務める慎ましい主婦の役割。エマは妻の手を借りてお客をもてなす「主人」(このあたり、同性愛カップルであっても伝統的役割分担が見えて、日本のサラリーマン家庭を思い出す)。寂しさを感じたアデルは同僚の男性と2,3回セックスをしてしまったようで、それをエマに見つかり、激怒したエマはアデルを追い出す(このことから、アパートはエマが費用を払っているのだろうと推測でき、ふたりの経済的な力関係が感じられる)。その時のエマの激しい罵倒は(何度も字幕では「売春婦」というような言葉が出て来た)、浮気した妻を怒鳴りつける専横な夫を思わせた。相手の言い訳に一切耳を貸そうとせず、アデルの持ち物を引っ張り出そうとするエマ。見ながら、「おいおい、君はほとんどDV亭主か」と思ってしまう。思想において進歩的だったり、感性や知性に秀でている人にしばしば見られる利己的で不躾な側面が的確に描かれている。

(パート3)その後、また1〜2年経ったように見える。アデルは今は小学校の1年生を教えており、眼鏡をかけて本を音読させたり、騒ぐ子をちょっと眉をひそめて注意したりしている。幼稚園の先生の頃の素人っぽさが抜けて、教師らしい職業婦人のキャラクターとして描かれる。髪型も大人っぽくなり、年齢より老けて見えるようにしている。アデルはエマをカフェに呼び出して、「あなたを忘れられない」、と言う。エマもアデルへの愛はまだ残っているようだが、しかし、彼女は既に以前から付き合っていたパートナーと安定した暮らしを築きあげているようで、よりを戻すつもりは全く無い。エマはこみ上げる涙を抑えられず、ずるずると鼻水を垂らしながら泣く。昔の映画なら、相手がここですかさず綺麗なハンカチを出すところだろうが、これはレズビアン・カップルだから、騎士道的なジェスチャーは似合わない。日頃の大人っぽいアデルの表情が見事に崩れ、高校生の頃の素顔がのぞく。

(エピローグ)最後はエマが幾つもの作品を出品した展覧会の初日のパーティーのシーン。エマは昔約束していたようにアデルに招待状を送っていたが、前回カフェで会ってから後、ふたりはずっと会うこともなかったのだろう。あの時、展覧会には招待するね、と言っていた約束をエマは果たしたわけだが、エマの愛情は更に冷めていて、アデルに本当に来て欲しかったようでもない。別れる以前にアパートで開いたパーティ以上に、アデルはエマの世界が自分の世界とは違ってしまったのをひしひしと感じする。ワインを持って部屋をめぐっても、気楽に話をできる人もいない。エマと挨拶はするが、今のパートナーのリーズがそばにいて気軽には話せないし、エマはアーツの関係者をもてなすのに一生懸命に見える。いずれにせよ、ふたりの間には超えがたい壁が出来てしまっている。ひとりだけ、昔アパートでのパーティーにも来ていた俳優志望のアラブ系の青年が彼女に他の人以上の関心を示す。彼は当時は夢を追っていたが、今は主に地味な普通の仕事(不動産業?)をやっている。アデルはワインのグラスを置き、にぎやかな会場を、エマに別れを言うことなくひとりでそっと抜け出す。彼女がいなくなったことに気づいたアラブ系の青年は慌てて外に出て彼女を捜すが、もう見つからない。青いスタイリッシュなドレスをまとったアデルは、背筋を伸ばして足早に去って行く。

既に見た人が決まって指摘しているように、食べ物が効果的に使われている。アデルの家の定番は庶民的で万人がよろこぶミートソース・スパゲティー、エマの家の客料理は生牡蠣。アデルは食わず嫌いもあって牡蛎は苦手だったが、食べてみると意外に美味しいと言う。牡蛎はレズビアンのセックスの隠喩でもあるだろう。ミートソース・スパゲティーの方は、ふたりが同棲した後も、パーティーでアデルが用意する。日本で言えば、せっせとちらし寿司を振る舞うお母さんのイメージか。アデルには、芸術家のエマと暮らし始めても、昔の庶民的なルーツが染みついているのがうかがわれる。

もうひとつは「青」。エマの青く染めた髪の毛は、フランス国旗の青同様、アデルにとって自由の象徴だろう。しかし、2部以降はエマは髪を青く染めることをやめている。エマはアート業界の一員として彼女なりに組織に組み込まれ、その世界の常識を生きている、ある意味で「普通の人」になってしまったのかもしれない。アデルが最後に身につけた青いドレスは、彼女がエマから「自由」になったことを示しているのだろう。他にも紙ナプキンとか、随所に青が意図的に配置されて、映画全体に統一感を与える。

アデルの家が貧しかったり、イギリスの労働者家庭でしばしば見られるような明確な階級意識を持っていたりするわけではなさそうだ。エマの家も、立派な邸宅や高級マンションではなく、使用人がいそうな家でもない。しかし、ふたりの家庭の保守性とリベラルさの違いははっきりしている。特にアデルの父親は、食えない職業である芸術家について、面と向かって否定的な事をエマに言う。一方、エマの両親は、少しでも創造的な仕事をするのが人生の目的であるという価値観の持ち主。もちろんパート1でのアデルは自分の友人がレスビアンであることは親に言わないし、言える様な雰囲気でもない。また彼女自身、学校で、あなたはレスビアンね、と友達に言われたときに、猛然と否定し、つかみ合いの喧嘩になる。

私にとって、この映画の最大の魅力は、第1部で、エマとの恋愛を通じてアデルが自分のセクシュアリティーについて徐々に気づいていく時の心の揺れ動きやその描写のみずみずしさだ。社会から「普通」として認められるヘテロ・セクシュアルの若者にとっても、思春期における性の自覚は大変な葛藤を伴うことが多いだろう。増して、ゲイ・レスビアンであったり、バイ・セクシュアルであったりすれば、学校や家庭、地域における社会的なストレスも大きく、また自己嫌悪や自分のセクシュアリティーを認めたくない、という気持ちも起こりがち。この映画は、学校や社会全体におけるゲイ・レスビアンへの差別とか、家庭内の軋轢と言った政治色を避けて、あくまで、素朴なひとりのレスビアンの若者アデルの揺れ動く気持ちや愛の喜びと悲しみと言った古典的テーマをじっと凝視したことで、教条的にならずに、素直な恋愛映画となっていると感じた。一般の映画館で公開される多くの恋愛映画では、恋人達の会話とか仕草とかは念入りに描かれても、セックスをセックスそのものとして充分に描くことは少なくて、あまりリアリティーの無い、一種の「振り付け」されたセックスがロマンチックなバックグラウンド音楽と共に短時間映写される。また、多くの人は、ポルノ見たさで来たわけでもないのに映画館でセックスを長々見せられるのは居心地悪い、と思うかも知れない。しかしこの映画では、10代後半の、ホルモン満開の年代の若者にとって、性の興奮と喜びが如何に強烈なものかを観客に訴えようとしており、あのシーン無くしては映画全体のインパクトはかなり弱くなってしまうと思える。

後半、ちょっと眠くなった。ふたりの気持ちが離れて行くシーンを、少しずつ時間をかけて描写しているのだが、ちょっと冗長になった気がした。もうひとつ不満な点は、脇役があまり印象の残る程描かれていないこと。ゲイの友人サミール、最後に出て来たアラブの若者など、もっと描き込めばおもしろくなりそうなキャラクターが幾人かいたが、もう少し生かせなかったものか。全体のテンポを上げて、かつ脇役をよりくっきり表現することで、更に面白い映画になったような気がする。

高校や小学校の教室の風景は、フランスの今が感じられてとても興味深い。また、脇役の人種の多様さに多文化のフランスの良さが感じられた。掘り下げられはしなかったが、アデルを慰めたり共感すのは、多分アラブ系のサミールと俳優志望の青年だった。

この映画を10代のレズビアンの方が見たら、きっととても感激するだろうな。でも、そうでない人にも、特にヘテロセクシュアルの男女の若者にこそ、偏見のない心で見て考えて欲しい作品。

(追記)ちなみに、私がこの映画を見た5月17日は「国際反ホモフォビアの日」(International Day against Homophobia and Transphobia, IDAHO)だった。日本でも集会や勉強会など、幾つか小規模の記念行事が行われたようだ。

2014/05/07

NHK ETV特集「辞書を編む人たち」 2014年5月2日放送

録画をしていて、5月5日に見た。期待以上に面白かった。同じ番組を見た友人も、とても楽しんだようだ。人文科学系の勉強や仕事をしている学生、社会人、教員には特に面白い番組だろう。まずは、番組のホームページから、案内の一部を引用する:

「無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら?」この問いに多くの人がある本を選ぶ。辞書である。言葉だけでこの世界のすべてを表現する。自然も人の心も具体物も抽象物もあらゆる物事を言葉だけで表現する辞書は言わば小宇宙である。番組では、辞書専門の出版社の改訂作業に半年間にわたり密着した。新しい言葉を追加し、従来の項目を改め、不要となる言葉を削除する。日々新たな言葉が生まれては消えていく時代、改訂とは、言わば辞書に新たな命を吹き込む作業である。

記録されているのは、国語辞典『大辞林』第4版の編集を行っている三省堂の辞書部。と言ってもこの国語事典に携わっているのは、編集長、ベテラン編集部員の男性1名、2年くらい前に定年退職し今は嘱託勤務の第3版編集長のたった3人のおじさん方。更に、撮影の間、インターンとして来ていた筑波大の博士課程の院生、石塚直子さん。番組は、主に、編集部で働き始めて好奇心と興奮に満たされている石塚さんの視点で編集作業を追いながら、辞書作りの難しさ、楽しさを伝え、更にデジタル出版へと移行しつつある時代における「辞書」を作ることの意味を考える。新しい言葉を貪欲に追い続けなければならない国語辞典の編集部には、女性や若者も必要だと思うが、費用の関係でそう沢山は人員を配置できないんだろうなあ。

『大辞林』は1959年に最初に計画されたが、実際に第1版が出版されたのは1988年!辞書の制作が如何に手間がかかる仕事かしのばれる。また、その間、三省堂は倒産し再建されるなど、会社としても大変困難な時代を経ている。それでもこの大事業を諦めなかった編集者や経営者に感銘を受けた。

編集長は、片時も言葉の採集に余念がない。通勤時に道を歩いていても、看板や広告などから気になった言葉を携帯で撮り、後で調べたり、語釈を考えたりする。インターンの石塚さんには、若い女性向けの雑誌に載っている新語を採集させ、その語釈を考えさせる。例として出て来たのは、「エッジの効いた」とか、「頭を盛る」(髪を盛り上げるようにしたヘアスタイル)など。更に「足を盛る」なんてのもあった。そうすると、「盛る」というのは、「飾り立てる」ということになるようだ。

辞書制作の面白さに加え、この番組の魅力は、インターンの院生、石塚さんの素直な学究心だ。彼女は幼稚園の卒園式でもらった子供用絵本辞書で辞書を読む魅力に取りつかれ、それ以来辞書への熱意を保ち続けて今に至った。博士課程の院生だが、学問的な野心なんか感じさせず、ひたすら学ぶ事の楽しさに突き動かされて言葉を探求している姿は、理想的な研究者に見えた。彼女は、出版社で実際に辞書の編纂をすることを希望していて、最後は就職活動のシーンが映っていた。希望の職に就けることを切に願ってやまない。

その他に出てこられた編集部の方々も、過去の編集長も、なかなか魅力的な「知の職人」とでも言うべき人たちだった。こういう無名の民間の方々が日本の知の土台を支えているんだと思った。感謝したい。

番組のホームページ。NHKオンデマンドで視聴可能。辞書や言葉に関心のある方なら、216円払っても見る価値あり。

なお、小説や映画で大評判になった『舟を編む』はこの編集部を題材にして作られたようだ。私はまだだが、近いうちに見るつもりだ。

そう言えば、私の大学院時代の恩師のひとりはご自身、有名な英和辞典の編集をなさったが、全20巻、平凡社大百科事典くらいのボリュームがある『オックスフォード英語辞典』(Oxford English Dictionary略称OED)を最初から順番に読んでいて、最後まで読み終わったらしい。もの凄く細かい方だった。あの頃、大学院の授業の予習というと、図書館や研究室の書庫でひたすらOEDを引きまくる、というのが多かったなあ。その他、Britannicaとか、Oxford Companionsなど各種のリファレンスには大いにお世話になった。今は大きな大学に籍のある学生や教員なら、それら全てがオンラインで検索でき、とても手軽に下調べが出来るようになった。言語学的な研究では、文章を一文一文読んで細かな手作りのカードを作らなくとも、各種のデータベースにより即座に例文や統計が得られる。但、デジタル化により、研究姿勢が安易になったとか、中世や近代初期など古い言語の場合、もとの作品などを正確に読解する能力がないのに、単語や例文だけデータベースで抽出して研究データにする、などの弊害が長らく指摘されている。

2014/05/01

コンサート「ラウデージによる種の復活の黙想」(八王子復活教会、2014.4.28)

会場:聖公会 八王子復活教会
2014.4.29  15:00-16:00
合唱と演奏:ラウデージ東京
指揮と監修:杉本ゆり

中世英語英文学の研究者で、私の大学院の大先輩である先生からお知らせをいただき、始めてこの古楽グループのコンサートに出かけた。リーダーの杉本ゆりさんは、長年中世の音楽を研究され、教育、研究、そして今回のような実際の演奏において活躍されている方だそうである。丁度復活祭の期間中であり、曲目はキリストの復活にちなんだものが並んでいた。パンフレットの説明を一部引用すると、次の様な曲が含まれる:

“Concordi laetitiae”
「13世紀のフランス起源のラテン語プローザ。聖母マリアと共に主の復活を願う行列聖歌として伝統的に親しまれてきた。」 
“Victimae paschali laudes
「セクエンツィア(続唱)のなかでももっとも広く親しまれていた聖歌です。11世紀末の写本からの情報でウィポー(Wipo, c.990-c.1050)作とされています。このセクエンツィアは典型的なセクエンツィアの形を取らず、韻も踏まない不規則な詩形であることから、押韻のタイプに移行する過渡期の姿を示しています。このセクエンツィアは対話を加えながら復活物語を追い、典礼劇のプロトタイプを見せてくれます。このラテン聖歌ができてから1世紀後にドイツで、ラテン語の歌詞の間にドイツ語が挿入され、宗教改革前のドイツ語賛歌”Christ ist erstanden”となり、更にルターが両者に基づいて”Christ lag in Todesbanden”を書きました。」 
“Jesu Christo glorioso” (Cortona MS 91)
「13世紀の民衆の宗教運動の中から生まれた、特にフランシスコ会の中から生まれたラウダという俗語による賛歌がコルトナ市の聖フランチェスコ教会に残されていました。」 
“Col la madre del beato” (Banco rari 18)
「14世紀のフィレンツェの信徒会が残したラウダ写本に所収される復活ラウダです。」
「この一連の復活のテーマによる楽曲はどれも中世の復活典礼劇の要素を持ち、それらと関連しあっています。復活の朝のミサが始まる前、聖土曜日から復活の主日の間にこのような劇が演じられ、それらは”Quem queritis?”(誰を捜しているのか)と呼ばれます。もともとはラテン語による典礼劇でしたが13世紀から次第に俗語化していきます。誰にでも分かる、地元の話し言葉で演じられ、目で見て耳で聞いて具体的に復活の福音が分かるようになるために復活劇の役割は重要でした。そして最後に感謝の賛歌として古代キリスト教の聖人アンブロジウスによる”Te Deum”が歌われる慣わしでした。」 
“O Filii et filiae”
「復活の物語を福音書に沿って歌うこの賛歌は今日も教会の中で生き続け、歌われる民衆的な素朴な歌です。 
“Spiritu Sancto”
「コルトナ写本には聖霊についてのラウダが3曲あります。この曲は、導き手である聖霊を三位一体において讃えています。」

他にもあり、全部で10曲。

会場でいただいたパンフレットには色々と勉強になることが書いてある。これらの歌は典礼劇とも深い関係があるそうだ。あまり長文の引用をするのは気が引けるが、杉本さんの解説で更に印象に残る部分をもう一カ所引用:
復活祭は聖母マリアのみならず、女性たちが活躍します。その筆頭はマグダラのマリアです。プログラム前半の復活聖歌”Victimae paschali laudes”から復活ラウダの間、何度も歌のなかに聞かれる”Maria”という呼びかけはすべてマグダラのマリアに向けられたものです。復活の朝、香油を持って走ってきたマリアたちにキリストが現れ、鳴いているマグダラのマリアに声をかける感動的な場面、また天使によって「ここにはおられません、ガリラヤで待っておられます」と告げられる場面。「我に触るな」という有名な言葉を言われる場面、疑ったトマスが脇腹の傷に手を差し入れ、「我が神よ」と信仰告白をする場面、エマオへ向かう旅人に姿を現される場面、など劇的な美しい復活シーンが歌に散りばめられています。

素朴な歌であり、賛美歌ではあるが、俗語で書かれ、民衆的なものも含まれるせいか、厳かなばかりでなく、打楽器に合わせて歌われ、とても軽快で楽しい歌もあった。私の様な者から見ると、一種のフォークソングを聞くような感じで楽しめた。また、聖母マリア達がキリストの墓を訪れて復活を知るという内容の歌もあり、中世演劇、特にラテン典礼劇の萌芽となるような曲も含まれ、勉強の上でも刺激になり良かった。これらの歌の幾つかは、恐らく大聖堂や修道院の内外における行列(procession)の折に歌われたのであろう。一種の行進曲でもあり、行列という演劇にも通じるパフォーマンスの音楽でもあった。

コンサートの後、会場でお会いした大ベテランの先輩で著名な学者のA先生、そして彼女のお友達の先生と3人で、しばらく気楽なおしゃべりを楽しんで、良い一日となった。

ラウデージ東京のホームページ。次のコンサートは11月に催されるらしい。是非また聞きたい。関心のある方はグループのホームページに注意していて下さい。

“Coriolanus” (National Theatre Live, 2014.4.28)

“Coriolanus” (National Theatre Live, a Donmar Warehouse production)

Donmar Warehouse 公演
観劇日:2014.4.28 18:00-21:00
劇場:東邦シネマズ日本橋

演出:Josie Rouke
脚本:William Shakespeare
デザイナー:Lucy Osborne
照明:Mark Henderson
音響デザイン:Emma Laxton
作曲:Michael Bruce

出演:
Tom Hiddleston (Coriolanus)
Mark Gatiss (Menenius, a patrician)
Deborah Findlay (Volumnia, the mother of Coriolanus)
Hadley Fraser (Aufidius)
Birgitte Hjort Sørensen  (Virgilia, the wife of Coriolanus)
Eliot Levey (Brutus, a tribune)

☆☆☆☆ / 5

私は演劇の映画館でのlive viewingには、記憶する限り、以前に一度しか行ったことがなくて、テレビでの劇場中継での一般的な退屈さを考えるとあまり気が進まなかったが、今回は面白く、大いに楽しめた。やはりもとのプロダクションの良さのため、映像で見ても面白いのだろう。

この劇はオリヴィエみたいな広い空間で、沢山の端役を使って群像劇にすると迫力がありそうだ。今回のようにDonmarの小さな舞台でローマの広場や戦場を再現するのだから、そもそもかなりの制約がある。しかし、演出家のRoukeはその制約を逆手にとって、ひとりひとりの役者の演技に観客の注意を集中させ、濃密な心理的劇に仕上げたように思う。また、クローズアップの出来るlive viewingという映像での観賞がそれを助けた。壁の落書きとか、赤い投票用紙といった小道具で、人数の少なさをカバーするという工夫も上手く行っていたと思う。

何と言っても光ったのは、HiddlestonとFindlayの名演。しかし、Mark Gatissを始め、周囲を固める役者達も申し分ない。私の英語の理解力はたかが知れてはいるが、どの俳優についても、台詞の言い間違えやタイミングのずれを一度も感じることが無かった。HiddlestonのCoriolanusは、戦士としての剛胆さと内面の弱さを良く表現していた。その弱さを通じて固く結ばれた彼とVoluminaの関係が、最後のシーンで見事に描かれた。母が国のために息子を売りわたすことのやりきれなさが、うつむくFindlayによって雄弁に表現された。

平民や護民官の狡さ、軽薄さが上手く演じられるのを見ながら思ったのは、シェイクスピア作品では所謂「市民」というタイプの人達は、集団として集まると大抵は、ナイーブか狡いかその両方、要するに馬鹿なんだな、ということ。ロンドンの一般市民である大方の当時の観客はどう感じていたのだろうか。チューダー朝イングランドにおける民衆とか、市民とか、議会の概念については、私は勉強していないので分からないが、関心を惹かれた。

元来は男性の役に幾人か女優が割り当てられていた。劇全体の男性的なトーンを減じることで、プラス・マイナスの両方ありそうだ。女優を入れて妙にエロティックにしたところがあったが、あれは意味がある試みとは思えない。男同志の猛々しいぶつかり合いの雰囲気は薄められるが、女優が混じっていた方が、現代の民主主義国家の政治にも通じる物語として受け入れられる。Aufidiusはさしずめ、高市早苗さんといった感じ(^_^)。

live viewingのおかげで、実際に劇場にいるよりも役者の表情が良く分かり、迫力はあった。しかし、少なくとも今回のヴァージョンは、あまりに映画的にしすぎて、演劇ファンとしては不満だ。面白く、迫力あるものにしようとするあまり、「映画」になりすぎた。クローズアップが多すぎて、舞台全体の様子が分かりにくい。もっとカメラを引き、カメラの数も少なくて良い。主として正面一カ所から撮影し、それを他の幾つかのカメラで補強する、というくらいで、俳優の演技を主として全身で見せて欲しい。また、音楽も、舞台で使った音楽をそのまま使っているとは思うが、うるさすぎる。耳がやや遠い私から見ても、台詞のボリュームも上げすぎだ。live viewingを映画の一種と捉えるならそれでも良いだろうが、私としては、出来るだけ舞台の前で見る劇場体験に近くして欲しかった。

ナショナル・シアターライブでは、今年これからサイモン・ラッセル=ビールの『リア王』、エイドリアン・レスターとローリー・キニアーの『オセロー』という凄いプロダクションが並んでいます!

イギリス留学中、ナショナル・シアターの3つの劇場を除けば、最も頻繁に出かけたのはドンマーとアルメイダ。いた間はほとんどの演目を見た場所。なつかしい思いで一杯になった。

2014/04/30

ラファエル前派展(森美術館 2014.3.11)

3月11日、ラファエル前派展に行ってきたので、個人的感想などメモしておきたい。

ラファエル前派の絵は、イギリスのTate Britainで繰り返し見ている。ロンドンの美術館や博物館でも、ナショナル・ギャラリー以上に繰り返し行ったところだ。行く度にラファエル前派の部屋は大抵少しは眺めているので、今回見た絵も、有名なものはほとんどテイトで見ている。今回見て感じたのは、ラファエル前派の画家達は、女性が好き、ということ(笑)。とにかく、女性の肖像の割合が非常に高い気がする。ロセッティの絵で、良く知られた作品が多く来ていたようだが、彼の描く女性はたくましい。ジェーン・モリスやファニー・コンフォースをモデルにした絵では、描かれた女性は、がっちりした体格や肩、太い首、大きな顎などが印象的。更にふさふさと波打つ髪、大きな鼻に肉厚の唇・・・。顔の造りはともかく、体の外観は、労働者階級の印象で、人工的で貴族的なネオクラシシズム絵画の女性とは大きく異なるので、当時の人には大変新鮮だったのではないか。あくまで男性からの視点だとしても、女性美の感覚が大きく変貌した時代だったのだろうと思う。

私は若い頃はラファエル前派には全く関心がなく、名前を知っているだけに過ぎなかったが、近年かなり好きになった。特に留学中にTate Britainに何度も行って、ラファエル前派の絵の多くに見飽きぬ魅力を感じた。物語性があるので、絵の色彩とか構図にそれほど興味がない私のような者でも、眺めていて楽しいし、想像を膨らませられる。特に、しばしば文学的な題材、それも中世が取り上げられるのも、私には楽しい。昔は、こういう近現代の疑似中世趣味を何だがうさんくさく感じていたし、近現代画家の描く中世は、本当の中世とは似て非なるものだ。しかし、最近は、学問の世界でも近現代における中世趣味(medievalism)への関心も高まり、研究も進み、私もそういう傾向に影響されたし、中世趣味がそれぞれの時代の社会状況を反映している点も興味を感じる。16世紀の知識人は、ギリシャ・ローマの古典古代への関心を通じて、中世的な考えを超克しようとした。それとは逆に、19世紀には、それまで看過されてきた中世の見直しを通じて、ネオクラシカルな保守的芸術や学問とは違った視点を提供したわけだ。ラファエル前派が始まる頃は、チャーチスト運動が展開して、労働者の権利が主張し始められた時代だ。全体的にはラファエル前派に政治的傾向を見いだすのは難しいだろうが、ウィリアム・モリスのように、この周辺の人々は社会主義的傾向もある。その後、19世紀から20世紀初頭にかけて中世文学のテキスト編纂に携わった人々には社会主義に近い人々が散見される。中世という時代が、産業革命以降、非人間的な面が目立ち始めた近代文明に対するアンチテーゼとして捉えられた面はある。ロセッティの描く女性の逞しい庶民的な美にもそういう時代の波を読み取ることも出来る気がした。

主観的には、同時代のフランスの絵と比べて、ラファエル前派の絵って、あか抜けないというか、優美さに欠けるというか、田舎くさいと言うか・・・。やはり、ヨーロッパの島国、イングランドらしいという気がする。色彩も、くすんでいたり、けばけばしかったりして、どうしてもっときれいに、例えば、ルノアールとかモネみたいに描けないんだろう、と思ったりもする。しかし、イングランドのお屋敷などの、オークの家具とか、チューダー朝風の調度の間にこれらの絵が掛けられることを考えると、印象派の絵のような華やかな明るい色彩の絵画は浮いてしまうんだろう。イングランドの長く暗い冬に眺めるにも、このほうが良い。私としては、印象派の絵より、このあか抜けないラファエル前派の田舎くささが気に入っている。

「ザ・ビューティフル 英国の唯美主義 1860-1900」展(三菱一号館美術館 2014.4.28)

連休の間、日頃単調で何も無い私の生活にもちょっと楽しい行事があった。その最初がこれ。チケットは長年の友人であるご夫妻からいただいた(サンキュー!)。有楽町駅近くの三菱一号美術館は始めて出かけた。素敵な建築物と聞いていたが、噂通りなかなか良かった。この時代の洋館、良いですね。東京都立美術館もちょっと似てたかな。これはクイーン・アン様式というそうだ。

しばらく前に行ったラファエル前派展の、時代的にはその後に続く時代の美術。また、これはヴィクトリア&アルバート・ミュージアム(V&A)の所蔵品による展覧会なので、絵画や彫刻だけでなく、家具、磁器、書物、タイル、タペストリー、写真、アクセサリー、建築デザイン・・・ええっと、まだあったかな、とにかく色んなジャンルにわたる作品が展示されていた。その時代の英国の豊かなミドルクラスの人々(the upper middle class)あたりの趣味を反映した、人々の暮らしを全体的に見られる展覧会。但、私の好みからすると、ちょっと総花的か?V&Aにはどのジャンルでも膨大な作品があるから、どれかに集中した方が・・・というのは無いものねだりか。でもやはり絵画が多くて、印象に残った。

その絵画だが、ラファエル前派の後で見ると、つい比べてしまうのは仕方ない。で、私としてはガクッとする面はある。この展覧会のチラシやホームページの背景にもなっているアルバート・ムーアの「真夏」とか「花」などその典型だが、どうもきれいすぎというか、装飾品としての絵画という印象で、描かれている人(大抵女性)の人間的魅力が伝わってこない。ラファエル前派の描く女性と比べ、いささか物足りない。きれいだとは思うけど・・・。そういった中で、フレデリック・レイトンの「パヴォニア」、ロセッティの「愛の杯」などは、個性的な女性が描かれて、気に入った。ジョージ・ワッツの「孔雀の羽を手にする習作」のヌードも大変魅力的。この時代の人、大変孔雀が好きみたいだ。あちこちにあった。特にウィリアム・ド・モーガンの青と緑を基調とした美しい大皿に描かれた大きな孔雀は印象的。結局、見終わって振りかえると、私は、唯美派の本丸(?)である19世紀末の作品よりも、今回の絵画でも1850年前後のラファエル前派の作品が良かったなと感じていたわけだ。時代が進むにつれ、絵に生気や思想がなくなっていくような印象を受ける。その代わりに、「美」だけを純粋に追い求めたから唯美主義と呼ばれるのだろうか。絵画の装飾品化、商品化/商業化(commodification / commercialization)とも見ることもできそうだ。一方で、そうした世紀末の絵画は、陶磁器とか織物とか家具などのジャンルにおける繊細な作品と大変上手くマッチしているとも言える。絵画や調度品、そしてインテリア・デザインと建築全体、更におそらく庭園に至るまで、セットとして統一された雰囲気を醸成するのかも知れない。例えば、ウィティック・マナー(Wightwick Manor)のように。

私はモリスのタイルとかタペストリーに興味があったが、確か1点ずつくらいしかなかった。一方、建築のデザインはたくさんあったなあ。そのあたりは、私は駆け足(^_^)。

音声ガイドを借りた。ラファエル前派展ではとても役だったし、パネルを読む面倒がなくて良かったが、今回の音声ガイドははずれ! 作品そのものの解説が聞きたいのに、イントロならともかく、ひとつひとつの展示品のガイドにおいても美術史、文化史に関する前置きが長すぎる。更に、パネルの解説も、V&Aの学者の書いたものを訳しただけで、こなれてない日本語訳が読みづらい。向こうの学者の文章を参考にするにしても、新たに書きおろすべきだ。音声ガイドや解説が分かりにくくて作品を見るブレーキになっては、本末転倒。

ミュージアム・カフェに寄ろうと思っていたがかなりの人が待っていたので諦めた。ギフトショップは、素敵なものもあったが高い。私などは絵はがきで精一杯。

とまあ、色々文句もつけたかもしれないが、美術館の立派な建物も含め、楽しいお出かけだった。5月6日まで。まだの方、お勧めします。展覧会のウェッブ・サイト

2014/04/28

NHKスペシャル「調査報告 女性たちの貧困ー新たな連鎖の衝撃ー」

現代日本の女性、特の若い女性の貧困を取り上げたNHKスペシャル。1月に放送され、私も見ましたが「クローズアップ現代」のほぼ同内容の番組を修正、かつ拡大したドキュメンタリーです。番組紹介ページから引用させていただきます:

10代20代の女性の間で深刻化する貧困の実態を描いた今年1月のクローズアップ現代「あしたが見えない」。放送後、番組サイトが異例のページビューを記録した。通常8千程度のページビューが、60万を超えたのである。そして、寄せられたのは「他人事では決してない」という切実な声だった。いま、若い女性たちの間で何が広がっているのか。取材を進め見えてきたのは、親の世代の貧困が、子の世代へと引き継がれ、特に若い女性たちに重くのしかかるという“現実”だった。

「クローズアップ現代」では、貧困に苦しむ若い女性、特にシングルマザーが、他に仕事がなく風俗産業に流れ込む様子が取り上げられていたと思いますが、今回はその面はカットされていました。その分、何とか教育を受けて貧困から抜け出したいと努力する女性の奮闘ぶりが克明に取り上げられ、多少希望を抱かせる内容となっていたと思います。風俗業界やAV映画で働く女性と貧困の関係も重要な社会問題なので、改めてそれに特化して取り上げて欲しいと思いました。

イギリスではまだ伝統的な労働者階級の残滓があり、彼らのプライドも感じられますが、日本は総中流の幻想が醒めた後、貧しい女性が文字通り「サイレント・プア」になって孤立してしまい、行政にも充分見えていないのが一層問題を深刻にしています。家庭、地域、親戚、学校、地方行政、といった個人を幾重にも取り囲んでいるはずの大小のコミュニティーが希薄になり、あるいは崩壊し、ひとりとなった若い女性(老人もそうですが)が、どのレベルのセイフティー・ネットにも引っかからず、貧困の可視化さえもされず、食費を削ってまで必死でひとりでもがいている状況があります。

今の日本やアメリカ、中韓のように、貧富の差が極端になってくると、中上流の人達は、貧困でもがき苦しむ人達を横目で見ながら、物質的文化的豊かさを楽しむという社会になり、彼らの子供達は冷淡であることを学びつつ育ちます。社会全体が、一種の経済的アパルトヘイト化し、誰もが精神的に貧しい社会となっていきます。

ボランティアとして、あるいはNPOや行政機関の職員として、日々貧困の現場で格闘し、苦しんでいる人々と向き合っている人もおられます。ですが、私も含め、皆がそういう生き方を選ぶことは出来ません。しかし、自己実現や自分のまわりの人の豊かさを追いかけるだけで満足してしまっている人間ばかりでは、日本社会は物質的にも、そしてそれ以上に精神的にも貧しい社会になると思いつつ、見ました。もう高度成長経済は望めない今、社会の富の再分配をもっと計らないといけないと思うし、子供や若者の貧困を取り除くために、他の面で国民ひとりひとりが大きな犠牲を払わなければいけないでしょう。そういう政治を求めたいのですが、今の政権はどうなんでしょうか。経団連の代弁ばかりしているようにしか、見えません。

再放送は5月1日深夜午前0時40分から。ひとりでも多くの人に見て欲しい番組です。

2014/04/21

NHKの新ドラマ・シリーズ、「サイレント・プア」

NHKの新ドラマシリーズ、「サイレント・プア」を2話まで見た。深田恭子を社会福祉協議会のコミュニティー・ソーシャル・ワーカーにしてアピールしているけれど、内容は実に重いドラマ。適度にセンチメンタリズムもあり、毎回救いのある終わり方をするが、現実にある福祉の谷間について取り上げている。

豊中市社会福祉協議会が協力しており、主人公もモデルとなる方があるそうだ。社会福祉専攻の大学教員などでも、Twitterで強く推薦されている方もいた。ドキュメンタリーでも、教育番組でもないが、公共放送でしかできない良いドラマだと思う。

第2回は、ひどい持病を持ち貧困に苦しむシングルマザーが、両親を介護し、しかも弟はひきこもりで部屋から出られないという、複合的な問題を抱えた家庭の話だった。確かに、一つ歯車が狂い始めると、次々におかしくなる家庭があっても不思議じゃない。

現実に福祉の現場の人が見ると、こんなもんじゃない、と言いたいこともあるだろうとは思うが、しかし、現場で地味な仕事に心血注いでいる方々に光が当たり、また、今の社会が抱えている困難な問題に、硬いドキュメンタリーではなくてフィクションとして考える機会ができるのはとても良いことと思う。

深田恭子演じる主人公がマリアさまに見えた。もちろん、この主人公みたいに献身的に仕事をしていたら、燃え尽きてしまうだろうけどね。

番組のサイト 

2014/04/16

ハリー・チェイピン:アメリカの吟遊詩人

スザンヌ・ヴェガのコンサートに行って以来、昔買ったけど最近かけてなかったCDとか、今はCDも持ってないけど昔頻繁に聞いていた曲をネットで捜して聞いたりしている。前回のブログでアメリカ留学していた頃聞いたロック歌手の事を書いたが、最近は滅多にロックを聴かなくなってしまった。しかし、20歳代の当時から聞いていて未だに頻繁に聞く歌手もいる。最近もほとんど毎週のようにかけるのが、ハリー・チェイピン(Harry Chapin, 1942-1981)だ。ボブ・ディランのような、所謂フォーク・ロックのシンガー・ソングライター。1981年に、交通事故で夭折している。彼の歌は、特に名作”Taxi”や”Cat’s in the Cradle”においてのように、歌詞が魅力的なストーリーを持っていて、じっくり聞かせる。特に前者は、文芸批評などでいうところの、「アメリカン・ドリーム」をテーマとした歌で、なかなか文学的で聞き応えがある。タクシーの運転手が、昔ハイスクールで同級生だった女性を客として乗せることになったという話。彼は高校生の時は飛行機のパイロットになる夢を持っていたし、彼女はハリウッド・スターになるはずだったが・・・。歌詞はこちら。



とってもアメリカらしい歌だ。チェイピンは世界の貧困と飢餓のために様々のチャリティー活動をするなど、社会活動家としても尊敬を集めた人で、死後に連邦議会から Congressional Gold Medal という大変名誉ある勲章を受けている。また、彼の奥様を含め、家族は彼の死後、Harry Chapin Foundationという財団を設立して、今も彼の残した社会事業を継続している。彼の母方の祖父は、ケネス・バーク(Kenneth Burke)という、20世紀のアメリカを代表する文学批評家だった事も知られている。

そういう伝記的な事を知らずとも、彼の歌は、人柄が偲ばれる暖かさに溢れている。彼の作品では、人生の様々な変転に直面している人達への暖かい視線がリリカルな歌詞とメロディーに乗って歌われる。アメリカの吟遊詩人と呼びたい歌手。さて、最後に、”Cat’s in the Cradle”。愛し合っているはずの父と息子のすれ違いを歌った作品。歌詞はこちら



ボブ・シーガー: ミッド・ウエストの風

先日、スザンヌ・ヴェガのCDは何を持っていたかなあ、と思って引き出しや棚を引っかき回していて、ボブ・シーガーのCD、”Bob Seger: Greatest Hits” を引っ張り出して、聞いている。ちょっと想い出があるので、書いておこう。

私は、35年くらい前、20歳代の半ばに、アメリカで、生でボブ・シーガーの歌を聴いている。その頃私は中西部の田舎町の大学に留学していて、毎日朝から夜寝るまで勉強だけの日々を送っていた。アメリカであろうと日本であろうと、ひとづきあいも会話をするのも苦手な私は、友達も、クラスで話す相手もおらず、また肝心の授業には全くついて行けないし、それを相談する人もおらず、毎日苦しい日々だった。

そうしたある日、多分コーヒーショップかなんかでひとりで食事を取っていたんだろうと思うが、同世代の見知らぬアメリカ人男性が話しかけてきた。彼は学部・大学院で日本語・日本文化を専攻し、日本人女性と結婚していて、日本の事を話したがっていた。その後彼と週1回くらい会うようになり、レポートの英語を直したりもしてくれるなど、お世話になったし、彼とたわいないおしゃべりをするのは、随分気分転換になった。他に話し相手も無い私には、英語のスピーキングの練習にもなったと思う。結局その面では大して上達しなかったが(^_^)。

その彼が、夏休みだっと思うが、突然、コンサートに行こうとやってきて、車に乗っけてくれ何時間もドライブして大きな野球場らしき場所に連れて行ってくれた。行ってみると、かなりの規模の、野外のロック・フェスだった。私は、日本での学生時代に色々ロックのレコードは聴いていたが、アメリカに来る前に皆売ってしまい、ポップスの事はすっかり忘れていたし、どんなグループが流行っているかも知らなかった。そのロック・フェスでは沢山のグループや歌手が出て来たが、元々知らなかった人達がほとんどだったと思う。しかし、後ろの方で出演した3グループだけは覚えている。多分最後に出て来たのが、Bob Seger and the Silver Bullet Bandだったと思う。その他に、ナザレス(Nazareth)、フォーリナー(Foreigner)も出た。この3つのバンドが一同に会するだけでも、考えて見ればロック・ファンにとってはえらく豪華なフェスだろうな、と今になって思うが、当時の私には猫に小判だった。それに、料金をその友達に払った覚えもない。きっとチケット代、安くなかっただろう。今となっては申し訳ないかぎり。ボブ・シーガーもナザレスもフォーリナーも、35年くらい経った今も音楽活動を継続している現役のロック・ミュージシャンだ。

で、前置きが長くなったが、そのボブ・シーガーが歌った曲で、未だに心に残っているのが、傑作、”Night Moves”:



はっきりとは思いだせないが、これも演奏されたのではないだろうか, “Roll Me Away”。この曲を聞くと、広大なミッド・ウェストのコーンフィールド、どこまでも続くハイウェイ、蒸し暑い夏の夜や凍り付く冬のブリザード、そして何と言ってもアメリカの広さを思い出す:



ボブ・シーガーはシカゴのミューシャンで、ニューヨークっ子のスザンヌ・ヴェガの物静かでアーバンな世界とは全く違う、ミッドウェストらしい雰囲気でいっぱい。私にとって懐かしいアメリカではある。トラック・ストップで、パンプキンパイなんかほおばりながら聞くとたまらない。アメリカらしいアメリカ。

私をこのロック・フェスに連れて行ってくれた彼とは、その後音信不通になってしまった。と言うか、アメリカで知り合った人とはほぼ関係が切れてしまっている。彼にも、もう会うことはないだろうが、もし会えたらお礼を言って食事でもご馳走したいものだ。

若いときはロックを聴いていても、歳取ったら、歌謡曲とか聞くようになるのかな、と学生時代は思っていたけど、ロックで育った世代は、いつまで経ってもロックみたいね(^_^)。とても歌謡曲なんか聴けない。だから、年寄りの冷や水でも、未だにシーガーもフォーリナーもストーンズも神経痛やら高血圧を押して活動中(^_^)。ちなみに中学生の時、私が最初に買ったLPレコードは、ステッペンウルフ、その後がドアーズとクリーム(クラプトンのバンド)。ということで、お馴染み(?)、”Born to Be Wild”で終わりにします。アメリカ映画を変えた『イージー・ライダー』のテーマソング。これも、実にアメリカ臭い! 今聞いても充分楽しい。


スザンヌ・ヴェガ コンサート EX Theatre (六本木) 2014.04.07

音楽にはあまり縁のない私が唯一そのコンサートに複数回行っているのがスザンヌ・ヴェガ。ロンドンのカドガン・ホールのコンサートに2度行っている。東京でも聞けて幸運だった。

新しいアルバム、”Tales from the Realm of the Queen of Pentacles” のワールド・プロモーション・ツアーのひとつとして、東京と大阪でコンサートをしている。

唱った曲は、新しいアルバムからと、彼女の初期のクラシック(*は新アルバムから):
Marlene on the Wall
Caramel
The Fool’s Complaint*
Crack in the Wall*
Jacob and the Angel*
Small Blue Thing
Gypsy
Queen and the Soldier
Don’t Uncork*
Song the the Stoic*
Left of Centre
Some Journey
I Never Wear White*
Luka
Tom’s Diner
(以下、アンコールで)
Undertow
Horizon*
Rosemary

始まった途端に、何だかもの凄く幸せな気分になった。古い友人に久々に会った感覚かな。何しろ25年以上聞き続けているから。ほぼ毎週、一度は聞かないことは珍しい。この十数年アイルランドの歌手を聞くことが多くなったんだけど、ヴェガだけは私の変わらぬ定番。

コンサートが終わった後も、帰り道も、帰ってからも、夜、夢の中でも、ずっと彼女の歌が響き続けた。

ロンドンのコンサートでは、前座の人が出て来て30分弱演奏した後、ヴェガが出て来たが、今回は7時半の開演時間きっかりに彼女自身の”Malene on the Wall”で始まった。古い歌は皆私がよく聞いてきた歌。私は彼女のオリジナルアルバムは全て持っているはず。ベストアルバムなどのアンソロジーも全部じゃないけど何枚もある。ニュー・アルバムも既に買っていて、何度も聞いているのだが、他のアルバムと比べて、いまひとつピンと来ないと感じていた。でも、コンサートで聞いてみて、やはりCDで聞くのとは違う魅力を感じた。特に、”Song of the Stoic”と”Horizon”は良かった。歌詞に年齢を経て書ける深みを感じる。”Luka”とか、”Queen and the Soldier”といった若さを感じる歌とは違う今の彼女の世界。その意味で、私はこの前のオリジナル・アルバム”Beauty and Crime”の円熟した叙情がたまらなく好きなんだが、今回全く唱われなかったのはとても残念だった。

伴奏は、ロンドンでは3人くらいいたと思うが、今回はギターのGerry Leonardひとり。それでも見劣りしなかった。Gerry Leonardは、ヴェガも紹介していたが、デヴィッド・ボウイのミュージカル・ディレクターを務めた事もあるかなり有名なミュージシャンらしい。英語版ウィキペディアにも独自の項目があった。今回のアルバムの曲の作曲はほとんどがヴェガと彼の共作。

観客は老若男女、様々の人がいた。外国人(と言っても、東アジアの人は見分けがつかないので、見て分かるのは白人だけだけど)もかなりいた。一番多かったのは、30、40歳代の男性だろうか。となりの席のオジサン、もの凄いファンのようで、体を揺すりながら聞いて、手が痛くなるほど拍手して、えらく興奮してたな(^_^)。ちょっとうるさかったけど、熱烈なファンのようなので許せた。

これからまたコンサートのことを思い出しつつCDを聞いて楽しめる。また東京に来て欲しい。

ヴェガの曲を聴いてみようという方はこちらに4曲。本屋さんで開かれた最近のミニ・コンサートのライブ。アメリカの公共放送、National Public Radioの番組の録音のようだ。曲は、”Luka”, “Crack in the Wall”, “I Never Wear White”, “Tom’s Diner”。単なる書店での録音なので音響などは多くを望めないが、この素朴さがヴェガらしくて良い:


2014/04/06

“The Fall” (2013年、BBC Northern Ireland制作テレビ・ドラマ)


1時間のエピソードが5回で完結するシリーズドラマ。BBC北アイルランドの制作で、舞台になっているのもベルファスト。主演はGillian AndersonとJamie Dornan。と言っても、Dornanの方は私は全く知らず、このドラマに出た時点でほぼ無名の人らしい。スターは、Gillian Andersonだけ。脇役で、2、3人、他のドラマの脇役で見た記憶がある人が出ているくらい。

ベルファストで連続女性殺人事件が起こるが、地元の警察は犯人逮捕に繋がる手がかりをつかめず、ロンドン警視庁(The Metropolitan Police、略してMet)から敏腕刑事、DCI Stella Gibson (Gillian Anderson) が陣頭指揮を取るべくやってくる。彼女は最初から全く愛想のない冷たい態度で、まわりの男性刑事を圧倒するというか、畏れさせているように見える(英米の警察ドラマでは、こういう切れ者の女性上司は定番になった)。一方、視聴者には犯人は最初から知らされている。公務員のようだが、家族を犯罪や事故で亡くした人のカウンセラー(grief counsellor)をしているPaul Spector (Jamie Dornan)が一連の殺人を犯している。この2人は、目的は違うが、どちらも偏執狂的な一途さで、犯罪捜査と殺人の準備にあたる。かなりスローなドラマで、時にはそのもったいぶったあざとさにうんざりしかねない。にも関わらず、画面から目を離せない緊張感がずっと持続する。ユーモアや遊びの要素がかけらもなく、一貫して黒々としたサスペンス感が張り詰めたドラマ。暴力やセックスのシーンもかなりある。好き嫌いがはっきり別れそうだ。

私にとって特に興味深かったのは、このドラマの設定された場所や背景。まず、タイトルがThe Fallとなっているのだが、これは何を表すのか私には未だ判然としていない。人間の堕罪を意図しているのか。但、殺人が起こった場所のひとつに、The Falls Roadという通りがあるので少しは関係がありそうだ。調べてみると、これはベルファストのメインストリートのひとつらしく、しかも共和国派(つまりカトリック・コミュニティー)の牙城らしい。更に、途中では、プロテスタント (the loyalists) の牙城であり有名なShankill Roadも出て来て(The Falls Roadの近く)、Spectorがその通りにある、カウンセリングしているクライアントの家に行くと、カトリック系のならず者にからまれて、「用もないのに来ると命はないぞ」、と脅される。ドラマだから鵜呑みには出来ないが、未だに、こんな所もあるのかしら、と驚いたりいぶかったりした。こういう、歴史的にも暴力に支配された土地柄を背景にしているために、政治的犯罪を扱ってはいなくても、荒涼とした雰囲気が醸成される。

Anderson演じるStella Gibsonの力強いキャラクターが面白い。ずば抜けた能力と冷静さ、ドライさが、上役も部下も警察の男達を引きつけ、また反発させる。彼女は、捜査を始めた途端に、自分より若い既婚者の刑事に目をつけ、自分のホテルの部屋番号を言って誘い、何だか実用一点張りという感じの、ジムで運動しているみたいなドライなセックスをする(北欧ドラマThe Bridgeの女刑事Saga Norénを思い出した)。彼女自身がこの”one-night stand”を「女が男を抱いたのであって、その逆ではなかった」と表現している。やがてその若い刑事が殺され、彼女もふたりの関係について取り調べを受けるが、全く動じない。殺人犯のSpectorと彼女の間にはほとんど直接の接点は無いが、SpectorはGibsonに自分と似た要素があると感じ、惹きつけられる。しかし、視聴者は、Gibsonに感情移入は出来ず、またそれを期待されてもいない。

Spectorのキャラクターは、良き妻と2人の可愛い子供に恵まれているが、平凡な家庭生活の裏に、激烈な抑圧感を抱え込んで生きていて、それをDormanが見事に表現している。洋の東西を問わず、狂気としか思えない残忍な殺人があるが、こういう人が犯すのだろうか、と感じさせる脚本と役作りに仕上がっている。

ひとつ、大きく評価が分かれるのは、終わり方。Amazon.co.ukのカスタマー評を見ると、終わり方が気に食わないので嫌い、という人が大分いるようだ。確かに、はっきりしない結末。多分次のシリーズに含みを残すためだろうか。その第2シリーズは今年放映される予定のようである。

この前にブログに書いたデンマークのクライム・ドラマThe Killing 1と比べると、もちろんあちらの方が数段面白い。主人公達、特にサラ・ルンドは、Stellaより大変魅力的で、感情移入もできる。しかし、視聴者が共感しがたい冷たさこそ、Stellaの魅力でもある。The Prime Suspect(『第一容疑者』)ほどは面白くないが、主役のキャラクターから言って、その流れのドラマとも言える。かなり迫力あるドラマなのでクライム・ドラマの愛好者には勧められるが、例えば、『フロスト警部』とか、『モース警部』の類の、のんびり楽しめる一般的なエンターテイメントにはならないでしょう。

2014/04/03

"The Killing" (キリング)シーズン1


やっと見終わった、The Killing 1 ! いやはや長い。ひとつの殺人事件を扱うだけの連続ドラマなのに、全20話だからね。随分前、イギリス留学中に、10話くらいまで見ていて、iPlayerで追いかけたんだけど、時間切れで、半分程度しか見られなかった。その後、日本でも有料海外ドラマ・チャンネルで放送され、日本語字幕付きDVDも発売されていて、日本でもファンがいるようだ。デンマークのクライム・ドラマで、スウェーデンの『ワランダー』と共に、世界的な北欧クライム・ドラマ・ブームの皮切りとなった傑作だ。すでに、第3シリーズまで作られている。第2、第3シリーズはそれぞれ10話ずつ。また、アメリカで第1シリーズの短いリメーク版も作られた。去年の夏ロンドンに行った折、オックスフォード・ストリートのHMVでシリーズ1のDVD5枚組ボックスが安い値段で売られていたので買ってきて、昨年末から少しずつ見てきた。デンマーク語はもちろん分からないので、英語字幕で見るから、時々字幕が追い切れない台詞もあり、20話もあると、最初の方で何があったかなんて、終わりになる頃には、私の乏しい記憶力では忘れている。更に、途中で退屈する時もあったけど、それでもやめられず、最後まで見ることになった。

上記の様に、半分くらいはBBCで放送時に既に見ていたのだが、せっかく買ったDVDなので、最初から見なおした。大分忘れていると言う事もあるが、2度目に見た部分でも、話の大筋は分かっていても登場人物の変化を追っていくだけで、結構面白かった。更に今回は、10話くらい見たところで、犯人を知ってしまったんだよね(^_^)。これは内容から推量したのではなくて、偶々見ていたガーディアン紙のテレビ・リビューのビデオ・クリップで、第1シリーズの犯人をリビューアーが言っちゃったんだ!昔のドラマだから、もうそんな事気にする人もいないということなんだろうけど・・・。ガクッときたけど、それでも見続ける価値は充分あった。このドラマの面白さは、基本的に、キャラクターの心理描写だから。クライム・フィクションで言うと、イアン・ランキンとかP. D. ジェイムズを読むような感じ。犯人にたどり着く紆余曲折から、ランキンの読後感に近いかなあ。

物語全体の大枠は、ナナ・ビルク・ラールセンというコペンハーゲンの高校生が行く方不明になり、やがて死体で発見される。その後の捜査期間の20日間を、犯人逮捕まで、1日1エピソードとして描いている。

ストーリーは幾つかの大きな筋を織り合わせて出来ているが、特に、刑事サラ・ルンドとイエン・マイヤーの犯罪捜査と、若手政治家トロールス・ハートマンと市長ポール・ブレマーを中心としたコペンハーゲン政界内の権力闘争が大きな2本柱と言えるだろう。更に、殺されたナナの家族、父のタイス・ビルク・ラールセン、母のペニレ、そして彼らの周辺の人々、また、ナナの教師などの学校関係者などが、それぞれに様々な葛藤を抱えていて、心理的にも複雑なドラマを繰り広げる。

サラ・ルンドの、食らいついたら離さないしつこい捜査、それに振り回される部下のマイヤーの哀れさ、更に二転三転する捜査対象に翻弄されるビルク・ラールセン一家やハートマンと彼の2人の側近、リエとモーテン、のキャラクター描写も魅力的。被害者家族、タイスとペニレの夫婦は特に悲痛だ。警察の捜査に一喜一憂し、怒ったり絶望したり、警察を信じたり不信に陥ったりと、良く描けている。タイス夫婦の幼い息子達も哀れ。

政界の権力闘争は、それ自体がドラマとして独立できそうなくらい面白い。特に引き込まれたのは、市長のポール・ブレマーの底知れぬ老獪さ。野心溢れ、エネルギッシュなハートマンを様々な方向から執拗に揺さぶる。ある時は相手を懐柔したかと思えば、ある時は徹底的に相手の弱みを針でつつくように責め立てる。ハートマンはこの化け物のような政治家に翻弄されるが、一方で彼も貪欲な野心を持ち、目的の為には、どんな人物も切り捨てる冷酷さを備えていて、ブレマーの好敵手と言える。私はこういう腹の奥底の知れない政治家とか、野心たっぷりの人などを描くドラマや小説にかなり興味がある。特にブレマーのような人には、お近づきにはなりたくないが、ドラマで見るのはとても面白い。

イギリスのクライム・ドラマもそうだが、日本の娯楽ドラマでうんざりさせられるお涙頂戴のセンチメンタリズムがないところも良い。最後、精神的にもずたずたになったサラ・ルンドが警察署を無言で出ていくところがとても印象的。

私は子供の時以来、春、特に3月4月が大嫌いで、毎年憂鬱な気分で過ごすんだが、このドラマを見ている間は気が紛れ、ありがたかった。

(関連記事)2011年5月の記事で、幾つかその頃見ていたドラマについて書いていて、最後にThe Killingにも触れていた。

2014/03/21

あるブログを読んで

先日芋づる式にリンクをたどっていて偶々見つけたBroccoliさん(ペンネーム)という方の、”a pile of thougts”という素晴らしい英語のブログ。但、筆者は日本人。立派な、情感のあるきれいな英語で羨ましいです。私も英語を書くのは好きなんですが、どうも上手くありません。どうしてこういう風に書けるようになるんだろう、海外で育ったのかなあ、なんて思っています。早速ブックマークしました。この方の、プロフィール欄の文章がとても印象に残ったので、一部引用します:

“So I come here and write, sometimes imagining someone on the other side of the screen, sitting face to face with me in a place I've never been to. You know when it's sometimes easier to talk to strangers? It's probably something like that.”

(それで私はここ[このブログ]にやって来て書く。時にはスクリーンの向こうにいる誰かを想像しながら、私の行ったこともない場所で私と向き合って座っている誰か。時々は、赤の他人のほうが話しやすいことってあるでしょう?多分そういう感じ。)

シンプルな単語を使ったシンプルな文、でもなかなかこういう風にさりげなく書けないなあ。この文、多くのブロッガーの気持ちを良く表していますね。多くのブログにはほとんど反響がありません。コメント・ゼロのエントリーがずっと並んでいるブログは結構多いです。このBroccoliさんのところも、2回のエントリーに一度くらいの頻度でコメントがある程度。でもスクリーンの向こうで誰かが読んで、何かを感じているかも知れない、と思って書かれるのでしょう。

ブログって、TwitterやFacebookと違い、逆説的だけど、反応があまりないのが良いと思います。反応がたくさんあると、それに振り回されますから。それに、少ない友達を大事にするのと似ています。友達がとても多いと、どうしても物理的に個々の相手と向き合う時間も少なくならざるをえないかもしれません。読者の少ないブロッガーにとっては、ひとりひとりの読者がとても大切なのです。

私のブログは、アクセス分析によると、一日のアクセスが、私自身を除くと2,3人という日が多いようです。先日は1人という日もありました。検索か、何かのリンクをたどってたまたま来られる方が主でしょうが、多分定期的にチェックされる方も数人、2、3人?くらいはおられるかもしれない・・・? あなたが、繰り返し「スクリーンの向こうにいる・・・私の行ったこともない場所で私と向き合って座っている誰か」だとしたら、お礼を申し上げます。

2014/03/18

カフカの思い出

先日のブログ・エントリーで紹介した「アリスの英文学日記」で筆者のアリスさんがフランツ・カフカの『変身』の感想(注)を書いておられた。彼女の記述で、大変鋭いと思った点は、『変身』が「ひきこもり」の話だと書かれている点である。自室の、謂わば囚人となってしまったグレゴール・ザムザは、まさしく今の言葉で言えば、元サラリーマンの、ひきこもり中年である。中高年の男性で、自分はひきこもってはいなくても、会社とか役所、社会や家庭で色々な断絶や疎外感に悩まされている人々の中には、「なるほど!」と共感される方もおられるのではないだろうか。

私にとって、カフカは10代後半から20代にかけて、最も好きな作家のひとりだった。彼が好きだったせいもあって、私の大学の第一志望は独文だった。もちろん落ちてしまったが(^_^;)。英文科に入ったのは、単に英文科がたくさんあって、私の様な落ちこぼれでも入れてくれる学校があったからに過ぎない。中高生のころ、私はイギリス文学にもイギリスにもほとんど関心を持っておらず、オースティンやディケンズの良さを幾らかでも感じるようになってきたのは、20歳代半ばになったからだ。

昔のことで、細かい事は思いだせないが、カフカは高校生の私をぐいぐい引きつけたと思う。『変身』は『審判』ほど印象は強くはないが、ザムザの置かれた状況は、毎日、先生とも級友ともほどんど話すこともなく学校にだけは通っていた、「学校内ひきこもり」とでも言うべき状態だった私にとって、かなり共感できる内容だった。また、思春期の、心と体が上手くコントロール出来ない状況は、カフカの意図にかかわらず、芋虫の体に苦しむザムザと似たところがあったと思う。ザムザの芋虫になった体は、高校生の頃の私にとって、自己嫌悪や劣等感が凝縮された姿のように見えたかもしれない。また、読者によっては、芋虫に性的な寓意を感じる方もあるだろう。

サラリーマンだったザムザに視点を置いて考えると、彼は近現代の資本主義産業社会における落ちこぼれである。どのような理由であれ、朝起きて、身なりを整え、会社・役所・商店に出勤する(子供なら通学する)、これが出来ない人は、社会でも家庭でも居場所を与えられない怪物、異邦人であり、同僚からも家族からも市民として失格とされる。産業社会において、通勤・通学し、社会の一員としての「生産的」役割を果たすことは、倫理的義務であり、それを実行できない人は、道徳的に欠陥があると見なされかねない。

カフカの作品で私が特に好きだったのは、『審判』である。わけも分からない警察・官僚機構から追及されるヨーゼフ・Kは、現代人の不安を実に良く代弁している。問題は、権力がどこにあるか、誰が責任を持っているのか、どこに抗議や相談をしたり、訴えたりすればよいか、分からない事だ。日常の生活と街角の延長にある底知れない闇。このディストピアは『1984』の、独裁者の見えないもう一つの形だ。『変身』においてもそうだが、平凡そうに見える役人、会社員、隣人、いや家族までもが、真綿で首を締めるように主人公の生活をあれこれと強制して、身動きが取れなくなっていく。20世紀以降、議会制民主主義が台頭してから、権力は、議会とか、委員会とか、官僚機構の中に、つかみ所なく、限りなく分散されて存在するようになった。平凡な多くの人々が寄ってたかって、「普通」でない少数者を押しつぶすメカニズム。ある意味で、議会制民主主義とは、多数派が少数派に思想とか国籍とか宗教を強制する手段としても大変有効なのは、昨今のウクライナ情勢を見てもつくづく感じることだし、日本でも同様だと思う。

カフカが生きた20世紀初頭は、ポグロムと呼ばれるユダヤ人迫害が東欧やロシアで頻発した時代でもある。カフカはユダヤ人の居場所が確保されていた、比較的寛容なチェコのプラハで西欧の文化に親しんで育ったが、ヨーロッパの他地域でのポグロムを切実に感じてもいたのではないか。自室の囚人となったザムザは、後の、地下室に閉じ込められたアンネ・フランクと彼女の同時代人を思い出させもする。ひきこもったまま忘れ去られて死んでゆくザムザも、突然連れ去られて「犬のように」処刑されるヨーゼフ・Kも、後の多くのユダヤ人達の運命を予兆するかのようだ。

(注)アリスさん、ご自身のブログによると、今春、東大に合格された。研究者として名前が知られる日も遠くないかもしれない。すでにイギリス小説の研究者の間では、この若き秀才に注目している方もおられるようである。将来が楽しみだ。

2014/03/13

最後の審判の絵(カンタベリー大聖堂の写本から)

カンタベリー大聖堂のホームページには、”Picture This”というコーナーがあり、以前にも紹介した。このコーナーでは、大聖堂の図書館が所蔵する中世・近代初期の貴重な写本や刊本を取り上げて、写真付きで解説している。毎月1回更新されて、新しい写本や刊本が付け加わるので、私はそれを楽しみにしている。3月は、14世紀と15世紀の境目、1400年頃に出来た写本、Canterbury Cathedral H/L-3-2、から取られた1枚の彩色挿絵が取り上げられている。

この本は時祷書(A book of hours)。時祷(時課とも言われる)は、カトリック教会や正教会で一日の決まった時間に日課として唱えることを定められた祈り。これらは、朝課(matins, 3 am)、賛歌(lauds, 6 am)、一時課(prime, 9am)、三時課(terce, noon)、六時課(sext, 3 pm)、九時課(nones, 6 pm)、晩課(vespers, 9 pm)、終課(compline, midnight)である。その祈りを記した本がヨーロッパ中世においては、数多く作られた。それらはしばしば素晴らしい挿絵で装飾された豪華本であり、おそらくその中でも最も有名な本が、ランブール兄弟による『ベリー公の豪華時祷書』Les Très Riches Heures du Duc de Berry)だろう。

時祷書は、これらの時祷において唱える祈りを記した本。旧約聖書の雅歌、詩篇、聖者伝の一節、主の祈り、その他が、唱えられる。

さて、今回、カンタベリー大聖堂のホームページで紹介されている本は、『ベリー公の時祷書』のような豪華な本ではないが、それでも随分手が込んだ本だ。サイズは9x7センチとかなり小さい。20枚の彩色挿絵が綴じ込まれており、ホームページで見せてくれたのは、そのうち、「最後の審判」(The Last Judgment)を描いた1枚。頁の挿絵をクリックすると大きくなり、更にカーソルを合わせるとその部分のみが拡大されるので、大きくして見て欲しい。

ご存じのように、「最後の審判」はキリストの死後、復活してまた昇天した後、もう一度、今度は全ての魂を裁いて、永久に地獄と天国に行くよう振り分けるという神による裁判である。この日は、The Doomsday(審判の日)と呼ばれる。これは既に起こったことではなく、これからの未来の出来事であり、(もしそれを信ずるならば)今この地上で生きている我々にとっても大変重要な出来事となる。絵のデザインは、ご覧になれば分かるように、中央に紅の服をまとい、上半身は裸のキリストが描かれている。両手や脇腹に、磔刑の折につけられた傷口が見える。彼の足下にあるのは地球であり、彼が世界の支配者であることを示す。キリストが座っていると考えられる玉座は、伝統的な虹。下にいてキリストを見上げるのは、既に死んだ魂。彼らは最後の審判に出るために、地中からよみがえって来た。これらの魂は、彼らの弱さを示すため、主として裸体で描かれるそうだが、2人は未だに白い死に装束を身に着けている。右から2人目は剃髪をしているので修道士だ。キリストの上に飛んでいるのは2人の天使。左には聖母マリア、右は福音者のヨハネ。マリアとヨハネを左右に描くのは、キリスト磔刑図の決まったデザインでもあるので、この写本の中世の読者は、この絵を見ながら、キリストの磔刑も直ぐに頭に浮かんだことだろう。つまり、キリストが人間の犯した罪の為に払った犠牲と、我々が死後の魂として将来受けなければいけない裁きを常に胸に刻みつつ、祈り、これからの人生を生きよ、というメッセージであろう。

多くの最後の審判の図では、これらの人物に加え、大天使ミカエル(Archangel Michael)が描かれるそうだ。彼は、秤を持ってキリストの裁きの助手を務める。また、その他の聖者が描かれることもある。こちらは、フランドルのロヒール・ファン・デル・ウェイデン( Rogier van der Weyden, 1400?-1464)の「最後の審判」の祭壇画だが、中央で秤を持っているのが大天使ミカエル。

2014/03/11

大英図書館が取得した中世劇写本の続報

先日このブログで書いた大英図書館の取得した中世劇写本、British Library Additonal MS 89066/1と89066/2について、同図書館のMedieval Manuscript Blogで、学芸員のJulian Harrisonが更に説明を加えているので、概要を紹介したい。

この2つの写本は既にデジタル化され、インターネットで閲覧出来るようになっている:第1巻第2巻

挿絵画家Loyset Liédetについて

前回書いたように、この写本はLoyset Liédet(1420?-1479)による20枚の彩色挿絵が入っている。彼はフランス北部の町Hesdinの出身で、1469年にブルージュの出版業者(写本製造業者)の組合に加入している。彼はブルゴーニュ公のお気に入りのアーティストであり、少なくとも15冊、おそらく20冊くらいまでの「現存する」写本の装飾をしたと考えられている。ということは、大昔の事であり写本の多くは失われたので、それよりも遙かに多い数の写本制作に関わったに違いない。この写本においては、彼は特に、劇の世俗的な場面を想像力を駆使して描くことに長けている、とHarrisonは書いている。

Liédetの作品は当時のファッションや織物、世俗の生活などの貴重な記録であり、戸外の風景に加え、室内の様子への新たな関心がうかがえる。この写本で、Liédetはト書きを含む劇のテキストの記述を挿絵において綿密に表現している。

写本制作の費用

フィリップ善良公の死後に作られた出納簿により、写字生(scribe)と画家の名前、写本制作の費用が分かっている。写字生は、Yvonnet le Jeune。この本は全部で39帖(クワイア、quires、注1)あり、ひとつの帖について、16シリング(注2)を支払われている(総額で30ポンド強)。Loyset Liédetはそれぞれの挿絵につき18シリング、20枚あるので、全部で18ポンド受け取っている。大文字(capitals)の細密な装飾に対しては、各12ペンス、全部で24シリング(1ポンド強)支払われた。表紙や背などの装丁(binding)には31シリングかかった。また、当時の本は金具のベルトでしっかり閉じられる、と言うか、縛られるようになっていたりするが、この本もそうだったようで、この本を縛る金具に14シリングかかっている(但、当時のbindingは残っていない)。本全体の費用は、51ポンド19シリング。他の芸術・工芸品と比較すると、同時代の大きく豪華な3枚続きの祭壇画(triptych)の例で、33ポンド強かかっているという記録がある。生活費と比較すると、フィリップ公宮廷の上級の軍人(The Master of Cannon)、つまりかなりの高給取りの1年の給与が6ポンドという時代だったそうなので、少なくとも今の庶民感覚で言うと、数千万円単位のスケールの豪華本だったのではないかと(これは私が)推測する。

(注1)帖(quire):中世西欧の多くの写本は、まず4枚の羊皮紙を重ね、これを2つに折って8枚(16ページ)の冊子を作る。この一束16頁の折られた羊皮紙を"quire"と言う。こうした冊子を更に重ねて本とする。但、それ以外の枚数の羊皮紙を折り重ねる場合もある。また、近現代の植物性の洋紙における"quire"は別の重ね方:通常、24〜25枚の紙を重ね合わせた冊子。
(注2)1シリングは12ペンスで、1/20ポンド。

2014/03/09

大英図書館が取得したフランス語中世劇の豪華写本

3月6日に大英図書館(British Library)のインターネット・サイト、Medieval Manuscript Blogで発表された記事(筆者は学芸員のJulian Harrison)によると、大英博物館は、相続税の物納という形で、フランス語で書かれた貴重な中世演劇の写本を取得したそうである。これまでは、所蔵美術品でも大変有名なChatsworth Houseを所有するデヴォンシャー公爵(キャベンディシュ家)のコレクションの一部であった。今回、相続税の物納に加えて、更に、The Art Fund(美術館の作品購入を支援するNGO)など、幾つかの公益団体や個人篤志家による寄付、大英図書館友の会の資金等々もこの取得に貢献したとのことである。以下、この注目すべき記事の概要を、背景など多少の説明を加筆してまとめておきたい。なお、上記の記事とは別に、この写本に関するプレス・リリースもある。

この写本(British Library, MS Additional 89066/1 & 89066/2)は、元々、ブルゴーニュ公フィリップ3世、別名フィリップ善良公(Philip le Bon, 1396-1467)の為に作られた。ブルゴーニュ(Bourgogne)というのは、英語ではバーガンディー(Burgandy)であり、フランス東部の内陸部の地方。但、当時のブルゴーニュ公国は、主君であるフランス国王の権威と比肩しうる大国であり、大体において今のオランダ、ベルギーとその周辺を含む低地地方(the low countries)を領地に治め、西欧屈指の豊かな大国だった。低地地方は貿易の中心地であり、西欧の富が集積し、文化や流行の生まれる場所だったのは、この地で生まれたタピスリーなどの工芸芸術やその後の北方ルネサンスの絵画を見ても分かる。とりわけ、このフィリップ3世は、当時の西欧の王や貴族の中ではもっとも勢力があっただけでなく、芸術の庇護者としても著名だ。

この写本に記されているのは、フランス語の韻文で書かれた演劇作品で、ベネディクト会修道士のEustache Marcadé (-1440)作のLe Mystère de la Vengence(復讐の劇)。テキストは、中世のテキストとしては貴重な、欠落部分の無い完結した作品であり、羊皮紙に書かれ、2巻の書籍として綴じられている。更に注目すべきは、当時人気があり、ブルゴーニュ公の為に仕事もした挿絵画家、Loyset Liédet (-1479)によって描かれた20枚の豪華で大きな挿絵を含んでいることだ(大英図書館の記事に数枚が載っている)。その題材は、劇の内容に沿っており、ローマ人によるエルサレムの破壊である。

Le Mystére de la Vengenceは、14,972行のフランス語の韻文で書かれ、上演には4日を費やすことになっているそうだ。内容は、キリストの処刑の後の、第一次ユダヤ戦争におけるローマ軍によるエルサレムの破壊である。

より具体的には:

第1日:4つの擬人化された徳目(正義、慈悲、平和、真実)が、神が、エルサレムに対し、キリストの処刑の復讐をすべきか、議論する。神は、破壊の前に多くの警告を発する、と約束する。
第2日:ローマ皇帝ティベリウスは、キリストの為した奇跡について、総督ピラトからの手紙を受け取る。同時に、(後の皇帝である)ウェスパシウスはスペインでハンセン氏病を患っていたが、キリストが汗をぬぐった聖ベロニカのヴェールにより、奇跡的に治癒される。
第3日:皇帝ネロは、ウェスパシウスとその息子ティトゥスをエルサレムに派遣し、ユダヤ人の反乱を鎮圧。
第4日:ローマ内戦時代(AD 68-70)、別名「4皇帝の年」、が描かれる。ウェスパシウスがエルサレムの破壊を命じる。

この劇の作者、Eustache de Marcadé (-1440)は、聖史劇、Le Mystère de la Passionの作者として知られている。この劇は、しばしば、 La Passion d'Arras(アラスの受難劇)とも呼ばれる。今回発表された作品、Le Mystére de la Vengenceにはもう一つ写本があり、アラス市の図書館に所蔵されているようだ(Bbliothèque municipale MS 697)。こちらの写本は約1,000行短く、公演も3日で行われることとなっている。また、彩色の挿絵もついておらず、ペンとインクによる挿絵がある。紙は、大英図書館写本と違い、羊皮紙では無く、植物性の紙である。そういうことで、大英図書館写本と比べ、物理的にかなり質素な写本であると言える。

Le Mystère de la Vengenceはフランス北部の都市Hesdinの近くの町Abbevilleで1463年に上演された。その際、ブルゴーニュ公も観覧したと推測されており、今回の写本はその上演を記念して作られたと考えられている。

大英図書館のインターネットサイトでは、この写本について今後も続報を流すと言う事であるので、注目したい。また、おそらく、他の大英図書館の写本同様、この写本もデジタル化され、インターネットで公開されるだろうから、日本も含め、世界中の研究者の研究対象になることだろう。フランス語の中世劇は、刊本が出ていないものも多いが、やがて編集され、公刊されることを望みたい。写本は既に3月8日から、大英図書館の常設展示場、Sir John Riblat Treasures Galleryにおいて一般公開されているそうなので、美しい挿絵もついていることでもあり、観光等で行かれる方もご覧になる価値はあるのではないか。

なお、このブログでもこれまで何度か言及しているように、フランス語の中世劇については、片山幹生先生の専門のサイトがとても詳しいので、関心のある方にはお勧めしたい。あとの方の(最近の)記事で、今回の写本の作品のような聖史劇について書いておられる。

2014/03/06

Shrove Tuesday(懺悔の火曜日)とその文化

先日3月4日は、今年の「懺悔の火曜日」Shrove Tuesday (Pancake Day) だった。翌6日は「聖灰水曜日」Ash Wednesdayで、四旬節の始まり。Shrove Tuesdayは仏語圏ではMardi Gras(英訳すると、Fat Tuesday、太った火曜日、いや脂肪の火曜日、というべきか)、イタリア・スペイン・ポルトガル語圏では「カーニバル」(英語では、carnival、謝肉祭)となる。

"shrove"は多分動詞"shrive"の過去形から来ている。"shrive"は司祭が「懺悔を聞く」、あるいは「(懺悔を聞いた後)償いの苦行(penance)を課す」といった意味。既にアングロ・サクソン時代の古英語から英語にある、外来語ではない所謂「本来語」で、古英語の不定詞では"scrifan"と綴った。

カトリック圏ではカーニヴァルは好きなものを飲み食いする無礼講の日、という印象があるが、今イギリスではそれはない(と思う)。但、イギリスでも、カトリック時代の中世末期にはそういう傾向はあったみたいだ。道徳劇MankindはShrove Tuesdayの無礼講を背景としている、という解釈をした論文もある。Shrove Tuesdayが終わると禁欲のLent(四旬節)に入る。中世イングランドの代表的なロマンス『ガウェイン卿と緑の騎士』(Sir Gawain & Green Knight)で、主人公ガウェインが謎の城主ベルティラックの城にたどり着いたのは四旬節だったと記憶する。肉が食べられない期間なので、「申し訳ないが、お魚しかお出しできない」というような台詞があった。

Shrove Tuesdayは英語圏ではPancake Dayとして知られている。四旬節(Lent)の間に食べるのを控えられた食物として、肉類だけで無く、卵や乳製品も食べない場合が多かったようで、そのため、四旬節の直前にパンケーキを作って卵やミルクを平らげようとしたことがPancake Dayの名称と関係しているようだ。

Shrove Tuesdayには世界各地で大食いとか無礼講の慣習が残るが、イングランド各地では、Pancake raceという催しが行われる。これは日本で言うとパン食い競争みたいなもの。フライパンとパンケーキを手に持って駆けっこをする一種の障害物競走+仮装行列。男女ともにエプロンをするとか、男性も主婦みたいに女装するとか、それぞれの土地で、ルールが決められているようだ。Pancake Day raceの映像がたくさんネットにアップされており、ロンドンの一例がYouTubeにある

また、Pancake Dayには恒例のフットボール(サッカー)の試合が行われる場所も幾つかある。プロの試合では無く、町の人々が独自のルールに則って行うお祭りだ。中でも有名なのは、12世紀かそれ以前に始まったとされるダービシャーのアッシュボーンのRoyal Shrovetide Football。この町では、通りも野原や畑も人家の庭も、果ては小川の流れに浸かってまで、町全体を競技場として、何十人もの男達が2つのチームに分かれて午後2時から10時まで、死力を尽くしてひとつのボールを取り合う。以前、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがあるが、フットボールとは言っても、蹴るだけで無く、何でもありのラグビーみたいだった。詳しくはウィキペディア英語版に解説あり。日本にも、玉取祭とか、玉せせり、というお祭りがあるが(福岡県の筥崎宮など)、民俗学的共通点がありそうだ。

四旬節とか、カーニバルというと、私が思い出すのは、ピーテル・ブリューゲルの名作絵画、「カーニバルと四旬節の争い」(1559年)である。絵の真ん中に二人の人物が対峙している。右には、魚をのせたパン焼きに使うしゃもじを持つ痩せ細った男(いや女?)(四旬節の象徴)。左には、串刺しにした肉を持ち、酒樽にまたがった太った男(カーニバルの象徴)。人間生活の2つの面(禁欲と放縦)、がせめぎ合っている。まるでトーナメントに出て来た騎士が槍を構えて相手を威嚇するように、互いに肉の焼き串と、魚をのせたしゃもじを相手に向けている。彼らの周囲では、ありとあらゆる人々の日常の営みが繰り広げられているが、その人達もまた、この「カーニバルと四旬節の争い」を生きている。痩せた「四旬節の寓意」の周りにいる人達は、四角いワッフルだの、まるいパンケーキなんかを食べているし、この人物の足下の台にもパンケーキとプレッツェルが置いてあり、Pancake Dayとの繋がりを思い出させる。ミルクや卵がたっぷり入ったパンケーキやワッフルに対し、プレッツェルは卵もミルクもイーストも要らない質素な四旬節の食物。カーニバルはお祭りであるから、それらしい催しも描かれている。左手前の4、5人は仮面をかぶり、風変わりな服装をしており、仮装行列である。絵の丁度中央には、縞模様の服と角のついた帽子をかぶった道化らしき人がいる。1番左の建物(酒場)の前で、弦楽器の伴奏付きで行われているのは演劇だそうで、その劇のタイトルや詳細も研究されて分かっているようだ。ちなみに、イングランドで宿屋兼酒場(Inns)の中庭を利用したステージでの上演が始まったのも、ブリューゲルの絵と同じ頃の1557年前後。その他、素人でも近代初期の民衆の暮らしについて色々と想像を膨らませられる、見ていると時間を忘れる一枚だ。

この「カーニバルと四旬節の争い」は、西欧文化における伝統的テーマで、文学においてもラブレーの『パンタグリュエル物語』第4の書など、かなりの例があるようだ。季節の祭としてのカーニバルと、文学や説教の寓意(アレゴリー)における禁欲や放縦が結びつけば面白い作品が出来そうであるし、そういう視点で色々な作品の解釈が可能だ。バフチン的解釈とも言えるだろう。例えば、ロナルド・ノウルズ『シェイクスピアとカーニバル—バフチン以後』という研究書もある。第5章は、「シェイクスピアの “カーニヴァルとレントの戦い” ―フォールスタッフの場面再考(『ヘンリー四世』二部作)」というタイトルだ。私は読んでないが、ちょっと覗いてみたい本である。

2014/03/05

"-chester"と"-caster"についてもう一度

前々回から “-chester” と “-caster” のバリエーションについて考えているが、もう一度その続き。

“-chester” という語は古英語の辞書の見出しは “ceaster”であるが、これは古英語のスタンダードとなったウエスト・サクソン方言(イングランド南西部)で、口蓋音(palatal)の「チ」(入力の便宜上カタカナで代用)の後、母音が割れた(breaking)からだろう。元々は、そして他の地域では、”cæster”となるはずで、実際、トロント大学のDictionary of Old English Corpusにはかなりこの綴りで出ている。但、語頭の”c-“が口蓋化せず、”caster”(カスター)という語は無いか検索したら、見つからなかった。しかし、”caster”という例が残ってないにしても、中英語の”Lancaster”等から見て、そういう発音が古英語期にもあったのではないか。Fernand Mosséは、Handbook of Middle Englishで次の様に書いている:

The varieties of pronunciation which were produced in OE after a palatal consonant . . . before “æ” and “e” long and short are reflected in ME.  . . .  corresponding to OE “ceaster”, “caster”, “cester”, we find ME place-names in “-chester”(Manchester, Dorcheser, Lanchester) and “-caster” (Doncaster, Lancaster) . . . . (p. 26)※
確かにウエスト・サクソン綴りの"ceaster"ではなく、"cester"、及び、地名の "-cester" はかなり例がある("Exancester", "Ligcester") 。古英語の"æ"はケント方言とマーシア(中部)の一部の方言で、"e"となるので、その為か。但、Mosséの文によるとまるで 古英語の”caster”の例があるように見えるが見つからない。

より専門的になるが、ドイツの言語学者Richard JordanはHandbook of Middle English Grammar: Phonology, trans. Eugene J. Crook  (The Hague: Mouton, 1974) において次の様に説明している:

In “yet” (gate) . . . “e” is to be explained rather from position between palatal and dental as in “chester” (city) (Ormulum “chesstre” here instead of the expected “*chastre” < undiphthongized “cæster”) . . . . (p. 104)

The “caster” forms < OE ‘cæster” in which “c” was not assibilated before “æ”. In south Lancashire “chester” may be a relic of OE Mercian “cester”. The distribution of “caster” / “chester” then reflects a subdivision of Northumbrian into northern and southern Northumbrian. (p. 105)

ということは、同じ”-chester”の地名でも、地域によってその由来は違うと言う事だろうか?

ところで、ミシガン大学のMiddle English Dictionaryで”chester”を捜してみると、”chestre” という見出しで出ているが、1200年頃のテキスト、”Ormulum” だけと言って良い。その他は古英語の写本と言っても良い古英語から中英語への過渡期のテキストからの例になっている。但、地名の”Chester”と”Chestershire”はかなり出てくる。Oxford English Dictionaryでは"Ormulum"以降では近代の例があるが、それらは、人工的に古風な用語を使ってみたというarchaismだろう。

一方、"chester"が消える13世紀にはフランス語から"city"が借用される。また、古英語からのほぼ同意味の語として、"borough" ("byrig", "burh"その他の綴りで)が今も使い続けられている。

私の手に負えない(笑)このトピック、もうこれで終わりとします。

※ 上のMosséからの引用に"Lanchester"という地名があるが、"Lancaster"を私がタイプミスしたのだろうと思われるかも知れないが、原文通り。LanchesterはCounty Durhamの村だそうだ。ダラムから8マイルほどのところにあり、County Durhamの北部に位置する。人口は4000人ほど。ローマ時代には既に砦 (an auxiliary fort)  があったので、この"-chester"がついた地名もなるほど、とうなずける。

更に余談だが、現代作家でJohn Lanchesterという人がいる。近作の Capital (2012) はロンドンに住む色々な人物の生活を同時進行で描いてあの大都会の魅力を浮き彫りにしようという作品で、ロンドンの好きな私には大変面楽しめた(何故かブログに感想を書きそびれたかな)。ロンドンに関心のある方にはお勧めしたい作品。

2014/03/03

'Caister'という語で思い出したこと(前回の記事に続いて)

前回の記事で、-chester, -cester, -casterという、ラテン語のcastrum, -raから出た3つの地名について書いたが、もう一つこのラテン語から出た面白い綴りがあった。それが、”caister”。これは地名の一部と言うより、単独の地名で、Caisterという町が東部ノーフォークの海に面した場所にある。なぜこれを思い出したかというと、今論文の勉強の一部として”The Paston Letters”(『パストン家書簡集』)の2,3の手紙を読んでいるから。これは15世紀イングランド(主としてノーフォーク)に住んでいたパストン家の人々の手紙集であるが、このパストン家の人々と深い繋がりにあったのが、同じくノーフォークのジェントリー(騎士階層)、サー・ジョン・ファストルフ(Sir John Fastolf)。ファストルフは、現代の我々にとっては、シェイクスピアの『ヘンリー4世』の人気者、フォルスタッフ(Sir John Falstaf)の名前の元になった人として有名。みて分かるとおり、ファストルフの綴りを入れ替えて作った名前だ。(但、フォルスタッフという架空の人物の創造にあたっては、もうひとりの実在の人物、ヘンリー5世の友人、サー・ジョン・オールドキャッスル(Sir John Old Castle)に負うところがより大きいらしいが。)さて、このファストルフが所有していた、当時は優美な居城(今は廃墟)が今のWest Caisterという小さな町にあるCaister Castleなのである。

The Paston Letters の多くはこの城の所有に関して関係者の間で書かれている。サー・ジョン・ファストルフは子供がおらず、また正式の遺言書を残さずに亡くなった。彼の死が迫った頃、弁護士だったジョン・パストン1世は彼と長い時間を過ごし、また、妻のマーガレットを通じて彼と姻戚であったので、ファストルフの遺産、とりわけそのもっとも貴重な部分であるCaister Castleを相続すると宣言した。しかし、ノーフォークの大貴族、John Mowbray, 4th Duke of Norfolk、及び、パストンと同様、ジェントリーにして法律家だったWilliam Yelverton、その他も相続権を主張し、非常に長い間、極めて複雑な争いとなり、彼らは、法廷で、そして武力を行使して、この城の取り合いを繰り広げた。

ところで、地名に戻ると、Caisterは現在「ケイスター」と発音するようだが、中世末からそうだったのだろうか。また、だとすると、この /i/ は如何なる理由で入ったのだろう?ノーフォークという地域は独自の方言特徴を持つ地域なので、ちゃんとした理由が付けられるのかも知れない。

パストン家とその書簡集については、講談社学術文庫より、ジョセフ & フランシス・ギースによる平易な解説書が出ている。

社本時子『中世イギリスに生きたパストン家の女性たち―同家書簡集から』は、女性や恋愛・結婚に的を絞ってこの書簡集を読み解いている。物語のように読みやすく、大変楽しい本。ジェントリーであるジョン・パストン1世の娘、マージョリーと、平民で、パストン家の使用人のリチャード・コールの身分違いの恋、そして親兄弟の激しい怒りと反対にもかかわらず、2人がその恋を貫き通して結婚するに至るという事実など、実に面白い。

英語では、原典は中世の英語であり、膨大な量があるが、Norman Davis編のモダン・スペリングによるOxford Classics版が、興味深い手紙を集めていて手軽に読める。