2023/05/31

原基晶先生の新しい論文「ダンテからルネサンスまで 人文学と翻訳の使命」のまとめと感想

ツィッターで評判になっていた新刊書『イタリアの文化と日本 日本におけるイタリア学の歴史』(ジョヴァンニ・デサンティス、土肥秀行編、イタリア文化会館・大阪監修、松籟社、2023年2月、¥2200)を買った。本を整理しつつある今、新しい本はなるべく買わないように努力しているのだが、知人の原基晶先生が論文を寄稿されているので、買うことにした。とても美しいデザインのハードカバー。映画や美術を主に論じた論文もあるので図版も多数入っており、しかもその一部はカラーという贅沢さ。にもかかわらず、そして学術的な本なのに、2,200円という破格の安さに吃驚させられた。

さて私はまず巻頭の原基晶先生の論文を読んで非常に勉強になり、自分の専門分野へのヒントも大きかったので、このブログでは、自分の学習ノートを兼ねて、この論文の概要と私の感想をまとめておきたい。原先生の論文は巻頭の第1部「文学」の、更にその第1章、「ダンテからルネサンスまで 人文学と翻訳の使命」pp. 15-46。まさにこのタイトルにあるとおり、論文は、ダンテ・アリギエリ(1265-1321)から、ボッカッチョやペトラルカを経て、ルネサンスの詩人ルドヴィコ・アリオスト(1474-1533)に至る古典的な作品が日本でどのように翻訳されてきたか、そして代表的な翻訳の背後にはどのような解釈と思想があったかを分析する。その際、各時代の日本の文化や出版事情がこうした翻訳に色濃く反映されていることを指摘して、日本の翻訳文化論ともなっている。章を更に6つのセクションに分けてあり、更に一部のセクションではその下位区分もある。見出しを拾うだけで論文の構造がわかるので、まずそれを記しておこう。

  1. (イタリア)ルネサンス文学の受容史※

  2. ダンテ

    2.1 明治・大正のダンテ

    2.2 ダンテと帝国日本

    2.3 民主化後のダンテ

    2.4 比較文学的アプローチの終焉

  3. 『デカメロン』

    3.1 明治初期の翻訳に始まって

    3.2 戦後の翻訳

    3.3 現代文学からの視点と比較文学的視点の衝突

  4. ペトラルカ

  5. ルネサンスの文学

  6. 未来の翻訳のために

    ※第1章のタイトルにあるカッコは本文通り。


論文全体のイントロダクションである「(イタリア)ルネサンス文学の受容史」で、筆者は中世・ルネサンス文学の受容と現代文学のそれが大きく異なる点を指摘する。即ち、日本においては「ルネサンスの側面が強調されて大手出版社が発信者となり、その読者である一般的な市民層が受容者となってきた。そこではイタリア史より世界史が意識され、現在の〈世界〉とその主要な動力である西洋が重要視されていることは明白だ。」(p.16)。つまり、日本の教養ある市民にとってイタリアは歴史的に「ルネサンス」という西洋文化の黄金期の中心であったと言う点で重要であり、それ以降の近代後期から現在に至る国民国家としてのイタリアの歴史や文化は、主に幾つかのステレオタイプ(例えば、ファッション、グルメ、映画、戦時中のファシズム、等々)でかろうじて記憶されるに過ぎないというわけだ。これは「ルネサンス」という言葉自体が表しているように、かっての西欧史のギリシャ・ローマ文明中心史観の一端である。「ギリシャ」という国や民族、そしてギリシャ語・ギリシャ文学も、現代のそれはほとんど顧みられず、輝かしい西欧文明の源泉としてもっぱら称揚されて来たことと類似する。大まかには、かって我々日本人の頭に浸透していた西欧の文化史では、ギリシャ・ローマを起点として文明を確立し、それから逸脱したり(中世)、再発見したり(繰り返される大小のルネサンス)してきたことになる。それは例えば、「暗黒の中世」の後にやって来た「華開くイタリア・ルネサンス」といった姿で、今でもテレビなど大衆的な情報メディアで拡散されている。

第2のセクションで、原先生は時代を追ってダンテ、特に『神曲』の翻訳について、その傾向をまとめ、批評する。『神曲』の主要な日本語訳については、彼の名著『ダンテ論 「神曲」と個人の出現』(青土社、2021)でより詳しく論じられたことでもあるが、本書は、明治・大正の翻訳から論じはじめている点が新しい、そして私にとって興味深い視点が含まれている。つまり、「そもそもダンテへの関心は英文学のミルトンとの関係から始まり(日本初の『神曲』翻訳は1903年のミルトン研究で知られる繁野天來『ダンテ神曲物語』)、カーライルの『英雄崇拝論』の影響で広がった」(p. 17)。更に、内村鑑三は「中世キリスト教の厳格な信者というダンテ像を提示」した(pp. 17-18)。内村はダンテやシェイクスピアを、「世界文学」に屹立する西洋の「大文学」の文豪として、称賛した。同様のことは詩人で英文学者の上田敏も言っているようだが、彼らの「論の根底にあったのは、まさに富国強兵と脱亜入欧という思想」であった(p. 18)。もっとも、イタリアは英仏独等と比べ、到底大国とは言いがたい。ということは、これら日本の知識人にとっては、ダンテは、同時代の国家としてのイタリアとは結びついていないのである。私には、ダンテと英文学者の縁が興味深い。上記の英文学者との関係は、更に竹内藻風や生田長江による英訳からの重訳へと続く。私が若い頃、一般読者の多くが読んだ和訳は、英文学者で、ウィリアム・ブレイク研究で博士論文を書いた寿岳文章訳の『神曲』(1974-76)だった。

 日本における西洋の巨大な知の源泉としての『神曲』理解からは、キリスト教的観点も中世の、あるいは現代のイタリアの文脈に照らしたダンテ作品という観点も抜け落ちていた。また、イタリア語・イタリア文学の研究が、英仏独文学のように充分になされていなかった日本においては、厳密な文献学的研究・翻訳には至らず、「世界をリードする西洋の〈人間〉概念をしるためには、比較文学的観点からの翻訳が求められたのだ」(p. 21)。ダンテを西洋が生んだ手本と見る観点は、軍国主義の時代にあってはファシズムと結びつき、一部のイタリア文学研究者の積極的なファシズム宣伝活動にまでいたるようだ。

 民主主義国家に変貌したと標榜する第二次大戦後の日本においては、ダンテは民主主義の出発点として理解されていたルネサンスを代表する詩人、という評価になり、「世界・・・的な価値を持ち、それゆえに、世界を構成する〈人間〉を理解するためにも重要だと考えられた」(p. 22)。つまり富国強兵への教本から民主主義の教科書へと衣替えさせられたのである。こうした比較文学/世界文学的な観点に基づいてなされたのが、平川祐弘の口語訳であり、それに続く寿岳文章訳だった。

 しかし、現実世界が多極化し、文学・文化はもちろん、政治経済においても、北米と西ヨーロッパを頂点とした価値体系がかなりの程度崩れた今、古典古代に始まりルネサンスにおいて再興されたとする西欧的教養には昔日の輝きはない。西欧的教養への信頼をベースにした世界文学全集とか、出版社が出す講座ものなどはほとんど消え失せ、文学翻訳の業界自体が急激に縮小してしまったのである。

第3のセクションで、原先生はジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313-75)作の『デカメロン』の翻訳を俎上に載せる。この作品の最初の翻訳は明治15年(1882)に大久保勘三郎(経歴等不詳らしい)の訳で出ており、恐らくフランス語からの重訳だそうだ。さらに戯作者としても知られる高瀬羽皐(うこう)が1886-87にやはりフランス語からの重訳で3種類の抄訳を出している。当時の翻訳は江戸の大衆的戯作文学の伝統の延長上にあり、この後、近代小説へと変化する途上だった。この後、『デカメロン』は、大衆通俗小説の系列として広まっていく。ダンテの『神曲』がハイブローで崇高な文学の代表と考えられたとすると、ボッカッチョの『デカメロン』はダンテ作品がカバーしていない民衆のたくましく猥雑な生命力を捉えた作品として印象づけられてきた。

 第2次大戦後、河島英昭による抄訳が講談社の世界文学全集から出たが、これは「現在の翻訳で文献学的に求められる作業をはじめに行った」訳業だった(p. 29)。この翻訳は「世界文学全集」という「比較文学/世界文学」と戦後の西洋的教養主義の枠組を使って出版され、抄訳という不完全な形だったが、イタリア文学の研究という視点から、イタリアの専門家の文献学的な研究に基づいた刊本を基になされた学問的翻訳だったようだ。この流れを受け継ぎ、『デカメロン』の全訳を完成したのが平川祐弘だった。河島訳は当時最先端の知識人であったボッカッチョによる『デカメロン』の、「民衆文化との、ある種の断絶があったことも明らかにしている」のに対し、平川訳は「むしろヨーロッパの散文に流れる民衆的な流れを意識しており、卑猥の問題も民衆文化の力強さの表現とする」(p. 31)。ボッカッチョからも大きな影響を受け、彼の作品を種本に使っているチョーサーについて考えると、この点はよく分かる。チョーサーは都市の富裕な商人の息子で、少年時代から王室に仕え、生涯の多くを高級官僚として過ごしたが、作品においては、宮廷文化やヨーロッパの知的伝統を広く、かつ深く反映していると共に、『カンタベリ物語』では、イングランドの民衆と彼らの日常生活や文化にも細かく目配りをし、それが作品の魅力を飛躍的に高めた。ボッカッチョにもそうした両面があり、翻訳者によってはどちらかの面が強調されるのだろう。

第4セクションではペトラルカ(1304-74)が短く取り上げられているが、ここで原先生が主に書いているのは、日本における「ルネサンス」概念についてである。イタリアでは、そして世界の中世文学研究者にとっても、13世紀後半から14世紀始めにかけて生きたダンテは、どうみても中世の詩人であるが、日本の教育では彼はルネサンスを代表する詩人として扱われてきており、その名残は今も残る。日本におけるルネサンス文学の概念では、教皇庁に支配されたラテン語による中世文明から脱して、民衆の言葉であり、人間性の解放を象徴する俗語による文学の創始者としてダンテが位置づけられる。そうすると、ラテン語作品が重要なペトラルカの作品の中で、俗語の代表作『カンツォニエレ』が特に注目され、しかも「ダンテの恋愛叙情詩のエピゴーネン(模倣)と受け取られてしまう」そうだ(p. 33)。

第5セクションは「ルネサンスの文学」と銘打たれており、次の文で始まる:「イタリア本国であれば、盛期ルネサンス文学の代表といえばアリオストの叙事詩『狂えるオルランド』であろう」(p. 33)。原先生は、彼自身の責任で「盛期ルネサンス文学の代表作は・・・」と言わずに、「イタリア本国であれば」という枕詞を付けている。その前のセクションでも、「イタリアでは中世に分類されるダンテ」という言い回しが使われていた。この論文では、こうしたイタリアにおける中世・ルネサンス概念と、日本におけるそれらとの違いが問題にされているので、こうした言い方が使われるのだろうが、文学史における時代区分は難しい。国や時代における観点の違いに加え、そもそも「中世」という歴史で使う一般的用語と、「ルネサンス」という文化史の用語を混ぜて使う事に矛盾が含まれている。後者の特徴のひとつが古典古代の「文芸復興」だとしたら、中世の間にも何度もそれは行われたし、イタリア半島においては古典古代の文芸の影響は絶えることが無かったと言えるかも知れない。

 『狂えるオルランド』は20世紀後半までの翻訳や解説では「宗教的桎梏から人間精神が解放されたルネサンスという空間で可能となった人間の自由な感情を活き活きと表現し、青春の美しさと儚さを謳っていると解釈」されてきたそうである(p. 34)。これはロマン主義に影響を受けた、やはり比較文学的/世界文学的な見方に基づいた翻訳ということなのだろう。しかし、『狂えるオルランド』は当時のローカルな背景、即ちメディチ家の政略結婚など、が色濃く反映されており、ロマン主義的解釈とは正反対のニュアンスが浮かび上がる。従って、この詩は、イタリア半島の政治状況をよく検討した上で翻訳する必要がある、と原先生は詩の一節を選んで試訳を挙げながら論じている。

論文の結論部である第6セクションで、筆者はこれまで論じてきたことを手短にまとめつつ、「日本のルネサンス概念は近・現代日本の非宗教的空間というフィクションを成立させるために形成されたと結論づけることができる」と述べる(p. 38)。つまりイタリアの「当時の社会・政治空間における宗教色」を無視し、戦前であれば富国強兵を目ざす日本から見た西欧の偉人としてダンテ以下のルネサンスの詩人を称揚し、戦後は民主主義と人間中心主義の源泉であるルネサンス詩人として同じくイタリアの詩人たちを翻訳してきたのだろう。こうした傾向は英・独・仏など、他の西欧の国々の大作家についても言えるだろうが、イタリアは国民国家としての成立が遅く、現在でも政治経済における大国とは言いがたく、日本のアカデミアにおける文学・語学の研究者層もあまり厚くない。イタリア研究者が比較的少ない中、地道な文献学的研究に基づいた翻訳がされにくく、また各時代の地域史への注意が不十分だったのだろう。最近までの既訳に見られるこれらの問題点を払拭し、『神曲』をイタリアにおける文献学の基礎に立ち、同時代の政治・社会・宗教の文脈に置いて訳し直したのが、原先生の講談社学術文庫版の翻訳と言えるが、ここに半生をかけて『神曲』新訳に取り組んだ筆者の自負が見える。

本論を読んで、中世英文学を専攻してきた私として最も刺激を受けたのは、イタリアの14-16世紀文学における、そして広く文学史や文化史における、時代区分(periodisation)についての原先生の考えである。既に書いたように、原先生はダンテを中世の詩人であるとか、アリオストをルネサンスの詩人だとか、自分自身の定義としては書かず、「イタリアでは」といった枕詞を付けて形容している。また、第1のセクションのタイトルは、「(イタリア)ルネサンス文学の受容史」となっていて、わざわざ「イタリア」をカッコでくくり、読者に「(イタリア)ルネサンス」の定義について考えるように促している。本論で議論になっているのは、客観的な、あるいは学問的な「中世」とか「ルネサンス」の定義ではなく、日本においてそれらの時代区分が、戦前の国家主義や戦後は特に世界文学/比較文学の枠組で使われ、同時代の、あるいは現代イタリアの文脈とは異なるという事だろう。14世紀初期(1307-21年頃)に書かれた『神曲』は現在では中世の作品と考えるのが妥当であり、またチョーサー(1340年代前半-1400)より大分前に亡くなっているペトラルカやボッカッチョも中世の詩人と見做されることがあるかもしれない。しかし、美術と同様、イタリア・ルネサンスは北方諸国のルネサンスとは異なった時期にやってきたと考える事も出来る。だがそもそもこうした「中世」や「ルネサンス」という用語自体が極めて便宜的であり、そうした定義の根底に揺るぎなく存在するのは、古典古代を起点とする西欧中心史観なのだろう。これらのラベルの曖昧さ、ご都合主義を踏まえて、この時期の文学作品を見る(あるいは専門家は、研究したり、翻訳する)必要があるだろう。更に、この論文で使われた過去の翻訳の分析方法や視点が、中世・ルネサンス文学の他の古典の翻訳を分析する際にもテンプレートになりそうだ。

 多くの情報に溢れた刺激的な一章を読ませていただいた。研究者に限らず、西洋の「中世・ルネサンス文学」に興味を持つ一般読者にとっても大変おもしろい論文だと思うので、是非お勧めしたい。引きつづき、この論集の他の章も読んでいきたい。

(なお、原基晶先生の『ダンテ論 「神曲」と「個人」の出現』についても以前にブログを書きました。

2023/03/23

松田隆美先生の最終講義を聴く。

 3月19日はオンラインで、今年度で慶應義塾大学文学部を退職される松田隆美先生の最終講義を視聴した。残念ながら、私は近年の加齢による聴力低下と頭の働きの衰えによる理解力低下で、充分理解出来たとは言えないが、パワーポイントとハンドアウトの和訳されたテキストのおかげで、大体の流れは追うことが出来た。松田先生の広範にして、高度な研究が1時間ほどの講義時間にぎっしり詰まっていた。

講演の題目は「旅のナラティヴと中世英文学研究」。『カンタベリ物語』、『サー・ガウェインと緑の騎士』、『マージェリー・ケンプの書』、『マンデヴィルの旅』などの旅を扱う中英語作品を取り上げつつ、ラテン文学やイタリア文学を引用して、ヨーロッパ全体の思想や文脈から解説された。実際にでかけた旅と、メタファーとしての旅、魂の巡歴としての旅、書物や地図上の旅(あるいは写本自体の移動)など、創造力の中で様々な方角へ拡大再生産され、飛翔する旅や移動を自由自在に説き起こしておられた。ヨーロッパの文学・思想・歴史などについての松田先生の圧倒的な知識には、お話を聴く度にいつも仰天せざるを得ない。

松田先生の学問の基礎には、若い頃からヨーロッパの諸国語(中世のイタリア語やフランス語、そして特にラテン語と現代西欧諸語)を自由自在に読まれる卓越した語学力、そして、欧米の学会水準で研究・教育を維持される能力と大変な努力があるかと思う。慶應義塾の中世文学研究の伝統を受け継ぎつつ、イングランドでも博士号を取得され、世界的な権威者達と研究交流をされてきた。先生の教え子達も、それを受け継ぎ、皆さん国際的に活躍されている。先生は、講演の中で、現在、中世英語英文学研究のすそ野が縮小し、学会会員数も非常に減少していることを嘆いておられた。これは中世英語英文学だけでなく、人文科学全体に言えるので如何ともしがたいが、そうした環境に抵抗し続けて、優秀な後進を育ててこられた松田先生の努力に敬意を表したい。

私は先生に2,3度ご挨拶したことがある程度で、お話をしたことはほぼないと言える。しかし、松田先生は記憶しておられないかもしれないが、一度だけ学会発表の司会をしていただいたことがある。感謝すると共に、大学者に司会をしていただき、私にとって良い思い出となっている。