鑑賞した日:2014.5.17
映画館:ヒューマントラスト・シネマ有楽町
上映時間:約3時間
監督・脚本:アブデラティフ・ケシシュ
原作(コミック):ジュリー・マロ
撮影:ソフィアン・エル・ファニ
出演:
アデル・エグザルコプロス (アデル)
レア・セドゥ(エマ)
サリム・ケシゥシュ (サミール)
モナ・ヴァルラヴェン (リーズ)
ジェレミー・ラユルト (トマ)
ヴァンジャマン・シクスー (アントワンヌ)
☆☆☆☆ / 5
新聞の批評などでも何度か目にしたし、ブログでも、「良かった」と感想を書いている人が幾人かあって気になっていたが、やっと見に行った。”Girl Meets Girl”映画。『ロミオとジュリエット』タイプの”Boy Meets Girl”は、どんなに工夫しても陳腐さから抜け出すのは難しく、”Boy Meets Boy”タイプの映画もかなり作られつつあるが、思春期のレスビアンの恋と生活を描く映画やテレビドラマはまだそう多くはない。この映画が5年後10年後にも今の新鮮さを保てるかは疑問だが、しかし、今の私達(というか、私)にとっては、まだかなり新鮮に感じ、見に行った甲斐があった。但、カンヌでPalme d’Or(最高賞)を取るほど良いかというと、疑問には感じた。
(以下、最後まで筋を書いていますので、これから見る方はご注意)この映画は、時間的に大きく3つのパートに分けられているようだ。最初はアデルが高校生の時のエマとのなれそめ。2番目は、ふたりの同棲時代。そして3番目は同棲が崩れた後のこと。但、この第3のパートも時間的に2つに別れており、最後は謂わばエピローグのような形になっていて、かなりかっちりした作品造りがされていると感じた。順を追って紹介する。
(パート1)アデルは、庶民的な家庭に育った割合普通の女の子。この部分では高校生。同級生からも可愛いと思われていて、上級生の男の子から声をかけられデートし、セックスする。しかし、髪を青く染めた年上の子、エマと道ですれ違ったとき、すぐに惹かれる。その後、友達のゲイの子サミールにつれられてゲイバーに行ってみるが、近くにあったレズビアン・バーにも寄り、そこでエマと知り合って始めて言葉を交わす。ふたりはたちまちお互いに夢中になり、公園でデート。そしてすぐにセックス。若さ溢れる、元気いっぱいの、マット運動みたいな(^_^)セックスシーンが長く続く。エマは美術学校の学生で画家志望。彼女の両親(父親は再婚で義理の関係)も、インテリのボヘミアン風。生活レベルも、極めて庶民的なアデルの家よりは幾らか良いようだ。但、イギリスの映画などと比べると、それ程階級を意識させるように作られているとは思えない。家の様子や広さも、本人たちや両親の身なりも、極端に違っているわけでもない。しかし、文化的な違いはかなりありそうで、それがふたりの間のすきま風に繋がっていったようだ。
(パート2)1〜2年後だろうか、ふたりは同棲している。学校を出た後の進路の違いと共に、ふたりを分かつ環境の違いはよりくっきりしている。アデルは幼稚園の先生として働き、職場や同僚に溶け込んでいる。教え方もすっかり身に付いてきて、園児達の快活で元気なお姉さんという感じだ。一方、エマは芸術家としての第一歩を踏み出そうとしている。アデルの職場や同僚の様子、そしてエマの芸術家やインテリ仲間を招いたパーティの場面が丁寧に映され、ふたりを取り巻く環境の違いが、周辺の人々を通じて浮き彫りにされる。自分の知識とか感性についてのプライドが高そうで、気取っていて自由な生き方をしているエマの仲間たち。エマのセクシュアリティーも当然オープンだ。それに対し、先生らしい真面目さと平凡さがにじみ出るアデルの同僚たち。アデルは、自分がレズビアンであることを誰にも言っていないようだ。ふたつのサークルの人々が混じり合うことは無く、アデルはエマのサークルに混じるときは、家庭でかいがいしく料理をして裏方を務める慎ましい主婦の役割。エマは妻の手を借りてお客をもてなす「主人」(このあたり、同性愛カップルであっても伝統的役割分担が見えて、日本のサラリーマン家庭を思い出す)。寂しさを感じたアデルは同僚の男性と2,3回セックスをしてしまったようで、それをエマに見つかり、激怒したエマはアデルを追い出す(このことから、アパートはエマが費用を払っているのだろうと推測でき、ふたりの経済的な力関係が感じられる)。その時のエマの激しい罵倒は(何度も字幕では「売春婦」というような言葉が出て来た)、浮気した妻を怒鳴りつける専横な夫を思わせた。相手の言い訳に一切耳を貸そうとせず、アデルの持ち物を引っ張り出そうとするエマ。見ながら、「おいおい、君はほとんどDV亭主か」と思ってしまう。思想において進歩的だったり、感性や知性に秀でている人にしばしば見られる利己的で不躾な側面が的確に描かれている。
(パート3)その後、また1〜2年経ったように見える。アデルは今は小学校の1年生を教えており、眼鏡をかけて本を音読させたり、騒ぐ子をちょっと眉をひそめて注意したりしている。幼稚園の先生の頃の素人っぽさが抜けて、教師らしい職業婦人のキャラクターとして描かれる。髪型も大人っぽくなり、年齢より老けて見えるようにしている。アデルはエマをカフェに呼び出して、「あなたを忘れられない」、と言う。エマもアデルへの愛はまだ残っているようだが、しかし、彼女は既に以前から付き合っていたパートナーと安定した暮らしを築きあげているようで、よりを戻すつもりは全く無い。エマはこみ上げる涙を抑えられず、ずるずると鼻水を垂らしながら泣く。昔の映画なら、相手がここですかさず綺麗なハンカチを出すところだろうが、これはレズビアン・カップルだから、騎士道的なジェスチャーは似合わない。日頃の大人っぽいアデルの表情が見事に崩れ、高校生の頃の素顔がのぞく。
(エピローグ)最後はエマが幾つもの作品を出品した展覧会の初日のパーティーのシーン。エマは昔約束していたようにアデルに招待状を送っていたが、前回カフェで会ってから後、ふたりはずっと会うこともなかったのだろう。あの時、展覧会には招待するね、と言っていた約束をエマは果たしたわけだが、エマの愛情は更に冷めていて、アデルに本当に来て欲しかったようでもない。別れる以前にアパートで開いたパーティ以上に、アデルはエマの世界が自分の世界とは違ってしまったのをひしひしと感じする。ワインを持って部屋をめぐっても、気楽に話をできる人もいない。エマと挨拶はするが、今のパートナーのリーズがそばにいて気軽には話せないし、エマはアーツの関係者をもてなすのに一生懸命に見える。いずれにせよ、ふたりの間には超えがたい壁が出来てしまっている。ひとりだけ、昔アパートでのパーティーにも来ていた俳優志望のアラブ系の青年が彼女に他の人以上の関心を示す。彼は当時は夢を追っていたが、今は主に地味な普通の仕事(不動産業?)をやっている。アデルはワインのグラスを置き、にぎやかな会場を、エマに別れを言うことなくひとりでそっと抜け出す。彼女がいなくなったことに気づいたアラブ系の青年は慌てて外に出て彼女を捜すが、もう見つからない。青いスタイリッシュなドレスをまとったアデルは、背筋を伸ばして足早に去って行く。
既に見た人が決まって指摘しているように、食べ物が効果的に使われている。アデルの家の定番は庶民的で万人がよろこぶミートソース・スパゲティー、エマの家の客料理は生牡蠣。アデルは食わず嫌いもあって牡蛎は苦手だったが、食べてみると意外に美味しいと言う。牡蛎はレズビアンのセックスの隠喩でもあるだろう。ミートソース・スパゲティーの方は、ふたりが同棲した後も、パーティーでアデルが用意する。日本で言えば、せっせとちらし寿司を振る舞うお母さんのイメージか。アデルには、芸術家のエマと暮らし始めても、昔の庶民的なルーツが染みついているのがうかがわれる。
もうひとつは「青」。エマの青く染めた髪の毛は、フランス国旗の青同様、アデルにとって自由の象徴だろう。しかし、2部以降はエマは髪を青く染めることをやめている。エマはアート業界の一員として彼女なりに組織に組み込まれ、その世界の常識を生きている、ある意味で「普通の人」になってしまったのかもしれない。アデルが最後に身につけた青いドレスは、彼女がエマから「自由」になったことを示しているのだろう。他にも紙ナプキンとか、随所に青が意図的に配置されて、映画全体に統一感を与える。
アデルの家が貧しかったり、イギリスの労働者家庭でしばしば見られるような明確な階級意識を持っていたりするわけではなさそうだ。エマの家も、立派な邸宅や高級マンションではなく、使用人がいそうな家でもない。しかし、ふたりの家庭の保守性とリベラルさの違いははっきりしている。特にアデルの父親は、食えない職業である芸術家について、面と向かって否定的な事をエマに言う。一方、エマの両親は、少しでも創造的な仕事をするのが人生の目的であるという価値観の持ち主。もちろんパート1でのアデルは自分の友人がレスビアンであることは親に言わないし、言える様な雰囲気でもない。また彼女自身、学校で、あなたはレスビアンね、と友達に言われたときに、猛然と否定し、つかみ合いの喧嘩になる。
私にとって、この映画の最大の魅力は、第1部で、エマとの恋愛を通じてアデルが自分のセクシュアリティーについて徐々に気づいていく時の心の揺れ動きやその描写のみずみずしさだ。社会から「普通」として認められるヘテロ・セクシュアルの若者にとっても、思春期における性の自覚は大変な葛藤を伴うことが多いだろう。増して、ゲイ・レスビアンであったり、バイ・セクシュアルであったりすれば、学校や家庭、地域における社会的なストレスも大きく、また自己嫌悪や自分のセクシュアリティーを認めたくない、という気持ちも起こりがち。この映画は、学校や社会全体におけるゲイ・レスビアンへの差別とか、家庭内の軋轢と言った政治色を避けて、あくまで、素朴なひとりのレスビアンの若者アデルの揺れ動く気持ちや愛の喜びと悲しみと言った古典的テーマをじっと凝視したことで、教条的にならずに、素直な恋愛映画となっていると感じた。一般の映画館で公開される多くの恋愛映画では、恋人達の会話とか仕草とかは念入りに描かれても、セックスをセックスそのものとして充分に描くことは少なくて、あまりリアリティーの無い、一種の「振り付け」されたセックスがロマンチックなバックグラウンド音楽と共に短時間映写される。また、多くの人は、ポルノ見たさで来たわけでもないのに映画館でセックスを長々見せられるのは居心地悪い、と思うかも知れない。しかしこの映画では、10代後半の、ホルモン満開の年代の若者にとって、性の興奮と喜びが如何に強烈なものかを観客に訴えようとしており、あのシーン無くしては映画全体のインパクトはかなり弱くなってしまうと思える。
後半、ちょっと眠くなった。ふたりの気持ちが離れて行くシーンを、少しずつ時間をかけて描写しているのだが、ちょっと冗長になった気がした。もうひとつ不満な点は、脇役があまり印象の残る程描かれていないこと。ゲイの友人サミール、最後に出て来たアラブの若者など、もっと描き込めばおもしろくなりそうなキャラクターが幾人かいたが、もう少し生かせなかったものか。全体のテンポを上げて、かつ脇役をよりくっきり表現することで、更に面白い映画になったような気がする。
高校や小学校の教室の風景は、フランスの今が感じられてとても興味深い。また、脇役の人種の多様さに多文化のフランスの良さが感じられた。掘り下げられはしなかったが、アデルを慰めたり共感すのは、多分アラブ系のサミールと俳優志望の青年だった。
この映画を10代のレズビアンの方が見たら、きっととても感激するだろうな。でも、そうでない人にも、特にヘテロセクシュアルの男女の若者にこそ、偏見のない心で見て考えて欲しい作品。
(追記)ちなみに、私がこの映画を見た5月17日は「国際反ホモフォビアの日」(International Day against Homophobia and Transphobia, IDAHO)だった。日本でも集会や勉強会など、幾つか小規模の記念行事が行われたようだ。
2014/05/18
2013/11/12
映画『あなたになら言える秘密のこと』("The Secret Life of Words")
『あなたになら言える秘密のこと』("The Secret Life of Words")
スペイン映画、2005年、日本公開2007年
監督・脚本:イザベル・コイシェ
制作:アウグスティン&ペドロ・アルモドバル、エステル・ガルシア
撮影:ジャン=クロード・ラリュー
出演:
サラ・ポーリー (ハンナ)
ティム・ロビンス (ジョゼフ)
ハビエル・カマラ (サイモン)
エディー・マーサン (ビクター)
スティーブン・マッキントッシュ (医師)
ジュリィー・クリスティ (インゲ、心理カウンセラー)
☆☆☆☆ / 5
しばらく前に、イザベル・コイシェ監督、サラ・ポーリー主演の『死ぬまでにしたい10のこと』を見て、とても感銘を受けたので、同じ2人、そしてまたアルモドバル兄弟(アウグスティンはペドロの弟)が制作で協力したもう一つの作品のDVDを買って、見た。スペイン映画だが、英語の作品。舞台も主にUK。
ストーリーは:
過去の苦難の記憶を胸に秘め、誰とも言葉を交わすことなくひたすら孤独な毎日を送る若い女性、ハンナ。工場でも黙々と仕事をこなす彼女だったが、ある日、働き過ぎが問題となり、無理やり1ヵ月の休暇を取らされてしまう。宛てもなく長距離バスに乗り込んだ彼女は、ひょんなことから海の真ん中に浮かぶ油田掘削所でジョゼフという男性の看護をして過ごすことに。彼は事故でひどい火傷を負い、一時的に視力を失っていた。それでもユーモアを失わないジョゼフは彼女に名前や出身地を質問するが、ハンナは決して答えようとしない。この油田掘削所で働いている男たちは、それぞれに事情を抱えた者たちばかり。閉ざされた空間でそんな風変わりな男たちと生活を共にするうち、ハンナも少しずつ人間らしい感情を取り戻していくが…。(粗筋はwww.allcinema.netより引用)
見始めてすぐに引き込まれた。静かな始まりだが、主人公の日常の一コマ一コマ(工場の風景、ひとり暮らしのアパート、上役との面接、そして、バスの中や海辺のホテルの一部屋等々)が何故か印象的。私の好きな俳優、エディー・マーサンが出て来て、これからどうなるのかな、とワクワク。でもその後は、静かに静かに物語が進む。主な舞台は海上の油田基地。事故で火災が起こりその後は掘削を停止中。そこに残った10人にも満たない男達とハンナの静かな日々。火災で大やけどや骨折をし一時的に失明してもいるジョゼフの看護に、今は工場労働者だがかって看護婦をした経験のあるハンナが派遣される。どちらも心に深い傷を負ったふたりが、共に取り返しのつかないトラウマに悩まされているだけに、お互いに対し徐々に心を開いていける。
そこまでは、ありそうなストーリー。飾り気の無い演出と、俳優達の名演が楽しいが、ついうとうとした時もあって、5分くらい前に戻って見なおしたりもした。しかし、終わりに近くなって、ハンナが過去の話をしはじめたところで、それまで伏されていた彼女の過去に、聴衆は愕然とする。今の彼女の静かな日常と、彼女の語る過去とのギャップは凄まじい。
目の前で苦しむジョゼフの大火傷や失明が、ハンナが負った過去の心の傷の一種のメタファーとして機能しているように思う。ジョゼフが置かれている盲目の暗闇や全身の痛みは、ハンナの心の鏡のようだ。
真面目すぎて休暇を取らないハンナは、勤務していた工場の管理職の男に、南国のビーチなどに出かけて長期休暇を取るように勧められた。しかし、彼女の出かけたのは寒々しい北の海辺。北海の大海原に、鉄の櫓に支えられてぽつんと立つ油田基地が、ハンナにとって、そしてそこで事故に遭ったジョゼフにとっても療養所か保養地のような役割を果たす。外国人、同性愛者、孤独な海洋学者、地上勤務になじめない物静かな管理職など、普通の暮らしからはみ出てしまった者達が、平和に共存し、そうあるべき世界のミクロコスモスを作る。北の海の絶え間なく押し寄せる波や、甲板にたたきつける雨が、不思議な優しさをかもし出す。
見終わって直ぐ、ほとんどの部分をもう1回見た。
映画としては、観客を惹きつける力がどれだけあるか、やや疑問に思う人もあるかもしれない。ハリウッドの娯楽作品のように、観客を始終惹きつけようとする作品では無く、見る側も理解しようとする努力が必要。ハンナやジョゼフ以外の登場人物の人生が持っている小さなドラマは印象的だが、それらが有機的に組み合わされてひとつに収斂するわけでもない。しかし、無理矢理エクサイティングにせずに、散文的で、ハンナとジョゼフのドラマの背景を作るだけのところが、かえって自然で、良いとも思える。
主役の2人はもちろんだが、エディー・マーサン、スティーブン・マッキントッシュ、ジュリー・クリスティなどのイギリス俳優の脇役がとても個性的で素晴らしい。
ハンナが語る自分の過去やナレーションとして出てくる子供の語りがどういう風に事実を反映しているのか、良く分からないところがある。トラウマを覆う深い霧のように、過去の傷が見え隠れしつつ終わる。いくらか曖昧なまま残して見る者に考えさせ、容易い解答やカタルシスを与えないのは、脚本も自ら書いたコイシェ監督の意図だろう。誰しも見て損はない、私達の多くがテレビで見、新聞で読んだ現代史を思い出すためにも。そして同じ事を繰り返さないためにも。
(付け足し)ちょっと面白かったエピソード:
・ハンナの勤めている工場の管理職(工場長か)、自分が行ってみたい南国旅行のツアーのパンフレットを山ほどため込んでいて、ハンナに、行ってみたら、と勧める。
・ビクター(エディー・マーサン)とハンナが中華らしきものを食べている店、Jポップが流れていたみたいだ。
・ビクターは、ハンナを車に載せた時、「散らかっていてごめん」と謝ったり、「汚くないか」と尋ねる。小さい子供がいてオモチャとか縫いぐるみとかが散乱しているし、子供のもどしたものが残っていたりするらしい。こういうディテールって、さすが女性の書いた脚本だね、と感心した。
・ハンナはもの凄い潔癖症か?大きい四角の石鹸を自宅に山ほどストックしており、いつも新しい石鹸を使い、多分1回使うと捨てるらしい。でも、看護婦として患者の下の世話なども平気で出来る。あの石鹸、欲しいなと思った。
・ジョセフは溲瓶でハンナに小水を取ってもらうが、その時、彼は言う、「子供の頃、お袋に最後の一滴までちゃんと出しなさいと言われたよ」。そうなんだよね、トイレを汚したり、パンツやズボンがおしっこ臭くなっちゃいけない、とお袋に良く言われたものだ(^_^)。
・機関士のふたりはむさ苦しい、毛むくじゃらで、洒落っ気なしで、無礼な言葉使いの労働者。外国の洒落た料理を作るシェフのサイモンに文句たらたらで、バーガーとフライドポテトにしろ、とうるさい。彼らはそれぞれ陸の上には愛する奥さんと小さい子供たちを持っていて、ハンナに写真を見せて悦に入ったりする。それなのに、お互いに首ったけ。ひとりが「人生は分からん」と言う台詞が素晴らしい!こういう小さなディテールの積み重ねがこの映画をとても暖かく、面白いものにしていると思う。
なお、主演のサラ・ポーリーはカナダ人だが、政治活動でも知られた人のようだ。地元の社会民主主義政党、Ontario New Demoratic Partyを支持し、選挙運動に協力したりしてきた。デモに参加して警官に殴られ、歯を折られたこともあるそうだ。彼女は映画監督としての仕事もしている。その一作、"Away from Her" (2006) は2013年にノーベル賞を受賞したカナダ人小説家アリス・マンローの短編小説に基づいた映画である。
2013/10/19
映画『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")
家族への愛と最後の恋愛:
『死ぬまでにしたい10の事』 ("My Life without Me")
(2003、カナダ・スペイン映画)
監督:イザベル・コイシェ(コヘット) [Isabel Coixet]
脚本:イザベル・コイシェ
制作:ペドロ・アルモドバル
音楽:アルフォンソ・ヴィラロンガ
撮影:ジャン=クロード・ラリュー
出演:
サラ・ポーリー (アン)
スコット・スピードマン (ドン、アンの夫)
デボラ・ハリー (アンの母親)
アルフレッド・モリナ (アンの父親)
マーク・ラファロ (リー、測量士)
レオノール・ワトリング (アンの隣人)
ジュリアン・リッチングス (トンプソン医師)
アマンダ・プラマー (ローリー、アンの同僚)
マリア・デ・メディロス (美容師)
☆☆☆☆ / 5
今月初め新聞のテレビ欄を見ていて、NHKの衛星放送でこの映画の放送予定を見つけ、制作者が私の好きなアルモドバル監督であったので、録画しておいて、先日見た。
(粗筋)
「23歳のアンは、母親の家の裏庭にあるトレーラーハウスで失業中の夫と幼い2人の娘と暮らし、時間に追われる忙しい毎日を送っていた。だがある日、彼女は突然腹痛に襲われて病院に運ばれる。そして検査の結果、医師から余命2ヵ月の宣告を受ける。若さのせいでガンの進行が早く、すでに全身に転移してしまっていた。アンはこのことを誰にも打ち明けないと決意し、ノートに死ぬまでにしたいことを書き出していった。それはちょうど10項目になった。そしてその日から、彼女はその秘密のリストを一つずつ実行していくのだった…。」(www.allcinema.netより引用)
アルモドバルの映画では無いが、彼が制作を引き受けただけあって、なかなか感動的な作品。彼の作品に見られるようなちょっとファンタジックなおとぎ話風の面があり、逆に偶然が重なりすぎるなど、リアリティーに乏しくて不自然という感想も出てくるだろう。現代の寓話と言えるだろうか。昔いくらか読んだラテンアメリカの小説などを思い出しつつ、文学でも映画でも、スペイン語圏の物語って、英語圏の物語よりもファンタジックな面が強いのかなと思ったりしている。逆に言うと、英米、特にイギリスって、他国の物語と比べ、身も蓋もない現実的な話が多いという気もする。
さて、アンは17歳の時に最初の子を出産し、多くのミドル・クラスの子が高校・大学で青春を楽しむ時期を、生活と子育てに追われつつ、貧しいながら必死で生きてきた。夫はお人好しで、彼女を大変愛し大事にしてくれるが、映画が始まる時点では失業中で、生活は不安定。彼女自身も大学の掃除婦として働いている。父親は長らく刑務所に入っており、妻(アンの母)とも娘のアンとも絶縁状態。その母親は彼女を愛し、孫娘達の世話などサポートしてくれているのだが、とても陰気な性格で、いつもネガティブなことばかりいうので、顔を合わすと気が滅入る。
というような暮らしのアンが、突然あと2ヶ月しか生きられない、と宣告されたのだからたまらない。これまでだって、ろくに「生きた」という充実感の無い生活を送っていたわけだから。彼女は癌の事を誰にも知らせず、しばし呆然としているが、夜中のカフェでノートを取り出して、標題通り「死ぬまでにしたい10のこと」を書き出す。全部は思い出せないが、例えば「ヘヤー・スタイルを変える」とか、「家族と海岸に行く」なんていう日常的なこともあれば、「刑務所の(絶縁状態にある)父親に会いに行く」、「子供達が18になるまでの誕生日のメッセージをテープに吹き込んでおく」というような重いものもある。そうした中でも最も重要なことは、「新しい恋をする」こと。そして、リーというひとり暮らしの測量士とそのカフェで出会い、恋に落ちる・・・。このあたりは、かなりご都合主事的なプロットだが、これはおとぎ話であると考えるべき。
突然死を宣告されて、わずかな残された期間をどう生きるか真剣に考える、というお話というと、黒澤明の『生きる』を思い浮かべる人が多いに違いない。それ以外にも、文学や映画、テレビ・ドラマなどでたくさんありそうだ。現実にだって、こういう事は誰にも起こりうる。いや、大多数の人は人生で一度は、程度の差こそあれ、こういう切羽詰まった気持ちを経験するのでは無かろうか。大変ユニバーサルな状況設定だ。これのもっとも原初的な形が、中世道徳劇、『エブリマン』とか『マンカインド』。そうしてみると、アンを取り巻く人々も、どこか中世道徳劇風の寓意的な人物に見えてくる。中世劇だと、例えば、「好色」、「友情」、「悔悛」、「物欲」、「慈悲」等々の寓意的人物が、死を宣告された主人公に近づいて来て、彼を誘惑したり、諭したりする。主人公は色々と懊悩を経た挙げ句、最後には悔悛の上で、神に召されることになる。カトリックの教えを伝える教訓的な劇であるから、結論は現代の映画とは大きく異なるが、構造は似ている。もちろん、現代のこの映画では、主人公アンは、自分の生きた証しを家族の心に刻みつけ、また家族が平和に愛に満ちて生きられるように出来るだけの事をする。と同時に、これまでに出来なかった自分の人生の為のささやかな希望を実現しようとする: ヘヤー・スタイルを変えてみようというのはそのひとつで、実に慎ましい。しかし、誰にも内緒で恋人を作りセックスまでしたのは、かなり大きな決断で、この映画の一番のクライマックス。夫は良い人で、彼女や娘達を充分に愛してくれ、浮気をしたりはしない。でも、何の説明も無いが、彼女の「私の人生、これで良かったのかしら。このまま死んでしまったら悔しい」、という気持ちが切なく伝わってきた。1人の人間の人生にとって、家族への愛と並んで、男女の(あるいは、ひとによっては同性への)性愛というものが如何に大事かを強く感じさせる作品だ。
日本人が作ると非常にセンチメンタルになりそうな題材だが、淡々と、まるでビデオ・ダイアリーのように撮られているところが大変良く、いささか不自然な設定を補っている。つまりおとぎ話をドキュメンタリーのように撮っているのだ。死の直前の苦しみなど、具体的に肉体の死にいたる局面は描かれていないので、不十分と感じる観客も多いかも知れないが、そこはおとぎ話と考えるよりないだろう。ロケの場所はバンクーバーらしいのだが、土地柄を感じさせない。ロンドンとか東京、パリなど、その場所に個性のあるところよりも、ロケ地の無機質さが、道徳劇のような一般性を強めていて良い。
20歳位の若い人、働き盛りで落ち着いて人生を考える暇のない多忙な世代の人、そして私のように老境にさしかかり自分の死を現実として感じ始めた(あるいは感じている)人、人生の色々な段階にいる人にとって面白いと感じさせる要素を持っていると思う。
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