2017/12/31

『アテネのタイモン』(埼玉芸術劇場、2017.12.28)

 『アテネのタイモン』

劇場:埼玉芸術劇場
観劇日:2017年12月28日 13: 30—16: 15

☆☆☆☆ / 5

12月28日、久しぶりに埼玉芸術劇場へでかけ、蜷川亡き後の初めてのシェイクスピア・シリーズの上演である『アテネのタイモン』を見た。年の暮れでバタバタしてあまり時間がないので、簡単に感想をメモしておく。

まずは非常に楽しめたと言っておきたい。始めて見たし、脚本も読んでおらず、粗筋さえ知らなかったのが、こんなに面白い劇とは思わなかった!イギリスののロイヤル・シェイクスピアやナショナル・シアターで、ラッセル=ビールやペニントンが主演した公演を見た人の話では、善人過ぎるあまり見境なく他人の為に浪費してしまう主人公の、同情さえ感じる哀れな結末、という印象だったそうだが、吉田鋼太郎演じるタイモンは浪費家の自業自得と言える破滅、という印象を与えたし、意図的にそういう風に演じていると感じた。

人生の意味を知らない魂が、様々な誘惑や偽りの友人に囲まれてひとときの栄華を誇るが、やがて当然の報いがやってきて、苦難や裏切りを経て、死へと向かう。これは、ユニバーサルな魂の遍歴の物語とも言え、正に中世道徳劇のテンプレートを踏襲していて、非常に分かりやすい。現代の経済バブル、そしてその破綻と重なるところは、ルーシー・プレブルの『エンロン』を思いだした。

最後の場面が典型的だが、座長が前へ前へとしゃしゃり出て劇全体のバランスが壊れているように見える。これが主役と演出家が同一人物の公演の限界か、あるいは吉田さんの問題か?台詞は概して大声で怒鳴りすぎの場面が多いが、これもまた、演出家が客席で指揮をしていないことから来る欠点では?柿澤勇人の武将は精一杯の力演だったが、人生を賭けて怨念を晴らすこの重要な将軍の役には余りに若いのではないかと思った。横田さんがやったら、もっと説得力があっただろうなあ。とは言え、最初に書いたように、充分楽しめた公演だった。

分かりやすい、劇画やアニメ風とさえ言えるのが蜷川幸雄のビジュアル面の舞台作りだと思うが、美術や音楽は、蜷川・タッチをやや押さえつつ踏襲している感じがした。特に新奇な点は感じなかったが、効果的だったと思う。

吉田さん、次は『ヘンリー5世』ということだが、1年以上先。人気者過ぎてスケジュールが一杯なんだろうけど、年に1回しかやらないのが本当に残念。2回やって欲しい!

2017/12/23

Christopher Canon, ‘From Literacy to Literature: England 1300-1400’ (OUP, 2016) の感想

Christopher Canon (Bloomberg Distinguished Professor of English and Classics at Johns Hopkins University) の ‘From Literacy to Literature: England 1300-1400’ (OUP, Dec. 2016) をしばらく前から少しずつ読んでいて、やっと半分弱までたどり着いた。最後まで読み終えるどうか分からないので、ここらで感想をメモ。英米で出た本はどれも私の知的レベルを遙かに超えているんだけど、この本は特に素晴らしくて、私には高度すぎる(^_^)。分からない部分も多いが参考になることも色々ある。

この本の主眼は、中世末期のラテン語教育、特にグラマースクールでの初歩的な語学教育やそれに相当する個人教授などが、14世紀の主な英文学の詩人たち(チョーサー、ラングランド、ガワー等)に大きな影響を与えているということの証明だ。その前提として、1〜3章では詳しく中世イングランドのラテン語教育について、多くの歴史家の論文や一次資料を引きながら解説してくれる(すべてのラテン語やフランス語の引用には、単語も含めて現代英語の翻訳がつき、また中英語の引用にも、訳や語注がついていて、予備知識の無い者でも読めるようになっている)。この部分は大変具体的に述べられていて、大変面白かった。中世のラテン語教育はもちろん、そもそもラテン語について初歩的なことしか知らない私には、かなり猫に小判ではあるが、ラテン語がかなり出来る方は、私以上に良く理解出来て、面白いだろうと想像する。特に印象に残ったのは、13世紀頃までの初歩ラテン語教育が、主にラテン語だけで教えられていたらしいことだ。現代の英語教育の語彙で言うと、所謂 direct method であり、grammar-translation method では無かったようだ。当時のラテン語の初等文法の教科書は易しいラテン語で書かれていて、所々英語は使われているが、ラテン語の屈折形などを説明するための例として使用されている(これは、今の英米の初頭ラテン語の本でも同じで、例えば、そもそも文法の概念を知らない生徒・学生に「主格」とか「属格」を説明するために、’I'、’my’ の例を挙げてあったりする)。

さて、ラテン語教育がどのように中英語文学に影響を与えているかの論議は、かなり難しいし、一部納得しづらい部分もあるが、刺激的な議論であることは間違いない。基本的に、今昔を問わず、ラテン語であろうと他の言語であろうと、多くの語学教育は先生が質問して生徒が答えることをベースにした対話(ダイアローグ)で成り立っている(Aelfricの ‘Colloquy’ が想い出される)。そのような口頭でのやり取りのモデルが、チョーサー作品などで、それぞれの詩人によって様々な変奏を加えられつつも、広く使われているとCanonは論じている。確かに、中世の、つまり写本をベースとした、文学は、口頭での読者/聴衆とのやり取りを前提として書かれ、作者は度々読者に直接呼びかける。このようなスタイルは、grammar school の教授法とどの程度関連を持っているのだろうか。

Canonが解説してくれるように、13世紀頃までのラテン語教育は、ラテン語文法をやさしいラテン語で教えるという direct method 中心で教えられていたのだろう。それが15世紀が終わる頃には、文法を英語で説明し、またラテン語の文章を英語に訳すという、grammar-translation method へと変わっていたことと思う。そうすると、チョーサーや彼の同時代の大詩人達が詩作に手を染めた頃は、教育方法の過渡期と言えるだろう。ラテン語だけの教室から、徐々に英語を使うようになる中で、教材として読んだラテン語の詩が彼らがラテン語の詩を書くのではなく、英語の詩の創作を始めるにあたり、先生とのやり取りや英訳の手続きに多くの影響を受けたとCanonは考えているようだ(まだ読んでいる途中ですけど)。

Canonの議論は大変精緻であるが、しかし、ラテン語が充分に分からないこともあり、私には難しすぎる部分が多い。

タイトルにもあるように、精緻な文学論に加えて、私が読んだ前半では、英語、ラテン語、フランス語等での literacy の問題、これら3言語の関係、中世の語学教育、マカロニックな文章など、英語史研究でも関心を集める諸点についてもかなり議論されている。中英語文学の研究者だけで無く、英語史研究者や中世ラテン語文学の研究者にも刺激的な本だと思う。

2017/12/17

2018年のヨーク・ミステリー・プレイは9月の3日間上演

2018年のヨーク・ミステリー・プレイは9月の9日(日曜)、週半ばの12日か13日、16日(日曜)の3日間行われるそうだ。今年は、特設ステージ等での上演ではなく、街中を巡回し、幾つかの場所で停止して劇を上演するという中世に行われたのと同じ山車による上演(Waggon Plays)。

この方式で上演されるのは4年に一度だったと思うので、そう簡単に毎年見られるものではない。見に行きたいし、その価値は充分あると思うが、私は今年、既にそれ以外の時にイギリスに行く予定があり、無理。残念!こうした上演は研究対象としても重要で、上演を見て学ぶことも色々とある。上演に関しての論文もかなり書かれており、単行本の研究書も出ている。私は、2010年の留学中にヨークの町でワゴン・プレイを通しで見る機会があった。その後、2012年にはヨーク博物館の庭に仮設舞台が設置され、ヨーク劇の短縮版が上演された時にも観賞した。それ以来、中世劇の上演を見ていない。

2010年の上演の観劇記(ブログで3回の投稿に分かれているので、続きは記事の左下の「次の投稿」をクリックして下さい。)

2012年の観劇記(ブログで3回の投稿に別れているので、続きは記事の左下の「次の投稿」をクリックして下さい。)

BBC Radio 4 の文化番組、'In Our Time'、「トマス・ベケット」

英語の番組で恐縮ですが、BBC Radio 4 の文化番組、'In Our Time'、先週木曜日のトピックは トマス・ベケットだった。番組はウェッブから聞いたりダウンロードできる。司会のMelvyn Braggとゲストの3人の学者がヘンリー2世との関係、そして彼の暗殺の経緯などを40分にわたって議論した。逆に死後の彼のカルトの発展については、やや駆け足という感じ。彼の死について、3人の意見が幾らか異なる点が面白かった。ベケットは死後、聖人として崇められるような死を望み、謂わばドラマチックな暗殺を演出したのではないか、と Laura Ashe は論じる。しかし、そういう解釈は、Danica Summerlin が言うように、彼の死を深読みしすぎなのだろうか。それにしても、ベケットは数少ないイングランドの「国産」セイントで、しかも考えてみると聖者というのはアングロ・サクソン時代など、古代・中世前半までに生まれ、彼の場合のように12世紀以降に聖者伝説が作られるなんて珍しいんですねえ。

3人の学者のひとり、Michael Stauntonはベケットに関する本を2冊出している。このページの下の方にはリーディング・リストがついていて、その中に彼の本が入っている。'The Lives of Thomas Becket' (2001) をいくらか読んだことがある。大学の教科書として考えられた本だと思うが、英訳で一次資料の抜粋が読めて、なかなか面白く、関心のある方にはお勧めしたい。

2017/12/14

ラテン語は難しい!

オックスフォード大学出版局から、ブリテン島で使われた中世ラテン語の辞書、DMLBS (The Dictionary of Medieval Latin from British Sources)、の新版が来年出版されるという発表があった。本格的なラテン語研究者、中世史学者、中世の多言語文学を研究している方などには、大きな朗報だろう。

それで改めてつくづく思うんだけど、私のようなぼんくらにはラテン語は本当に越えられない山だ。古英語、中英語、古仏語など大学院で勉強し、ドイツ語と古ノルド語もちょっと初等文法だけかじった。どれも、現実に使ったり、研究に利用したりするのに、沢山時間をかければ恐らく何とかなる、という感触はあった。但、専門の中英語以外は普段読む機会がほとんどないので、やがて忘れてしまったけど。でもラテン語は大学院で習い、その後も折にふれ、時間をかけてリーダーなどを読み、語学学校や留学先の大学のクラスに出た事も何度もあるが、それでも基本文法プラスアルファで足踏みである。ラテン語訳聖書など、ごく簡単なものなら翻訳がなくても何とか自分で読めると思うが、到底研究の役に立たないし、短い文章を楽しみで読めるレベルにも達しない。いつまで経っても答の分からないパズルと取り組んでいる感じ。それにも関わらずラテン語学習にはかなり時間を費やしてきた。その時間を自分の専門分野に使っていたら、結構研究できて、何本も論文が書けたと思う。但、中英語文学を勉強するためにも、多少ラテン語の引用とか読めないと困るんだよねえ・・・。以前、研究会の発表の後、偉い先生に、「ラテン語の引用の仕方がおかしい」と注意されたこともある。時々は勉強しなきゃいけないとは思うんだけど、それでなくても強い劣等感を刺激されて、自分の頭の悪さを見せつけられているようで楽しくない。

留学をする前に見たブリストル大学の中世研究センターのウェブページでは、中世ヨーロッパの歴史や文学を研究する大学院生は全員ラテン語が出来なくては駄目です、という意味の事が書いてあった。確かにそう言われればそうなんだけど。しかしそう言われると「あなたは駄目!」と端から拒否されるということになり、 「じゃあ、やめます」と言わざるを得ない(ブリストルは立派な中世劇の先生がいたので、受けようかかなり迷ったんだけど)。

そもそも記憶力が極端に悪い私は、文法を憶えきってなくて、しょっちゅう活用表を参照せねばならず、憶えたと思っても次読む時には忘れている。ラテン語を勉強していると、旧勤務校で教えた、とても真面目に頑張ってるのに思うように英語力が伸びない多くの学生達の事を想い出す。運動能力と同じで、頭の働きにも大きな個人差があるんだが、外から見ただけでは身体能力ほどには分からないんだよね。というわけで、いくらやっても同じ間違いを犯す学生達に非常に同情してしまうのです。

2017/12/13

NHK BSスペシャル「戦争を知らない子供達へ」

NHK BS1で「戦争を知らない子供達へ」の再放送を視聴した。沖縄戦でゲリラ兵としてかり出された14~16歳の10代の少年達からなる「御郷隊」という少年ゲリラ部隊。1780名が招集され、約半数が死亡したそうだ(ウィキペディアによる)。軍部の違法な招集方法、同じ村で育った仲間の死を身近に見続けるという悲惨な体験、そして精神をむしばまれ、精神病院に監禁された人もいた。アメリカ軍が占領した自分の村に、上官の命令で火を放った少年もいた。少年達が立てこもった恩納岳の野戦病院では、歩けず足手まといになる(少年も含めての)負傷兵を軍医が撃ち殺した。ある少年兵は、共に戦った友人が歩けなくなった途端に撃ち殺された。彼はこのことを遺族に伝えられず今に至り、この番組の撮影を契機に始めて友人の兄弟に会って、死の経緯を伝えることとなった。苦しみ続けた戦後の現実を本人達の証言と、一部はアニメによる再現で構成している。

これは、イスラム国やアルカイダが今やっていることと同じ。国ごと日本はアルカイダだった。

その沖縄で、今日も軍事ヘリコプターの部品(窓)が小学校の校庭に落下し、一部は児童の体にも当たった。日本では沖縄だけが敵の上陸を経験し、その地では基地が集中して、戦争は完全に終わってない。

御郷隊(鉄血勤皇隊)についてのウィキペディアの解説

ゲスト講師をやりました。

先週、年2回やらせていただいている、ある友人の講義科目のゲスト講師をやった。友人には感謝、感謝!今回も昨年のこの時期にやったのと同様、「写本から印刷本へ」というタイトルで、古代の本の始まりから、中世の写本、そしてグーテンベルグやカクストンによる活版印刷の始まりまでを、言葉の歴史と絡めて話した。

前回は、時間が足りず、急遽いくらか端折ったりしつつ話したので、今回は思い切って内容をカットし、また前回見せた短いビデオも今回は使わなかった。そうしたら、今度は少し時間が余った。1回だけの講演や講義の時間配分って難しい。まあでも、モニターやパソコンの準備などもあるし、大体許容範囲だった。そのパソコンだが、自分で持って行ったのだけど、モニターに繋げるためのHDMIとVGAのコネクターを忘れたことに電車に乗ってから気づいて大汗。電車を降りて、駅前のビルにある大きめの電気店に行って捜してみたが、家電の店で、パソコン用小物なんてほとんど売ってなかった。でも、学校に行ってみたら(多分あるとは思っていたけど)事務局にあって、貸して貰った。一安心。

昨日はいつもに増して、一生懸命、熱を込めて話したつもりだったが、15分くらい経ったときにふと教室をじっと見渡すと、7割ぐらいの学生が寝ていた・・・。まあ、学生の専門とはかなり外れているし、自分の講義の魅力がないことも一因だろうし、もう諦めているから気にならない。60歳代半ばの老人が教え方を大きく変えようとしても、もう遅すぎる。

終わった後しばらく友人の研究室で茶飲み話を出来て、楽しい時が過ごせた。話は半分以上、自分達の病気や老化の事とか、消息の途絶えた方のことなど、本当にお爺さん同士のおしゃべり(^_^)。体力のない私は、講義の時は精一杯頑張ったけど、翌日は疲れがどっと押し寄せた。

親友と言える唯一の友人は17年前に亡くなり、一番尊敬していた友人は今年正月に亡くなった。ほとんど友人のいない私にとって、割合気軽に話せる友は、いつもゲスト講師に招いてくれるこの友人だけになってしまった。大事にしよう。

2017/12/05

久しぶりの学会発表

先週末、本当に久しぶりに(最後にやったのは2011年の同じ学会)学会発表をしたのですが、評判良かったのは、ハンドアウトの表紙のカラーコピーの絵でした。感想を言ってくれた何人もの方から、「きれいだったね、あの絵!」というようなコメントを頂戴しました(笑)。80枚カラー・コピーしたので結構な出費でしたが、その甲斐がありました。勿論中味が一番大切ですが、プレゼンテーションも大事です。ハンドアウトも原稿も、司会してくださった先生が細かく目を通して色々なサジェスチョンを下さったので、大分良くなったと思うので、大変感謝しています!「分かりやすかった」という感想もいただきましたが、これは司会の先生によるチェックのおかげです。自分としては、原稿を読んでは削ったり、一度削ったのを戻したりという作業を何度も繰り返して発表時間に合わせるのにとても苦労したので、司会の先生が「時間ぴったりでしたね」とおっしゃってくださったのが、一番嬉しかったです。

今回、しばらくぶりの学会発表だったので、かなり緊張しました。内容以外の反省事項としては、息せき切った感じに聞こえたのではないかと思います。次にやるときはもう少しリラックスしてやりたいと思いました。内容に関しては、好意的なコメントをいくらかいただきました。しかし、これを真に受けてはいけません。大体において、学会発表では、どなたも発表者を元気づけるようなコメントを下さるのが普通です。本当は率直で厳しい意見が欲しいのですが、発表者本人にはなかなか届きません。

ちなみに、私は、折角発表したのだから、コメントなど欲しいと思うので、他の発表者にも直接コメントを言ったり、メールで書いて送ったりすることはしばしばやります。勿論私は親しくもない方に厳しい事は言いません。でも、見当外れのコメントを差し上げて、ありがた迷惑で嫌がられることもあるみたいです(^_^)。発表者によっては、発表はしたいけど、色々言われたくない、という方もおられるでしょう。しかし、何か言ってくださると言うことは、発表に関心を持って下さったという証拠ですから、私自身はどんなコメントでも歓迎です。