2016/12/17

アランデル大司教の法令の影響:ジェイムズ・H・モーリー教授の発表を聞いて

12月10日、11日、関西大学で開かれた日本中世英語英文学会に行った。今回はそこで聞いたエモリー大学のジェイムズ・H・モーリー教授の発表についての感想。専門外の方には関心を持てない内容だが、お許し下さい。

今回の学会で私が特に関心を持っていたのは、10日の Sermons and Biblical Narrative Pre- and Post-Arundel というシンポジウム。特に、エモリー大学のジェイムズ・H・モーリー教授(Professor James H. Morey)の講演に期待していた。実際に出席してみて、期待していた通りモーリー教授の講演は大変刺激的だった。彼の主な主張は、今までニコラス・ワトソンなどが提唱してきたアランデル大司教の1409年の教会法令(Constitutions)の影響が、それ程大きくなかったのではないかという点。そして、15世紀にも多くの宗教的文書が書かれ、特に詩ではなく、散文作品が書かれたこと、更に14世紀に書かれた多くの重要で論争を呼ぶような宗教的作品の写本が15世紀になって数多く写されて現在に到っているので、少なくとも当局の検閲がそれほど広く徹底していたとは考えられない、ということだった。モーリー教授も、全体としてはニコラス・ワトソンの論文の主旨に賛成だが、ワトソンはConstitutions の影響を過大評価しすぎている、という論旨だったと思う。

特に彼は、ウィクリフの英訳聖書に象徴される散文による宗教作品が、それまでの韻文による聖書のパラフレーズ作品(所謂「ゴスペル・ハーモニー」など)を駆逐したのではないか、と言う。その点で、ウィクリフ派の散文訳聖書が広まったことの影響は甚大だった、と考えるそうだ。異端の書とは言え、大変に人気があったわけである。このように、詩文から散文へ、という流れを、宗教作品の変化、異端弾圧と検閲などと関連づけて論じてくれたことは大変新鮮だった。

私も、モーリー先生の結論にはうなずける。ワトソンの論文は素晴らしいが、14世紀末から15世紀始めにかけての政府と教会の異端に対する諸政策の全体として英語の宗教作品が作られにくい状況が生まれたのであって、Constitutions はその重要な一部に過ぎない、とは思う。Constitutions が文化史上非常に注目されてきたのは、この法令が聖書の英語訳を明確に禁じたからであり、それは言い替えれば、近現代人にとって、ルターやティンダル等の宗教改革本流における俗語訳聖書に先行した、ウィクリフ派の英訳聖書の歴史的重要性を示していると言える。

私の感想としては、15世紀における識字率の向上により、韻文を耳で聞くよりも、散文を本で読むことが多くなり、それが散文の宗教作品の執筆を後押しした面もあるのではないか、と思った。また、モーリー教授の示した資料によっても、15世紀には韻文・散文を問わず新しい宗教作品が明らかにに減少しているのは確かであり、やはり政府と教会の異端弾圧とそれに伴う自主的な検閲、宗教作品への警戒感の影響が原因となっているのではないだろうか。

モーリー先生の発表を聞いて特に感じたのは、英米の立派な研究者は、大きなスケールで、文学史、文化史的な視点を交えながら話すので、そこで論じられている作品について知らない者でも、大変面白く聞けるということ。色々な意味で、刺激的で、勉強になる発表だった。

2016/11/13

『かもめ』(2016.11.11、東京芸術劇場)

☆/5

11月11日土曜日の夜、池袋の東京芸術劇場でアントン・チェーホフ原作の『かもめ』の公演を見た。

私は作品を見たことがないが、最近注目を集めているらしい熊林弘高という演出家による作品らしい。日本で伝統的なチェーホフ演出というと、黄昏の帝政ロシアを舞台に、時代に取り残されていく中流以上の人々の哀しみをしっとりとした情感を込めて演ずる、という、まあ一種のステレオタイプというか、観客も公演をする方もそういう思い込みがあるかもしれない。しかし、昨今は、イギリスでも日本でも、シェイクスピア同様、そういう伝統的な殻を壊し、情感を破壊し、高々と笑えるようなスラップスティック風のチェーホフ演出の方が、むしろ当たり前になりつつあるのだろうか。元来ロシアでやるチェーホフは大いに笑えるシーンが多いという話もある。ナショナル・シアターやヤング・ヴィックで見た公演もそういう感じだった。これもそういう趣向の公演。

何だか、昨今の日本の演劇界では、西洋古典というと、そもそもオーソドックスな演出や演技をやった経験もないのに、頭の中のオーソドックスな演出をぶち壊すところから始める人達が多い気がする。この公演も作者や作品に関する愛が全く感じられず、実につまらない。俳優は実力のある人を揃えているのだが、それぞれの強みを引き出しているとは思えず、空回りとしか思えないドタバタが延々と3時間近く続きうんざりした。

チェーホフ作品は、広い意味でのコメディーだと思うし、自然に笑いをかもし出す人物や台詞もかなりある。でも大げさでわざとらしい尾ひれをつけて、スラップステックにして何の意味があるんだろう。「オレの公演、どうだ新しいだろう!」という演出家のエゴばかりが目立って不快だった。また、女性の人物描写で、脚本にあるとは思えない肉感的な表現を俳優にさせているのは、ステレオタイプ的なミソジニーの気配もして、私には見ておれない印象を与えた。

トレープレフ(坂口健太郎)とトリゴーリン(田中圭)の年齢が近く、後者がとても若いので、ニーナ(満島ひかり)を挟むライバル関係が明確になり、完全に若者の三角関係のドラマになったのは面白い試みだが、その一方で、元来戯曲では中心的人物のアルカージナ(佐藤オリエ)がすっかり霞んでしまい、まるでトリゴーリンの母親、トレープレフのお婆ちゃん、にでもなったかのようだ。佐藤オリエ、中嶋朋子、あめくみちこ、の3人の、技術と経験を持っているはずのベテランに、それぞれ哀しみに満ちた役が振られているのに、その哀しみがまったく感じられない。中島の演じるのは特に感動を誘う役柄なのだがが、まるで薹が立ったオールドミスというだけになっていて、良い俳優なのにかわいそう。

昨今の私にとってはかなり高額なチケット代だったけど、まったく楽しめず不満に満ちて劇場を後にした。

これを見ると、蜷川幸雄が演出した『かもめ』が如何に良かったか、記憶力の乏しい私でもその時の感動が思い出される。原田美枝子のアルカージナ、高橋洋のトレープレフ、そして宮本裕子のニーナ、素晴らしかったなあ!懐かしい。 但、トリゴーリンを作家の筒井康隆が演じたが、あまりに素人臭くてひどかったな。

2016/09/19

『クレシダ』(2016.9.18、シアター・トラム)

観劇日: 2016.9.18   13:00-15:30 (休憩1回)
劇場: シアター・トラム

演出: 森新太郎
原作: ニコラス・ライト
翻訳: 芦沢みどり
美術: 堀尾幸男
衣装: 四方修平
照明: 原田保
音響: 高橋巖

出演:
平幹二朗 (ジョン・シャンク)
浅利陽介 (スティーブン・ハマートン)
橋本淳 (ジョン・ハニマン、通称ハニー)
碓井将大 (少年俳優)
藤木修 (少年俳優)
花王おさむ (ジョン、衣装係)
高橋洋 (ディッキー、経理係)

☆☆☆ / 5

現代イギリスの劇作家、ニコラス・ライトによる2000年初演の新しい劇。初演はアルメイダ劇場。但、ウエストエンドの商業劇場を使ったようだ。その時の主演は、マイケル・ガンボン、演出はニコラス・ハイトナーという豪華版。私は勿論見てない。ルネサンス期イングランドの劇場を舞台とした時代劇なので背景にも興味が持て、また、平幹二朗、高橋洋という芸達者が出ているので、まあそれ程外れることはないだろうと思って出かけた。結果として、かなり楽しめ、充分行った価値はあった。しかし、脚本そのものはいまひとつ弱い感じがした。もう少し面白く出来そうだ。また、俳優の人選や演技にも不満は残る。平幹二朗、台詞は分かりやすく、サービス精神たっぷりで、かならず一定のレベルの演技を見せてくれるが、彼の独特の型みたいなもの、ほとんど歌舞伎に近いというか、それが劇のキャラクターを圧倒してしまい、登場人物シャンクよりも、役者平幹二朗を見る劇となってしまうのが残念。

舞台は1630年のグローブ座。となると劇団は国王一座(King’s Men)。バーベッジ親子やシェイクスピアはとっくの昔に他界している。シェイクスピアの人気は死後も衰えず、伝説上の人物となっているのは、台詞の中でも言及される。マーローやウェブスターの劇も上演され続けている。座長的な地位にあり、若い俳優の教育係をしているシャンクは女性役をやる少年俳優の手配に手こずっていて、田舎の俳優養成所に、数名の少年を送ってくれるように頼んである(そんな組織、あったのかね?)。それでやって来たのが、スティーブン。必死で台詞を覚えてきたが、どうしようもない素人臭さに加え、ひどいお国訛りもある。シャンクは、とりあえず、彼の教育を先輩俳優で、花形女役のハニーに頼む。また彼自身もスティーブンに手厚い演技指導を施し、そのおかげか、スティーブンは短い間に一座の看板女形役者に成長する。しかし、こうした10代の少年達の女形としての寿命は短い。衣装係のジョンも、経理をやっているディッキーも、かっては人気女形だったのだが、今は裏方だ。

平幹二朗、素晴らしい俳優と思うが、どうも彼自身の人間的魅力がにじみ出過ぎるというか・・・。このシャンクという人物、使ってもいない俳優養成費を劇団に請求して私腹を肥やしたことがばれて、今や巨額の借金を負っており、その負債を人気少年俳優を他の劇団に売りつけて返そうと考えたりするけしからんところのある奴。犯罪者とは言えないが、子供を搾取して利益を上げるという点で、『オリヴァー・ツイスト』のフェイギンのようなところもある。でも平がやると、何だか好々爺の教育係になってしまい、全体的に毒が抜けてしまう。しかし、彼の傷が破れて出血し、息絶え絶えの時のディッキーとのやりとりは感動的だ。二人の芸達者の台詞の息がぴったりと合った。そのディッキーの高橋洋、比較的小さな役だが、彼が出て来たシーンは面白い。地味な印象だが、台詞の緩急のつけ方、タイミングの取り方と言い、上手い俳優。

最も残念に感じたのは、田舎臭い少年俳優から一座の花形へ成長するスティーブン役の浅利陽介の演技。設定では、声変わりする前の10代前半の少年。そのためか、子供らしさを出そうとドタバタした演技ばかり目立ち、若者の成長、スター性の獲得、と言ったプロセスが感じられないまま、ある日、大きな役を射止めることになり、解せない。先輩俳優への想いを吐露するところも、叙情を醸し出せない。脚本の問題か、演出の問題か、それとも私の目が節穴? 華が感じられないし、スターになった最後のところでも、美しいとは言いがたい。一方、そのスティーブンにスターの座から追われるハニーをやった橋本淳は良かった。最初に女役の姿で舞台化粧とコスチュームをつけて出て来た時は、はっとする美しさを感じた。彼の場合、もう大人になって、女役がやれなくなる年齢を演じるのだから、俳優の実年齢や実際の姿と近いのでやりやすい。こうした女役の子供をやる俳優の難しい点は、20代前半の大人が5〜10歳以上、浅利の場合は29歳だそうだから、何と15歳程度実年齢より下の子供を演じるのである。しかも、場面によっては、大人の俳優が女性を演じる子供を演じる、という2重の演技をしなければならない。彼らの演技が非常にわざとらしく見えるのも仕方ない。アルメイダの初演では、これらの役は20〜21歳の若者がやったそうだ。身長が低く、顔の表情が年齢を感じさせず、しかも演技の技術がかなりあるということで浅利が選ばれたのだと思うが、成功しているとは思えない。もっとずっと年下の若者を使うべきではなかっただろうか。

というわけで幾つかの不満はあるが、平幹二朗、高橋洋の名演技もあり、楽しい観劇が出来た。

2016/09/11

Kawai Project 公演 『間違いの喜劇』(2016.9.10、あうるずすぽっと)

『間違いの喜劇』
Kawai Project 公演
観劇日: 2016.9.10   14:00-16:00
劇場: あうるずすぽっと

演出: 河合祥一郎
原作: ウィリアム・シェイクスピア
美術: 平山正太郎
衣装: 月岡彩
照明: 富山貴之
音楽: 後藤浩明

出演:
高橋洋介 (アンティフォラス、兄と弟の二役)
梶原航  (ドローミオ、兄)
寺内淳志 (ドローミオ、弟)
原康義 (イジーオン、シラクサの老商人)
岩崎加根子 (エミリア、エフェソスの女子修道院長)
チョウヨンホ (エフェソスの公爵)
多田慶子 (エイドリアーナ)
沖田愛 (ルシアーナ)
中山真一(ヴィオラ・ダ・ガンバ演奏)

☆☆☆ ☆/ 5

今日は東大のシェイクスピアの権威、河合祥一郎先生の主宰する劇団 Kawai Project の『間違いの喜劇』をマチネで見てきた。最近私は観劇から遠ざかっていて、この劇も行く予定は無かったのだが、行かれるはずだった知人が風邪を引いて熱を出し寝込んでしまい、急遽当日になってピンチヒッターで行くことになった。おかげさまで、良い上演でかなり楽しめた。その知人に大いに感謝したいが、早い快復を祈ります。

さて『間違いの喜劇』はシェイクスピアの初期の劇のひとつと考えられていて(1590年前後)、原作は古代ローマの喜劇作家のプラウトゥスの作品『メナイクムス兄弟』。古典劇の形式に則り、劇の時間と実際の時間が同時進行という形式を取っている点も興味深い。主人2人と彼らの召使い2人という二組の双子が、幼い頃に航海中の嵐で生き別れ、互いを知らぬままそれぞれエフェソスとシラクサという遠く離れた異国で育ち成人するが、ある時偶然にエフェソスで出くわす。しかし本人達も、周囲の人々も、更に偶然再会することになる彼らの両親(イジーオンとエミリア)さえ、お互いを知らない、ということから、見分けの付かない双子を取り違える人々が続出し、様々の「間違いの喜劇」が起こる、という案配。

シラクサはイタリア南部のシチリア島の古代都市、エフェソスは現トルコ共和国、小アジアの西にある古代都市。古代地中海文明と、大航海時代のヨーロッパが劇の中でぴったり重なる。都市の為政者たる公爵による謂わば即決裁判(summary justice)、修道院への避難(asylum)、商業、貿易、金融などのモチーフが顔を出すのも時代を映して興味深い。そして、嵐による離散と再会、死んだと思っていた人の再生、双子が原因のひと違い、嫉妬からの怒り、その他、考えて見ると、その後のシェイクスピアの名作の種が一杯に詰まった作品。

シェイクスピア学者らしい、奇をてらわぬ、大変オーソドックスな演出だった。スターのいない俳優陣、限られた費用を使っての衣装やセットなど、制限は多かったと思うが、シェイクスピアの楽しさ、奥深さを知り尽くした演出家と、ベテランの名演や懸命の若手に支えられ、シェイクスピア作品の中では凡作とも言える劇が充分楽しい上演に仕上がったと思う。双子故の人違いによって起こるドタバタ喜劇なんだから、結構笑いが欲しいところなんだが、何しろ観客が私みたいな、河合先生の高名に引かれてやってきた年配の英語教員なんかも多いと思うので、今ひとつ反応が悪いのは気の毒だった。若い人たち中心の観客だったら、もう少し盛り上がっただろう。

アンティフォラスの二役をこなした高橋洋介、なかなかの熱演。二人の人物を良く演じ分けていたが、惜しむらくは、ちょっとやり過ぎという印象。エフェソスのアンティフォラスのほうは、台詞からして、プライドが高く、家父長的で、いかにも町の有力者然とした押し出しというのは分かるが、台詞に凄みをつけるあまり、ヤクザの親分みたいに聞こえるときもあった。ドローミオのふたりは、双子を別々の俳優がやるので、主人達とは逆に、むしろ二人が同じように見えるよう腐心していたようだ。だとしたら、それは成功していたと思う。演技という点では、私には誰よりも印象的だったのは、最初に出て来たイジーオンのこれまでの家族離散の悲しみを述べる独白。文学座の原康義、圧倒的な説得力を持つ台詞回し。上手いの一言で、聞き惚れて、一気に劇に引きずり込まれた。あのモノローグがあるだけで、私にはもの凄く印象が違った。一言一言、はっきり分かるが、適度に緩急と強弱をつけ、台詞の意味を最大限に引き出していた。上手な新劇俳優の良いところを見せつけられた。一方で、対照的に、締めくくりのエミリアの台詞は、ゆっくりすぎる。勿体付けた感じで、俳優が名台詞に酔っているという印象を与えるような表現。最後の場面だけに大変残念。その他の俳優では、エイドリアーナを演じた多田慶子は大変上手だった。沖田愛は可愛い妹役にぴったりだし、チョウヨンホの公爵もその身分らしい雰囲気を出していた。

常にステージの左に座って、台詞に合わせた絶妙な演奏をするヴィオラ・ダ・ガンバ演奏の中山真一が、素晴らしい効果を上げていた。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの公演みたいだった。

全体を明るいベージュ系でまとめた色彩、キャスターのついたパネルを壁に使って自在に動かして見せたり、大小のドアをアクセントにしたりと、工夫の感じられるセットも良かった。

蜷川幸雄が2005年にこの劇を埼玉芸術劇場でやったようで、私も見た記憶がある。私がブログを書き始める前なのでメモもなく、細かい事はすっかり忘れてしまったが、オール・メール・シェイクスピア・シリーズの1本で、小栗旬がアンティフォラスを二役、高橋洋がドローミオの二役をこなしたようだ。私がはっきり覚えているのは、下がるズボンを何度も何度も引き上げながら台詞を言う高橋洋のドローミオの「くさい」演技。ああいった泥臭さが蜷川演出らしい、と思った。私は、ネクスト・シアターからのたたき上げの高橋に好感を持っていたので、その後、蜷川と軋轢があったのだろうか、彼の作品に全く出して貰えなくなったのは大変残念。でもテレビや映画の脇役で、俳優として仕事を続けているようだ。良い俳優さんなので、テレビだけでは勿体ない。小栗旬のアンティフォラスの記憶はないんだけど、どうだったんだろう。若いアイドルとしては、上手な人だとは思うけど、アイドルが出る舞台は、劇場がその俳優を見るために来ている若い女性達で一杯になり、シェイクスピアの劇だというので期待して来ている私にとっては、何故か劇場を満たす熱い期待感がかえって異化作用を産んで、えらく白けるんだなあ(というのはアイドル嫌いの私の愚痴)。でもそうした観客が集まってくださるおかげで、シェイクスピア作品の大きな上演が可能になるのだから、文句を言ってはいけない。ともあれ、今回の公演はそういう点でもじっくり見られて良かった。

2016/07/22

BBCのドラマ、”Rev.”と、ショアディッチの聖レナード教会

イギリスに居た頃とても楽しく見ていたコメディ・ドラマ、BBCの "Rev."、シリーズ1~3を英語版のDVDで購入して、見始めた。私の好きなイギリスがいっぱいで、たまらない。主役のトム・ホランダーが上手い!奥さん役のオリヴィア・コールマンが魅力的。そしてサイモン・マクバーニーをはじめとする芸達者な脇役陣が豪華で、素晴らしいアンサンブル。英語はアクセントが難しいので、英語字幕を一生懸命追いながら、何とか理解している(^_^)。問題だらけだけど人情あふれる下町のロンドンの多民族社会を、お人好しで寂しがり屋の教区司祭の日常を通して描いている。なお、”Rev.” は”Reverend”の省略で、聖職者の敬称。「・・・師」といった言葉。

BBCの”Rev.”のサイト。クリップは国外では見られません。

このDVDにはドラマ以外にも、俳優や演出家、脚本家へのインタビューなど付録のビデオが色々ついている。その付録のひとつで、ドラマのロケ地として使われている教会を、教区司祭が自ら紹介したクリップがあった。

この教会は、ロンドンの北東部、ショアディッチ(Shoredich)にある聖レナード教会(St. Leonard’s)。電車だと、地上を走るロンドン・オーヴァーグラウンドの Shoredich High Street 駅から北に少し歩いたところにあるようだ。ドラマの設定同様、イーストエンドの下町にある教会。アングロ・サクソン時代からおそらくここに教会があったであろうと推測されているが、ノルマン人によって壊されて新しい教会が建てられたらしい。それが12世紀。しかし、その後も改築を繰り返し、結局、18世紀に大きく破損したのを機に全く新しく建て替えられた。20世紀末にも老朽化が進み、1990年に大幅な改築がなされて今に至っているそうだ。ドラマで見ると、教区教会としてはかなり大きくて立派な建物で、素晴らしいパイプオルガンがある。

さて、何故わざわざこの教会の事を書くことにしたかというと、ここにイングランドのルネサンス演劇の中心人物のひとり、ジェイムズ・バーベッジ(James Burbage}とその息子リチャード(Richard Burbage)が埋葬されているから。前回のブログでも書いたように、そもそも、ショアディッチというのは最初の常設商業劇場、シアター座(The Theater)と、その後すぐ出来たカーテン座(The Curtain)の在った地区でもあり、バーベッジ一家ゆかりの地なのである。ビデオによると、お墓は教会の地下の墓所にあり、特別に開けてもらわないと見られないらしい。この地下の墓所は、戦時中は防空壕としても使用されたそうである。地下はどうかわからないが、予め問い合わせすれば、司祭さん(Revd. Paul Turp)が自ら教会の案内をしてくださるとのこと。

更に、ここに埋葬されている重要人物として、エリザベス朝の喜劇役者、リチャード・タールトン(Richard Tarleton)がいる。彼は当時ナンバー・ワンの人気役者と言っても良い人で、エリザベス女王のお気に入りだったそうであり、また、劇団、女王一座(Queen’s Men)の中心人物のひとりでもあった。才能豊かで、バラッドやパンフレットも執筆していて、現存してはいないが劇も書いている。

私も、ロンドンにまた行くことがあったら、訪れてみたい教会。教会のホームページ。メニューの”History”のところに教会の歴史が詳しく書いてあります。

2016/07/12

ルネサンス劇場、カーテン座の発掘

今年の前半が終わったが、この間、私が一番興奮したニュースは、多分カーテン座(The Curtain)の発掘だろう。この劇場は、シェイクスピアの活躍した時代にロンドンにあった屋根のない大型商業劇場(パブリック・プレイハウス)のひとつ。1577年にオープンし、1624年まで使われており、シェイクスピアの属していた宮内大臣一座も使っているので、シェイクスピア作品も多く上演されたと見られ、『ロミオとジュリエット』や『ヘンリー5世』などは明らかにカーテン座でも上演されたそうである。

この劇場はロンドンの旧市街から北東方向の郊外、ショアディッチにあった。ほとんどの他の劇場同様、城壁の外に建てられ、近くには、最初の演劇専用商業劇場であるシアター座(The Theater、1576-96年)もあった。カーテン座の場所は長らく分からなかったようだが、2012年の6月、ロンドン博物館の考古学部門(MOLA)によりその場所が確定され、それ以来発掘が続いていたようである。私も発掘に関して、このブログで以前にも触れている
 
ルネサンス期ロンドンの劇場の場所、シアター座とカーテン座は地図の右上
(Wikipediaより)


発掘が続いているこの地域は、The Stage という名称の総合的な開発地域で、やがて高級アパート、ショッピング街、そして新しい劇場やカーテン座の展示場を含む商業地域となるらしい。

さて、今回の発掘でもっとも衝撃的だった新事実は、これまでカーテン座もグローブやローズ同様、円筒に近い多角形の劇場と推測されており、それを裏付ける当時の絵もあるのだが、発掘してみると、実は長方形であることが分かったのである。シェイクスピアの時代の劇場のうち、屋根がないタイプの大型野外劇場(「パブリック・プレイハウス」と呼ばれる)には次の様な施設がある。年号は開場した年:

シアター座 (The Theater 1576)多角形/円形
カーテン座 (The Curtain 1577)  長方形
ローズ座 (The Rose 1587 ) 多角形/円形(但、改築した後は長方形に近い)
白鳥座 (The Swan 1595 ) 多角形/円形
グローブ座 (The Globe 1599 ) 多角形/円形
フォーチュン座 (The Fortune 1600 ) 長方形
ホープ座 (The Hope 1614 ) 多角形/円形

これまでは、例外的にフォーチュン座が長方形で、その他は基本的に円筒に近い多角形の建物で、カーテン座もその1つだと思われてきた:
 
当時の絵にあるカーテン座(多角形状の建物)(Wikipediaより)


しかし、今回の発掘により、長方形タイプが複数在ったことが分かり、改築後のローズも入れると、3つとなる。イングランドのルネサンス劇場は、基本的に円形で張り出し舞台、という従来からのパターンでは考えられなくなったように思う。また、カーテン座は元々借家の連なりを劇場に改築した建物で、劇場としての使用を終えた後は、また借家にもどされたようだ。ガーディアンの記事を引用すると、’a conversion of an earlier tenement – essentially a block of flats – and was later converted back into a tenement again’ ということだ。考えようによっては、新しくゼロから建築された劇場は円筒形になり、そうでない建物は宿屋劇場(inn-theatres)を含め、長方形になると言う事だろうか。

発掘では、最高で1.5メートル位のレンガを積んだ劇場の壁が発見されており、また、立ち見の観客がいた平土間(pit)の部分は砂利が敷かれているとのこと。他の発掘物としては、陶磁器で出来ている、上演で使われたかも知れない笛の破片、骨で出来た櫛、鉛の代用コイン(飲み物の引換券かも知れないという)、そして財布の金具などがあるそうだ。

なお、カーテン座の「カーテン」は、現代の劇場で使われるようなカーテンから来ている名前ではなく、劇場のそばを通っていた通りの名前、カーテン通り(Curtain Road)に由来するそうだ。更に、この名前は、中世にあった修道院の外壁(これを ‘curtain wall’ と言う)から取られている。

詳しくは、ガーディアン紙の記事を参照。

2016/07/09

異端審問の時代ー15世紀のイギリスと今の日本

勉強しているうちに副産物として出て来た考えを以下に書いてみました。

チョーサーが、代表作『カンタベリー物語』の巡礼のひとりとして描く教区司祭は、聖書の教えに忠実な生き方をして、まるでキリストが中世のイギリスに蘇ったような清貧の、気高い聖職者。しかし「どうもあの人、時代遅れでついていけないね」、とまわりから思われているふしがある。バースから来た男好きの女房も、字も読めないはずだが、多分男達からの耳学問のおかげか、聖書の内容を良く知っている。彼女は、教会の禁欲的な教えに対して、聖書の知識を振りかざして「聖書のどこにそんなことが書いてあるの」と反発する。男達からは「聖書、聖書と、うるさい女だ」、と煙たがられていることだろう。この2人は、一方は超真面目人間で、他方は人生享楽型だが、意外と似ているところもあって、それは2人とも聖書に重きを置いている点と、世間、特に教会の主流派、が押しつける生き方に楯突いている点。だから、後世の学者からは、彼らは隠れたウィクリフ派(異端派)と解釈されることもある。

チョーサーが『カンタベリー物語』を書いた14世紀末頃は、こういう人物は、多少眉をひそめられることはあっても、特に官憲から咎められたりすることもなかっただろう。しかし15世紀になり、1401年に、教会と世俗権力が協力して異端を死刑にできる法律(De Heretico Comburendo)ができ、1408年にはアランデル大司教の教会令(Constitutions)という細かな異端禁令が発布されるに及び、あれよあれよと言う間に異端取り締まりが激化。かなりの人が逮捕、審問、そして処罰され、残酷な火あぶりの刑になる人もあった。同時に、正当派か異端派かがはっきりと色分けされ、ウィクリフ派でなくても、新しい信仰の形を模索したり、教会の改革を唱える者は異端というレッテルを貼られかねない危険な時代になる。高位聖職者や正統派の知識人と見なされていた人たちまで、異端の疑いをかけられる。例えば、セント・アサフやチチェスターの司教を歴任したレジナルド・ピコックは、多くの論文を発表した知識人でもあったが、ウィクリフ派を批判しつつも理性的な論理を強調し、教会権力への恭順を軽んじたことが異端の疑いを招いて解任された。同時代の人々にカルト的な人気を集めた女性神秘主義者マージェリー・ケンプは異端審問にかけられた。マージェリー・ケンプはバースの女房に血肉を与えたような人物であったから、バースの女房が15世紀に生きていたら、彼女も異端審問にかけられたかも知れない。また、ラテン語の出来ない庶民が聖書を直接理解できるようにしたいとラテン語の聖書を英語に訳すことは犯罪行為と見なされ、英訳聖書の所持は異端の確固たる証拠とされた。英訳聖書に限らず、英語の書物を所持しているだけで、疑いの目で見られることもあった。そのような弾圧が進む中、1413年、異端派の大物で、百年戦争の英雄でもあった騎士オールドカースルと配下の者たちによる反乱が勃発。この乱が厳しく鎮圧された後は、異端派(ウィクリフ派)は、天草の乱の後のキリシタンのように、ひたすら地下に潜行し、隠れて禁書である英訳聖書を学びつつ、細々と15世紀を生きのびることになる。文学でもチョーサーやガワー、ラングランドなどが排出した14世紀は、知的に大変ダイナミックな時代だった。しかし、異端派の弾圧と共に、15世紀の知識人は言動に気をつけ、当局の意向を伺いつつ生きることになった。

不勉強にて、この流れを今更ながら復習しているんだけど、私はつい、上の「聖書」を「憲法」に置き換えて考えてしまった。今この時、2016年の日本で、憲法を守りたい、憲法に沿って生きていたい、と思う人々が徐々に少数派で異端派と見なされるようになり、多数派とくっきり色分けされつつある気がする。学校で「平和教育」をする教師が咎められたり、自治体などが管理する公共施設に集まって戦争や平和について学ぶ集会を開こうとする人々が、会場使用を断られたりすることが報道されている。「平和」と戦後「憲法」が徐々に、学び守るべき正統から、排除すべき異端へと押しやられつつあるのではないだろうか。

中世イギリスのウィクリフ派の場合、14世紀末の王、リチャード2世の周辺には、程度の差こそあれ、かなりの数の賛同者や庇護者がいた。リチャード王の即位の頃、最も強力な権力者だった前王エドワードの息子、ジョン・オブ・ゴーントはウィクリフ個人を保護したし、リチャード王の側近には何人も「ロラード・ナイト」と呼ばれるウィクリフ派がいた。ウィクリフが教師をしていたオックスフォード大学には、ウィクリフに共感する知識人も多く、当初は教会権力に抵抗してウィクリフを庇った。ウィクリフ自身もロンドンなどの教区教会を使って説教をしたとされる。しかし、リチャードが失墜して、1399年に王位簒奪者ヘンリー・ボリングブルック(ヘンリー4世)に取って代わられた頃から時代の流れは速度を増し、情勢は一転する。大司教など教会指導者と世俗権力が手を結み、前述のような立法処置を経て、州長官や治安判事など世俗の権力も利用してウィクリフ派を探し出し、審問にかけ始める。

さて、今の日本だが、このあと20年、30年経ったときに、第2次大戦後に出来た平和憲法は、15世紀の英語訳聖書のように、異端の書と言われるようになるのだろうか。国民は国体の司祭たる自民党政府の教えだけを守り、許可無くしては、もう廃止され、禁書となってしまった「平和憲法」に触れられないかもしれない。その時には、教区司祭やバースの女房のような生き方や言動は許されるのだろうか。

2016/05/15

【講演】 片山幹生、杉山博昭先生のフランス中世劇とフィレンツェの聖史劇についての講演

西洋比較演劇研究会 5月14日(土)14時〜18時15分 成城大学

1. 片山幹生「中世フランス演劇とは何か?
  ― フランス演劇史における中世の位置づけとその可能性について」

2. 杉山博昭「聖史劇の宗教画、宗教画の聖史劇
  ― ルネサンス期イタリアの眼差しが媒介する照応関係」

西洋比較演劇研究会で中世演劇、聖史劇関連の発表というか、講演が2件あると聞いて、聴講してきた。片山先生については、「中世フランス演劇史のまとめ」というブログ形式の、極めて学問的な演劇史を書いておられて、以前から参考にさせていただいている。このブログでも以前取り上げた。杉山先生は、2月に早稲田大学で、「観客発信メディアWL」主催の講演をお聞きし、このブログでもその時の感想を書いた。従って、二人とも私にはある程度馴染みのあるお名前である。

さて、今回の公演は、最初の片山先生が古代ローマの末期以降、典礼劇の時代、13世紀の都市演劇、15-16世紀の聖史劇や世俗劇など、大変バラエティーに富むフランス演劇を概観する講演、そして杉山先生は、2月の講演で扱われたように、15世紀フィレンツェの美術作品と聖史劇の関係を主に話された。当日の様子を知ろうと検索エンジンなどで来られる方もいるかもしれないが、ここは個人的なブログなので、以下はバランスの取れたレポートと言うより私の私的感想であり、備忘録として、参考になった点、特に興味を引かれた点、そして残された疑問などをメモしておきたい。

片山幹生先生の講演だが、概説なのでここでは細かい内容紹介は省くとして、全体として感じたのは、現存するフランス中世演劇のテキストの多様さ、豊かさだ。英語の中世演劇のテキストというと聖史劇の4大サイクル、『エブリマン』や『堅忍の城』など、道徳劇が数本が主なもの。その他は、Digby写本の『マグダラのマリア』他のわずか2,3作の聖人劇、Brome写本の『アブラハムとイサク』などの幾つかの単独の劇、コベントリーやノリッジの聖史劇のサイクルの一部など、西欧の主要な言語に比べるとおそらくかなり少ない。フランス語では、その点、うんざりするほど長い、多数の聖史劇(ミステール)や道徳劇(モラリテ)をはじめ、阿呆劇(ソティ)、笑劇(ファルス)といったイングランドでは殆ど見られないジャンルの数多くの劇もある。私も若い頃、現存テキストの少ないイングランドの中世劇と比べて、フランスの中世劇研究者を大変羨ましく思ったくらいだ。しかし、現存作品の多さ故の苦労もあるだろう。テキスト研究も殆どされていない作品が多いようだし、ましてや、細かい上演記録の掘り起こしは、まだまだ先が長いという状況ではないかと推察する。長大な作品が幾つもあるとは知っていたが、シモン・グレバンという作家の『使徒行伝の聖史劇』など、6万2千行くらいだそうである。古仏語の長編叙事詩『ロランの歌』が約4千行、古英語の同じく長編叙事詩『ベーオウルフ』は3千行少し、と比べるともの凄い長さと分かる。残ったテキストの乏しいブリテン島の劇の場合、英米の多くの研究者達は上演にまつわる資料の発掘に力を注いできた。中世演劇の最初から、清教徒革命の始まる前、つまりシェイクスピア時代のロンドンも含めて、膨大な上演関連資料が、『英国初期演劇資料集』(The Records of Early English Drama, 略称REED)にまとめられつつある。大冊の本が既に30巻以上出版されており、更に順次インターネット上でも公開されつつある。フランスの上演資料も色々個別には出版されていると思うが、まだまだ写本のまま埋もれた資料が多いのではなかろうか。

片山先生は、ラテン語典礼劇についてもかなり触れて下さった。1960年代くらいまでは、典礼劇は英仏独語などの近代語劇を用意したものという進化論的な考えが強かったが、現在では、「演劇的な典礼」とも言える全く別のジャンルとして、14,15世紀まで生き延びたことを片山先生も確認されていた。典礼劇が終わっていく1つのきっかけは、1545年から63年まで繰り返し開催されたカトリック教会のトリエント公会議において、典礼のトロウプスを禁ずるという決定が成されたことがきっかけだとか。最盛期以降、典礼劇がどのような流れをたどったか、私も知らないので参考になったし、今後詳しく学ぶ必要があると思った。ちなみにこの講演以外の話だが、どこかで読んだが(記憶は定かでない)、戦国時代から安土桃山時代、日本にやって来た宣教師によって多くのラテン語の祈り(オラシォ)が伝えられたが、その中には演劇形式のものもあったとか。ラテン典礼劇が日本にも伝わっていたのだろうか。

ラテン語の典礼劇については、近代語劇と基本的にまったく別のジャンルの芸術であり、そもそも演劇的な形をした「典礼」の一種であるという考えに基本的に賛成ではあるが、私はその考え方が近年強くなりすぎているのでないかとも思う。例えばラテン語の劇でも、ボーヴェ大聖堂の『ダニエル劇』とか、『聖パウロの改宗』のような聖者劇、ベネディクトボイアルンの受難劇など、大規模で、「客」とは呼べないにしても、充分に「観衆」を意識し、また作品によってはおそらく地元の人々の上演への協力や参加も考えられる劇もあり、ラテン語にかなり近代語が混じって使われている場合もある。これらは、12世紀のフランス語劇の『アダム劇』と同様に、一般的なラテン典礼劇とは別に考える必要がありそうだ。つまり、やはり典礼劇とは別に、あるいはそれから発展して、教会を上演場所とし、儀式を越えた、観衆のための「見せる」演劇の発達があったというべきではないだろうか。但、それらが、14,15世紀の聖史劇や道徳劇の誕生に繋がったかというと、それはまったく別の問題だが。フランスの都市アラスで13世紀に、一気に高度な演劇文化が開花したように、その前に発展を準備する下地が乏しくても、条件が整えば高度な演劇が短期間で開花する場合があり、12世紀の西欧に幾つかそのような演劇の盛んな大聖堂のコミュニティーがあったのではないだろうか。アラスの演劇については、杉山先生は今回簡単に触れられただけだが、大変詳しいようなので、次の機会にはお話しを聞きたいものだ。発祥から、様々なジャンル、そして現代への影響まで、中世劇全般に関する片山先生の広範な知識がうかがえる講演だった。その点で、私の勉強をふり返ると、自分の興味あるテーマだけは細かく掘り下げていても、イギリス中世劇のその他の部分については知らない事だらけで、フランスと違って作品は少ないのに、ろくに読んでないものさえある。これまでついつい趣味的な勉強に終始してしまいがち。少なくとももっとこのジャンル全体への目配りもしなくては、と反省させられた。

最後に片山先生は、現代文学や演劇における中世劇の影響について、ガブリエレ・ダヌンツィオの『聖セバスチャンの殉教』、ポール・クローデルやダリオ・フォの作品にも少し触れられた。これらの作家作品については私は全く読んだこともなく無知であるが、そういう視点で研究することも出来るのか、と教えられた。それぞれの作家作品における中世劇の影響について、詳しい講演などあると良いな。

後半の杉山博昭先生による、15世紀フィレンツェの聖史劇の話は2月の講演と重なる部分が大分あったので、全体的な内容については、そちらもご覧下されば幸いです。

杉山先生の講演タイトルが示すように、フィレンツェの聖史劇は15世紀イタリア、ボッティチェリの同時代に栄え、「ルネサンス劇」の一部と言う事になる。聖史劇というと英仏独など、他の言語の文化では「中世劇」に分類されているが、当時のヨーロッパの先進国イタリアではルネサンス花盛りの時期である。この中世とルネサンス、あるいは近代初期の文化や文学における時代区分は難しく、かつ重要な問題で、現在も英米の学会でも盛んに議論がされているようだ。今回も公演後、聴衆からコメントが出されていた。

さて、2月の講演同様、杉山先生の講演の主旨は、ボッティチェリなどの当時のフィレンツェの画家達が、受胎告知やキリストの昇天などの絵画を描くにあたり、実際に目撃した聖史劇のイメージを部分的に使って絵を書いている事は明らかだという点。従って、上演がどうなされていたかも、こうした絵を参照することである程度分かる、ということだった。特に、描かれた天使の羽根に見られる舞台衣装の痕跡、天使の光輪がやはり舞台のコスチュームを映している形跡、舞台で使われた天球を表す大道具と絵画の天球の相似、そうした大道具についての当時書かれた記述や描かれた図、その他興味深い具体的な資料に満ちた発表だった。近代科学の発祥の地であるイタリアであるから、そうしたメカニカルな歯車を使った大道具や、特殊効果に使われた花火なども、今聞いても驚くレベルだったようで、聖堂の中で観客の度肝を抜くスペクタクルを繰り広げたシーンもあったらしい。歌舞伎の宙乗り同様に、教会の空間をロープを伝って天使が素早く移動したりというようなシーンも想定されるそうだ。

イングランドの中世劇と比べて面白いのは、フィレンツェでは比較的短い、聖書のエピソード1つ(受胎告知とか、キリストの昇天など)を取り上げた聖史劇が盛んだったこと。イングランドでは、天地創造から、旧約の物語、新約のイエスの誕生や伝道、受難、そして最後の審判など、キリスト教から見た人類の歴史全体を取り上げる所謂「サイクル劇」の形式が主である。フィレンツェにもサイクル形式の聖史劇もあったそうではあるが。イングランドでも、テキストの現存しない無数の宗教劇が上演されていたのは確実であり、全体としては、多くの短い宗教劇があったとは思う。

大変驚いたことして、イタリアでは聖史劇の脚本が、上演されなくなった後の16世紀に千の単位の部数で印刷されて、広く読まれたそうだ。多くの人々が、聖書の物語を分かりやすい「ドラマチックな」形で読む手段として、劇の台本を読んだわけである。当時のフィレンツェの識字率は40〜50パーセントあったと杉山先生はおっしゃっていたがこれもイングランドと比べ、驚異的高さ。但、男女別、また識字の内容(ラテン語かイタリア語かなど)には触れられなかった。恐らく成人男性の識字率で、ラテン語・イタリア語の区別なくいずれかの言語、ということだろうか? 脚本は写本としても残っているそうだし、杉山先生自身、写本に直接当たって研究されているようで、素晴らしい。この写本の性質とか使用用途についての詳しい説明はなかったが、これも聞いてみたいことだった。英語の写本の場合、一種の記録として市当局が保存用に作ったもの(ヨーク劇)、上演が行われなくなった16世紀に好古家が書物のコレクションとして筆写させたと考えられるもの(チェスター劇)、用途も実際の上演に基づいた写本かどうかも分からないもの(タウンリー劇、Nタウン劇)など、それぞれ、独特である。劇の写本のあり方は、単純に「読む」ために作られることはまずないので、考慮すべき点が多い。

フィレンツェでもイングランド同様、女性の役は若い男性(少年)が演じたそうである。この点は、日本も含め、多くの伝統演劇に共通する点。しかし、これは前回の講演の時も疑問が残った点だが、女性はどのような形、あるいは地域でもイタリア語の演劇から排除されていたのだろうか。例えば、世俗劇はどうなのだろう。近年、尼僧院における演劇(convent drama)の研究などもなされており、イタリアでもそういう場所では女性が演劇を行ったかも知れない。同じく女優の存在は、フランスではどうだったんだろう?

杉山先生の講演は、フィレンツェの聖史劇、それも美術と演劇の関係に的を絞ったものであったので、イタリアの聖史劇全体に関しては、例えば聖史劇の起源など、聞いてみたいことが沢山残った。しかし、これは私がご本人の著書やイタリア演劇史の概説書などでまず基本事項を勉強してから、直接質問すべき事だろう。

以上、今後も考えるために、個人的な感想や疑問を思いつくままメモしてみた。

この研究会は私は会員ではなく、今回インターネットのお知らせで知って聴講させていただいたのだが、それぞれ、講演時間も1時間半近く、更に質問時間もとても長くて、質問も多岐に渡り、大変な努力をして講演と質疑応答をやっていただいた。講師のお二人に深く感謝したい。勉強になった。

2016/05/06

“King Lear“ (NT Live) 『リア王』(ナショナル・シアター・ライブ)

観劇日:2016.5.3  15:15-18:15(休憩1回)
劇場:キネマ旬報シアター(柏駅前)

演出:Sam Mendes
セット:Anthony Ward
照明:Paul Pyant
音響:Paul Arditti
音楽:Paddy Cunian

出演:
Simon Russell Beale (Lear)
Kate Fleetwood (Goneril)
Anna Maxwell Martin (Regan)
Olivia Vinall (Cordelia)
Stephen Boxer (The Earl of Gloucester)
Stanley Townsend (The Earl of Kent)
Adrian Scarborough (Fool)
Tom Brooke (Edgar)
Sam Troughton (Edmund)
Paapa Essiedu (The Duke of Burgundy)

☆☆☆☆ / 5

ゴールデンウィークの真ん中の一日、我が家からはかなり遠い柏市にあるキネマ旬報シアターまで電車に乗って、サイモン・ラッセル・ビール主演、サム・メンデス演出の『リア王』を見に出かけた。ラッセル・ビールは映画やテレビなどでは主役をすることはなく、出ても本当に小さな脇役程度だが、イギリスの演劇ファンの間では絶大な人気を誇り、ナショナルやロイヤル・シェイクスピアに出る時は主役。次はRSCでプロスペローを演じると聞いた。彼の巧さは、シェイクスピアの台詞を韻文として謳いあげる能力の高さにあると思う。そういう意味で、古典的な役者だ。彼は音楽が大好きなようで、BBCのクラシック番組の司会をやったこともある。台詞をメロディアスに発音する力はそんなところから来ているのかも知れない。しかし、今回の公演では、専制的なリアの性格を強調するためか、力んだ台詞が多くて、彼の長所が目立たなかった印象。

休憩の後にサム・メンデスやラッセル・ビール、その他の専門家のインタビューがあって、そこでラッセル・ビールがリアの認知症のことを意識したと述べていた。また、専門家が、リアの狂気は、、認知症の中でも特にレビー小体認知症を思わせる点があると指摘していた。そう言われると、狂気と正気がまだらに現れる後半は、確かにリアは認知症に苦しんでいたのかも知れない。そういう目で見ると、そもそも自分の感情のコントロールが聞かなくなり、ゴネリルやリーガンから見ても常識をはずれた判断をしてしまう冒頭の部分から、リアは既に認知症の症状を持っていたと言えるだろう。そういうことを恐らく意識して演出された舞台かな。

全体としてオーソドックスで、特に奇抜な点はないと思うが、黒っぽいセットと衣装で統一された冒頭の宮廷のシーンは、儀式的で、独裁国家の雰囲気をかもし出していた。しかし、特にナチスとか、現代の強権的な国家などを連想させるわけではなく、権力に溺れた者の自滅を普遍的に描こうとしているようだ。身体的な狂気と、政治的独裁のおごりが重なり、リアは怒りの爆発の中で、当然の結果として自らを滅ぼし、人間らしさを失っていくというストーリーに見える。嵐のシーン以降も、そういう流れだから、なかなか老王の哀れさは感じられず、いよいよ最後、コーディリアとの再会の場面になって、やっと人生のはかなさを感じさせるリアになった。俳優サイモン・ラッセル・ビールがまだ若く、演技がエネルギッシュで、身体的な弱々しさを感じないという点も一因だろう。デレク・ジャコビやナイジェル・ホーソンの悲しみのリアとは対照的な、謂わば、怒りのリア。でも、最後になって、その狂った怒りから目覚めたときの哀れさは胸を打つ。

その怒りが最も端的、かつ効果的に現れるのが、ショッキングなフールの殺害の場面。リアの制御不能の狂気を上手く表現していた。

ケイト・フリートウッドの、冷たい面構えのゴネリル、人間くさい邪悪さに溢れたアンナ・マックスウェル・マーティンのリーガンの姉妹が印象的。これらの役は実に良い役で、どの俳優も目立つ。エイドリアン・スカーバラのフールは、あまりに普通すぎた。その他、脇役陣も安定した演技。主役の役作りについては、私の好みのリアとは言いがたいが、プロダクション全体としては大いに満足できた。

これはナショナル・シアターの一番大きな劇場、オリヴィエでの公演。NTライブで見ることの長所は、劇場ではなかなか分からない俳優の表情がよく見えること。しかし、欠点としては、オリヴィエの大きな舞台や劇場全体を包むスケールの大きさが消えてしまい、ドンマーのような小劇場とかウェストエンドの商業劇場の額縁舞台を見るのとあまり違った感じがしないこと。特に冒頭の宮殿のシーンは、儀式の感覚がかなり失われ、マイナスだったのではないか。また、これまでのNTライブでも感じたが、ボリュームが大きすぎる。耳鳴りがしそうなくらいの音で、台詞の味わいが消えかねない。普通の映画では圧倒的な音量で観客を包み込むことが多いが、演劇では観客は能動的に、耳を澄まして台詞に聞き入る。舞台を再現した映像では、普通の映画とは違った音量設定にすべきでは。

2016/04/28

"Skylight" NT Live(「スカイライト」ナショナル・シアター・ライブ)

観劇日:2016.4.27  18:45-21:30 (約20分のインターバル)
劇場:吉祥寺オデオン (録画場所はウエストエンドのウインダムズ劇場)

演出:Stephen Daldry
脚本:David Hare
デザイン:Bob Crowley

出演:
Bill Nighy (Tom Sergeant, an owner of restaurant chain)
Cary Mulligan (Kyra Hollis, a secondary school teacher)
Matthew Beard (Edward Sergeant, Tom’s son)

☆☆☆☆ / 5

先日の「夜中に犬に起こった奇妙な事件」を大いに楽しんだことに味をしめ、かつディヴィッド・ヘアーは私の大好きな劇作家でもあるので、「スカイライト」にも行ってきたが、期待通り、大満足。もともと、1995年にナショナル・シアターの小劇場、コッテスローで上演され、ウエスト・エンド、そしてブロードウェイにも進出した、実績ある作品だそうだ。今回の再演は2015年。1995年というと、ジョン・メージャー首相(在任:1990-97)の後半、サッチャー主義を引きずりながらも国家の方向が定まらず、次期政権を狙うことになる労働党の勢いが増している時代。20年を経ての再演だが、初演当時の社会や政治状況を強く反映したヘアーらしい作品であるにも関わらず、今回も良い劇評を得、観客にも好評だったようだ。俳優の演技やダルドリーの演出など、プロダクションの質の高さは重要な要因だが、95年のイギリス社会の問題意識が現在も未だに有効であることも一因だろうと思った。

(ストーリー)舞台は全て、中等学校の教師、キーラ・ホリスのうらぶれたワンルーム・アパートで展開する。彼女は貧しい地区にある公立学校の教師。生徒に唾を吐きかけられたり、給食係の女性が生徒に襲われたりと、何かと問題のある学校のようだが、やる気のある生徒のために時間外に補習をするなど理想に燃えて頑張っており、仕事に生きがいを感じている。ある日、彼女のアパートに、以前同居し、また社員としても雇われていた企業経営者トム・サージャントの息子エドワードがやって来る。彼女はサージャント家から突然居なくなったのだが、エドワードは彼女にかなりなついていた。エドワードは母アリスが病気で亡くなったこと、そして残された父トムが大変寂しがっていることをキーラに伝え、父に会いに行って欲しいと言う。その当時、トムとキーラは、アリスに隠れて愛人関係を続けていたのであった。しかし、キーラはエドワードの頼みを断る。エドワードが帰った後、たまたま、今度はトムがやってくる。トムはキーラの貧しい住居やつつましい生活の様子を見、ハードな仕事の事を聞き、彼の家に戻ってきて欲しいと思うが・・・。

と言う風にストーリーを書くと、3人の、そして今はもう亡くなっているアリスを含めると4人の家庭劇ということになる。ボブ・クローリーのセットはリアリティーに溢れ、如何にもロンドンの、ねずみやゴキブリが出そうな安アパート。しかし、実際のところ、不動産価格が企業や外国人資産家の投資の為に高騰しているロンドンでは、教師や看護婦など地味な公的サービスを担う人々は、あまり治安や環境の良くない地区のベッド・シット(bed-sit)と呼ばれる古いワンルーム・アパートにしか住めなくなっている。セットをみて、オズボーンの「怒りを込めてふり返れ」のセットみたいだな、と思ったのは私だけではないだろう。

トムはサッチャーやブレアが強調した起業家精神を体現する人物。なぜ大学をトップの成績で出て、かっては彼の下でビジネスでも才能を大いに発揮したキーラが、この薄汚い地区に住み、最低の給料なのにストレスばかり多い仕事で能力を浪費しているのか、どうしても理解出来ない。彼女がその気になれば、彼と暖かい家庭を作り、彼の下で立派なキャリアを再開することが出来るのに。一方、キーラは、子供達のために全力を傾ける今の仕事に大変大きな意義を感じており、また、サージャント家に居候していた時のバブルみたいな贅沢な生活とは違い、あまり豊かでない庶民の1人として、普通の暮らしをすることに意味を見いだしてもいる。トムも確かにそういうキーラの純粋さに、自分にはないものを見て魅力を感じたのだろうが、しかし今や遠くの世界に暮らして、手が届かなくなってしまった彼女を何とか説得し、2人で豊かな家庭を作ろうとする。キーラは、彼女の理想や暮らしぶりを本当には理解せず、自分から歩み寄ることのないトムとの間に、越えがたい隔たりを感じるのだった。

貧富の激しい格差、庶民がまともな住居に住めないような不動産価格、一部の富裕層の飛び抜けた豊かさ、等々、戯曲が書かれた20年前以上に、今の日本やイギリス、特に東京やロンドンにぴったり当てはまる作品だ。更に着目したのは、作者が、トムの性格に、家父長的な、女性を支配せずにはおれない気質をはっきりと書き込んでいる点だ。家庭においても、仕事でも、自分の下で、自分の計画と価値観に沿って働かせ、配偶者(あるいはパートナー)の人生を支配したいという、多くの悪気のない善良な男達の根本的な差別意識を、ヘアーは明確に浮き彫りにしている。トムはキーラを深く愛し、彼女を幸せにしたいと心から思っている。しかし、自分の価値観に沿った「家庭」という檻の中で暮らす人形であるかぎり、できる限りの幸福や豊かさを女性に保証はするが、それを越えた自立は絶対に認めたくないのが、トムに心底染みついた考え方だろう。やはり女は主人たる夫の所有物なのである。男が女性を大事に処遇し、女は力関係の不平等を受け入れるという、安定的な不平等関係に立って成り立つ幸福をトムはキーラに求める。だからこそ、相手に未練は残っていても、今つきあっている男は居なくても、息子とは大いに意気投合しても、キーラはトムの下へは帰れない。私にとっては、このジェンダーにまつわる問題意識が、この劇でもっとも面白い点だった。

良いことばかりで大きな問題点は何もない公演だが、やはりマリガンとナイという俳優の組み合わせは、ちょっと年齢の差がリアリティーを越えているような・・・。イギリス人女性としてはかなり「かわいい」タイプの顔をしたマリガンと、温厚で知的な老人の風貌を持つナイの愛人としての組み合わせはありそうにない。が、そう思うのは、私が日本人だからかもしれない。イギリスでは日本のようには年齢の差にこだわらないから、観客も違和感ないのかもしれない。また、ガツガツした起業家精神に溢れ、若い女性を愛人にしたトムを演じるには、ナイはどうも育ちの良いジェントルマンの雰囲気を崩し切れていない。おそらく初演のマイケル・ガンボンのほうがその点では良かったのではと想像する。また、ナイもマリガンも上品な雰囲気溢れる俳優なので、脚本における2人のどろどろした腐れ縁が、随分とクリーンなものに見えてはいないだろうか。男女の愛情というよりは、ベテラン経営者と彼の大事に育てた弟子のようでもある。でも、そういう二人で男女関係に陥る場合も結構あると思うし、私個人としては、これはこれでとても説得力があったので、問題なしではあるが。

しかし、ナイは上手い。台詞のタイミングが絶妙。ちょっと間を置いたり、イントネーションにひねりを入れて観客の笑いを誘う。生の劇場公演の録画だから、イギリス人観客の笑いが良く聞こえたが、我々にはそれ程台詞のニュアンスが分からず、あるいは分かっても実感できずに笑うところまで行かないのは残念だが。マリガンと、エドワード役のビアードも達者な演技だった。マリガンは、内面では色々と葛藤がありながら、表面は「涼しい」微笑を浮かべて相手との距離を感じさせるところが印象的。

私はヘアー作品では、イラク戦争の開戦に至る経緯を描く”Stuff Happens”(2004) と、リーマン・ショック以後の経済危機を舞台化した”Power of Yes”(2009) という、時代の全体像をつかもうとするスケールの大きな群像劇を見てきたが、今回は一部屋で繰り広げられる家庭劇で、彼の多彩な才能を実感した。21世紀の今にぴったりのキッチン・シンク・ドラマ。

2016/04/20

“The Curious Incident of the Dog in the Night-Time“ NT Live (「夜中に犬に起こった奇妙な事件」ナショナル・シアター・ライブ)

観劇日:2016.4.19 (171分、休憩1回)
劇場:吉祥寺オデオン

演出:マリアンヌ・エリオット
原作:マーク・ハッドン
脚本:サイモン・スティーブンス
セット:バニー・クリスティー
照明:ポール・コンスタブル
音響:イアン・ディッキンソン
音楽:エイドリアン・サットン
映像:フィン・ロス

出演:
ルーク・トレッダウェイ (クリストファー)
ニコラ・ウォーカー (ジュディ、母親)
ユーナ・スタッブス (ミセス・アレクサンダー、近所の老婦人)
ニーブ・キューザック (シボーン、特殊学級の先生)
ポ−ル・リッター (エド、父親)

☆☆☆☆☆/ 5

NT Liveの映像を通してだけれど、久しぶりにイギリスの舞台を見た。工夫に満ちた舞台で、非常に楽しめた。2012年の制作だが、初演ではオリヴィエ賞など多くの演劇賞を獲得し、2016年の今になってもロンドンではギールグッド劇場でロングランしており、また全世界で NT Liveを通じて上映され続けているのもうなずける傑作だ。

物語は、マーク・ハッドンの小説を原作としており、自閉症スペクトラムの15歳の少年、クリストファーを主人公に、彼の父母、そして特殊学級の先生を中心に描く。

クリストファーは2年前に母親を心臓発作で失い、今は父親と地方の小都市スウィンドンで暮らしている。自閉症で日常の社会生活では色々な困難はあるが、数学では人並み外れた能力を持っている。ある日彼は庭で隣人のシアーズさんの犬が、熊手(干し草かきに使う大きなやつ)で無惨に刺し殺されているのを見つけ、非常にショックを受ける。彼は、その「殺犬」の犯人を捜そうとして近所の家を戸別訪問して話を聞こうとするが、自閉症の彼には到底理解出来ない複雑な事情を聞いて混乱する。犬の死に端を発した彼の冒険は、彼をロンドンへ向かわせるが、旅は困難を極める・・・。

自閉症の少年の心を描きながら、しかし、観客は父や母、先生など健常者の大人の視点も理解しなければいけない。脚本のスティーブンスと演出のエリオットは、そういう2つの視野を絡み合わせつつ、巧みに舞台を構成している。そして、それを実現させたデザイン、照明、音響担当等のスタッフの力も非常に大きい。例えば、クリストファーの書く「本」(実は日記)を彼自身に読ませたり、先生のシボーンに読ませたりして、視点をずらしつつ、彼の内面を照射する。ある意味、デジタルの世界のように整然と構成されているクリストファーの思考形態は、照明による四角い線で格子状に区切られた舞台と、その世界を飛び交う数字や記号で表される。一方、父母など、彼のまわりの人間達の心や行動はあまりにもぐちゃぐちゃで、クリストファーには到底、シャーローク・ホームズのようにはきれいに解読できない。キャパシティーを越えてあふれ出す情報を前にして、クリストファーは混乱し、パニックを起こす。

障害を持った人を健常者の子供と比べるのは不正確とは思うが、見終わった後、私は自分の子供の頃の気持ちを思いだした。大人の言っている言葉が分からない、彼らの言う正しい事、間違った事、しなければならない、してはならない事の意味が分からない、そういう気持ち。大人の世界が無限の謎解きパズルのようで、不思議なことばかりだった。喜ばれると思ったことが大人を困らせたり、いけないことと思ったのに褒められたり。そして、同じ日本語なのに、大人同士の会話は、何が何だか分からなくて、暗号が飛び交う空間のようだった。

常々感じていることだけど、人と人を結びつける感情のコード、言語とかジェスチャーとかそれらのタイミングとか組み合わせとか強弱とか、そういうものは、人それぞれ違っていて、誰が正しいとか、何が正常とか言いがたい。ただし、大多数の人々を結びつけるコードの共通項によって世界は動いているので、そういうマジョリティーのコードとは違ったシステムを持っている人は、この大人の世界では上手く機能できない。子供達もそうだが、自閉症スペクトラムの人達も、ダウン症の人達もそうだ。でも彼らは彼らの世界においては首尾一貫して機能しているとも言える。それどころか、クリストファーのように、通常のコードで動く人々には理解出来ない世界を持っていたりするのだろう。クリストファーが数学に取り組んだり、天空を見上げたりするとき、彼の想像力は私達の思いもよらないパラレル・ワールドで無限大にはじけ、私達には見えない世界を見ている。クリストファーのように、整然とした世界で上手く機能し、それを越えるとパンクするというある意味分かりやすい宇宙に生きている人と視線を重ねて見ると、彼の父母やシアーズ夫妻のような人々は何と不完全で混乱していることか。劇を見終わる頃には、彼らこそ、不可解な衝動にがんじがらめの、救いようのない「障害者」に見えてきたから不思議だ。

クリストファーを演じたルーク・トレッダウェイは、15歳の少年にしては歳取りすぎて見えるが、これは映像によるクローズアップで見た為もあり、舞台ではそう目立たないだろうと思う。それ以外は完璧。自閉症の少年になりきった演技は入念な準備を要したことだろう。彼の細部まで行き届いた演技は、映画「博士と彼女のセオリー」でALS患者となったホーキンズ博士を演じたエディー・レドメインを彷彿とさせた。母親を演じたニコラ・ウォーカー、父親役のポール・リッターもクリストファーに振り回される大人を上手に、陰影を感じさせつつ演じている。そして、クリストファーの世界と大人達の世界の仲立ちをし、少し離れたり、内側に入ったりしつつクリストファーを見続けるシボーン先生の役柄と、それを演じたニーブ・キューザックが大変印象的だ。

普通の映画を見るよりは大分高価だが(3000円)、十二分にお釣りの来る満足感を得られた。私は社会の問題を描く劇や、シェイクスピアやイプセンなどの西洋古典が好きなので、この劇にはあまり期待せずに出かけたが、予想が良い意味で完全にはずれて良かった。

2016/03/22

【英・アイルランド・仏映画】「ジミー、野を駆ける伝説」(2014)

原題:"Jimmy's Hall"

監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティ
制作:レベッカ・オブライエン
音楽:ジョージ・フェントン
撮影:ロビー・ライアン

出演:
バリー・ウォード (ジミー・グラルトン)
フランシス・マギー (モシー、ジミーの親友)
アイリーン・ヘンリー (アリス、ジミーの母)
ウーナ (シモーヌ・カービー、ジミーの昔の恋人)
ステラ (ステラ・マクガール)
ジム・ノートン (シェリダン神父、教区教会の主任司祭)
アンドリュー・スコット (シーマス神父、若い司祭)
ブライアン・F・オバーン (デニス・オキーフ、大地主)
アシュリン・フランシオーシ (マリー・オキーフ)

☆☆☆☆ / 5

2014年の映画で、日本では去年(2015年)の1月に公開された。私は公開前から見たいと思っていたのだが、そのうち行こうと思いつつ上映期間が終わってしまい、見逃した。先日WOWOWで放送され、録画して見た。

物語は1930年代、世界恐慌後のアイルランドにおいて、実際に存在した社会主義の活動家ジェイムズ(ジミー)・グラルトン(James Gralton, 1886-1945)の姿に基づいているそうだが、細部はフィクションだろう。

ジミーは、アイルランドの北部、リートリム州(County Leitrim)の小さな農村で生まれ育ったが、1920年頃、アイルランドの独立戦争に参加し、地域の人望を集めた。その後、彼はアメリカに移住していたが、年老いた母の世話をし、農業を営むために10年ぶりに故郷の村に帰ってきたところで物語は始まる。この当時のアイルランドは、映画からうかがえる限りでは、政府とカトリック教会、そして大地主達が、権力と押しつけのモラルで、貧しい農民達をがんじがらめにしていた。その象徴的な存在が教区教会の司祭、シェリダン神父であり、地主で資本家のデニス・オキーフ。

ジミーは昔の仲間に歓迎され、皆と農作業に励んだりして静かな暮らしを始める。しかし、彼が10年前に様々な社会活動や教育を行っていたささやかなトタン張りの建物(「ジミーのホール」)のことを聞きつけた10代の若者達が、廃屋のようになっているホールを整備し、昔のような活動を再開して欲しい、とジミーにせがむ。もめ事の種を避けて、目立たない暮らしをしようとしていたジミーだったが、再三の願いを断り切れず、皆と力を合わせてホールを再開。詩の朗読、絵画教室、音楽とダンス等々、様々な活動が熱心に行われるようになる。特に、アイルランド特有のダンスのシーンが素晴らしい。

しかし、厳格で禁欲的なモラルを貧しい教区民に押しつけて支配したいシェリダン神父や、共産主義や組合活動を蛇蠍のごとく嫌う地主のオキーフら村の支配階級は、ジミー達の文化活動に実際以上に政治的、階級闘争的な側面を読み込んで、破壊分子として危険視し、何かにつけて抑圧しようとした。折しも、貧しい農家がオキーフから家を取り上げられるという事件が起き、住民と地主が激しく対立する。それを望んでいなかったジミーも、否応なく政治的対立の構図に引き込まれていく・・・。

ケン・ローチの映画は、私にはどれを見ても気に入ることは分かっていたが、これは特にfeel-goodタイプの作品。社会の問題を描きつつも、踊りや音楽とか、若者達の明るさなどで、全体が楽しい雰囲気で溢れていて、非常に楽しめた。幕切れも希望を抱かせる爽やかな終わり方をしている。映画が始まった途端、画面一杯に広がるまぶしい程の緑の景色も印象的。アイルランドらしさを前面に押し出したローチの演出だ。そして、映画の主要な場面を占めるダンスのシーンが圧巻。アイルランドの音楽や踊りと、ジミーがアメリカから持ち帰った黒人の音楽や踊りが混じり合うあたりも、虐げられた者達への共感を芸能を通じて表現したいというローチのメッセージが感じられる。アイルランドの音楽と踊りが堪能出来るだけでも、見る価値がある映画だ。日本における新劇やプロレタリア文学もそうだが、かっては洋の東西を問わず、芸術家や文化人が労働者の中に入っていったり、労働者自身が色々な文化活動を通して自分達を高めようとしたりした運動は各国にあった。イギリスの演劇では、ナショナルで上演された”Pitman Painters”など記憶に残る。ジミー達の活動もそうしたものとしても捉えられるだろう。

私はアイルランド史についてわずかな知識しか無いが、この映画を通してうかがえる限り、警察や地元の資産家とつるんだカトリック教会による精神的、物理的抑圧が凄まじい。ジミーのホールに行く人々を逐一監視して、教会で名前を読み上げてさらし者にしたり、商店主には不買運動を示唆して脅かし、教会では日曜の説教を利用してジミー達の文化活動を悪魔の誘惑のように糾弾する。まるで全体主義の国家のようだ。主任司祭シェリダンを演じたジム・ノートンは大変説得力ある演技で、彼こそまさに悪魔に見えた。彼はジミーが誠実で、誘惑に屈せず、決してひるまない強い精神の持ち主であることを尊敬しつつ、それ故に尚更彼を怖れ、迫害する。大恐慌後、全世界で人々が貧困に打ちひしがれ、独裁者スターリンに率いられたソビエトが革命後の混乱を乗り越えて国力を伸ばしつつあった時代、欧米の資本家や宗教指導者にとっては、共産主義が如何に大きな、そして現実的な脅威であったかが想像出来る。

英領の北アイルランドも含め、アイルランドにおけるカトリック教会、いやプロテスタントも含めてキリスト教諸派の影響力の大きさを再認識させる映画だった。21世紀の今になっても、北アイルランドでは宗派の違いを発端としたテロ事件が止んでいない。また、医療上の特殊な例外を除いて、北でも共和国でも堕胎が非合法で、望まない妊娠をしてしまった多くの女性がイングランドに渡って手術を受けているような国である。

この映画は、左翼社会運動家の視点から歴史上のヒーローを讃美しており、歴史を客観的に描いてはいないだろう。シェリダン神父がジミーの誠実さを認めることや、若いシーマス神父がシェリダン達に反対することなど、多少の陰影はあるが、実際は、農民の側も、支配層も、もっと複雑な動きがあっただろうと推測するが、それを冷静に分析するのはローチが目ざしている仕事ではない。

出演者の中で、私が良く見る俳優と言うと、アンドリュー・スコットくらい。誰も大スターの出ない映画だが、それでも世界中で公開され、満足した観客も多いことだろう。ケン・ローチと彼を支える脚本のポール・ラヴァティやプロデューサーのレベッカ・オブライエンなどのチームに大きな拍手!!

2016/03/16

【イギリス映画】“Suffragette”(サフラジェット)(2015年)

監督:Sarah Gavron
脚本:Abi Morgan
制作:Alison Owen, Faye Ward
音楽:Alexandre Desplat

出演:
Carey Mulligan (Maud Watts)
Helena Bonham Carter (Edith Ellyn)
Anne-Marie Duff (Violet Miller)
Natalie Press (Emily Davidson)
Meryl Streep (Emmeline Pankhurst)
Romola Garai (Alice Haughton)
Brendan Gleeson (Steed)
Ben Whishaw (Sonney Watts)
Samuel West (Benedict)

☆☆☆☆☆ / 5

(まだ日本公開前の映画です。これから見ようと思う人は、以下は読まない方が良いかも知れません。日本公開時のタイトルがどうなるかは知りません。)

イギリスにおける第一次世界大戦直前の女性参政権運動の様子を描いた映画。昨年(2015)の10月にイギリスで封切られた。日本でもおそらく今年か来年あたり公開されることと思う。題名の”Suffragette”は女性参政権運動家を表す言葉。昨年のイギリスでの公開前から是非見たいと思っていたが、日本公開を待ちきれず、アマゾンUKでDVDの予約が可能になったので、予約していたら先日発売になり、送られてきた。

私が期待していた通り、大いに楽しめたし、公平に見ても大変良い映画だと思う。歴史的事実を描きつつも、両性の平等と女性の政治参加を応援する、フェミニズムの視点に立つ映画であり、映画の最後には、各国で女性参政権が獲得された年を示し、例えばサウジアラビアのように未だに女性の政治・社会参加が限られている国々もある中、現在と未来へのメッセージを投げかけてもいる。

イギリスにおける婦人参政権運動の最も有名な指導者、エメリン・パンクハーストや、エプソン競馬場で国王ジョージ5世に直訴しようとして命を落としたエミリー・ディヴィッドソンなど実在した人物も出てくるが、基本的な物語は、架空の人物モード・ワッツという20歳代の若い洗濯婦で一児の母親である女性が、職場の同僚ヴァイオレット・ミラーに誘われて、徐々に主体性を持った運動家に育っていくプロセスを描きながら、1912年から13年にかけての婦人参政権運動を描く、この頃、彼女たちは、政界やマスコミ、そして多くの国民の関心を高めるために、投石、放火などの実力行使に訴えたが、そうした流れを史実にかなり忠実に描いているようだ。

イギリスの婦人参政権運動がパンクハースト家のような上流階級、あるいはミドルクラスだけでなく、モードのような女性を多く巻き込んでいたとしたら、この運動には階級闘争的な面もあったということだろうか。劣悪な洗濯工場で、体を壊したり、怪我をしたり、監督の男性の性暴力に苦しんだりしつつ、日々長時間労働を強いられていたモードやヴァイオレットの様子は、まさに囚人の暮らしであり、20世紀になっても、ディケンズの時代とさして変わらない状況が続いていたことがうかがえる。更に、モードは学校にもろくに行っておらず、十代前半から洗濯婦として働き始めていた。彼女の夫ソニーも同じ工場で働いており、2人には男の子がひとりいて、モードにとっては唯一生きる喜びになっていたが、そうしたささやかな幸福も、彼女が運動に加わることで大きな打撃を被ることになる。また、登場する運動家の中には下院議員の妻アリス・ホートン、妻の運動に理解ある夫と共に薬局を営むイーディスなどもいるが、色々な階級の女性たちが、女性の解放の為に協力して立ち上がっている様子を描こうという意図だろう。下院議員の妻であるアリスでさえ、その自由と体は夫の所有物である。伝わってくるメッセージは、参政権の獲得なくしては、あらゆる階層の女性を隷属状態から解放出来ないということだ。

警察の特殊部隊による活動家のリストアップと監視、警察官による暴力、尋問や懐柔策など、リアリティーがあり、今も昔も、そして洋の東西を問わず変わらないなと思った。70年安保前後の、新左翼の活動家達の経験も思い出した。

私はキャリー・マリガンの舞台や映画、テレビ・ドラマなどを見た記憶がなく、多分これが初めてだと思うが、非常に良い印象を持った。監督や制作者の意図もあると思うが、メークをほとんどつけてない(ように見える)顔で、ワーキングクラスの洗濯婦を自然に演じることが出来ていた。成長する運動家のたくましさも、そして、運動のなかで、妻として、母親として悩む様子も上手く演じていた。それ以外の女優陣も豪華。特に、私にとって主役以上に印象的だったのは、ヴァイオレットを演じたアンヌーマリー・ダフ。舞台で何度か見た女優だが、彼女の台詞と表情の雄弁さにはいつも感心する。ヘレナ・ボナム・カーター、ロモラ・ガライなど、脇役の女優陣も演技達者。カメオで、メリル・ストリープがエメリン・パンクハーストを演じたのも、はまり役だったと思う。

衣装、セット、そしてロンドンの通りの様子など、実に良く出来たピリオド・ドラマになっている。スタッフの熱意と徹底したリサーチがうかがえる。スターを目立たせて彼らの人気で客を集めようとする映画ではなく、飽くまで女性参政権運動家達を描きたいという制作者達の意図が感じられた。そうした作品だからこそ、女優達がより一層輝いて魅力的に見えた。

この映画では、戦闘的な女性参政権運動に焦点を当てているが、これ以外にも、ミリセント・フォーセットに率いられたサフラジスト(Suffragists)と呼ばれる穏健なグループもあり、議会へのロビー活動を通じての政治参加への模索も行われていた。自由党、労働党、労働運動や知識人達との関係など、女性参政権運動にも多様な顔があった。そうした点はこの映画では分からないが、2時間に満たない作品に大局的な視点を求めるのは無理な注文だろう。私も知らないことばかりなので、この映画をきっかけにして、もう少し映画の背景を学んで見たいと思った。先進国の中では、両性の平等に関して極めて保守的で、家父長的であり、「フェミニズム」という言葉がしばしば揶揄される日本においてこそ、特に若い女性達にこの映画を広く見て、考えて欲しいと思う。ちなみに、モードの夫役として、日本人女性にかなり人気のあるらしい(?)ベン・ウィショーも出演。彼が出ているという理由だけでこの映画を見る女性にも、映画のメッセージが心に響くと良いが。

なお、この映画に描かれた時代は第一次世界大戦直前。大戦後、戦争中の女性による社会の多様な職域での活躍が評価されて、1918年には人民代表法 (Representation of the People Act〉が制定され、30歳以上の女性の多く(地位や財産に制限あり)に選挙権が認められ、28年には21歳以上の全ての男女に選挙権が認められるようになった。(なお、この1918年に初めて男子普通選挙権も認められた。それまでは、戸主選挙権であったが、すべての21歳以上の成人男子に認められるようになった。)イギリスにおける女性解放の歴史上、暴力を含む実力行使を行ったサフラジェット達がどれだけの役割を果たしたかは議論が分かれそうだが、それを考える上でもこの映画は見る価値がある。忘れてならないのは、投票などの民主主義の最低限の権利は勿論、平和的なデモでさえも弾圧されていた時代だったということだ。つまり、アパルトヘイト時代の南アフリカにおける黒人達やANCの状況と似ている。そういう状態で、女性たちが延々と平和的手段だけで運動を続けることに意味があったのか疑問であり、実力行使は起こるべくして起こったと言える。

写真は、エメリン・パンクハースト(写真の出典はこちら)。

















[2016年9月14日追記]
この映画、日本公開が決まったようですが、その邦題が『未来を花束にして』。宣伝方針としては、原作の政治色、フェミニズム色を出来るだけ消して、きれいな女優さんたちが、時代の荒波に揉まれつつも、けなげに頑張る昔の女性を演じました、というところでしょうか。日本社会の家父長的な性格を示すなんとも皮肉な題名となりました。

2016/03/09

【イタリア映画】「ローマの教室で—我らの佳き日々—」 (2012年)

監督:ジョゼッペ・ピッチョーニ

出演:
マルゲリータ・ブイ (ジュリアーナ)
リッカルド・スカマルチョ (ジョバンニ)
ロベルト・ヘルリッカ (フィオリート)

☆☆☆☆ / 5

先日WOWOWで放送されたのを録画しておいて見た。気楽に楽しめる学園ドラマ。

ジュリアーナはローマの公立高校の校長。なかなか素敵な先生。彼女の高校へ新しい補助教員のジョバンニが着任する。金八先生みたいに肩に力は入ってない、自然体の若い男性だが、新任なので、それなりにやる気はある。彼を迎えるのはベテランの美術史(そんな授業があるのか、とちょっと驚く)の先生、フィオリート。この先生がまだ定年になってないの?と思うくらいのお爺さん。彼は哲学や文学にも詳しいようで大変なインテリだが、とてもシニカル。やる気のない生徒達に本気で教えても無駄、というような事をしばしばジョバンニに言う。彼自身、生きる希望を無くしているようで、惰性で仕事をしている。しかし、こんな教師だったら、思春期の難しい子供達をコントロールして、授業を成立させることは不可能だと思うんだけどね。

この学校は公立なので、色々と問題を抱えた子もいる。家庭に問題があり、また授業をしばしばさぼってかなり年長の男と付き合っているアンジェラ、母子家庭だが母親が出ていって帰ってこない男の子や、真面目な優等生だけど、自己破壊的なガールフレンドと付き合って大問題を起こす男の子など、色々いる。勉強だけじゃなく、これらの子供の家庭問題とか精神的問題の対応に奔走するジョバンニやジュリアーナの苦労と喜びを描く。

あまりシリアスじゃなく、大人も子供も、皆「まあ、どうにかなるさ」みたいな雰囲気を持ちつつ生きているところが良い。イタリア映画らしさかしらね。そして、かなり散文的で、特にエモーショナルなドラマにするわけでもなく、子供達のエピソードもあまり詳しく説明されないまま終わったりしているところも、かえって自然で良い。

突拍子もない、ピントの外れた老教師フィオリートは、突然大昔の卒業生から電話がかかってきて、大変な敬愛の言葉を受ける。この卒業生が非常に魅力的な大人の女性。2人は師弟のような、でも少しは恋人のような間になる。おかげで、立ち枯れた老木が突然蘇って、生きる喜びを感じ、授業でも熱弁をふるうようになるところが微笑ましい。私のような老人男性からみると、ありえないファンタジーだが、まあファンタジーとして楽しめた(^_^)。

魅力的な校長先生ジュリアーナは、母親に家出され、自分も病気になって入院する男の子を、まるで息子のように世話をする。実の母子のようになっていく2人の様子も心温まる。

アルバイトに出かけて、へとへとになって帰宅した後に見たのだが、とても癒やされた。

2016/02/20

【講演】 杉山博昭 「ルネサンス期イタリアの聖史劇について」 の感想

(日時・会場)2016年2月19日 19-21時 早稲田大学戸山キャンパス
(講師)杉山博昭(早稲田大学高等研究所、助教)
(開催団体)観客発信メディアWL(ダブル)、来たるべき田楽研究会、共催

標記の一般向け講演会に行ってきた。質問時間を除いても100分くらい、様々な面にわたってフィレンツェの聖史劇のお話を堪能した。フランス中世劇については、ある程度本を読んだことがあるが、イタリアの聖史劇については、今まで何一つ知らなかったので、大変勉強になった。講師の杉山先生は修士で美術史を専攻されたそうで、特に、演劇と美術との関連に詳しい講演内容。沢山の絵画、ステージの再現模型の写真、イタリア現地の建築物の写真などを見せていただき、まるで美術史の授業を聞いているようだった。フラ・アンジェリコやボッティチェッリなど、イタリア絵画の巨匠の名作には、演劇の影響がかなりあるらしいと分かった。

講演内容について、講師の許可なしに具体的に詳しく書くのは、マナー違反になりかねないが、折角の貴重な機会だったので、イングランドの聖史劇との比較など、私の感想を中心に特に興味を引かれた点などメモしておきたい。

今回の演題は分かりやすいようにか、「・・・イタリアの・・・」となっているが、イタリアはひとつの独立国家ではなかったので、今回取り上げられたのはフィレンツェの聖史劇。それも15世紀、主に共和制時代に栄えたのだそうだ。というと、最近日本でも展覧会が相次いで開かれているボッティチェッリなど、イタリア・ルネサンス絵画の巨匠が活躍した時代と場所である。そうした絵画で描かれた天使とか聖書の人物や情景の多くが、演劇のシーンと非常に似通った面があるそうだ。美術と聖史劇の関連は、英米の聖史劇でもかなり研究されてきたが、何しろ宗教改革を経たイングランドの教会や大聖堂は白塗りされたり、削られたりして、ほとんど壁画が残っていない。イングランドの演劇と比較する場合、石膏(alabaster)の彫刻や写本の絵、ステンドグラス、そして、大陸諸国に残る絵画などが使われてきたが、イタリアはその点で、教会の壁画などとして圧倒的多数の絵画が残存しており、羨ましい。

フィレンツェでは、聖史劇が、野外だけでなく、聖堂の内部でも行われ、それらの聖堂の一部は今も現存するそうだ。聖堂内の身廊(入り口から中央までの一般信徒が入れる部分)と内陣(中央から、その奥の聖歌隊席や祭壇など、教会関係者のみ入れる部分)を仕切る壁(英語では’screen’とか’rood screen’)の高い部分で、演技が行われたらしい。こうした場所が残っているおかげで、上演の様子も具体的に再構成しやすいようだ。イングランドでは、教会の建物内部では、ラテン語の宗教儀式の一種である典礼劇は行われたが、英語やフランス語など俗語の劇が行われることはなかったようなので、違いに驚いた。

一方、野外の上演では、山車が使われたのは、イングランドと同様である。山車の行列は非常に重要な要素で、人々の人気を集めたスペクタクルだったようだ。これは日本のお祭りの山車とも共通する。但、講演を聴いた限りでは、実際の上演は町の中心部、ベッキオ宮殿の前のシニョリーア広場に山車が集結して並び、そこで行われたらしい。町の色々な場所で個別の山車が上演を行うというような事はなかったのだろうか? 日本のお祭りの山車は(例えば石川県小松市)、一同に集合して芸能を上演することもあるが、町の各所で踊りや歌舞伎を披露したりもする。イングランドのヨークでは、街頭の12の上演カ所(’stations’)が使われた、という15世紀初期の記録がある。山車がどのような形状をしていたと推測されるのか、動かすためにはどうしたのか(馬、人力?)など、聞いてみたかった。

俳優等について興味深かったのは、フィレンツェでも女性は登場しなかったと言うこと。女性役は少年が演じたようだ。この辺は、日本も含め、色々な国で共通する。そうした少年達は、性的な興味の対象にもなったとのこと。これも、イングランドや日本の女役と似た面がある。但、中世イングランドでは、地方では一部に女性が使われたという記述もあり、けして全国的に権力で女性の演技を禁じていたわけではなさそうである。その後、16世紀末から17世紀、商業演劇の時代になると、イングランドでも女性は絶対にステージには登れなくなる。その頃、フランスでは女優が使われていたそうだ。中世から17世紀末あたりまで、女優の存在や、女役の担い手について、西欧各国の事情を時系列でまとめて紹介すると面白そうだ。

フィレンツェの聖史劇は15世紀が最盛期で、その後廃れたようだ。プロテスタントに変わったイングランドよりも早いくらいだ。ギリシャ・ローマの古典劇の再興や活版印刷の隆盛などが関係があるようなことをちょっと言われていたが、時間が許せば廃れた理由も詳しく聞きたかった点。でも一度の講演では何もかもというわけには行かない。

他にも色々と面白い事があったが、上記の様に、あまり詳しく書くのはマナー違反になる怖れがあるので、このくらいにしておこう。杉山先生の研究については、ご自身が早稲田大学高等研究所のウェッブサイトで語っておられるので、関心のある方はそちらを参照してください。

更に詳しくは、若くして既に大冊の研究書を出版しておられるので、そちらを参照:『ルネッサンスの聖史劇』(中央公論新社、2013)

資料、スライド共に良くまとまっており、話も色々な興味深いエピソードを交えてお上手だった。才気煥発を絵に描いたような若手学者で、今後も大いに活躍されることと思う。私も教えられる事ばかりだった。

(追記) 今回、検索して始めて気づいたが、2014年7月に表象文化学会の企画パネルとして、「杉山博昭『ルネッサンスの聖史劇』を読む」という催しがあったそうで、その報告が表象文化学会の"REPRE" 22号に掲載されている。司会はフランス聖史劇研究の黒岩卓先生。学会のパネルであるから、それぞれの発言はかなり専門的で、私にもちょっと難しい。

2016/02/13

「英国の夢、ラファエル前派展」(Bunkamura ザ・ミュージアム)

2月13日、Bunkamura のラファエル前派展に行ってきました。ラファエル前派の展覧会は人気も高いし、日本でもしばしば開かれてきたと思います。今回の特徴は、有名なテー ト・ギャラリーなんかの作品と違い、リバプールの国立美術館からの作品が中心となっていること。従って、私は特にラファエル前派に詳しい訳ではありません が、美術展で見たことがなく、また画集などでも覚えがない絵がほとんどでした。そういう意味では貴重な展覧会だし、行く価値があります。ただ、テートなん かの絵と比べると、小品や、私にはあまり説得力の感じられない絵が多いかも・・・?まあ、日本まで持ってくることが出来る絵というと限られるでしょうからね。

展覧会の最初に、ジョン・エヴァレット・ミレーの絵が何点かあるのですが、私はそれらが一番好きです。美しい!私は、ミレー、好きですね。今回、 自分で特に気づきました(^0^)。ミレーの描く女性や自然の美しさ、何とも言いがたいです。「春(リンゴの花咲く頃)」という作品が特に印象に残っていま す。私が特にミレーが好きなのは、題材が中世だったりしても、描かれているのは19世紀のイギリス人だからですね。ヴィクトリア朝の美人画です。着ている ブラウスなんか、今でもよく見るような花柄だったり。展示の最初に掛けてある絵「いにしえの夢—浅瀬を渡るイサンブラス卿」に描かれた騎士、イサンブラス卿も、顔だけ見るとよく見るような、孫を連れたイギリスの老紳士。その他のミレーの絵も、存分に楽しめました。展示の最初がクライマックス!

その他では、バーン=ジョーンズの「スポンサ・デ・リバノ(レバノンの花嫁)」という、旧約聖書の雅歌から題材を取った大作があり、素晴らしい作品でした。同じく彼の「フラジオレットを吹く天使」はまるでルネサンスのテンペラ画。ボッティチェリみたいで、きれいです。

ウオーターハウスの「デカメロン」、チラシになっている絵ですが、これも物語性が感じられて良いですね。夢中で話に聞き入っている女性達の表情が素敵です。

美術館のサイトに詳しい解説あり

2016/02/10

【テレビ番組】NHK ETV、ハートネットTV 「待ちわびて—袴田巌死刑囚 姉と生きる今—」

ハートネットTV「待ちわびて—袴田巌死刑囚 姉と生きる今—」 2016年2月9日午後8時放送

最近もETVの福祉番組「ハートネットTV」で、良い企画が続いている。2月9日は、死刑囚だが、2014年3月に刑の執行と拘禁が停止されて、釈放された袴田巌(はかまだ いわお)さんのドキュメントだった。30分の番組だし、福祉の番組であるから、冤罪が生まれた経緯などは触れられず、袴田さんが50年近い死刑囚としての拘禁生活の中で、如何に精神をむしばまれてしまったか、今、どうされているか、を淡々と映していた。

番組ホームページ

彼は、いつやって来るともしれぬ死刑におののきながら生きていたが、拘禁生活が20年以上経った頃から、妄想に襲われるようになり、現在に至るまで、支離滅裂な、常識では判断できない言葉を放ちつつ生きておられる。釈放の後、3ヶ月ほど精神病院に入院されたが、その後は自宅で暮らしている。穏やかな人で、お姉さんの暖かい愛情に包まれた、静かな毎日を過ごされているようだ。時々、勝手に出かけて、いつ帰ってくるか分からないところは認知症の人みたいでもあるが、必ず、お姉さんの待つ家に帰ってくる。饅頭や菓子パンが好きらしく、一万円札出して、菓子パンを一度に20個くらい買っているシーンが出てきて、微笑ましかった。そういうことなど、お姉さんは刑務所に入っていた間に出来なかったことを、なるべく彼の思うようにやらせたいと言われている。

このお姉さんが凄い。彼の事を思いつつ亡くなられた母親に代わって、自分が弟の母となって、独身を貫きつつ、彼の冤罪を晴らすために一生を費やし、今は、彼の病んだ心が徐々に快復していくのを待ち続けている。実の母親でもなかなか持てない深い愛情と、強い精神の持ち主である。

それにしても、袴田さんは釈放後も依然として死刑囚である。それは、検察が静岡地裁の判断に不服を唱えて、すぐに即時抗告を行ったからだ。つまり、袴田さんは、理論的には、再度収監され、死刑が執行される可能性させ残されているわけだ。但し、あの高齢で、しかも検察側の論拠は今やずたずたの有様らしいから、まずそういうことは起こらないだろうけれど。検察官達は本当に今でも袴田巌さんが有罪と思っているのだろうか?裁判とは真実を明るみに出して、罪を犯したことが疑いようのない人には罪を償わせ、そうでない人は釈放するべき仕組みであるはず。英語で言うと、"beyond reasonable doubt" ということになるはずだ。ところが、日本の司法では、一旦判断が下されると、検察も裁判所も決して過ちを認めないことが多いように見える。真実が問題ではなく、組織の権威の維持や裁判の勝ち負けを優先しているように見える。その発想は、今になっても、封建時代の「お上」による評定所のようだ。むしろ、捜査や起訴段階での間違いや不十分さを良く検証し、その結果を公開して、今後このようなことが起こらないよう社会の一員として考え努力することこそ、すぐれた組織のすべきことではないだろうか。自浄作用のある組織であると証明することが、市民の尊敬と信頼を生むと思うのだが。

私は近年、中世イングランドの裁判を勉強していて、それが、欠点だらけではあるが、如何に長い歴史と人々の経験の積み重ねから出来た制度か段々分かってきた。イングランドの裁判制度は、基本的に、市民が集まり知恵を出し合って判断するという民主主義の制度の一環として存在し、そのため、陪審員が最も重要な役割を担う。裁判長は法的にわかりにくい点を説明することはあっても、基本的な役割は裁判の司会役にしか過ぎない(その点で、日本の裁判員制度とは大きく異なる)。有罪、無罪を決めるのは別室で相談する市民達である。一方、日本では、長らく市民から遠いところで、職業裁判官、検察官、警察官などの専門家のみによって、犯罪者がベルトコンベヤー式に処理されてきたと言える。日本もやっと裁判員制度が出来て、少しは風通しが良くなることを願いたい。

この番組は、2月16日午後1時5分より再放送があります。

2016/02/06

裁判費用は誰が持つべきか: ディヴィド・ラスバンドさんの死とその裁判

以下、ガーディアン、テレグラフ、BBCなどで読んだ記事の紹介:

2010年に北イングランドのニューカッスル郊外のイースト・デントンで、警察官ディヴィド・ラスバンドさん(David Rathband)は、警察官を狙っている危険な犯罪者ラウール・モート(Raoul Moat}の潜む現場と知らず、銃も所持せずに出動していて、モートに銃で撃たれた。ラスバンドは大怪我を負い、失明した。それ以降、ラスバンドは色々なチャリティ活動などもして立ち直ったかに見えたが、内心は複雑で家庭生活は崩壊していったようで、妻とは別居した。そして、2012年についに自殺。彼の親族は、警察の上司が、そのような危険な現場であることをラスバンドに知らせなかったことで、彼は無警戒でパトカーに座っており、モートから銃撃されるという結果に至ったとして、警察上司の過失(negligence)があったと考え、裁判に訴えた。

昨日2月5日、ニューカッスルの高等法院(The High Court of Justice)は判決を下し、警察には過失がなかったとした。その結果、訴えを起こしたラスバンドの親族は、21日以内に、弁護士料金などの訴訟費用として少なくとも10万ポンド(約1700万円)を警察に賠償することを命じられた。仮払い(interim payment)とあるので、もしかしたら、最終的にはもっと高額になるのかもしれない。

ガーディアンの記事はこれ

ラスバンド巡査の自殺の遠因となった最初の銃撃に関しては、私は詳しいことは分からないが、家族が警察上層部の管理者としての責任を追及するのは無理もないことと思える。しかし、家族が敗訴したからと言って、相手側の1700万円もの訴訟費用をその家族が支払うなんて、夫や兄弟を失った人達にとっては、あまりに酷で、無茶苦茶。それこそ、破産、そして鬱病や自殺さえ引き起こしかねない。まるで中世の裁判だ。実際、これは、中世以来、つまり中世のイギリス王室によって王座裁判所(King's Bench)とか、民事裁判所(The Court of Common Pleas)が成立し機能し始めた13世紀以来続く制度で、訴訟費用の支払いは、負けた側がするという原則に基づいている。一方、日本では、原告も被告も、それぞれが自分達の訴訟費用を払う。アメリカも同じらしい。

イギリスの制度だと、不当な目に遭っている側が勝訴した場合に限れば、訴訟費用も払って貰えるので大変良いが、今回のラスバンドさんの事件のような場合は、傷に塩を塗るようなことになる。お金の無い人は訴訟を諦めさせる仕組みに見えるが、現実には、訴訟費用の多くが、裁判の公的補助(Legal Aidと呼ばれる)、保険金、所属団体の援助(労組など)によって払われているという報告もあり、個人負担が少ない場合が多いようだ。でも今のキャメロン政権は、Legal Aidの予算の大幅削減を予定しており、一般市民の法へのアクセスが大変狭められる、とマスコミでも論議になっている。一方、日本の制度でも、勝っても負けても訴訟費用はかかるので、それはそれで、お金のない一般市民やNGOにとっては訴訟が起こしづらいという問題点は残る。上記のような制度だから、イギリスにおいては、訴訟コストの及ぼす影響が大きな問題になっており、詳細な検討が行われてきたようだ。むしろ日本において、訴訟コストの問題が真剣に討議されていないのが気になる。古いけれど(2003年)、イギリスの訴訟費用支払い制度がはらむ問題に関する日弁連の調査報告書がウェッブで見られる。

私の専門上、大昔の話になるが、中世や近代初期以来、イギリス王室の裁判は、基本的に訴訟に関わった人たちが費用を負担する。当時は、弁護料はもちろん、裁判官や書記の費用までも訴訟を起こした人達から徴収した料金でまかなった。つまり、国家による公的サービスでもあるが、国や地方の領主による営利事業としての一面もある。王室裁判所も色々あるだけでなく、教会や州、荘園も裁判所を持っているので、色々な裁判所が連立し、民事訴訟などを、まるでお客を奪い合う企業のように取り合う面もあった。15世紀の『パストン家書簡集』などを見ていると、同じ訴訟を同時に複数の裁判所で起こすということもしばしば起こった。そういうシステムだから、とにかく資金力を持った人が強い。まあ、これは時代や国を問わず、いつどこでも言えることではあるが。

一方で、今も昔も、小さな犯罪を扱う裁判の多くは、地元の有力者などといった非法律家が、治安判事(magistrate)として審理し、判決を出している(magistrate's courts)。少額の民事訴訟は各地方の州裁判所(county courts)で裁かれ、費用はあまりかからない。また、一般市民も、陪審員としてボランティアで参加している。近代初期くらいまでは、地方の裁判の多くは、謂わば地域の住民集会としても機能してきて、税の徴収とか道路の修理のような行政的な問題も話し合われた。地域の人々が集まって、色々な反社会的行為や、住民間のもめ事を、互いに意見を出し合い、解決する仕組みとも言える。だから、費用も、裁判にかけてもらう側で負担するという発想が出てきた面もある。

裁判というのは、長い歴史をかけて徐々に作られた制度。常識的に見ても色々な問題があり、先進国の間でさえ、国によって大きく違うものだな、とつくづく思う。それにしても、ラスバンドさんの遺族は巨額の訴訟費用を払わされることになるのだろうか。

2016/01/28

森有正の先生、リュシアン・フーレ

哲学者でフランス文学者、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』(筑摩書房、1968)は私の学生時代の愛読書だった。一気に通読するような本ではないが、かけていたカバーがすり切れるくらいたびたび開き、あちこち気の向くままに繰り返し読んだと思う。その後、ずっと読んでなかったが、ふと今日手にとってパラパラめくってみた。 

それで再び思い出したのは、森が個人教授を受け、大きな影響をこうむったのが、古仏語学者として多くの業績を残したリュシアン・フーレ (Lucien Foulet, 1873-1958) だったことだ。森の別の本、『遙かなノートル・ダム』(講談社文芸文庫、2012、初版1983)、の159-160頁にこのフーレ先生のことがやや詳しく書いてある。非常に几帳面な人だったようで、授業の時間にも、5分早くても5分遅刻してもいけなかったそうである。森はこの先生の自宅でモンテーニュの『エッセー』をテキストにして教わっていたらしい。その個人教授の様子が幾分うかがえる次のような一節がある: 

先生からは字句の定義について深い教えを受けたと思っています。この場合、定義というのは、辞書の中に出ている定義ではなく、その言葉によって現実に指されている事物や観念や精神なのです。いいかえれば、唯一の実在である経験の現実態そのものなのです。先生はいろいろな例をとったり、時には御自分で身振りや妙な発声までして、それを伝えようとして下さいました。(160頁)

このリュシアン・フーレという学者、ウィキペディア仏語版も英語版でも説明がない。ドイツ語版では割合短い解説があるのだが、残念ながら私はドイツ語が読めない。それで、他に彼の事を知る手段がないかネット検索で探したところ、ロマンス諸語の学術誌、Romance Philology 13巻1号(1959年)108-110頁に割合詳しい死亡記事があったので読んでみた。彼は中世フランス語文学作品『狐物語』 (Roman de Renard) の研究、クレチアン・ド・トロワの『ペルスヴァル』 (Perceval) の現代語訳、そして、中世フランス語の統語論や語彙に関する多くの著書や研究論文、書誌を残しているようだ。基本的に、中世の文学作品の正確な理解を助けるテキストの確立と編集、そしてそこに現れる文法事項を精密に研究する伝統的なフィロロジスト(文献学者)であったようだ。 

彼はどうして森を自宅で教えていたのだろうか。フーレはグラン・ゼコールの中でも名門の高等師範学校や高等研究院で学んだ後、数年、リセで教えていたが、アメリカ、ペンシルベニア州の名門私立女子大、ブリンマー・カレッジ(Brian Mawr College)で1900年から1909年まで教えた。1909年にはカリフォルニア大学バークレー校に移り、1912年まで勤め、仏文科に大きな足跡を残した。しかし、1912年、彼は健康問題のためにバークレーを辞職し、パリへ戻った。その後はずっとフリーランスの学者、英語で言うところの independent scholar として生涯を過ごしつつ、変わらぬ情熱を研究に注ぎ続けたらしい。ということで、森有正のような学者を個人的に授業料を取って教えていたのだろう。森にフーレを紹介したのは渡邉一夫だったそうだ(『遙かなノートル・ダム』277頁)。

森有正は1948年に東京大学の仏語仏文学の助教授に就任。1950年、39才で、先輩教授の渡邉一夫などに促されて、なかば嫌々パリに研究留学した。しかし、パリで彼は彼の地でしか出来ない勉強に目覚め、1952年、41才にして、東大助教授という日本の人文研究者としては最も権威ある仕事を辞職してパリに留まった。その後彼は55年まで翻訳や通訳などの仕事をして生計を立てたようだ。55年にソルボンヌ大学付属東洋語学校の教師となり、日本語日本文学を教え始める。そうした森だったから、健康問題でバークリーの名誉ある仕事を失ってフランスに帰ってからも、自宅で営々と研究に励むフーレには共感し、深い敬意を払っていたのだろう。

これに関連した文章として、森は『バビロンの流れのほとりにて』に収められている「流れのほとりにて」というタイトルの文章で、芸術や思想の追及が、一方で展覧会とかコンクール、他方で大学教授の職といった世俗的野心と結びついていることを嘆き、自分がそういう生き方と袂を分かって、パリにおいて思想を深める決意を表明している:

・・・芸術とは、一箇の人間が、人間として深まり、普遍の影を映すようになったそのものだ。だからそれは、本質的に、展覧会や、コンセールや、コンクールや、フェスティヴァルや、雑誌などとは何の関係もないものだ。芸術は今日、何とゆがめられつくしていることだろう。元来名誉とは何の関係もないものが、むしろ旧い名が死んで本当の、無記名の名の誕生にまで延びてゆくはずのものが、顚倒され、旧い名と名誉とのための道具となってしまっている。スポーツや博覧会と本質的に同じものにされてしまっている。思想は大学教授とは何の関係もないものだ。それが大学教授になるために研究され、論文にまとめられている。自分としては、おそらく人間そのものの唯一の道と思われるものがこのようになっていることに、嘆かないでいられようか。しかし僕は、そういうことから離れて、自分の道を行きつくすまで歩いて行かなければならない。この嘆きをも忘れなければならない。自分の道を進むことが唯一絶対のことなのだから。また時の流れは一度しか経過しないのだから。そして経過した時は絶対にとりかえせないのだから。(176-77頁)

この文を森は1957年、留学して7年目、46歳の時に書いている。私は森の哲学的な、あるいは比較文化的な思索などにそれ程関心があるわけではない。それでも今も昔も彼の書き物に引かれるのは、この世俗を忘れて学問に専心しようとする純粋さ故だろう。その意味で、リュシアン・フーレにも興味を持った。

最後に、リュシアン・フーレの主要な著作を挙げておきたい。

A Bibliography of Medieval French Literature for College Libraries, with Albert Schinz and Georges A. Underwood, (New Haven, 1915)

Petite syntaxe de l'ancien français  (Paris 1919)

Le Roman de Renard (Paris, 1914)

(edited) La Chastelaine de vergi : poeme du xiiie siecle  (Paris, 1921)

(translated) Chrétien de Troyes, Perceval le gallois ou le conte du graal (Paris 1947)

亡くなられて半世紀以上経つというのに、今でも新本や古書で手に入る本ばかりだから凄い。Petite syntaxe は以前名前は聞いたことがある。多分、古仏語学習者には良く知られたロング・セラーなのだろう。専門外ではあるが、そのうちどれか一冊買い求めて覗いてみたいと思っている。

2016/01/21

【アメリカ映画】 『ショート・ターム』(”Short Term 12”) (2013年)


監督・脚本:デスティノ・ダニエル・クレットン
制作:マレン・オルソン他
音楽:ジョエル・P・ウェスト
撮影:ブレット・ボウラク

出演:
ブリー・ラーソン (グレース、施設の職員)
ジョン・ギャラガー Jr. (メーソン、施設の職員、グレースのパートナー)
ラミ・マレック (ネイト、施設の新米職員)
キース・スタンフィールド (マーカス、施設に収容されている子のひとり)
ケイトリン・デヴァー (ジェイデン、同じく収容されている子)

☆☆☆☆ / 5

先日WOWOWで放送され、録画しておいて見た。

大変良く出来た、心温まるヒューマン・ドラマ。ほとんどのアメリカ映画に興味を持てない私にも久々に楽しめた作品。大変シリアスな問題を扱いながらも、アメリカ映画らしく救いを描くことも忘れず、ちゃんとエンターテインメントにもなっている。そこが甘い、と言えるかも知れないが、勿論こういう映画もあって良い。

映画は、問題を抱えた10代の子供達を預かるグループ・ホーム(その名称が Short Term 12)を舞台にしている。この施設を取り仕切っているのは、グレースとメーソンという30才弱くらいの若いカップル。親に捨てられた子、何かの知的あるいは精神的障害のある子、行き場のない子、虐待に遭った子、色々なタイプの、雑多な問題を抱えた十数人の子が収容されており、4人の職員が面倒を見ている。そのうち、物語の中心になるのは、黒人の男の子、マーカスと、白人の女の子、ジェイデン。マーカスは18才になっており、間もなく施設を出て外の世界に放り出されるので、精神的に大変不安になっていて、それをまわりにぶつけてトラブルを起こす。一方、ジェイデンは父親から離れてここに入ってきたが、シリアスなトラブルを抱えている。

一方、施設員のグレースやメーソンもそれぞれ不幸な生い立ちを背負い、特にグレースはその心の傷から立ち直っていない。子供達の世話をしつつ、自分の中に潜むトラウマに苦しんでいる。

これ以上書くと、もしかしてこれから見る人の興味を著しく削ぐことになるので、これでやめておく。

映画の撮り方は、時としてまるでテレビのドキュメンタリー番組のよう。それが作品の内容に上手く合致している。監督で脚本も書いているデスティノ・ダニエル・クレットンは以前、実際にこのような施設で働いた経験があり、それを元に作品を構想したようだ。グレースを演じるブリー・ラーソン、ジェイソンのケイトリン・デヴァーのふたりが大変印象的な好演。

低予算のインディー映画だそうだが、批評家や映画ファンに支持されて、多くの賞を取ったそうだ。なお、この映画の主役、ブリー・ラーソン(Brie Larson)は、2015年のゴールデン・グローブ賞を取り、アカデミー賞でも4部門でノミネートされている映画 ”Room” の主演女優でもある。

2016/01/15

アラン・リックマン、亡くなる。

1月14日、イギリス人俳優、アラン・リックマンが癌で亡くなった。先日亡くなったデヴィド・ボウイ同様、69才だった。

彼は素晴らしい古典的な俳優であるのは勿論、演出家としても力量のある人だった。残念ながら、私は彼の名演を直接ステージは見ていないと思う。彼は、RADAを出た後、バーミンガム・レパートリー劇場やロイヤル・シェイクスピア・カンパニーなどで、古典劇に多く出演して、俳優としての技術を磨き、また、舞台愛好者の間では良く知られた人だったようだ。壮年になってから、ブルース・ウィルス主演の『ダイ・ハード』やケビン・コスナー主演の『ロビン・フッド』などのハリウッド映画の悪役でも有名になり、その後、ハリー・ポッター・シリーズで、世界的な大スターとなった。私は、彼の好演で評判を取ったカワードの『プライベート・ライブス』 (2001) の頃、イギリスに居て、そうしようと思えば見ることは可能だったのだが、残念ながら出かけておらず、大変後悔している。

しかし、彼の演出したストリンドベリの戯曲『債権者』(Creditors)を、2008年の秋、ドンマー・ウェアハウスで見ることが出来たのは幸運だった。しっかりした俳優の演技に支えられた台詞劇だったという印象が残る。リックマンは、この劇で主演したトム・バークの名付け親だったそうだ。

私個人は、彼の出た映画はあまり見ていないが、アイルランド独立運動の英雄を描いた映画『マイケル・コリンズ』(1996)で、後に大統領になるエイモン・デ・ヴァレラを演じたのが強い印象に残っている。

彼は、蜷川の『タンゴ、冬の終わりに』のロンドン公演にも、リンゼイ・ダンカンと共に主演している。また、小さなフリンジの公演も頻繁に見に行って若い俳優を励ましたり、貧しい俳優を支援する団体を運営するなど、演劇人を育てることに熱心だった。そうした彼の演劇人としての活動について、マイケル・ビリントンがふり返っている。

彼は、個人生活では、元労働党所属の国会議員で、ロンドン郊外にあるキングストン大学の経済学の講師でもあるRima Hortonと結婚していた。結婚したのは2012年だが、ティーン・エイジャーの頃からのパートナーだったそうだ。更に彼自身も労働党党員で、リベラルな文化人として積極的に活動や発言をする人だったようだ。彼の友人だった、ガーディアンのチーフ・エディター、キャサリン・バイナーが、彼の人柄を述べている

人気があるとか、映画界のスターだとか言うことを越えて、彼は本当にすぐれた技能を備えた演技者であり、また多くの人に愛されたリベラルな文化人だった。

2016/01/12

【イギリス映画】 ケン・ローチ監督作品、『この自由な世界で』("It’s a Free World . . ." 2007 )

『この自由な世界で』(It’s a Free World . . . )
2007年イギリス映画(資本は、英、伊、独、ポーランド、スペイン) 
96分

監督:ケン・ローチ
脚本:ポール・ラヴァティー
制作:レベッカ・オブライエン
音楽:ジョージ・フェントン
撮影:ナイジェル・ウィロビー

出演:
カーストン・ウェアリング (アンジー)
ジュリエット・エリス (ローズ、アンジーのビジネス・パートナー)
レズワフ・ジュリック (カロル、移民労働者)
ジョー・シフリート (ジェイミー、アンジーの息子)
コリン・コフリン (ジェフ)
レイモンド・マーンズ (アンディー)

☆☆☆☆ / 5

WOWOW でやっていたので、録画して見た。イングランドを代表する左翼、社会派の映画監督、ケン・ローチの作品。世界中で今最も重要な問題のひとつ、移民労働を正面から扱う。更に、非正規雇用で、一日単位、時間単位で雇われる不安定な労働が、労働者の心を、そして社会全体をどう蝕んでいるか、錐で刺すように我々に問いかける。救いがないようにも見えるが、イギリスの、そして、日本の現実を良く反映している。

(粗筋)アンジーは30才代のシングル・マザー。小学生の息子ジェイミーを両親に預けて、フルタイムで働いているが、仕事は不安定なものばかり。既に30回くらい転職を繰り返し、しかも多額の借金を背負っている。映画の始まる時点では、労働者派遣会社の社員として、ポーランドにリクルートに行き、イギリスに行きたい現地の労働者を面接している。言われたとおりに懸命にやってはいるが、男性上司や同僚達にセクハラに遭い、癇癪を起こして酒を相手にぶちまけた。そうしたことが災いしたか、ロンドンに帰ると解雇を言い渡される。もうこれ以上こんなことやっておられない、と思ったアンジーは、コールセンターで働くフラットメイトのローズと一緒に、労働者斡旋会社を始めることにする。これまでに充分にあくどい手口を学んできて、この業界で泳ぐ手立てを学んだからだ。知り合いの工場主などに話をつけ、時間単位でどんな仕事でもやれる労働者を安く仕入れてくる、と約束し、東欧などからの出稼ぎ労働者を集めて送り込む。しかし、税金も払っておらず、斡旋業を始めるための免許も持っていない。それでも金がどんどん入ってきて新しいきれいなオフィスも手に入りそうだ。アンジーは仕事に没頭していくうちに、合法と違法のすれすれの境界線を大きく踏み外しかねない事態に・・・。

昔から、そして世界中、どこにでもある話だ。アンジーは、物語の始まる時点で、既に精神的にも金銭的にも四面楚歌の状態。延々と続く不安定労働。男社会の中でセクハラを我慢する日々。働いても借金は増えるばかり。両親からは、母親としてもっとしっかりしろと咎められ、息子は学校でいじめられ、喧嘩して親も呼び出される・・・。しかし、彼女はエネルギッシュで、自分で運命を切り開こうというガッツはあり、それまでに苦い目に遭ってきた業界のルールを逆手にとって、「起業」するわけである。それぞれの個人がその才覚を活かして、成功をつかまねばならない、「この自由な世界で」(”It’s a free world”)。

しかし、彼女が踏み込んだ労働者派遣の世界は、人を商品として扱って売りさばく、謂わば奴隷市場。安い労働力を仕入れるためには非合法の移民にも手を出す。一方、劣悪な労働環境や多額のピンハネを強いられる労働者の方も必死だ。「グローバル化」や「規制緩和」のかけ声の下で今の世界で何が起こっているのか・・・遠いイギリスだけのことではなく、今日の日本に突きつけられている問題でもある。まともな経営者や農家等は、アンジーの世話するような労働力には直接手を出さないかも知れないが、二次、三次の零細下請け、不渡りを出しそうな会社、人出がなくて、折角の作物を腐らせそうな農家、等々、切羽詰まった雇用者の中には、どんな事をしてでも難しい時期を乗り切りたい、という人がいても不思議では無い。そうして、そうした必死の人々の弱みを利用する悪徳業者やギャング(日本ではやくざ)。アンジーも、自分が弱い立場にありながら悪徳業者の仲間入りをし、弱者が弱者を傷つけあい、食い物にしあう死にものぐるいの生存競争に参加する。

ケン・ローチの飾り気のない、いささか散漫とも言える撮り方がかえって生々しくて、こういう内容の映画にぴったりだ。アンジーを演じるカーストン・ウェアリングは、どこかで何度も見た俳優だと思っていたが、イギリスの長寿ドラマ ”Eastenders” のレギュラーだったそうだ。庶民的でエネルギッシュ、いつも必死のシングル・マザーを好演しており、見応えがある。強いて難を言えば、イランから逃れてきた難民のの4人家族とか、ポーランド人のハンサムな若者カロルとか、人間ドラマがもっと膨らませられそうな素材があったのに、時間が短くて、簡単にしか描かれていないのがやや残念。