カンタベリー大聖堂のホームページには、”Picture This”というコーナーがあり、以前にも紹介した。このコーナーでは、大聖堂の図書館が所蔵する中世・近代初期の貴重な写本や刊本を取り上げて、写真付きで解説している。毎月1回更新されて、新しい写本や刊本が付け加わるので、私はそれを楽しみにしている。3月は、14世紀と15世紀の境目、1400年頃に出来た写本、Canterbury Cathedral H/L-3-2、から取られた1枚の彩色挿絵が取り上げられている。
この本は時祷書(A book of hours)。時祷(時課とも言われる)は、カトリック教会や正教会で一日の決まった時間に日課として唱えることを定められた祈り。これらは、朝課(matins, 3 am)、賛歌(lauds, 6 am)、一時課(prime, 9am)、三時課(terce, noon)、六時課(sext, 3 pm)、九時課(nones, 6 pm)、晩課(vespers, 9 pm)、終課(compline, midnight)である。その祈りを記した本がヨーロッパ中世においては、数多く作られた。それらはしばしば素晴らしい挿絵で装飾された豪華本であり、おそらくその中でも最も有名な本が、ランブール兄弟による『ベリー公の豪華時祷書』(Les Très Riches Heures du Duc de Berry)だろう。
時祷書は、これらの時祷において唱える祈りを記した本。旧約聖書の雅歌、詩篇、聖者伝の一節、主の祈り、その他が、唱えられる。
さて、今回、カンタベリー大聖堂のホームページで紹介されている本は、『ベリー公の時祷書』のような豪華な本ではないが、それでも随分手が込んだ本だ。サイズは9x7センチとかなり小さい。20枚の彩色挿絵が綴じ込まれており、ホームページで見せてくれたのは、そのうち、「最後の審判」(The Last Judgment)を描いた1枚。頁の挿絵をクリックすると大きくなり、更にカーソルを合わせるとその部分のみが拡大されるので、大きくして見て欲しい。
ご存じのように、「最後の審判」はキリストの死後、復活してまた昇天した後、もう一度、今度は全ての魂を裁いて、永久に地獄と天国に行くよう振り分けるという神による裁判である。この日は、The Doomsday(審判の日)と呼ばれる。これは既に起こったことではなく、これからの未来の出来事であり、(もしそれを信ずるならば)今この地上で生きている我々にとっても大変重要な出来事となる。絵のデザインは、ご覧になれば分かるように、中央に紅の服をまとい、上半身は裸のキリストが描かれている。両手や脇腹に、磔刑の折につけられた傷口が見える。彼の足下にあるのは地球であり、彼が世界の支配者であることを示す。キリストが座っていると考えられる玉座は、伝統的な虹。下にいてキリストを見上げるのは、既に死んだ魂。彼らは最後の審判に出るために、地中からよみがえって来た。これらの魂は、彼らの弱さを示すため、主として裸体で描かれるそうだが、2人は未だに白い死に装束を身に着けている。右から2人目は剃髪をしているので修道士だ。キリストの上に飛んでいるのは2人の天使。左には聖母マリア、右は福音者のヨハネ。マリアとヨハネを左右に描くのは、キリスト磔刑図の決まったデザインでもあるので、この写本の中世の読者は、この絵を見ながら、キリストの磔刑も直ぐに頭に浮かんだことだろう。つまり、キリストが人間の犯した罪の為に払った犠牲と、我々が死後の魂として将来受けなければいけない裁きを常に胸に刻みつつ、祈り、これからの人生を生きよ、というメッセージであろう。
多くの最後の審判の図では、これらの人物に加え、大天使ミカエル(Archangel Michael)が描かれるそうだ。彼は、秤を持ってキリストの裁きの助手を務める。また、その他の聖者が描かれることもある。こちらは、フランドルのロヒール・ファン・デル・ウェイデン( Rogier van der Weyden, 1400?-1464)の「最後の審判」の祭壇画だが、中央で秤を持っているのが大天使ミカエル。
2014/03/13
2014/01/10
カンタベリー大聖堂図書室が所蔵する最も古い印刷物
カンタベリー大聖堂図書室にある一番古い印刷物:Ackerman von Böhmen, (『ボヘミアの農夫』、 別名 Der Ackermann und der Tod、『農夫と死に神』、作者はおそらくJohannes von Tepl (c. 1360- c. 1414) )が、大聖堂のウェッブサイトで公開され、また解説されています。解説者はフランス文学研究者で書物史の専門家でもあり、ケント大学の引退された先生のDavid Shaw博士。
この刊本は1463年頃、現在のドイツ南部のババリア州の都市、バンベルグ(Bamberg)で、ドイツ人の印刷業者、アルブレヒト・プフィスター(Albrecht Pfister (c. 1420 – c. 1466) )によって印刷されました。但、カンタベリーにあるのは上記のウェッブサイトに掲載されている1葉(2ページ)のみです。プフィスターという人はバンベルグ市でおそらく10冊程度、印刷物を刊行していて、その最初の本がこれだそうです。彼は、ヨーロッパにおいて、ラテン語以外の近代語(彼の場合、ドイツ語)の書物を始めて印刷した人で、また、印刷物に木版画を組み込んだのも彼が最初だそうです。この本にも木版画が入っているのですが、残念ながら、カンタベリーの1葉には含まれません。プフィスターは、この他に、ドイツ語とラテン語で、聖書の絵本とでも言うべき本『貧者の聖書』(Biblia Pauperum)などを印刷しています。
有名なグーテンベルグのラテン語聖書の刊行が1455年ですから、1463年刊とは、かなり古い本です。ちなみに、1460年頃のバンベルグにおいて、プフィスターはグーテンベルグと何らかの関係があったとも考えられるそうです。しかし、使った活字は、グーテンベルグ聖書とは異なった字体をもっているようです。
フランスの国立図書館ビブリオテック・ナショナルにはプフィスターの書物(断片では無く)が保存されていて、ウェッブで公開されています。こちらは版画も付いています。
面白そうなので、この本の現代英語訳もいつか読んで見ようと思います。こちらのサイトにあります。翻訳、およびこのサイトの作成者はMichael Haldane博士。
この刊本は1463年頃、現在のドイツ南部のババリア州の都市、バンベルグ(Bamberg)で、ドイツ人の印刷業者、アルブレヒト・プフィスター(Albrecht Pfister (c. 1420 – c. 1466) )によって印刷されました。但、カンタベリーにあるのは上記のウェッブサイトに掲載されている1葉(2ページ)のみです。プフィスターという人はバンベルグ市でおそらく10冊程度、印刷物を刊行していて、その最初の本がこれだそうです。彼は、ヨーロッパにおいて、ラテン語以外の近代語(彼の場合、ドイツ語)の書物を始めて印刷した人で、また、印刷物に木版画を組み込んだのも彼が最初だそうです。この本にも木版画が入っているのですが、残念ながら、カンタベリーの1葉には含まれません。プフィスターは、この他に、ドイツ語とラテン語で、聖書の絵本とでも言うべき本『貧者の聖書』(Biblia Pauperum)などを印刷しています。
有名なグーテンベルグのラテン語聖書の刊行が1455年ですから、1463年刊とは、かなり古い本です。ちなみに、1460年頃のバンベルグにおいて、プフィスターはグーテンベルグと何らかの関係があったとも考えられるそうです。しかし、使った活字は、グーテンベルグ聖書とは異なった字体をもっているようです。
フランスの国立図書館ビブリオテック・ナショナルにはプフィスターの書物(断片では無く)が保存されていて、ウェッブで公開されています。こちらは版画も付いています。
面白そうなので、この本の現代英語訳もいつか読んで見ようと思います。こちらのサイトにあります。翻訳、およびこのサイトの作成者はMichael Haldane博士。
2012/05/18
犬とドラゴンの浮き彫り(中世のカンタベリーから)
前回のポストに関連して、4枚の写真を載せておく。どれもカンタベリー歴史博物館 (Canterbury Heritage Museum) で今年の3月8日に撮ったもの。市内のChurch Laneという通りで発見されたという4枚の石板に掘られた浮き彫り。博物館の説明書きによると、1080-90年頃の制作で、元々はカンタベリー大聖堂にあって、その後、おそらく宗教改革の時期、偶像崇拝排斥の為に大聖堂から取り除かれたと推測されているようだ。ノルマン・コンクエストを描いたバイユー・タペストリーにも似たような図柄があるとも書いてあった。ちなみに、バイユー・タペストリー自体、学者によっては1967-82年頃にカンタベリーで制作されたという説もあるとのことだから、直接の影響関係があった可能性もある(注)。
さて、最初の2枚は犬。頭は右上にあり、自分の尻尾を追いかけている図のようだ。図柄は似ているが、違う石版。
さて、最初の2枚は犬。頭は右上にあり、自分の尻尾を追いかけている図のようだ。図柄は似ているが、違う石版。
次は2匹の怪物が向き合っている場面と思う。左側の怪物は羽根がついているのだろうか。
最後は羽根を持ち、直立しているドラゴン。なかなか見応えある彫り物だ。昔の東映の怪獣映画を思い出した。キングギドラとか(^_^)。左上にあるのが頭と思う。
私自身も中世の怪物についての洋書も持っているので、そのうち読んで見なくちゃとは思っているが・・・。論文が終わってからかな。
(注)バイユー・タペストリーは、かってはウィリアム征服王の妃マチルダが作らせたと考えられていたようだが、今の定説は、征服王の父親違いの兄弟、オドン (Odo) が作らせたとの説が最有力らしい。オドンはバイユーの司教であり、征服後はケント伯 (Earl of Kent)となった。ウィリアムがイングランドに居ない間は、王に変わって政治を行う程の有力者であったそうだ。いずれにせよ、この織物が作られたのはイングランドであり、アングロ・サクソン人の職人によるらしい。このオドンという人物、Wikipedia英語版に見出しが作られていてざっと読んでみたが、なかなか面白い。バイユーの司教だったが、何よりも武将として名を馳せたようで、ノルマン・コンクエストで活躍し、その後も、反乱を企てて長い間投獄されたりしている。最後は十字軍に行く途上、パレルモで亡くなっている。
2012/05/17
カンタベリー大聖堂の怪物たち
先日このブログで書いたテレビ・ドラマ『ダークエイジロマン大聖堂』の中心人部の一人で石工のジャックは、ガーゴイル
(gargoyle) を掘るのが得意だった。これは中世の教会などで良く見られる怪物の形をした装飾排水口とでもいうべきものだ。わざわざ怪物の形をしていなくても良いと思うのだが(つまり、羊とか、排水口だから魚とか、ライオンとか)、大抵は正体不明の怪物になっているようだ。更に、意味が拡大されて、ガーゴイルというと、古い石造建築にあるこういう怪物の彫り物全般を指すようにもなっている。
何故怪物でなければならないのか、中世の教会にはどうしてこういう奇怪な彫り物が天使やら聖者の彫り物と同居しているのか、その理由は私は知らない。美術史の専門家の話を聞いてみたいものだ。
さて3月29日にセミナーの為にカンタベリーに行った際、大聖堂にちょっと寄って写真を撮った。その中にガーゴイルやその他の奇怪な生き物の写真もあったので載せておく。この日は素晴らしい天気の、初夏のような日で、大聖堂が実に美しくそびえていた。
大聖堂に敷地に入っていくところにあるのはクライスト・チャーチ・ゲイト (Christ Church Gate) というきれいな装飾の施された門。中央の銅像はキリスト。
この門に、結構沢山奇妙な彫り物がある。これ、何なんでしょう?ねずみ?いたち?いや、犬かな?
それから門の上のほうにある窓の上にある顔。クリックして拡大してみて下さい。
これは山羊のようにも見えるが、正体不明の動物。
大聖堂にも顔だけの怪物が掘られている。上の方です。
ガーゴイルやその他の怪物や奇怪な顔などは特に目立つ点だが、中世の大聖堂、こだわりを持って眺めると色々と見るものがある。聖者や王などの彫像もどういう聖者かとか、いつ頃掘られた彫刻だろうなどといちいち考えながら見ていくと、分からないことだらけで、面白いし、聖堂の中にある石棺に掘られた人物像とか、ステンドグラスの絵とか・・・建物すべてが生きた美術館みたいなものだ。
(gargoyle) を掘るのが得意だった。これは中世の教会などで良く見られる怪物の形をした装飾排水口とでもいうべきものだ。わざわざ怪物の形をしていなくても良いと思うのだが(つまり、羊とか、排水口だから魚とか、ライオンとか)、大抵は正体不明の怪物になっているようだ。更に、意味が拡大されて、ガーゴイルというと、古い石造建築にあるこういう怪物の彫り物全般を指すようにもなっている。何故怪物でなければならないのか、中世の教会にはどうしてこういう奇怪な彫り物が天使やら聖者の彫り物と同居しているのか、その理由は私は知らない。美術史の専門家の話を聞いてみたいものだ。
さて3月29日にセミナーの為にカンタベリーに行った際、大聖堂にちょっと寄って写真を撮った。その中にガーゴイルやその他の奇怪な生き物の写真もあったので載せておく。この日は素晴らしい天気の、初夏のような日で、大聖堂が実に美しくそびえていた。
大聖堂に敷地に入っていくところにあるのはクライスト・チャーチ・ゲイト (Christ Church Gate) というきれいな装飾の施された門。中央の銅像はキリスト。
この門に、結構沢山奇妙な彫り物がある。これ、何なんでしょう?ねずみ?いたち?いや、犬かな?
それから門の上のほうにある窓の上にある顔。クリックして拡大してみて下さい。
さて、大聖堂本体についている本物のガーゴイル。少しすり減っているが、破壊されたのだろうか。
こちらのガーゴイルは無傷のようだ。
ガーゴイルやその他の怪物や奇怪な顔などは特に目立つ点だが、中世の大聖堂、こだわりを持って眺めると色々と見るものがある。聖者や王などの彫像もどういう聖者かとか、いつ頃掘られた彫刻だろうなどといちいち考えながら見ていくと、分からないことだらけで、面白いし、聖堂の中にある石棺に掘られた人物像とか、ステンドグラスの絵とか・・・建物すべてが生きた美術館みたいなものだ。
2009/12/26
Christ Church Gate, 2009年12月
カンタベリー大聖堂の敷地("the Precincts", 日本で言う「境内」です)に入る主な門が、この写真のChrist Church Gateです。メインストリートから狭い路地(例えばMercery Lane)を通って10メートルくらい行くと少し広くなった場所 (Butter Market) に出て、そこにこの、塔のような門がそびえています。かなり細かく、一部彩色された浮き彫りがあり、綺麗な門です。完成は1517年頃(本により、記述が異なります)、ヘンリー8世の治世です (1509-47)。宗教改革間近な時です。スタイルはゴシック様式ですが、この写真で分からないのですが、下の方の装飾柱のスタイルはギリシャ風で、ルネサンスのスタイルを一部見せているとのことです。真ん中にある青いブロンズの彫像はキリスト。
もともとこの門の建造が計画されたのは、ヘンリー7世の長男アーサーと、アラゴンのキャサリン (Catherine of Aragon) との結婚を記念してのことだそうです。しかし、アーサーは早死にし、弟がヘンリー8世となり、またキャサリンはその弟と再婚を強いられました。他のカトリック時代の宗教建築同様、17世紀に清教徒により色々な装飾が破壊され、現在は修復された部分が多いようです。上述のキリストのブロンズ像も1990年にはめ込まれたものだと言うことです。それ以前の像は清教徒によって破壊され、その部分は空洞になっていたそうです。私が始めてカンタベリーに行った時には無かったのかな。このキリスト像は手をさしのべて、礼拝者を歓迎しており、"Welcoming Christ"と呼ばれており、ドイツ人の彫刻家Klaus Ringwaldの作品です。キリスト像の下方に、帯のように模様が見えますが、これらは紋章をかたどった盾 (heraldic shields) の列で、チューダー王家のシンボルが彫られているようです。両側のふたつの小塔 (turrets) は18世紀に破壊され、1930年代に再建されました。
この門の前にあるButtermarketは小さな広場ですが、中世のカンタベリーは街全体が大変小さいので、このスペースでも一番大きな空き地だったかも知れません。ここは、200年前まではBullstakeと呼ばれていたそうです。bullは去勢されていない雄牛、stakeはそれを繋ぐ杭です。ということは、ここで「雄牛いじめ」 (bull-baiting) が開かれていたということでしょう。雄牛いじめは、繋いだ雄牛に犬をけしかけて戦わせる残酷な見せ物ですが、中世から近代初期にはイングランド全土で広く行われていました。市の城壁の外ではなく、大聖堂の前の広場でそのような事が行われていたのでしょうから、大変驚きです。これに類似した見せ物に、「熊いじめ」(bear-baiting)があります。シェイクスピアの戯曲中にも、こうした見せ物への言及があり、当時の演劇との関係を追求した論文さえあります。
今、この門の右は、写真でも見えるかと思いますが、 スターバックス・コーヒーです。広場の建物の多くは、土産物屋やレストラン、カフェになっていますが、この門が出来た頃も同じでした。宿屋が軒を並べ、巡礼達を泊めていました(今も当時の建物の一部が残っています)。それらの宿屋の1階には酒場兼食堂になっており、また土産物を売っているところもありました。当時の巡礼地の土産物としては、巡礼バッチとか、カンタベリーの有り難いお水を入れる小さな器などがあったようです。カンタベリーのお土産物は、イングランド各地、そして大陸でも多く見つかっており、当時のカンタベリー巡礼の広がりを今に伝えています。
1枚目の写真は、Mercery Laneという路地から、Buttermarketの向こうに見える門を撮ったものです。Mercery Laneはmercer(織物商)が軒を並べていた通りということです。日本でも昔はそうでしたように、中世の街は同じ職業の人が集まって商売をしていました。Mercery Laneと並ぶ通りには、Butchery Lane(肉屋 [butcher] の通り)もあります。織物商は中世の商人でも最も豊かな職業で、従ってこのような大聖堂の前の一等地に店を構えていたのでしょう。中世には、この辺りは、巡礼の人々、聖職者、商人、そして買い物をするカンタベリー市民や近郊の町や村の人々でごった返していたかと思います。今もここは観光客やカンタベリー市民で賑わっています。
2009/12/24
カンタベリー大聖堂、2009年12月
ここで簡単にカンタベリー大聖堂の歴史を紹介。カンタベリーの町自体はローマ帝国時代にはあり、その当時からキリスト教の教会もあったと考えられています。しかし、5世紀初め頃、ローマの軍隊がブリテン島から撤退し、ブリテン島がアングロ・サクソン時代へ移行するとゲルマン人独自の宗教が持ち込まれました。英国が再度キリスト教化するきっかけになったのが、カンタベリーの聖オーガスティン(Saint Augustine of Canterbury)の宣教。彼は当時のケント王国の王、エゼルベルフトにキリスト教の教えを伝え、教会を造ることを許されました。これが597年でした。その後、カンタベリーにはキリスト教の教会や修道院が幾つか出来ます。最初の大聖堂(カテドラル)はオーガスティンの下で造られたとされています。アングロ・サクソン時代のカテドラルは現在見ることが出来ませんが、現在のカテドラルの身廊(nave)の地下にあるとされています。(以下は一般的な十字型教会の略図ですが、カンタベリー大聖堂も大体において、この形式です。)

中世の大聖堂には、ここに限らず多くのマリアや諸聖人の像がありました。しかし、今のイギリスの大聖堂にはほとんどありません。16世紀の宗教改革以降、破壊されたのです。その前は、丁度日本の古い仏教寺院で本尊以外に色々な観音様とか毘沙門天などがあるように、色々な聖像、特にマリア像がたくさんあったことと思います。これらは宗教改革時に、カトリックの偶像崇拝として破壊されました。もともとカトリックには八百万の神々を信仰する多神教的なところがあります。またカンタベリー大聖堂では17世紀の清教徒革命(大内乱)の間、多くの素晴らしいステンド・グラスが破壊されましたが、これもカトリック的図柄があったためです。但、残ったものもかなりあります。
更に第2次世界大戦時には、ドイツ軍の爆撃にも遭い、大聖堂横の図書館が破壊されましたが、カテドラル本体は重大な損傷を免れました。しかし、カンタベリーの街では、現在のショッピング・センターの周辺はほぼ破壊され、貴重な中世の建築遺産が失われました。(以上、一部、カンタベリー大聖堂のオフィシャル・ホームページを参考にしました。また教会の略図は『プログレッシブ英和和英中辞典』電子版よりお借りしました。)
2009/12/22
カンタベリー大聖堂前のクリスマス人形
12月18日に出かけた時には、カンタベリー大聖堂もクリスマスの雰囲気が漂っていました。大聖堂の前には、イエスが生まれた馬屋、そしてその中にマリアや東方の三博士たちの人形たちが置いてありました。赤子を抱くマリアの傍に立つのがヨセフ、向かって右側の豪華ないでたちの3人が東方の3博士(Magi)、ひざまずくのは羊飼い。右側の2人も羊飼いでしょうか?
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