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2012/05/23

Poor Priests' Hospital, Canterbury


最近のブログで、Canterbury Heritage Museumに納められた石板の彫り物の写真を載せた。このStour Streetに面する博物館であるが、中世に出来た建物で、貧しい聖職者のホスビタルであった。この頃の"hospital"とは病院ではなく(病気の人も収容されたとは思うが)、基本的には慈善を目的とした宿泊所のことである。おそらく、他に住居や世話をしてくれる親類がいないような僧侶が一時泊まったり、あるいは晩年を過ごしたりしたのであろう。




The Great Hallなどのメインの部分は12世紀に出来たようで、1174年から1207年まで、ある製革職人 (tanner) 、貨幣鋳造業者 (minter)、およびそのminterの息子のAlexanderがここの建物を住居として所有していたらしい。その後、このAlexander of Glouceserが宗教的な救護院にした。2階部分や向かって右側のThe Chapel of St Maryは後に増築されたものである。

1575年までこうして救護院として使用され、それ以後は学校、救貧院、工房、クリニックなどとして使われてきたが、1987年に博物館になって、今に至っている。

 大広間 (The Great Hall): ここで僧侶たちが食べたり、寝たりした。中世の間は中央に暖炉があり、煙は軒に開いた隙間や窓から外に出た。日本の囲炉裏と同じようなものである。屋根に煙突がついているが、ずっと後、近代になって、作られたものだろう。煙突と繋がった暖炉は中世の住宅ではほとんど見られなかったはずだ。もともとは1階だったが、後にフロアーが付け加えられて、2階に分けられたようだ。




聖マリアの礼拝堂 (The Chapel of St. Mary)の屋根: 聖マリアの礼拝堂は、正面から向かって右側の、張り出した部分にあった。今は展示スペースの一部。中世の多くの建物がそうであるように、木造の屋根である。材木は樫の木(オーク)。縦に天井の一番高いところに向かって伸びている木材をcrown postとか、king postと言う。横に伸びているのは梁 (cross beam) 。crown postと cross beamで屋根を支える。こうした三角の構造をトラスとか「結構」 (truss) と呼ぶそうだ(私は建築についてはまったく無知なので、詳しく知りたい方はご自分で調べてください)。



カンタベリー大聖堂などのすべて石造りの建物と違い、こういう木の屋根があると、暖かい印象を与えてくれる。教会のような宗教建築でも、壁は石で作られているが、天井は木造という建物が大多数だと思われる。天井を石にする為には、より高度の技術、そして側壁を大変厚くするなど、多額の費用がかかったことだろう。先日ブログで書いたドラマ『ダークエイジロマン大聖堂』でも、無理に天井を石にしたために、完成して間もなくその天井が崩れて多くの人が亡くなるというエピソードが描かれていた。

今回の記述にあたっては、博物館館内の掲示と、こちらのサイトを参考にした。

2012/05/17

カンタベリー大聖堂の怪物たち

先日このブログで書いたテレビ・ドラマ『ダークエイジロマン大聖堂』の中心人部の一人で石工のジャックは、ガーゴイル (gargoyle)  を掘るのが得意だった。これは中世の教会などで良く見られる怪物の形をした装飾排水口とでもいうべきものだ。わざわざ怪物の形をしていなくても良いと思うのだが(つまり、羊とか、排水口だから魚とか、ライオンとか)、大抵は正体不明の怪物になっているようだ。更に、意味が拡大されて、ガーゴイルというと、古い石造建築にあるこういう怪物の彫り物全般を指すようにもなっている。

何故怪物でなければならないのか、中世の教会にはどうしてこういう奇怪な彫り物が天使やら聖者の彫り物と同居しているのか、その理由は私は知らない。美術史の専門家の話を聞いてみたいものだ。

さて3月29日にセミナーの為にカンタベリーに行った際、大聖堂にちょっと寄って写真を撮った。その中にガーゴイルやその他の奇怪な生き物の写真もあったので載せておく。この日は素晴らしい天気の、初夏のような日で、大聖堂が実に美しくそびえていた。


大聖堂に敷地に入っていくところにあるのはクライスト・チャーチ・ゲイト (Christ Church Gate) というきれいな装飾の施された門。中央の銅像はキリスト。


この門に、結構沢山奇妙な彫り物がある。これ、何なんでしょう?ねずみ?いたち?いや、犬かな?


それから門の上のほうにある窓の上にある顔。クリックして拡大してみて下さい。


さて、大聖堂本体についている本物のガーゴイル。少しすり減っているが、破壊されたのだろうか。

こちらのガーゴイルは無傷のようだ。


これは山羊のようにも見えるが、正体不明の動物。


大聖堂にも顔だけの怪物が掘られている。上の方です。


ガーゴイルやその他の怪物や奇怪な顔などは特に目立つ点だが、中世の大聖堂、こだわりを持って眺めると色々と見るものがある。聖者や王などの彫像もどういう聖者かとか、いつ頃掘られた彫刻だろうなどといちいち考えながら見ていくと、分からないことだらけで、面白いし、聖堂の中にある石棺に掘られた人物像とか、ステンドグラスの絵とか・・・建物すべてが生きた美術館みたいなものだ。

2012/03/16

Eastbridge Hospital (Canterbury) へ行く

昨日15日は木曜で、大学のセミナーがある日。カンタベリーに行ってきました。さわやかな晴天で、体調がいささか芳しくないにもかかわらず、気分良く過ごせた一日でした。夜、帰宅したときは疲労困憊でしたが。

ということで、爽やかなウエストゲート・タワーの姿。最初は町の外側から、そして次は内側からの写真です。


そして、カンタベリーのメイン・ストリートのSt Peter's Street。この通りは途中からHigh Streetと名前が変わり、そしてその後すぐSt George's Streetという名前になって町の反対側の出口に至ります。

さて、昨日はまず中世のホスピタル、Eastbridge Hospitalに入ってみました。High Streetの真ん中、買い物客や観光客がごった返す通りにあり、私もカンタベリー滞在中はほとんど毎日のように前を通りましたが、十数年前に一度入った記憶があるだけ。今回じっくりと見てきました。12世紀の素晴らしい壁画があり、仰天!ということで、メモも取ってきたので、やや詳しく書いてみます。
Eastbridge Hospital正面

この建物の簡単な歴史

ホスピタルというと今は病院ですが、中世のホスピタルは今の英語の'host'とか'hospitality'の意味と関連していて、宿泊施設を指します。それも貧しい人のためのものを指すことが多いと思います。このEastbridge Hospitalは、カンタベリーにトマス・ベケットのお墓に参りにやってきた巡礼たちの中でも、一般の宿屋に泊まる余裕のない貧しい人たちを収容するために作られました。ベケットがなくなったのが1170年ですが1180年頃作られました(1176年にはすでに在ったと言う説も)。作ったのはカンタベリーの裕福な商人、Edward FitzOdbold。最初の院長(Master)はRalph Becketで、聖者となったトマスの甥だそうです。そばにはスタウワー川(The Stour)が流れ、橋(The King's Bridge)が架かっており、ここでは通行料の徴収が行われたとの事。川の水が度々ホスピタルの地下室(Undercroft)に浸水したようです。橋の向こうはKing's Mill(水車のついた建物)があり、羊毛製品の製造が行われていたようです。ホスピタルは12世紀の建物なので、基本的にロマネスク様式。この時期はロマネスクからゴシックへの過渡期ですが、一部ゴシック風の部分も見られるとの事(この点は私は良く分かりませんでした)。建物は下から次のような4つの部分から出来ています:
Entrance hall(玄関)
Undercroft(地下室)
Infirmary hall(病気の人などの部屋)
Chapel(礼拝堂)
カンタベリー巡礼は、カトリック信仰が弱まると共に、衰えて来て、巡礼者は少なくなります。16世紀前半には宗教改革で修道院など多くの宗教施設が破壊されましたが、Eastbrige Hospitalは大聖堂の一部などではなかったので生き残りましたが、現実には使われることは少なく、荒れていたことでしょう。1584年ごろには地下室は当初の目的では使われなくなり、その後最近まで石炭の倉庫(coal cellar)として使われました。一方、16世紀の国教会の大司教、マシュー・パーカーがホスピタルを慈善事業のために整備し、チャペルに20人の生徒を収容する学校を設立しました。この学校は1880年まで続き、多くの卒業生を出しています。歴史については、英語版Wikipediaに更に詳しい解説があります。

Entrance Hall(入り口)

ここは大変狭い、言わば玄関の間。天井が地下室などと少し違いました。

そして、地下のUndercroftへ降りていく入り口:

Undercroft(地下室)

ここは巡礼たちの寝所だったとのこと。踏み固めた土の床の上に漆喰を塗り、その上に藁を沢山敷いて寝たそうです。寒かっただろうなあ。何しろ暖房ないんですから。昨日もひんやりして、しばらく居たら、寒がりの私は、かなり体が冷えました。また地下室はほとんど採光もなく、それ以外の部屋も当時は基本的に窓ガラスは大変高価で、大聖堂や一部のお城、お屋敷の窓にしかなかったと思われるので、かなり吹きさらしです。木の、謂わば雨戸、あるいはよろい戸のようなものがあって、夜や雨の時は閉めたとは思いますが、そうなると昼間でも真っ暗でしょう。ただし、中世後半に、いったいどの位の建物、どの位の豊かさの人が、窓ガラスを使ったのか、それは私も知りません。ステンドグラスが残っている大聖堂などは昔からガラスがはめられていたのはもちろんですが、つつましい教区教会などは、当時からガラスがあったのかどうか。また農民や一般の庶民の家はガラスは使わなかったでしょうが、裕福な商人の家はどうでしょうか?ご存知の方がいらしたら是非コメント欄で教えてください。
さて、柱は重々しい造りで、いかにもノルマン風です:

Infirmary Hall(病人の部屋)

2階にあるかなり広々とした広間。この部屋の壁に大きなテンペラ画が描いてあり、吃驚しました。絵は、写真をクリックし、大きな画面でご覧ください。

中央にキリスト。かれを4角で4人の福音書作者が囲むという構図ですが、下の2人は消えており、右上ももう良く見えません。ただ、左上のマタイはまだはっきりしており、名前も書いてあります。

大きさは大体の見当で、上下が約3m、横幅は、上の部分が約4m、下が約2mくらいです。12世紀終わりから、13世紀はじめにかけての製作と考えられていて、ホスピタルが出来た頃の絵。おそらく大聖堂で壁画などを書いていた人の一人('one of the Cathedral school of painters')だろうとのこと。かなり劣化はしているのですが、中世前半の雰囲気を伝える、素朴だが堂々としたキリスト像です。西欧中世の絵でもこういう古いものをみると、キリストがお釈迦様と似ているような気がするのは私だけかしら。

Chapel

3階です。ここは天井の材木が素晴らしい。最初からあるものかどうか分からないですが、とにかく古いのがわかる、見ごたえある天井です。2枚目の写真の画面をクリックして、木の古さを見てください。


昨日は、Eastbridge Hospitalの後、Roman Museumを見学したのですが、その話はまた改めて書ければと思います。

2010/04/14

カンタベリーのローパー・ゲート

Roper Gate, Canterbury

何の変哲もない倉庫の入り口みたいに見えるが、これもカンタベリーの由緒ある歴史的建造物のひとつ。16世紀のカンタベリーの名家、ローパー家の屋敷のゲートのみ残って、こうしてあとで作られた建物の一部として見ることが出来る(手前の白っぽいレンガの部分のみ)。チューダー朝というと、民家は木の柱とモルタルの造りの建物で、城や寺院は石造りというのが普通だと思うけれど、もうこうしてレンガが使われていたようだ。言われなければ、19世紀のものかと思ってしまうところだ。もとのローパー家の屋敷は、Place Houseと言われたそうだが、今残るのはこの部分だけ。

3つ長方形の窓があり、その上にまた円形の窓がある。まわりには、色々と装飾も施してあり、レンガの建物としては、なかなか凝った造りである。勿論、木の扉は当時のものではない。

この門の元の建物、Place Houseを所有していたのは、法律家であったWilliam Roperだが、彼の妻は、ルネサンス英国を代表する才女、Margaret Roper。彼女はSir Thomas Moreの長女であり、幼少より英才教育を受け、ラテン語や古典ギリシャ語を解し、エラスムスやジョン・ラステルを始め、モア・サークルと呼ばれる知識人と親しく交わりつつ育った。Moreの家族や友人の中でも特に熱心に父を助け、危険を冒して最後まで獄中の彼を度々訪問した。国家権力に刃向かったMoreの著作を収集し、出版の準備をしたのも彼女であり、そのおかげで現代の我々もMoreの書物や手紙の多くを読むことが出来ることになった。Moreがヘンリー8世の離婚に反対して死罪にされたあと、さらし者になっていた遺骸を密かに引き取り、カンタベリーに持ち帰って、このRoper GateのすぐそばにあるSt. Dunstan's Churchに埋葬したのは彼女である。このあたりのことは、伝記文学の傑作、John Guy, "A Daughter's Love"に詳しい。と言うわけで、それ程感激するような美しい建物でなくても、歴史を思い起こしながら見ると楽しい。場所はウエスト・ゲートから街の外側に5分弱歩いたあたりにある。

どう見ても、壁の表示板を読まない限り、倉庫かと思いますね。

扉の左側にある説明のプラックを大きく撮ったものが下の写真です。



2010/04/09

デーン・ジョン・ガーデンズとカンタベリーの城壁


Dane John Gardens and the City Wall

カンタベリーの中心街、Whitefriar Shopping Centreの直ぐそばにDane John Gardensという芝生の緑が鮮やかな公園がある。その中に小高く盛り上がった小さな丘があり、Dane Johnと呼ばれている。小道がつけてあって、頂上まで登れるようになっており、天気の良い日には子供達が登ったり下りたりして遊んでいる。この丘は、1066年にノルマン人のウィリアム1世がフランスからやって来てイングランドを侵略した際に作らせた木造の城があったと見られているが、盛り土自体は、そのずっと以前、古代ローマ人がやって来る前に、古墳だったのではないかと見られている。

名前のDane Johnと言うのは、直訳すると「デーン人(デンマーク人)ジョン」となるが、フランス語起源の"dungeon"(城の高塔、天守閣)をもじったものではないかと言われる。但、この名前が中世から伝わった名前であるかどうかは怪しいようだ。一節では、カンタベリーに生まれ育った近世の歴史家で言語学者、ウィリアム・サムナー(William Somner, 1598-1669)の作った名前ではないかという見方もあるようだ。ちなみに、このサムナーは、好古家(antiquary)、カンタベリーの郷土史家、更にアングロ・サクソン学者であり、最初の古英語辞書の編纂者として有名である。

Dane Johnの小丘は、清教徒革命時には大砲が設置された。また、その後、18世紀にはこの空き地は公開処刑場としても利用されたそうである。公園は1790年に、市の有力者で市参事会員、ウィリアム・シモンズ(Willaim Simmons)が作ったが、20世紀初めには市の所有となり今に至る。

Dane John Gardensの周辺には、カンタベリーの市の城壁がかなり残っていて、城壁の上が歩道になっていて散策できる。Canterbury East Stationで降りても、すぐこの城壁に着く。もともとはローマ時代に作られたものであり、その時代の石も沢山含まれるが、今の形は、14世紀に整備されたものだそうだ。




旧市街の外側から城壁を見たところ。

城壁の上はきれいに整備され、散歩できます。写真の奥に見えるように、所々に小塔が作ってあります。

(追記)論文はゆっくり進行中。いつも、前日の執筆のあと、どう繋げていくか、謂わば書く前のウオームアップに1時間以上かかる。これが結構大変。最近書いた部分を指導教授に送ってあるのだが、何と言ってくるか、やや気がかり。今イースターのあとのお休みで、先生も仕事を延ばしているのかも知れない。

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2010/04/08

カンタベリーのノルマン・キャッスル


Norman Castle, Canterbury

段々とカンタベリーを去る時が近づいているので、今のうちにカンタベリーの名所を再訪して写真を撮っておこうと思い、今日はカンタベリーのノルマン時代のお城に出かけた。

1066年にノルマン人がイギリスを征服した時、征服者で新しいイングランド王、ウィリアム1世は、カンタベリー、ロチェスター、そしてドーバーにすぐにお城を造らせたそうである。その当時の城は、今の城のそばにDane Johnという形で残っているが、盛り土をしたマウンドに木造の砦というものであったようだ(これについては別の項で)。その後、1084年頃(ヘンリー1世時代)には現在残る石造りの城が作られたそうである。現在残る廃墟となった建物以外にも、周辺に小さな建物があり、まわりを石造りの壁で囲まれていた。

その後、この城の軍事的な意味は薄らいだようで、"keep"(本丸)は、12世紀中には牢獄として使われるようになり、近代に至るまでそのような用途であった。さぞかし恐ろしいところだったことだろう。あんな石造りの暖房もない建物に何ヶ月も幽閉されれば、大抵の人は死んでしまうに違いない。19世紀にはガス会社が所有し、倉庫として利用。1923年にカンタベリー市議会が購入して、保存活動が始まった。

近年、まわりに芝生が植えられ、お城の歴史や構造を説明するパネルも配置され、小さな公園となっている。本丸は、3階建てであるが、床は落ちて、既に外壁しか残っていない。その外壁の途中まで階段で登れるようになっている。訪れる人は少ないが、カンタベリーの歴史を感じさせるお勧めの場所。East StationやWhitefriars Shopping Centreのすぐ近くで、便利の良い場所にある。こういうところをじっくり歩いていると、カンタベリーに住んでみて本当に良かったと改めて思う。

Dane Johnのマウンドから見下ろしたノルマン・キャッスル。手前に見えるのは公園の並木。大胆に剪定してあるのですが、上の方はクレーンでも使ってやったのでしょうねえ。

Keepの全景。この前の花がとてもきれいです。でも動植物に無知な私には種類は分かりません。

内側は床が落ちて空洞になっているが、壁の途中まで登ることが可能です。


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2010/01/16

Sir John Boys' House (King's School Bookshop), Canterbury





メイン・ストリートにあるThe Weaversと並んで、カンタベリーにある今も使われている古い世俗の建物の中で、最も有名なのがSir John Boys' Houseだろう。別にこれを見たいと思ってきた人で無くとも、Palace Streetでこの建物のところまで来ると(28 Palace Street)、きっと目をひかれることだろう。写真を撮っている人も時々見かける。何と言っても斜めになっているのが不思議である。私は建築当初からそういう風に建てられているのかな、と誤解していた。なぜなら、近代初期の、市内の古い建物は、2階以上がいくらか張り出したような造りのものが多いから。しかし、カンタベリー考古学協会のウェッブサイトにあるPaul Bennettさんの記述で、そうじゃないことを学んだ(Bennettさんは、この協会のディレクターで、カンタベリーの歴史、特に建築物などの考古学的側面については、並ぶものなき権威者)。

この建物は1617年におそらく建てられたと考えられている(1647年という説もある)。一方、Sir John Boysは1612年になくなったらしいので、この通称は正確ではないようだ。ちなみに、Sir John BoysはカンタベリーのRecorder(裁判官の一種)。

もうひとつのウェッブサイト("Canterbury Building")によるとこの建物は、織物商Avery Savineによって建てられた可能性が高いとのこと。破風の先端にイニシャルがあるというのが根拠。Avery Savineは外国人、おそらくフランス人、の名前である。この地域にはこうした豊かな外国人が多く住んでいたそうである。

18、19世紀にかなり大きな改築が施された。一階正面の斜めになっている大きな窓もそのひとつ。これらの改築、特に1階に設置された新たな暖炉と廊下の重みにより、建物全体が斜めにかしいだのではないか、とBennettさんは書いている。木造の建物であり、基礎となっている木材や礎石もかなり老朽化しており、根本的な補強を必要としているそうだ。いつまでこのユニークな姿を保ってくれるか、いささか心配である。

参考ウェッブサイト:
カンタベリー考古学協会
http://www.hillside.co.uk/arch/kshop/survey.html
"Canterbury Buildings: A Survey of the Buildings of Canterbury, England"
http://weblingua.hostinguk.com/invictaweb/canterburybuildings/pages/plcst28.htm

2010/01/12

Whitefriars, Canterbury, No. 2

前項を掲載した後、Whitefriars Shopping Centreのオフィシャル・サイトを見つけた。そこにこの街区の歴史について、割合詳しく書いてあったので、まとめてみたい。サイトを直接見る方は:

http://www.whitefriars-canterbury.co.uk/about-whitefriars/







Whitefriars地区はカンタベリーのその他の地域同様ローマ時代からかなり開発された街区だった。考古学調査で3世紀頃の3つの建物が発見され、これらは町のエリートの住居だったと考えられている。このあたりにはローマ時代の城壁もあり、その城壁についた小塔(a Roman wall turret)の跡も見つかった。また、この場所から4世紀頃の、8人のローマ時代の人の遺骸が見つかっている。折り重なるようにして、ぞんざいな有様で埋められていたようであり、正式のローマの埋葬とは違うようだ。

アングロ・サクソン時代の名残も見つかっている。敷石の道路 (cobbled roads) や木造の建物の痕跡である。この時代に、今日のカンタベリーの街の通りの輪郭が形を成し始めたのかも知れない。

しかし、この地区の遺跡の中心は、何と言っても聖オースティン会(聖アウグスティノ会)のホワイト・フライヤー僧院(Whitefriars)そのものである。この僧院ができたのは1324年。教会、回廊 (cloister)、施療院 (infirmary cloister)、台所、食堂 (refectory)、寝所 (dormitory)、便所 (latrine)からなっていた。また2メートルかそれ以下の壁があった。便所には、恐らく修道院が閉鎖された後に、陶器など色々なものが投げ込まれていて、興味深い発掘品があったらしい。

1538年、この僧院はヘンリー8世により閉鎖された後、Sir Henry Finchという人物の屋敷となった。その後、どのような変遷を辿ったのか分からないが、19世紀末にはグラマースクール (The Simon Langton Girls and Boys Grammar Schools) があった。

第2次世界大戦時に繰り返し爆撃を受け、この地区の歴史的建築は姿を消した。その後、商業的な建物が作られる。現在のショッピングセンターは1980年代に計画され、長い準備期間を経て1999年から2005年まで工事が行われ、現在の形が出来上がった。その工事と並行して、地区の考古学調査が、カンタベリー考古学協会 (Canterbury Archaeological Trust) により、地域の多くのボランティアや学校の生徒達の協力を得て行われた。ちなみにこの考古学協会のディレクターはポール・ベネットさんで、私もレクチャーを聞いたことがある。

もしドイツ軍の爆撃がなかったらきっとカンタベリーにはWhitefriarsを始め、もっと色々な歴史建造物が残ったことだろう、と思わざるを得ない。でもそれはイギリスの、いやヨーロッパの多くの都市について言えることだが。

上の写真はFacebookで見つけた発掘時のサイトの写真。

2010/01/09

Whitefriars Shopping Centre, Canterbury




Friarシリーズの最後は、Whitefriars Shopping Centreです。ここはカンタベリーのショッピング街でももっとも賑やかなところ。2002年に私が留学した時にはまだ工事中でした。カンタベリーの外からも沢山の買い物客を集め、カンタベリーは、今や、観光と大学の町と言うだけではなく、ショッピングの町となって、隣接のAshfordと競い合っています。このショッピング街には、以前に僧院(Whitefriars Priory)があったようです。White Friarsというと、一般的にはカルメル会修道士 (Carmelites) なのですが、カンタベリーにあったのは、聖アウグスティヌス修道会(Augustinians / Austins)の僧院だったようです。彼らは14世紀にこの地に僧院を築いたと書いているウェッブ・ページがあります。この修道院もBlackfriarsやGreyfriars同様、16世紀前半、ヘンリー8世時代の宗教改革により閉鎖されました。その後、建物がどうなったのか、まだ私も調べておらず、最近まで何か残っていたのかもしれませんが、不明です。この街区は1942年のドイツ軍の大爆撃により、ほぼ完全に破壊された地域です。従って、何か修道院の後が残っていたとしても、その時に無くなったことでしょう。

2010/01/08

Greyfriars, Canterbury








Blackfriarsのあとは、カンタベリーのもう一つの修道院遺跡、Greyfriars (フランシスコ修道会の小修道院)。これも川縁にあり、この建物はご覧の通り、川をまたいで建っている。フランシスコ会士が最初にカンタベリーに現れた記録は1224年、その後1267年には、彼らの修道院が建立されたようだ。現在残っているのはひとつの小さな建物だけだが、Blackfriars同様、かなり大きな、回廊(cloister)を持った修道院だったようである。現存する建物がどういう用途で使われていたかはよく分からない。 ウェッブ資料では、chapelとするものや、dormitory(寝所)とするものがあった。しかし、暖房もほとんどない時代、薄着の修道士達が長い冬の夜をどうしのいだか・・・。さぞ大変だったことだろう。亡くなる人も多かったに違いない。庶民も同じではあるが。写真は2009年12月に撮った。

2010/01/06

Blackfriars, Canterbury








旧ブログでも写真を載せていたカンタベリーのBlackfriars僧院。12月に写真を撮ったので、再度掲載する。これはDominican Priory(ドミニコ修道会の小修道院)。ドメニコ会修道士が黒い服を着ていたため、この名で広く呼ばれている。大小8つ前後の建物があったようだが、今は2つしか残っていない。ドミニコ会士は1221年にはカンタベリーにやって来て、大司教Stephen Langton(在位1213-28)の前で説教をしている。1236年には彼らの小修道院を建設している。下の写真の建物は1260年建設のrefectory(食堂)とのこと。中世末期、30人くらいの修道士が滞在していたようだが、その多くは、旅の途中にここに泊まった人であっただろう。現在この建物は地元の名門私立学校、King's SchoolのArts Centreとして使い続けられている。壁はフリント石(火打ち石にも使われる非常に硬い石)を積んで出来ている。屋根は当時の王、ヘンリー3世によって寄進された。場所はスタウアー川(The River Stour)を挟むように湿地帯に建っており、中世においては、あまり良い場所とは言えなかったことだろう。もうひとつの建物は、訪問者を泊めるguest hallだったようだ。この2つの建物は元のPriory(小修道院)のごく一部。四角い中庭を囲む4つの回廊状の建物(cloister)が立っていたとされている。丁度、オックスフォードやケンブリッジの学寮(college)みたいになっていた。

参考資料:
Marjorie Lyle, "Canterbury: 2000 Years of HIstory", revised ed. (Stroud, Gloucestershire: Tempus, 2002) この本はカンタベリーの歴史を適当な長さにまとめてあり、大変便利。この街に関心のある方にはお勧めします。

ちなみに、Blackfriarsというと、演劇好きには、ルネサンス期ロンドンにおける代表的な室内劇場でもある。この劇場は宗教改革以前、Saint Paulの南西方向、テムズ川に近く、ドメニコ会の小修道院があった。その建物の一部を利用して作られた劇場なのでこの名前になった。2期に分けられ、1期は1576-84年頃まで。2期は1597-1642年の清教徒革命勃発まで。但し、1期と2期は同じ建物ではない。第1期にはいくつかの子供劇団 (Children's Companies) が使用。第2期には、Shakespeareの所属した劇団、King's Menが使用した。

なお、単にドメニコ会修道士を指す場合には、ふたつの単語で、Black Friarsと書くようだ。