2021/07/06

池上忠弘監修『カンタベリ物語 共同新訳版』(悠書館)を戴きました。

 学会や研究会でお世話になっている3人の先生方から連名で、池上忠弘監修『カンタベリ物語 共同新訳版』(悠書館、2021年7月刊)をお贈りいただきました。私にまでお心配りいただき深く感謝致しております。手に取ってみると、思った以上の美本です。出版社の紹介ページはこちら。

四六版で、1033頁。上質の紙が使ってあると思います。カバーの写真は『カンタベリ物語』の代表的写本、エルズミア写本の二葉、「メリベウスの話」と「女子修道院長の話」の冒頭が使われています。また本の最初にもカラー図版が4頁あり、エルズミア写本のから23人の巡礼の挿絵が取られています。それぞれのお話とその序は、まず最初に解題が付けられ、話の後には注が付けられるという順序で並んでいます。話の本文の字は割合大きくて、歳を取って目の弱い私にも読みやすいです。ほとんどの話とその解題、注はひとりの方が担当しているようですが、長い話などは数人で分担している場合もあります。i-xi頁は監修者の池上忠弘先生と瀬谷幸男先生による「『カンタベリ物語』の共同新訳によせて」という文章で、そこに詩人の略歴や『カンタベリ物語』全体の概説などが簡潔に記されています。また、最後に狩野晃一先生による「編訳者あとがき」がありこの大作の共同訳というプロジェクトのこれまでの経緯が書かれています。

あとがきによると既にこの構想は1990年代に始まり、その後休眠状態の時もありましたが、2005-09年頃には訳稿が揃いつつあったそうです。それから24人が訳したものを編集して行く作業が大変で、長い時間がかかったようです。訳文の正確さなどをめぐり、編集委員会を作って検討を重ねるうちに長い年月が流れたようです。編集委員会は池上先生を中心に毎月開かれ、まるで大学院の授業のようであったとか。これは24人の優秀な中世文学者の巡礼の旅であったわけです。そして完成、出版に至るまでに監修者の池上先生、河崎征俊先生、松田英先生の3人の碩学が彼岸に旅立たれました。しかし、こうして見事な美しい本として刊行されて、池上先生もあの世でさぞ喜んでおられることでしょう。この綿密な編集プロセスの中に、共同訳の意味があるのだろうと想います。恐らくその間に訳が一層正確で、また、こなれたものになり、ケアレスミスがなくなり、更にそれぞれの翻訳者のチョーサー理解も深化したのではないでしょうか。皆さんの長い年月にわたる努力を知ると、感嘆し、尊敬するしかありません。これから長く愛読させていただきたいと思います。本を贈って下さった3人だけでなく、ひとりのチョーサー愛読者として、翻訳者全員にお礼を申し上げたいと思います。

更に奥付の裏に嬉しいニュースが書いてありました。この書物には「解説編」が出ることになっており、タイトルは『チョーサー巡礼』(仮題)とのこと。オックスフォード大学やケンブリッジ大学の出版局から出されているような、日本語版のチョーサー・コンパニオン/ハンドブック、とでも言うべき本になりそうです。案内によると、目次には次のような項目が含まれるようです:

チョーサーの伝記、『カンタベリ物語』の写本、チョーサーの英語、中世ラテン文学とチョーサー、チョーサーとフランス文学の伝統、クリスチーヌ・ド・ピザン、シャルル・ドルレアン、アングロ・ノルマン文学、チョーサーと中世イタリア文学、耐える女の表象、チョーサー文学の時代背景、14世紀西ヨーロッパ美術の“近代性”、中世の音楽、チョーサー関連年表/文献表など。

凄い項目が並んでいますね。翻訳者の中にこれだけ広い事項について書く人材が揃っているということでしょう。中世後半のイギリス文学事典、といった感じです。出版されるのが楽しみです!

2021/07/03

学会役員・委員の苦境

 去年から学会の委員のお仕事で苦しんでいる方の声を学会のオンライン・ミーティングやニュースレター、あるいはSNSなど、あちこちで聞いたり読んだりする。私の所属学会でも、中堅の先生方に沢山の仕事が押し寄せて、大変気の毒なことになっている。委員長が、他の学会の委員長もやっていたり、委員の後任が見つからず、任期を延長して務めたりされている。こういうのを「やり甲斐詐欺」だという声も時々聞く。誰かがこうした役員の方々を「詐欺」、つまり意図的に欺しているというわけではないだろうけど、仕事を押しつけられた方々はそう思いたいのも良く分かる。苦しんでいるのに無理解、あるいは分かっていても見て見ぬ振り、と思われるかも知れない。

私の分野において、こうした苦境の主な原因は外国文学・語学系のポストの減少による学会員数の急速な減少。それに伴い、複数学会の役員の仕事を兼務したり、そうした多忙な仕事を次々と休む期間もなくやったりされている。もう一つの要因は、外国文学・語学の分野で、学会・研究会が増えたこと。会員数は急速に減っているのに、必要な役員数は、会員が一番多い時代と変わらないか、増えてしまっている。当然、兼務をされる方も増える。そうして、役員に推挙される方々は、能力や人望があり、研究面で原稿依頼や口頭発表依頼、講演依頼などの仕事も多く、また大学内の仕事も頼まれやすい。授業準備でも熱心な方がほとんどだろう。そうなると四面楚歌という感じになる。更に、この1年半は、オンライン授業による授業準備の急激な増加や、オンライン学会開催準備のための様々な苦労も重なったことと思う。

学会役員として苦しんでいる方々は、引退しているのに注文だけはつける老人達とか、様々な学会のサービスを享受しているが会費を払っているだけで仕事を分担していない一部の会員に対して腹立たしく思っている事だろう。私も会費を払っているだけで、引退した老人会員なので、大変申し訳ない気持ちでいっぱいだ。だが、私が何か実務作業が出来るわけでもないし、その能力も、またいつも半病人なので雑務をやる健康も持ち合わせない。

当面出来る事としては、アルバイトなどを活用するという手がある。しかし、これが意外と大変なのだ。信頼出来る学生を見つけるのは難しかったり、時給があまり出せなかったりするし、アルバイトを雇えばそれに伴って、会計処理も増え、書類も増加する。かっては多くの学会が学会事務を、事務請け負い会社に任せていたが、その会社が詐欺を働いて多額の損害が出たこともあった。大きな学会ではパートの職員を長年雇っているところもあるが、長年パート職員を雇うと、学会費収入が減少しつつある現在、こうした職員の継続雇用が難しくなり、非常に難しい雇用問題が発生しかねない。とにかく、会員数の減少に応じて、思い切って、学会もその数と事業を縮小しなければならないと思う。但、反対もあるだろうから、意見を取りまとめて撤退すべきところは撤退するという計画を立てて実行すること自体、大変な労力を要する。それで、ご自分の任期の間何とか無理を承知で頑張り、後任に後の事は任すということになりがち。ずっとそうしてきた結果、今、大変なことになっている。最終的には、役職の引き受け手がなくなれば、学会の事業の縮小や廃止、学会自体の解散などをやらざるを得ないから、これ以上無理と思われる先生方が、はっきりそう言って役員を断ることからしか、抜本的な変化は起こらないかも知れない。

学会は引退者の余生の生き甲斐に奉仕するためのものではない。今中堅で活躍している方々の研究・教育活動を助け、それに大きな支障のない程度の活動でないと意味がない。活動内容や存続自体を会員数に合わせて柔軟に変えていかないと、会員を不幸にするばかりだろう。

2021/05/17

【観劇】『終わりよければすべてよし』( 彩の国さいたま芸術劇場公演 、2021.5.16)

 『終わりよければすべてよし』 

彩の国さいたま芸術劇場公演

観劇日: 2021.5.16   13:00-15:45(15分のインターバル含む)

劇場:埼玉芸術劇場 大ホール 


演出: 吉田鋼太郎

原作: ウィリアム・シェイクスピア

美術: 秋山光洋

衣装: 西原梨恵

照明: 原田保

音楽: 角張正雄


出演:

 バートラム:藤原竜也

 ヘレン:石原さとみ

デュメイン(弟):溝端淳平

デュメイン(兄):河内大和

ラフュー卿:正名僕蔵

ダイアナ:山名花純

ルシヨン伯爵夫人:宮本裕子

バローレス:横田栄司

フランス王:吉田鋼太郎


 ☆☆☆ / 5


最後にいつどこの劇場で演劇を見たか思いだせない。そのくらい久しぶりに劇を見た。近年、ブログも途絶えがちになっているので、記録も取っていない。そのくらい久しぶりに出かけた今回の舞台は非常に刺激的で、シェイクスピアなので色々と考えさせてもくれ、大変楽しめた。吉田鋼太郎さんを始め、埼玉芸術劇場の劇場関係者、そして俳優やスタッフの方々には、このコロナウィルスが広がる難しい状況下で公演して下さったことに深く感謝したい。また、この上演は、埼玉芸術劇場のシェイクスピア全作品上演の最後の作品。1998年に始まり、23年間、全37作品の最後にあたる。記憶力が乏しいので覚えてはいないが、おそらくほぼ全部の上演を見てきた私としても、かなり感慨がある。専任教員をしていた間は、大学に演劇鑑賞会の制度を作ってもらい、ホリプロの方に便宜を図っていただき、何度かかなりのチケットを確保して(30〜40枚くらい)、学生にシェイクスピア作品を見せることが出来たのも良い思い出。あの頃劇場に連れて行った学生達が、その後も演劇を見るようになっていたら嬉しいな。

さて、今回の上演、蜷川さんが最後までやらなかった作品で、やはりシェイクスピア作品としては面白みに乏しい。筋立てもキャラクターもぱっとせず、思わず聞き惚れる様な台詞もほとんどない印象だった。所謂「問題劇」、あるいは「問題喜劇」(problem play / problem comedy)と後世の学者によって名づけられた作品のひとつ(他には『尺には尺を』、『トロイラスとクレシダ』等、それ以外にも『冬物語』や『ヴェニスの商人』、『アテネのタイモン』などを含める場合もあり)。だから、からっと、めでたしめでたし、で終えられない複雑な印象が残るので、どうしても「わからない」と言う感じがする。また、主人公は一応バートラムみたいだが、ヘレンの方が強い印象を与え、焦点が定まらない。でもそういう「問題劇」的な面が中世的で、私には面白い。そもそも、「喜劇」と「悲劇」をはっきり分けるのはルネサンス演劇以降で、イギリスの中世劇にはそういうレッテルはない。

作品の出来不出来はともかく、私にとって面白いのは結構中世文学風のモチーフが見られること。実際、シェイクスピアのソースは『デカメロン』に含まれている小話だそうだ。若い男性が彼に恋いこがれる女性に結婚を迫られ、自分の仕える主人に命じられて嫌々結婚せざるを得ない状況になる、というのはチョーサーの「バースの女房の話」と似たストーリー。それに伴って、ヒロインの占める役割が大きくなっている。また、「バースの女房の話」の騎士と同じく、バートラムは自己中心的なろくでなしである。フランス王に、「ヘレナは美徳そのものだから、結婚しろ」というような台詞があったが、彼女は未熟な主人公を改心させる「美徳」みたいな面があり、そう考えると、この作品のベースには(多くのシェイクスピア作品同様)、中世道徳劇の枠組が感じられた。失敗を重ねつつ、美徳に導かれ、最後は恩寵により正しい道を行くことになる、というわけ。カトリックの宗教劇ではないので、神様は出てこず、代わりにフランス王が究極の権威という位置を占める。また、その王は「美徳」を体現するヘレナの医術により、死の床から蘇る。ヘレナ自身も表面的には死から蘇り、結婚に至る。更に彼女がその「蘇り」への糸口を得たのは聖ヤコブへの巡礼に行った時である、など、色々な中世的モチーフが散見される。

上演を担った人々には大いに感謝するが、上演の出来そのものには不満が点が目立つ。最初に舞台に照明が当たると、一面大きなサルビアのような赤い花が植えられていて、おおっ、とうならせるのは蜷川を思い出させ、その後を期待させる。しかし、舞台装置や照明で印象的だったのはそれだけ。後は全く驚きがない。場面転換の際などに何かもっとアクセントを付けられなかったのか、残念。ドアや窓を上げたり下げたりして、場所の変化を示しているが、機能的な役割を果たしているだけで、それ以上のものが感じられない。右手の大きな像も一体何の意味があるんだか?何か意味を込めているにしても、それを感じられず、インパクトがない。

妙に思ったのは、ダイアナの友人たちにまるでいかがわしい売春婦のような格好をさせたこと。そして、フィレンツェの宿も、巡礼宿のはずなんだが、背景に浮かび上がる窓にはまるで飾り窓の女のようなシルエット。巡礼宿が売春宿か?テキストを読んでないし、一度見ただけなので良く分からないが、こういうコスチュームや背景により、美徳の鏡としてのヘレンを際立たせるようにしたのかしら?これこそ「いかがわしい」解釈、と思えた。

俳優陣は上手なベテランと、人気の若手を配置し、それぞれがある程度その役割を果たしているが、演技に特に驚きや新鮮味は感じず、不満はかなりあった。まず、バートラムの藤原竜也だが、彼はいつもの真面目な演技で、冷たいプレイポーイのバートラムにはあまりに堅苦しい。若くてハンサムな溝端淳平の方がずっとはまったと思うが・・・。主要な役はホリプロ、端役はAUNとネクストシアターの面々に割りふる、というやむを得ない制作側の縛りもあるのあろうか。劇の最後はたたみかける台詞に迫力を感じ、ダイアナという役の重要性が際立ったが、山名花純は台詞を一本調子の大声で叫ぶだけで、謳いあげることが出来てない。大変印象的なキャラクターだが、もっと舞台の台詞に習熟した人ならさらにずっと良かっただろう。シェイクスピアでは台詞の量以上に舞台を盛り上げる道化役もちっとも面白くなく、無駄な動きが空回りしていた。宮本裕子や正名僕蔵、横田栄司などのベテランは安定した演技で、堅実にそれぞれの役をこなしていたが、蜷川が俳優の強みを驚くほど引き出したりしたのを思い出すと、今はベテランの演技は本人に任されているのかな、という印象だ。全体として、演出家のコンセプトが感じられず、手堅いが、平凡な上演という印象。

劇場に置いてあった『埼玉アーツシアター通信』92号(pp. 8-9)に彩の国シェイクスピア・シリーズの上演記録が載っていて、登場した俳優さんたちのことなど、色々と思い出している。最初は大沢たかおと佐藤藍子による『ロミオとジュリエット』。舞台が牢獄という印象的なセットで、ヴィジュアルでイギリスの批評家をうならせた蜷川の才能が満開だった。佐藤藍子がとても良かった気がするが、その後、舞台俳優としては成長したのだろうか(私はよく知らない)。月川悠貴など、このシリーズで特に花開いた役者が思い出される。かえすがえすも残念なのは、ニナガワ・スタジオの生え抜きで、素晴らしいシェイクスピア俳優として順調に成長していた高橋洋が(恐らく蜷川との確執で?)このシリーズから消えてしまったこと。その後も、テレビなどで俳優として仕事を続けているが、彼のシェイクスピア劇での才能が充分活かせなかったのは悔しい。彼はどういう気持ちでこのシリーズの終わりを見ているだろう。それとも、過去の事として、気にもしていないだろうか。

コロナウィルスは怖いけれど、沢山の人々と期待、緊張、感動を共有できる劇場空間の魅力を改めて実感した良い一日だった。

2021/03/21

セバスティアン・ソベッキ教授のオンライン講演会を聴いて

3月18日、英国の午後6時(日本時間午前3時)より、ケント大学でAnnual Chaucer Lectureが開催された。この講演会は一般にも公開されていて、毎年著名な学者が講演している。コロナウィルスのために今年はオンラインによる開催。講師は、オランダ、フローニンゲン大学教授で国際チョーサー学会(New Chaucer Society)の学会誌、Studies in the Age of Chaucer、の編集者、セバスティアン・ソベッキ教授(Professor Sebastian Sobecki)だった。この雑誌は、学術誌の格付けを行っているScimago によると、中世英文学の分野でNo. 1の学術誌、中世文学全体でNo. 2とのことで、その編集者であることは、彼が世界の中世英文学研究をリードする学者であることを示している。今回のレクチャーは、世界中から220名以上の人々が聴いたとのこと。その中には著名な学者も多かったそうで、まるで学術論文の参考文献に並んでいる名前を見ているようだ、というコメントもTwitterであった。私はその時間に起きていると体調を崩すと思うので、諦めていたら、幸いなことに、録画がYouTubeにアップされた。残念ながら、質疑応答は入っていないが、それでも大変嬉しい。

講演タイトルは、"Inner Circles: Reading & Writing in Late Medieval London"(「インナー・サークル:中世末期ロンドンにおけるリーディングとライティング」)。チョーサーやガワーなどの写本がどのように作られ、写されて、拡散したかを、具体的な写本の画像を示しつつ、書体の特徴などから研究するご自分の研究プロジェクトの概要を語っておられる。特に最初に、Staring Pointsとして研究の基礎や大きな枠組を語っておられるが、歴史学、歴史言語学、写本研究、個別の写字生の特徴の判定などについての議論、どういう先行研究が大事かなどは、大変興味深い。

後半は具体的な写本の議論だが、写字生たちがどういう人だったか、そして彼らの間にあった"Communities of Practice"(「慣習から見たコミュニティ」というようなことか)を浮き上がらせようという姿勢、写本に疎い私にも充分面白い。中世英文学に興味のある者だけでなく、歴史学や英語史の方にも大変刺激的なプレゼンテーションだと思う。英語は、オンラインであることもあり、私にはかなり聞きとりにくかった。

最初にケントのRyan Perry博士がSobecki教授の紹介をされていたが、言われているように、まだ割合若いようにお見受けするがもの凄い業績を積み重ねておられる。特に写本に詳しくて、写本研究を使って、チョーサーやガワーについて幾つかの新発見をされている。更に近年はトラベル・ライティングのアンソロジーなど出され、その方面でも権威。また、最初のモノグラフでは文学と法制史の接点を研究しておられ、「法と文学」のテーマでも重要な学者。ロンドンの写字生の多くはウエストミンスター・ホールやギルド・ホール、大法官庁(Chancery)などで仕事をしていて、その多くは広い意味での法曹関係者である。今の日本で言うと司法書士みたいな人達にあたるだろうか。こういう人達が文学の写本を読んだり写したり、ホックリーヴみたいに自分で書いたりしている。写本の書体とか癖とか、文法や綴り字、省略の仕方などの特徴などから、今在る写本を分類し、写字生を同定する作業がこれから進んでいくと思うんが、その際、文学写本だけでなく、広く法律文書や商用文書、そしてラテン語やフランス語の写本なども使って写字生をidentifyする必要がある。多言語が使われているビジネス文書なども研究しているLaura Wright教授の名前も出ていた。そうしてロンドン写本の概要、文学受容におけるcommunities of practiceが段々と分かってくる、ということになるのだろう。

この講演、東アジアでは大変聞きづらい時間に行われたが、中国から聞いた方もいたそうだ。YouTubeに上げてくださったので、こんな素晴らしい講演が無料で、しかも自分の家で聴けて本当に良かった。

2021/03/14

オンライン授業その後

昨年のブログ(8月11日)で「オンライン授業の準備」という文章を書いた。昨年前半のコロナウィルス流行を受けて勤めている非常勤先の大学がほぼ入構禁止となり、授業も全面的にオンラインに移行したのを受けて、私も四苦八苦した様子を書いていた。あの文章では前期のことを書いたのだが、後期も大体同じ感じで進めた。但、前期にWebexというZoomに似たソフトで行ったリアルタイムでの質疑応答のための補講は自由参加としていたが、学期の終わりにはほとんど受講者がいなくなったので、後期はやらなかった。もし希望が多ければやろうとは思っていたのだが、学期始めに学生にリアルタイムの質疑応答の時間を望むかアンケートを取ったところ、ほとんどの学生が、無くて良いか、あっても多分出席しないという反応であった。

私が担当している講義は前・後期1科目の2科目だが、英文学史を扱っていて、前期は中世から17世紀のミルトンの頃まで、後期は18世紀から第2次世界大戦後の文学まで講義する。従って、後期は近代後期の文学で、デフォーやスウィフトに始まり、ディケンズやブロンテ姉妹他の19世紀の大小説家など、長編小説が多い。前期の授業から学生に沢山の資料をコピーし、スキャンしてファイルで配布していたが、後期は小説の翻訳を一部抜粋して配ることが多かった。小説は叙情詩などと違い、自分で文章を入力したり、数ページをコピーした程度ではあまり意味がない。やはり何十ページ単位で読んでもらわないと特徴が解りにくい。従って、後期は一作品について、文庫本の翻訳を50ページくらい(見開きで25枚くらい)、コピーすることが多かった。コピーした後はマージンをハサミで切り、新しい紙に糊で貼り付け、しばしば最初にイントロダクションみたいな文章も付けて、スキャナーで読み込むのだから、結構時間がかかる。他に、文学史の本の抜粋とか、歴史の本の抜粋も配るから(これらは2〜5ページ程度だが)、資料の準備だけで丸一日以上かかる週が多かった。

前期同様、学生のホームワークには個別にコメントを返し、毎週のリスポンス・シートへは、全体としてのフィードバックを書いてLMSで配布した。学生の中にはこうしたフィードバックを高く評価してくれた者もいたようだが、厳しい事も書くし、とにかく毎週何か出さないといけないので、履修者は18名だったが、途中で挫折した学生も何名もいた。特に、それまでに単位をかなり落としていたり、編入生や教職履修者だったりして、履修科目数が他の人より多い学生にとっては辛かったようだ。但、教職履修者は熱心な学生が多いので、それでも何とか最後まで続いたと思う。

私はたった1科目しかやってないが、毎週、平均すればこの科目のために20時間以上使っただろう。昔読んだ作品を思い出したり、時には講義内容を向上させるために、詩や小説などの作品自体や参考書を読んだりする時間もあるから、実際はもっと長い時間をかけている。とても現役の専任教員時代には出来なかっただろうし、非常勤でも何科目もやっていれば不可能だっただろう。この他には家事をしたり、散歩やテレビを見たりして無為な老後を過ごしている私としては、一種の打ち込める生き甲斐になっていたなと今は思う。ほとんど収入にはならないし、対面授業の場合は通勤時間がとても長いのだが、こういう仕事を与えて下さった先生にとても感謝している。

2021年度の授業が来月から始まる。非常勤先大学からは、100人単位の大人数の講義を除き、原則対面授業を行って欲しいという通知があった。従って、私も、ちょっと怖くはあるが、対面授業に戻るつもりで準備をしている。講義は音声ファイルの配布ではなく、教室で実際に私が話す事になるが、毎週ファイルで資料を配付し、学生にコメントなどを書いて提出させるというやり方は今後も続けることにした。

2020/09/21

英文学史の教科書に見る「中世劇」の記述

 秋の学期が近づいたのでふと中世劇に関する英文科や英文学専攻(教員や学生)における一般常識が気になり、手許にある割合新しい文学史の本を開いて見た。一番新しい浦野郁・奥村沙夜香編『よくわかるイギリス文学史』(ミネルヴァ書房、2020、pp.34-35)が良い。割合説明も詳しいし、大きな間違いもない。強いて言えばタウンリー劇を「ウェイクフィールド」の町で行われた劇と考えているところが古いが、これはこの本の参考文献に挙がっていて権威ある松田隆美他『イギリス中世・チューダー朝演劇事典』(慶應義塾大学出版会、1998)が最近の研究からするとやや古くなってきたという問題によるものだろう。なお、英語の文学ではないからか、ラテン典礼劇への言及はなかったが、欲を言えば、ブリテン諸島における中世演劇の始まりとして、やはりラテン典礼劇にもひと言触れて欲しかった。

 白井義昭『読んで愉しむイギリス文学史入門』(2013)は、薄い本だし(170ページ)、近代小説の専門家が1人で書かれた本なので仕方ないが、中世劇への言及はない。シェイクスピアのところに「大学の才人たち」と呼ばれる劇作家への言及があるが(p. 18)、イギリス演劇が突然始まったような感は残る。

 石塚久郎他編『イギリス文学入門』(三修社、2014)では、中世英文学の解説部分には演劇の記述はなく、16世紀で少し言及(pp. 34-35)。聖史劇等については「教会劇に起源を持つイギリス演劇は、やがて道徳劇と古典劇を二つの柱として発展していくことになる」という記述で触れていることになっているのだろう。でもこれだけではちょっと残念だ。そのあと、「そしてその幕間に演じられる短い喜劇も発達し、これらは間狂言(interlude)と呼ばれた」とあるが、この表現は不正確と言わざるを得ない。インタールードは大ざっぱな範疇で、喜劇が多いがそればかりとは限らない。また引用の「その幕間に」は文脈から見て「道徳劇の幕間に」という意味のようだが、道徳劇の間に演じられたわけでもなく、そもそも道徳劇もインタールードに含めて考える専門家も多くて、両者を分けることは出来ない。道徳劇やインタールードの定義が英米の専門家の間でもまちまちで、これらはかなり便宜的な名称である。やや古いが(1976)、Glynne Wickhamによるこのジャンルのアンソロジーは、"English Moral Interludes"という書名となっており、道徳劇とインタールードは重複する事の多い名称であることを示している。

 イギリス演劇史の教科書、一ノ瀬和夫、外岡尚美編『たのしく読める英米演劇』(ミネルヴァ書房、2001)は、演劇に絞った本だけあって、前述の数冊と比べるとかなり詳しく、「典礼劇」、「ミステリー・サイクル」、「道徳劇」、「インタールード」という一連の伝統的な解釈による演劇の変化を記述している(p. 2)。但、細かく言うと、典礼劇が変化してミステリー・プレイになったかのように書いてあり、演劇史観としては50年位前までの常識で、古めかしい。また「インタールードと呼ばれる芝居が宮廷などで上演されるようになり、イギリスの演劇も長い中世のくびきから脱することになった。」とあるのには苦笑いさせられる。また、インタールードは既に書いたように、16世紀の短い劇を総称する非常におおざっぱな括りで、宮廷演劇とは限らない。むしろ、宮廷で上演された可能性のある作品はあっても、大多数はそうとは言えないだろう。

 この本には個別の作品解説の部分に『第二の羊飼い劇』の粗筋や解説もある(pp. 4-5)。この作品の解説者は慶應義塾大学のイギリス演劇専門家、小菅隼人先生で、タウンリー写本とウェイクフィールドの町の事をちゃんと説明してあるなど、この時期の出版としてはなかなか正確である。但、今世紀の研究では、タウンリー写本の劇は、最早「サイクル劇」とは言えず、この写本の形でウェイクフィールドで上演されたということも考えにくい。

 私自身、英文学史やイギリス演劇史の講義を担当してきたが、専門以外では相当にいい加減なことを言ってきた来たと思うので、こういう本を執筆される方々は立派である。総じて希望を書くとすると、中世劇については、典礼劇のこともひと言書いて欲しい。しかし、典礼劇が英語の聖史劇に発展したとは書かないで欲しい。また、中世末期、特に15世紀から16世紀初頭まではイギリス演劇は全国で(つまりロンドン以外でも)もの凄く盛んで、大変洗練された作品も多いことを認識して欲しいと思う。

 更に、英文学史の教科書に含めるのは難しいだろうが、中世のブリテン島にはラテン語の典礼劇に加え、コーンウォール語やウェールズ語などケルト系言語の演劇もかなりあってテキストも少し残っている。また記録だけ残っている英語の劇なら「おびただしい」と言って良いほどあり、各地で上演されていたことが分かっている。

2020/08/28

美術史家、金沢百枝先生の講演「カインとアベル」

 昨日、中世美術、特にロマネスク美術、の権威、金沢百枝先生の「青花の会」講演を、池袋の自由学園明日館に聴きに行った。今回のトピックは旧約聖書の「カインとアベル」。英語の聖史劇でも上演されるよく知られた聖書のエピソードで、大変参考になった。

私が特に興味を引かれたのは、神が兄弟の捧げ物を受け取る場面の表現。絵画では、髪の右手だけが上部に描かれることが多いようだ。でもどうも火で燃やして捧げているらしき絵もあったみたい。タウンリー劇の「アベルの殺害」ではカインは麦の穂を燃やすんだけど、煙ばかりでよく燃えず、神の不興を示すことになっていて、効果的な脚色がなされている。もう一点特に面白かったのは、アベル殺害の道具の多彩なこと。棒で殴るのが多い。まるで野球のバットかゴルフのクラブを振り上げたみたいな姿勢のカインが描かれる。他には、斧か槌みたいな道具、大小の石なども使われている。更にイングランド(一部、フランス)では顎の骨(cheek bone)が多い。これはタウンリー劇とNタウン劇でも表れる。また古英語の Solomon and Saturn、中英語の Cursor Mundi、そして中世末期コーンウォール語の聖史劇などでも表れるようだ。今までこの骨がどんな格好なのか分からなかったが、今回絵画を見て非常に興味深かった。動物(ロバとか馬か?)の顎に歯がずらっと並んだ骨を持っていた。人間の入れ歯を十倍くらい拡大した感じ(笑)。上下の両顎の一方だけというものが普通のようだが、両顎ともに描かれた骨もあった。可笑しいようなグロテスクなような。誰がいつ考えたのかな。

ちなみに、英語の4つの主要聖史劇は皆「アベルの殺害」を取り上げているが、ヨーク劇は写本が1頁欠落していて、肝心の殺害場面が抜けている。その他の劇では完全に残っているが、チェスターとNタウンは、アダム夫婦の堕罪と楽園追放から連続していて、ごく簡単。一方タウンリー劇の「アベルの殺害」は独立した劇として書かれ、当時の観客にも共感しやすい「中世化」がされており、カインとアベルは、中世ヨークシャーの農夫と羊飼いとして描かれていて、カインの下男も登場する。アダムとイヴの子に下男がいたなんて、聖書の上ではあり得ないんだけどね(笑)。カインはこの下男に暴力を振るうが、下男も負けずに反撃し、殴り返そうとする。アダムとイブの堕罪の後の、秩序の崩壊した社会の有様をこの主人と召使いの関係が表しているとも言えそうだ。英語の聖史劇の中でも最高傑作のひとつと思う。

勉強になり、また、閉じこもりがちな私には、良い気分転換になった昨夜でした。行きがけはまだ炎天下で、暑くてへとへとになったけど、たまには出かけないとね。