ロシアによるウクライナの侵略戦争にシリアやチェチェンの傭兵が狩り出されるようだ。また、ウクライナ側にも多国籍の志願兵や軍事専門家が集まっている。こうした事を聞いて、『カンタベリ物語』の序歌に出てくる騎士を思いだした。序歌ではこの騎士の広範囲にわたる戦歴を次のように紹介している:
. . . キリスト教国はもとより異教の国においても
彼[チョーサーの騎士]ほど遠方まで侵攻した者はおらず、
その武勇の故につねに尊敬されていた。
アレクサンドリア攻略戦のときも参戦していた。
プロシアでは、諸国の騎士を差し置いて
たびたび宴会では上席を与えられた。
リトアニアやロシアの遠征にも加わったが、
同じ階級のキリスト教徒で彼ほど幾度も転戦した者はいない。
グラナダではアルヘシラス城攻囲戦に参加、
ベンマリンにも攻め入った。
アヤスとアッタリアを占領した折にも
現地にいたのだ。東地中海では
名高い上陸作戦にしばしば加わった。
死を賭した大激戦に赴くこと十五回、
トレムセンではキリスト教信仰のため
三度も一騎打ちをし、いずれも敵を倒した。
あるときは、この勇敢な騎士は
パラティアの領主に加担して
トルコの異教徒と戦ったこともあった。
(『カンタベリ物語 共同新訳版』[悠書館、2021]pp. 8-9)
彼は北アフリカ(アレクサンドリア、ベンマリン、トレムセン)、小アジア(アッタリア、パラティア)、東欧(リトアニア)、ロシア、イベリア半島(グラナダ)、西アジア(アヤス)その他の戦地を転戦した百戦錬磨の職業軍人だった。シリアからウクライナの戦地にやってくる傭兵や、ウクライナ軍の顧問として働く西側の軍事アドバイザーなどを思いださせる。人は(大抵は、「男」は)、いつの時代も不毛な戦いで名声を競う。しかし彼らは宗教と正義の旗印の下で戦う。チョーサーは書く:
こうして彼はいつも大いに声望をあげたのだった。
剛勇なひとであったが、思慮分別に富み、
物腰はまるで乙女のようにおだやかだった。
これまでどんな類の人に対しても
無礼な言葉を使ったことはなかった。
彼こそ誠の気高い最高の騎士であった。(前掲書、pp. 9-10)。
上記のテキストの後半部分を見る限り、詩人はこの騎士を理想の騎士像として讃えているように見えるが、皮肉なチョーサーの事だから、文字通りに受け取るべきか判断が難しい。また、騎士が従事したのは14世紀、各地で行われた十字軍だが、この頃には、十字軍が始まった頃の聖地エルサレム奪回という目的ではなくなっており、キリスト教国の君主による周辺の異教徒(ムスリム教徒や東欧・ロシアのスラブ人など)を相手にした戦いで、現代の視点から見ると帝国主義的な戦争と言って良いかも知れない。また、一人の騎士が長期間にわたってこれだけの戦歴を積むことはあり得ないという見方もある。彼は現実に存在した騎士のリアリスティックなポートレイトではなく、当時の騎士のひとつの理想像を示す寓意的な(アレゴリカルな)人物と言って良いだろう。但、そのアレゴリーには、チョーサー独特のひねりが加えられている可能性もある。理想化しているように見えて、皮肉な視点がまったくないと言えるだろうか。
しかし、今回私が関心を持っているのは、チョーサーがこの騎士を理想として描いているかどうかではなく、彼が傭兵(a mercenary)か否かであり、その点では彼の転戦ぶりから見て、やはり傭兵として描かれていると私は思う。『カンタベリ物語』の序歌で描かれた騎士を契約で戦う傭兵と見て、理想化された騎士の像とは違うという視点を提案したのは、映画「モンティ・パイソン」シリーズで知られる故テリー・ジョーンズの著書『チョーサーの騎士:中世における傭兵の肖像』 "Chaucer's Knight: The Portrait of Medieval Mercenary" (Methuen, 1980) だった。彼は大学には属していなかったが、この本は大変良く出来たアカデミックな本として未だに読まれている。但、チョーサーのテキストを過度にうがった読み方をしているとして反発も大きかった。"The Oxford Companion to Chaucer" (2003) において、中世英文学の権威、ダグラス・グレイは、ジョーンズのような解釈に対して、「このような見方を裏付ける歴史的な証拠には説得力がない」("The historical evidence for this last view is not convincing . . . .") (p. 270)と書いている。しかし、今ではジョーンズの本は少なくとも新しい解釈をもたらした重要な研究という評価は定着しているだろう。
比較的最近の研究で私の手許にあるものとしては、『歴史学者が見るチョーサー:「カンタベリ物語」の序歌』"Historians on Chaucer: The 'General Prologue' to the Canterbury Tales", ed. by Stephn H. Rigby with the assistance of Alastair J. Minnis (Oxford UP, 2014) の第3章で、編者自身の筆による "The Knight" がある。リグビーはマンチェスター大学の歴史学名誉教授で、著名な中世史学者であり、本書のように、文学についても重要な論考を出している。彼はチョーサーによるこの理想的な騎士像に皮肉を読み取るのは難しいと考えており、こうした騎士像は14世紀末においても理想として通用していたという考えだ (pp. 61-62)。一方でこの騎士のように各地の十字軍に参加したイングランドの騎士が多くいたことも確認しており、特にリトアニアなどバルト海沿岸地方の戦争には、イングランドを代表する大貴族達が参戦している。1390年の(つまり『カンタベリ物語』執筆の少し前頃の)リトアニアでの戦争には、後にヘンリー4世となるダービー伯、ヘンリー・ボリングブルックも加わっていた (p. 59)。リグビー教授の指摘のうち特に興味深いのは、チョーサーの騎士が「パラティアの領主に加担して/トルコの異教徒と戦ったこともあった」ことだ。この場合、騎士の仕えた主人も敵方も共に異教徒であり、キリスト教を守る十字軍とは言いがたい。リグビーは、騎士の戦った相手がキリスト教徒ではないので、当時の人々から見ると異教徒に仕えて他の異教徒と戦うのは問題なかった、と考えている (pp, 56-58)。但、現在の私たちの感覚から言うと、これは傭兵以外の何ものでもないだろう。その観点から見ると、14世紀末の騎士であるにも関わらず、彼が百年戦争に出征したという記述はまったくなく、フランスや低地諸国の地名も一切出てこないのは注目すべきだろう。つまり彼はキリスト教徒とは一度も戦っておらず、これは歴戦の勇者としては不自然なくらいである。この点は、彼の後に紹介される騎士見習い(The Squire)が百年戦争の各地を転戦していたのとは大きく異なる。このことからも、「序歌」の騎士が寓意的人物と言って良い程に理想化されていることがうかがえるだろう。既に述べたように、彼は常にキリスト教と正義の旗印の下で戦った「誠の気高い最高の騎士」だったのである。
さて、現在進行中のウクライナ侵略戦争に話を戻すと、ウクライナのネット・メディアによれば、ロシアが募っているとされるシリアの義勇兵として、既に登録を済ませた人が4万人いるそうだ。シリアは長年の戦争で破壊され、疲弊した全体主義の国だ。そんな破壊され尽くしたような国から、他の民主主義国を破壊するために4万人もの人(ほぼ全員男だろう)がやってくると思うと背筋が寒くなる。
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