2011/02/24

Alison Weir, "Lancaster and York: The War of the Roses" (1995; Vintage, 2009)

人物中心に語る薔薇戦争
Alison Weir, "Lancaster and York: The War of the Roses"
(1995; Vintage, 2009) 462 pages.



☆☆☆☆ / 5

薔薇戦争というと、私はシェイクスピアの一連の歴史劇を思い出すのだが、ヘンリー6世とか、彼の母親のマーガレットなど、カラフルなキャラクターが沢山いても、大変込み入っていて、分かりづらくなる。その薔薇戦争の通史。アカデミックな本ではなく、所謂"a popular history"であるが、歴史小説ではなく、学者が書いた本と言っても良い、かなり堅実な本であり、論文に引用したりは出来ないけれど、イングランド史の門外漢が、あまり苦労せずにこの戦争の概要を掴むのには都合の良い本かと思う。とは言え、大変細かい字でぎっしり活字を詰め込んでも462ページという長編。寝る前に少しずつ読んでいたから、段々それまで読んだところを忘れてしまう。それ程、薔薇戦争が入り組んでいると言うことかも知れない。この本で、特定の戦いとか、人物について、部分的に読んでも役立つだろう。

歴史を書くのには色々なやり方があると思う。20世紀後半、特に最後の四半世紀以降は、社会史に関する研究が歴史学の中心になった感があり、それに伴い、通史なども、政治の動きに加え、細かな社会的背景を述べることが多くなった。この本は、そうした昨今の本とは違い、あくまでも薔薇戦争の主役となった王侯貴族、とりわけ、Henry VI、Margaret of Anjou、そしてRichard, Duke of YorkやWarwick the Kingmakerなどのカラフルな人物を詳しく描き、戦争をこうした王族や大貴族の人格的な衝突の面からクローズアップしている。その筆致は大変精力的で、緊迫感が持続しており、架空の会話などを使って脚色していないにもかかわらず、まるで歴史小説のようにも読める。年代記などの同時代やチューダー期の第一次資料の証言を巧みに挿入していることで、そうした効果が高められている。

もうひとつ、この本の分かりやすい特徴としては、薔薇戦争を実際の戦闘の始まりから記述するのではなく、その源を詳しく書き込んでくれたこと。詰まるところ、薔薇戦争の種は、Edward IIIの長男Black Princeの息子がRichard IIになった後、Richardの家系から王が出ずに、Edward IIIの他の息子、3男のJohn of Gaunt, Duke of Lancaster(ランカスター家)と4男のEdmund Langley, Duke of York(ヨーク家)の系統から王が出るようになったことにある。長子相続に基づいて王となったRichard IIの悪政もあり、ランカスター家のHenry Bolingbrokeが王権を簒奪してHenry IVとなるわけだが、そこから王位継承を争う口実が生まれてきたわけである。Henry IVが、王位を略奪したことにより、その後、他の王位と血縁で繋がる者達にも、我こそは、という口実を与えてしまったわけだ。

社会史的な描写はほとんど無いので、戦争中の庶民の暮らしとか、当時の文化などについてはこの本ではほとんど分からない。しかし、その分、歴史を変えた王侯貴族中心の記述になっていて、作者の想像に基づいた脚色はないにもかかわらず、謂わばNHKの大河ドラマで戦国武将の争いを見ているようなドラマチックな雰囲気がかもし出されていて、飽きさせない。ネイティブ・スピーカーや、私より読解力があってかなり早く読める読者だと、相当に面白い本と言えるだろう。しかし、私の様にゆっくりとしか読めないと、読了するにはある程度辛抱は要った。

Alison Wierの本は、旧ブログでもう一冊感想を書いています:  'Katherine Swynford' (Vintage Books, 2008)。

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2011/02/18

「二重被爆〜語り部・山口彊の遺言」(稲塚秀孝監督、2011)、イギリスの10都市・地域に送られる

BBCの"QI"の事以来ご連絡をいただいている稲塚秀孝監督からメールをいただいた。既に彼のブログで書かれていることだが、広島平和文化センターの仲介で、世界平和市長会議に参加しているイギリスの10都市・地域に「二重被爆〜語り部・山口彊の遺言」の英語字幕付きDVDが送付されたそうだ。どういう形で使われるかわからないが、上映会などが実現する事を祈りたい。

それらの10都市・地域は次のような場所だそうだ:
マンチェスター
リーズ
グラスゴー
エジンバラ
ダンディー
ロンドン
コベントリ—
シェトランド
ロザラム
ウエスト・ロージアン

本題からは離れるけれど、イギリスのことをちょっとでもご存じの方は直ぐに気づかれると思うが、ロンドンとコベントリー(ミッドランド〔中部〕)を除く8都市や行政区域は、北イングランドかスコットランドである。シェトランドとウエスト・ロージアンは都市ではなく行政区(県のようなもの)だが、スコットランドにある。グラスゴー、エジンバラ、ダンディーはスコットランドの主要な都市。マンチェスターとリーズは北イングランドの大都市である。ロザラム(Rotherham)はシェフィールド郊外の、北イングランドの町である。

コベントリーは第2次大戦中、ドイツ軍の悪名高い大爆撃を受けた都市であり、町全体が焼野と化した。市民が特に平和を望んでいるとしてもうなずける。そのコベントリーとリベラルなロンドン以外はみな北の都市というのは興味深い。ブリテン島は、概して北に行くほど労働党や自由民主党(Liberal Democrats)の支持が厚く、リベラルであり、南部ほど、保守党支持が強いが、それと重なっているのは偶然ではないかも知れない。アメリカ合衆国での各地域や大都市の政治的雰囲気の違いは如実に感じるが、イギリスでもかなり大きい。


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2011/02/15

『焼肉ドラゴン』 (新国立劇場、2011.1.13)

在日韓国朝鮮人の暮らしから、戦後の日本を照射する
『焼肉ドラゴン』 

新国立劇場公演
観劇日: 2010.1.13    13:00-16:10
劇場: 新国立劇場 小劇場

演出、脚本: 鄭義信
翻訳: 川原賢柱
美術: 島次郎
衣装: 出川淳子
照明: 勝柴次朗
音楽: 久米大作
音響: 福澤裕之

出演:
甲哲振 (金龍吉、焼肉ドラゴンの店主)
高秀喜 (高英順、龍吉の妻)
粟田麗 (金静花、長女)
占部房子 (金梨花、次女)
朱仁英 (金美花、三女)
若松力 (金時生、長男)
千葉哲也 (清本〔李〕哲男、梨花の夫)
笑福亭銀瓶 (長谷川豊、クラブ支配人)
朴帥泳 (尹大樹、静花の婚約者)
佐藤誓 (呉信吉、店の常連)
金文植 (呉日白、呉信吉の親戚)
水野あや (高原美根子、長谷川の妻)
水野あや (高原寿美子、美根子の妹で、市役所職員)
阿部良樹 (店の常連/アコーディオン演奏)
佐々木健二 (店の常連/太鼓演奏)

☆☆☆☆☆ / 5

2008年の新国立劇場での初演で大評判を博した作品だそうである。私は今回始めて見た。色々な劇評や、演劇ブログなどで、再度、賞賛と感激の声が上がっているようだ。私も全く同感。それらの劇評と同様の事を繰り返しても仕方ないので、今回は私的体験と結びついた感想を主にする(と言っても、ある程度繰り返しになるが)。

戦後の高度成長経済の進む中、差別され、豊かさへの流れから取り残された貧しい在日韓国朝鮮人の部落で、焼き肉店を営む金龍吉と彼の妻、そして龍吉の3人の娘の恋人などの生き方、学校でいじめられて自殺に追い込まれる長男などを通じて、日本の戦後が置き忘れ、切り捨ててきたともいえるコミュニティーや家族を問い直す。マイノリティー社会がその国の文化や社会をより鮮烈に表していることは、アメリカやイギリスでも言えることがだが、日本における在日の人々の姿を見ても同様だと感じた。日本人が、豊かさを追い求めているうちに忘却してきた隣人や、自分自身の大切な一部がここにはある。これは在日の作家による彼ら自身の戦後史であるだけでなく、すぐれた日本人の戦後史だと感じた。

私は、鄭義信によるもうひとつの新国立劇場作品、「たとえば野に咲く花のようにーアンドロマケ」も見ていて、大変感銘を受けたのを覚えている。50年代の北九州を舞台に、対岸で繰り広げられる朝鮮戦争に翻弄される男女を描いた作品だった。私も50年代に、筑豊の炭鉱にも近い北九州の工業地帯で生まれた。祖父は石炭やコークスの商人であった。子供の頃、韓国からの密航の話は(多分テレビのニュースなどで)よく聞いていた。自宅から歩いて30分弱のところには、この劇で描かれた町と似た貧しい朝鮮人集落があり、そこに行くといじめられる、と子供の間では噂されていた。でもクラスにはそこから通っている、人の良いひょうきんな仲間がいて、私も割合彼と仲が良い方で、家に連れて行ってもらったこともあった。その部落は、おそらく私が中学生か高校生の頃には取り壊されてしまったと思う。その後、大学生の頃には在日の友人も居て、就職の難しさや差別、北朝鮮に行った人々からの複雑な便りなど、この劇でも触れられている事を聞いていた。在日のコミュニティーにそれ程親しんだわけではないけれども、この劇の背景には、直接私と結びつく繋がりを強く感じた。だから、劇が始まった途端に、そのかもし出す世界にどっぶりと浸かっていた。

私がとりわけ震えるような気持ちになったのは、長女夫婦が北朝鮮に行くことに決めた時。この劇の悲しみは現在も続いている。千葉哲也扮する日本で育った在日の男は、ハングルも出来ないのに日本社会で受け入れられず、筑豊の炭鉱から空港の工事現場へと日本社会の周辺部を漂流し、今は酒と無為に溺れているが、新しい世界を求めて、吹っ切れた表情で北朝鮮を目ざす。足の悪くて、いつも痛む足をさすっている龍吉の長女も彼と共に旅立つ。劇の物語はそこで終わるのだが、もし続いていたとしたら彼らは今、一体どうなっているのだろうか。生きているのか? 障害のある長女は、厳しい北の暮らしに耐えられるのか? 在日の人々が見ていたら、自分の身内や友人、隣人に、こうして北にわたった人がきっと何人もいるに違いない。胸が張り裂ける思いであの晴れやかな旅立ちのシーンを見ることだろう。それを思うだけで、胸が締め付けられる。そして、彼ら在日の人々を受け入れず、北に追いやった日本の社会にも、責任の一端があることを痛感した。

俳優が皆凄い。特に韓国人の俳優達が新鮮だ。中でも、店主夫婦の存在感は圧倒的。これを見せられると、俳優の演技力なんて、私にはまったく分からない、と思ってしまった。店主の金龍吉をやっている甲哲振は日本語がほとんど出来ない(アフター・ステージ・トークで出ていらしたが、通訳が付いていた)。しかし、彼が不自由な日本語で自分の人生を振り返って言う「働いて、働いて・・・」という言葉、そして、「私はここを佐藤さんから買った」と自分の店の所有権を主張する言葉の重さは、素晴らしいの一語。20歳位年齢が上の役をやる、龍吉の妻の役の高秀喜も、大柄な体軀で喜怒哀楽を全身で表現し、圧倒的な存在感。賑やかな食事の風景をベースに、大柄で感情表現の豊かな母、実直な夫となると、「肝っ玉母さん」と共通する面もかなりあった。

日本と韓国の才能ある俳優達、そして脚本作者自らの演出によるケミストリーの力が大きいと思うが、戦後日本を3時間にぎゅっと凝縮した名作だ。日本文学史に残る傑作として記憶され、上演が続いて欲しい。在日の人々を描きながら、私達戦後生まれの日本人の演劇、とも感じた。私の様な高度成長期と共に生きてきた世代には、直接肌に感じられる作品だが、今の若者にも、戦後日本がたどった道を考えるためにも、是非見て欲しいと願う。


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2011/02/09

『二重被爆』(2006年)と『二重被爆ー語り部 山口彊の遺言』(2011年7月以降公開)

『二重被爆』(2006年公開、青木亮監督)と『二重被爆ー語り部 山口彊の遺言』(稲塚秀孝監督、2011年7月以降公開予定)

BBCのQIの問題を通じて、山口彊さんのドキュメンタリーを撮られた稲塚秀孝監督とメールのやり取りをした。その稲塚監督のご厚意により、標題の2本の映画DVDをお送りいただいた。特に後者は公開前の作品であり、恐縮至極である。

この2作品は、どちらも稲塚監督の会社、タキシーズが制作した。前者は既に公開されたので、見た方もいらっしゃるかもしれない。DVDはタキシーズから直接購入できる。ページ左下の「DVD販売」をクリックして下さい。後者のドキュメンタリーは今年7月より日本で公開予定であるとのこと。現在、上映希望を受付中とのことであるので、関心のある方は、このページをご覧下さい

このブログの読者には、ニューヨークにお住まいの方はいないとは思うが、ニューヨーク平和映画祭の招待作品として、3月に上映されるそうである。詳しくは「週間NY生活ニュース」というサイトをご覧下さい。

ふたつの映画共に、山口彊さんの語り部としての証言と活動を中心に撮られているが、2006年の映画では、その他の二重被爆者の方々も含め、被爆の証言を生に伝える事が中心となっている。2011年の最新作では、前の映画の撮影以降の、山口さんの語り部としての活動、彼を尋ねてきた人々との交流、更に死の床についても被爆の経験を伝えようとする山口さんの強い意志などに力点が置かれ、まさに被爆の語り部、山口彊さんの生き様を追った映画である。

どちらも被爆者の生の声をじっくり聞ける作品であるから、大変大きな感銘を与えてくれるが、特に山口さんの、原爆と戦争の恐ろしさを伝えたいという強い執念に大きな感銘を受けた。一応は数として知ってはいても、ひとつの爆弾で一瞬にして約14万人、そして約7万人の死者を出したという事実の重さを実感させられた。1人の命でも、家族にとっては、自分の命と同じくらい重い。いや親御さんにとっては、自分自身の命よりも重いだろう。広島の14万人以上、長崎の7万人以上という膨大な死者の数字の背後にある数え切れない家族の悲しみ、本人の無念を思う。

私が特に胸を打たれたのは、ドキュメンタリーに登場したアメリカ人の人達。被爆地を訪れて山口さんの話に聞き入った高校生達、彼の通訳を務めた方、死の近づいた彼にわざわざ会いにやって来たジェームズ・キャメロン監督・・・原爆投下を正当化する人が大多数としても、原爆を落とした国の国民だからこそ、その事を深く反省し、日本人以上に山口さんの話に心から耳を傾ける心の広さを持っている人も多いのだろうか。

『二重被爆ー語り部 山口彊の遺言』は7月以降公開されるそうなので、多くの方が見て下さることを祈ります。

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2011/02/07

『わが町』(新国立劇場、2011.1.23)

小さな町から宇宙的広がりへ
『わが町』 

新国立劇場公演
観劇日: 2010.1.23   13:00より
劇場: 新国立劇場 中劇場

演出: 宮田慶子
原作: ソーントン・ワイルダー
美術: 長田佳代子
衣装: 加納豊美
照明: 沢田祐二
音楽・ピアノ演奏: 稲本響
制作: 渡邊邦男

出演:
舞台監督〔ナレーター〕 (小堺一機)
ドクター・ギブズ〔町医者〕 (相島一之)
ミセス・ギブス (斉藤由貴)
ジョージ・ギブズ〔ギブス夫妻の息子〕 (中村倫也)
レベッカ・ギブズ(ギブス夫妻の娘〕 (大村沙亜子)
ミスター・ウェッブ〔ギブス夫妻の隣人〕 (佐藤正宏)
エミリー・ウェッブ〔ウェッブ夫妻の娘、ジョージと結婚する〕 (佃井皆美)
ウォリー・ウェッブ〔ウェッブ夫妻の息子〕 (菅野隼人)
サイモン・スティムソン〔教会のオルガン弾き、アルコール中毒〕 (山本亨)
ジョー・クローウェル (橋本淳)
サイ・クローウェル (横山央)
ハウイー・ニューサム (中村元紀)
ウィラード教授 (北澤雅章)
ソウムズ夫人 (増子倭文江)
ウォレン巡査 (青木和宣)

☆☆☆☆ / 5

(以下にプロットを書いていますので、読みたくない方はご注意下さい)

アメリカの現代古典で(1938年初演)、日本でも繰り返し上演されてきた作品だが、今まで見たことも読んだこともなかったので、今回みる機会があって幸運だった。リアリズムの盛んなアメリカで戦前に書かれた劇とは思えない斬新な作劇術で、驚いた。

劇は3幕から成る。第1幕では、ナレーター役の舞台監督によって、いささか形式的な町の説明で始まる。その後、ニュー・ハンプシャー州の架空の小さな町、グローバーズ・コーナーの日常生活が淡々と繰り広げられる。静かで平和な時がゆっくりと流れるsmall town in America。隣人同士のギブス家とウェッブ家の交流、ふたつの家の主の穏やかな人となり、良心的なドクター・ギブスの仕事ぶり、賑やかで人の好い奥さん達、教会のアル中のオルガン弾きに関するゴシップ、子供達の学校のことや宇宙に関する空想・・・。あまりにも平凡すぎて、見ていて退屈しないのが不思議なくらいの日常が淡々と演じられるが、何故か面白くて、ぐっと注意を引きつけてくれた。

第2幕は3年後。1幕で出て来た十代の子供達、ジョージ・ギブズとエミリー・ウェッブの結婚式の当日のそわそわした朝。ミスター・ウェッブがジョージに対し、結婚についてアドバイスにならないアドバイスをしたりする。その後、時間が少しさかのぼって、ジョージとエミリーが結婚を決意したソーダ・ファウンテンでのシーンが挿入され、そしてまた結婚式の日に戻る。両家の人々の幸せが頂点に達する。

第3幕は、それまでとは打って変わって陰鬱な情景で満たされる。場所は町の墓地。第2幕で結婚したエミリーが、2番目の子供の出産の際に亡くなり(赤子は生き残る)、彼女の遺体が墓地に埋葬される。エミリーの魂が既に亡くなって埋葬されていた人々(義母のミセス・ギブズ、アル中のサイモン・スティムソン、ミセス・ソームズ、他)の魂に出会い、人生の不条理を嘆く。彼女は、12歳の時の誕生日の1日を再体験する事を許され、人生の素晴らしさを噛みしめる。

"The American Life"というか、アメリカ人の生活の原風景を淡々と描き、ローカルでありながら、かえって小さなコミュニティーとふたつの家族に焦点を合わせることで、時代や文化、国を超えた一般性を獲得出来た気がする。不思議な劇だ。非常にアメリカ的でありながら、そのアメリカ的であることを押しつけずに、家族とか恋愛とかコミュニティーの絆を通じて、広く共感を呼ぶように昇華する。

構造は、舞台監督がキャラクターに直接指示を出しながら舞台の進行をするという、楽屋落ち構造。謂わば脱構築を使った劇。プログラムにある対談の中で、今回の上演テキストの翻訳者の水谷八也が、ワイルダーの世界観を「中世の宇宙像」とか、「中世っぽい」と表現しているが、この劇の舞台監督にも、『テンペスト』のガワーとか、ジャン・フーケの絵画「聖アポロニアの殉教」に見られる監督役と思われる人物など、中世劇を思わせる点がある。更に、人は如何に生き、如何に死ぬべきかを、個人を登場させつつ、個人を超えた「万人」のドラマへと転じさせる、これこそ、"Everyman"や"Mankind"などの、中世道徳劇の視点ではないか。生と死を墓場から見つめ直す、墓に埋もれた死者が生きている人々の手を取ろうとする、私にはハンス・ホルバインやギュイョ・マルシャンなどの死の舞踏をも想起させた。というわけで、私には非常に興味をひく劇の上演となった。

私は20歳代で3年間アメリカ中西部の小さな学園町で留学生活を送った。そこには、ニューヨークや西海岸はおろか、シカゴにさえ行った事もない人がたくさんいて、東部や西海岸の大都市をほとんど外国と同じように考えたり、恐怖を感じたりするようだった。彼らは、だだっ広い大地に住みながら、まるで大海原の孤島に住む人々のようにも見えた。この劇もそうしたsmall town in Americaの孤立した空気が一杯だ。人々のゴシップはシャーウッド・アンダーソンの『ワインズバーグ・オハイオ』やカーソン・マッカラーズの小説のようである。しかし何よりも、墓場から生を見つめ直す視点は、エドガー・リー・マスターズの"Spoon River Anthology"を思い出させる。


中劇場の広いステージ、セットがほとんど無いがらんとした、謂わば意図された、"Everyman"的な「何も無い空間」。読売新聞の劇評では「舞台が広すぎて求心力に欠け、気の毒だった」とあるが、私はそういう風にネガティブには取らなかった。むしろ、広さを強調した舞台は、アメリカの大地の広がり、その大地での人間の小ささ、そしてこの劇の宇宙的な時空の広がりを示すのにぴったりだ。


アメリカン・リアリズムの代表的な作家、オニールとかウィリアムズの作品にも、時として驚くほどの幻想的な台詞やシーンが現れることがある。一種の表現主義的瞬間の混交が、彼らの劇を一層カラフルなものにしていると感じる。ワイルダーのこの劇も、そういう意味で、リアリズムと幻想の絶妙な組み合わせになっている。

俳優は皆なかなか楽しませてくれた。小堺一機は声はいまひとつ通らないのだが、間の取り方とか、観客との距離の取り方が上手なのは、さすが司会者としての長年の経験故か。斉藤由貴は、もっと若い頃の彼女に抱いた感想とは違い、あまり主張の強くない演技ながら、台詞にしみじみとした情感がこもった。その他、ギブズとウェッブの両夫妻が素晴らしい。サイモン・スティムソンは台詞が少ない役だが、山本亨の存在感が光った。若い人の中では、ジョージ・ギブズの中村倫也が印象的。多数のオーディション応募者から選ばれたという佃井皆美だが、声がうわずって聞きづらい。宝塚の俳優の台詞のようだ。

全体を包む稲本響の音楽とピアノ演奏が、どの役者にも増して、最重要な役割を果たし、長い劇をテンポ良く進めてくれた。ベテラン澤田祐二の照明もいつもながら行き届いている。

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2011/02/06

『十二夜』(シアター・コクーン、2011.1.21)

きれいな舞台だが、台詞には大いに不満
『十二夜』

Bunkamura 公演
観劇日: 2010.1.21   19:00より
劇場: 東急文化村シアター・コクーン

演出: 串田和美
原作: William Shakespeare
翻訳: 松岡和子
潤色: 串田和美
美術: 串田和美
衣装: 串田和美、他
照明: 齋藤茂男
音楽: つのだたかし
音響: 市来邦比古
制作: 森田智子

出演:
松たか子 (ヴァイオラ)
石丸幹二 (オーシーノ)
りょう (オリヴィア)
荻野目慶子 (マライア)
大森博史 (サー・トビー・ベルチ)
片岡亀蔵 (サー・アンドルー・エイギュチーク)
串田和美 (マルヴォーリオ)
笹野高史 (フェステ [フール])
真那胡敬二 (船長、アントーニオ)

☆☆ / 5

演出、潤色、美術、衣装がすべて串田和美による、串田ワールド。セットや照明がとてもきれいな、パステル色のロマンチックで、ファンタジックな舞台。夏の終わりの海辺。おそらくヴァイオラ達がのっていて、海岸で座礁して、うち捨てられた船が遠景に見える。客のいない小さな野外舞台がぽつんと立っていて、その上や周辺で芝居が進行する。仮設舞台の向こうに水面が広がり、チェーホフの『カモメ』を思い出させた。アイデアとしてはなかなか面白いし、きれいな絵になっている。生演奏もふんだんに使い、雰囲気を盛り上げる。音楽などから、どこか日本の昭和50年代後半から60年代初め頃を想像させる。串田の少年期の懐かしい光景だろうか。まるで、劇全体がそうした時代の紙芝居の影絵でも見ているかのような印象を与える。しかし、野外舞台上でかなりのアクションが進行して、せっかくの大きな舞台を縮こまって使ってしまった感はあった。野外舞台から始まって、大きな舞台に広がり、また野外舞台に戻る、という風に、一旦野外舞台を片付けるとより良かった気がするが・・・。また、この劇をメルヘン的にするのは、いささか陳腐な感も否めない。

松たか子もその可愛らしい舞台に良くマッチした、(ワンパターンだが、いつものような)永遠の少年のような少女、というような雰囲気。役者さんも串田を除いて良かった。串田は、体調が悪いのか、声が通らなくてずっとしゃがれていて、台詞が良く聞こえなかった。そもそも、マルヴォーリオは非常に高慢で、主人の権力を笠に着て他の者達を苦しめるからこそ、やっつけられるところが面白いのだが、串田のマルヴォーリオは最初の高慢さ、怖さがほとんど感じられないので、鼻をへし折られるシーンでは痛快さや滑稽さ以上に、哀れみを感じてしまった。ましてや、それでなくとも残酷な牢獄シーンなど、白ける。

ヴァイオラと彼女の兄の両方が最後に出てくるところは、この劇の演出上むつかしい選択を迫られるところ。今回は、松たか子に二役をやらせたのだが、終幕は大変不自然で無理があった。まあ、何をやっても不自然さは消しがたいので仕方ないが。

私にとっては、大問題は台詞を大幅にいじっていること。シェイクスピアの豊かな言語のイメージが広がらない。分かりやすくて、はじめて見る観客には良いかもしれないが、台詞が間が抜けていた。特に前半、かなり退屈した。言葉をいじると、シェイクスピアはつまらなくなると言う見本みたいな上演だった。なるべく優しい日本語の単語を選びつつもちゃんと訳すか、いっそストーリーだけ使って、あとは全部新たに書き直せば良いと思う。中途半端に手を加えて、「シェイクスピアもどき」にするのが最悪だと感じた。松岡訳をそのまま使えば、きっと☆が最低でも3つ、おそらく4つになったかもしれない舞台だが、大変残念だ。

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