2016/09/11

Kawai Project 公演 『間違いの喜劇』(2016.9.10、あうるずすぽっと)

『間違いの喜劇』
Kawai Project 公演
観劇日: 2016.9.10   14:00-16:00
劇場: あうるずすぽっと

演出: 河合祥一郎
原作: ウィリアム・シェイクスピア
美術: 平山正太郎
衣装: 月岡彩
照明: 富山貴之
音楽: 後藤浩明

出演:
高橋洋介 (アンティフォラス、兄と弟の二役)
梶原航  (ドローミオ、兄)
寺内淳志 (ドローミオ、弟)
原康義 (イジーオン、シラクサの老商人)
岩崎加根子 (エミリア、エフェソスの女子修道院長)
チョウヨンホ (エフェソスの公爵)
多田慶子 (エイドリアーナ)
沖田愛 (ルシアーナ)
中山真一(ヴィオラ・ダ・ガンバ演奏)

☆☆☆ ☆/ 5

今日は東大のシェイクスピアの権威、河合祥一郎先生の主宰する劇団 Kawai Project の『間違いの喜劇』をマチネで見てきた。最近私は観劇から遠ざかっていて、この劇も行く予定は無かったのだが、行かれるはずだった知人が風邪を引いて熱を出し寝込んでしまい、急遽当日になってピンチヒッターで行くことになった。おかげさまで、良い上演でかなり楽しめた。その知人に大いに感謝したいが、早い快復を祈ります。

さて『間違いの喜劇』はシェイクスピアの初期の劇のひとつと考えられていて(1590年前後)、原作は古代ローマの喜劇作家のプラウトゥスの作品『メナイクムス兄弟』。古典劇の形式に則り、劇の時間と実際の時間が同時進行という形式を取っている点も興味深い。主人2人と彼らの召使い2人という二組の双子が、幼い頃に航海中の嵐で生き別れ、互いを知らぬままそれぞれエフェソスとシラクサという遠く離れた異国で育ち成人するが、ある時偶然にエフェソスで出くわす。しかし本人達も、周囲の人々も、更に偶然再会することになる彼らの両親(イジーオンとエミリア)さえ、お互いを知らない、ということから、見分けの付かない双子を取り違える人々が続出し、様々の「間違いの喜劇」が起こる、という案配。

シラクサはイタリア南部のシチリア島の古代都市、エフェソスは現トルコ共和国、小アジアの西にある古代都市。古代地中海文明と、大航海時代のヨーロッパが劇の中でぴったり重なる。都市の為政者たる公爵による謂わば即決裁判(summary justice)、修道院への避難(asylum)、商業、貿易、金融などのモチーフが顔を出すのも時代を映して興味深い。そして、嵐による離散と再会、死んだと思っていた人の再生、双子が原因のひと違い、嫉妬からの怒り、その他、考えて見ると、その後のシェイクスピアの名作の種が一杯に詰まった作品。

シェイクスピア学者らしい、奇をてらわぬ、大変オーソドックスな演出だった。スターのいない俳優陣、限られた費用を使っての衣装やセットなど、制限は多かったと思うが、シェイクスピアの楽しさ、奥深さを知り尽くした演出家と、ベテランの名演や懸命の若手に支えられ、シェイクスピア作品の中では凡作とも言える劇が充分楽しい上演に仕上がったと思う。双子故の人違いによって起こるドタバタ喜劇なんだから、結構笑いが欲しいところなんだが、何しろ観客が私みたいな、河合先生の高名に引かれてやってきた年配の英語教員なんかも多いと思うので、今ひとつ反応が悪いのは気の毒だった。若い人たち中心の観客だったら、もう少し盛り上がっただろう。

アンティフォラスの二役をこなした高橋洋介、なかなかの熱演。二人の人物を良く演じ分けていたが、惜しむらくは、ちょっとやり過ぎという印象。エフェソスのアンティフォラスのほうは、台詞からして、プライドが高く、家父長的で、いかにも町の有力者然とした押し出しというのは分かるが、台詞に凄みをつけるあまり、ヤクザの親分みたいに聞こえるときもあった。ドローミオのふたりは、双子を別々の俳優がやるので、主人達とは逆に、むしろ二人が同じように見えるよう腐心していたようだ。だとしたら、それは成功していたと思う。演技という点では、私には誰よりも印象的だったのは、最初に出て来たイジーオンのこれまでの家族離散の悲しみを述べる独白。文学座の原康義、圧倒的な説得力を持つ台詞回し。上手いの一言で、聞き惚れて、一気に劇に引きずり込まれた。あのモノローグがあるだけで、私にはもの凄く印象が違った。一言一言、はっきり分かるが、適度に緩急と強弱をつけ、台詞の意味を最大限に引き出していた。上手な新劇俳優の良いところを見せつけられた。一方で、対照的に、締めくくりのエミリアの台詞は、ゆっくりすぎる。勿体付けた感じで、俳優が名台詞に酔っているという印象を与えるような表現。最後の場面だけに大変残念。その他の俳優では、エイドリアーナを演じた多田慶子は大変上手だった。沖田愛は可愛い妹役にぴったりだし、チョウヨンホの公爵もその身分らしい雰囲気を出していた。

常にステージの左に座って、台詞に合わせた絶妙な演奏をするヴィオラ・ダ・ガンバ演奏の中山真一が、素晴らしい効果を上げていた。ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの公演みたいだった。

全体を明るいベージュ系でまとめた色彩、キャスターのついたパネルを壁に使って自在に動かして見せたり、大小のドアをアクセントにしたりと、工夫の感じられるセットも良かった。

蜷川幸雄が2005年にこの劇を埼玉芸術劇場でやったようで、私も見た記憶がある。私がブログを書き始める前なのでメモもなく、細かい事はすっかり忘れてしまったが、オール・メール・シェイクスピア・シリーズの1本で、小栗旬がアンティフォラスを二役、高橋洋がドローミオの二役をこなしたようだ。私がはっきり覚えているのは、下がるズボンを何度も何度も引き上げながら台詞を言う高橋洋のドローミオの「くさい」演技。ああいった泥臭さが蜷川演出らしい、と思った。私は、ネクスト・シアターからのたたき上げの高橋に好感を持っていたので、その後、蜷川と軋轢があったのだろうか、彼の作品に全く出して貰えなくなったのは大変残念。でもテレビや映画の脇役で、俳優として仕事を続けているようだ。良い俳優さんなので、テレビだけでは勿体ない。小栗旬のアンティフォラスの記憶はないんだけど、どうだったんだろう。若いアイドルとしては、上手な人だとは思うけど、アイドルが出る舞台は、劇場がその俳優を見るために来ている若い女性達で一杯になり、シェイクスピアの劇だというので期待して来ている私にとっては、何故か劇場を満たす熱い期待感がかえって異化作用を産んで、えらく白けるんだなあ(というのはアイドル嫌いの私の愚痴)。でもそうした観客が集まってくださるおかげで、シェイクスピア作品の大きな上演が可能になるのだから、文句を言ってはいけない。ともあれ、今回の公演はそういう点でもじっくり見られて良かった。

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