2012/11/13

もうひとつの映画版『カンタベリー物語』、"A Canterbury Tale" (英、1944)


"A Canterbury Tale" (英、1944)

監督:Michael Powell
脚本:Michael Powell, Emeric Pressburger
制作:Michael Powell, Emeric Pressburger
音楽:Allan Gray
撮影:Erwin Hillier
上映時間:124分

出演:
Eric Portman (Thomas Colpeper, a local magistrate)
Sheila Sim (Alison Smith, a land girl)
Dennis Price (Peter Gibbs, a British sergeant)
Sergent John Sweet (Bob Johnson, a US sergeant stationed in UK)
Charles Hawtrey (Thomas Duckett)

1949年に、アメリカ市場に合わせ、オリジナル版を大幅にカットする一方で、新しい人物を加えたりして、かなりの改変を加えたアメリカ版もリリースされているそうだ。今回私が見たのはオリジナルのイギリス版。

☆☆☆ / 5

WOWOWの番組予定に『カンタベリー物語』という映画があると妻に教えられ、良く知られたパゾリーニの異色作かと思ったら、そうじゃなかった。'The Canterbury Tales' ではなく、'A Canterbury Tale'という単数のタイトルである。しかもイギリス映画。あまり期待せず、とにかく何か参考になることがあるかもと思い、録画してもらって見てみたところ、意外に大変楽しめた。牧歌的でスローな映画で、眠くなること必定。それも含めて、のんびり楽しめるので、差し迫った用事のない休日の午後などにぴったり。

まずこのタイトルだが、映画そのものもチョーサーの『カンタベリー物語』のプロローグの朗読から始まる。中世の巡礼達がカンタベリーへの道を馬に乗ってたどっているシーンが映し出される。その上空を舞う鷹が、いつの間にか戦闘機に代わり、時が第2次世界大戦中の「今」に移る。そして登場するのが、汽車に乗った3人。英軍と米軍のsergeants、つまり軍曹、のピーターとボブ、そしてロンドンから地方に農作業などの援助に出かける女性(これをland girlと呼ぶ)のアリソン。彼らが向かっているのはカンタベリーとその手前の町、チリンガム(これは架空の町なんだが、似たような名前の町がケントにはある、チラムとかジリンガムとか)。つまり、彼らはこの映画に於ける今(1944年頃、戦時中)の巡礼者というわけだ。3人ともまずは田舎町のチリンガムに夜中に到着。

ところがチリンガムの町に着いた途端、アリソンは暗闇の中で何者かに髪の毛に糊をべったりかけられるという迷惑ないたずらに遭う。カンタベリーに直ぐに行くはずだったアメリカ人軍曹のボブは、翌日からアリソンと共に犯人捜しをしつつ、チリンガムの町を歩き回り、地元の色々な人々と知り合う。チョーサーの『カンタベリー物語』に倣った、一種の現代の巡礼譚だ。アリソンという名前は、もちろん『カンタベリー物語』の2人の有名なアリソン、「粉屋の話」の若妻と、バースの女房の名前から取られているんだろう。

1944年が発表の年であるから、当然戦時の愛国心称揚映画の面は強い。しかし、軍国主義的な勇ましいものでは全くなく、イギリスの歴史的な伝統を大事にすることで、国を愛しましょう、という極めて文化的な映画である。例えば『ヘンリー5世』とか、アーサー王伝説などと違い、そもそも、『カンタベリー物語』もチョーサーも、勇ましいところなどほとんどない。日本なら、第2次大戦中に、井原西鶴とか吉田兼好を読んで日本の文化を愛しましょう、というような感じか。米軍の軍曹ジョンがイギリス随一の文化遺産を尋ね、色々と歴史的文化を知りながら、大西洋を挟んでアメリカとイギリスの間の違いを知ると共に、2つの文化の共通点も見つけ、地元の人々と仲良くなる、という心温まる話。

しかし、ただほんわかしたエピソードばかりではなく、奇妙な味があるのもこの映画の魅力。前述のアリソンが髪の毛に糊をかけられるというエピソード。犯人の「糊男」(the glue man)という謎の人物は最後まで捕まらない(映画の観客には分かる)。奇妙なのは、男達がアリソンの髪についた糊を洗面器を持ってきて洗い流すシーン。何人もの男達がよってたかって洗面器に浸けた彼女の髪を手でごしごし洗う。セクシュアルな底流が見え見えで実に奇怪なシーンだ。

アリソン達がチリンガムの町で出会う町の名士にして治安判事のカルペッパーは、郷土の歴史に詳しい。カンタベリー郊外に駐屯している軍人達の為にケント州の歴史を教える講演会を開く。というのも、若い軍人達がこんな素晴らしい土地にいるにもかかわらず、ケントの歴史には無頓着で町の若い女性を追いかけているばかりだと嘆いているのだ。しかし、ピーターとボブの2人の軍人がカンタベリーの歴史に心から魅力を感じたようで、彼の想いはある程度叶えられる。

映画の終わりにかけて、カンタベリー大聖堂や町の様子が映し出される。カンタベリーは1942年にドイツ軍の大規模な空爆を受け、町の東側、現在のホワイトフライヤー・ショッピングセンターとなっている商業地区、を中心に大きな破壊をこうむった。大聖堂もかなり破損した。その痛々しい剥き出しの焼け跡が映し出される。このカンタベリー爆撃は42年6月1日と10月31日に行われた。最初の爆撃は歴史的都市ケルンを連合軍が爆撃したことに対する報復だと考えられているらしい。当時のカンタベリーの悲惨な焼け跡の様子は、このフォーラムに載せられている写真で見られる。ケルンにしろ、カンタベリーにしろ、それぞれの国だけでなく、多くの人命に加えて、人類全体が慈しむべき歴史遺産が、一瞬にして破壊される、それが戦争という愚かな行為だと、映像を見ながら思った。

マイケル・パウエルとエメリック・プレスバーガーというコンビはかなり沢山の映画を作っていて、イギリス映画の好きな人々の間では定番の名前らしい。特にこの作品は、一見しただけでは分からない細かな工夫や隠された意味がありそうで、評価が高いようだ。ヒロインのランド・ガールを演じたシーラ・シムは映画、テレビ、舞台で活躍する逸材を輩出してきたアッテンボロー・ファミリーの1人、リチャード・アッテンボローの奥方。彼らの息子が、アルメイダ劇場の芸術監督、マイケル・アッテンボローである。

万人向きとは言えないにしても、カンタベリーの好きな人や、イギリス映画の好きな人には大変お勧めできる映画です。

2012/11/11

Mike Leigh, "Another Year" (邦題「家族の庭」) (英、2010)


Mike Leigh, "Another Year"
(邦題「家族の庭」)
(イギリス映画、2010)

監督・脚本:Mike Leigh
音楽:Gary Yershon
撮影:Dick Pope

出演:
Jim Broadbent (Tom)
Ruth Sheen (Gerri, Tom's wife)
Lesley Manville (Mary, Gerri's colleague)
Oliver Maltman (Joe, Tom and Ruth's son)
Peter Wight (Ken, Tom and Ruth's friend)
David Bradley (Ronnie, Tom's brother)
Martin Savage (Carl, Ronnie's son)
Karina Fernandez (Katie, Ken's girlfriend)
Imelda Staunton (Gerri's patient)
Philip Davis (Jack)

☆☆☆☆ / 5

先日WOWOWで放映されたのを録画して見た。

Mike Leighの特に劇的な事は何にも起こらない傑作。原題の'Another Year'という言葉そのもの。つまり「ある一年」というわけだ。春に始まり、冬に唐突に終わる、平凡なイギリス人達の人生の一年間を切り取ったスケッチ。中心にあって、登場人物のハブとなっているのは、TomとGerriという60歳過ぎくらいの夫婦の家庭。大変仲が良く、仕事も上手く行っているようだし、ひとり息子との関係も良好。ふたりで仲良く畑を耕すのが趣味のようで、その家庭菜園のシーンがひとつのリフレインとなって、数回出てくる。ちなみに、「家族の庭」という邦題だが、庭も出てくるが中心的イメージは「庭」ではなくこの菜園だろう。知的で、とても温厚で親切なカップルなので、悩みのある友人を放っておけない。その典型がGerriの同僚のMary。親しい友人もなく、離婚して家族もおらず、経済的にも苦しく、ワインを飲んではめそめそ泣いてばかり。突然押しかけてTomとGerriに迷惑をかけたりもする。同様なのが、アル中気味で、やはりとても孤独なKen。KenはTom夫婦のところでMaryと出会い、彼女の気を引こうとするが、Maryは似たもの同士のKenを忌み嫌って、無礼なまでにあからさまにはねつける。それぞれ、同情すべきところはあるにしても、かなり自己中心的で、自己憐憫に陥りがち。MaryはTomとGerriのところで彼らの息子Joeと出会う。自分と15歳くらいは違うであろう若いJoeに惹かれ、がむしゃらに近づこうとするMary。しかし、後にJoeがガールフレンドのKatieを連れてきてガッカリし、Katieに無礼にそっけなくふるまう様子が、あまりに分かりやすく、情けない。このMaryとKenのその後について、特に観客を納得させるような結末もないまま映画が終わるところも新鮮。

他にも印象的な人物が幾人か出てくる。映画の冒頭は、精神科医のGerriが患者のJanetに色々と質問をしているシーン。Janetは夜よく眠れないので、ただ、「睡眠薬をくれ」、とだけ言い続ける。Gerriは勿論不眠の背後にある理由を聞き出そうとするが、Janetは頑なに口を閉ざす。Janetの硬い岩のような表情が強い印象を残す。また、Tomの兄弟のRonnieが妻を病気でなくし、葬儀のシーンが出てくる。無表情で、口もほとんど開かないRonnie。長年疎遠になって居て、知らせはしたが葬儀に大幅に遅刻した息子のCarlが、かなり遅れて突然現れ、何故待っていてくれなかったのかとけんか腰の口をきく。JanetとRonnieは、プライベートな事、悩み事は口にしたがらない伝統的なイギリス人(イングランド人、というべきか)。

イギリスの映像や舞台で欠かせない、実力ある俳優が沢山出てきて、演技が素晴らしい。Janetを演じたImelda Stauntonはほんのわずかの、カメオ・アピアランスに過ぎないが、見る者を一瞬にして映画の中に引きずり込む。おそらく最も重要な役柄であるMaryを演じるLesley Manvilleは、Maryの孤独、弱さ、身勝手さを見事に表現。David Bradleyの仮面のように心を閉ざした表情も、いつもながら味わい深い。ほんのわずかだが、私の好きな脇役のPhilip Davisが出ていたのも嬉しかった。

Jim BroadbentとRuth Sheen演じる夫婦は、理想のイギリス人カップル、という感じ。私の知り合いに彼らによく似た感じの夫婦がいて、その人達のことを思い出しつつ見ていた。温厚、快活、社交的で、精神的な懐が深い。

MaryやJimのようなはた迷惑な人達も含め、不器用で、お洒落でなくて、実に愛すべきイギリス人が沢山出てきて、見る私としては、申し訳ないがとても楽しいひとときを過ごさせて貰った。繰り返し見たい傑作。この映画を見て、またイギリスに行きたくなった。個人的な満足感では満点。ただ、小品なので、星4つとした。

2012/11/10

Ian Rankin, "A Question of Blood" (Little, Brown, 2003)


Ian Rankin, "A Question of Blood" (Little, Brown, 2003)  522 pages.

☆☆☆ / 5

今まで何冊も読んでいるRankinのRebus刑事シリーズの小説をまた手に取った。ベッドタイム・リーディングなので、ゆっくりしか進まなくて、そのうちストーリーが何が何だか分からなくなってきたが、まあ楽しめた。

タイトルの『血の問題』というのは、ひとつは殺人事件の現場に残された重要な証拠となる血液を指すが、もうひとつの意味は、事件の被害者のひとりがRebusのいとこRenshawの息子だったこと。つまり血縁者が被害に遭ったわけだ。このいとこの一家とのRebusの感情的な関わりがじっくりと描かれる。

2つの事件が同時に捜査される。メインとなるのは、あるイギリス軍特殊部隊(SAS)の元兵士、Lee Herdman、が高校で銃の乱射事件を起こしたという事件。彼は高校生2人を殺害し、ひとりに怪我を負わせ、そして自分は自殺した。この元兵士が、戦場や特殊な訓練などがトラウマとなり精神的な問題を抱えていたのではないか、ということが徐々に明らかになる。彼は他の人間とのコミュニケーションに困難を感じていたようだが、唯一彼が親しくしていた人々が高校生達だった。にも関わらず、彼がその高校生達を銃撃したのは何故か。調べていくうちに、彼が付き合っていた高校生達の間にも問題があったのが分かってくる。怪我を負ったが唯一生き残った尊大な男子高校生、James Bell、も何故か詳しくは事件の事を話そうとしない。RebusはRenshawとの血縁関係を隠し、古い同僚で友人でもあるBob Hogan刑事の下で捜査に関わるが、実は被害者家族がいとこであるので、捜査をしてはいけないはずなのである。

高校生の殺害の事件が起こっていた同じ頃、Fairstoneというごろつきの死体が、火事となった自分の家で焼死体となって発見された。Fairstoneは、Rebusの長年のパートナーの刑事、Siobhan Clarke(シボン・クラーク)を職務上の事から恨みを抱いて追い回し、嫌がらせをしていた。RebusはFairstoneが焼死したその晩にFairstoneに会い、嫌がらせを辞めるようにと警告しており、更にその晩(彼自身の説明によると)、酔っ払って誤って熱湯を手にかけてしまい、火傷をしていた。警察内部でも彼に重大な嫌疑がかけられるが、勿論彼はやっておらず、自分へかけられた疑いを晴らさなければならない。

Rebus自身、かって兵士でありしかもSASに志願して特殊な訓練を受けていた。しかし、正式に採用される直前で訓練に堪えられなくなり精神的な問題を起こして不適格となっていた。そういう自身の経歴もあって、彼はHerdmanの背景を追体験するように細かく調べていく。いとこやその妻などRenshaw家の人々への感情的な関わりも加わり、ふたつの事件関係者へのRebusのパーソナルな肩入れがこの物語のひとつの魅力だ。社会から孤立していて、まともな人間関係が作れなかったHerdman、Herdmanの知り合いで露悪的行動に走る女子高生のTerri、Rebusが共感するように見える人物は社会に順応できない人達であり、それは離婚し子供とも疎遠になっており警察の中では厄介者扱いされているRebus自身の姿でもある。しかし終盤で、彼がおそらく誰よりも大事に思っているパートナーのClarke刑事が危険に晒され、いつも冷静なRebusも頭に血が上る一幕があった。家族に加えて仕事場でも疎外されているRebusも、本当に深い絆を感じているのは数人の同僚との関係なのだ。

Rankinの小説は、現代スコットランドを舞台とし、犯罪を主たる材料としつつも、伝統的なキャラクター小説。ひとりひとりの人物に付された陰影を楽しむ事が出来、オースティンとかディケンズを読む時似た面がある。クライム・ノベルにつけるには変な修飾語だが、「安心して読める」小説という感じがする。私がもっと集中して読んでおれば、更に楽しめたと思う。

2012/11/06

"Cornelius" (Finborough Theatre, 2012.08.25)


J B Priestley, "Cornelius"

Finborough Theatre公演
観劇日:2012.8.25 (Sat) 15:00-17:00 (one interval)
劇場:Finborough Theatre

演出:Sam Yates
脚本:J. B. Priestley
セット:David Woodhead
照明:Howard Hudson
作曲:Alex Baranowski
音楽・音響:Ben Price

出演:
Alan Cox (Cornelius)
Jamie Newall (Robert Murrison)
Col Farrell (Biddle)
David Ellis (Lawrence)
Annabel Topham (Miss Porrin)
Emily Barber (Judy Evison)
Lewis Hart (Eric Shefford)
Simon Rhodes (Coleman)
Andrew Fallaize (Ex-officer, Dr Shweig)
Beverley Klein (Mrs Roberts, Mrs Reade)

☆☆☆☆ / 5

8月にイギリスで数本の劇を見たが、滞在中は忙しく、帰国後も勉強や仕事、家事などで毎日バタバタしているうちにどんどん時間が経ち、劇のことをブログに書かないまま忘れてしまっている。ただ、この劇だけは、見て直ぐに手書きのメモを取っていたので、それを元に、ストーリーと印象など書いておくことにした。

第1幕では、Briggs & Murrisonというアルミを商う小さな商社の事務所の朝の様子を描く。共同経営者のひとり、Corneliusや社員3人(Biddle、Mrs Porrin、Lawrence)と1人の臨時職員 (Judy) が出社して仕事を始めている。いつもの朝と変わらぬ風景に見えるが、実は会社は倒産の瀬戸際。債権者からの電話が次々にかかってくる。Corneliusは、今北部の方へ営業の出張に出ているパートナーのMurrisonが帰社すれば、きっと良いニュースを持ってくるだろうという一点に最後の望みをかけている。また、世の中の不況の深刻さも伝わってくる(この劇の初演は1935年。大恐慌は1929-33年頃)。次々に戸別訪問の飛び込みセールスがやって来るが、追い返さざるを得ない。そうしたセールスマンのひとりは、身なりはこぎれいにしてはいるが、昨日から何も食べていなくて、その場で倒れる有様だ。

第2幕では債権者の会議が行われている。Corneliusは万事休すの状況だが、そこに共同経営者のMurrisonが営業の出張から突然戻ってくる。CorneliusはMurrisonから良い知らせを期待していたが、頼みのパートナーはそれまでのストレスに押しつぶされたかのように、正気を失っていた・・・。

第3幕 ある日の夕刻でそろそろ退社時間。この幕が始まる前に会社は既に倒産が決まり、この日は会社に社員が出勤する最後の日となっている。社員達がそれぞれCorneliusにお別れを言う。もう若くなくて引退するBiddle、新しい職場を見つけたLawrenceなど、それぞれ、気持ちの整理がついているようだが、Corneliusだけは自分の人生が会社の倒産と共に無に帰したような暗澹たる気持ちのように聞こえる。彼の脳裏には、自暴自棄な考えさえ浮かぶが・・・。

ロンドンのフリンジでも特に小さな劇場のひとつであるフィンバラだが、私は何度もここで素晴らしい劇を見てきた。今回の作品も、なかなか味わい深く、感動的だ。脚本は多くの傑作を残し、20世紀イギリス演劇を語る上で欠かせないプリーストリーによる。しかしこの作品はこれまで全く顧みらず、ロンドンでは70年ぶりの上演とのことであり、それを掘り出したフィンバラやディレクターの慧眼を賞賛したい。

設定は不況に悩む現代のイギリスや日本にぴったり。この会社、Briggs & Murrisonが資金繰りに困って倒産しようとしているだけでなく、イギリス社会全体が窮地に陥っている。セールスにやってくる失業者も、何とかして働きたいという意欲はあるのだが、ペンや紙を売り歩く以外に職がないのである。そういう訪問者の様子で映される外の社会の背景が効果的だ。登場人物の台詞が生き生きしている。色々文句を言いつつも、これからの人生に夢一杯の若い社員Lawrence。そして、年齢を重ねて人生を達観して見つつ、静かな満足感を漂わせる経理担当のBiddle。Miss PorrinのCorneliusへの思慕やJudyのボーイフレンドのことなどが最後の最後になって明らかになり、短い間に色々な小さなドラマが起こる。最後は静かな感動に包まれた。

俳優は皆個性豊かで、味わい深い演技だった。特に主演のCorneliusを演じたAlan Coxの哀愁に満ちた表情が、見てから2月以上経った今も記憶に新しい。彼は名優Brian Coxの息子。また、真面目で細かい経理担当社員を演じたCol Farrellもいかにも、という感じだった。彼はテレビドラマの脇役などでたまに目にする俳優だ。

またロンドンに行く時には是非フィンバラに行きたいと思わせる劇だった。

2012/11/05

アーサ・ミラーの『るつぼ』 (新国立劇場)


『るつぼ』 

新国立劇場公演
観劇日: 2012.11.4  14:00-17:40
劇場: 新国立劇場小劇場

演出: 宮田慶子
原作: アーサー・ミラー
翻訳: 水谷八也
美術: 長田佳代子
衣装: 加納豊美
照明: 中川隆一
音響: 長野朋美

出演:
池内博之 (プロクター)
鈴木杏 (アビゲイル)
磯部勉 (裁判官)
浅野雅博
田中利花
関時男
木村靖司
壇臣幸
チョウ・ヨンホ
佐々木愛
戸井田稔

☆☆☆ / 5

見る人によって賛否が大きく分かれているらしい「るつぼ」を見に行ってきた。Twitterの評などでは、中味がなくてあまりにスカスカ、なんていう厳しい評もあった。期待できないのではないかと覚悟していたが、やはりミラーの劇そのものが凄い劇なので私は大いに楽しめた。スタンディング・オベイションしている観客もいらした。但、非常に伝統的な感じ。役者さん達の個性もイマイチだと感じた。主役の2人を除いてはほとんど新劇の役者さんが演じていたと思う。文学座とか俳優座がセットや衣装などにお金をかけて上演出来ればこんな感じになるんじゃなかろうかという印象(但、セットはシンプルだったが)。ミラーの台本が最高だから面白くて当然だけど、新国立の今回のバーションを諸手を挙げて賞賛するとなると、それはそれで良いのか、と思わざるを得ない。同じ趣味を分かち合う劇団員と観客が自分達のために作って観ているような芝居とは違い、公金を使っての上演だからハードルが高くて然るべきだ。新劇の方は台詞ははっきり発話されていて実に良く分かるんだけど、説得力と役柄の個性に乏しい印象は、私の様な演技の分からない観客でも感じる。特にプロクターの奥さんをやった女優さんの一本調子は、意図された演技ではあろうが、朗読を聞いているようであまりに単調すぎ、面白い役柄だけに残念。逆に池内さんはパワフルではあったが、台詞は潰れて良く聞き取れない。

私みたいに俳優の演技の良し悪しとか、演出の読みの深さとか分からない観客は、ミラーの傑作を十二分に楽しめると思う。でも、演出や演技の何か新しい試みとか、深い洞察とかあるのかどうかはわからない。何か、へえー、と思うこととか、ビックリさせてくれることはなくて、おそらく脚本の雰囲気を忠実に再現したという舞台なんだろうと思う。それで充分と思う客と、国立の劇場なんだから、もっと大胆な試みがあるべきだという人で評価は大きく分かれそうだ。照明は明暗がくっきりして大変印象的。

イギリスのナショナル・シアターだと、今までと同じ事やっていたら許されなくて、何か強い個性とか演出意図を示さないと失格だから、そういう意味では、新国立は期待に添えてないかも知れない。結局、新国立劇場って、最近、新劇の俳優さんと演出家に活躍の場を提供するところになっていないだろうか。しかし、私は新劇臭さなどそれほど気にならないし、演技の質の違いも大して分からないので大いに楽しんだ。ミラーの3本の傑作は誰がやっても、上演スタイルの好き嫌いの差はあっても結構見る甲斐があると思える。

アメリカ文学史とか英米演劇史の授業でこの劇の説明があった後で学生さんが見に行くのにぴったりだと思う。私がそういう授業をやっていたら推薦したい上演だ。

(追記)今回の劇は評がかなり割れているようで、私のは甘い方かも知れない。演劇を良く知っている人の劇評を聞いたり読んだりしていると、私みたいに目が節穴の客は劇を見る資格が無い気がしてくる。しかし、入場料を払って演劇界に貢献はしているのだけれど。昔、ただボーッと素直に見ていた時と比べ、なまじっか色々考えるようになり、自分の馬鹿さ加減が分かって、あまり楽しめなくなったと思う。