2014/05/27

BBCドラマ“The Street” とティモシー・スポール

2006-2009年に放送されたBBCのドラマ・シリーズ"The Street"のボックスセットを昨年夏ロンドンで買ってきて、最近少しずつ見ている。第3シリーズまで、全部で18話あり、今は第2シリーズの2話(通しで言うと第8話)まで見終えた。全体を構想し監修しているのはJimmy McGovern。『心理探偵フィッツ』や"The Accused"(告発された人々)などの名脚本家。傑作との評判は聞いていたが、このドラマシリーズ、最高!下手な映画よりもずっと面白い。ワーキングクラスや、ミドルクラスでも慎ましい方(サービス業など)の普通のイギリス人の暮らし、悩み、葛藤が、センチメンタルにならずに、しかし実に暖かくヒューマンなタッチで描かれている。こんなシチュエーション、ありえない!と思えるようなエピソードもあるが、それもまたユーモラスで楽しい。しかし、貧困、家庭崩壊、犯罪、DV、親子の争い、麻薬、その他、イギリスの街角の至るところにある深刻な問題を真剣に、しかし温かい視線と一筋の希望を織り交ぜて描く。同じ作者の”The Accused”が私の最も好きなイギリスのドラマかなと思っていたが、”The Street”のほうが希望やユーモアもあって、幾らか気楽に見られ、より楽しい。

場所はマンチェスターの住宅地。白人のワーキングクラスやミドルクラスの下の方(Lower Middle Class)の人々が多く住む通り。出てくるのは、タクシー運転手、運輸会社の倉庫係、スーパーの店員、コールセンターのオペレーター、高等学校の先生、等々。借金、麻薬、万引き、家庭内暴力、浮気や夫婦げんか、自殺、移民問題、交通事故、等々に直面した時の慎ましい暮らしの家族の格闘を描く。日本で放送されるイギリスのドラマというと、犯罪ものか、あるいは『ダウントン・アビー』とかジェイン・オースティン原作作品のような古い上流社会を舞台にした時代劇か、いずれにせよ今のイギリス人の大部分の生活とはかけ離れたドラマが多い。その点、”The Street”は現代のイギリス人の庶民感覚満載。普通のイギリス人の良いところ、悪いところ、ださいところ、滑稽なところや愛すべきところが沢山。イギリスの事を知りたいなら、ジェイン・オースティンじゃなくて、これを見なくちゃ、という気がする(勿論、オースティンも欠かせないんですけどね)。NHKは、『シャーロック』など大変人気の出そうなドラマは民放に任せ、こういう地味だが質の高い作品こそ放映して欲しいんだが・・・(NHK、近年はBBCドラマでもスターのでるポピュラーな作品しかやらなくなった気がする)。英語版DVDしか手に入らないのが残念。Jimmy McGovern、いつも凄い。”The Accused”の次はBBC Twoのために”Banished”(追放された人々)というドラマを作っているらしい。これは18世紀にイギリスからオーストラリアに流刑になった人々を描いているそうだ。今年、シドニーとマンチェスターで撮影中のはずである(Wikipedia英語版による)。

さて、”The Street”は毎回一応話が完結しているが、舞台となっているのは同じ通りなので共通する人物が繰り返し出てくる。中でも、今まで見た部分、つまり第2シリーズの途中までで、毎回出てくるシリーズの中心的な人物がティモシー・スポール。稼ぎの少ないタクシー運転手、お人好しで気が弱い。奥さんは口達者で気が強く、いつも尻に敷かれているという役柄。彼は私の最も好きな俳優のひとりだ。そのスポールが今年のカンヌでベスト・アクター賞を受賞して非常に嬉しい!受賞作品は"Mr Turner”。名匠マイク・リーによる風景画の巨匠、ターナーの伝記映画。スポール・ファンで無くても、イギリス文化に関心のある人は必見だ。ガーディアンにスポールのインタビューと映画の紹介があった。

2014/05/20

"Lip Service" series one (BBC Three)

若いレズビアン達の愛と性をめぐるBBCドラマ
Lip Service series one (BBC Three) 

脚本:Harriet Braun
出演:
Ruta Gedmintas (Frankie)
Laura Fraser (Cat)
Fiona Button (Tess)
James Antony Pearson (Ed)
Emun Elliot (Jay)
Heather Peace (Sam)
Roxanne McKee (Lou)


前項で「アデル、ブルーは熱い色」の感想を書いたついでに、以前に見たBBC Threeのレスビアンを扱ったドラマ、”Lip Service” (series one)の感想も掲載しておくこ。なお、シリーズ1の後、シリーズ2も放映され(私は見てない)、両シリーズを収録したDVDがAmazon.co.jpで安価で売られている(但、リージョン・コードは日本仕様ではないので注意)。

2010年の秋から冬にかけてBBC Threeで放映されたドラマ。レズビアンの恋愛や性を扱っている点でやや珍しい。男性のゲイの人に関する映像としては"Brokeback Mountains"のような著名な、各賞を総なめにした映像作品もあり(私は見てない)、かなり一般的になってきたという印象だが、レズビアンの人達についての、特に誰でも家庭で見られるテレビドラマというと、かなり少ないだろう。アメリカのドラマでは、「Lの世界」というシリーズが有名らしい。日本でもケーブル・チャンネルで放送されていたようだ。

さて、"Lip Service"であるが、レズビアン・ドラマという前提で一部の人々(レズビアンの視聴者)が楽しむというだけではなく、ヘテロ・セクシュアルの男女でも、誰が見てもかなり面白いドラマだと思う。マイノリティーとしてのレズビアンに対する差別や偏見を告発する社会派ドラマでもない(そういう問題を感じさせる場面はわずかしか出てこない)。女と女、そしてたまに女(バイ・セクシュアル)と男の恋愛やセックス、また、彼女たちの仕事や生い立ちに関する悩みや喜びを扱った、20歳代の女性の生き方を描いたドラマだ。日本で言えば、OLの人達を主人公にした、ちょっとファッショナブルな、洒落たドラマ、というところ。但、主人公達がレズビアンで、またセックス・シーンがテレビ番組としてはかなり強烈な点が異なる。これはBBC Threeというデジタル・チャンネルで、遅い時間帯に放映されたドラマなので、大人だけの視聴を前提としている(DVDは18歳以上指定となっている)。

私が感心したのは、脚本家が、主要なキャラクターを実にはっきり、そして魅力的に作っていて、役者がそれに良く応えて演技できていること。もっとも重要な役の写真家のFrankieは、生い立ちに悩んでおり、家族とは絶縁状態。短気、不安定、そして衝動的な性格だが、芸術家肌。自分の苦しみを、相手を選ばないセックスにぶつけて、心の底では深く愛しているCatとの関係を壊してしまうが、彼女自身がCatなしには生きられない。そのFrankieの恋人で、しっかりした仕事を持つ建築家のCatは、堅実な性格で、少し年長(多分30代)の、(失礼ながら)お顔のしわや厚い白粉が目立ち始めた女性。Frankieに未練はあるが彼女の自己破壊的な性質や行いについて行けず、段々、頼りがいのある警察官のSam(女性)に惹かれていく。もうひとりの主人公Tessは貧乏な役者の玉子。笑えるへまを繰り返す、番組における道化的な存在だ。しかし、愛すべき性格で友人にも男性にも大いに好かれるが、自分は安定したrelationshipが作れず、悩みに悩む。俳優志望であるから、オーディションを受け続けるが、まともな仕事はなかなか見つからず、着ぐるみをつけてアルバイトをするなどお財布も自転車操業で苦しんでいる。

脇役も生き生きと描かれている。女運が悪いレズビアンのTessを密かに、しかし、ひたむきに愛し続ける優しい作家志望の男Ed。その不器用さや体型が、ちょっと"Rev"のTom Hollanderを思い出させるタイプ。TessとEdは、ふたりともとても不器用で、芸術家志望で、なかなか上手く考えられたコンビ。もちろんTessはレズビアンなので、Edにとっては切ないかなわぬ恋である。Catの務める建築事務所での同僚Jayはヘテロ・セクシュアルの男性だが、この3人のレズビアンの、享楽的な遊び友達。でもそろそろ年貢の納め時と思い、フィアンセがいて結婚の準備をしている。しかしプレイポーイの性癖が抜けず、性懲りも無くガールハントを繰り返して、フィアンセを不安にさせる。前述のSamは、Frankieとのつき合いで傷ついているCatの前に現れた刑事。Detective Sergeantと言う、平刑事ではなく管理職にある堂々とした貫禄のキャリア・ウーマンで、ベッドのなかでも、Catには最高の人。Tessと一時関係を結んだLouは、Tessを有頂天にした美人で、地元のテレビのニュース番組のアンカー・ウーマン。Tessを愛してはいたが、しかし地域のセレブリティーとしては、レズビアンであることを知られるわけには絶対いかない。また、職場で権力を持つ男性の同僚から好かれ、その好意を断り切れず、関係を持って利用しようとする。と言うわけでTessにとっては薄情な恋人なのだが、Louの目から見ると、男性社会の中で女性としてキャリアを築くだけでも難しいのに、レズビアンだと知られたら大変なのだ。

セックス・シーンはかなり多く、それを見たくないという人には不向き。でも考えてみると、ヘテロ・セクシュアルのセックス・シーンは日本のドラマでさえ、結構出てくるわけだし、性を真面目に扱ったドラマや映画も沢山ある。ところがホモ・セクシュアルの人、特にレズビアンの性を描いた映像は少なく、映画では幾らかあるにしても、テレビ・ドラマではほとんど皆無だ。同性愛者差別とか、啓蒙的な視点とかではなく、普通の恋愛、仕事、セックスなどを描く若者ドラマであり、レズビアンの視聴者が身近なものとして見られるこのドラマは貴重だと思える。きっと20歳以下の、日本人のレズビアンの人が見たら、こんなに自然にレズビアンとして悩み、愛し、仕事をし、つまり普通にレズビアンとして生きる女性を見て、安心したり、自信を感じたり、幸せな気持ちになるんじゃないだろうか。但、私としては、このドラマを「レズビアン・ドラマ」としてあまり強調したくはない。とにかく、魅力的なキャラクターを散りばめ、上手い役者達に支えられた楽しいドラマだから、誰にでも見て欲しいし、出来れば日本語字幕版も出ると良いが、まずあり得ないだろうなあ。

もうひとつの魅力は、このドラマの持つ雰囲気だ。多くの念入りに作られたイギリスのドラマに見られるように、カメラが大変工夫されていて、きれいな映像だ。背景の音楽も大変洒落ている。出てくる人も、建築家、俳優、写真家、テレビ局のプレゼンター、作家の玉子等々、クリエーティブな仕事の人達が多く、女性達の衣服もよく考えられており、全体として、非常にファッショナブルな雰囲気の仕上がり。逆に言うと、そういう風にスタイリッシュに作り過ぎていてリアリティーに欠ける気もするが、まあその雰囲気を楽しめるのもテレビドラマとしては重要な要素かな。

個人的にはこのドラマがグラスゴーを舞台にしている点が特に気に入った。スコットランドの黒っぽい町並みと、女性達の服装がマッチしてスタイリッシュだし、エジンバラだけでなく、グラスゴーのような伝統的な工業都市にもこういうボヘミアンの世界があるんだ、と知ることも出来た。言葉は、CatとJayを演じている2人の俳優はスコットランド出身者で、はっきりしたアクセントがあるが、全体としては、アクセントのためにそれ程分かりづらいということはない。むしろこの2人のアクセントが、地方色をかもし出して良い雰囲気だ。

さて、良いことばかり書いてしまったようだが、6エピソード全部として見ると、長すぎて退屈する時もあり、3人の主人公を扱っているので焦点が定まらない。もっと焦点を絞り3,4回でまとめたほうがインパクトがあるドラマになった気はする。ファッショナブルで人工的な雰囲気は、既に述べたようにリアリティーに欠けると言う面も持つ。同時期に放送されていた、David Tennant主演の"Single Father"の方が、私から見るとかなりレベルが高い。しかし、あまりシリアスに考えず、ヘテロ・セクシュアルであろうとレズビアンであろうと、娯楽作品としてのガールズ・ドラマとして楽しめるシリーズ。

グラスゴーという、もともと工場労働者の多い地方都市で、レズビアンの人達がデートをし、街角で抱き合ったりキスをしたりするシーンがドラマになってイギリスのNHKにあたる公共放送BBCで放映されるーー日本のレズビアンの人にしてみたら何と自由でうらやましい世界と思えることだろう。但、イギリスは日本よりもはるかに暴力的な事件も多い国なので、同性愛者に対する露骨な差別や街頭での暴力も多く、死者も出ていることも忘れてはならない。

番組のホームページ

2014/05/18

フランス映画「アデル、ブルーは熱い色」(2013)

鑑賞した日:2014.5.17
映画館:ヒューマントラスト・シネマ有楽町
上映時間:約3時間

監督・脚本:アブデラティフ・ケシシュ
原作(コミック):ジュリー・マロ
撮影:ソフィアン・エル・ファニ

出演:
アデル・エグザルコプロス (アデル)
レア・セドゥ(エマ)
サリム・ケシゥシュ (サミール)
モナ・ヴァルラヴェン (リーズ)
ジェレミー・ラユルト (トマ)
ヴァンジャマン・シクスー (アントワンヌ)

☆☆☆☆ / 5 

新聞の批評などでも何度か目にしたし、ブログでも、「良かった」と感想を書いている人が幾人かあって気になっていたが、やっと見に行った。”Girl Meets Girl”映画。『ロミオとジュリエット』タイプの”Boy Meets Girl”は、どんなに工夫しても陳腐さから抜け出すのは難しく、”Boy Meets Boy”タイプの映画もかなり作られつつあるが、思春期のレスビアンの恋と生活を描く映画やテレビドラマはまだそう多くはない。この映画が5年後10年後にも今の新鮮さを保てるかは疑問だが、しかし、今の私達(というか、私)にとっては、まだかなり新鮮に感じ、見に行った甲斐があった。但、カンヌでPalme d’Or(最高賞)を取るほど良いかというと、疑問には感じた。

(以下、最後まで筋を書いていますので、これから見る方はご注意)この映画は、時間的に大きく3つのパートに分けられているようだ。最初はアデルが高校生の時のエマとのなれそめ。2番目は、ふたりの同棲時代。そして3番目は同棲が崩れた後のこと。但、この第3のパートも時間的に2つに別れており、最後は謂わばエピローグのような形になっていて、かなりかっちりした作品造りがされていると感じた。順を追って紹介する。

(パート1)アデルは、庶民的な家庭に育った割合普通の女の子。この部分では高校生。同級生からも可愛いと思われていて、上級生の男の子から声をかけられデートし、セックスする。しかし、髪を青く染めた年上の子、エマと道ですれ違ったとき、すぐに惹かれる。その後、友達のゲイの子サミールにつれられてゲイバーに行ってみるが、近くにあったレズビアン・バーにも寄り、そこでエマと知り合って始めて言葉を交わす。ふたりはたちまちお互いに夢中になり、公園でデート。そしてすぐにセックス。若さ溢れる、元気いっぱいの、マット運動みたいな(^_^)セックスシーンが長く続く。エマは美術学校の学生で画家志望。彼女の両親(父親は再婚で義理の関係)も、インテリのボヘミアン風。生活レベルも、極めて庶民的なアデルの家よりは幾らか良いようだ。但、イギリスの映画などと比べると、それ程階級を意識させるように作られているとは思えない。家の様子や広さも、本人たちや両親の身なりも、極端に違っているわけでもない。しかし、文化的な違いはかなりありそうで、それがふたりの間のすきま風に繋がっていったようだ。

(パート2)1〜2年後だろうか、ふたりは同棲している。学校を出た後の進路の違いと共に、ふたりを分かつ環境の違いはよりくっきりしている。アデルは幼稚園の先生として働き、職場や同僚に溶け込んでいる。教え方もすっかり身に付いてきて、園児達の快活で元気なお姉さんという感じだ。一方、エマは芸術家としての第一歩を踏み出そうとしている。アデルの職場や同僚の様子、そしてエマの芸術家やインテリ仲間を招いたパーティの場面が丁寧に映され、ふたりを取り巻く環境の違いが、周辺の人々を通じて浮き彫りにされる。自分の知識とか感性についてのプライドが高そうで、気取っていて自由な生き方をしているエマの仲間たち。エマのセクシュアリティーも当然オープンだ。それに対し、先生らしい真面目さと平凡さがにじみ出るアデルの同僚たち。アデルは、自分がレズビアンであることを誰にも言っていないようだ。ふたつのサークルの人々が混じり合うことは無く、アデルはエマのサークルに混じるときは、家庭でかいがいしく料理をして裏方を務める慎ましい主婦の役割。エマは妻の手を借りてお客をもてなす「主人」(このあたり、同性愛カップルであっても伝統的役割分担が見えて、日本のサラリーマン家庭を思い出す)。寂しさを感じたアデルは同僚の男性と2,3回セックスをしてしまったようで、それをエマに見つかり、激怒したエマはアデルを追い出す(このことから、アパートはエマが費用を払っているのだろうと推測でき、ふたりの経済的な力関係が感じられる)。その時のエマの激しい罵倒は(何度も字幕では「売春婦」というような言葉が出て来た)、浮気した妻を怒鳴りつける専横な夫を思わせた。相手の言い訳に一切耳を貸そうとせず、アデルの持ち物を引っ張り出そうとするエマ。見ながら、「おいおい、君はほとんどDV亭主か」と思ってしまう。思想において進歩的だったり、感性や知性に秀でている人にしばしば見られる利己的で不躾な側面が的確に描かれている。

(パート3)その後、また1〜2年経ったように見える。アデルは今は小学校の1年生を教えており、眼鏡をかけて本を音読させたり、騒ぐ子をちょっと眉をひそめて注意したりしている。幼稚園の先生の頃の素人っぽさが抜けて、教師らしい職業婦人のキャラクターとして描かれる。髪型も大人っぽくなり、年齢より老けて見えるようにしている。アデルはエマをカフェに呼び出して、「あなたを忘れられない」、と言う。エマもアデルへの愛はまだ残っているようだが、しかし、彼女は既に以前から付き合っていたパートナーと安定した暮らしを築きあげているようで、よりを戻すつもりは全く無い。エマはこみ上げる涙を抑えられず、ずるずると鼻水を垂らしながら泣く。昔の映画なら、相手がここですかさず綺麗なハンカチを出すところだろうが、これはレズビアン・カップルだから、騎士道的なジェスチャーは似合わない。日頃の大人っぽいアデルの表情が見事に崩れ、高校生の頃の素顔がのぞく。

(エピローグ)最後はエマが幾つもの作品を出品した展覧会の初日のパーティーのシーン。エマは昔約束していたようにアデルに招待状を送っていたが、前回カフェで会ってから後、ふたりはずっと会うこともなかったのだろう。あの時、展覧会には招待するね、と言っていた約束をエマは果たしたわけだが、エマの愛情は更に冷めていて、アデルに本当に来て欲しかったようでもない。別れる以前にアパートで開いたパーティ以上に、アデルはエマの世界が自分の世界とは違ってしまったのをひしひしと感じする。ワインを持って部屋をめぐっても、気楽に話をできる人もいない。エマと挨拶はするが、今のパートナーのリーズがそばにいて気軽には話せないし、エマはアーツの関係者をもてなすのに一生懸命に見える。いずれにせよ、ふたりの間には超えがたい壁が出来てしまっている。ひとりだけ、昔アパートでのパーティーにも来ていた俳優志望のアラブ系の青年が彼女に他の人以上の関心を示す。彼は当時は夢を追っていたが、今は主に地味な普通の仕事(不動産業?)をやっている。アデルはワインのグラスを置き、にぎやかな会場を、エマに別れを言うことなくひとりでそっと抜け出す。彼女がいなくなったことに気づいたアラブ系の青年は慌てて外に出て彼女を捜すが、もう見つからない。青いスタイリッシュなドレスをまとったアデルは、背筋を伸ばして足早に去って行く。

既に見た人が決まって指摘しているように、食べ物が効果的に使われている。アデルの家の定番は庶民的で万人がよろこぶミートソース・スパゲティー、エマの家の客料理は生牡蠣。アデルは食わず嫌いもあって牡蛎は苦手だったが、食べてみると意外に美味しいと言う。牡蛎はレズビアンのセックスの隠喩でもあるだろう。ミートソース・スパゲティーの方は、ふたりが同棲した後も、パーティーでアデルが用意する。日本で言えば、せっせとちらし寿司を振る舞うお母さんのイメージか。アデルには、芸術家のエマと暮らし始めても、昔の庶民的なルーツが染みついているのがうかがわれる。

もうひとつは「青」。エマの青く染めた髪の毛は、フランス国旗の青同様、アデルにとって自由の象徴だろう。しかし、2部以降はエマは髪を青く染めることをやめている。エマはアート業界の一員として彼女なりに組織に組み込まれ、その世界の常識を生きている、ある意味で「普通の人」になってしまったのかもしれない。アデルが最後に身につけた青いドレスは、彼女がエマから「自由」になったことを示しているのだろう。他にも紙ナプキンとか、随所に青が意図的に配置されて、映画全体に統一感を与える。

アデルの家が貧しかったり、イギリスの労働者家庭でしばしば見られるような明確な階級意識を持っていたりするわけではなさそうだ。エマの家も、立派な邸宅や高級マンションではなく、使用人がいそうな家でもない。しかし、ふたりの家庭の保守性とリベラルさの違いははっきりしている。特にアデルの父親は、食えない職業である芸術家について、面と向かって否定的な事をエマに言う。一方、エマの両親は、少しでも創造的な仕事をするのが人生の目的であるという価値観の持ち主。もちろんパート1でのアデルは自分の友人がレスビアンであることは親に言わないし、言える様な雰囲気でもない。また彼女自身、学校で、あなたはレスビアンね、と友達に言われたときに、猛然と否定し、つかみ合いの喧嘩になる。

私にとって、この映画の最大の魅力は、第1部で、エマとの恋愛を通じてアデルが自分のセクシュアリティーについて徐々に気づいていく時の心の揺れ動きやその描写のみずみずしさだ。社会から「普通」として認められるヘテロ・セクシュアルの若者にとっても、思春期における性の自覚は大変な葛藤を伴うことが多いだろう。増して、ゲイ・レスビアンであったり、バイ・セクシュアルであったりすれば、学校や家庭、地域における社会的なストレスも大きく、また自己嫌悪や自分のセクシュアリティーを認めたくない、という気持ちも起こりがち。この映画は、学校や社会全体におけるゲイ・レスビアンへの差別とか、家庭内の軋轢と言った政治色を避けて、あくまで、素朴なひとりのレスビアンの若者アデルの揺れ動く気持ちや愛の喜びと悲しみと言った古典的テーマをじっと凝視したことで、教条的にならずに、素直な恋愛映画となっていると感じた。一般の映画館で公開される多くの恋愛映画では、恋人達の会話とか仕草とかは念入りに描かれても、セックスをセックスそのものとして充分に描くことは少なくて、あまりリアリティーの無い、一種の「振り付け」されたセックスがロマンチックなバックグラウンド音楽と共に短時間映写される。また、多くの人は、ポルノ見たさで来たわけでもないのに映画館でセックスを長々見せられるのは居心地悪い、と思うかも知れない。しかしこの映画では、10代後半の、ホルモン満開の年代の若者にとって、性の興奮と喜びが如何に強烈なものかを観客に訴えようとしており、あのシーン無くしては映画全体のインパクトはかなり弱くなってしまうと思える。

後半、ちょっと眠くなった。ふたりの気持ちが離れて行くシーンを、少しずつ時間をかけて描写しているのだが、ちょっと冗長になった気がした。もうひとつ不満な点は、脇役があまり印象の残る程描かれていないこと。ゲイの友人サミール、最後に出て来たアラブの若者など、もっと描き込めばおもしろくなりそうなキャラクターが幾人かいたが、もう少し生かせなかったものか。全体のテンポを上げて、かつ脇役をよりくっきり表現することで、更に面白い映画になったような気がする。

高校や小学校の教室の風景は、フランスの今が感じられてとても興味深い。また、脇役の人種の多様さに多文化のフランスの良さが感じられた。掘り下げられはしなかったが、アデルを慰めたり共感すのは、多分アラブ系のサミールと俳優志望の青年だった。

この映画を10代のレズビアンの方が見たら、きっととても感激するだろうな。でも、そうでない人にも、特にヘテロセクシュアルの男女の若者にこそ、偏見のない心で見て考えて欲しい作品。

(追記)ちなみに、私がこの映画を見た5月17日は「国際反ホモフォビアの日」(International Day against Homophobia and Transphobia, IDAHO)だった。日本でも集会や勉強会など、幾つか小規模の記念行事が行われたようだ。

2014/05/07

NHK ETV特集「辞書を編む人たち」 2014年5月2日放送

録画をしていて、5月5日に見た。期待以上に面白かった。同じ番組を見た友人も、とても楽しんだようだ。人文科学系の勉強や仕事をしている学生、社会人、教員には特に面白い番組だろう。まずは、番組のホームページから、案内の一部を引用する:

「無人島に一冊だけ本を持っていくとしたら?」この問いに多くの人がある本を選ぶ。辞書である。言葉だけでこの世界のすべてを表現する。自然も人の心も具体物も抽象物もあらゆる物事を言葉だけで表現する辞書は言わば小宇宙である。番組では、辞書専門の出版社の改訂作業に半年間にわたり密着した。新しい言葉を追加し、従来の項目を改め、不要となる言葉を削除する。日々新たな言葉が生まれては消えていく時代、改訂とは、言わば辞書に新たな命を吹き込む作業である。

記録されているのは、国語辞典『大辞林』第4版の編集を行っている三省堂の辞書部。と言ってもこの国語事典に携わっているのは、編集長、ベテラン編集部員の男性1名、2年くらい前に定年退職し今は嘱託勤務の第3版編集長のたった3人のおじさん方。更に、撮影の間、インターンとして来ていた筑波大の博士課程の院生、石塚直子さん。番組は、主に、編集部で働き始めて好奇心と興奮に満たされている石塚さんの視点で編集作業を追いながら、辞書作りの難しさ、楽しさを伝え、更にデジタル出版へと移行しつつある時代における「辞書」を作ることの意味を考える。新しい言葉を貪欲に追い続けなければならない国語辞典の編集部には、女性や若者も必要だと思うが、費用の関係でそう沢山は人員を配置できないんだろうなあ。

『大辞林』は1959年に最初に計画されたが、実際に第1版が出版されたのは1988年!辞書の制作が如何に手間がかかる仕事かしのばれる。また、その間、三省堂は倒産し再建されるなど、会社としても大変困難な時代を経ている。それでもこの大事業を諦めなかった編集者や経営者に感銘を受けた。

編集長は、片時も言葉の採集に余念がない。通勤時に道を歩いていても、看板や広告などから気になった言葉を携帯で撮り、後で調べたり、語釈を考えたりする。インターンの石塚さんには、若い女性向けの雑誌に載っている新語を採集させ、その語釈を考えさせる。例として出て来たのは、「エッジの効いた」とか、「頭を盛る」(髪を盛り上げるようにしたヘアスタイル)など。更に「足を盛る」なんてのもあった。そうすると、「盛る」というのは、「飾り立てる」ということになるようだ。

辞書制作の面白さに加え、この番組の魅力は、インターンの院生、石塚さんの素直な学究心だ。彼女は幼稚園の卒園式でもらった子供用絵本辞書で辞書を読む魅力に取りつかれ、それ以来辞書への熱意を保ち続けて今に至った。博士課程の院生だが、学問的な野心なんか感じさせず、ひたすら学ぶ事の楽しさに突き動かされて言葉を探求している姿は、理想的な研究者に見えた。彼女は、出版社で実際に辞書の編纂をすることを希望していて、最後は就職活動のシーンが映っていた。希望の職に就けることを切に願ってやまない。

その他に出てこられた編集部の方々も、過去の編集長も、なかなか魅力的な「知の職人」とでも言うべき人たちだった。こういう無名の民間の方々が日本の知の土台を支えているんだと思った。感謝したい。

番組のホームページ。NHKオンデマンドで視聴可能。辞書や言葉に関心のある方なら、216円払っても見る価値あり。

なお、小説や映画で大評判になった『舟を編む』はこの編集部を題材にして作られたようだ。私はまだだが、近いうちに見るつもりだ。

そう言えば、私の大学院時代の恩師のひとりはご自身、有名な英和辞典の編集をなさったが、全20巻、平凡社大百科事典くらいのボリュームがある『オックスフォード英語辞典』(Oxford English Dictionary略称OED)を最初から順番に読んでいて、最後まで読み終わったらしい。もの凄く細かい方だった。あの頃、大学院の授業の予習というと、図書館や研究室の書庫でひたすらOEDを引きまくる、というのが多かったなあ。その他、Britannicaとか、Oxford Companionsなど各種のリファレンスには大いにお世話になった。今は大きな大学に籍のある学生や教員なら、それら全てがオンラインで検索でき、とても手軽に下調べが出来るようになった。言語学的な研究では、文章を一文一文読んで細かな手作りのカードを作らなくとも、各種のデータベースにより即座に例文や統計が得られる。但、デジタル化により、研究姿勢が安易になったとか、中世や近代初期など古い言語の場合、もとの作品などを正確に読解する能力がないのに、単語や例文だけデータベースで抽出して研究データにする、などの弊害が長らく指摘されている。

2014/05/01

コンサート「ラウデージによる種の復活の黙想」(八王子復活教会、2014.4.28)

会場:聖公会 八王子復活教会
2014.4.29  15:00-16:00
合唱と演奏:ラウデージ東京
指揮と監修:杉本ゆり

中世英語英文学の研究者で、私の大学院の大先輩である先生からお知らせをいただき、始めてこの古楽グループのコンサートに出かけた。リーダーの杉本ゆりさんは、長年中世の音楽を研究され、教育、研究、そして今回のような実際の演奏において活躍されている方だそうである。丁度復活祭の期間中であり、曲目はキリストの復活にちなんだものが並んでいた。パンフレットの説明を一部引用すると、次の様な曲が含まれる:

“Concordi laetitiae”
「13世紀のフランス起源のラテン語プローザ。聖母マリアと共に主の復活を願う行列聖歌として伝統的に親しまれてきた。」 
“Victimae paschali laudes
「セクエンツィア(続唱)のなかでももっとも広く親しまれていた聖歌です。11世紀末の写本からの情報でウィポー(Wipo, c.990-c.1050)作とされています。このセクエンツィアは典型的なセクエンツィアの形を取らず、韻も踏まない不規則な詩形であることから、押韻のタイプに移行する過渡期の姿を示しています。このセクエンツィアは対話を加えながら復活物語を追い、典礼劇のプロトタイプを見せてくれます。このラテン聖歌ができてから1世紀後にドイツで、ラテン語の歌詞の間にドイツ語が挿入され、宗教改革前のドイツ語賛歌”Christ ist erstanden”となり、更にルターが両者に基づいて”Christ lag in Todesbanden”を書きました。」 
“Jesu Christo glorioso” (Cortona MS 91)
「13世紀の民衆の宗教運動の中から生まれた、特にフランシスコ会の中から生まれたラウダという俗語による賛歌がコルトナ市の聖フランチェスコ教会に残されていました。」 
“Col la madre del beato” (Banco rari 18)
「14世紀のフィレンツェの信徒会が残したラウダ写本に所収される復活ラウダです。」
「この一連の復活のテーマによる楽曲はどれも中世の復活典礼劇の要素を持ち、それらと関連しあっています。復活の朝のミサが始まる前、聖土曜日から復活の主日の間にこのような劇が演じられ、それらは”Quem queritis?”(誰を捜しているのか)と呼ばれます。もともとはラテン語による典礼劇でしたが13世紀から次第に俗語化していきます。誰にでも分かる、地元の話し言葉で演じられ、目で見て耳で聞いて具体的に復活の福音が分かるようになるために復活劇の役割は重要でした。そして最後に感謝の賛歌として古代キリスト教の聖人アンブロジウスによる”Te Deum”が歌われる慣わしでした。」 
“O Filii et filiae”
「復活の物語を福音書に沿って歌うこの賛歌は今日も教会の中で生き続け、歌われる民衆的な素朴な歌です。 
“Spiritu Sancto”
「コルトナ写本には聖霊についてのラウダが3曲あります。この曲は、導き手である聖霊を三位一体において讃えています。」

他にもあり、全部で10曲。

会場でいただいたパンフレットには色々と勉強になることが書いてある。これらの歌は典礼劇とも深い関係があるそうだ。あまり長文の引用をするのは気が引けるが、杉本さんの解説で更に印象に残る部分をもう一カ所引用:
復活祭は聖母マリアのみならず、女性たちが活躍します。その筆頭はマグダラのマリアです。プログラム前半の復活聖歌”Victimae paschali laudes”から復活ラウダの間、何度も歌のなかに聞かれる”Maria”という呼びかけはすべてマグダラのマリアに向けられたものです。復活の朝、香油を持って走ってきたマリアたちにキリストが現れ、鳴いているマグダラのマリアに声をかける感動的な場面、また天使によって「ここにはおられません、ガリラヤで待っておられます」と告げられる場面。「我に触るな」という有名な言葉を言われる場面、疑ったトマスが脇腹の傷に手を差し入れ、「我が神よ」と信仰告白をする場面、エマオへ向かう旅人に姿を現される場面、など劇的な美しい復活シーンが歌に散りばめられています。

素朴な歌であり、賛美歌ではあるが、俗語で書かれ、民衆的なものも含まれるせいか、厳かなばかりでなく、打楽器に合わせて歌われ、とても軽快で楽しい歌もあった。私の様な者から見ると、一種のフォークソングを聞くような感じで楽しめた。また、聖母マリア達がキリストの墓を訪れて復活を知るという内容の歌もあり、中世演劇、特にラテン典礼劇の萌芽となるような曲も含まれ、勉強の上でも刺激になり良かった。これらの歌の幾つかは、恐らく大聖堂や修道院の内外における行列(procession)の折に歌われたのであろう。一種の行進曲でもあり、行列という演劇にも通じるパフォーマンスの音楽でもあった。

コンサートの後、会場でお会いした大ベテランの先輩で著名な学者のA先生、そして彼女のお友達の先生と3人で、しばらく気楽なおしゃべりを楽しんで、良い一日となった。

ラウデージ東京のホームページ。次のコンサートは11月に催されるらしい。是非また聞きたい。関心のある方はグループのホームページに注意していて下さい。

“Coriolanus” (National Theatre Live, 2014.4.28)

“Coriolanus” (National Theatre Live, a Donmar Warehouse production)

Donmar Warehouse 公演
観劇日:2014.4.28 18:00-21:00
劇場:東邦シネマズ日本橋

演出:Josie Rouke
脚本:William Shakespeare
デザイナー:Lucy Osborne
照明:Mark Henderson
音響デザイン:Emma Laxton
作曲:Michael Bruce

出演:
Tom Hiddleston (Coriolanus)
Mark Gatiss (Menenius, a patrician)
Deborah Findlay (Volumnia, the mother of Coriolanus)
Hadley Fraser (Aufidius)
Birgitte Hjort Sørensen  (Virgilia, the wife of Coriolanus)
Eliot Levey (Brutus, a tribune)

☆☆☆☆ / 5

私は演劇の映画館でのlive viewingには、記憶する限り、以前に一度しか行ったことがなくて、テレビでの劇場中継での一般的な退屈さを考えるとあまり気が進まなかったが、今回は面白く、大いに楽しめた。やはりもとのプロダクションの良さのため、映像で見ても面白いのだろう。

この劇はオリヴィエみたいな広い空間で、沢山の端役を使って群像劇にすると迫力がありそうだ。今回のようにDonmarの小さな舞台でローマの広場や戦場を再現するのだから、そもそもかなりの制約がある。しかし、演出家のRoukeはその制約を逆手にとって、ひとりひとりの役者の演技に観客の注意を集中させ、濃密な心理的劇に仕上げたように思う。また、クローズアップの出来るlive viewingという映像での観賞がそれを助けた。壁の落書きとか、赤い投票用紙といった小道具で、人数の少なさをカバーするという工夫も上手く行っていたと思う。

何と言っても光ったのは、HiddlestonとFindlayの名演。しかし、Mark Gatissを始め、周囲を固める役者達も申し分ない。私の英語の理解力はたかが知れてはいるが、どの俳優についても、台詞の言い間違えやタイミングのずれを一度も感じることが無かった。HiddlestonのCoriolanusは、戦士としての剛胆さと内面の弱さを良く表現していた。その弱さを通じて固く結ばれた彼とVoluminaの関係が、最後のシーンで見事に描かれた。母が国のために息子を売りわたすことのやりきれなさが、うつむくFindlayによって雄弁に表現された。

平民や護民官の狡さ、軽薄さが上手く演じられるのを見ながら思ったのは、シェイクスピア作品では所謂「市民」というタイプの人達は、集団として集まると大抵は、ナイーブか狡いかその両方、要するに馬鹿なんだな、ということ。ロンドンの一般市民である大方の当時の観客はどう感じていたのだろうか。チューダー朝イングランドにおける民衆とか、市民とか、議会の概念については、私は勉強していないので分からないが、関心を惹かれた。

元来は男性の役に幾人か女優が割り当てられていた。劇全体の男性的なトーンを減じることで、プラス・マイナスの両方ありそうだ。女優を入れて妙にエロティックにしたところがあったが、あれは意味がある試みとは思えない。男同志の猛々しいぶつかり合いの雰囲気は薄められるが、女優が混じっていた方が、現代の民主主義国家の政治にも通じる物語として受け入れられる。Aufidiusはさしずめ、高市早苗さんといった感じ(^_^)。

live viewingのおかげで、実際に劇場にいるよりも役者の表情が良く分かり、迫力はあった。しかし、少なくとも今回のヴァージョンは、あまりに映画的にしすぎて、演劇ファンとしては不満だ。面白く、迫力あるものにしようとするあまり、「映画」になりすぎた。クローズアップが多すぎて、舞台全体の様子が分かりにくい。もっとカメラを引き、カメラの数も少なくて良い。主として正面一カ所から撮影し、それを他の幾つかのカメラで補強する、というくらいで、俳優の演技を主として全身で見せて欲しい。また、音楽も、舞台で使った音楽をそのまま使っているとは思うが、うるさすぎる。耳がやや遠い私から見ても、台詞のボリュームも上げすぎだ。live viewingを映画の一種と捉えるならそれでも良いだろうが、私としては、出来るだけ舞台の前で見る劇場体験に近くして欲しかった。

ナショナル・シアターライブでは、今年これからサイモン・ラッセル=ビールの『リア王』、エイドリアン・レスターとローリー・キニアーの『オセロー』という凄いプロダクションが並んでいます!

イギリス留学中、ナショナル・シアターの3つの劇場を除けば、最も頻繁に出かけたのはドンマーとアルメイダ。いた間はほとんどの演目を見た場所。なつかしい思いで一杯になった。