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2023/05/31

原基晶先生の新しい論文「ダンテからルネサンスまで 人文学と翻訳の使命」のまとめと感想

ツィッターで評判になっていた新刊書『イタリアの文化と日本 日本におけるイタリア学の歴史』(ジョヴァンニ・デサンティス、土肥秀行編、イタリア文化会館・大阪監修、松籟社、2023年2月、¥2200)を買った。本を整理しつつある今、新しい本はなるべく買わないように努力しているのだが、知人の原基晶先生が論文を寄稿されているので、買うことにした。とても美しいデザインのハードカバー。映画や美術を主に論じた論文もあるので図版も多数入っており、しかもその一部はカラーという贅沢さ。にもかかわらず、そして学術的な本なのに、2,200円という破格の安さに吃驚させられた。

さて私はまず巻頭の原基晶先生の論文を読んで非常に勉強になり、自分の専門分野へのヒントも大きかったので、このブログでは、自分の学習ノートを兼ねて、この論文の概要と私の感想をまとめておきたい。原先生の論文は巻頭の第1部「文学」の、更にその第1章、「ダンテからルネサンスまで 人文学と翻訳の使命」pp. 15-46。まさにこのタイトルにあるとおり、論文は、ダンテ・アリギエリ(1265-1321)から、ボッカッチョやペトラルカを経て、ルネサンスの詩人ルドヴィコ・アリオスト(1474-1533)に至る古典的な作品が日本でどのように翻訳されてきたか、そして代表的な翻訳の背後にはどのような解釈と思想があったかを分析する。その際、各時代の日本の文化や出版事情がこうした翻訳に色濃く反映されていることを指摘して、日本の翻訳文化論ともなっている。章を更に6つのセクションに分けてあり、更に一部のセクションではその下位区分もある。見出しを拾うだけで論文の構造がわかるので、まずそれを記しておこう。

  1. (イタリア)ルネサンス文学の受容史※

  2. ダンテ

    2.1 明治・大正のダンテ

    2.2 ダンテと帝国日本

    2.3 民主化後のダンテ

    2.4 比較文学的アプローチの終焉

  3. 『デカメロン』

    3.1 明治初期の翻訳に始まって

    3.2 戦後の翻訳

    3.3 現代文学からの視点と比較文学的視点の衝突

  4. ペトラルカ

  5. ルネサンスの文学

  6. 未来の翻訳のために

    ※第1章のタイトルにあるカッコは本文通り。


論文全体のイントロダクションである「(イタリア)ルネサンス文学の受容史」で、筆者は中世・ルネサンス文学の受容と現代文学のそれが大きく異なる点を指摘する。即ち、日本においては「ルネサンスの側面が強調されて大手出版社が発信者となり、その読者である一般的な市民層が受容者となってきた。そこではイタリア史より世界史が意識され、現在の〈世界〉とその主要な動力である西洋が重要視されていることは明白だ。」(p.16)。つまり、日本の教養ある市民にとってイタリアは歴史的に「ルネサンス」という西洋文化の黄金期の中心であったと言う点で重要であり、それ以降の近代後期から現在に至る国民国家としてのイタリアの歴史や文化は、主に幾つかのステレオタイプ(例えば、ファッション、グルメ、映画、戦時中のファシズム、等々)でかろうじて記憶されるに過ぎないというわけだ。これは「ルネサンス」という言葉自体が表しているように、かっての西欧史のギリシャ・ローマ文明中心史観の一端である。「ギリシャ」という国や民族、そしてギリシャ語・ギリシャ文学も、現代のそれはほとんど顧みられず、輝かしい西欧文明の源泉としてもっぱら称揚されて来たことと類似する。大まかには、かって我々日本人の頭に浸透していた西欧の文化史では、ギリシャ・ローマを起点として文明を確立し、それから逸脱したり(中世)、再発見したり(繰り返される大小のルネサンス)してきたことになる。それは例えば、「暗黒の中世」の後にやって来た「華開くイタリア・ルネサンス」といった姿で、今でもテレビなど大衆的な情報メディアで拡散されている。

第2のセクションで、原先生は時代を追ってダンテ、特に『神曲』の翻訳について、その傾向をまとめ、批評する。『神曲』の主要な日本語訳については、彼の名著『ダンテ論 「神曲」と個人の出現』(青土社、2021)でより詳しく論じられたことでもあるが、本書は、明治・大正の翻訳から論じはじめている点が新しい、そして私にとって興味深い視点が含まれている。つまり、「そもそもダンテへの関心は英文学のミルトンとの関係から始まり(日本初の『神曲』翻訳は1903年のミルトン研究で知られる繁野天來『ダンテ神曲物語』)、カーライルの『英雄崇拝論』の影響で広がった」(p. 17)。更に、内村鑑三は「中世キリスト教の厳格な信者というダンテ像を提示」した(pp. 17-18)。内村はダンテやシェイクスピアを、「世界文学」に屹立する西洋の「大文学」の文豪として、称賛した。同様のことは詩人で英文学者の上田敏も言っているようだが、彼らの「論の根底にあったのは、まさに富国強兵と脱亜入欧という思想」であった(p. 18)。もっとも、イタリアは英仏独等と比べ、到底大国とは言いがたい。ということは、これら日本の知識人にとっては、ダンテは、同時代の国家としてのイタリアとは結びついていないのである。私には、ダンテと英文学者の縁が興味深い。上記の英文学者との関係は、更に竹内藻風や生田長江による英訳からの重訳へと続く。私が若い頃、一般読者の多くが読んだ和訳は、英文学者で、ウィリアム・ブレイク研究で博士論文を書いた寿岳文章訳の『神曲』(1974-76)だった。

 日本における西洋の巨大な知の源泉としての『神曲』理解からは、キリスト教的観点も中世の、あるいは現代のイタリアの文脈に照らしたダンテ作品という観点も抜け落ちていた。また、イタリア語・イタリア文学の研究が、英仏独文学のように充分になされていなかった日本においては、厳密な文献学的研究・翻訳には至らず、「世界をリードする西洋の〈人間〉概念をしるためには、比較文学的観点からの翻訳が求められたのだ」(p. 21)。ダンテを西洋が生んだ手本と見る観点は、軍国主義の時代にあってはファシズムと結びつき、一部のイタリア文学研究者の積極的なファシズム宣伝活動にまでいたるようだ。

 民主主義国家に変貌したと標榜する第二次大戦後の日本においては、ダンテは民主主義の出発点として理解されていたルネサンスを代表する詩人、という評価になり、「世界・・・的な価値を持ち、それゆえに、世界を構成する〈人間〉を理解するためにも重要だと考えられた」(p. 22)。つまり富国強兵への教本から民主主義の教科書へと衣替えさせられたのである。こうした比較文学/世界文学的な観点に基づいてなされたのが、平川祐弘の口語訳であり、それに続く寿岳文章訳だった。

 しかし、現実世界が多極化し、文学・文化はもちろん、政治経済においても、北米と西ヨーロッパを頂点とした価値体系がかなりの程度崩れた今、古典古代に始まりルネサンスにおいて再興されたとする西欧的教養には昔日の輝きはない。西欧的教養への信頼をベースにした世界文学全集とか、出版社が出す講座ものなどはほとんど消え失せ、文学翻訳の業界自体が急激に縮小してしまったのである。

第3のセクションで、原先生はジョヴァンニ・ボッカッチョ(1313-75)作の『デカメロン』の翻訳を俎上に載せる。この作品の最初の翻訳は明治15年(1882)に大久保勘三郎(経歴等不詳らしい)の訳で出ており、恐らくフランス語からの重訳だそうだ。さらに戯作者としても知られる高瀬羽皐(うこう)が1886-87にやはりフランス語からの重訳で3種類の抄訳を出している。当時の翻訳は江戸の大衆的戯作文学の伝統の延長上にあり、この後、近代小説へと変化する途上だった。この後、『デカメロン』は、大衆通俗小説の系列として広まっていく。ダンテの『神曲』がハイブローで崇高な文学の代表と考えられたとすると、ボッカッチョの『デカメロン』はダンテ作品がカバーしていない民衆のたくましく猥雑な生命力を捉えた作品として印象づけられてきた。

 第2次大戦後、河島英昭による抄訳が講談社の世界文学全集から出たが、これは「現在の翻訳で文献学的に求められる作業をはじめに行った」訳業だった(p. 29)。この翻訳は「世界文学全集」という「比較文学/世界文学」と戦後の西洋的教養主義の枠組を使って出版され、抄訳という不完全な形だったが、イタリア文学の研究という視点から、イタリアの専門家の文献学的な研究に基づいた刊本を基になされた学問的翻訳だったようだ。この流れを受け継ぎ、『デカメロン』の全訳を完成したのが平川祐弘だった。河島訳は当時最先端の知識人であったボッカッチョによる『デカメロン』の、「民衆文化との、ある種の断絶があったことも明らかにしている」のに対し、平川訳は「むしろヨーロッパの散文に流れる民衆的な流れを意識しており、卑猥の問題も民衆文化の力強さの表現とする」(p. 31)。ボッカッチョからも大きな影響を受け、彼の作品を種本に使っているチョーサーについて考えると、この点はよく分かる。チョーサーは都市の富裕な商人の息子で、少年時代から王室に仕え、生涯の多くを高級官僚として過ごしたが、作品においては、宮廷文化やヨーロッパの知的伝統を広く、かつ深く反映していると共に、『カンタベリ物語』では、イングランドの民衆と彼らの日常生活や文化にも細かく目配りをし、それが作品の魅力を飛躍的に高めた。ボッカッチョにもそうした両面があり、翻訳者によってはどちらかの面が強調されるのだろう。

第4セクションではペトラルカ(1304-74)が短く取り上げられているが、ここで原先生が主に書いているのは、日本における「ルネサンス」概念についてである。イタリアでは、そして世界の中世文学研究者にとっても、13世紀後半から14世紀始めにかけて生きたダンテは、どうみても中世の詩人であるが、日本の教育では彼はルネサンスを代表する詩人として扱われてきており、その名残は今も残る。日本におけるルネサンス文学の概念では、教皇庁に支配されたラテン語による中世文明から脱して、民衆の言葉であり、人間性の解放を象徴する俗語による文学の創始者としてダンテが位置づけられる。そうすると、ラテン語作品が重要なペトラルカの作品の中で、俗語の代表作『カンツォニエレ』が特に注目され、しかも「ダンテの恋愛叙情詩のエピゴーネン(模倣)と受け取られてしまう」そうだ(p. 33)。

第5セクションは「ルネサンスの文学」と銘打たれており、次の文で始まる:「イタリア本国であれば、盛期ルネサンス文学の代表といえばアリオストの叙事詩『狂えるオルランド』であろう」(p. 33)。原先生は、彼自身の責任で「盛期ルネサンス文学の代表作は・・・」と言わずに、「イタリア本国であれば」という枕詞を付けている。その前のセクションでも、「イタリアでは中世に分類されるダンテ」という言い回しが使われていた。この論文では、こうしたイタリアにおける中世・ルネサンス概念と、日本におけるそれらとの違いが問題にされているので、こうした言い方が使われるのだろうが、文学史における時代区分は難しい。国や時代における観点の違いに加え、そもそも「中世」という歴史で使う一般的用語と、「ルネサンス」という文化史の用語を混ぜて使う事に矛盾が含まれている。後者の特徴のひとつが古典古代の「文芸復興」だとしたら、中世の間にも何度もそれは行われたし、イタリア半島においては古典古代の文芸の影響は絶えることが無かったと言えるかも知れない。

 『狂えるオルランド』は20世紀後半までの翻訳や解説では「宗教的桎梏から人間精神が解放されたルネサンスという空間で可能となった人間の自由な感情を活き活きと表現し、青春の美しさと儚さを謳っていると解釈」されてきたそうである(p. 34)。これはロマン主義に影響を受けた、やはり比較文学的/世界文学的な見方に基づいた翻訳ということなのだろう。しかし、『狂えるオルランド』は当時のローカルな背景、即ちメディチ家の政略結婚など、が色濃く反映されており、ロマン主義的解釈とは正反対のニュアンスが浮かび上がる。従って、この詩は、イタリア半島の政治状況をよく検討した上で翻訳する必要がある、と原先生は詩の一節を選んで試訳を挙げながら論じている。

論文の結論部である第6セクションで、筆者はこれまで論じてきたことを手短にまとめつつ、「日本のルネサンス概念は近・現代日本の非宗教的空間というフィクションを成立させるために形成されたと結論づけることができる」と述べる(p. 38)。つまりイタリアの「当時の社会・政治空間における宗教色」を無視し、戦前であれば富国強兵を目ざす日本から見た西欧の偉人としてダンテ以下のルネサンスの詩人を称揚し、戦後は民主主義と人間中心主義の源泉であるルネサンス詩人として同じくイタリアの詩人たちを翻訳してきたのだろう。こうした傾向は英・独・仏など、他の西欧の国々の大作家についても言えるだろうが、イタリアは国民国家としての成立が遅く、現在でも政治経済における大国とは言いがたく、日本のアカデミアにおける文学・語学の研究者層もあまり厚くない。イタリア研究者が比較的少ない中、地道な文献学的研究に基づいた翻訳がされにくく、また各時代の地域史への注意が不十分だったのだろう。最近までの既訳に見られるこれらの問題点を払拭し、『神曲』をイタリアにおける文献学の基礎に立ち、同時代の政治・社会・宗教の文脈に置いて訳し直したのが、原先生の講談社学術文庫版の翻訳と言えるが、ここに半生をかけて『神曲』新訳に取り組んだ筆者の自負が見える。

本論を読んで、中世英文学を専攻してきた私として最も刺激を受けたのは、イタリアの14-16世紀文学における、そして広く文学史や文化史における、時代区分(periodisation)についての原先生の考えである。既に書いたように、原先生はダンテを中世の詩人であるとか、アリオストをルネサンスの詩人だとか、自分自身の定義としては書かず、「イタリアでは」といった枕詞を付けて形容している。また、第1のセクションのタイトルは、「(イタリア)ルネサンス文学の受容史」となっていて、わざわざ「イタリア」をカッコでくくり、読者に「(イタリア)ルネサンス」の定義について考えるように促している。本論で議論になっているのは、客観的な、あるいは学問的な「中世」とか「ルネサンス」の定義ではなく、日本においてそれらの時代区分が、戦前の国家主義や戦後は特に世界文学/比較文学の枠組で使われ、同時代の、あるいは現代イタリアの文脈とは異なるという事だろう。14世紀初期(1307-21年頃)に書かれた『神曲』は現在では中世の作品と考えるのが妥当であり、またチョーサー(1340年代前半-1400)より大分前に亡くなっているペトラルカやボッカッチョも中世の詩人と見做されることがあるかもしれない。しかし、美術と同様、イタリア・ルネサンスは北方諸国のルネサンスとは異なった時期にやってきたと考える事も出来る。だがそもそもこうした「中世」や「ルネサンス」という用語自体が極めて便宜的であり、そうした定義の根底に揺るぎなく存在するのは、古典古代を起点とする西欧中心史観なのだろう。これらのラベルの曖昧さ、ご都合主義を踏まえて、この時期の文学作品を見る(あるいは専門家は、研究したり、翻訳する)必要があるだろう。更に、この論文で使われた過去の翻訳の分析方法や視点が、中世・ルネサンス文学の他の古典の翻訳を分析する際にもテンプレートになりそうだ。

 多くの情報に溢れた刺激的な一章を読ませていただいた。研究者に限らず、西洋の「中世・ルネサンス文学」に興味を持つ一般読者にとっても大変おもしろい論文だと思うので、是非お勧めしたい。引きつづき、この論集の他の章も読んでいきたい。

(なお、原基晶先生の『ダンテ論 「神曲」と「個人」の出現』についても以前にブログを書きました。)

2023/03/23

松田隆美先生の最終講義を聴く。

 3月19日はオンラインで、今年度で慶應義塾大学文学部を退職される松田隆美先生の最終講義を視聴した。残念ながら、私は近年の加齢による聴力低下と頭の働きの衰えによる理解力低下で、充分理解出来たとは言えないが、パワーポイントとハンドアウトの和訳されたテキストのおかげで、大体の流れは追うことが出来た。松田先生の広範にして、高度な研究が1時間ほどの講義時間にぎっしり詰まっていた。

講演の題目は「旅のナラティヴと中世英文学研究」。『カンタベリ物語』、『サー・ガウェインと緑の騎士』、『マージェリー・ケンプの書』、『マンデヴィルの旅』などの旅を扱う中英語作品を取り上げつつ、ラテン文学やイタリア文学を引用して、ヨーロッパ全体の思想や文脈から解説された。実際にでかけた旅と、メタファーとしての旅、魂の巡歴としての旅、書物や地図上の旅(あるいは写本自体の移動)など、創造力の中で様々な方角へ拡大再生産され、飛翔する旅や移動を自由自在に説き起こしておられた。ヨーロッパの文学・思想・歴史などについての松田先生の圧倒的な知識には、お話を聴く度にいつも仰天せざるを得ない。

松田先生の学問の基礎には、若い頃からヨーロッパの諸国語(中世のイタリア語やフランス語、そして特にラテン語と現代西欧諸語)を自由自在に読まれる卓越した語学力、そして、欧米の学会水準で研究・教育を維持される能力と大変な努力があるかと思う。慶應義塾の中世文学研究の伝統を受け継ぎつつ、イングランドでも博士号を取得され、世界的な権威者達と研究交流をされてきた。先生の教え子達も、それを受け継ぎ、皆さん国際的に活躍されている。先生は、講演の中で、現在、中世英語英文学研究のすそ野が縮小し、学会会員数も非常に減少していることを嘆いておられた。これは中世英語英文学だけでなく、人文科学全体に言えるので如何ともしがたいが、そうした環境に抵抗し続けて、優秀な後進を育ててこられた松田先生の努力に敬意を表したい。

私は先生に2,3度ご挨拶したことがある程度で、お話をしたことはほぼないと言える。しかし、松田先生は記憶しておられないかもしれないが、一度だけ学会発表の司会をしていただいたことがある。感謝すると共に、大学者に司会をしていただき、私にとって良い思い出となっている。

2022/03/15

傭兵としての『カンタベリ物語』の騎士

 ロシアによるウクライナの侵略戦争にシリアやチェチェンの傭兵が狩り出されるようだ。また、ウクライナ側にも多国籍の志願兵や軍事専門家が集まっている。こうした事を聞いて、『カンタベリ物語』の序歌に出てくる騎士を思いだした。序歌ではこの騎士の広範囲にわたる戦歴を次のように紹介している:


 . . . キリスト教国はもとより異教の国においても

彼[チョーサーの騎士]ほど遠方まで侵攻した者はおらず、

その武勇の故につねに尊敬されていた。

アレクサンドリア攻略戦のときも参戦していた。

プロシアでは、諸国の騎士を差し置いて

たびたび宴会では上席を与えられた。

リトアニアやロシアの遠征にも加わったが、

同じ階級のキリスト教徒で彼ほど幾度も転戦した者はいない。

グラナダではアルヘシラス城攻囲戦に参加、

ベンマリンにも攻め入った。

アヤスとアッタリアを占領した折にも

現地にいたのだ。東地中海では

名高い上陸作戦にしばしば加わった。

死を賭した大激戦に赴くこと十五回、

トレムセンではキリスト教信仰のため

三度も一騎打ちをし、いずれも敵を倒した。

あるときは、この勇敢な騎士は

パラティアの領主に加担して

トルコの異教徒と戦ったこともあった。

(『カンタベリ物語 共同新訳版』[悠書館、2021]pp. 8-9)


 彼は北アフリカ(アレクサンドリア、ベンマリン、トレムセン)、小アジア(アッタリア、パラティア)、東欧(リトアニア)、ロシア、イベリア半島(グラナダ)、西アジア(アヤス)その他の戦地を転戦した百戦錬磨の職業軍人だった。シリアからウクライナの戦地にやってくる傭兵や、ウクライナ軍の顧問として働く西側の軍事アドバイザーなどを思いださせる。人は(大抵は、「男」は)、いつの時代も不毛な戦いで名声を競う。しかし彼らは宗教と正義の旗印の下で戦う。チョーサーは書く:


こうして彼はいつも大いに声望をあげたのだった。

剛勇なひとであったが、思慮分別に富み、

物腰はまるで乙女のようにおだやかだった。

これまでどんな類の人に対しても

無礼な言葉を使ったことはなかった。

彼こそ誠の気高い最高の騎士であった。(前掲書、pp. 9-10)。


 上記のテキストの後半部分を見る限り、詩人はこの騎士を理想の騎士像として讃えているように見えるが、皮肉なチョーサーの事だから、文字通りに受け取るべきか判断が難しい。また、騎士が従事したのは14世紀、各地で行われた十字軍だが、この頃には、十字軍が始まった頃の聖地エルサレム奪回という目的ではなくなっており、キリスト教国の君主による周辺の異教徒(ムスリム教徒や東欧・ロシアのスラブ人など)を相手にした戦いで、現代の視点から見ると帝国主義的な戦争と言って良いかも知れない。また、一人の騎士が長期間にわたってこれだけの戦歴を積むことはあり得ないという見方もある。彼は現実に存在した騎士のリアリスティックなポートレイトではなく、当時の騎士のひとつの理想像を示す寓意的な(アレゴリカルな)人物と言って良いだろう。但、そのアレゴリーには、チョーサー独特のひねりが加えられている可能性もある。理想化しているように見えて、皮肉な視点がまったくないと言えるだろうか。


 しかし、今回私が関心を持っているのは、チョーサーがこの騎士を理想として描いているかどうかではなく、彼が傭兵(a mercenary)か否かであり、その点では彼の転戦ぶりから見て、やはり傭兵として描かれていると私は思う。『カンタベリ物語』の序歌で描かれた騎士を契約で戦う傭兵と見て、理想化された騎士の像とは違うという視点を提案したのは、映画「モンティ・パイソン」シリーズで知られる故テリー・ジョーンズの著書『チョーサーの騎士:中世における傭兵の肖像』 "Chaucer's Knight: The Portrait of Medieval Mercenary" (Methuen, 1980) だった。彼は大学には属していなかったが、この本は大変良く出来たアカデミックな本として未だに読まれている。但、チョーサーのテキストを過度にうがった読み方をしているとして反発も大きかった。"The Oxford Companion to Chaucer" (2003) において、中世英文学の権威、ダグラス・グレイは、ジョーンズのような解釈に対して、「このような見方を裏付ける歴史的な証拠には説得力がない」("The historical evidence for this last view is not convincing . . . .") (p. 270)と書いている。しかし、今ではジョーンズの本は少なくとも新しい解釈をもたらした重要な研究という評価は定着しているだろう。


 比較的最近の研究で私の手許にあるものとしては、『歴史学者が見るチョーサー:「カンタベリ物語」の序歌』"Historians on Chaucer: The 'General Prologue' to the Canterbury Tales", ed. by Stephn H. Rigby with the assistance of Alastair J. Minnis  (Oxford UP, 2014) の第3章で、編者自身の筆による "The Knight" がある。リグビーはマンチェスター大学の歴史学名誉教授で、著名な中世史学者であり、本書のように、文学についても重要な論考を出している。彼はチョーサーによるこの理想的な騎士像に皮肉を読み取るのは難しいと考えており、こうした騎士像は14世紀末においても理想として通用していたという考えだ (pp. 61-62)。一方でこの騎士のように各地の十字軍に参加したイングランドの騎士が多くいたことも確認しており、特にリトアニアなどバルト海沿岸地方の戦争には、イングランドを代表する大貴族達が参戦している。1390年の(つまり『カンタベリ物語』執筆の少し前頃の)リトアニアでの戦争には、後にヘンリー4世となるダービー伯、ヘンリー・ボリングブルックも加わっていた (p. 59)。リグビー教授の指摘のうち特に興味深いのは、チョーサーの騎士が「パラティアの領主に加担して/トルコの異教徒と戦ったこともあった」ことだ。この場合、騎士の仕えた主人も敵方も共に異教徒であり、キリスト教を守る十字軍とは言いがたい。リグビーは、騎士の戦った相手がキリスト教徒ではないので、当時の人々から見ると異教徒に仕えて他の異教徒と戦うのは問題なかった、と考えている (pp, 56-58)。但、現在の私たちの感覚から言うと、これは傭兵以外の何ものでもないだろう。その観点から見ると、14世紀末の騎士であるにも関わらず、彼が百年戦争に出征したという記述はまったくなく、フランスや低地諸国の地名も一切出てこないのは注目すべきだろう。つまり彼はキリスト教徒とは一度も戦っておらず、これは歴戦の勇者としては不自然なくらいである。この点は、彼の後に紹介される騎士見習い(The Squire)が百年戦争の各地を転戦していたのとは大きく異なる。このことからも、「序歌」の騎士が寓意的人物と言って良い程に理想化されていることがうかがえるだろう。既に述べたように、彼は常にキリスト教と正義の旗印の下で戦った「誠の気高い最高の騎士」だったのである。


 さて、現在進行中のウクライナ侵略戦争に話を戻すと、ウクライナのネット・メディアによれば、ロシアが募っているとされるシリアの義勇兵として、既に登録を済ませた人が4万人いるそうだ。シリアは長年の戦争で破壊され、疲弊した全体主義の国だ。そんな破壊され尽くしたような国から、他の民主主義国を破壊するために4万人もの人(ほぼ全員男だろう)がやってくると思うと背筋が寒くなる。


2022/03/06

原基晶著『ダンテ論―「神曲」と〈個人〉の出現』 ―まとめと感想―

原基晶著『ダンテ論―「神曲」と〈個人〉の出現』(青土社、2021年12月)

―まとめと感想―


本書の著者、原基晶先生にはおそらく20数年前に世界文学会で始めてお目にかかった。その時は現代イタリア文学についての先生の口頭発表をお聞きしたので、彼が中世文学に傾倒し、『神曲』を翻訳されているとは知らなかった。その後彼は講談社学術文庫から『神曲』全3巻を出版されるという日本の翻訳史に残る偉業を達成され、更にこの度、博士論文を基にして本書を刊行された。私はイタリア語を学んでおらず、イタリア文学全般や、ダンテの事もほとんど知らない一般読者なので、本書を正しく評価することなど到底出来ない。しかし、そう断った上で、本書が大変魅力的な内容に溢れており、『神曲』やその他のダンテの作品の理解に有用であるのみならず、広く西欧文化への教養を深めたい多くの読者に役立つ良書だと確信している。また、私自身は中世英文学を専攻し。ダンテの影響を大きく受けたと思われるジェフリー・チョーサーについても関心を持っているので、中世西欧文学を研究してきた者として、この本の内容を私なりにまとめつつ、学び、感じたことを、各章毎に一種の備忘録兼学習ノートとして残しておきたいと思い、以下の様な文章を書くに至った。


まずは目次を書いておこう。


はじめに

第1章 詩人の伝記

第2章 ダンテ批評史

第3章 失われた自筆原稿を求めて

第4章 フランチェスカ・ダ・リミニと「私」

第5章 ベアトリーチェ神話の終焉と預言する詩人

第6章 『神曲』と「個人」の出現

第7章 ベアトリーチェの微笑

補論 『これが人間か』―アウシュビッツと詩について

終章 結論

あとがき

参考文献

注

本文353頁(縦書き)、参考文献と注36頁(横書き)、計389頁。なお、巻末の参考文献と注のページ・ナンバーは、本文とは別に打ってある。


第1章

 博士論文を基にした本であるから、いきなり難しい理論や先行研究の概括で始まるかと思いきや、第1章は門外漢が入りやすいように、ダンテの生涯を紹介することで始まっており、博士論文の内容はおそらく第2章以下に反映されているのだろう。あとがきによると、この章は、博士論文の書籍化にあたって明治大学の坂本邦暢先生の助言により付け加えられたそうだが(p. 353)、坂本先生は本書の成功に多大な貢献をされたと言えるだろう。ここでの時代背景や伝記的事実のわかりやすい解説により、私のような素人にとって、本書の敷居がぐっと低くなった。と同時にこの章に書かれている歴史的な事実の検証は、原先生のダンテ論の核心に繋がっている。つまり、イタリアのアイデンティティーとしてのダンテ、そしてロマン主義の思想が作り上げてきたダンテといった既存のダンテ像に幾重にも塗り重ねられた修辞を取り払い、不明の部分も含めて今分かる限りの歴史的事実に基づいたありのままの彼の実像に迫りつつ『神曲』を読み直す試みがこの本の意図だからだ。第1章では、従来語られてきた没落貴族の息子としてのダンテは虚像で、彼は小規模金融業者の家系、つまり今で言う中産階級の平民だったと著者は明らかにする。従って『神曲』は新興都市中産階級が生んだ文学だ。中世後半における都市の発展とそれが生んだ都市市民階層の勃興なくしてダンテ、そして彼の跡に続くイタリア・ルネサンスの文学はあり得なかったのだろう。


第2章

 ダンテ批評史を扱う第2章では、ダンテは晩年『神曲』を書く以前から著名な文学者であり、『神曲』は出版されるとすぐに有名になって、古代ローマの古典同様に大学でも講じられる程の、当時における現代古典として扱われたと語られる。古代ローマの文学に対してのように、『神曲』には、当時から注釈も付けられた(これを原先生は「古注」と呼んでいる)。この「出版」は、文化的には周辺部にあるイングランドとはまったく事情が違う。ダンテの時代はまだ印刷がなかったが、イタリアでは、写本を、初期刊本に匹敵するくらい、大規模に筆写(つまり「出版」)できたらしい。ほとんどは一度に1冊写された写本を回し読みしたり、数人に朗読するだけだった中世イングランドとは、出発点から大違いである。つまりダンテは「出版」当初から、チョーサーのように少数の文学愛好者の知人・友人・パトロンだけではなく、数多くの知識人に、つまり世間の批評にさらされ続けた。

 中世英文学の代表的な作品は、チョーサーなど数名を除けば、写本が19世紀か20世紀に再発見されたか、あるいは好古家たち、つまり少数の古文書愛好家の間で保存され、読み続けられた。ということは、現存する大多数の中世英文学作品は、直接的にはロマン主義の解釈を経ずに、ヴィクトリア朝以降の、アカデミズムの発展と共に再発見され、文献学者による解釈が始まった。だから、中世英文学作品の批評は最初テキスト批評が中心であり、フィロロジストの独壇場で、文学作品としては充分な議論に乏しかった。それと比べると、ダンテ作品は書かれてからずっと、文学作品としてヨーロッパ中のインテリたちの批評眼にさらされてきた。その結果、良くも悪しくもロマン主義とそれに影響された批評家や学者の作った伝統が非常に分厚く、それらひとつひとつを解体(脱構築)しながら研究していかねばならないようだ。


第3章

 第3章では、これまでの校訂版や日本語翻訳が厳密な文献学的視点で検討される。その作業の題材として、イタリア語原典における主要なエディションであるペトロッキ版とサペーニョ版を取り上げ、特に『地獄篇』の最初の3行を徹底的に解析する。その目に見える違いは、ひとつのカンマ(イタリア語で「ヴィルゴラ」)の打ち方と"ché"という単語にアクセントを付けるかどうかという2点で、それがふたりの校訂者の作品解釈の違いをどう表しているかを丁寧に解説してみせるところは、校訂者の仕事がどういうものか知らない読者にとっては、目を見張る部分ではないだろうか。これに続く既存の日本語訳の精緻な解説と批評では、先人達の仕事に敬意を払いつつも、いやそれだけに厳しく各翻訳の問題点を指摘している。敬意を払うという事は、つまり率直な意見を書くということでもあると推察する。原先生は、特にどういう刊本に依拠してどのように訳したのかについて、細かく目配りしておられる。そもそも依拠した刊本を示してない翻訳もあり、また、複数の刊本や英訳などを参照したようだが、どこでどういう解釈を採用したか分からない場合もあるようだ。古典の翻訳における写本、初期刊本、現代の校訂本、そして翻訳への流れにおいて、その各プロセスの詳細を読者に明らかにしておくのが現在の常識となっているが、20世紀のある時期まではそうした水面下の部分は専門家だけが分かっておれば良い、という傾向があった。過去においては充分に受け入れられていた慣行が今や非常識に見えるのは仕方ない事で、必ずしも過去の学者を責められない。しかし、原先生がこうして各翻訳の特徴をまとめてくださったのは、ダンテの愛読者やこれから研究を始めようとする方にとっては助かるだろう。そしてそれ以上に、他分野の大学生、大学院生や一般読者にとって、本文校訂の作業とは何か、興味深く垣間見せてくれる。


第4章

 この章では、「地獄篇」第5歌に描かれるパオロとフランチェスカのエピソードを題材にして、『神曲』の登場人物であるダンテと、作品を書いた詩人ダンテを同一視するか、すべきでないか、という古くから論じられてきた問題が議論される。その前提として、パオロとフランチェスカの愛、そしてそもそも『神曲』の登場人物としてのこの2人と実際に生きていたラヴェンナ僭主の娘フランチェスカ・ダ・リミニとリミニ僭主の三男、パオロ・マラテスタがどのくらい一致するのか、精密に分析されている。

 フランチェスカは自分の夫でパオロの兄ジャンチョットと結婚していたのに、義弟パオロと不倫の愛に落ちた。しかし、古来、フランチェスカの無垢や夫ジャンチョットの容姿や身体の障害などを挙げて、彼女に同情し、理想化する解釈があったらしい。やがて、『神曲』の歴史的背景(この場合、恋人たちの伝記的「事実」)を切り捨て、学問的な分析を退けて、テキストが訴えかける感情に身を任せるのが正しいダンテの読み方だというロマン主義的解釈が優勢になり、その影響は20世紀まで色濃く残ったようだ。

 更に、「地獄篇」の登場人物としてのダンテはパオロとフランチェスカの悲恋に同情するが(ロマンチックなダンテ像)、この文学キャラクターとしての「ダンテ」は『神曲』作者のダンテとは別人であるから、作者ダンテがパオロとフランチェスカに同情しているとは限らない、と原先生は言う。そうすると、美しい愛を謳えあげたように見える「地獄篇」第5歌の描写も、違ったものに見えてくる。事実、テキストを詳細に検討すると、ダンテ以前に確立していた宮廷風恋愛の文学における恋人たちの様式化された描写をダンテは取り入れているようだ。従って、フランチェスカは同情すべき理想的な恋人ではなく、しかし現実に存在したフランチェスカ・ダ・リミニでもなく、謂わばアレゴリカルな世俗的愛の体現者として描かれていることになる。

 更に、この章の後半で、著者は読者にこうした描写の背景を理解させるために、『神曲』が一種の詩論としても解釈できるという学説を示し、当時のイタリア詩の重鎮で、清新体派の(創始者とされる)ダンテの師、グイド・グィニツェッリと、ダンテのライヴァルで、当時、詩人として大きな権威を誇ったグイド・カヴァルカンティについて、詩の引用を分析しながら、20数ページにわたって詳しく解説する(pp. 141-65)。

 グィニツェッリ、そして同じく清新体派の伝統に連なるダンテ、が詩作において表現する「愛」は、ロマンティックで肉体的な感情の発露ではなく、「哲学的、神学的に定義され、人間的な次元を超越した何か」であり、キリスト教神秘主義に類似した「見神の体験」、あるいは「神と人間を結びつける『愛』という概念」であった(p. 143)。原先生は、清新体派の愛についての解釈では、以前の日本のダンテ研究者にはこうした「哲学的・神学的理解が抜け落ちて」いたと言う(p. 143)。例として、原先生はグィニツェッリの「第五カンツォーネ」を引用しつつ、そこで描かれる「自然」(natura)は、「神から発して星々を経て地上にまで降りてくる影響の総体のことであり、グィニツェッリのこの詩は、人間の発生・・・と神が吹き込む霊(愛)の関係を含んでいる」と指摘する(p. 145)。このあたりは抽象的な議論で、予備知識のない読者がすぐに納得するのは難しいが、第7章においてより大きな視野から詳述されることになる。

 一方、ダンテが退けたカヴァルカンティの描く愛については、彼の代表作「貴婦人よ、我に頼みたまえ」を俎上に挙げて検討する。解釈の難しい詩のようであり、原先生の言葉をそのまま引用すると、「この詩は人間の認識の能力を司る能力と、その認識から生まれた美が人間に対してふるう力、つまり愛の関係を、当時の疑似生物学的思想によって説明したものである。ここに感情の表現は含まれていない。」(p. 156)カヴァルカンティも、グィニツェッリ同様、愛を感情表現からではなく、極めて理知的に捉えていると言えるだろう。この詩によると「『愛は知覚されたものから創造され』、具体的には『視覚によって得られた視線から出現する』。それは個的な女性の美ではなく、グィニツェッリの詩の解説で述べた脳の認識の抽象化=『普遍化』により、抽象的な美の認識に至る。・・・しかしながらカヴァルカンティの場合、その美は神の認識へとは繋がらず、知性の死と結びついている(そもそも永遠の霊的魂の存在を否定している)。」(p. 160)

 ここは抽象的な議論で、理解が難しいが、第7章とかなり関連しているので、本書を最後まで一度読んだ後で再読すると分かりやすい。当面、この章においては、文学キャラクターとしての作中のダンテは『神曲』作者とは別人であり、作中のダンテが同情したフランチェスカの悲恋を理想化するのは、ロマンティックな読み方に偏っていると理解出来た。


第5章

 前章に続き、この章でも既存の、かなりロマン主義の影響を受けた、従来の(特に日本における)ダンテ像を見直す作業が続く。特に章の終盤では、原先生独自の解釈が色濃く出て、深く迫力のある1章になっていると思う。

 ベアトリーチェについては、既に第1章で「ベアトリーチェというフィクション」というセクションがあり(pp. 28-33)、歴史的な事実により、ダンテはベアトリーチェの恋人ではないことが言明されており、これはまた、現在、世界のダンテ研究者によって共有されている認識のようだ。この章でも、ダンテと実在したベアトリーチェの実人生がほとんど交錯しないことが示される(p. 176)。このベアトリーチェというファースト・ネームは英語ではベアトリス(Beatrice)で今もよくある名だが、「祝福を運ぶ者」という原義で抽象的な意味を持っている。つまり、道徳劇や寓意的な文学作品の登場人物のような寓意的(アレゴリカルな)名前なのである。『神曲』と共に、ベアトリーチェが登場する『新生』の解釈においては、近年の研究者はベアトリーチェを聖者伝の聖者のような人物と考えているようだ。登場人物のダンテは、ベアトリーチェという(ロマンチックな恋人ではなく)ガイドとしての聖女に案内されて神へと近づくのである。

 こうしてヴェルギリウス、その後はベアトリーチェに導かれて、地獄、煉獄、天国を巡る「ダンテ」という登場人物は、『神曲』の読者の目の代わりをする。原先生によると、「そう、『私』はダンテであると同時に『私達』なのだ」(p. 181)。登場人物ダンテがヴェルギリウスとベアトリーチェに導かれるように、私たち読者も、作中人物としてのダンテの案内により、人類の救済を求める旅路を行くのだろう。

 更に、作中のダンテが地上を離れて煉獄や地獄を巡り、そしてついに天国に達するということは、地上に降りてきたイエスが肉体の死を経て地獄を解放したのち天国に帰って行く道のりとも重なる。原先生は登場人物としての「ダンテ」を2つの役割に分割し、「旅人ダンテ」と「詩人(預言者)ダンテ」と名づける。前者はヴェルギリウスとベアトリーチェに道案内された文字通りの旅人であり、読者の目や耳となる人、後者はキリストと重なり、「この世界に戻った後、神からの預言を人々にもたらす」人である(p. 189)。このキリストと重なる預言者ダンテは、中世文学でしばしば現れる神の「予型」(フィグーラ、figura)とも解釈される。私の勉強してきた中世の聖史劇では、神の予型として解釈されるのは、アベル、ノア、イサクといった旧約聖書の人物だが、『神曲』では登場人物ダンテがそのように解釈されうるようだ。と同時にダンテは現実に存在した歴史上の人物で、『神曲』を書いている詩人自身でもある。ダンテという預言者を通して、この世、即ちイタリアの現実世界へ神の意図を知らしめようとするのが『神曲』という作品なのであろう。


第6章

 本書の後半、特にこの第6章(50頁)と第7章(53頁)は概念的な議論が長く続き、即物的で頭の悪い私にはあまり理解出来ず、苦労して読んだ。段々と結論に向けて進んで行く道程は、ダンテの描く煉獄山を思い起こさせる。

 本章では前章に続き、予型論(フィグーラ論)から始まる。この予型論の先駆者として、古典的な文芸批評を何冊か書き、今も読み続けられるエーリッヒ・アウエルバッハの予型論によるダンテの理解が紹介される。アウエルバッハのフィグーラ論を利用する事が、原先生のダンテ論の重要な柱であると思ったが、しかし、これを利用する事で先生の本全体がかなり難解なものになってしまった気がする。アウエルバッハのフィグーラ論は「通常のアレゴリーとは区別」される(p. 204)。即ち、


フィグーラの両極は時間的に分けられているが、両者は、現実的な出来事、あるいは形姿として、時間の内部に横たわっている。(中略)[その一方で]大多数のアレゴリー、文学あるいは造形美術のそれは、徳(たとえば、知恵)や情熱(嫉妬)、あるいは制度(法律)また、ひょっとすると歴史的現象の最も一般的な総合(平和、祖国)を表現する。決して特定の出来事の完全な歴史的内容を表現することはない。(p. 204、但、この一節はアウエルバッハ「フィギューラ」の和訳からの引用。出典について詳しくは本書の巻末注6、p. 19参照)


原先生は更にアウエルバッハのこの考えを解説して書く、「個的特徴を持たず、抽象的、類型的な存在でしかないアレゴリー的表象と異なり、ダンテが予型論で描くのは、歴史上の特定の人物の、彼を表象する現実的な事件である」(p. 205)。つまり、作中人物としてのダンテやベアトリーチェといった歴史上でも存在した人物も、アレゴリカルな意味を帯びて登場するということだろう。但これだけだと、ではアレゴリカルな意味を帯びた人物を多用する西洋近代小説や演劇作品(たとえば、ディケンズの多くの作品)とダンテはどう違うのか、と思うが、中世文学である『神曲』においては、アレゴリカルな意味を帯びつつ描かれる歴史上の個人は、全知全能で時間を超越する神の視線の下で、その歴史的な限界を超えていくことになる。更に引用すると、


・・・ダンテ自身は彼の現在として地獄や煉獄、そして天国さえも通過していくが、死者たち、つまりフィグーラの成就であるはずの登場人物たちは永遠の位相に住んでいるからだ。これに対しては、アウエルバッハは地上の事物の一致の延長線上にプラトン的な永遠なるものの出現を見ており、それは「時間の違いが存在しない神の摂理においてはいつもすでに成就されたまま横たわっている」としている。(p. 206、鈎括弧内の引用は、前掲アウエルバッハ「フィギューラ」より、巻末注10、p. 19参照)


言い替えると、『神曲』という物語、一種の巡礼記、においてダンテという登場人物は時間を経ながら順番に地獄、煉獄、天国と回っていくが、そこで彼が出会う人々(永遠の魂たち)は時間を超越した世界に存在する。『神曲』は人の時間と永遠とが交わるという、おおよそ不可能な表現を試みた作品であるが、天国や地獄を描くのであればそうならざるを得ない。原先生の別の表現を引くと、「歴史的事実がアレゴリーとして読み込まれ、神の言葉としての永遠の位相に反映されるのが神学者のアレゴリーであり、それはアウエルバッハのいう『フィグーラ』をも含む」(p. 208)ということらしい。このあたりは、中世の哲学や神学の文章を読み慣れている方々には分かりやすいかも知れないが、一般の読者にはかなり難しいところであり、私も十分理解しているか心許ない。

 この神の視野の下にある永遠ということを突き詰めていくと、結局、我々人間のすることは皆予め決定されているという宿命論(決定論)にたどり着く。こうした考えが中世の社会や学問にどう根づいていたかを本章では歴史的に説明し(pp. 212ff.)、イタリアにおける封建領主社会から都市と都市市民階級の勃興への流れ、イスラム占星術の影響とダンテの先達ブルネット・ラティーニの思想などに触れる。細かく書かないが、このあたり、大変勉強になる。ラティーニはイスラム文化の影響を受け、決定論的であり、原先生の言葉では、「『運命』あるいは『定め』が人間の行動を決定し、人間の側の自由意志が否定されているかのような気配がある」(p. 223)。

 そうしたことを踏まえ、ジェフリー・チョーサーの作品でもお馴染みの「運命(あるいは、運命の女神)と人の自由意志」の議論が展開される。ラティーニが、神の与えた運命の前では人間の自由な意志の存在する余地はない、と否定的な考えを採るのに対して、登場人物ダンテは第15歌の93行で、「運命の女神に対する備えは、彼女が何を望もうとも、できています」と言う(p. 226)。確かに人間には神の深い意図を常に理解することは出来ないが、「事物の変転のなかに、ダンテは神慮があると考え、己の自由意志により理性を駆使して正しい道を選ぼうとする」(pp. 226-27)。これはチョーサーの作品やその他多くの中世の文学作品にもうかがえる考えであり、また中世の文学や哲学などを越えて、信仰の表明とも言えるだろう。

 さて、この後、原先生は一旦概念的議論を離れて、同時代のフィレンツェと都市の金融業、特に高利貸し、について解説する。神が与える宿命が人間を縛っているために神の思惑は分からないと決定論的に見てしまうと、世界で起こっていることは善悪問わず何でも認める、つまり弱肉強食の経済原理の全肯定、現代的に言えば新自由主義的な経済活動の肯定に繋がりかねない。そこでは平民(「ポポロ」)の生活を食い荒らす大規模金融業者と少数の権力者、外国勢力などが支配する国家観が出現する。フィレンツェの小市民で、選ばれて頭領の1人として政治にも関わったダンテは、こうした流れに棹さすが、母国を追われ、『神曲』執筆時には亡命者となっていた。詩人ダンテの考えでは、人はそれが宿命と考えて欲に溺れて他者を食い物にしてはならず、自由意志を働かせて他者と共存し(「平和」の希求)、より良く国を治め、正しく生きねばならない。原先生の言葉では、「人は神からの贈り物としての自然に働きかけて、その恵みによって命をつながなければならないとダンテは主張する。それゆえ金銭が金銭を産み、財をそれ自体で生むという利子は本来あってはならないとする。」(pp. 235-36)

 こうして見ると、神から富や権力を与えられながら、自由意志を行使してより良く生きる道を選ばなかった者たちはまさに地獄に堕ちるに値し、実際、『神曲』ではそうした人々の慟哭が地獄を満たしている。一方で、市井に生きる慎ましい職人や商人などは、生活を立てることに全力で向かわざるを得ず、生き方を選ぶための富も権力も元々与えられてはいない。生まれ育った都市から、ダンテがしたように亡命することも出来ない無名の人たちは、庶民の冷静な知恵を働かせつつ、人生を過ごしている。彼らは「困難に立ち向かって正しい行いを貫徹した天国の聖人でもなく、神慮に逆らって己の行いをこそ是とした地獄の罪人ともことなる」(p. 243)。こうした人たちが生き残るためにやむを得ず犯さざるを得なかった罪を悔悛し、神の御許に赴くべく試練を受け止めるのがダンテの描く煉獄である。そうして彼らは煉獄山を、まるでサンティアゴ・デ・コンポステーラやエルサレムを目ざす巡礼たちのように登っていき、罪を認めて悔悛しつつ、一歩一歩神へと近づいていくわけである。

 第6章は「ダンテにおける平和」(p. 245-50)と題されたセクションで終わる。ここで原先生はダンテが『神曲』と同時期に書いたとされる『帝国論』を素材にして、中世における国家、社会の各組織(身分、職業、一族、都市、その他)、そして個人の関係について論じる。この書物の中で、ダンテは、国家や、社会の各組織はもちろんだが、個人に対しても「永遠なる神が自己の業なる自然を通じてそれがために人類全体を想像した最善の目的が存在する」と書く(p. 247、この引用はダンテ『帝政論』の日本語訳より。巻末注37、p. 21参照)。そしてこの神により個々人が、従って人類全体が与えられている最善を志向する知恵をダンテは「可動的知性」(ラテン語で、'intellectus possibilis' )と名づけている。この「可動的知性」、神の示した最善を求める指向性は、個人が「座して安らうこと」、そして人類全体の「平和の静けさないし安らぎ」の中で「最も自由に、そして最も容易に遂行できる」とする(p. 248、語句の引用は引きつづき『帝政論』より)。更に人の自由意志を最終的には否定する決定論者がその拠り所のひとつとする「天空の影響」も神の作った「自然」の一環であり、個人の可動的知性を開花させるために存在するとダンテは考えた。「こうして、ダンテにおいては等しく神に与えられた個別の魂のそれぞれの多様な人生が重要視されることになり、その目的のためには[一都市や一国家を越えた]人類全体の平和が必要とされたのである。」(p. 249)

 この第6章はダンテの思想の根幹を捉えようという試みで、圧巻であり、読めば読むほど説得力が増すと感じた。ダンテが社会の組織や国家の枠を越えて人類の平和を希求したという点は、21世紀の私たちへの原先生のメッセージでもあるだろう。但、本章は抽象的な議論が続き、読者にとってかなり難解でもある。ひとつひとつのセクションをよく理解しておかないと、原先生の思考がどう繋がって進行しているのか分からなくなりそうだ。


第7章

 この章は、第6章の最後に扱ったトピックでもある「世界平和という思想」をタイトルとしたセクションで始まる。前章では概念的な議論であったが、ここではその思想が生まれた中世西欧の社会的背景の説明で始まる。都市の勃興と都市が生んだ市民層を経済的に支えていたのは商業の発展だった。それ以前の、圧倒的多数の貧しい農民と彼らを支配する騎士たち、つまり戦士階級の文化とは異なり、大多数の慎ましい市民層は政治の安定と平和により栄えることが出来た。しかし、大銀行家を中心とした一握りの富裕層は封建領主と結びつき、合議制と平和を求める市民層と対立する。ではダンテはこうしたイタリアの現実の下で、どういう国家の統治を求めていたのか。原先生は、『神曲』、特に「天国篇」とほぼ同時期に書かれたとされるダンテの『帝国論』を手がかりに、この作品と「天国篇」のテキストを引き比べつつ、第6章で議論された人間個人の「自由意志」の問題と絡めて、「世界平和」の議論を進める。

 原先生によると、ダンテの考えでは、神は人への最大の贈り物として「意志の自由」を与えているが(p. 259、「天国篇」第5歌など参照)、この自由意志の行使には正しい方向性を持った「知性」による「判断」が必要とされる(p. 261)。そしてこの「知性」もまた神に与えられたものであり、「人間の魂の本質部分」(p. 261、「煉獄篇」第25歌参照)である。ダンテの言う神に与えられた知性は、既に出て来た「可動的知性」、つまり自ら己を振り返る力を持つ自由意志と一体となった知性である。『帝政論』は地上世界のあるべき姿を書いた書物であるので、「人間が最も自由な状態に置かれているならば、人間個人が神を志向することは揺るがない」はずである(p. 269)。しかし、『神曲』では、そのあるべき「『最も自由な状態』が地上で実現されていないために、過ちを犯してしまう可能性が強調されている」(p. 269)。さて、この神を志向する上で欠かせない「自由な状態」、あるいは「座して安らうこと」は、社会や国家における、更に人類全体の普遍的な平和へと繋がっており、神へと向かう「条件」なのである(p. 271)。そしてこの国家の平和を担うべきとダンテが考えた権力者が、皇帝だった。

 さて、例えばチョーサーの作品で見られるように、中世文学で自由意志の概念と両立するか否かが問われるのが、天体の影響である。天体の影響、運命の女神、宿命等々と言い替えられるこれらの抗いがたい力を前にして、人の自由意志はどう位置づけられるのか。ダンテにおいては、こうした「運命」も神の創られた「『自然』の営為の一部であり・・・、その開花は人類全体として考えれば神の偉大さを示す称賛になる」(p. 272)。但、ダンテにとって、そのような「開花」は平和な状態、安らげる世界の存在を「条件」としているが、それぞれ世俗世界と精神世界を導くべき皇帝と教皇が彼らのなすべき務めを果たしていないために平和が存在せず、多くの人々は暗い森に入り込んで神への真っ直ぐな道を見失い、死後に地獄や煉獄へと堕ちてしまっているというのが、ダンテが見ていた現実のようである。

 第7章後半、273頁以降で原先生は主として「天国篇」について解説し、そこで本章のタイトルでもある「ベアトリーチェの微笑」とは何かを明らかにする。詩人は「地獄篇」と「煉獄篇」で「導きの歪んだ地上世界の姿と、その世界の中で苦しむ一人一人の人間の姿」を描いた(p. 272)。こうした地獄や煉獄の描写のダンテ流のリアリズムを理念上支える世界平和の思想が『帝政論』と『天国篇』で開示される。つまり、「地獄篇」や「煉獄篇」では、「この人は生きている時こうだったから、死んだ後はこういう所に堕ちた」ことが描かれるのに対して、「天国篇」では、そうした「現実描写」はなく、「登場する人物たちの地上における具体的な認識、判断、行動を示すことで天国への道を示すとともに、それぞれの魂の置かれた天空が、その魂の持つ『力』(徳)が実行された結果として、その居場所となったことも表示する」(p. 273)。

 では具体的にはダンテの天国はどう描かれているのか。原先生は煉獄山の頂上で登場人物ダンテがガイド、ヴェルギリウスと別れるところから話を始める。ヴェルギリウスは登場人物ダンテにとっての知性であり、判断力であったが、ダンテは彼の自由意志を行使してヴェルギリウスの後を歩き、導き手の祝福を得て天国へと入る。ここで原先生は「天国篇」第1歌冒頭の3行を細かく分析する:


万物を動かされる方の栄光は

全宇宙をあまねく貫き、その反射は

あるところでは強く、別なところでは弱く輝く。

(p. 276、講談社学術文庫版 p. 18)


かみ砕いて考えると、「万物を動かされる方」、つまり神から光線が発せられ、被造物はそれを受けて「反射」するが、その反射の輝きは強弱がある、ということだ。この神の光線の発射は、天地創造の、そしてその後の世界のあり方の表現であり、詩的語彙を使えば、神と被造物との「愛」の交換ということになる。原先生の文章を引用すれば、「全事物は神の愛ゆえにその有り様とともに創造され、その存在は喜び、つまり神への愛を返す」(p. 278)。煉獄の旅の完了と共にダンテは神の国に入ることが許されて、「神の恵み」そのものを意味するベアトリーチェと出会う("Beatrice", Latin "Beatrix": one who brings happiess)。原先生はここで第4章で詳しく解説されたパオロとフランチェスカの愛に言及しつつ、地獄に堕ちた恋人たちの愛も、天国の神への愛と、愛の性質としては共通していると指摘するが、しかしこれらの恋人たちの「恋愛が地獄に堕とされているのは、具体的な肉体=物質の持つ美に執着し、そこから抽象的な美の徳や神の愛に気づけなかった結果であることが分かる」(p. 282)。

 さて、「煉獄篇」の最後でベアトリーチェに出会った登場人物ダンテは、彼女の「聖なる微笑は/古[いにしえ]の網でこれほどまでに目を自らのもとに誘い込んでいた」と述べる(p. 284、第32歌、ll. 5-6、文庫版p. 470)。つまり、「ベアトリーチェは神から発せられた光線を受けて反射光を放ち輝く何かである。それが、本来は世俗の表現に使われる『微笑』として姿かたちを与えられている」(p. 284)。ベアトリーチェという光り輝く者まで議論を進めたところで、原先生は読者に再び「地獄篇」冒頭の「暗い森の中をさまよっている自分[我ら]」を思いださせる。ここまでの懇切丁寧な議論により、地上世界にいる「我ら」はしばしば神の光を見失い、「まっすぐに続く道」即ちキリストの跡を追えなくなって、暗い森の中に迷い込んでいることが分かる。つまり、人は自由意志を充分に働かせずに「気づきの機会を逃してしまった」のである(p. 286)。

 この後、原先生は、神の光を正しく反射できなかった、即ち自由意志を行使するにあたり、正しく「判断」出来なかった人物の例として、ダンテのライヴァルであったグイド・カヴァルカンティについてしばらく語る(pp. 286-92)。

 この章の最後では、「地獄篇」第26歌に登場する古代ギリシャの英雄オデュッセウス(英語名「ユリシーズ」)を通して、「地上における神の世界のアレゴリー」(p. 292)が検証される。ダンテはホメーロスの原典を知らず、西欧中世においては教会説話などで広まっていたオデュッセウス像を基に人物を造形した。彼の描くオデュッセウスは世界の果てを目指し、神の怒りに触れて地獄の最下層、マレボルジュに堕とされる。このオデュッセウス像はふたつの要素を基に出来た。ひとつは、トロイ攻めの木馬のトリックを発案した詐欺のアレゴリーであり、もうひとつは、真理と天国を求めて旅立つ信仰のアレゴリーである。但、『神曲』で描かれたオデュッセウスの場合、後者の要素は、真理の探究ではなく、やみくもな好奇心にすり替わってしまう。「地獄篇」第20歌で、彼は次のように語る:


わが息子への深い愛情も、老いた父への

敬愛も、ペーネロペイア[彼の貞淑な妻]を幸せにしたはずの

誠実な愛も、

わが心に燃える炎に打ち克つことはできなかった。

私はなりたかった、世界の事物と、

人の悪と、理想の徳を知り尽くした者に。

だから、私は、飛び込んでいった、果てしなく広がる大海原のまっただ中へ。

  (p. 298、「地獄篇」第26歌 ll. 94-100、文庫版 p. 391、

   なお、本書p. 298で第20歌となっているのは誤記と思われる。)


家族への愛を捨て、徳を高めることを怠り、つまり自由意志の判断を誤って、オデュッセウスは欲望に突き動かされて大海原の果てを目ざすが、死後にマレボルジュに堕ちる羽目になる。ここで原先生は、アウシュビッツを生き抜いた作家プリモ・レーヴィの言葉を引用しつつ、レーヴィにとって、そしてダンテにとって、「大海原」は「自由と生命の象徴」であったと言う(p. 302)。但、この「大海原」に旅立って、その結果地獄に堕ちたオデュッセウスをどう考えるべきかについて、原先生は302-03頁で触れつつも、この章では明快な答を与えていないようで、読者はもう一度、レーヴィとオデュッセウスについて次の補章で詳しく考える事になる。

 第7章の結びは、登場人物ダンテが天国の頂点、至高天(エンピレオ)に到達し、彼の魂が光線となって神へと向かうことを確認して終わる。彼は「暗い森」から出発して、「真っ直ぐな道」、つまりキリストを見出し、「彼自身がその光線となって神のもとに戻ったのだ」(p. 305)。本書の読者は、まるでヴェルギリウスとベアトリーチェに導かれた旅人ダンテのように、原先生の文章に導かれて『神曲』とダンテの世界を巡り、ここで一応の終着点に到達する。しかし、上記のように、まだ幾らかの疑問が残っており、それが補論で論じられる。


補論

 何のために「補論」なるものがついているのか、目次を見ただけでは疑問だったが、読んで見ると、この本にとって、そして原先生の研究姿勢にとって、無くてはならない文章である。既に述べたように、本書は博士論文を元にして書かれているそうだ。一般的に博士論文では、それまでの研究を踏まえて、先行研究においてあまり論じられていないテーマを見つけ、深く掘り下げて、その学問分野に貢献することが求められる。結果的に、基礎知識に乏しい一般読者には理解しがたい、学者に対してだけ関心を呼ぶような論文が出来上がる。一方本書は、ダンテの『神曲』という、日本でも義務教育の教科書を通じて誰しも名前を聞いたことがあり、多くの人が一部でも読んでいる世界文学の古典を通じて、最終的に「人はどう生きるべきか」、「人の生きる意味は何か」という愚直で、時空を越えたユニバーサルな問いかけをしている本だと思う。この補論で、原先生は、アウシュヴィッツで友人ジャンに『神曲』について語ったユダヤ系イタリア人作家プリモ・レーヴィの自伝的作品『これが人間か』(1947)を取り上げ、『神曲』が大昔の外国文学の書物というだけではなく、現在を生きる私たちにとって切実な意味を帯びうる作品だと教えてくれる。

 この作品名(正確には『これが一人の男だろうか』)は作者自身によるのではなく、出版社が考えたもので、レーヴィ自身は『どん底』、あるいは『沈んだ者たち』という題名を希望していた。これら採用されなかったタイトルは、『神曲』の地獄とそこに「沈んだ者たち」を示唆していたようだ。とりわけ「『地獄篇』第20歌の冒頭にある・・・『闇に沈んだ者どもをめぐる曲』という言葉の引用なのだ」(p. 314)。そして、第7章で触れられていたように、『神曲』のオデュッセウスも地獄に沈んだ者のひとりだった。そして、原先生は『これが人間か』巻頭の詩も「天国篇」第2歌冒頭の詩句と共鳴していると指摘する(但、この類似はイタリア語を解しない私には分かりづらくてやや無理があるようにも見えたが)。少なくとも、詩人ダンテは、天国の海を渡る登場人物ダンテと、故郷と家族を捨てて果てしない旅に出て地獄に堕ちたオデュッセウスを比較するように描く。こうしてみると、レーヴィは『これが人間か』の冒頭からダンテの描いたオデュッセウスを意識していたわけだ。

 但、『神曲』のオデュッセウスは地獄で永遠の苦行を続ける。煉獄に送られた者たちと違い、彼に救済の望みはない。これは異教の時代に生まれ、神の知恵に触れる機会を与えられなかったオデュッセウスにとって仕方ないことなのか(ダンテはオデュッセウスの不条理な運命に同情的だという説もあるそうだ[p. 317])。キリストの降臨以前に生きた彼は、正しい判断を下すために必要な神からの知恵を持たなかった。第7章で原先生が指摘したように、オデュッセウスは言う「私はなりたかった、世界の事物と、/人の悪と、理想の徳を知り尽くした者に。/だから、私は、飛び込んでいった、果てしなく広がる大海原のまっただ中へ。」(p. 298、「地獄篇」第26歌 ll. 94-100、文庫版 p. 391)オデュッセウスは知恵を求めていたが、その機会を与えられていなかった。彼と同様に、プリモ・レーヴィもこの世の地獄であったアウシュヴィッツで救いの希望のないままに生きていた。オデュッセウスとレーヴィの物語は、それゆえ「神の決定の不可知、さらに踏み込むと、不条理を描いていると考えられる」(p. 317)。

 レーヴィは収容所で収容者の食事を取りに行く道すがらフランス人ジャンにイタリア語の簡単なレッスンをしたが、その教材として途切れ途切れになる記憶を辿りながら『神曲』をフランス語に訳す。彼はジャンに「耳と精神を開くのだ」(p. 318)と語りかけ、謂わば『神曲』の講読をしつつ、自分自身、まるで黙示録のラッパを聞き、神の啓示に打たれたかのように我を忘れる。それは「地獄篇」第25歌、67-72行に描かれた「ダンテが煉獄で人間の成り立ちの自然描写的真理を聞かされる場面のオマージュ」(p. 319)だそうである。第6章で詳しく述べられたように、ダンテは、人間は正しい判断を行うための「知性」を神から与えられており、そしてその判断に基づいて「自由意志」を行使すべきと考えた。但、自由に知性を働かせ、正しく判断するためには、安らぎと平和が必要だったはずだが、アウシュヴィッツの収容者たちにはそのような平和は許されていない。収容者は「分断され、人間として扱われていない」、「枠場に捕らわれた」人々である(p. 320)。彼らは、文字通りこの世の地獄で獣のように生きざるを得ず、自らを殺すための道具である十字架を背負わされてゴルゴダの丘を上るイエスになぞらえられる(p. 320)。にもかかわらず、レーヴィには『神曲』のおかげで「ある種の真理の啓示ともいえる瞬間があり、それゆえに彼もまた、ダンテのように真理を地上に届ける決意を担うことになったのである」(p. 320)。但、彼とジャンの肩にかかっていたのは十字架ではなく、当番として彼らが運んでいた50キロもある大鍋だったが。

 ダンテは13世紀始めに『神曲』を書き終えたが、彼の死後、イタリアを始めとしてヨーロッパ全体を黒死病が襲い、人口の3分の1を超える人が亡くなる。プリモ・レーヴィはホロコーストによりヨーロッパのユダヤ人コミュニティの多くが殲滅されるにいたる時代を生きた。ペストやホロコーストというこの世の地獄を前にして、人は神の全知(Providence)をどう受け止めれば良いのだろうか。レーヴィはアウシュヴィッツという極限状況下で、『神曲』について語ることで彼の物語を紡いで、地獄で生き続ける意味を探ろうとしたのだろう。原先生の言葉を引用すると、「人は、物ごとを理解するには、必ず物語を必要とする。思考することを否定するような場所を描くにあたり、己の持っていた人間を取り戻すためには、思考を取り戻すためには、彼には文学が必要だったのだ。」(p. 324)

 原先生は、この補論を本書の最後に加えることで、ダンテの描いた宇宙とそこにうごめく人々の物語を通じて、現代におけるダンテの読者に、「人はどう生きるべきか」という愚直な問いを考え続けるよう促していると思う。


終章 結論

 この章では、一般的に博士論文はそうなっていると思うが、本書全体の意図と(p. 329)、各章毎のかなり詳しいまとめ(pp. 329-44)が書かれていて、本書を読んで良く分からないままの部分があっても、ここを読むと復習が出来るようになっており、親切だ。但、ここで新しく付け加えられた記述もある。第4章についてのまとめでは(pp. 332-35)、ジーン・A・ブラッカー『ルネサンス都市フィレンツェ』の翻訳者(森田義之、松本典昭)の解説のかなり長い引用など、4章を補完する新たな解説が加えられているので、注意が必要だ。原先生自身、「本論文では扱わなかったが、個人の概念については・・・」という文章で議論を始め、12、13世紀の中世における所謂「ルネサンス」と、そうした時代における「個人の誕生」と言われる文化・思想の変化について概括している。西欧文化史や思想史における「個人」とは何か、またそもそも「ルネサンス」とは何かと言う問いへの答は非常に難しく、歴史学者や文学史家それぞれの視点の置き方により大いに違うだろう。原先生が訴えようとしているのは、かっては「ルネサンス」とか「個人」と言う時には、文化史の巨人しか視野に入っておらず、庶民への注意が抜け落ちていたこと。そして、中世の商業と都市の発展の中で、知識人のみならず、一般の庶民に対しても、「個人」の存在、精神(あるいは自由な意志)の表現を見ることが出来る、ということだろうか?但、私の理解で先生の真意をくみ取っているかどうか心許ない。そして、一人の一般読者としての私はそこに問題を感じる。つまり、本書は副題が「『神曲』と〈個人〉の出現」となっており、ダンテにとって、そして中世西欧における、「個人」とは何か、ということが本書の最終的な理解のために必要なのだろうが、こうして結論部のまとめで新たに補強しなければならないようでは、読者に不親切なのではないか。本書は、読者として、イタリア文学研究者だけでなく、一般の教養人も念頭に置いていると思うが、副題に書かれている点が不消化のままに読了される方が多いかもしれないと危惧する。

 なお、この部分に「自我という個人の概念の覚醒は十二世紀のカロリング・ルネサンスや・・・」(p. 332)とあるが、ここでの「カロリング・ルネサンス」がフランク王国のカール大帝(814年没)時代の文化を指すとすれば、十二世紀というのは書き間違いだろうか。一方で、カール大帝の時代や、英文学で言えば、『ベーオウルフ』や古英語の叙情詩など、8~11世紀のアングロ・サクソン文学にも充分に個人の感情の発露は見られる。つまり視点によっては、中世における「個人の誕生/出現」をどの時代に見出すかには大きな幅がありそうだ。そう考えてみると、副題のつけ方に改良の余地があったか、もしそうでなければ「〈個人〉の出現」という点について、本論全体を通してくさびを打つようにこの主題を読者に思い起こさせ、終章にあるような(例えば先行する中世におけるルネサンスとか、「個人」概念の変化について)充分な説明が必要だったのではないか。

 341頁では、補論について簡潔にまとめられている。私は補論を読んでいる間は、レーヴィのオデュッセウスとダンテのオデュッセウスがどう重なり、どう異なっているのか充分に理解したと言えなかったし、補論の最後(pp. 324-25)は、文学的な終わり方をしていて、簡潔なサマリーとはなっていない。しかしこの終章において、レーヴィの見たオデュッセウスは『神曲』をインスピレーションとしつつもダンテのそれとは違い、「自分たちを仮託できるような、肯定的な存在だった」(p. 342.)と述べられていて納得出来た。と同時に、補論の本体で何故私は理解出来なかったのかと残念でもある。


あとがき

 あとがきは次の一文で始まっている:「ここまでお読みになってくださった賢明な読者諸氏にはお分かりのことと思うが、本書『ダンテ論』は、ダンテ論の無効を宣言している。』(p. 355)この文を読んだ「賢明でない読者たち」は、原先生の言っている意味が分からないだろう。そして私もそのひとりだ。これまで344頁を費やして『ダンテ論』を書いておいて、それは「無効」だと言われる。その意図は次の段落で説明されるわけだが、こういう文学的な(屈折した、と言うべきか)修辞が読者を遠ざけないだろうか。但、そういう原先生の態度を作ったのは、ダンテを絶対視しがちな従来の日本のダンテ研究の風土や翻訳者たちの態度でもあったようだ。そこで彼は、そうしたダンテ信仰の土台を、伝記的事実の洗い直し、過去の翻訳の批判的検討、テキスト校訂作業の解説、ロマン主義によって形成されたダンテ像の検討、その他の手順を踏んでひとつひとつ脱構築し、最後に残った中世のダンテのメッセージを読み解こうとされている。そのプロセスにおいて、彼が目ざしたのは、恩師河島英昭先生から教わった、現代にも通じるダンテ、つまり普遍的な文学作品としてのダンテだった。原先生をそのまま引用すると、「・・・ダンテを今ここで読む意味を探し求めていたのかも知れない。言い替えると私たちもその一員であるこの世界の中に『神曲』を位置づけること、それは文学の普遍性の問題と言ってもよいだろう。そしてこの「普遍性」こそは、遠い昔に[恩師の河島英昭]先生から預けられた宿題だった」(p. 349)。だからこそ、原先生は、補論でプリモ・レーヴィを論じないわけにはいかなかったのだろう。

 更にあとがきを読むと、本書の執筆において沢山の方々が原先生を熱心に応援し、本書に形を与える手助けをしたか分かる。彼は同好の人々を引きつけ、彼を助けたいと思わせる才能を持っておられるようだ。


 さて、随分長い「まとめと感想」になってしまった。もっと要点だけ整理してからブログとしてアップロードすべきとは思うが、学術誌の書評論文ではなく、個人の楽しみで書いているのでこのままでご容赦願いたい。章を追う毎に長くなっているのは、ひとつには後の方の章、特に第6,7章が実際に長いからでもあるが、私がこれらの章をより大きな興味を持って読み、詳しい学習ノートを残しておきたかったからである。ここでその内容を再度繰り返す必要はないが、神の永遠の視線の下にある人間の運命、そしてそのキリスト教の世界観の中での自由意志の役割などについてのダンテの考え方など、中世英文学を読む上でも大変参考になった。更に、アウエルバッハのフィグーラ論、ダンテにおける予型論的人物、「個人の出現」に関する原先生の考えなど、私が全て理解出来たとも、また必ずしも同意できるとも言えないけれども、それだけに考える種を豊富に提供していただいた。今後も本書を読み返したい。『神曲』やその他のダンテの著作も今後再読、あるいは新たに読んでみたいという意欲が湧いた。私が特に著者に共感するのは、ダンテを今を生きる私たちの視点で読んでいることだ。どんな古典も常にそれぞれの時代の視点で読み直される。文学史におけるルネサンスや「個人」の息吹以上に、原先生は中世イタリアに生きたひとりの詩人としてのダンテに、ヒューマニズム、人間中心主義、の普遍的な「光線」を見ていると思った。

 最後に、無いものねだりとは分かっているが、本書にこれがあったらという希望を2点付け加えたい。ひとつは索引。本文353頁、更に注・参考文献36頁ある本書を、一読するだけでなくその後も研究資料や参考書として充分活用してもらうためには、簡単でも索引は欲しい。もうひとつは、図版。既にカラー図版が2頁と、中世のフィレンツェの地図などが少し含まれているが、『神曲』には見事な彩色写本画が沢山描かれており、それらを見ると中世、初期近代の人々が考えたダンテの地獄、煉獄、天国が良く分かるので、(価格の上昇を押さえて欲しい気持ちもある一方で)そうした図版がもう少しあると、一般読者には親切だったであろう。

 このような素晴らしい本を世に出し、日本語の読者にダンテの普遍性を再認識させて下さった原先生にお礼を申し上げたい。今後、学術誌などで、専門家からの批評が出ることを期待したい。 

2021/11/09

『カンタベリ物語』オンライン読書会(2021/10/30)の感想

 大分時間が経ってしまいましたが、10月30日夜にあった「『カンタベリ物語』オンライン読書会」(ヒロ・ヒライ先生主宰)の感想を書いておきます。このオンライン読書会は、池上忠弘監修『カンタベリ物語 新共同訳版』(悠書館、本年10月刊行)を記念して、企画されました(『カンタベリ物語 新共同訳版』については前回のエントリ参照)。西欧科学史、特に錬金術の歴史などの専門家で、長年欧米で教育・研究をされてきたヒロ・ヒライ先生が主催され、ネット上でZOOMを使って開催されました。参加費は2,000円で、有料の講演会、プラス参加者との質疑応答よりなります。1時間半の予定でしたが、2時間10分以上続き、大いに盛り上がって、充実した会となりました。

まず3人の豪華な講師陣(ヒライ先生、中世英語英文学研究者で明治大学准教授の狩野晃一先生、YouTube番組、「スケザネ図書館」で人気の書評家、渡辺祐真[スケザネ]さん)のミニレクチャーを約1時間聴き、その上で、参加者全員が少なくとも1回以上はコメントなど言うことが出来て、皆さん満足できたと思います。有料だったので、参加者数は限られていたのですが(定員20人で、実際の参加者は講師陣も含め16人とのことでした)、その分、中味が濃くて、こういう会があっても良いなと思いました。

新共同訳をベースにして話し合ったのですが、ヒライ先生の専門的知見によれば、解題に修正すべき点もあるとのことで、他分野の専門家との交流が大切だと痛感しました。渡辺祐真(スケザネ)さんのコメントはなかなか鋭く、驚嘆しました。分野を問わず、文学的な感性を発揮出来る書評家の方の見識は凄いと思いました。

この読書会の話を始めて知った時には、『カンタベリ物語』のなかで、よりによってあまり面白くなく、ほとんど誰も読まない(?)「律修参事会員の話」を取り上げるなんて、と思いました。更に、このお話は、謂わば中世の科学実験を巡る詐欺の話で、錬金術に関する専門用語だらけです。正直言って、子供の時から化学が苦手な私としては、ちょつと拒否反応を感じます。一方、学会・研究会でお世話になっている優秀な研究者の狩野先生が出られるので、出ようかと思ったり、でも話自体に興味が持てないので無駄かなと思ったり、最後まで迷いました。とにかく「律修参事会員の話」自体を長年読んでいなかったので、この機会に読み直してみたのですが、そうすると実に色々と考えさせる話であると分かり、参加することにしました。結果的に、私にとって大変勉強になりました。

このお話は、現代と多くの共通点があります。中世の知識における物体を元素から組み直して新しい物体に変化させるという試みが描かれているのですが、今で言えば一種の核融合、あるいは遺伝子操作みたいな試みに比較されるでしょう。アラブ世界から盛期中世に西欧にもたらされた科学知識がイングランドにも伝わり、こういう文学作品にも既に一種のパロディとして反映されているわけです。この伝統は、更にルネサンス期にはベン・ジョンソンの『錬金術師』を生むことになります。

律修参事会員(キャノン)と召使の2人は後から巡礼団に加わり、最初の宿屋の場面にはいません。お話のコンテストという前提を共有せず、恐らく面白い話をするつもりもないのです。召使が話すのは主人の仕事が虚業であること、そしてもう一人のキャノンの詐欺について聞いた実話です。つまり自分の体験した実話と、ひとから聞いた実話と思われる話、ふたつともノン・フィクションです。チョーサーは『カンタベリ物語』において、このお話以前に、ロマンス、ファブリオー、説教、聖者伝、動物寓話、等々、様々の中世の物語のジャンルを試し終えて、もうやることが無くなったのか、自分の興味ある現代的なテーマについて現実のお話をしてみようと思ったのかも知れません。彼は元々科学には並々ならぬ関心を持ち、他に天体観測器についての論文みたいな文章を書いています。そして、彼の同時代には偽金作り、つまり一種の錬金術、を使った詐欺事件も発生していて、その事件の裁判に専門家証人として関わったのが彼の同僚だった、という発見が最近ありました。とは言え、彼はそういう実際に起こった事件をそのまま書いている訳ではありません。『カンタベリ物語』という全体がフィクションという枠組の中で、実際に起こったこととして、この召使に語らせているわけです。ジャンルをいじるのが好きなチョーサーらしい実験です。

読書会で出なかった質問/コメントとして、この「律修参事会員」(キャノン、the Canon)は何者か?という疑問が残りました。律修参事会については私もよく知りませんが、一種の修道会で、イングランドの場合大体においてアウグスティヌス会がそれに当たるようです。普通、会の僧院で暮らすのだと思いますが、この巡礼に加わろうとしたキャノンは、日頃、召使(yeoman)を雇って、詐欺まがいの錬金術実験に入れ込んでいると語られています。彼のような男が何故キャノンでいれられるのか、不思議に思いました。

その他にも色んな疑問を生んだ楽しい読書会でした。ヒライ先生はじめ、講師の方々にお礼を申し上げます。


2021/03/21

セバスティアン・ソベッキ教授のオンライン講演会を聴いて

3月18日、英国の午後6時(日本時間午前3時)より、ケント大学でAnnual Chaucer Lectureが開催された。この講演会は一般にも公開されていて、毎年著名な学者が講演している。コロナウィルスのために今年はオンラインによる開催。講師は、オランダ、フローニンゲン大学教授で国際チョーサー学会(New Chaucer Society)の学会誌、Studies in the Age of Chaucer、の編集者、セバスティアン・ソベッキ教授(Professor Sebastian Sobecki)だった。この雑誌は、学術誌の格付けを行っているScimago によると、中世英文学の分野でNo. 1の学術誌、中世文学全体でNo. 2とのことで、その編集者であることは、彼が世界の中世英文学研究をリードする学者であることを示している。今回のレクチャーは、世界中から220名以上の人々が聴いたとのこと。その中には著名な学者も多かったそうで、まるで学術論文の参考文献に並んでいる名前を見ているようだ、というコメントもTwitterであった。私はその時間に起きていると体調を崩すと思うので、諦めていたら、幸いなことに、録画がYouTubeにアップされた。残念ながら、質疑応答は入っていないが、それでも大変嬉しい。

講演タイトルは、"Inner Circles: Reading & Writing in Late Medieval London"(「インナー・サークル:中世末期ロンドンにおけるリーディングとライティング」)。チョーサーやガワーなどの写本がどのように作られ、写されて、拡散したかを、具体的な写本の画像を示しつつ、書体の特徴などから研究するご自分の研究プロジェクトの概要を語っておられる。特に最初に、Staring Pointsとして研究の基礎や大きな枠組を語っておられるが、歴史学、歴史言語学、写本研究、個別の写字生の特徴の判定などについての議論、どういう先行研究が大事かなどは、大変興味深い。

後半は具体的な写本の議論だが、写字生たちがどういう人だったか、そして彼らの間にあった"Communities of Practice"(「慣習から見たコミュニティ」というようなことか)を浮き上がらせようという姿勢、写本に疎い私にも充分面白い。中世英文学に興味のある者だけでなく、歴史学や英語史の方にも大変刺激的なプレゼンテーションだと思う。英語は、オンラインであることもあり、私にはかなり聞きとりにくかった。

最初にケントのRyan Perry博士がSobecki教授の紹介をされていたが、言われているように、まだ割合若いようにお見受けするがもの凄い業績を積み重ねておられる。特に写本に詳しくて、写本研究を使って、チョーサーやガワーについて幾つかの新発見をされている。更に近年はトラベル・ライティングのアンソロジーなど出され、その方面でも権威。また、最初のモノグラフでは文学と法制史の接点を研究しておられ、「法と文学」のテーマでも重要な学者。ロンドンの写字生の多くはウエストミンスター・ホールやギルド・ホール、大法官庁(Chancery)などで仕事をしていて、その多くは広い意味での法曹関係者である。今の日本で言うと司法書士みたいな人達にあたるだろうか。こういう人達が文学の写本を読んだり写したり、ホックリーヴみたいに自分で書いたりしている。写本の書体とか癖とか、文法や綴り字、省略の仕方などの特徴などから、今在る写本を分類し、写字生を同定する作業がこれから進んでいくと思うんが、その際、文学写本だけでなく、広く法律文書や商用文書、そしてラテン語やフランス語の写本なども使って写字生をidentifyする必要がある。多言語が使われているビジネス文書なども研究しているLaura Wright教授の名前も出ていた。そうしてロンドン写本の概要、文学受容におけるcommunities of practiceが段々と分かってくる、ということになるのだろう。

この講演、東アジアでは大変聞きづらい時間に行われたが、中国から聞いた方もいたそうだ。YouTubeに上げてくださったので、こんな素晴らしい講演が無料で、しかも自分の家で聴けて本当に良かった。

2020/08/28

美術史家、金沢百枝先生の講演「カインとアベル」

 昨日、中世美術、特にロマネスク美術、の権威、金沢百枝先生の「青花の会」講演を、池袋の自由学園明日館に聴きに行った。今回のトピックは旧約聖書の「カインとアベル」。英語の聖史劇でも上演されるよく知られた聖書のエピソードで、大変参考になった。

私が特に興味を引かれたのは、神が兄弟の捧げ物を受け取る場面の表現。絵画では、髪の右手だけが上部に描かれることが多いようだ。でもどうも火で燃やして捧げているらしき絵もあったみたい。タウンリー劇の「アベルの殺害」ではカインは麦の穂を燃やすんだけど、煙ばかりでよく燃えず、神の不興を示すことになっていて、効果的な脚色がなされている。もう一点特に面白かったのは、アベル殺害の道具の多彩なこと。棒で殴るのが多い。まるで野球のバットかゴルフのクラブを振り上げたみたいな姿勢のカインが描かれる。他には、斧か槌みたいな道具、大小の石なども使われている。更にイングランド(一部、フランス)では顎の骨(cheek bone)が多い。これはタウンリー劇とNタウン劇でも表れる。また古英語の Solomon and Saturn、中英語の Cursor Mundi、そして中世末期コーンウォール語の聖史劇などでも表れるようだ。今までこの骨がどんな格好なのか分からなかったが、今回絵画を見て非常に興味深かった。動物(ロバとか馬か?)の顎に歯がずらっと並んだ骨を持っていた。人間の入れ歯を十倍くらい拡大した感じ(笑)。上下の両顎の一方だけというものが普通のようだが、両顎ともに描かれた骨もあった。可笑しいようなグロテスクなような。誰がいつ考えたのかな。

ちなみに、英語の4つの主要聖史劇は皆「アベルの殺害」を取り上げているが、ヨーク劇は写本が1頁欠落していて、肝心の殺害場面が抜けている。その他の劇では完全に残っているが、チェスターとNタウンは、アダム夫婦の堕罪と楽園追放から連続していて、ごく簡単。一方タウンリー劇の「アベルの殺害」は独立した劇として書かれ、当時の観客にも共感しやすい「中世化」がされており、カインとアベルは、中世ヨークシャーの農夫と羊飼いとして描かれていて、カインの下男も登場する。アダムとイヴの子に下男がいたなんて、聖書の上ではあり得ないんだけどね(笑)。カインはこの下男に暴力を振るうが、下男も負けずに反撃し、殴り返そうとする。アダムとイブの堕罪の後の、秩序の崩壊した社会の有様をこの主人と召使いの関係が表しているとも言えそうだ。英語の聖史劇の中でも最高傑作のひとつと思う。

勉強になり、また、閉じこもりがちな私には、良い気分転換になった昨夜でした。行きがけはまだ炎天下で、暑くてへとへとになったけど、たまには出かけないとね。

2020/08/03

橋本侃先生の聖史劇翻訳

神奈川大学外国語学部教授だった橋本侃先生が2009年2月に亡くなられたことを最近になって知った。享年67歳。あまりに早すぎた。

私の大学教師としての最初の仕事は、1985年、玉川大学の英語の非常勤講師で、博士課程の2年生の時だった。その頃、玉川大の小さな非常勤講師控え室で、神奈川大学外国語学部の橋本侃先生にお会いした。私より10才位上の世代の方で、専門はシェイクスピア。シェイクスピアに関する単著も2冊ある。私は駆け出しの新任非常勤で、元々人見知りだから、自己紹介して以後はお会いすれば挨拶するくらいで、ちゃんとお話ししたこともなかった。私は自分がつまらなさすぎる人間で話も退屈だから、他人と話をするのに気後れする。

橋本先生は、シェイクスピアが第一の研究分野だったようだが、一方で石井美樹子先生と共に、中世イギリス演劇研究会を始められ、日本における中世イギリス演劇研究が盛んだった頃の主要な学者のひとりだった。彼は『中世ウェイクフィールド劇集』(篠崎書林、1987)の6人の編者の1人(他の編者は、黒川樟枝、松田隆美、米村泰明、中道嘉彦)。

神奈川大学の紀要の中に眠っているが、橋本先生には驚くべき翻訳の業績がある。彼は、4大中世劇のうち、Nタウン劇とチェスター劇を全訳されていることを最近知った。更にタウンリー劇の最初の数作品(全体の一部を占める短い劇)も訳されている。しかし、タウンリー劇を訳されている途上で、2009年2月、病気で亡くなられたようだ。4大劇のうちの2つまで訳されたというのは素晴らしい業績。きっと書籍としての出版計画も温めておられていたことだろう。残念。

今回、授業の配付資料として、タウンリーのノアの洪水の劇を使わせていただいた。そのうち、ネットでわかる範囲内で橋本先生の業績リストを造りたいと思っている。出来れば彼の中世劇の翻訳を本として出したいくらいだが、私のような自分の著書も編著もない非常勤講師ではどうしようもない。

日本語で書籍として読めるイングランドの聖史劇の翻訳というと石井美樹子先生訳編の『イギリス中世劇集』(篠崎書林、1983)だけだと思う。これは Peter Huppé, ed. English Mystery Plays: An Selection (Penguin, 1975) というロングセラーの作品集の翻訳で、大変立派なお仕事である。これがなければ、日本のほとんどの読者はイギリスの聖史劇を読めない。但、この作品集は、4大聖史劇から聖書の物語の流れに沿って色々な劇を集めた、まさに「作品集」であって、チェスター劇とか、ヨーク劇といった単一の、所謂「サイクル」の特徴が霞む結果になっている。聖書で言うと、4つの福音書を一つにまとめて一度読めばイエス・キリストのお話がわかるようにしたのと同じ(中世ではこれをGospel Harmonyと言う)。ところが、それぞれの聖史劇には独特の個性があり、聖史劇別に読むとそれが一目瞭然なのである。その意味で、橋本先生のチェスター劇やNタウン劇を通しての翻訳は非常に貴重だ。しかし、何しろ紀要に載ったままなので、一般読者はおろか、イギリス演劇や私のような中世英文学の研究者も知らない方がほとんどだろう。せめて、チェスターやNタウンのひとつを編集したアンソロジーがあると良いのだが。

リポジトリに収録されている橋本先生訳聖史劇は、このサイトから先生のお名前を入れて検索できる。それ以外の、リポジトリ未収録の聖史劇翻訳は、神奈川大学の『人文研究』の目次を最初から見ていくと、出て来る。Nタウン劇は、昔使われていた『ルーダス=コベントリー・サイクル劇』という名前になっている。なお、168号(2009年)に橋本先生の追悼記事がいくつか掲載されていた。

橋本侃先生がシェイクスピア研究者であるにも関わらずずっと中世劇の翻訳にも当たられていたのは、おそらくシェイクスピアの理解には、その直前の、いやほぼ同時代の、聖史劇の理解が必要と思われたからだろう。聖史劇の上演は1570年代まで、そして一部ではおそらく17世紀初めまでやられていたことを考えると、聖史劇もまたチューダー朝演劇の一部なのである。Greg Walkerの編纂した Oxford Anthology of Tudor Drama (2014) には16篇の劇が収録されていて、最後の2篇はシェイクスピアだが、最初の作品はヨーク劇から "The Fall of Angels"。2作目が The Croxton Play of the Sacrament、そして4作目が Everyman。この本のdescriptionを読むとその理屈がよくわかる。シェイクスピア学者の中にも、E K Chambers, David Bevington、最近ではJanette Dillonなど、昔から、中世劇とシェイクスピアの両方を研究した人は数多い。日本の場合、学会の敷居があまりに高いように見える。研究をストップした状態の私の出来る事は何もないが、非常勤先の英文学史で学生に教えるときぐらいは、中世劇とシェイクスピア劇の連続性についても触れるようにしたい。

それにしても1980年代、中世イギリス演劇研究会が勉強会をし、また『イギリス中世・チューダー朝事典』の編纂が進んでいた頃、日本の中世イギリス演劇研究が何と豊かだったことか、今さらその時代に活躍された先生達のことを学び、驚いている。

2020/03/02

研究と教育の関連

米国のボストン・カレッジという大学の中世英文学の教授、エリック・ウェイスコット (Eric Weiskott) さんの学術ブログを愛読している。先日、彼の最近のブログ・ポスト、'Tyrannical Curriculum'を読んだ。この文章で、ウェイスコット教授はカリキュラム上の要請と中世英文学の研究・教育の関係について書いている。内容をざっと紹介すると:

米国の大学で中世英文学を講じるときにはどうしてもまずは最も名前の知られているチョーサー『カンタベリー物語』や『ベーオウルフ』などをやらざるを得ない。その他の作品も、著名度や作品の長さ、授業時間の都合で限定される。そうしたことが、研究対象となる作品にも反映される。一方で、中世イングランドにおいて実際に広く読まれた作品、文学史や文化史上非常に重要な作品がほとんど授業で取り上げられないという問題が起きる。例えば『農夫ピアズ』の後3分の2、ウィクリフ派聖書、リチャード・ロールやガワーのラテン語作品、フロワッサール、等々である。学生と授業でチョーサーのような同じ作品を繰り返し読む事で、先生達は新しい発見をし、学生の意見に教えられ、自分達の研究論文に繋がることは多い。しかし、そのようにして研究が進展する一方で、授業の要請とは外れた多くの作品があまり顧みられないまま眠っている。

勿論通常の古典的作品から外れた作品をシラバスに載せることもあるが限られている。また、大学院生のTAや若い契約講師は与えられたカリキュラムをこなすだけで、作品を選ぶ自由はない。研究者の中には、研究で扱う作品は授業で扱う作品とは全く別という人もいるが、なかなか困難な選択だ。

さて、日本ではどうだろう?中世英文学の研究者の大多数は教養課程の英語を教えている。更にその内容は、TOEICや英検の準備だったり、英作文だったりし、教科書を自ら選べない人も多い。日常の授業に真面目に取り組む方は、英語教育に関する最近の学術情報を学び、学会で勉強し、授業法や教材の研究をする必要もある。結局、英語教育も専門分野の研究も、どちらも中途半端にならざるを得ない。教えている学生に真剣に接している人ほど、研究内容と授業はまったく乖離した状況で、国際レベルとは行かなくても、国内で注目されるような専門研究を続けるのも非常に困難と言えるだろう。日本でもアメリカでも、レベルはかなり違うとは言え、研究と教育を上手く結びつけることは難しい。

2019/07/30

中世ロンドンのからくり人形:聖ボトルフ教会の聖ジョージとドラゴン

最近読んでいた論文がとても面白いので紹介。中世ロンドンのビリングスゲート区にあった聖ボトルフ教会は1666年のロンドン大火災で焼失した。この教会には、15世紀後半、少なくとも1474年以降に、聖ジョージの竜退治を描く仕掛け細工(an automaton)があったそうだ。中世演劇研究の重鎮、フィリップ・バターワース博士の論文によると、ロンドンのギルドホールに残された写本にこの仕掛け細工の修理マニュアルが約1頁ほど残っており、博士はそれを手がかりに、どのようなメカニズムによりこの仕掛け(ほぼロボットと言って良い)が動いたかを解明している。

基礎となる原動力は人が動かすレバー(a crank)。しかし、その1つのレバーの動きを細いロープで伝え、幾つかの滑車(pulleys)で変換し、馬に跨がった聖ジョージ、ドラゴン、王と妃、乙女(a maid)という5つの人形を動かしている。特に聖ジョージと竜は精密なメカニズムでロボットとも呼べるかも知れない。聖ジョージは片手に剣、もう一方の手に槍を持っており、その両手が動いて、竜に向かって攻撃をする。また、竜の方は聖ジョージの攻撃に対して口を開閉したり、羽を動かしたりした可能性があると筆者は考えている。聖ジョージの頭、彼の乗った馬の耳と尾も動いたことが分かっている。更に馬に乗った聖ジョージと竜の人形はそれぞれ別々の台座の上に置かれており、この台座全体が動いて、両者が近づいて互いを攻撃する動作をしたと考えられている。一方、戦うジョージとドラゴンの側には城があり、その城の上に王と妃が陣取った。またその近くの地面には乙女がいた。彼らも台座の上に載っており、彼らの台座は回転(rotate)する。おそらく彼らの驚きなどを示すためだろう。加えて、王と妃は、上半身が左右に半回転(pivot)したと考えられる。

たった1つのレバーを動かすだけで、これだけの複雑な動きをする、謂わば「ミニ人形芝居」を演じるメカニズムが15世紀末のロンドンの教区教会に置かれていたわけである。残念ながらどういう機会に使われて、誰が見て、どのような反応があったのかは分かっていないようだ。但、作者は分かっており、イングランド中部の都市イプスウィッチの職人ウィリアム・パーネルと彼の息子ジョン、そして徒弟のウィリアム・ベイカーだ。興味深いことにこのパーネル一家はかなり有名な職人集団で、エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドビルのノリッジ入場のペイジェントやイプスウィッチの聖体祭劇など演劇関連の仕事に携わったという記録が残っているそうだ。広い地域で、からくり細工の専門家として有名であった可能性が大である。

精密な古文書研究に基づいた、イギリス中世演劇研究のすそ野の広さと面白さを伝える論文だ。バターワース博士はこの聖ジョージのミニ人形芝居セットをダ・ヴィンチの考案したロボットなどのメカニズムに例えている。ダ・ヴインチよりやや早い。

この論文は以下の本に含まれています
Philip Butterworth and Katie Normington, eds. Medieval Theatre Performance (Cambridge UP 2018)

2019/01/14

中世ダラムのBoy Bishopの記録

REED North-East (Records of Early English Drama) のウェッブサイトで、ダラムの Boy Bishop(少年司教)の記録を取り上げている。

Boy Bishopは、Feast of Fools(愚者祭)同様、中世の大聖堂や修道院などにおける一種の秩序の逆転の祝祭(あるいは儀式と呼ぶべきかもしれない)で、多くの場所では、12月6日の聖ニコラウス(子供の守護聖人)の祝日から12月28日まで行われた。祝祭においては、聖歌隊員の少年(a chorister)が司教に代わって、ミサを除く多くの儀式を行ったり、行列を率いたりする(ウィキペディア英語版の解説)。

低い地位にある者(この場合、聖歌隊の少年)が祝祭の中でひとときの王とか女王、あるいは司教などの高い位の役を引き受けるというのは、中世の祝祭において良く見られる。愚者祭は勿論だが、世俗では五月祭の王や女王もその類型と思われる。中世カトリック社会における季節的な解放感を味わえる儀式だったのだろうか。北フランスで特に盛んだった愚者祭の場合は、祭のエネルギーが横溢した結果、一種の騒乱に転じてしまうこともあったようだが、イングランドではそのようなケースはないらしく、Boy Bishopも静かに平静に執り行われることがほとんどだったようである。

こうした習俗も広い意味で「ドラマティック」な儀式として、E.K. チェンバースなどの中世劇研究者によって研究されてきており、更にREEDの記録にも多くが収められている。私も中世劇の作品と関連づけられないかと色々と考えていた時期があった。ダラムの Boy Bishopの具体的な内容は良く分かってないようだが、期日は昇天祭の祝日(Ascention Day、復活祭の40日後の木曜日)で、筆者のJohn McKinnell教授によると、聖職者達は少年司教に選ばれた少年を先頭にして市内の教会へと行列し、最後にこの少年司教が教会で説教をすることになっていたようだ。

2018/12/06

学会発表を終えて

先週末(11月30日、12月1-2日)、学会で名古屋に行ってきた。30日は学会の委員会、1日と2日は学会本番だった。その前からずっと体調が悪く、胃腸が荒れていて、3日間、腹部の不快感をこらえつつ過ごした。30日の新幹線の中では、気分が悪くてずっと目をつぶって我慢している有様だったし、特に12月1日は私自身が口頭発表したので、どうなるか大変心配した。実際、途中気分が悪くなりそうな瞬間があったが、何もなくて無事に発表を終え、ほっとした。帰ってきたらもの凄く疲れが溜まっていて、木曜日の今日になっても、未だにそれが取れてない感じがする。

私の発表は予定通りに終わった。何度も練習して、せめて時間はしっかり守り司会者に迷惑をかけない事だけはいつも心がけている。今回も制限時間の30分の前後で収まり、おそらく誤差は1分以内だったと思う。その点は満足。司会をして下さったのは、私よりずっと若い、働き盛りの中世演劇の専門家の先生。これまで直接お話ししたことがなかった方で、今回知り合えて良かった。中世劇の専門家は大変少なく、若い先生は他にはおられないので、彼からは今後も色々と教えていただきたいと思っている。発表後の質疑応答も、大変学識豊かな権威者の先生方から質問やコメントをいただき、ありがたく、かつ参考になった。

但し、発表した本人としては、以前にも書いた事があるが、自分の発表がどういう風に受け取られたのか知るのは難しい。学会発表をすると、大体は「ご苦労さま、面白かったです」と苦労をねぎらってもらえるのが常。でも、それ以上の突っ込んだコメントをもらうことや率直に批判してもらえることは少ない。面白いと言われても、どこがどう面白かったのかも、よく分からない。過去においても、大きな学会で発表し、何人もの方に好意的なコメントをもらい、望外に良い感触を得たはずなのに、発表原稿をまとめて査読誌に投稿してみると、修正意見もなく、一刀両断にされて掲載拒否、ということもあった。だから、「ご苦労さま」的な反応はまさにそれだけのこと、と思うことにしている。率直な感想を言って貰うには、もともと親しい交友があり、しかも専門分野も近くて内容が理解出来る人である必要があるだろう。しかし、私ほほとんどひとりで中世演劇を勉強してきたから、そういう友人はいない。ただし、今回は発表当日前後、体調の上で大変辛かったので、自分自身に対して本当に「ご苦労さまでした」と言ってやりたい(^_^)。

今回も何人かの若い研究者の発表を聞いたり、懇親会等で話したりした。近年の若い研究者や働き盛りの方々の優秀さには、いつもながら舌を巻く。多くの競争をくぐり抜け、内外の最もレベルの高い大学院の博士課程、そして専任職に進まれているのだから当然だ。彼らの多くが、そもそも頭の回転が早く、メンタルも強く、また競争心もプライドもある、という印象を受ける。一方、私の世代の文学研究者は、私自身がその典型だが、会社や役所の勤め人にはなりたくてもなれないという落ちこぼれで、内向的で人前に出るのが苦手、社会的にはかなり不器用な人がかなりいた。だから文学部に行き、こつこつと勉強して何とかその分野で生きながらえたという人種。今はそういう人では、研究者の世界では全く生き残れない。文学研究を含め、アカデミアのどの分野でも、研究者は競争を勝ち残る卓越した能力と強い精神が必要だ。今だったら、私は大学卒業度どうしているだろうか。教育・研究職なんて望むべくもないから無理にも何らかの勤めにでているだろうけど、私でもやれることがあっただろうか。

2018/11/20

学会発表準備中

来月初めに学会発表をすることになっていて、今その準備中。とは言ってももう間もなくだから、原稿もハンドアウトも一応出来ている。ほとんどの内容は Ph.D 論文に基づいているので、草稿を書くのにはそう苦労しなかった。しかし、大体の原稿が出来てからも関連文献を読み、問題点がないか確認していると、いくつか今まで気づかなかった点や自分の知識が不足している点が見つかり、焦っている。まあ、すべての学会発表は謂わば中間報告。30分では言えることも限られているる。ある程度の完成を見るのは印刷物にする時なので、口頭発表段階ではいくらかの問題が残ったままなのは仕方ない。後に残らない口頭での発表は、聴き手からご意見をいただいて改善していくためのプロセスと考えるのが正しいだろう。

私の場合、口頭発表にしろ論文にしろ、歳を取るにつれて一段と自分の能力や知識に関する自信がなくなり、自分の考えを他の研究者に問うことが出来なくなっている。研究者は研究結果を論文や著書で発表するのが仕事の大事な部分だ。アカデミアの外の人達は、論文も書かない怠け者の教授達をしばしば批判する。確かにそういう方も一定数いるとは思うが、私のように、論文を書きたいがなかなか実力が伴わず書けない、自信がない、という人もかなりいるだろう。私は、そもそも若い頃から自分の能力に何の自信もなかった。しかし、フルタイムの教員として多忙を極めていた間は、日々の校務や授業準備で精一杯。体力がないのでいつも疲労感をひきづりつつ仕事をしていて、研究について悩む余裕はおろか、研究する余裕もろくになかった。そういう生活に疲弊し、仕事を辞めて、博士論文を書いた。しかし、その間に何度もつまづき散々苦しんで、自分の浅学と非力を痛感し落ち込んで、一層論文のための勉強が滞った。イギリスの指導教授にも、君は自分の研究について自己評価が低すぎる、とよく言われたものだ。

専任教員を辞めた今は、なかなか論文を書けなくても、もっと業績を作れ、と上の人から𠮟咤(+激励)されなくてすむので、やや気が楽である。

さて、発表はどうなりますら。聴いて下さる方々は、将来ある若い人々なら鍛え甲斐もあるが、老人を今更鞭打っても仕方ないと思われて、色々と間違いや足りないところがあっても、大目に見ていただけるとは思うが・・・。

2018/11/11

中世劇に使われる「サイクル劇」という名称

12月始めにやる予定のイギリス中世劇に関する研究発表の原稿を書いていて、気になることがあった。2,3度、「サイクル劇」という言葉を使っていたが、この語は中世劇を表すためには段々使われなくなっている。中世から伝わったとされる英語による4つの大きな劇の集まり、ヨーク劇、チェスター劇、タウンリー劇、Nタウン劇は、長年、サイクル劇(cycle plays)と呼ばれてきた。サイクル劇と呼ばれるに至ったのは、天地創造から最後の審判に至る聖書の物語、つまりゼロから始まりゼロへと戻るこの世界の循環(サイクル)を数多くの短い劇で表現しているからである。これら主要4大「サイクル劇」のうち、ヨーク劇とチェスター劇はイングランド北部の2つの都市に残る様々の記録と現存する写本がほぼ符合しており、サイクル劇と呼んでも問題ない。しかし、タウンリー劇とNタウン(N-town)劇は、それぞれ1写本しか残っておらず、それらの写本がどの都市(あるいは町や村)で上演に使われたか分かっていないばかりか、そもそも写本とほぼ同様の形で上演されたかどうかも怪しい。写本として単に読まれるためだけに劇が集められた可能性もある。「タウンリー」(Towneley)は写本の名前であり、「Nタウン」は写本の中にあるこれが上演された町の名前であるが、「N」というのは恐らく空欄を現すために使われた文字ではないか、つまりそこに特定の町の名前を入れる代わりに使われた文字と考えられている。「○○タウン」みたいなもの。これら2つの写本に含まれる多くの短い劇は、ヨーク劇などのような一貫したデザインを基にして書かれた(あるいは、集められ編集された)劇ではなく、色々な場所で書かれたり上演されたりしていた劇の脚本を、天地創造から最後の審判という聖書の物語に沿って選択し、1つの写本に集められたわけだ。つまり、この2写本は複合写本(composite manuscripts)であり、短い劇のアンソロジーなのである。写本のレベルで見ると、確かに 'cyclic form' を取ってはいるが、全く別の目的で色々な作家により書かれた作品を「演劇作品集」として集めたに過ぎない。

そこで権威者によるスタンダードな研究の総括として、1994年の Cambridge Companion to Medieval English Theatre (ed. Richard Beadle) を見てみると、ヨーク、チェスター、タウンリーに関する章のタイトルでは、'cycle' という名前が使われているが、Nタウンでは、'The N-Town plays' という名称になっている。更に、2008年に出たこの本の第2版では、タウンリー劇の章も、初版と同じ筆者、Peter Meredith の執筆だが、'The Towneley pageants' という名称に変えられている。更にヨーク劇についても、筆者で本全体のエディターでもあるRichard Beadle は、'The York Corpus Christi Play' というタイトルに変更している。「サイクル劇」という名称の背後にあるアイデアそのものが学問的に使いづらくなっている証拠だろうか。このあたりは、私ももっと勉強が必要だ。とりあえず、今回の研究発表では「サイクル劇」とか、「サイクル」という名前を使わない事にした。

これに関連して、手元にある日本語の英米演劇史や英文学史、シェイクスピア概論などの教科書を幾つか見てみた。私はあまり新しい本を持っていないのも一因だが、中世劇に関してかなり古色蒼然とした記述も目に付く。近年日本語でこの分野の本が出ていないことも一因だろう。更に、英文学史などで初期の演劇について執筆することの多いシェイクスピアを含むルネサンス演劇研究の研究者で、中世劇についてもある程度研究をしている人が少ないかほとんどいないことも原因だろう。

イギリス中世劇に関して最も信頼に価する素晴らしい日本語の概説書は松田隆美先生や石井美樹子先生他6名の優秀な研究者による『イギリス中世・チューダー朝演劇事典』(慶應義塾大学出版会、1998)だが、何しろ20年も前に出た本であり、現在の英米の研究状況とはかなりずれている。「聖史サイクル劇の発生と発達」というセクション(pp. 3-8)も、「サイクル劇」という言葉の適用範囲も含め、修正したほうが良い点が幾つかある。これを読んだ方が文学史の本を書いたりすると、そのまま不確かな情報が広まることになる。これから文学史や演劇史の執筆や編集をされる方は、少なくとも、上記 Cambridge Companion to Medieval English Theatre (ed. Richard Beadle)の Second edition (2008) のイントロダクションくらいは読んで、基本的な知識をアップデートする必要がある。

イギリス中世劇について、近年の基本的な知識の変化については、まだ書きたいことがあるが、私自身勉強不足であり、取りあえずは自分の研究発表の原稿を書くのに大忙しなので、そのうちまた(^_^)。

2018/10/29

歴史学の研究会に出席

10月27日土曜日は「イギリス史研究会」という歴史学の研究会に出席した。発表者は中世イングランドの説教研究の第一人者で慶應義塾大学文学部の赤江雄一先生。説教は文学の一部でもあり、Siegfried WenzelやAlan Fretcherなどの中世英文学研究者も盛んに研究しており、興味を持っていた。英米の学者は演劇との関連も研究している。
 
赤江先生の学会発表は聞いたことがあったが、今回は研究会で時間的余裕があったので、先生は基礎知識から始めて今研究されている高度な問題まで懇切丁寧に話して下さり、私のような初心者にも大変分かりやすく、興味を持って聞けた。

主なトピックは説教の中に表れるラテン語・英語の混じった(「マカロニック、macaronic 」と言う)文章についてだった。マカロニックな表現は様々な文学作品に頻出し、これから私もよく考えたい分野だ。その意味でも、良い学びの機会を与えていただいた。但し、説教というのは独特の形式に則ったかなり特殊な文章なので、先生が導かれた結論は直ぐには他のマカロニックな文章には当てはまらない。私としては広く文学におけるマカロニックな表現の存在意義について、今後も考えていきたい。

近年は言語学者も中世のラテン語と俗語の混淆文には注目し、多くの論文が出ているようだ。また、イングランドでは、仏語と英語の混淆文を研究する人もいる。英語史研究や歴史言語学の方にも注目していただきたい分野。

今回出席したような分野外の研究会や学会に行くのは、新鮮で楽しい(但し、そうでなくて違和感が酷いときもある)。こういう時は全く無名の教師だと気軽に行けて都合良い。名前を知られているような人だと、自分の分野外に突然出かけるのは、招待されない限り抵抗あるだろうし、これらた方もビックリなさるかもしれない。イギリスの大学や研究機関で開催される人文科学のセミナーや学会、特に中世や近代初期関連の学会等は、色んな分野の人が集まる。聞いてもちんぷんかんぷんの事も多いが、日頃考えた事もない視点からの話が聞けて良かった。日本ももう少し交流があって良いと思うが。27日の研究会も、他の参加者は歴史学のかたばかりのようだった。

2018/09/10

博士号取得の経済的な問題

「博士号取得への長い道のり」と題した3回の記事の中で、大事なことでありながらほとんど触れなかったのは、経済的な問題です。最後に、プライベートな事は控えつつも、少し書いておきましょう。私は全額私費のEU以外の留学生としてケント大学の大学院生となりましたので、もの凄くお金がかかりました。子供がいなかったので留学が可能になったのですが、それでも私と妻の老後の計画はすっかり様変わりしてしまいました。

結論から言うと、私自身は何とか修了できましたが、かなりの額の奨学金か、余程の家産が無い限り、私のようなことは絶対にやってはいけないと思います。英米の大学の授業料が高騰した今は尚更です(ケント大学の授業料も、私が始めた頃のほぼ倍になりました)。私も当時はまだあったが今は廃止になったイギリス政府による博士課程学生用奨学金(Overseas Research Student Award Scheme)と、ケント大学独自の奨学金に応募しました。修士で一番良い成績、distinction、を取ったので可能性はあると思ったのですが、どちらの奨学金も不合格でした。今思うと、そこで入学を諦めておけば良かったと思います。実際、イギリスの大学では、人文科学系でも奨学金が取れる場合に限り博士課程に行くという人が少なくありません。いやイギリス人の場合、大多数がそれでしょう。ケント大学で私が所属した中世・近代初期研究センター博士課程の学生の半分以上、恐らく7,8割は、授業料と生活費のかなりの部分をカバーする奨学金や授業料免除を受けていたと思われます。友達が全くいなかったので、聞くチャンスがありませんでしたが、奨学金を全く貰ってないイギリス人のフルタイム学生などほとんどいなかったのではないかと思います。更に、パートタイムの学生、奨学金を受けられなかった学生、あるいは奨学金の支給期限を過ぎて(つまり、普通3年以上)在籍する学生の多くはTAとして授業を担当し、生活費の足しにしているようです。しかし、私の所属部門、つまり中世文学や中世史分野でそれが出来るのはイギリス国内や英語圏からの留学生、一部の非常に優秀なヨーロッパの留学生のみでした(他の専門では、留学生がTAを勤めるのは良く見られます)。実際、TAをやるかと聞かれても、VIVAの受け答えですら覚束ない私には到底無理ですね。それに、留学生は、大学にとって、私費で高額の授業料を払ってくれる貴重なお客さんなので、国や大学の奨学金を出してまで入学して欲しくはないでしょう。

今考えると、私は奨学金が受けられないと分かった時点で日本国内の大学院の課程博士か論文博士を目ざすべきでした。そうすれば幾らか非常勤講師などのアルバイトも出来るし、そもそも、日本の住居を維持しつつイギリスでの滞在費等に莫大なお金を使う必要も無かったでしょう。大学の授業料も、特に国公立大学では日本のほうが遙かに安く、また、博士号も、ケント大学で費やした10年弱よりかなり早く取れたと思います。途中、短期間、学会やセミナーなどに出席するためにイギリスに勉強に行くことも可能だったでしょう。確かに専門分野の研究をリードしてきたスーパーバイザーやエクザミナーに論文を読んで指導して貰えたことは光栄であり、大変な励みになりました。しかし、払った代価は、率直に言って大き過ぎたと思います。

更に今になって思うのですが、現在の人文科学系のアカデミアにおいては、少なくとも必要額の半分以上をカバーできるくらいの国内外の奨学金を取ることが出来るような真に才能ある方だけが、短期間(3~4年)で論文を提出でき、更にその後に待っている厳しい就職戦線や研究競争を生き残っていけます。若い方で、家族の援助などを得て自費で留学し、私のように10年近く学位取得に要して年齢も高くなり、恐らく学生支援機構や銀行の学資ローンなどの借金も残る状態で、非常勤専業の教員などになったら大変です。まして、一部の方のように、研究上の問題や資金が尽きたなどの理由で退学をする、あるいは退学勧告を受けたり、M. Philに格下げになってしまったら、取り返しがつきません。何とか留学しようと奨学金に応募し続けて何年も頑張る方もおられるようですが、その間にさっさと国内の大学で博士号を取り、就職活動を始める方が良いと思います。

私はと言えば、最初にボタンを掛け違えたままこの長く高価な旅に乗り出してしまいました。途中で辞めれば良かったと思います。今考えると、奨学金を得られなかった時にすぐ方向転換をするか、あるいは「あと( )年だけやって、駄目なら退学しよう」、といった具体的計画を立て、家族や友人にもそう宣言すれば良かった、と思います。でも、いざ辞めるとなるとそれはまた非常に大きな精神的エネルギーの要ることです。関西のM先生のように大変親切な先輩も、親しい2,3人の友人も、私の試みを励まし続けてくれました。そうすると辞めようと思っていても決心が鈍るのです。5年経った頃からは常に辞めるか否か迷ってはいましたが、決断できませんでした。

一般論として、人間、後悔ばかりしていたのでは素直に生きていけず、劣等感の塊になってしまいます。過去を出来るだけ肯定し、失敗は大きくても、得られた満足感をかき集め反芻しつつ未来へと向かわなければ鬱になってしまいます。私も今、他人と話すときは、「やるべきじゃなかった」なんて言ってその場を白けさせるよりも、「留学して良かった」と言います。但、本音はどうなのか、自分自身分かりません。まあでも卒業式に出てとても嬉しかっし、何より老いた両親がとても喜んでくれたので、やっぱり良かったのかな。他人には勧めませんけど。

博士論文に関するエントリーもこれで最後とします。この一週間、この一連のブログを書くのに随分時間を使ったけど、色々な事を思いだせて良かったです。

2018/09/07

【新刊書】秋山晋吾『姦通裁判ー18世紀トランシルヴァニアの村の世界ー』の感想

秋山晋吾『姦通裁判ー18世紀トランシルヴァニアの村の世界ー』(星海社新書、2018)285ページ、1,100円

1765年夏、ハンガリーの一部でもあるトランシルヴァニア候国のコザールヴァールという村で、ある下級貴族の男性イシュトヴァーンの30代の妻ユディットと夫の従兄アーダームの間にあったとされる姦通事件について、近くの都市から判事が赴いて、2度の証人喚問が行われた。この村の人口は約800人、そのうち延べ100人以上が証人として聴取され、数十ページにわたる、ほぼ逐語的に記録されたように見える詳細な証言が残された。

筆者の秋山晋吾先生(一橋大学教授、東欧社会史研究)は、それらの証言から、この時代のトランシルヴァニアの結婚に関する道徳や社会通念に加えて、衣食住、宗教、地理、職業、教育や農業経営等々、ありとあらゆるテーマに渡って、証言の微細なディテールからジグソーパズルのように人々の日常生活をすくい上げ、組み立てようと試みる。アナール派などのマイクロ・ヒストリーの手法による社会史。新書版で、注や他の専門書への言及等はなく、一般の読者を対象にした分かりやすい語り口だが、285ページあり専門書に引けを取らぬ充実した内容。村の多くの農民が職人も兼ねており、魔女が出て来て媚薬を配合したり、当時のトランシルヴァニアではほとんどの農民は識字能力がなかったことなど、18世紀後半の東欧のこの村は、中世末から近代初期のイングランドの村によく似たところがあって、歴史愛好者だけでなく西欧の中世文学や文化に関心のある方にとっても興味深い本だろう。

ユディットという女性は、チョーサーの「粉屋の話」のアリスーンやバースの女房を思わせる逞しい女傑。夫イシュトヴァーンから殴られる時もあるが、彼を足蹴にしたことも目撃されている。夫からは娼婦呼ばわりされながら、自分は身持ちの悪い女ではないと主張し、恥じらいを見せるときもある。愛人アーダームの財産が入ったチェストの鍵もしっかり握っている。イシュトヴァーンはそもそもこの妻を裁判所に訴えた張本人だが、妙に弱気だったり、妻に対しへりくだったりすることもあるらしい。私から見ると、この3人の男女の関係自体が、一種のファブリオーのように見えておもしろかった。但、聞いたことのないハンガリー語の固有名詞の連続や、複雑に絡み合った人種や宗教の解説など、読み始めてしばらくはある程度辛抱が必要だった。

博士論文提出への長い道のり(3)

博士論文提出への長い道のり:(3)再出発から論文の完成へ

さて前回のブログでは2014年の夏頃に始まったスランプのことまで書きました。今回は、その後、スランプを抜け出して論文完成に至るまでを思い出してみます。

論文の方向が見いだせないまま2014年も終わり、2015年も同じ状況のまま数ヶ月が過ぎていきました。ケント大学ではPh.Dの学生は、フルタイムの学生なら毎月、パートタイム学生であれば2ヶ月に1回、先生と直接会うか、あるいはメールやスカイプなどで連絡を取り、研究の進行状況を報告し、指導を受けなければならないと決められています。そしてどのようなやり取りがあったかを大学に報告することにもなっています。これは、私の様にスランプに陥った学生が指導教授との連絡を絶ち、結果的に退学してしまうという状況を防ぐ為だろうと思います。あまり捗ってないときは報告することもなく、面倒でもあるのですが、でも退学を防ぐには良い制度です。当時私はパートタイム学生にして貰っていたので、一月おきにG先生に勉強の報告をしていましたが、この頃先生へ送ったメールを読むと、先生に報告することもなく、進むべき方向を見つけられずに毎日鬱々としていたことが分かります。こうした暗中模索が半年以上続きました。しかし、2015年の初夏には論文全体を組み立て直すための理論的な流れを見出し、イントロダクションのアウトラインを書くことが出来ました。6月に先生に送ったメールを読むと、長い暗闇のトンネルから抜け出しつつあると感じていたようです。

2015年10月のG先生宛のメールを読むと、暑い夏の間に大変苦労してイントロダクションを書き終えただけでなく、その内容には結構面白い点もある、即ちその後に来る本文の内容に関しても楽観できると感じていたことが分かります。それからは私の論文執筆はゆっくりですが着実な前進を始めました。既に書いていた1〜3章を、ほぼ同じ素材やアイデアを使いつつ、構成を変え、新しく書き直しました。イントロダクションで展開した方針に従って、各章が、バラバラの印象を与えず、何とかひとつの結論へと収斂していくようにと、章のあちこちに論文全体のテーマに沿ったコメントをくさびを打つように書き込んでいきました。そうして常に全体のテーマを意識しつつ書いて行くと、各章の初校を書いた数年前には思いつかなかった新しいアイデアが浮かぶこともあり、特に1章と2章は大変改善されたと自分でも感じました。更に、もう削除するか、せいぜい付録(appendix)として残す他ないと思っていた3章も、全体のテーマのもとに組み立て直して、本文に組み込むことが出来ました。こうした全体的な書き直しに2016年いっぱいかかり、2016年の暮れから17年の年頭にかけてはようやく結論を書く作業をしました。

私は現役の教授であるセカンド・スーパーバイザーのB先生の努力で、色々な制度を使って2017年3月末まで学籍を延長していただいていました。その延長期限がどんどん迫ってきたので、2016年の秋には論文の修正をしたり結論のアウトラインを考えつつ、論文全体の英語を直してくれるプルーフリーダーを探し始めました。20ページ程度の雑誌論文であれば、旧勤務校の同僚など知り合いの英米人の先生方に何人かあたって英語を直して貰えるか問い合わせたでしょうし、現役の専任教員の頃はそうしていました。しかし、私の博士論文は最終的に8万5千語程度、246ページになりました。博士論文としてはけして長い方ではありませんが、これを現役の忙しい先生に熟読して直していただくのは無理です。仮にやろうと言ってくださっても、申し訳なくてとてもお願いできません。企業や科研費などの公費がふんだんにある大学教授なら、日本で営業しているよく知られた幾つかの校正業者に発注することも出来ますが、高額で何十万円かかるかわかりません。ある業者のウェッブ上の自動見積もりでは、時間をゆっくりかけて貰う最低価格でも38万円でした。ウェッブで校正業者を検索すると、イギリスや北米の業者も色々とあり値段はかなり安いところもありますが、信頼出来ません。M.PhilからPh.Dへのアップグレードのための論文はそうした業者に発注したのですが、出来上がったドラフトにはまだ間違いが沢山残っていたようで、G先生は、あまり良くない、と言っておられました。そこで、今回は業者ではなく顔の見える人に頼もうと思い、人づてに探し始めました。私の旧勤務校の大学院を修了し、イギリスのリーズ大学でPh.Dを取られたWさんが、二人ほど友人を教えて下さり、ひとりはお忙しくて無理だったのですが、もうひとりの方に落ち着きました。日本の国立大学で長年英語の先生をなさり、数年前に定年退職されて今は自宅でこうした英文校正のお仕事をされているアメリカ人のH先生です。ご自分も博士号をお持ちです。論文の書式はアメリカとイギリスでは大分違いますし、もちろん、綴りが違う単語もかなりありますが、そうした点は自分自身で気を配ることにして、この先生に英語を直していただく事にしました。2017年3月末の提出を目ざし、論文全体の完成を待たずに、出来た章からH先生に送って、沢山の間違いを指摘していただきました。

2017年3月末には何とかして論文を提出したいと思っていたので、H先生のコメントに沿って英語の間違いを直したり、全体の書式の修正や引用文のチェックなどをしつつ、大学の事務局にPh.D論文の提出の予告をしました。Ph.D論文は学生が用意が出来たと思っても勝手に提出できず、ケント大学の規定では3ヶ月前に提出の予告をすることになっています。提出の予告があると、私の所属していたセンターの場合、スーパーバイザー2人に加え、センター長の提出許可が必要です。書式や英語の修正は残っていましたが、ふたりのスーパーバイザーからは提出許可を貰っていましたので、後はセンター長ですが、建前としては、スーパーバイザーとセンター長と私の4人が直接会ってミーティングを開くことになっていました。しかし、私が日本にいてそれは出来ないので、スーパーバイザーの提出許可が出ていることを前提として、センター長とはスカイプで面接をすることになりました。その頃丁度学期末で、センター長が多忙でなかなか連絡がつかず、結局3月末が過ぎ、4月に入ってしまいましたが、スカイプで15分ほどの簡単な質疑応答がありました。センター長は、ふたりの専門家が提出を許可しているので、このインタビューは形式だけです、とおっしゃいました。始めてお話しした方でしたが、和やかにおしゃべりしただけで済みました。

そういう手続きを済ませ、何度も原稿をチェックして、やっと論文が完成。4月上旬に業者に論文の製本をしてもらい、大学の事務局に2部を、更にメールでPDFファイルを送りました。その後の口頭試問や学位授与式については既に先日のブログで書いたとおりです。こうしてふり返ると、最後の半年くらいは、日頃の私らしくない急ぎぶりで作業を進めましたた。3月中という目標からは少し遅れましたが大学からおとがめはなく、ぎりぎりゴールに走り込めたのは幸運でした。まだまだこの後、口頭試問、そして最終評価という関門が残っていたので完全に安心はできないのですが、とにかく提出できたときには大きな安堵感で一杯になりました。この時にはまだ関西のM先生とは連絡が続いており、早速報告の手紙を出し、お返事でお祝いの言葉をいただきました。但、そのお手紙の字が弱々しく、「今年いっぱいの命かも知れない」と書かれているのを見て大変悲しくなりました。

さて、今回まで6回連続で、順序は一部逆になりましたがPh.D課程を始めてから学位授与式までの道程をふり返ってみました。やたら長いし、最初は反面教師としてでも役に立つかもと思ったけれど、劣等生で年配学生の個人的な回想なので、レベルが低すぎて若い優秀な院生さんの役には立ちそうもありません。しかし、私自身にとっては退職後これまでの10年をふり返る良い機会となりましたし、これからも時々読み返して昔を懐かしむことになりそうです。悪文にもへこたれずに通して読んでくださった方がおられましたら、ありがとうございます。

2018/09/06

博士論文提出への長い道のり(2)

博士論文提出への長い道のり:(2)出発してから道に迷うまで

今回は、前回に続き、Ph.D論文の試行錯誤の道のりについてです。特に2014年に方向を見失い、スランプに陥った頃までをふり返ることにします。

私の博士論文の萌芽は2001年度に勤務先の研修制度を利用してケント大学、中世・近代初期研究センター(当時は、中世・チューダー朝研究センター、と呼ばれていました)に1年間留学した時に始まります。日本の学年暦に沿っての留学でしたが、世界的にもよく知られたチョーサー研究の権威で後に私のセカンド・スーパーバイザーをしてくださるB先生のご努力で、MA課程に入学し、修士号を取ることが出来ました。日本の大学院でも修士を修了していたので2つ目の修士号です。普通の学生とは逆の順序で、まず修士論文を書き、次にコースワークをしました。その時、中世イングランドの道徳劇や聖史劇には法律や裁判、法律家などに関する題材や用語が大変豊富であることに気づき、コースワークの一環としてレポートにまとめ、更に帰国後、それを修正して学会誌に投稿、編集者の指示に従って書き直した上で珍しく採用されました。そこで、このテーマで今後研究できるのではないか、と思いました。博士課程に留学することにした時には、入学願書に「中世劇とチューダー・インタールードにおける法と法曹」(Law and Legal Professionals in Medieval English Drama and Tudor Interludes)をPh.D論文のテーマとして研究したい、と書きました。

指導教授は、MA時代同様 G先生になることは決まっていたので、カンタベリーのアパートに入り、日常生活が一応落ち着くと直ぐに彼の指導を受けつつ勉強に取りかかりました。前回までに書いたように、イギリスのPh.DではまずM.Phil課程に登録し、1年前後にある程度の長さの論文を提出して、認められればPh.D課程に変更(アップグレード)するのが一般的です。ケント大学でも1年弱を目処に1万語程度の論文を提出することになっていました。私はG先生と相談し、先生ご自身もかなり詳しくご存じの16世紀のチューダー・インタールードをまず扱うことにして、その時代の劇における法的なモチーフについてまとめて、2009年の初夏に提出しました。審査はG先生と、もう一人はセンター長代理だった法制史の学者、B先生(先程のB先生とは別人)でした。B先生は法制史の専門家ですから、幾らか緊張しましたが、スーパーバイザーのG先生が提出して良いと言われたわけすから、提出できた時点でほぼ安心です。ということで1年弱かかって、Ph.Dにアップグレードできました。その後もこの論文を加筆修正して、1万5千語弱になり、私の博士論文の最終章とすることにしました。しかし最終的なPh.D論文は10万語、少なくとも8万語以上は必要なわけで、長さは気にすることはない、と言われても、先は長いなあ、と溜め息が出ました。単純計算で行くとそれまでの1年で書いた分量の6倍位は書かねばならないわけです。しかもまだ長い旅が始まったばかりで、これから色々な困難があるだろうとは予想できました。

そういうわけで、その後は、まずは論文内容の良し悪しにこだわらず、書けるところから始め、手持ちのアイデアや材料で書けることは全て書いて行き、後で修正しよう、と思いました。ある程度の量を書いて、出来るだけ早く論文完成の目処をつけたいと思ったのです。イギリスに住み、高い授業料を払い続けることの金銭的な問題ももちろんありましたし、その他、研究や金銭問題以外にも、私の年齢になると誰しも抱えている心配事もいくつかありました。

そうして、あまり内容にこだわらず、中味を磨くのは後回しにし、出来るだけの量をコンスタントに書き論文の完成が見えてくるようにしたい、と思って作業を進めていきました。しかし、前回のブログで書いたように、私の能力の限界は如何ともしがたく、時間はどんどん過ぎ、しかし書ける文章の量は最初の1年間のペースのままでした。ひとつには、前回までに書いたように、私が学際的なアプローチを取って文学作品にみる法や法曹について研究したために、それまで全く読んだことのなかった法制史(legal history)の本を必要最小限でも読むために膨大な時間がかかったのです。法制史関連の本を読み、中世劇のテキストを繰り返し読む、という事を同時進行でやるのですが、前者に途方もない時間を使ってしまいました。しかも、既に書いたように、私の読書は、沢山のノートの取りながらのかたつむりのような読み方で、論文は遅々として進みません。結局、7万語程度書き、全体が大体において形を現したと感じ、これから序論と結論に取りかかろうと思った時には、始めてから6年後、2014年になっていました。その大分前、2011年の夏には私は日本に戻り、非常勤講師や家事の傍ら、勉強を続けていました。

それまで私は各章、あるいは長い章の場合はその中のセクション毎にG先生に送ってコメントをいただき、修正していました。また、日本に戻った後も、毎年1度か2度ロンドンで先生と直接会い、指導も受けました。全体が固まりつつあった2014年の夏頃、私はそれまで書いた5章をもう一度一括してG先生に送り、先生は全体を再読して下さいました。しばらくして彼から、長文のコメントが送られてきましたが、それはかなり辛い内容でした。そのことについては既にその当時のブログ「博士論文の行き詰まり」で書いたので、ここではリンクを貼るだけにします。先生がおっしゃるには、要するに、論文草稿の半分以上がそのままでは使えない、大幅な書き直しが必要とのことでした。本文の原稿を通して読んで、理論的な一貫性に欠けていることが分かったそうです。それまでの、まずは書けるだけ書く、というやり方のツケが一気に回ってきたのです。全体の理論的構築を考えつつ各章を書いて行かなければならなかった、とこの時に気づかされました。でもそれまで私は、少しでも先に進むことで精一杯で、正直に言って、論文全体の理論的な一貫性を保ちつつ書ける実力も余裕も無かったのです。私自身、その頃イントロダクションを書こうとして、かなり困っていました。各章がバラバラなので、序論をどう書いて良いか分からなかったからです。

それから1年弱、私の論文執筆期間において一番苦しい時期が続きました。何だかノイローゼみたいになり何もせずにボーッと過ごす日もありました。鬱々としていると、そもそも勉強をするエネルギーが出ないので、論文とは全く関係の無い気晴らしをする日も多かったと思います。毎週1回行っていた非常勤講師の仕事や友人の先生のクラスでのゲスト講義、旧勤務校の市民講座の担当などの仕事は良い気分転換になりました。しかし、そうしている間にも時間は経ち、論文完成のゴールは霞んでいきます。ケント大学がいつまで私の在籍を許してくれるのかもはっきりせず、焦っていました。それまで読んでいた中世劇や法制史の研究書から離れ、理論的な支柱や新しい視点を求めて、「法と文学」のテーマについて書かれた本を捜し、何冊か読んだりもしました。当時読んだ本の中には、文学理論、社会学、建築史などの本に加え、カフカの短編小説もあります。カフカは若い頃から私の好きな作家でしたが、彼は「法と文学」に関する研究で良く題材として俎上に載せられる作家です。こうした無駄な脱線のように見えた読書が私の視野を広げ、その後、イントロダクションを考える上で重要な役割を果たし、私のPh.D論文が息を吹き返すことになりました。

この長いスランプの期間、私は2ヶ月に1回程度イギリスのスーパーバイザー、G先生とメールのやり取りをしていました。彼は「こう書きなさい」という具体的ヒントは与えてくれませんでしたし、また私のやっているテーマには通じていないので、そうしたくても出来なかったとは思いますが、常に励ましの言葉をかけて下さり、私には論文を完成するのに充分な能力があると繰り返し書いて下さいました。そして、今まで書いた章、特に問題の多い1〜3章を無駄だったと思わず、何とか組み立て直して使うように、と指示されました。

さて、今回はここまでとします。最悪の期間を抜け出して論文完成へと進んだ頃のことは次回続けます。