神奈川大学外国語学部教授だった橋本侃先生が2009年2月に亡くなられたことを最近になって知った。享年67歳。あまりに早すぎた。
私の大学教師としての最初の仕事は、1985年、玉川大学の英語の非常勤講師で、博士課程の2年生の時だった。その頃、玉川大の小さな非常勤講師控え室で、神奈川大学外国語学部の橋本侃先生にお会いした。私より10才位上の世代の方で、専門はシェイクスピア。シェイクスピアに関する単著も2冊ある。私は駆け出しの新任非常勤で、元々人見知りだから、自己紹介して以後はお会いすれば挨拶するくらいで、ちゃんとお話ししたこともなかった。私は自分がつまらなさすぎる人間で話も退屈だから、他人と話をするのに気後れする。
橋本先生は、シェイクスピアが第一の研究分野だったようだが、一方で石井美樹子先生と共に、中世イギリス演劇研究会を始められ、日本における中世イギリス演劇研究が盛んだった頃の主要な学者のひとりだった。彼は『中世ウェイクフィールド劇集』(篠崎書林、1987)の6人の編者の1人(他の編者は、黒川樟枝、松田隆美、米村泰明、中道嘉彦)。
神奈川大学の紀要の中に眠っているが、橋本先生には驚くべき翻訳の業績がある。彼は、4大中世劇のうち、Nタウン劇とチェスター劇を全訳されていることを最近知った。更にタウンリー劇の最初の数作品(全体の一部を占める短い劇)も訳されている。しかし、タウンリー劇を訳されている途上で、2009年2月、病気で亡くなられたようだ。4大劇のうちの2つまで訳されたというのは素晴らしい業績。きっと書籍としての出版計画も温めておられていたことだろう。残念。
今回、授業の配付資料として、タウンリーのノアの洪水の劇を使わせていただいた。そのうち、ネットでわかる範囲内で橋本先生の業績リストを造りたいと思っている。出来れば彼の中世劇の翻訳を本として出したいくらいだが、私のような自分の著書も編著もない非常勤講師ではどうしようもない。
日本語で書籍として読めるイングランドの聖史劇の翻訳というと石井美樹子先生訳編の『イギリス中世劇集』(篠崎書林、1983)だけだと思う。これは Peter Huppé, ed. English Mystery Plays: An Selection (Penguin, 1975) というロングセラーの作品集の翻訳で、大変立派なお仕事である。これがなければ、日本のほとんどの読者はイギリスの聖史劇を読めない。但、この作品集は、4大聖史劇から聖書の物語の流れに沿って色々な劇を集めた、まさに「作品集」であって、チェスター劇とか、ヨーク劇といった単一の、所謂「サイクル」の特徴が霞む結果になっている。聖書で言うと、4つの福音書を一つにまとめて一度読めばイエス・キリストのお話がわかるようにしたのと同じ(中世ではこれをGospel Harmonyと言う)。ところが、それぞれの聖史劇には独特の個性があり、聖史劇別に読むとそれが一目瞭然なのである。その意味で、橋本先生のチェスター劇やNタウン劇を通しての翻訳は非常に貴重だ。しかし、何しろ紀要に載ったままなので、一般読者はおろか、イギリス演劇や私のような中世英文学の研究者も知らない方がほとんどだろう。せめて、チェスターやNタウンのひとつを編集したアンソロジーがあると良いのだが。
リポジトリに収録されている橋本先生訳聖史劇は、このサイトから先生のお名前を入れて検索できる。それ以外の、リポジトリ未収録の聖史劇翻訳は、神奈川大学の『人文研究』の目次を最初から見ていくと、出て来る。Nタウン劇は、昔使われていた『ルーダス=コベントリー・サイクル劇』という名前になっている。なお、168号(2009年)に橋本先生の追悼記事がいくつか掲載されていた。
橋本侃先生がシェイクスピア研究者であるにも関わらずずっと中世劇の翻訳にも当たられていたのは、おそらくシェイクスピアの理解には、その直前の、いやほぼ同時代の、聖史劇の理解が必要と思われたからだろう。聖史劇の上演は1570年代まで、そして一部ではおそらく17世紀初めまでやられていたことを考えると、聖史劇もまたチューダー朝演劇の一部なのである。Greg Walkerの編纂した Oxford Anthology of Tudor Drama (2014) には16篇の劇が収録されていて、最後の2篇はシェイクスピアだが、最初の作品はヨーク劇から "The Fall of Angels"。2作目が The Croxton Play of the Sacrament、そして4作目が Everyman。この本のdescriptionを読むとその理屈がよくわかる。シェイクスピア学者の中にも、E K Chambers, David Bevington、最近ではJanette Dillonなど、昔から、中世劇とシェイクスピアの両方を研究した人は数多い。日本の場合、学会の敷居があまりに高いように見える。研究をストップした状態の私の出来る事は何もないが、非常勤先の英文学史で学生に教えるときぐらいは、中世劇とシェイクスピア劇の連続性についても触れるようにしたい。
それにしても1980年代、中世イギリス演劇研究会が勉強会をし、また『イギリス中世・チューダー朝事典』の編纂が進んでいた頃、日本の中世イギリス演劇研究が何と豊かだったことか、今さらその時代に活躍された先生達のことを学び、驚いている。
0 件のコメント:
コメントを投稿