2015/04/20

『ウィンズロウ・ボーイ』(新国立劇場、2015.4.19)

『ウィンズロウ・ボーイ』 
新国立劇場公演
観劇日: 2015.4.19   13:00-16:15(休憩1回)
劇場: 新国立劇場 小劇場

演出: 鈴木裕美
脚本: テレンス・ラティガン
翻訳: 小川絵梨子
美術: 松岡泉

出演:
小林隆 (アーサー・ウィンズロウ)
竹下景子 (グレイス・ウィンズロウ、アーサーの妻)
森川由樹 (キャサリン・ウィンズロウ、娘)
山本悠生 (ディッキー・ウィンズロウ、長男、オックスフォード大学の学生)
近藤礼貴 (ロニー・ウィンズロウ、ウィンズロウ家の次男、海軍管轄の幼年学校の生徒)
チョウ・ヨンホ (デズモンド・カリー、事務弁護士)
川口高志 (ジョン・ウェザストーン、軍人、キャサリンの婚約者)
中村まこと (サー・ロバート・モートン、法廷弁護士)
渡辺樹里 (ヴァイオレット、ウィンズロウ家のメイド)
デシルバ安奈 (ミス・バーンズ、記者)

☆☆☆☆ / 5

ルネサンスの古典的作家を除けば、おそらく私が最も好きなイギリスの劇作家、テレンス・ラティガンの代表作の上演。こちらの期待も大きいので、翻訳上演という大きな制約があるのにもかかわらず、つい大きな期待をする。公演自体は、私の好まない点が目についたが、脚本が素晴らしいので、とても楽しめた。

演出の鈴木裕美はラティガンが大好きなようで、2005年にラティガンの3作品を連続上演する企画をしたのは彼女だったそうだ。その3作には『ウィンズロウ・ボーイ』も含まれていたが、私は残念ながら見ていない。しかし残りの2作、『ブラウニング・バージョン』と『セパレート・テーブルズ』は見て、それ以来、ラティガンがとても好きになったので、鈴木さんには感謝しなければ。

ストーリーは、海軍幼年学校に行っていたウィンズロウ家の次男ロニーが、友人のロッカーから郵便為替を盗んだという疑いをかけられ、本人は否定するが一方的に退学処分を宣言される。これを不服として、ウィンズロウ家の人々は全力を傾けて戦い、法廷闘争に至る、というもの。詳しくは映画版を見た時の粗筋を参照して下さい。

非常に目障り耳障りだったのは、ディッキー、デズモンド、メイドのヴァイオレットや新聞記者の役の、時として寄席芸人のような、笑いを取ろうと言わんばかりの大げさにコミカルな演技。段々慣れてきたが、最初の方は、腹立たしくて苛々し、集中出来なかった。その他の配役も、全体にコミカルにしようとし過ぎていないか。また演技全体が大げさで、所謂「赤毛もの」的なあざとさ、人工的すぎるドラマチックさを感じた。西洋人らしく殊更に大げさなジェスチャーや映画の吹き替えのような大げさな台詞回しをしていないだろうか。また、過剰に説明的な演技になっていないか。笑いを自然と引き起こすような台詞はあるので、それはそれで自然に笑いが生まれるのに任せれば良いと思う。ラティガンの素晴らしさは抑制の美だ。表面にはわずかしか表れないが、水面下に大きな情念が隠れているのが観客に伝わることが大切だ。その点で言うと、小津安二郎の映画に似ている。日本人の多くが備えている謙遜とか抑制の態度を自然に使って欲しい。隠されている感情を、開けっぴろげに外に出してしまったら台無しになると思うが・・・。この作品の時代は20世紀初期。まだビクトリア朝の雰囲気が残っている頃だ。イングランドのミドル・クラスの、今は失われつつある(?)自己抑制が色濃い作品のはず。

以前に見たマメットの映画版(1999)と比べて見ると、娘のキャサリンのフェミニストぶりがはっきり表現されているように思ったが、これはむしろマメット版ではその点では抑えられているのではないか(マメットはミソジニスト的傾向があると言われる)。逆に、マメット版であった、最後のキャサリンとサー・ロバート・モートンとの今後のロマンチックな展開を予想させる終わり方は、この舞台ではほとんどない。これも映画版ではアメリカの観客に媚びたのかもしれない味付けか。こうした点では、今回の舞台のほうがずっと良かった。

今日本でこの舞台を見て特に感じたのは、国家権力に対して、慎ましいミドルクラスの家族が必死で、様々な犠牲を払っても個人の自由と正義のために戦う、という点。米国的な勇ましいヒロイズムではなく、イギリスらしい、地味な粘り強さが称えられた作品。日本人なら、こんな事やっても仕方ない、時代の流れに逆らってもどうしようもない、ということになるだろう。そもそも、世界大戦前夜の日本には、海軍の意図に反して個人の権利を主張できるような環境はなかっただろう。この作品は、やはり軍の学校で窃盗の罪で退学させられた少年、ジョージ・アーチャーーシーとその家族が、権力に対して抵抗し、ついに濡れ衣を晴らすという、1908年に実際にあった事件をモデルにしている。戦争の近づく時代に、個人の正統な権利を主張した家族に対し、様々の圧力がかかる点は、今の日本において、国家、経済や公共の福利のためと言われて、沈黙を強いられる多くの人々を思いださせる。

モデルとなったアーチャー-シー一家は、ウィンズロウ家よりも大分豊かだったようだ。大学を中退して銀行に勤めたディッキーのモデルとなっているマーティン・アーチャー-シーは、保守党の国会議員になった。また、女性参政権論者のフェミニスト、キャサリンは実在せず、ラティガンが作り出したキャラクター。そう見ると、ラティガンは、ウィンズロウ家の国家への抵抗の姿勢を、アーチャー-シー一家の事件よりも意図的に際立たせているように思える。そうしてその点で、アーサーの同志であるキャサリンへの作者の思い入れは深いと感じた。

劇の内容は国や文化を越えた普遍性を持ってはいるが、一方でイングランドのミドルクラスの抑制された言葉や態度の雰囲気がもの凄く大切な劇だと思うので、翻訳で演じるのは難しいと思う。その上で、上記にあるように分かり易すぎ、オーバー・アクティングであると感じる。しかし、俳優は破綻無く、良く演じていたのも確か。特に小林隆のアーサー、竹下景子のグレイスは良かった。森川由樹は台詞がまるで宝塚の男役みたいな、「芝居がかった」台詞の言い方で、私はかなり違和感を感じた。ディッキー、ヴァイオレット、ミス・バーンズ、デズモンドの役では、寄席のような、笑わせようとする大げさな演技をやめて欲しい。それだけでも随分全体の印象が良くなると思う。特に、デズモンドは、胸の想いを押し殺して密かに苦しむ役。彼が結婚を求めるシーンは、観客に静かな悲しみを与えるシーンであったら、と思う(ラティガンの言葉は含むところが色々あり、応用もたくさん出来て、ああも出来る、こうもやれると、盛りだくさんの演技にしたい気持ちは理解出来る)。

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