2020/02/11

【イギリスのテレビドラマ】新旧の『主任警部/刑事モース』シリーズとジョン・ソウの一家

ツイッターで新旧の『主任警部/刑事モース』シリーズについて面白いことを知った。最近 NHK BS でリマスター版が放送されている『主任警部モース』(Inspector Morse)の主役を演じているのはジョン・ソウ(John Thaw) だが、ソウの最初の配偶者はサリー・アレクサンダーというかなり著名なフェミニズムの活動家で、ロンドン大学ゴールドスミス・コレッジの教師だった(今も存命で、現在は名誉教授のようだ)。彼女はイギリスで最初に開かれた女性解放運動(Women's Liberation Movement)の全国会議開催を組織した人とのことだ。

それで、この夫婦にはアビゲイル・ソウというお嬢さんがいて、俳優をされている。そのアビゲイルさんが、『主任警部モース』のスピンオフドラマ『刑事モース・オックスフォード事件簿』(Endeavour)で新聞記者ドロシア・フラジルを演じている。このスピンオフ・ドラマのイギリスにおける最新シリーズ(シリーズ7)では、アビゲイル・ソウ演じるドロシアが、俳優の実の母である若き日のサリー・アレクサンダーに会うシーンがある。そのサリーを演じているのがなんとアビゲイル・ソウの実の娘モリーだそうだ。つまりジョン・ソウとサリー・アレクサンダーの孫娘。オックスフォードの情報ウェッブサイト、Ox in a Box の記事でこの共演のことを報じている。どうも孫娘のモリーはプロの俳優ではないようだ。


アビゲイル・ソウって、写真を見ると、色々なドラマの脇役などで良く見る顔と思うけど、私は今までジョン・ソウの娘とは気づいてなかった。ちなみに、ジョン・ソウはサリー・アレクサンダーと離婚した後、有名な俳優のシーラ・ハンコックと結婚し、亡くなるまで一緒だった。警部/刑事モース・シリーズは、私はオリジナルの Inspector Morse もスピンオフの Endeavour も大好きなので、新シリーズの日本での放送が楽しみ。

2020/02/10

【近況】チョーサー研究会出席(2020年2月8日)

2月8日土曜日に日本大学経済学部の校舎でチョーサー研究会がありました。この研究会は長い歴史があり、発足は1992年、つまり28年続いています。今回の研究会は108回目。会合は年4回開かれていて、私は一昨年くらいから参加しています。会の名称は「チョーサー」を冠していますが、会のウェッブサイトによると、「ジェフリー・チョーサー(Geoffrey Chaucer)および中世英語英文学、ヨーロッパ文学・歴史・文化について研究発表、講演を中心に活動しています」とあり、イギリスを中心に、西欧中世の文学や文化、歴史についての発表を1つか2つ聴き、その後時間をかけて質疑応答をしています。

今回は貝塚泰幸先生による発表、「中英語 Octovian における獅子」を聴きました。Octovian は14世紀のロマンスで、元々はフランス語で書かれた物語を英語に翻案した作品です。Octovian(異綴りではOctavian)はローマ皇帝、彼の皇妃は義母の奸計により、生まれたばかりの幼い双子の男子と共に船に乗せられて追放され、異国を放浪する運命に。赤子のひとりは猿にさらわれ、もうひとりはグリュプス(Griffon:ギリシャ神話の怪物、ライオンの頭に鷲の胴体を持つ)、そして雌ライオンにさらわれるという不幸な運命をたどります。前者の赤子はやがて母親に再会し、後にはこの母子は父の皇帝 Octavian にも正当性を認められます。そしてその赤子は、父と同じく Octavianと名付けられます。後者の赤子、Florent は、雌ライオンが母親のように乳を与え、その後、中産階級の市民に拾われて育てられます。彼はやがて自然にその高貴な血筋を示すようになります。紆余曲折を経て、最後は、父の皇帝、母の皇妃、そしてふたりの成長した息子たちが再会することになります。

というような話らしいんですが、私は予習のために読もうとしたけど半分くらいしか読んでいません。でも既に読んだところまででも色々な出来事が詰め込まれていて、なかなか面白い物語です。特に Florent が中産階級の家庭で育てられるのに、その商人らしい価値観からはずれて、高貴な血筋を示さざるを得ないあたり、「生まれ」と「育つ環境」(nature vs. nurture)の対比が大変興味深いと思いました。まだ半分しか読んでないので、これからぼちぼち最後まで読んで、また考えたいと思います。ウィキペディア英語版にかなり詳しい解説があります

貝塚先生のご発表は、学問的にディテールにこだわった緻密なものでした。ライオンの描写に焦点を合わせ、いくつか残っている写本毎の特徴を捉えて、北部の写本と南部の写本の違いを明らかにしようという試みでした。まだ論文にするほどのはっきりした結論は出てないようでしたが、着実に発展しそうな研究手法です。彼は以前の研究発表でもこうした写本別の違いを扱っておられ、手堅い研究をしておられます。今後の成果が楽しみです。

この研究会の後は毎回懇親会もあるのですが、私は近年老人性難聴になりつつあり、特にレストランや居酒屋等では人の話が良く聞こえないので、今回も失礼して帰りました。

2020/02/01

【近況】"A False Beginner"(偽りの初心者)

前回のブログで書いたように、2〜3月に予定されていた市民講座の担当がなくなりました。秋口以来、その準備で四苦八苦していたのですが、幸か不幸か、いや不幸中の幸いで、その苦労は突然消え失せました。まあ、自分にとって多少の勉強にはなったので、無駄ではなかったと思っています。

折しも非常勤の試験も終わり、非常勤講師としては春休み期間に入りました。3月末が締切の論文集に寄稿することになっているので、その準備をしなければなりません。執筆者が出版費用を分担する自費出版の論文集です。お世話になった先生方の退官記念論文集なので、喜んで参加したいと思っています。但、上手く書けるかどうかは分かりません。

それに加え、何か継続的に勉強したいと思い、しばらく手を付けずにいたラテン語の勉強を始めました。私がラテン語の勉強を再開するのは、何度目か分からない位です。中世西欧の文学や歴史の研究にとってラテン語の知識は必須です。ラテン語は、昔の日本で言えば漢文みたいな言語で、中世・近代初期の西欧において書き言葉としては圧倒的な重要性を保っていました。主な記録や学術書、文学作品はラテン語で書かれていましたから、例え中世の英語やイタリア語、フランス語(これらを「近代語」と呼びます)などの文学を研究するにしても、その時代の知的遺産の多くがラテン語で残されていたり、そうした近代語の作品の原作や類話がラテン語だったりするので、ラテン語の知識は欠かせないのです。ところが、私の語学の能力は本当に貧弱で、英語と中世の英語だけで精一杯で、ラテン語まで手が届いていません。

ラテン語を最初にやったのは日本の大学院に在籍していた時でした。東京大学の故森安達也先生が非常勤で出講されていて、学部のラテン語の授業を担当されており、私も出席し、週一回一年間、一応の基本的な文法を学習しました。(森安先生の想い出については以前にブログで書きました。)それからも、大学や語学学校、市民講座などで色々な講座を受講して、ラテン語の授業を受けました(日仏学院、上智大学エクステンション・センター、ケント大学、朝日カルチャーセンター、アテネ・フランセ等々)。また、自分自身でも色々な文法書や初級読本を読んだり、練習問題をやったりして独習してきました。我が家にはその挫折したり読みかけたりしたラテン語関連の本が沢山ありましたが、去年ほとんど処分しました。そうして勉強をしている間はかなり記憶を新たにするのですが、勤務先の役職や退職後は博士論文の勉強など、他のことで忙しくなると数年間何もやらない時間が続き、すっかり元に戻ってしまい、基本文法さえ忘れてしまいます。また、多くのラテン語の重要文献には現代英語訳があるので、研究上は、読めなくても何とかなります。もちろんある程度読めれば、大変なプラスにはなるのですが・・・・。

と言う感じで、私のラテン語はいつも初級文法を終わったくらいで止まったままで、それを見ると自分の頭の悪さを思い出させる劣等感の源みたいになってしまいました。こういう過去に特定言語の学習をやっていて、一応簡単な知識はあるが、初級で留まっている人を、語学教育学の用語では、"a false beginner"(偽りの初心者)と言います。私は永遠にラテン語の "a false beginner" のようです。

今まで私はラテン語を何とか研究に役立てたい、という想いで勉強していました。しかし、今回はもうそういう目標はなく、難しいパズルを楽しむような気持ちでやっています。簡単な読本の文章を詳しい注と英語訳を参照しつつ読んでいます。ほぼすべての単語を辞書で引き、文法書をしょっちゅうめくって語形変化などを確かめるので、一度にほんの数行進むのにも一苦労です。でも、結果として何かを得るとか、ラテン語の読解力が向上するのを目ざすのではなくて、一語一語を解読する作業自体を楽しむように心がけています。今は頭も鈍くなってよく働かないし、いつ体調を壊して勉強出来なくなるか分かりません。だからこそ、何か結果を求めるのではなくて、今やっている勉強を楽しまなくては、と思います。三日坊主になりませんように(^_^)。