2015/04/24

【イギリス映画】『パレードへようこそ』 (Pride)  2014年制作

『パレードへようこそ』 (Pride)  2014年イギリス映画、2015年日本公開

鑑賞した日:2015.4.23
映画館:シネスイッチ銀座

監督:マシュー・ウォーチャス
脚本:スティーブン・ベレスフォード
音楽:クリストファー・ナイティンゲール
撮影:タト・ラドクリフ
美術:サイモン・ボウルズ

出演:
炭鉱町ディライス(ウェールズ)の人々:

ビル・ナイ (クリフ)
イメルダ・スタントン (へフィーナ)
パディ・コンシダイン (ダイ)
ジェシカ・ガニング (シアン)
モニカ・ドラン (マリオン)
リズ・ホワイト (マーガレット)
リザ・ポールフリー (モーリーン)
メンナ・トラッスラー (グウェン)

ロンドンのゲイ・レズビアン・コミュニティーの人々:

ジョージ・マッケイ (ジョー)
アンドリュー・スコット (ゲシン)
ベン・シュネッツァー (マーク)
ドミニク・ウェスト (ジョナサン)
ジョセフ・ギルガン (マイク)
フェイ・マーセイ (ステフ)
フレディ・フォクス (ジェフ)

☆☆☆☆☆ / 5

去年、イギリスで評判になっているのを向こうの新聞で読み、日本で公開されたら見たいと思っていて、映画館に出かけたが、大当たり。映画が、これ以上私を楽しませてくれることはまず無い、と言うレベルの楽しい作品だった。概してリベラルな考えを持ち、マイノリティーや労働運動に共感できる人には最高の作品だろう。

ストーリーは実話に基づいているそうで、今回、脚本家のスティーブン・ベレスフォード(ナショナル・シアターの”The Last of the Houssmans”の脚本家)は、色々な関係者に直接取材したようだ。そうして見いだしたウェールズの炭鉱町の関係者やゲイ・レズビアン・コミュニティーの人々がこの作品の撮影にも参加、協力をしてくれたそうである。イギリスの好きな人にも是非勧めたい、イギリスへの愛と興味を刺激される作品。

1984年、サッチャー政権下のイギリス政府は斜陽産業である炭鉱の多くを閉山に追い込もうとし、これに炭鉱労働者の組合は激しく反対して長期のストが続いていた。収入をたたれた鉱夫とその家族達は、経済的に苦しい毎日を過ごしていたし、デモやピケットの現場では、警察による過剰な暴力や拘禁が続いていた。このことを知ったロンドンのゲイ&レズビアン・コミュニティーの人々、”Gay’s the Word”というゲイ・レズビアン関連書店に集まっていたグループが、同じく政府や警察に苦しめられている者同士として鉱夫と家族達を応援しようというリーダーのマークの提案に賛同する。彼らはLGSM (Lesbians and Gays Support the Miners)というグループを結成し、街頭募金を始める。しかし、その募金を送ろうにも、炭鉱労働者の組合の正式窓口ではまったく取り合って貰えない。同性愛者の支援を受けるということが、組合にはマイナスに働くと考えたからだろう。そこで、マーク達は、ストをしているウェールズの小さな炭鉱町、ディライスに直接電話し、募金を送りたいと申し出る。組合のディライス支部の指導者ダイや彼を補佐するクリフ、シアン、グウェンなどは、この申し出を受けることにするが、保守的なモーリーンは頑強に反対する。やがて、募金を持ってロンドンのゲイ・レズビアンの連中がウェールズにやって来る。お互いに警戒し、ぎこちない雰囲気のうちに集会が始まるが、握手をし、歓迎と返礼のスピーチをし、ビールを飲み、歌を歌ったり踊ったりしているうちに、ふたつの全く異なったコミュニティーの間にあった壁が徐々に溶けていく。更に、次はウェールズのコミュニティーの代表がロンドンのゲイとレズビアンのコミュニティーを訪ねる番となった。彼らを迎えて、ロンドンのゲイやレズビアン達は、人気ミュージシャンに呼びかけて、盛大なチャリティー・ボウル(この場合のボウルは、所謂ディスコ・パーティー)を開く・・・。

良い点ばっかりで、ケチのつけようがないが、まず私の趣味を言えば、特にロケーションが好ましかった。ロンドンの普通のごちゃごちゃした通りにある、これまたごちゃごちゃした本屋の雰囲気が良い。このGay’s the Wordという本屋は今でもあるようで、英語版ウィキペディアにも載っているし、店のホームページもある。一方、ウェールズの寂しい町の感じも良い。でも特に、ロンドンの連中を乗せたマイクロバスがウェールズに入っていく時や、ビル・ナイ演じるクリフがロンドンの連中を地元の廃墟に案内した時の、ウェールズの雄大な景色が美しくて、なんとも言えない。

音楽が良い。私は音楽には無知だが、80年代のポップスが満載のようで、あの時代の雰囲気を盛り上げる。さらに、ウェールズでは地域の民衆の歌(?)も混じる。そして、それに加えてのジョナサンのダンスが素晴らしかった。その他、セットや衣装などを通じて時代の雰囲気がたっぷり盛り込まれていることで、一層魅力的なドラマになった。時代背景という点では、ドラマの背景に市場万能を唱えるサッチャー政権の重苦しい影があるのは勿論だが、ゲイの人達を物理的にも精神的にも圧殺しつつあったエイズの、死に神のような影も見える。当時はエイズは死に至る病と考えられ、また、これにより、患者に対して、そしてゲイの人々全体に対する差別も激しかった。映画の中にもエイズを患う人が混じる。

群像ドラマだが、ひとりひとりの登場人物にちゃんと個人のドラマがあって、それが短い時間にも関わらず効果的に描かれているところが、脚本の良さを感じさせる。特に、ジョージ・マッケイ演じる若い専門学校生ジョーは、保守的な家庭で、自分がゲイであることを言い出せずに苦しんでいるが、この運動を通して、自分のアイデンティティを確立し、親離れをしていく。同様に、ゲシンも田舎に母を残して、十数年会っていない。保守的で、ゲイやレズビアンと組合との関係に強行に反対するモーリーンは、段々と孤立し追い詰められる。静かに組合運動を支えるクリフには、表面では分からない、彼なりの個人的な思い入れがある。

俳優としてはビル・ナイとイメルダ・スタントンという著名な名優は勿論、日頃地味な脇役で良い味を出しているイギリスの俳優達が個性的なキャラクターを造形して飽きさせない。地味だが、偏見がなく暖かい人柄の組合の指導者ダイをパディ・コンシダインが説得力を持って演じる。このダイという実在している組合指導者は、凄い人だな、とつくづく感じるし、それを見る者に訴えるのがコシンダインの演技。屈折した若者ゲシンを演じるアンドリュー・スコットも良い。ロンドンの若者達のリーダー、マーク役のベン・シュネッツァー(アメリカ人俳優)の元気いっぱいさも印象に残る。大柄のエネルギッシュで、しかしとってもチャーミングなシアンを演じたジェシカ・ガニング、組合の元気なおばあちゃん、グウェン役のメンナ・トラッスラーも記憶に留めたい。

貧しい鉱工業地域の住民が、芸術を通じて元気を取り戻したり、創造性を発揮したりする映画としては、『リトル・ダンサー』や『ブラス』がすぐに思いだされる。また演劇では、傑作”Pitman Painters”なんて作品も思いだす。この映画の背景もそうした作品に似ているが、仕事や生活に困っているワーキング・クラスの人々が、今回は、同じように抑圧された状況にあったゲイ・レズビアン・コミュニティーと「連帯」した点が斬新。というのも、地方の鉱工業地帯のワーキング・クラスの人々は、左翼政党を支持はしても、道徳や社会通念においては概して保守的であり、都市でボヘミアン的な生活をするゲイやレズビアンの人達とはかなりの隔たりがあるからだ。しかし、そうしたふたつのコミュニティーが、おそるおそる、恥ずかしかったり恐がったりしながら近づいて、段々と打ち解け合い、理解し合い、そして手を繋ぐ。つまり、これは内気な都会の若者達と溌剌とした田舎の労働者達の、2つのコミュニティーのラブ・ロマンスなのである。

予告編ビデオ

監督のマシュー・ウォーチャス(という発音で良いのかどうか分からないが)は、演劇の世界で幅広い実績のある人で、私もOld Vicで彼が演出したエイクボーン作品の上演を見たことがある。現在のOld Vicの芸術監督は、ケビン・スペイシーだが、次期はこのウォーチャスに決まっているそうだ。

(追記)
上記のジェシカ・ガニングが演じた人物、シアン・ジェイムズは、この炭鉱ストの後、たしか映画の中でもジョナサンからそうしろと言われていたように、大学に行き、職を得、政界に入って、労働党の議員として働き続けた。2005年に国会議員となり、その後10年間、今に至るまで下院議員だ。国会における女性進出のパイオニアのひとりであったとも言われる重要な議員のようだ。しかし、今回の選挙は、以前から引退を表明していたようで、出ていない。彼女は党の公式の方針に反して、イラク爆撃再開に反対しているそうで、労働党の現状に不満を持っているのかも知れない。別の人物では、ウェールズの組合指導者ダイ・ドノバンは今も他の組合で労働運動を続けているそうである。また、エイズだったジョナサンは厳しい時代を生き残り、舞台衣装の仕事をしているそうだ。しかし、エイズで亡くなられた人もいる。その後の登場人物達の人生もまた、色々興味深い。詳しくは、ガーディアンのこの記事を

2015/04/20

『ウィンズロウ・ボーイ』(新国立劇場、2015.4.19)

『ウィンズロウ・ボーイ』 
新国立劇場公演
観劇日: 2015.4.19   13:00-16:15(休憩1回)
劇場: 新国立劇場 小劇場

演出: 鈴木裕美
脚本: テレンス・ラティガン
翻訳: 小川絵梨子
美術: 松岡泉

出演:
小林隆 (アーサー・ウィンズロウ)
竹下景子 (グレイス・ウィンズロウ、アーサーの妻)
森川由樹 (キャサリン・ウィンズロウ、娘)
山本悠生 (ディッキー・ウィンズロウ、長男、オックスフォード大学の学生)
近藤礼貴 (ロニー・ウィンズロウ、ウィンズロウ家の次男、海軍管轄の幼年学校の生徒)
チョウ・ヨンホ (デズモンド・カリー、事務弁護士)
川口高志 (ジョン・ウェザストーン、軍人、キャサリンの婚約者)
中村まこと (サー・ロバート・モートン、法廷弁護士)
渡辺樹里 (ヴァイオレット、ウィンズロウ家のメイド)
デシルバ安奈 (ミス・バーンズ、記者)

☆☆☆☆ / 5

ルネサンスの古典的作家を除けば、おそらく私が最も好きなイギリスの劇作家、テレンス・ラティガンの代表作の上演。こちらの期待も大きいので、翻訳上演という大きな制約があるのにもかかわらず、つい大きな期待をする。公演自体は、私の好まない点が目についたが、脚本が素晴らしいので、とても楽しめた。

演出の鈴木裕美はラティガンが大好きなようで、2005年にラティガンの3作品を連続上演する企画をしたのは彼女だったそうだ。その3作には『ウィンズロウ・ボーイ』も含まれていたが、私は残念ながら見ていない。しかし残りの2作、『ブラウニング・バージョン』と『セパレート・テーブルズ』は見て、それ以来、ラティガンがとても好きになったので、鈴木さんには感謝しなければ。

ストーリーは、海軍幼年学校に行っていたウィンズロウ家の次男ロニーが、友人のロッカーから郵便為替を盗んだという疑いをかけられ、本人は否定するが一方的に退学処分を宣言される。これを不服として、ウィンズロウ家の人々は全力を傾けて戦い、法廷闘争に至る、というもの。詳しくは映画版を見た時の粗筋を参照して下さい。

非常に目障り耳障りだったのは、ディッキー、デズモンド、メイドのヴァイオレットや新聞記者の役の、時として寄席芸人のような、笑いを取ろうと言わんばかりの大げさにコミカルな演技。段々慣れてきたが、最初の方は、腹立たしくて苛々し、集中出来なかった。その他の配役も、全体にコミカルにしようとし過ぎていないか。また演技全体が大げさで、所謂「赤毛もの」的なあざとさ、人工的すぎるドラマチックさを感じた。西洋人らしく殊更に大げさなジェスチャーや映画の吹き替えのような大げさな台詞回しをしていないだろうか。また、過剰に説明的な演技になっていないか。笑いを自然と引き起こすような台詞はあるので、それはそれで自然に笑いが生まれるのに任せれば良いと思う。ラティガンの素晴らしさは抑制の美だ。表面にはわずかしか表れないが、水面下に大きな情念が隠れているのが観客に伝わることが大切だ。その点で言うと、小津安二郎の映画に似ている。日本人の多くが備えている謙遜とか抑制の態度を自然に使って欲しい。隠されている感情を、開けっぴろげに外に出してしまったら台無しになると思うが・・・。この作品の時代は20世紀初期。まだビクトリア朝の雰囲気が残っている頃だ。イングランドのミドル・クラスの、今は失われつつある(?)自己抑制が色濃い作品のはず。

以前に見たマメットの映画版(1999)と比べて見ると、娘のキャサリンのフェミニストぶりがはっきり表現されているように思ったが、これはむしろマメット版ではその点では抑えられているのではないか(マメットはミソジニスト的傾向があると言われる)。逆に、マメット版であった、最後のキャサリンとサー・ロバート・モートンとの今後のロマンチックな展開を予想させる終わり方は、この舞台ではほとんどない。これも映画版ではアメリカの観客に媚びたのかもしれない味付けか。こうした点では、今回の舞台のほうがずっと良かった。

今日本でこの舞台を見て特に感じたのは、国家権力に対して、慎ましいミドルクラスの家族が必死で、様々な犠牲を払っても個人の自由と正義のために戦う、という点。米国的な勇ましいヒロイズムではなく、イギリスらしい、地味な粘り強さが称えられた作品。日本人なら、こんな事やっても仕方ない、時代の流れに逆らってもどうしようもない、ということになるだろう。そもそも、世界大戦前夜の日本には、海軍の意図に反して個人の権利を主張できるような環境はなかっただろう。この作品は、やはり軍の学校で窃盗の罪で退学させられた少年、ジョージ・アーチャーーシーとその家族が、権力に対して抵抗し、ついに濡れ衣を晴らすという、1908年に実際にあった事件をモデルにしている。戦争の近づく時代に、個人の正統な権利を主張した家族に対し、様々の圧力がかかる点は、今の日本において、国家、経済や公共の福利のためと言われて、沈黙を強いられる多くの人々を思いださせる。

モデルとなったアーチャー-シー一家は、ウィンズロウ家よりも大分豊かだったようだ。大学を中退して銀行に勤めたディッキーのモデルとなっているマーティン・アーチャー-シーは、保守党の国会議員になった。また、女性参政権論者のフェミニスト、キャサリンは実在せず、ラティガンが作り出したキャラクター。そう見ると、ラティガンは、ウィンズロウ家の国家への抵抗の姿勢を、アーチャー-シー一家の事件よりも意図的に際立たせているように思える。そうしてその点で、アーサーの同志であるキャサリンへの作者の思い入れは深いと感じた。

劇の内容は国や文化を越えた普遍性を持ってはいるが、一方でイングランドのミドルクラスの抑制された言葉や態度の雰囲気がもの凄く大切な劇だと思うので、翻訳で演じるのは難しいと思う。その上で、上記にあるように分かり易すぎ、オーバー・アクティングであると感じる。しかし、俳優は破綻無く、良く演じていたのも確か。特に小林隆のアーサー、竹下景子のグレイスは良かった。森川由樹は台詞がまるで宝塚の男役みたいな、「芝居がかった」台詞の言い方で、私はかなり違和感を感じた。ディッキー、ヴァイオレット、ミス・バーンズ、デズモンドの役では、寄席のような、笑わせようとする大げさな演技をやめて欲しい。それだけでも随分全体の印象が良くなると思う。特に、デズモンドは、胸の想いを押し殺して密かに苦しむ役。彼が結婚を求めるシーンは、観客に静かな悲しみを与えるシーンであったら、と思う(ラティガンの言葉は含むところが色々あり、応用もたくさん出来て、ああも出来る、こうもやれると、盛りだくさんの演技にしたい気持ちは理解出来る)。

2015/04/16

【英・伊映画】 『おみおくりの作法』(Still Life)2013年

『おみおくりの作法』(Still Life)  
 2013年制作 2015年日本公開 約90分

映画館:新所沢シネパーク
鑑賞した日:2015.4.16

監督・脚本:ウンベルト・バゾリーニ
出演:
エディー・マーサン (ジョン・メイ、市の民生係)
ジョアンヌ・フロガット(ケリー・ストーク )
カレン・ドルーリー(マリー)
アンドリュー・バカン(ミスター・プラチェット )

☆☆☆☆ / 5

この前映画に行ったのは、確か舞台のライブ映像を記録した映画だったと思う。本当に、滅多に映画館で映画を見なくなったが、学生時代は、週に3回くらい映画に行った年もあった。やはり大きなスクリーンで見ると、集中出来て良い。

さてこのイギリス映画、小品ながら結構ヒットしているらしい。2月初旬に公開されたようだが、まだあちこちで上映しているのだから。SNSや口コミ等で評判が伝わったのだろう。特に私のようなシニアにとっては、心を打つ内容だ。

主人公のジョン・メイはロンドンのケニントン地区の公務員。身寄りがなく、孤独死をした人のために葬儀をあげ埋葬をする係。たいていは近親者などが分からず、メイが調べて連絡しても、家族なのに「もう縁を切っているので私には関係ない」と言われたりして、葬儀も埋葬も彼一人が立ち会う。どうせ誰も気にしないし、死者も見ているわけではないから、形式だけ簡単に済ませることも可能だ。そしてそういうビジネスライクなやり方を、上役で、鼻持ちならないエリート風のミスター・プラチェットは望んでいる。しかし、彼はひとりひとりの死者を自分の家族のように扱う。近親者に連絡を取り、片身となるものを捜し、生前の写真をアルバムに貼って残す。葬儀ではその人の宗派を尊重し、その人にふさわしい音楽を選んで流し、そして牧師が読む弔辞の原稿さえ、遺品を手がかりにして代筆する。そのように手厚く死者を遇するメイだが、彼自身も質素な公営住宅で、きちんと暮らしてはいるが、天涯孤独な暮らし。妻や子供はおらず、尋ねて来たり、一緒にパブでおしゃべりする友もおらず、親しい同僚もいない。社会の片隅で、極めて真面目に、しかし透明人間のようにひっそりと暮らしている。

そんな真面目な公務員の彼だが、市当局は経費削減のために人員整理の対象とする。メイは、あと3日でやりかけの仕事を終えて辞めてくれ、とブラチェットに申し渡される。最後の仕事は、彼と同じ団地に住んでいて、孤独死した老人ビリー・ストークの葬儀と埋葬だった。都会の公営団地らしく、メイは生前のビリーとは全く面識がなかった。これが最後の仕事となったためだろうか、メイはビリーの件については、特別の思い入れを込めて、家族や友人を捜し、遠い北部の町ウィットビーなど、あちこち旅をする・・・。

最後はちょっと驚かされるが、それがこの映画をびりっと締めている。

エディー・マーサンという地味な俳優の魅力が映画全体に染み渡る。彼は主役をすることはまずないが、テレビの色々なシリーズもので脇役としてお馴染みの俳優。ほとんど表情を変えず、淡々と仕事をこなすが、心の中には、とても暖かい、しかし複雑な感情がいっぱいに詰まっていることを感じさせる。彼のオフィスの机まわりも、住んでいる質素な公営アパートの中も、驚くほどきれいに片づいているし、いつも同じ黒いスーツと白いシャツをきちっと着ていて、もの凄く几帳面な人であると分かる。と言うか、今時こんな人いるのかな、と思う。『名探偵モンク』という病的潔癖症の探偵を主人公にした人気ドラマ・シリーズがあるが、ずっと質素だけど、あのモンクの暮らしぶりを思い出した。

でもこれほど真面目で親切な人に、妻やパートナーも友人も仲の良い同僚もいないなんて、あり得ない。つまりかなりリアリティーに乏しい人物設定。そう考えると、彼は居そうで居ない、一種の寓意的人物と思えてきた。死者を弔うために神からこの世に派遣された天使であり使者みたいな存在だ。彼は神の使者として「あなたの家族のAさん(この場合、ビリー・ストーク)が亡くなりましたよ」と知らせを運んでくる。メイという使者により、故人との絆を取り戻し、自分の生を振りかえる人が現れる。ある意味、神のもとへと帰って行った人々から、生きている家族や友人への最後の贈り物を運んでくれる人、と見えた。でも彼は天使だから、この世にはルーツも家族もなくて当然・・・。この仕事がなくなったら、彼の役割も終わりか。再就職なんてする意味ない。

映画を見終わってしばらくしてからジョン・メイを思い出すと、テレンス・ラティガンの描く人物に似ている気がした。非常に堅苦しく、ルールどおり生真面目に生きるが、心の中には滅多に見られないような優しさやナイーブさを秘めている。『ブラウニング・ヴァージョン』のアンドリュー・クロッカー=ハリス先生とか、『ウィンズローボーイ』のウィンズロー家の人々や事務弁護士カリー、法廷弁護士モートンなど、ジョン・メイと共通するストイックさ、不器用さ、そして世間的な計算を度外視した優しさを見せる。古き良きイングリッシュ・ミドルクラスの理想像がうかがえる。ただし、あくまで理想だが。

ビリーの娘ケリーを演じたジョアンヌ・フロガットも大変印象に残る。彼女はテレビ・シリーズ『ダウントン・アビー』でメイドのアンナを演じている。執事のベイツに恋してついに結婚する役。派手さのない、さっぱりした顔つきの人で、庶民を演じるのにぴったりだ。プラチェットを演じたアンドリュー・バカンのドライで気取った役作りも上手いと思った。この俳優は、ドラマ『ブロードチャーチ』の第一シリーズで被害者の子供の父親を演じた人だが、あの演技も、人物の裏表が上手く表現されていて、良かった。

現題の"Still Life"が良い。普通、「静物画」を意味する英語。直訳すれば、「静かな暮らし/命」。ジョン・メイの暮らしも、映画の多くの場面も静物画のように静かだった。でも、静物画には、作者の深い思いが隠されているんだよね。ふと、学部生時代に良く読んだ作家アイザック・シンガーの短編、「短い金曜日」を思い出した。ジョン・メイは幸せな人だろう。

映画は、シニア料金でとても安く鑑賞できるから助かる。私のような人達がかなり見ているだろう。我々年寄りにとっては、「こりゃ、他人事じゃないね」という、大変身につまされる内容だった。私自身、フルタイムの勤めを辞めて以来、妻や郷里の母と話す以外、全く人と話すこともなく毎日が過ぎているからなあ。

ケニントンは、ロンドンの南部にあり、貧しい人の多い地域だと思う。地下鉄のケニントン駅は、ノーザン・ラインがキングス・クロス方面とチャリング・グロス方面に別れる駅で、時々列車を乗り換えたものだが、駅改札の外に出たことはほとんどない。しかし、一度、この街にあるパブ・シアターのWhite Bear Theatreで上演されたジョン・オズボーンの劇 "Personal Enemy" を見に行っていた。お店などもほとんどなく、とても飾り気のない、ジョン・メイにぴったりの地味な街並みだった気がする。う〜ん、ロンドンがなつかしい。

予告編はこちら

2015/04/14

【イギリス映画】『あなたを抱きしめる日まで』 (Philomena)

『あなたを抱きしめる日まで』 (Philomena) 
  2013年イギリス映画(日本公開、2014年)

監督:スティーブン・フリアーズ
脚本:スティーブ・クーガン、ジェフ・ホープ
原作:マーティン・シックススミス

出演:
フィロミナ・リー:ジュディ・デンチ
マーティン・シックススミス:スティーヴ・クーガン
若い頃のフィロミナ :ソフィ・ケネディ・クラーク
メアリー :メア・ウィニンガム
シスター・ヒルデガード :バーバラ・ジェフォード
マザー・バーバラ :ルース・マッケイブ
ピート・オルソン :ピーター・ハーマン
マイケル(フィロミナの息子) :ショーン・マーホン
ジェーン(フィロミナの娘) :アンナ・マックスウェル・マーティン

☆☆☆☆ / 5

昨年の日本公開時、結構話題になったと思う。私は先日WOWOWで放送されて、見た。主役のフィロミナを演じるジュディ・デンチとマーティン・シックススミスのスティーブ・クーガンが素晴らしい。

BBCのジャーナリスト、労働党政権のメディア担当官(所謂”spin doctor”)、そして作家で現代ロシア史の専門家という多彩な才能と経歴を持つマーティン・シックススミスが書いた原作を基にしており、実話である。主人公のフィロミナはイングランドに住む老人の女性だが、アイルランドの出身。セックスや避妊の知識も全く教えられない時代、十代で祭りで出会った若者とセックスして妊娠し、女子修道院に預けられて出産した。カトリックの戒律がアイルランド社会の隅々を支配していた頃、修道院の中は「罪」を犯した未婚の若い母親たちにとっては事実上の監獄だった。自分の赤ん坊には1日に1時間しか面会が許されず、あとは週7日間、強制労働の日々を過ごす。更に、知らない間に彼女たちの子供は大金を払ったアメリカ人の養父母に売り飛ばされてしまっていた。こうしてフィロメナの息子、マイケル、もアメリカに送られた。その後、大人になったフィロメナは息子の行く方を探し続ける。勿論かって収容されていた修道院にも足を運ぶが、門前払いを食う。

労働党政府のメディア担当官としての職をスキャンダルで失って困っていたジャーナリストのマーティン・シックススミスは、たまたまパーティでフィロメナの娘と知り合い、彼女の運命に興味を持つ。彼は新聞社と話をつけて、フィロメナの息子捜しを手伝う代わりに、それを記事にさせて貰うことにした。こうして、オックスフォード大学出身のエリート・ジャーナリストと、敬虔なカトリック教徒で、ワーキング・クラスの素朴な老女との、失われた息子を捜す旅が始まる。二人は、まずアイルランドの修道院へ行くが、以前フィロメナがひとりで行った時同様に何も教えてもらえず、直接、アメリカに息子マイケルを捜しに行くことになった・・・。

失われた子供を捜す旅ということで、いささかセンチメンタルな作品かな、と思い、あまり期待せずに見たが、完全にそんな予想をくつがえされた。勿論、全体としては大変感動的な作品だ。しかし、センチメンタルには陥っていない。主役の2人のキャラクターと監督の描き方が、物語をあまりシリアスにし過ぎず、適度の距離感が生まれている。デンチ演ずるフィロメナが実に愉快。素朴で何事にもナイーブに驚く。アメリカで泊まったホテルの立派さ、部屋に色々とお菓子が供えてあったり、バスローブが2枚あったり、朝食のメニューが豪華だったりするのにいちいちびっくりして、シックススミスに報告する。その一方で、しっかりした世間知を備えていて、色々と変わっていく状況に対し、柔軟で的確な判断をし、理性を失わない。カトリック教会に裏切られても、彼女の神への信仰は揺るがず、ホテルの従業員のような行きずりの人々にも、そして例え自分を騙したり虐待した人々に対しても、他人には礼儀正しく、優しい。スティーブ・クーガン演ずるマーティン・シックススミスは、この時丁度自分としては極めて不本意に職を失っており、屈折した感情を持ちつつ、際物的なジャーナリズムのネタとしてこの取材を始めた。無神論者のインテレクチュアルである彼は、フィロメナのナイーブさをおもしろがりもするが、苛々する時もある。しかし、徐々に彼女の誠実さ、息子への愛の深さに引き込まれ、また修道院の不誠実さに怒って、当面の日銭稼ぎの仕事を越えて、フィロメナの息子捜しに精力を傾注するようになる。ナイーブなワーキング・クラスのおかみさんと、世間を斜から眺めるジャーナリストの珍道中ー2人のちょっとずれた会話がしばしば漫才コンビのように響いて愉快だ。演劇では特に重要なんだが、この映画でも、台詞の「間の取り方」が絶妙だ。

ジュディ・デンチの演技力がいつもながら凄い。彼女は「普通」の大スターと違い、デンチというスターの幻影をを観客に押しつけない。しかし、それでいてどこまでもジュディ・デンチであり、計算して作り上げたものでなく、自分の内面から出てくる演技であると印象づける。それとも、これも彼女の技術であり計算か・・・。スティーブ・クーガンという俳優は、コメディアンとしても活躍している人のようだ。シニカルで屈折した表情が上手く出ていて、なかなかクレバーな役者と感じた。

児童や若者の虐待など、カトリック教会が犯してきた罪は数多いことはしばしば報道されてきた。21世紀になって、やっと本格的な反省と謝罪が始まっているようだ。最後に登場する老いた修道女が口にする「罪」という言葉を聞いて、教会の罪深さを強く感じさせられた。

(追記)以上を書いてから思い出したが、 中世のカトリック教会が行っていた、道徳や信仰に関わる問題を裁く宗教裁判においては、禁固刑を科された者の多くは、少なくともイングランドでは、修道院に閉じ込められることがほとんどだったようだ。20世紀まで延々とその伝統が続いていたとも言える。

2015/04/09

【英・米映画】『クレアモント・ホテル』 ”Mrs Palfrey at the Claremont”

『クレアモント・ホテル』 ”Mrs Palfrey at the Claremont” (英・米映画 2005年)

監督:ダン・アイアランド
脚本:ルース・サックス

出演:
ポールフリ夫人:ジョーン・プラウライト   
ルードヴィック・メイヤー:ルパート・フレンド   
アーバスノット夫人:アンナ・マッセイ   
オズボーン氏;ロバート・ラング   
グェンドリン:ゾーイ・タッパー   
ルードヴィックの母:クレア・ヒギンズ   

☆☆☆ / 5

2005年に英米合作で製作されたようだが、日本では2010年に岩波ホールで公開。私は先日WOWOWで放映されたので見た。地味で慎ましい佳作、というタイプの作品。主演は、最近はお目にかからないが往年の大女優で、ローレンス・オリヴィエの最後の奥様だったジョーン・プラウライト。

ロンドンの小さな、古めかしい長期滞在者用宿、クレアモント・ホテルにプラウライト演じるポールフリ夫人がやってくるところから映画は始まる。彼女は70歳弱くらいか。かっては愛する夫アーサーのために、そしてその後は娘のために生きてきたが、今やっと自分一人、気ままな生活を楽しもうとロンドンにやって来た。しかし、やって来るはずの孫デズモンドからは何週間経っても連絡がなく、他に尋ねて来る人も知り合いもおらず、ぽつんとホテルの食堂で一人きりの食事をするのみ。しかし、同宿の他の客とは言葉を交わすようになる。彼らもポールフリー夫人同様、年配の孤独な老人たち。ある時、彼女は道で転んで膝を打つが、その時に駆けつけて助けてくれた26歳の青年ルードヴィックと親しくなる。貧しい小説家志望のルードヴィックも、母とは疎遠になっており、他に家族はおろか、ガールフレンドもおらず、街角で弾き語りをしては日銭を稼ぐ根無し草の毎日。ポールフリ夫人はそのルードヴィックをホテルの夕食に招くが、同じホテルに住んでいる人々が彼の事をポールフリ夫人の自慢の孫、エドモンド、と勘違いしたからややこしいことに。ルードヴィックはそれから他人の前では彼女の孫を演じ続けることになるが、やがて本当の祖母と孫の間にあるような愛情がふたりの間に生まれていく。

というような、いかにも心温まる、寂しい老人と社会の主流から落ちこぼれた若者の交流の話。よくありそうな話で、かなり陳腐と言えるかも知れないが、それでも充分楽しめた。私のような、すっかりくたびれ、知人・友人も少ない老人には、共感してほろりとくるところもあるし、クスッと笑えるところも結構あった。テンポがゆっくりで、大して大きな事件も起こらず、退屈する場面もあるが、その古風なのんびりしたところが魅力でもある。2005年制作なのに、随分昔のイギリス映画を見ているような錯覚に陥るが、原作が1971年出版なので、恐らくそのくらいの年代の出来事のように作ってあるのかな。

原作はエリザベス・テイラーの小説だそうだが(俳優ではありません)、こういう長期滞在ホテルを舞台にしたお話、イギリスの映画、演劇、小説などでは良くあるのではないだろうか。すぐ思い出したのが、テレンス・ラティガンの作品、『それぞれのテーブル』(Separate Tables)や、『炎の道』(Flare Path)など。特に『それぞれのテーブル』はこの映画に似た雰囲気を持っている。ホテルという、人々が次々と訪れては去って行く場所、そして食堂に集まっての交流、しかし、個室に入ってしまえば、何をする人か分からない。更に、ホテルで他の客に見せている顔は、本当は仮面にしか過ぎなかったりと、ホテル、特に長期滞在型ホテルは、人生の変転を映し、ドラマを生む場所だ。

プラウライトも良いが、まわりの脇役が光る。特に、ポールフリ夫人同様ホテルに長く住んでいる他の女性たちが実に個性的で人間味溢れた造形で、見応えがある。ルードヴィックを演じるルパート・フレンドと、後に出来る彼のガールフレンド、グウェンドリン役のゾーイ・タッパーも好感が持てる演技。

しかし、世界中からおびただしい観光客が集まるロンドンに、今でもこんなのんびりしたホテルがあるか疑問。あっても、うらぶれたホテルの冴えない部屋でも宿賃が途方もなく高価で、とてもポールフリ夫人には手が届かないと思うけど。

DVDも出ています。