2011/05/30

Terence Rattigan, "Flare Path" (Theatre Royal Haymarket, 2011.5.28)

戦時下の愛と忍耐を描く良質の娯楽作品
"Flare Path"



Theatre Royal Haymarket 公演
観劇日:2011.5.28  14:30-17:00
劇場:Theatre Royal Haymarket

演出:Trevor Nunn
脚本:Terence Rattigan
セット、衣装:Stephen Brimson Lewis
照明:Paul Pyant
音響:Paul Groothuis
方言指導:Penny Dyer

出演:
Sienna Miller (Patricia Warren [Mrs Graham])
Harry Hadden-Paton (Flight Lieutenant Graham, [Teddy, Patricia's husband])
James Purefoy (Peter Kyle, an actor)
Sheridan Smith (Countess Skriczevinsky [Doris])
Mark Dexter (Flight Officer Count Skriczevinsky [Johnny])
Joe Armstrong (Sergeant Miller [Dusty])
Emma Handy (Mrs Miller [Maudie])
Sarah Crowden (Mrs Oakes, hotel manager)
Matthew Tennyson (Percy, hotel employee)
Clive Wood (Squadron Leader Swanson)

☆☆☆ (3.5程度) / 5

まもなく終了するが(11日まで)、ラティガン・イヤーの最中のヒット公演。大きな劇場であるが、切符は一部の安い席を除きほとんど売りきれるようであり、各紙で大変良いリビューを得ている。ディレクターはTrevor Nunn、主演は人気ハリウッド映画俳優のSienna Miller。そして、ミュージカル"Legally Blonde"で好評だったSheridan Smith。私のスーパーバイザーも見て、楽しんだと言っていた。予想した通り良質の公演だった。ただ、私の席がupper circleという天井に近い席で、あまりにもステージから遠かったことで、個人的にはインパクトが薄れた。また、体調が悪く、悪寒や痛みを感じつつ見なければならなかったのもマイナスだった。体調が良く、席ももう少しましな席にしていたらかなり印象も違っただろう、と大変残念。

場面設定は、第二次世界大戦中のリンカーンシャーにある空軍基地近くの田舎ホテル。爆撃機のパイロットや砲手、そして彼らの家族達などが滞在している。Siena Miller演じるPatriciaもその1人。気が弱いところがあるが大変人の良い、彼女にぞっこんの夫Teddyと結婚している。彼女は、日頃は女優として仕事をしていて、この日、夫を訪ねてくる。同じ時にやって来たのがやはり著名な俳優のPeter Kyle。彼とPatriciaはもともと恋人であったが、結婚にふみきれず、その後、PatriciaはTeddyと結婚した。しかし、KyleはPatriciaが忘れられず、また彼女も彼への愛が捨てきれてない。Kyleはまた、年齢を重ね、スター俳優としてのキャリアに限界が見えて悩んでいるが、Patriciaの愛を支えに生きていきたいと願っている。2人はこの日再会して、愛を確かめ合う。Patricialは、偽りの結婚生活を捨て、Teddyに本当の事を言って別れてKyleと一緒になる決心をし、夫への告白の機会をうかがう。

その夜、Teddyを始めとして、このホテルに宿泊している軍人達は4機の爆撃機で空爆に飛び立つが、敵の攻撃を受け、一機は離陸後直ぐに撃墜され大破。その後、一機は帰還せず、無事に帰ってきたのは2機のみ。Patriciaを始め、ホテルで待つ妻達は生きた心地もしない。結局帰還しなかった1機には、Sheridan Smith扮するDoris(Countess Skriczevinsky、彼女はホテル・バーのメイドをしていてCountと知り合った)の夫で、亡命ポーランド人パイロットのJohnnyが乗っていた。Teddyが操縦する爆撃機は危ういところを難を逃れて帰還できたが、Teddy自身は恐怖、そしてクルーを支えて帰還させなければならないという重圧で震え上がり、非常に動揺していた。しかし、彼の唯一の支えである妻Patriciaの慰めを得て落ち着きを取り戻す。Patriciaは、自分をそれほどまでに愛し、彼女に頼り信頼しきっているTeddyを今捨ててKyleと去ることは到底出来ないと感じ、古い愛をあきらめてTeddyと共に戦争を生き抜くことにする。Kyleも彼女の決断を受け入れ、もう二度と会いに来ないと言って去っていく。

非常にオーソドックスで、上質な演出、セット、演技だった。昨年National Theatreで見た、やはり大評判を取ったRattiganの"After the Dance"と比べても遜色ない出来。ただし、"After the Dance"がややモダンな味付けが感じられたし、また、内容も作者が物語の人物とかなり距離を置いて書いている感じだったが、この作品は、戦時中の1942年に初演され、パイロットとその家族の話であるので、登場人物の視点と作者のそれの距離が近い。結末もほろ苦いハッピー・エンドという終わり方であり、今の時点で外国人で戦後世代の私が見ると、いささか甘ったるい印象である。しかし、戦争の最中の作品であるから、兵士や家族が払わなければならなかった犠牲を暖かく描くのは当然だろう。むしろ、俳優のカップルと軍人達を絡ませて、心温まる話を作り上げ、それが、ドイツ軍の爆撃の最中、ウエスト・エンドの劇場でロングランしていた事を考えると、イギリスの演劇文化のふところの深さに驚く。

Siena MillerとSheridan Smithの2人の女優が大変可憐であるが、それを支える男優達のサポートも見事で、良く出来たアンサンブル劇。演技に隙のある人がおらず、特に変わったことはないが、欠点の見あたらないプロダクション。セットも、細かいディテールが当時の雰囲気を良く伝えている。また、飛行機が飛び立つシーンで、映像を使ったのも効果的だった。ただ、ラティガンにしては、テキストそのものがいささかセンチメンタルだと感じたが、戦時の作品であったので仕方ないかと思う。私の隣席に座った初老の奥方は劇の最後30分くらい、ハンカチが手放せなかった。誰しも楽しめるプロダクションであり、ウエスト・エンドの商業劇場にふさわしいストレート・プレイだ。

テキスト自体も、読むだけで結構楽しい作品であり、劇場に行けない方にもお勧めできる。"Flare Path"とは、飛行機の夜間離着陸の時、滑走路の輪郭を示す照明灯の帯の事らしい。素晴らしい題名だが、プログラムによるとRattigan自身のアイデアではない。彼が当時かかっていた精神科医のKeith Newmanが与えてくれた題名らしい。

軍人の面白いスラングが出て来て、プログラムに解説があったので、一部メモしておく:
do:空爆、shaky do:困難な空爆、funk:パニック、鬱状態、恐怖、in the drink:海で、catted:吐いた、stooge:特定の標的がなく飛行すること(例えば訓練飛行など)、tail end stooge:爆撃機後部の砲手(この劇のDustyがそうである)、shooting a line:自慢げにふるまったり話したりすること(lineはここではboastと同じ意味)

写真はTheatre Royal Haymarket。

2011/05/28

Lyn Gardnerが書く「演技を批評する」ことの難しさ

5月15日のガーディアン紙オンライン版で、ベテラン演劇批評家のLyn Gardnerが新聞の劇評において演技を批評することの難しさを書いている。


彼女によると、最近ケント大学であった演劇批評についてのシンポジウムで論点としてあがったこととして、イギリスの劇評家は近年あまり俳優の演技に触れなくなったと言うことだ: ". . . one of the issues raised was why today's critics no longer write about acting, or at least not with any of the zest and descriptive power of their predecessors." かっての批評家はより詳しく記述的な(descriptive)劇評を書いたものだ、として、古くはSamuel ColeridgeのEdmund Keen評、そして、W A DarlingtonのRichard Briar評を引き合いに出している。しかし、現在の新聞は昔と比べてあまりに紙幅が限られていて、なかなか詳しい演技評価までは出来ないと言う。彼女の方針としては、特にスターがひどい演技をした場合などを除いては演技についてはネガティブな批評は書かないという方針だそうだ。というのは、(演出家と違い)俳優は劇評が出た後も毎日ステージに上がらなければならないから、とのこと。

更に紙幅の問題だけでなく、過去30年程度の間に、つまりOlivierやAshcroftの時代が終わって後、演劇公演の中心が、俳優から演出家や劇作家に移ったことも挙げている。更に、(イギリスにおいては)スター中心ではなく、アンサンブル中心の公演が増えたことなども一因と言う。

これに関して、私がこの前のポストの"Little Eyolf"の感想で触れたように、Imogen Stubbsの演技について、彼女とDaily TelegraphのCharles Spencerの意見が180度反対だったことにも触れている。GardnerはStubbsの演技が公演に非常に悪影響を及ぼしたと書く(". . . the performance impinges so badly on the production that it is impossible to ignore.") そしてその一方で、演技の評価では意見の一致が難しく、Stubbsの大げさな演技も、他の批評家は大喜びだった、とも認めている(" . . . there is also, perhaps, less consensus today about what constitutes good acting. My horror [and that of some others] at the excesses of Stubbs was matched only by the delight of the others, who raved about her performance" [ここで、Spencerの批評にリンクが貼られている])。

Gardnerは更に続ける。新しい作品の内容が変わり、劇場の大きさや設備等も変わっていく中で、俳優の演技の質もどんどん変わらざるを得ない。何を名演とするかも、大きく変わってきているだろう。

さて以下はこれを読んで私が感じたこと。一演劇愛好者でしかない私は、演技よりもまずは作品のテキストにこだわって欲しいのであるが、そのテキスト(特にシェイクスピアなどの古典的な作品)に真摯に取り組まず、それを書き換えたり、ぶち壊そうとやっきになっている演出家や俳優にだけは腹がたつ。但、Rupert Gooldのように、テキストを生かしつつ、あらゆる新奇な可能性を模索するのは、失敗しても大歓迎だ。また、テキストを神棚に上げたような台詞の言い方をする俳優は公演をひどく退屈にしてしまう。日本語翻訳でシェイクスピアを演じる俳優も、その豊かすぎる程の言葉を上手く発声しつつ、込められたイメージを十分に伝えるためには、翻訳テキストを良く消化し、相当に親しんでいる必要があり、ベテランでも俳優によりはっきりした差が出る。

俳優の鍛錬された技術や肉体が生きるのは、古典的な舞台である。能や歌舞伎はもちろんだが、古い詩文で書かれているシェイクスピアなどを、RSCのメイン・シアターやGlobeなどの大劇場や野外劇場で十分に声を響かせつつ演技するのは、かなりの技術が必要だろうと想像する。日本の古典では、俳優の「芸談」なるものが研究対象になるのもうなずける。

しかし、現代の日常生活を描いた新作などで、個々の俳優の演技を語るのは難しい。それぞれの役に、最も適当な俳優を捜してくるCasting Directorという仕事が、俳優の演技と並んで劇の成否を握っているような気もする。自分の経験の中から、その役柄やシーンにあった感情を捜してきて、役柄を理解しようというスタニスラフスキーの考えも、リアリズム以降の現代劇の演技を訓練することの難しさを物語っているように思える。

但、日本からやって来た演劇ファンとしてイギリス演劇界を見ると、こちらでは、地方劇場やフリンジでマイナーな役をやっている人も含め、ほとんどの俳優が一流のドラマ・スクール(大学院レベル)を出ており、日本でしばしば見られるような、人気のあるアイドルを突然舞台に上げて、台詞回しが明かにたどたどしいという例は問題外であり、演技の最低レベルが非常に高い。また、学部で英文学専攻の人が大変多く、テキストに批判的に取り組む知的訓練が出来ている人が多いだろう。また、政界や学界と同じ程度、オックスフォードやケンブリッジなどの一流大学卒が圧倒的に多いのもこの世界の特徴だ。ここ30年くらいのイギリス演劇が、政治的、社会的、心理的にシリアスな問題に取り組み続けることが可能なのも、スタッフを含めて、演劇を支える人々が、大学院レベルの文学・演劇教育を経ており、良くも悪しくも極めて知的になり*、「芸」や「腕」を競う芸能人から、知的技術者であり、作家、演出家と話し合いつつ公演を作るクリエイターになってきていることによるのではないかと思える。BBCの教養番組などに出てくる俳優が、文芸評論家や学者顔負けの議論を展開するのも、こちらではごく普通だ。色々なメディアで報道される公演準備の現場は、劇団や公演により様々と思うので一概には言えないとしても、日本では、誰々先生に「稽古」をつけてもらうように見える時があるが、イギリスではほとんどが俳優や演出家が共同で行う模索の場、コンスタントなディスカッションの場のようである。

いずれにせよ、「演技の批評」は大変難しく、批評家には同情する。しかし、劇評家は大変影響力の大きな、極めて大事な仕事だ。日本でもイギリスでも、大新聞の劇評家は数えるほどしかおらず、しかも何十年もその仕事を続けることが多い。彼らの批評で、観客の出足も大きく違ってくるし、ミュージカルなどの高価なプロダクションが大幅な損失をこうむり、結果的に早くクローズすることさえある。多くの演劇賞を選ぶのも彼らだ。その影響力に見合うコンスタントな努力をして欲しいものだ。

このブログで既に何度か書いているが、日本の新聞の劇評は批評になっておらず、紹介だけの場合がほとんどである。劇評と思わず、紹介と考えて読むしかない。やはり紙幅の問題もあるが、基本的には、内向きの村社会の日本では、演劇界の一部に身を置く批評家としては、公演をはっきり批判することは出来ないのだろう。

元のGardnerの記事はこちら

*イギリスの俳優や演劇は頭でっかちで面白くない、という声も日本の演劇人から聞くことがある。もっとも、戦前や戦後直ぐまでの日本の新劇人の多くはかなりの知識人だったし、その後の劇団も東大や早稲田の学生を中心に出来たグループもあるのは周知の通り。

(追記)私自身の演技に関する評価についてほとんど書いてないので付け足しておくと、はっきり言って私は演技を見る目が無い。上記のStubbsの演技を見ても、確かに不器用にも思えるが、そうひどくもない気もして、判断に自信が持てない。「彼/彼女は上手い、下手だ」と自信を持って評する人がいるが、感心する。ただ、そう言う人に、ではどこが上手いのか具体的に指摘して貰うと、明確な回答が返って来ないことが多い。つまりそれだけ演技を他の人にも分かる明確な言葉、概念で表すことの難しさ、演技を批評することが個人の趣味に流れやすいこと、を示している気がするがどうだろうか。

2011/05/27

Henrik Ibsen, "Little Eyolf" (Jermin Street Theatre, 2011.5.25)

オーセンテッィクな演出のイプセン作品
"Little Eyolf"

観劇日:2011.05.25  19:30-20:40
劇場:Jermin Street Theatre

演出:Anthony Biggs
脚本:Henrik Ibsen
翻訳:Michael Meyer
セット:Fabrice Serafino
照明:David W. Kidd
音響:Phil Hewitt

出演:
Imogen Stubbs (Rita Allmers)
Jonathan Cullen (Alfred Allmers, Rita's husband)
Nadine Lewington (Asta Allmers, Alfred's half sister)
Robin Pearce (Borgheim, road-work engineer)
Doreen Mantle (Rat wife)
Finn Bennett (Little Eyolf, Rita & Alfred's son)

Henrik Ibsenの1894年の作品。大変地味な内容で、上演されることは少ない作品のようだ。日本では、1999年に故安西徹雄演出で劇団円が「小さなエイヨルフ」の題名で上演している。今回の上演は、ノルウェー大使館が協賛しているようでもあり、奇をてらわないオーセンティックな演出や演技でこの珍しい劇の上演を見ることが出来たのは良かった。この劇は、National Theatreが2009年にMarianne Elliot演出、Samuel Adamson翻案で、"Mrs Affleck"と題して、大幅に改作された翻案作品の上演をしているが、批評家達からは酷評された。私自身も見たが、私の好きなClaire Skinner主演にもかかわらず、かなり落胆したのを記憶している。今回は何も奇抜なことはなく、台本そのままの素直な公演だと思った。

Rita Allmersと夫のAlfredには子供Eyolfがいるが、夫婦仲はかなり冷えている。Eyolfは以前に事故で足が不自由になって、松葉杖をついているが、夫婦は息子がこうなったことに罪の意識を感じている。夫は著作の事で頭が一杯だったり、長い間旅行で不在だったりしている。一方、Ritaはその夫の真剣な愛を求めているが得られず、Eyolfにも充分注意が行き届いていない。劇が始まった時、Alfredは長い間山間部の旅行をして帰ってきたところ。夫婦の再会の喜びも直ぐに消え、子供の世話などについて、2人は互いを責め始める。Alfredには父の後妻の子で、近くの町に住む美しいAstaという腹違いの妹がおり、精神的に彼女に大変頼っていて、これがRitaのジェラシーをかき立てている。Astaには、技師のBorgheimという人の良い求愛者がいるが、彼女もAlfredを密かに愛しているようで、この家から離れられない。

この家に、ネズミ退治を仕事にし、奇妙な犬を連れて町々を放浪して歩く老婆、Rat wife、がやってきて、仕事はないか尋ねるが、2人は、ねずみには困っていないと言う。しかし、息子のEyolfはこの老婆に恐怖と魅力の入り交じったような気持ちを感じたように見える。Rat wifeが去った後、Eyolfも直ぐに居なくなる。やがて、Eyolfの杖が海辺で発見され、彼が海で溺れたのが明らかになる(死体は発見されない)。これにより、両親は自分達を責め、お互いを責めて、夫婦の崩壊は決定的となる。Alfredは一層Astaに頼るようにもなる。

最後の第3幕において、息子の死によってどん底を経験した2人は、Eyolfの居なくなった隙間を、貧しい子供達への世話で埋めようと決心する。また、それにより、夫婦間の溝を埋めようという気持ちにもなっていく。一方、Ritaは常に彼女を慕い続けてくれるBorgheimと共に去っていく。

この公演は、劇評に大きな落差があり、Daily TelegraphのCharles Spencerは4つ星、GuardianのLyn Gardnerは2つ星。ウェッブの劇評やブログも、絶賛している人も、退屈だという人もいる。ひとつには、イプセンのテキスト自体への評価、そして主役であり、大スターでもあるImogen Stubbsの演技の評価が大きく分かれているためのようだ。大ベテランで著名な劇評家でさえ、彼女の演技がこの公演の強みという人(Spencer)と、彼女の演技を大げさな演技として酷評する人(Gardner)といるということは、俳優の演技を判断するのが如何に難しいか、また見るものの好みで如何に左右されるかを示していて興味深い。私は、やはりちょっと大げさで不器用な感じはしたが、暗い内容の物語なのでそれなりにふさわしい演技とも思えた。ただ、もっと他の人だったら、しっとりとした内面の悲しみを表現できたかもしれないが、やや騒々しい感じがしたあたりに、彼女の演技の限界があるのだろうか。一方、Astaを演じたNadine Lewingtonは静かな悲しみをこらえる表情の演技で、2人の女性のコントラストがはっきりしていたのは演出家の意図だろう。Michael Cullenは、National Theatreで主演をしたこともある ("Love the Sinner") ベテランの舞台人で、台詞は上手だと思うが、大変地味な雰囲気を持つ人で、自分勝手な文筆家のAlfredが、生真面目な役人か牧師みたいに見えてしまったのが少し残念。

デザインは壁の色を青緑色に塗っただけだし、衣装もお粗末、照明や音楽でも大した工夫が感じられず、そういう点でお金がかかっていないのがよく分かる。Jermin Street TheatreはArt Councilの補助金も貰ってないようだ。ノルウェーのフィヨルドに近い豊かなお屋敷の話。フォークロアの要素もあり、子供が海に沈んでいくなど、幻想的な面も感じる。台詞や演技以外で、そうした北欧の雰囲気作りがしっかり出来ていれば、もっと説得力を持ち得たに違いないと思い、惜しまれる。

子供を引きつけるRat-wifeとは何者か。イプセンは中世以来存在する「ハーメルンの笛吹き男」の伝説にヒントを得ているように見える。更に、根本的な点では、死の象徴とも言えるかも知れない。美術や文学でしばしば見られる擬人化された寓意的な「死」(Death)の類型と言って良いのではないか。Rat-wifeを演じたDoreen Mantleは充分不吉な雰囲気はかもし出せていた。非キリスト教的な超自然の運命的魔力を描き、またフォークロアに関心を示すのは、19世紀末の作家にしばしば見られる。イプセンもそういう流れでも捉えられる。そうした要素や、女性への共感など、Thomas Hardyと共通する点が多いのは興味深い。

この公演は、パンフレットによるとノルウェー大使館が協賛しているようであるが、私の斜め前に座っていた数人の人達から、Mr Ambassadorという声が聞こえてきた。もしかしたら大使が見に来られていたのかも知れない。

写真は、Jermin Street Theatre入り口。ピカデリー・サーカスの直ぐそば。Regent StとJermin Stの交差するところから少し入ったところにあります。客席はフリンジの中でもかなり少ない方かと。100席より大分少ないでしょう。

2011/05/25

"Oxford English Dictionary"の値段

先日コメントをお寄せ下さったBookwormさんがご自分のブログで"Oxford English Dictionary"(OED)*が欲しいと書かれていました。そこで、今のOEDの価格をチェックしてみました。

Amazon.co.jpでは、印刷版20巻セットで、¥84,972。「高い!」と思われる方も多いでしょうが、20巻です!しかも各冊の厚みや文字量は、日本の百科事典などより多いくらいでしょう。CD-Rom版で、¥25,291でした。後者の方が大分安いのですが、それはもちろん、CDは寿命があるからでしょう。PCのシステムの変化を考えると、5年程度で使えなくなるかも知れません。(但、既に前にウィンドウズ版を買われている方はアップグレード版が1万円以下でありました。)しかも、英語システム用に設計されているので、日本語システムでは不具合等がないとは保障できません。私は10年くらい前にCD-Rom版を買いましたが、ほとんど使いものになりませんでした。当時、日本の書店から買ったので、アフター・サービスがあり、日本の発売元に電話して相談しました。何度かやりとりしましたが、けっきょく埒があかず、ほとんど使わないままに終わり、大損でした。私は言語学者ではないので、それほど頻繁に必要なわけではなかったので、結局勤務先の図書館にあった紙版を利用していました。

今、OEDを使う人のほとんどは、オンラインだと思います。そのオンライン版を個人で契約すると年契約で$295、1カ月単位で$29.95です。内容を考えると、お仕事や研究に積極的に利用するような方は良いかもしれませんが、英語の好きな教養人や、自営の翻訳者、専任職を持たない研究者の方などには、かなり高価ですね。英米の大学では、ほとんどすべての学校が組織として購読しているので、学生や教員は大学図書館のオンライン資料の一部として使えます。日本でも文系学部を持つ大きな大学ではほとんど購読していると思います。オンライン・ジャーナルについて既に書いたように、こういうところに、研究者間の研究環境による差が出てしまうのです。

ところで、英語辞書のオンライン版としては、日本ではJapan Knowledgeに入っている辞書とか、研究社Online Dictionaryがあります。また海外の英語辞典で、OED程でなくて良いから、語数が多く、語源等も調べられ、更に小百科事典や類義語辞典(Thesaurus)もついているサイトとして、Merriman-Webster Unabridged Dictionary Onlineが手頃と思います。値段は、年間$29.95、1月単位で$4.95です。

今は無料のオンライン辞書・事典が無数に出来て、辞書にお金をかけるのが馬鹿馬鹿しいと思う人もいるでしょう。でも無料のものは色々な問題もあります。更に、知識を楽しむ人間は適切な支払いをして、本や辞書・事典を作る人々をサポートすることも必要です。とりわけ辞書事典は莫大な手間と時間がかかるのですから。ただし、OEDのように高価になると、資金や研究環境に恵まれない研究者には大問題です。

*"Oxford English Dictionary"をご存じない方は、ウィキペディア日本語版にも解説があります。

2011/05/22

Edward Albee, "Delicate Balance" (Almeida Theatre, 2011.5.21)

素晴らしいアメリカン・ファミリー
Edward Albee, "Delicate Balance"

Almeida Thearre公演
観劇日:2011.5.21  15:00-17:40
劇場:Almeida Theatre

演出:James Macdonald
脚本:Edward Albee
セット:Laura Hopkins
照明:Guy Hoare
音響:Ian Dickinson
音楽:Gwilym Simcock
衣装:Helen Lovett Johnson
方言指導:Penny Dyer

出演:
Penelope Wilton (Agnes)
Tim Pigott-Smith (Tobias, Agnes's husband)
Imelda Staunton (Claire, Agnes's sister)
Lucy Cohu (Julia, daughter of Agnes and Tobias)
Ian McElhinney (Harry, Tobias's long-time friend)
Diana Hardcastle (Edna, Harry's wife)

☆☆☆☆ / 5

Edward Albeeと言うと、演劇の好きな人や文学史を勉強した人は現代古典の"Who Is Afraid of Virginia Woolf"が直ぐに思い浮かぶと思うが、その他にどんな作品があるのか私は知らなかった。改めて調べてみると、"The Zoo Story"(『動物園物語』)というのも聞いたことがある。この"Delicate Balance"(1966年初演)も1967年のピューリッツア賞を受賞しているが、確かに素晴らしい公演だった。Albeeは1928年生まれだが、2002年にも新作を発表しており、存命のようである。

1950年代、戦争が終わり、アメリカが最も輝いて見えた頃の、豊かな家庭の居間。金曜から日曜までの週末3日間を3幕に分けて描く。主役はTobias (Tim Pigott-Smith) とAgnes (Penelope Wilton) の初老の夫婦。更に、Agnesの妹で独身のオールドミスであるClaire (Imelda Staunton) がやってくる。始めは眠くなるような、すれ違い気味の、不自然でぎこちない会話が続く。感じとしては、不正確なたとえではあるが、豊かなアメリカ人家庭で起こるPinterとか、Bekett劇の会話みたいな感じ、と言ったら近いだろうか。また、プログラムによると、AlbeeはBeckettとO'Neillの影響を大きく受けているらしい。このリアリスティックでない夫婦のすれ違いこそ、この劇の主要なテーマ、つまり、コミュニケーション不全、疎外、そして、家庭の崩壊(そういう言葉は昔はなかっただろうが、「家庭内離婚」だろう)。Claireはその名前にふさわしく、物事をリアリスティックに、謂わば「身も蓋もない」言い方をして表現するプラクティカルな人間で、観客にとっては、欺瞞に充ち、分かりにくい姉夫婦のすれ違いの会話の翻訳者として機能している面がある。また、アコーディオンの弾き語りをしつつ、他の人物の真面目な会話に茶々を入れたりして、一種の道化として、主要な舞台アクションの周辺部を旋回している興味深い人物である。台詞を言うのに、床に寝転んだり、非常に大げさなジェスチャーをしたり、買い物に行ってトップレスの水着を捜した話を披露して笑わせたり、道化的要素は他にもある。彼女も、笑いでごまかしてはいるが不安を抱えているようで、アルコール中毒。

この、水底は腐食しているが表面は眠ったように静まりかえった家庭に大きな変化を巻き起こすのが、Tobiasの長年の親友、Harryと彼の妻Ednaの突然の訪問。何故かはよく分からないが、この二人も夫婦の危機らしい。自分の家に居られなくなって、断りもなくTobiasの家にやって来て、今は結婚して独立しているはずのJuliaの部屋に居候を決め込む。ところが運悪く、そのJulia(36才)が彼らと前後して出戻ってきた(4回目)ので始末が悪い。自分達の居場所をめぐって、JuliaとHarry夫婦がいがみ合い、その間に立って、元来自己主張が弱くてまわりの人に振り回されているTobiasと、何事についても高等な哲学的警句を言うのに長けているが基本的にはTobiasの決断に任せて責任を引き受けたくないAgnesが、どうして良いか分からずに立ち往生する・・・。こういう風に書くと、とても単純な筋書きの話なのだが、多くの台詞は、Beckett的な謎めいた、癖のある台詞で、微妙にタイミングを外し、自然な流れを崩しつつ繋がっていくような会話になっているところがミソである。

劇が始まってAgnesが台詞を言い始めた途端、何だがシェイクスピアの台詞を聞いて居るみたいだと思ったが、彼女の台詞は妙に様式的で高等で、理屈っぽいのである。彼女は、自分の役割を家庭の"fulcrum"(支柱、支点)と自ら定義づけているが、標題になっている家庭内のdelicate balanceを維持する支柱として、自らを一歩高い視点において自分自身のエモーショナルな安全を確保しつつ、家庭が混沌に陥らないようにバランスを取る役を演じているのである。しかし、そうすることは、Tobiasと共同作業を避けることであり、エモーショナルなコミットメントをしないことでもあるので、最後にパンクしてしまうのは、元来温厚で気配りをする性格であるTobiasになってしまった。

またAgnesは一見理性的で、過去を静かに見つめることが出来るように聞こえるが、実は赤ん坊の時(?)に亡くなった息子の思い出、そして、その後Tobiasが子作りに協力してくれなかったことへのわだかまりを未だに引きずっている。

JuliaとClaireはどちらもTobias夫婦に寄生しているように見え、その後出来た言葉で言えば、「アダルト・チルドレン」ということだろう。特にJuliaはその言葉にぴったりのキャラクターである。子供がだだをこねるような調子で文句を言い、癇癪を起こし、泣き叫ぶ。しかし、そういうJuliaをまったく子供扱いし、彼女の不満とまともに対峙しない両親の、親としての欺瞞も浮き彫りになる。

通底音として流れるのは暴力である。Juliaが癇癪を起こして2回から降りてきた時、彼女は泣きわめきながら、片手には拳銃をぶら下げている。感情の爆発が何か暴力的な事件に発展するのではないか、家庭内暴力みたいな事件が起こるのか、という不安をいただかせる点は、アメリカの劇らしい。

初老の夫婦の性が、夫婦関係と微妙に関わってくるところも興味深い点だ。Tobias夫婦は長男の死亡後、子供を作るかどうかですれ違った。その後は別々の寝室に寝ている。HarryとEdnaも自宅でこれまではセックスは途絶えていたと思われるが、Tobiasの家に来て、二人は接近する(しかし、結局セックスはしなかったようだ)。性的な繋がりのない(あるいは無くなった)夫婦にとって結婚とは何か、そして結婚にとって性的な繋がりとは何か。そもそも、「ファミリー」が空洞化し、肉体的な欲求も乏しい初老や老年の夫婦が、結婚生活を何十年も続けることの意味を問うかのように見える。

更に作者がどれだけ意識しているか分からないが、Agnes、Claire、Juliaの3人とも、女性が職業を持って自立することの出来なかった時代において、家庭しか生息する場のない上流の女性の苦しさが伝わってくると思える。長い昼間の時間、帰宅した夫とのお酒と会話、そして(Claireの水着を買った笑い話にあるように)上品なデパートでの買い物、が繰り返される暮らし・・・。Austinの昔からそうだが、上流の女性こそ、生きるために身体を使って働く労働者の女性以上に、出口の無い家庭という牢獄に捕らわれていたとも言える。近代初期までは、「家」は女の忙しい仕事場であり、一種の同族企業、不動産管理会社であるから、ある意味、愛だ何だと理想を言っている場所では無く、女主人(=女社長)の仕事も手腕を要した。しかし、戦後の企業社会の発達、核家族化や家事の簡素化を経て、多くの女性が本当に籠の鳥になった。そして、「夫婦の愛」が社会的なお題目に終わらず結婚の必要条件(raison d'être)となり、当人達が本気でそれを求めるようになって、夫婦に起きる問題はかえってややこしく、悲惨になったかも知れない(ちょっとシニカルに見ればの話ではあるが)。

劇場に入った途端、今回のセットの豪華さに驚いた。台本だけ読むと、Beckett風の虚ろな空間と感じる時が多いが、セットによって、戦後アメリカの、ミドルクラスでも特に豊かな家庭にしっかりと根を下ろした劇になった。床も壁も光沢のある立派な木材。壁に組み込まれた本棚には革張り(テキストに指定あり)の本が整然と並べられている。立派な金箔のフレームの鏡が壁に掛かっている。革張りの椅子や複雑な織物の布地がはられたソファー。動物の敷物、等々。けばけばしくなく、趣味は良いが、イギリスのお金持ちの家のような歴史を感じはしない。裏に透けて見えるのは富。登場はしないが、使用人が食事を用意し、掃除をするのはもちろんだろう。登場人物は、週末、家でくつろいでいる時ではあるが、大変贅沢な服装である。

Penelope Wilton、Tim Pigott-Smith、Imelda Stauntonの3人の名前が並ぶだけで、このプロダクションが演劇ファンにとって如何に素晴らしい機会か分かる。カリスマ性では、 Ian MckellenやJudi Denchに及ばないにしても、彼らに匹敵する演技力を感じさせる3人だ。この劇のようにタイミングを外した台詞を持った劇の場合、逆説的な言い方だが、おそらくタイミングが一番難しいだろう。台詞がバラバラにならないように劇の有機的な流れを維持しつつ、同時に台詞のぎこちなさ、噛み合わないことを表現しなければいけないのだから。言い替えれば、タイミングを崩すタイミングということだろうか。(俳優が器用すぎ、台詞の角が取れすぎて、劇の台詞が持っていたはずの荒々しさが損なわれてもいけないだろう。)そういう意味で、この劇の俳優達は、申し分ない。疎外感を生かしつつ、退屈にならずに、張り詰めた台詞で緊張感が段々高まった。

結局、Albeeが一番に言いたいことは何なのか? 第2次世界大戦後アメリカの、エナメルで塗られたような輝き、私達の世代がハリウッド映画やテレビドラマで憧れた素晴らしい「アメリカン・ファミリー」の、虚ろな肖像が見事に描かれた劇であることは確かであり、そういう意味で大変政治的な母国文化批判とも言えるのではないか。

色々と含蓄ある台詞が多くて、俳優は台詞を考え尽くして話さないとその魅力が引き出せないだろう。今回の名優達にぴったりだ。2カ所ほど引用してみたい。最初はAgnesとTobiasのダイアローグ。

AGNES: Do we dislike happiness? We manufacture such a portion of our own despair . . . such busy work.

TOBIAS: We are a highly moral land: we assume we have done great wrong. We find things.

次は、ClaireがJuliaに言う台詞。

We're not a communal nation, dear; giving, but not sharing, outgoing, but not friendly.

後者の台詞を読んで、アメリカ人の特色を、一面ではあるが、上手く言い得ていると思う人も多いに違いない。

日本で上演されたことはあるのだろうか。虚ろな家族の姿を問う作品として、言語や文化を越えうる作品かも知れず、日本語でやる価値もありそうだ。しかし、深く考えることの出来る俳優でないとテキストの本当の魅力は引き出せないだろう。

(付け足し)今回も随分長くなってしまいました。ここまで読んでくださり恐縮。次回からは、退屈になったら途中でやめてください。

2011/05/20

オンライン・ジャーナルは開かれているか

(前回のポストについたコメントを読ませていただき、もうひとつ関連のポストを付け加えることにしました。なお、以下は原則として、人文分野、特に文学、歴史学などについてであって、他の分野のことは私はわかりません。)

日本でも多くの大学の紀要論文などは、オンライン化されるのが当然になってきた。おそらく国立大学では、国立情報学研究所のデータベースを通じてのオンライン化が強く奨励、あるは義務化されているのではないかと思う。サイトはこちら: http://ci.nii.ac.jp/

これは無料! 英米の学会や大学出版局などが出しているオンライン雑誌は高額で、一般読者がアクセスすることは大変難しい。グーグル(特に、グーグル・スカラー)などで検索にひっかかり、読みたいと思うことがある。Oxford University Pressなど、多くの学術出版社やその他学会等の研究団体では、pdfファイルを販売する手続きが整うようになった*。 それ自体は大変結構だが、十数ページの論文を読むのに、10-20ドルくらいかかったりし、決して安価ではない。ダウンロードしてみたら全く役に立たない事も多いのだから、こういう論文を常時購入できるのは、勤務先が払い戻ししてくれる人だけだろう。また、こういうオンライン・ジャーナルは大学図書館等が購読することを前提として運営されているが、日本の大学では、需要の少ない英文学の専門的なジャーナルを購読してくれるところはそう多くは無く、小さな大学や、大きな文学部のない大学の研究者は、個人で有料の雑誌論文をダウンロードすることを強いられるから、研究環境の差が大きなものを言う。この点では、日本の大学紀要論文等は、オンライン化されている場合には無料で誰でも読め、非常にお得である。但、上記のような大きなデータベースには無数の論文が玉石混淆で集められており、その中から自分にあった論文を捜すのは大変。適当な論文に出会うにはビブリオグラフィーの助けが必要だ。一方、審査が厳しく、かなり定評のある学会誌の場合は、内容のレベルもある程度担保されている点が良いのだが、人文分野では学会誌はオンライン化が進んでいないのが残念**。但、これにも幾つかの問題がある。例えば、大学の紀要と違い、個人の会員が多くはポケットマネーから数千円払って維持している雑誌の論文を、無料で配布して良いのか。やはりある程度料金を取り、雑誌の維持に役立てるべきではないか。しかし、そうした課金システムの構築はなかなか面倒である。また会員の中には著作権について細かな注文をつける人もいるだろうし、オンライン化への合意形成はそれ程簡単ではない。

英米でも、大学が主に所属教員や院生の為に作っているオンライン・ジャーナルなどは無料であったりするが、学術雑誌としての権威には乏しいだろう。

オンライン・ジャーナルが普及したために起きているひとつの問題は、印刷された雑誌が図書館で廃棄されていることだ。そもそも、元々印刷されていた雑誌が、オンライン版のみになってしまうケースも多いだろう。紙の雑誌は、オンライン・ジャーナルのアクセス権を持たない一般読者にとっては貴重である。地元の公立図書館などを通じて雑誌論文のコピーを取り寄せて貰ったり、紹介状を書いて貰い、大学図書館に閲覧に出かけたりすることが出来る。もちろん、各大学の学生にとっても、図書館に居る間に、プリントアウトしたり、目が疲れるのを我慢してパソコン画面を何時間も見つめなくても、紙に印刷された論文を読めた方が良い、という人も多いだろう。私は個人的には紙の雑誌の廃棄を大変残念に思っている。しかし、多くの図書館でスペースが無くて多数の書籍を廃棄しなければならない、あるいは新刊の購入を控えなければならない現状を考えるとやむを得ないのは充分理解出来る。それだけに、印刷された雑誌の廃棄の代わりになっているオンライン・ジャーナルへのアクセスの垣根を出来るだけ低くして欲しいとは思う。

最後に付け加えたいのは、オンライン・ジャーナル、そして書籍のデジタル化等の普及により、今まで以上に大学生の間にコピー&ペイストによるひどい剽窃が横行するようになった。紀要論文などを丸ごとコピーしてレポートとして提出したりする厚顔無恥な例も、大抵の大学の先生は経験しているだろう。ジャーナル利用に当たり、引用の仕方や註の付け方が不適切なのは、ほとんどの学生のレポートについて言えるのではないか。

*例えば、JSTOR (アメリカの学術雑誌データベース、"Journal Storage") などを通じてオンライン化されている。

**私は事情を殆ど知らないのではあるが、日本の学会誌でも理系ではオンライン化はされた専門誌が多いようだが、こちらは需要が大きいためか、有料でないと読めないようになっている場合が多いように見える。

2011/05/19

英語・英米文学の学会の英語化について

(Mixiで友人に読んで貰おうと思って書いた小文ですが、一般的な関心も引くかと思い転載します)


今年の9月始めに帰国するので、その後日本で開かれる学会で発表することを考えている。最初、その後の論文にも利用しやすいので、英語で発表しようかと考えていたが、どうしたものか迷っている。

原則的には、私は日本の英語・英米文学の学会での発表言語を出来るだけ多く英語にして、もっと海外の研究者の参加しやすいようにして欲しいと思っている。費用を出して招聘しない限り英米の研究者が日本にわざわざ来るとは思えないが、中国、韓国、台湾や、東南アジア、オセアニアなどの人にとっては英米に行くよりも費用が安いとか、時差が少ないなどの利便性がある。また、日本に語学の教師として来ている英米人の先生にも英米文学の大学院卒が多いが、彼らにとっても参加しやすくなる。また、そうして英語で発表し、(紙版も作るにしても)オンラインジャーナル形式の学会誌で(*備考)英語で発信すれば、必ずかなりの人が検索エンジンなどを通じて目にすることになる。海外のビブリオグラフィーにも載りやすく、ビブリオグラフィーに載った場合は、日本語論文では読まれないが、英語論文だと読まれる可能性も高くなる。日本で、日本語で研究発表し、日本語の論文を書くだけでは、どれだけの人がその論文を読むだろうか、価値ある論文であっても、全くその価値が誰にも知られないまま埋もれてしまうことが多いに違いない。

英語学、特に歴史的な英語研究の場合は、日本の研究者の業績はかなり知られており、日本でも国際学会も時々開催され、日本の研究者の海外での発表も多い。しかし、英米文学の場合、研究者数はまだかなりの数に上るにも関わらず、その活動は日本に限られがちである。地理、言語、大学制度や学期の違いなど色々な制約があり、日本の学会が国際化しにくいのは分かる。忙しい先生方にとっては、英語での発表や論文執筆など、手間のかかることをする余裕が無いかもしれない。しかし、英語・英米文学研究の全体として見れば、それを放置したままの状態で良いとは思えない。

但、いざ自分が学会発表をするに際し、英語でやるか、日本語でやるかと考えると、聞く側の人々がほとんど日本人であることを考えると、英語でやることをためらうのも確かだ。発表する側も聞く側も英語力が完全ではなく、しかも聴衆に日本人以外の人が皆無か、ほとんど居ない状態で、英語を使用して発表内容が十分に伝わらなくては馬鹿馬鹿しい気はする。私としては、学会のトップや、大会準備委員会において、基本方針として英語での発表を推奨する事を決め、海外からの研究者の応募も含め、学会の国際化を図る努力を見せて欲しい。でなければ、単独の発表者が英語で原稿を読んでも孤軍奮闘で虚しいだけである。結局、現在日本の学会で英語で発表する日本人の場合、海外の学会で発表するための予行演習的な場合が多いのではないかと思える。

日本の英語・英米文学の学会は、研究者人口が段々縮小している。学会も発表者が少なくなり、大会準備委員は苦労しているだろう。そういう面でも、日本人だけではなく、海外の研究者にも門戸を開き、発表を活気づけたい。海外の研究者も呼んで、学会を国際化するためには、日本英文学会などの大きな学会を活用するのが適当だ。一作家だけに限られた、研究会的な小さな学会では、英語化を進めるのは困難だろう。現在、日本の英米文学の学会は、小さな学会が多くなり、英文学会など大きな学会から、発表者を吸い取ってしまっていないだろうか。むしろ、人文の研究者が少なくなっている今、学会は、集約し、強化すべきであり、細分化し、研究会的にこじんまりまとまるのは、研究者の限られた資金や、時間を消耗することになると思う(**備考)。 英文学会などの大きな枠の中で、特定の作家や時代についての色々なパネルを組むほうが生産的だし、変わった意見が出たりして面白いんだが。 それでなくても、私自身も含め、今の英米文学の研究者は自分のやっている作家作品のことしか勉強しない傾向があるのではないか。せめて、出席する学会において、広い視野を持って関連する分野の発表も聞きたいものだし、その為には大きな学会は大切である。

というような理由で、聴衆の事を考えると日本語でやった方が良いかもしれないし、学会の英語化をして欲しいという個人的な思いもあり、迷っている。そうこうしているうちに、締め切りに遅れてしまい、元も子もなくなるかも知れないが。

*これは私が不満に思っているもうひとつの点。一日も早く学会誌をオンラインジャーナルでも出して欲しい。私の所属している学会では大分前にそういう提案は聞いているのだが、その後の動きが見えない。

** これは演劇など、日本社会の他の分野でも言えそうだが、「村」を作って棲み分けをし、競争を避ける日本人の習性の現れか。「私は(私達は)、この作家については詳しいです、でも他の事は専門ではないので分かりません」という事で安心しようとする気がする。

2011/05/15

"Autumn and Winter" (The Orange Tree Theatre, 2011.5.14)

スウェーデンの代表的劇作家の家庭劇
"Autumn and Winter"

The Orange Tree Theatre公演
観劇日:2011.5.14  15:00-16:45
劇場:The Orange Tree Theatre, Richmond

演出:Derek Goldby
脚本:Lars Norén
翻訳:Gunilla Anderman
デザイン:Sma Dowson
照明:John Harris
衣装:Katy Mills

出演:
Diane Fletcher (Margareta)
Osmund Bullock (Henrik, Margareta's husband)
Kristin Hutchinson (Ewa, their elder daughter)
Lisa Stevenson (Ann, their younger daughter)

☆☆☆(3.5くらい) / 5

プログラムによるとLars Norén(ラース・ノーレンと読むのだろうか)はスウェーデンの現代の劇作家としてはもっとも有名な人で、大陸諸国では高い評価を得ているそうだ。しかし、イギリスではあまり上演されたことがないようであるが、この作品を見ると、イギリス人観客向きではない気がした。

インターバル無しの1時間45分間、老夫婦と中年の娘2人のインテンスな家庭劇が続く。北欧作家なので、ベルイマンの映画やイプセンの家庭劇を思わせる。平穏そうに見えたミドルクラスの家庭の親子が抱える鬱積した不満やわだかまりをナイフでえぐり出すように徹底して暴き出した作品。これでもか、これでもか、と親子の対立が激化するので、段々単調になっていく感はあるが、非常に力強い劇。

一家の主人Henrikは豊かな医師。妻Margaretaと長らく(40年くらい?)平和な家庭を営んできたように見える。今夜は2人の娘が夕食に訪れている。長女Ewa(43才)は成功したキャリア・ウーマンで、大変豊かでスマートなスーツとエナメルのハイヒールのいでたち。大きな庭のある広い家に住んでいるらしい。妹のAnn(38才)は対照的な格好。デニムのオーバーオールに穴の空いた薄汚れたカーディガンとデザート・ブーツ、煙草を離さず、昔のヒッピーがそのまま大きくなったとう雰囲気である。Annは怪しげなバーでウェイトレスをしつつシングル・マザーとして子供を育て、劇作家を目ざしてもいる。大変苦しい生活でかなりストレスがたまっているようで、家族に不満をぶつける。まず、両親の隠された不仲、仕事熱心なHenrikの家庭軽視や結婚前から続くある女性とのプラトニックな交際と、夫の愛が感じられなかったMargaretaの不倫、Henrikの酒浸りや優柔不断、マザコンぶり等々が次々と暴き出される。更に、Annは父親が自分に性的な関心で"touch"したのではないかとの疑いも口にし、Henrikから激しい怒りを買う。何も問題が無いかのように見えたEvaも、不妊治療の繰り返しの失敗、養子縁組の破綻等で、人生に目的を失い、夫婦関係は冷え切っている。

冷たい風貌のEwaと、何かというと激しく毒づくAnn、娘達の言動にあたふたし、パンチバッグと化したHenrikを見ていると、『リア王』を思わせる。父娘関係の難しさを感じさせる劇。一般的に言って、父親は愛情表現が下手であるし、また、母親ほど無条件の強い愛を持っているとも限らない。普通、母親のように長い時間をかけた密なスキンシップがあるわけでもない。一方娘は少女の時は身近な男性の理想像として父親を意識する。その子供の時に感じられなかった父の愛への不満を、大人になって口にすることがあっても不思議ではないだろう。また、父と娘の場合、この劇でAnnが口にしたように、スキンシップがあれば性的な誤解(そうでなく本当の虐待の場合もあるが)を生んだりもして、感情のもつれは一層複雑になる。

この劇では、豊かで社会的地位のある医師の家庭の両親と、同様に豊かで仕事でも成功しているEwaに対し、貧しく、その日暮らしのAnnが強い劣等感をいただいていることも、ひとつの大きな発火点になっているようだ。ミドルクラスの家の子供として生まれながら、その生活レベルを維持できない者のストレスは大きい。一方、Ewaは、不妊による空虚感を豊かさでごまかしているのかもしれない、と思わせる。

こういう身も蓋もない、あからさまな内容の家庭劇は現代のイギリス人劇作家はあまり書かない気がする。イギリス人はここまで徹底的に表に出さないで、皮肉く笑い飛ばす国民だから。まして、(日本人であるためか)私から見ると、まったく異文化の人々の話という感じがする。プログラムに、この作家はO'Neillの影響を受けていると書いてあったが、アメリカン・リアリズムの激しさに共通するところがある。しかし、激烈な会話のやり取りがかなりの時間続き、緩急が乏しくて、熱演にも関わらず後半やや退屈してきた。観客としても、緊張感が続くのにも限度があると思えた。

演技は鬼気迫って大変素晴らしい。激しい会話を延々と続ける4人の俳優の力量、特にAnnを演じたLisa Stevensonの演技力には感心させられた。The Orange Treeのような小さい劇場にぴったりの内容の劇。この劇場は四角いステージを客席が四方から囲む形態の小さな劇場だが、あたかも他人の居間にたまたま居たら、もの凄い親子げんかが始まり、びっくり仰天したという感じであった。

写真はThe Orange Tree Theatre。




2011/05/14

Ann Patchett, "Bel Canto" (2001; HarperCollins, 2002)

音楽とテロと恋
Ann Patchett, "Bel Canto"
(2001; HarperCollins, 2002)   318 pages.

☆☆☆☆ / 5

(Bloggerのトラブルのためにこのポストはしばらく表示されていませんでしたが、復活しました。)

作者Ann Patchettに、この小説の着想を与えたのは、1997年にペルーのリマで起きた日本大使公邸の占拠事件だそうである。物語は、南米のある国の首都にある副大統領の公邸を舞台にしている。日本のNanseiという大企業のCEO、Katsumi Hosokawaの誕生日を祝う盛大なパーティーが、各国の大使などを招いて行われる。このパーティーの文字通りのスターは、世界屈指のソプラノで、アメリカのシカゴ在住のオペラ歌手、Roxane Coss。Miss Cossはオペラ好きのMr Hosokawaが最も贔屓にしている歌手であり、この日の為に大金を積んで政府が招いたのだ。勿論、政府はNanseiがこの国に大きな工場を造ってくれることを望んでおり、その為にMr Hosokawaの心象を良くしようと目論んでいる。

しかしこのパーティーの最中、副大統領の屋敷は政府の転覆を狙う反政府軍、つまりテロリスト、の一団によって占領される。国際赤十字社のスイス人、Messnerを仲介に、政府とテロリスト達との交渉が始まり、Miss Cossを除く女性全員や病人、子供などは釈放されるが、その後は政府もテロリスト達も全く譲らず、硬直状態で長い期間が過ぎる。まるでそれが彼らの普通の生活であるかのように、3人のgenerals (将軍) に率いられた兵隊達、その中には、十代の少年少女も含まれる、と人質に取られた数十人の男と1人の女性(Roxane Coss)との、一見平和に見える奇妙な共同生活が始まる。人質達はそれぞれの役割を覚え、料理をしたり、通訳をしたり、Miss Cossの伴奏をして練習の手伝いをしたりする。テロリストの若い女性Carmenは恋人を得、少年のテロリスト、Ishmaelはチェスの才能を発揮し、副大統領と仲良くなる。また、やはり少年のテロリストであるCesarは恐るべき声楽の才を持つことが分かり、Miss Cossが教育を始める。人質達はやがて将軍達から庭に出ることを許され、ランニングで汗を流したり、庭仕事をしたりもする。

こうしたエピソードの中でも特に大きく取り上げられるのは、日本に妻を残して来ているMr HosokawaとRoxane Cossとの恋愛、そして、Mr Hosokawa付きの通訳の日本人Gen Watanabeとテロリストの少女Carmenとの初々しい恋である。閉ざされた屋敷の中、限られた今という時間だけ、未来のないふたつの恋が激しく燃え上がる。それに華を添えるのが、上記のような若いテロリストの少年少女の才能の開花である。彼らは、食うや食わずのジャングルの寒村の出身で、教育も受けておらず、従って文字も読めずテレビも見たことがなく、水洗トイレを珍しがるような若者達である(CarmenはGenに字を学ぶ)。その彼らが、音楽や読み書きやチェスやテレビを見ることの楽しさに目覚める。中高年の人質達の中にはその素直な若い子達を自分の子のように慈しむ者さえ出て、この危機が終わったら、副大統領はIshmaelを養子にしたいと思うまでになる。こうして、眠ったような、不安の中ではあるがゆったりした時間が、籠城の屋敷の中で流れる。しかし、その偽りの平和もやがて終わる時が来る・・・。

この物語の通底音として音楽が常に流れている。天上の音楽のようなRoxane Cossの歌声と、それに聴き惚れる人々、特にMr Hosokawa、を描いたシーンが素晴らしい。また、Nanseiの重役で、それまで全くその音楽の才能も情熱も他人に見せなかったMr Katoが、突然驚異的なピアノの腕前を披露して皆の度肝を抜く演奏をし、Roxane Cossの毎日の練習にとって無くてはならない伴奏者になるところは、不思議なくらい深く感激させられた。私は、このアメリカ人作家により、Hosokawa、Kato、Genという3人の日本人男性が、重要な役割を与えられ、生き生きと描かれたことに驚いた。しかもこの3人が、カリカチュアとも言えるくらいに日本人の理想的なステレオタイプなのである。静かで、礼儀正しく、繊細で、細かな気配りをし、仕事の鬼でありながら、プライベートでは密かに文化的であり、それらの個性が、CossやCarmenを魅了し、またその他の人々も彼らの礼儀正しさに感染したかのようにお辞儀をすることを覚える。同様に、他の登場人物も、それぞれの国のステレオタイプ的な男性像を体現している。フランス人男性は料理にうるさく、妻の事ばかり夢見ているし、ロシア人は無骨でどう猛で情熱的、という風に。

音楽の美しさと文章が絡み合う雰囲気が何とも楽しい。その点では、Rose Tremainの"Music and Silence"を思い出す。言葉の通じない人々をつなぐのはMiss Cossの歌声。そして、多国語通訳のGenの才能である。音楽が偶然同じ場所でとらわれの身になった多国籍の人々を結びつけ、愛と学びのユートピアのようなコミュニティーを作り出す。無惨に壊される時が来ると予感されるだけに、一層夢のような世界である。

但、途中何も起きないところでは、多少中だるみし、退屈なページもかなりある。2002年のOrange Prizeの受賞作であり、既に一定の評価の確立している作品と思われる。山本やよいさんによる翻訳『ベル・カント』(早川書房、2003)も出ている。

自戒も込めて、現実の日本人男性も、少しでもGenやMr Hosokawaのように、静かで、礼儀正しく、教養豊かで、気配りの出来る優しい人間でありたいものだと思わせた。

2011/05/08

"Kingdom of Earth" (The Print Room, 2011.5.7)

ウィリアムズの個性は豊かだが、説得力には疑問
"Kingdom of Earth" (別名"The Seven Descents of Myrtle")

The Print Room公演
観劇日:2011.5.7  15:00-17:00
劇場:The Print Room

演出:Lucy Bailey
脚本:Tennessee Williams
デザイン:Ruth Sutcliffe
照明:Oliver Fenwick
音響・音楽:Tim Adnitt
Dialect coach:Kara Tsiperas, Kay Welsh

出演:
David Sturzaker (Chicken)
Fiona Glascott (Myrtle)
Joseph Drake (Lot)

☆☆☆(2.5程度) / 5

Tennessee Williamsによる滅多に上演されない作品。滅多に上演されないということは、理由があると思った。彼は随分たくさんの劇を書いているのだなと驚く。この劇のプログラムによるとfull-length playsが38、一幕劇が70もあるとのこと。これからも知らない劇を時々見ることになりそうだ。

パンフレットによるとこの作品が陽の目を見るまでには随分の時間がかかったそうだ。Williamsは1940年にこの作品の原型を着想。まず短編小説として1942年に書かれたが、当時としては刺激の強すぎる作品と見なされて、出版されたのはやっと54年になってから。その後、67年に作者が"The Seven Descents of Myrtle"と題して劇化し1968年にブロードウェイで初演されている。Myrtleは登場人物の女性の名前。名詞としては、"myrtle"とは辞書によると、「ギンバイカ(銀梅花):芳香性の常緑低木でVenusの神木;結婚式の花輪に用いる」。

場面設定は、1960年代のミシシッピ・デルタの寂れた農場。洪水の危険が迫っており、ステージでも開演前から常時、天井から水滴が落ち、水の音が絶えない。病身(多分結核)の若い男Lotは、彼が生まれ育った農場に新婚の妻Myrtleを連れて戻ってくる。しかし、その農場には、彼の片親違いの兄弟で有色人種の血が混じるChickenがひとりで孤立した暮らしをしている。マザコンのLotは母と暮らしたこの農場に、母親の思い出が一杯である。弱々しく、病身で、性的に不能(あるいはホモセクシュアル)、更に異性装愛好者 (transvestite) のLotと、男性的でたくましく、暴力的で、獣の臭いがするようなChickenは対照的である。LotはMyrtleの色気を使ってChickenを籠絡した隙に、家の所有証書を破棄して、この家の所有権を手に入れようと画策するが、Chickenの方も警戒してそう簡単には騙されない。それどころか、MyrtleをLotから性的に奪おうとする。2人の間に入って、Myrtleは右往左往させられるが、彼女はどちらかの男に頼ってしか生きる他ない。迫り来る洪水を背景に、3人の間に、性的な熱気と緊張が高まる。

Lotという名前は旧約聖書において悪徳の為に神に滅ぼされたソドムの町から逃れたLotから取っているのだろう。Lotの妻はソドムから逃れる時に後を振り返って身を滅ぼし、塩の柱にされた。

男達に翻弄されるが、自分の体を使って生き抜こうとするMyrtleは、以前はいかがわしいショー・ガールをしており、その経歴を自分でも美化している。しかし、実は売春婦まがいの事もしていた気配がある。『欲望という名の電車』のブランチ・デュボワそのものだ。また、無知で動物的なChickenにはスタンリー・コワルスキーの影が濃い。そしてマザコンで異性とのセックスは出来ず、どこかから逃亡してきたLotは、Williams自身だろうか。

そうした Williamsらしい、南部のゴシックな空気や性的熱気を持つ作品だが、2時間の上演時間、3人の登場人物だけで同じところを堂々めぐりしているような作品なので、いささか退屈した。3人の俳優の懸命の演技と、Williamsらしさが出ていたことで、そこそこ楽しめたという程度。作者の個性は強くても、劇としては平凡な作品と思う。

セットは、黒い土を小山に盛り上げて(本当の土ではないと思うが)、その上と下で農家の上階と階下を示すという変わったものだったが、私から見ると、黒っぽいだけで効果があったとは思えない。資金不足か、アイデアが貧困なのか。迫り来る洪水、そして旧約聖書の物語が重ねられ、黙示録的イメージをねらっているのではないかとは思ったが、照明も抑えてあり、黒く、暗くて見にくいだけ。セットや照明に充分お金がかけられたら、Williamsらしいゴシックな雰囲気や、叙情的なところも出せたのではないかと思うのだがフリンジでは難しいだろう。

私はあまり感心しなかったが、新聞やウェッブの批評ではかなり好評。Guardian, Telegraph, Independent等では4つ星である。私は自分の鑑賞眼にはまったく自信がない。そもそも英語も分かってないところが多いので、私が大事な事を見損なっているのかも知れないから、ウィリアムズ好きの方は、ロンドンにおられればこの劇に出かけるなり、そうでなければ脚本を読むなどして、自分で判断して下さい。

これは他の劇の感想に関しても同じ。但、私自身が楽しめたかどうか、それは何故か、という率直な意見は書くようにしています。私は劇を見る目が鋭いとは言えないので謙虚さは大事。でも面白かった、つまらなかった、だけとか、自分の感覚の押しつけでは読んでくださる方も気分が悪いかもしれない。特に劇場やスタッフ、俳優の方やそうした方々のファンからすると、けなされれば腹が立つでしょう。どんなに失敗した公演でも、公演まで漕ぎつけるにはもの凄い努力があるわけですからね。(ちなみに、イギリス人が私のブログを読むわけもないですが、日本での公演の感想も書いているわけだし、イギリスの俳優のファンの方も検索エンジンなどを通じて読まれるでしょうから。)だから尚更説明が大事。でもブログはそういつも丁寧に時間をかけて書く分けにもいかないし、評論家のように稿料を貰っているわけでもないし(^_^)。なかなか難しいです。

写真はフリンジの劇場、The Print Roomの入り口。地下鉄Notting Hill Gate駅近くの閑静な住宅街にある。

2011/05/07

ビクトリア駅を出発するSL/これから注目の地方劇場

ブログのテーマからは外れるが、今日はSLの写真。今日、図書館に行く途中、ビクトリア駅を通ったら、SLが今まさに走り出そうとしているところだった。私のいたプラットホームとは別のホームだったので、それ程間近で見たわけではないし、ほんのわずかの時間だったが、たまたまカメラをかばんの中に入れっぱなしにしてあったので、写真を数枚撮った。きっと鉄道ファンならもの凄く興奮したに違いない。写真にも写っているが何十人ものファンがカメラを持って、嬉しそうに写真を撮っていた。





このSLについてご存じの方がいらっしゃれば、コメント欄で教えていただければ幸いです。

ところで、今は英米の大学では学期末試験、そして卒業試験などがある季節。試験を受ける方、幸運を祈ります!私は昔、色々と苦い経験があります。自信が無い場合、予め担当の先生とか、割り当てられているアカデミック・アドバイザーに相談して、正直に不安な点を話し合っておくことが大事でしょう。他人の成績の心配している状況じゃないんだけどね(苦笑)。

毎年大きな話題となる公演を生み続けるChichester Festival Theatre、今年の夏も凄い!特に注目はTerence Rattigan 特集。"Deep Blue Sea"と、"South Downs" + "Browning Version|"の2本立ての2公演。他にも、"Rosencrantz and Guildenstern are Dead"、更に"Top Girls"など、見てみたい公演がたくさん!ただ、旅先で体調を壊すことが多くて旅行するのが怖い私としては、ちょっとね・・・。イギリスにお住まいの方、日本から来られる演劇ファン(読んでないと思うけど)読んでいらしたら今年もChichesterは注目と思います。他で気になるのは、LeedsのWest Yorkshire Playhouseで7日に始まったばかりのJohn Ford作ルネサンス劇"'Tis Pity She's a  Whore"。ディレクターのJonathan Munbyは古典に強い腕達者です。彼の演出した"Life is a Dream" (Donmar Warehouse)や"The White Devil" (Menier Chocolate Factory)は素晴らしかった。

2011/05/04

最近の刑事物テレビ・ドラマから("Vera", "Case Sensitive")、その他

ここ1週間くらい、新しいテレビ・ドラマが色々と始まっているが、見たものについて、ちょっと感想を。

"Vera" (ITV)

ITVでは、日曜夜9時のゴールデン時間帯、BBCの主力ドラマと競合するところに持ってきた2時間ドラマが、"Vera"という刑事物。主役は有名な女優Brenda Blethyn。私はこの人を舞台で見ていなくて、記憶にないが、映画の"Atonement"(償い)に出ていたようだ。またマイク・リーの映画にも出ている。場面設定は、イングランド北東に位置するNorthumberland州(中心都市はNewcastle)の田舎。寂寥とした、しかし美しい牧草地や海岸、そして寂れた町並みの光景が素晴らしい。ドラマの内容よりもそちらに引き寄せられたくらいだ。また主役の刑事、Vera Stanhopeを始め、登場人物の北部訛りに地方色が出て心地よい。Veraは、50歳代の刑事だが、もの凄い仕事中毒で、事件のことでいつも頭が一杯(同じITVのRebusの女性版という雰囲気)。それをワトソン役の若い男性刑事Joeが、まるで孝行息子のように心細やかに支えて頑張るところがひとつの魅力。初回のエピソードでは、ジーナ・マッキーが出演。写真は、Blenda Blethyn:


(追記 "Vera"の第2回も見た。主人公のキャラクターも面白いが、景色がきれいでカメラが凝っていて、雰囲気が濃密。景色が主役、と言いたいくらいだった。大いに楽しめた。)

"Case Sensitive" (ITV)

これは単発の前後編からなる刑事ドラマで、5月2-3日に放映され、既に終了。但、ITV Playerで見ることが出来ると思う。主役は、こちらは40歳代の女性刑事DS Charlie Zailer。主演はOlivia Williamsという私は知らない人。地味なキャラクターとして作られている。些細な点だが、ストレートの飾り気のない髪をゴムみたいなもので後ろでくくっているところが、私には妙に印象的。場面設定は分からないが、ロケはBuckinghamshireとのこと。地方色を強調して作られてはいない。犯罪学者なども出て来て、犯罪者の心理分析、そしてアイデンティティー盗難などがドラマのみそだろうか。主人公が最近昇格した女性刑事で、補佐役の腕利き男性刑事DC Simon Waterhouse(演じるのはDarren Boyd)や職場の他の刑事を上手くコントロール出来ずに大変苦しむことなど、男の職場の中での女性刑事に関してよくあるモチーフ。"Vera"では、男達よりもエネルギッシュな、大ベテランの女性刑事にまわりが振り回されててんやわんやという感じだが、こちらはその逆で、まだ管理職としては経験の浅い女性が、男達を操縦するのに大汗をかき泣きそうになる、というドラマ。しかし、"Vera"も"Case Sensitive"も、女性刑事が主人公であることにより、より人間的な柔らかさが加わっている。重要な脇役で、芸達者で毒気のある役がぴったりのRupert Gravesが出ていて、番組を引き締めている。このドラマは今回だけのようだが、パイロットだろうか。シリーズ化してもいい気がする。写真は、Olivia Williams:


この俳優はRSCでの経験も豊かで、現在、West EndのVaudeville TheatreでNeil LaButeの作品"In a Forest Dark and Deep"に出演中。

中高年の、スタイルも良くない女性主人公

"Vera"に主演のBrenda Blethynは、失礼ながら、ややオーバーウェイト気味か。すくなくとも、かっこよさで売る女優でも、年齢でもない。"Case Sensitive"のOlivia Williamsはスタイルは良いが、大変地味な役作りがしてある。日本で女性刑事というと、無茶苦茶若くて格好良く、高下駄のようなハイヒールにデザイナー・スーツ姿という漫画の主人公でなきゃあり得ないようなヒロインも多いが(例えば「アンフェア」の篠原涼子、アメリカの刑事ドラマも似たようなものとの印象)、イギリスの最近のドラマでは、女性刑事はスターではなく普通の警察官という職で働く「社会人」に見える役作りが多い。女性をリアリティーの無いお飾りにしがちな日本のこの手のドラマとの違いが見える。例えば、"Blue Murder”は人気女優のCaroline Quentinを主役にしているが、彼女はお世辞にも格好良いとは言えない:


更に、BBC Oneの昼間の刑事ドラマ、"Missing"の主人公、D S Mary Jane Croftを演じたPauline Quirkeなども同じ:

このドラマは、昼間に放映された低予算番組のようで、実に地味な作りではあったが、脚本が良く出来ていた。何となく斜陽の感がする南部の地方都市(例えばMargateのような)の警察署。そこに勤める行く方不明者捜索係の人々を通し、身近で地道な警察活動や家族問題を描いていて、結構面白い。まさに警察官という地方公務員の話。ペテン師みたいな事に手を染めて警察のごやっかいになる自分の父親やら、部下の若い刑事や職員が職場恋愛で気まずくなって心配したり等、結構くよくよと悩んで、友達にこぼしたりするD S Mary Jane Croftのキャラクター作りも、視聴者の興味をつなぎ止める。再放送された時にiPlayerで見たのがだ、現在は残念ながら見ることは出来ないと思う。なにも太った俳優が良いというわけではないが、日本の刑事物は、ファッション雑誌から切り抜いたマネキンのよな若い女性を刑事にして、あり得ないような活躍をさせるファンタジーばかり。見る気がしない。

BBC Four, "The Killing"

イギリスでは、昨年末(?)から今年にかけてBBC Fourで放映されたデンマークの刑事ドラマ、"The Killing"がちょっとしたブームになり、新聞でも特集記事などが目についた。全部で20回の長編。しかし、その長丁場を、ひとつの少女殺人事件を追う2人の刑事の話で見せるという、普通では考えられない構成になっている。しかし、主人公の刑事達のユニークなキャラクター、事件に関係するコペンハーゲンの政界の込み入った事情、被害者家族のドラマ等々を巧みに組み合わせ、毎回飽きさせずに見せる。英語字幕付きボックスセットが発売されているが、海外ドラマの好きな人で、英語の読める人なら、買って損は無いだろう。私は途中までiPlayerで見たが、放送時からかなり遅れて見始めたので、全部見ないうちに期限切れになってしまい、悔しい思いをしている。しかし、既にかなり見たので、今更ボックスセットを買うのも勿体ないし・・・という気持ち。主人公のSarah Lund(演じるのはSofie Gråbøl)は、ちょっと格好良すぎかも知れないが、食いついたら離れない、何とも凄い刑事。まむしみたいな面構えだ(^_^)。また、いつも上司のルンドに反発する男性刑事のJan Meyer(俳優はSøren Malling)も、強気と弱気が交錯、上司のルンドが示す能力への嫉妬と尊敬、強面の反面で家族への思いがけない気遣いなど、実に人間的で見応えある人物。理性的で強靱な神経を持つLundと、直ぐ感情的になるが根はナイーブな男というMeyerのコンビが、男女の刑事のステレオタイプを壊していて愉快。これだけ面白いドラマだから、待っていれば日本でもどこかのケーブル局などでやるのは確実だろう。原題は、"Forbrydelson"。写真は、"The Killing"におけるSofie Gråbøl。冴えないフィシャーマン・セーターがトレードマーク:


ふてぶてしい面構え、上役や政治家からひどい嫌みを言われても馬耳東風のたくましさ、他人には悩んだり、ほろっとしたりするところを見せない。小さい俳優だが、「強い女」を印象的に演じる。現代女性演じる一種のハードボイルド。

2011/05/01

"Frankenstein" (2011.4.30, National Theatre)

怪物はFrankensteinの肖像
Mary Shelley原作、"Frankenstein"

National Theatre公演
観劇日:2011.4.30  14:00-16:00
劇場:Olivier, National Theatre

原作:Mary Shelley
演出:Danny Boyle
脚本:Nick Dear
セット:Mark Tildesley
照明:Bruno Poet
音響:Underworld & Ed Clarke
音楽、作曲:Underworld
衣装:Suttirat Anne Larlarb
Fight Director: Kate Waters

出演:
Benedict Cumberbatch (The Creature)
Jonny Lee Miller (Victor Frankenstein)
(上記の2役は、MillerとCumberbatchが日によって入れ替わる。)
Karl Johnson (De Lacey)
Lizzie Winkler (Agatha de Lacey, his daughter-in-law)
Daniel Millar (Felix de Lacey, his son)
George Harris (M. Frankenstein, Victor's father)
Mark Armstrong (Rab, a crofter)
John Stahl (Rab's uncle)
Andreea Padurariu (Female Creature)
Ella Smith (Clarice, a maid at the Frankensteins)
(Victor Frankensteinの婚約者のEizabeth Lavenza役の俳優は
プログラムではNaomie Harrisとあるが、今回は代役で、おそらく
Lizzie Winkler)

☆☆☆☆/ 5

いつもは30分前に開くOlivierのドアがなかなか開かず、多くの人がロビーで立って待っている。どうしたんだろう、といぶかっていると、開演予定時刻の10分ちょっと前に開場。劇場は既に音楽が鳴り響き、それが開演が近づくに連れて大音響となっていく。時々、鐘の音がカーン、カーンと鳴り響く。不吉な赤黒い照明が舞台全体を照らしている。円形の布とその布を縁取る枠のような、直径2メートル以上はある奇妙なオブジェ(幅の薄い太鼓みたいと言ったら良いだろうか)が舞台の中央にあり、回り舞台が動くにつれて、舞台上を大きくゆっくりと回転して動く。いよいよ開演という時間になると、音楽が巨大な鼓動の響きに変わる。そして突然オブジェの布が破れ、中からThe Creature、つまりFrankensteinの創造したモンスターが転がるように、丁度鳥か爬虫類が玉子の殻を破るようにして跳び出てくる。この一糸まとわぬ裸体のCreature (Benedict Cumberbatch) は生きるエネルギーに溢れてはいるが、最初は立つことも出来ず、平衡感覚もない。従って地面の上で痙攣するように苦しげにのたうち回るが、そのうち段々立ってぎくしゃくとながら歩くことを覚える。その間、10-13分くらい、地面の上を這いずり、倒れ、起き上がる。もの凄いフィジカルな演技に圧倒され、観客は一気にこの劇の世界に引き込まれる。普通の人間なら、手足の指の骨を折ったり、肉離れを起こしたりするだろう。きっと生傷も絶えないに違いない。今回はCumberbatchだったが、Millerも含め、2人の俳優の熱演に感謝する。

その後すぐに、Creatureを造ったFrankensteinが登場するが、自分が生んだ生き物を見て怯えたように逃げ去っていく。機関車のような機械が人々を乗せて大音響と共にレールの上を走ってステージに現れ、産業革命の時代であることを観客に知らせる。女が彼の姿を見て恐怖の叫びを上げ、逃げていく。彼は男達から殴られ、町から追い出される。彼は自分が醜悪な怪物であると思い知らされる。

この後、Creatureは寒村に住むDe Laceyの貧しい家に近づく。主人のDe Laceyは目が見えず、息子とその妻の世話を受けている。若い2人が居ない間に、Creatureは目の見えないDe Laceyに近づき、Creatureの醜い姿が見えず偏見のないDe Laceyは彼を親切に受け入れる。その後、息子夫婦が居ない時に彼を家に招き入れて、言葉や様々の知識を教える。しかし、ある日息子と嫁がCreatureを目撃し、Creatureは息子Felix de Laceyにしたたか打ち据えられて逃げ出す。彼は他人を憎むことを覚え、この家に火を放つ。

CreatureはVictor Frankensteinをついに探し出し、彼に自分のために女の伴侶を創造してくれと頼む。そうすれば、彼はその女を連れて、南米の未開の地(つまり、現代のエデンの園)に移り住み、二度と帰ってこないと言う。Frankensteinは、スコットランドの僻地に渡り、死体を使って、彼の為に美しい女のCreatureを創造し、魂を入れる前にその姿をCreatureに見せてやる。Creatureはそれを見て歓喜するが、Frankensteinはこの美しい創造物を自分の手でずたずたに引き裂いて殺してしまう。そこにVictor Frankensteinの父親らが現れるので、Creatureは去るが、復讐をすると約束する。スイス、ジュネーブの自宅に帰ったFrankensteinは許嫁と結婚式を挙げる。祝宴が終わった後、初夜のベッドの側で新郎を待つ花嫁Elizabeth。しかし復讐の念に取り憑かれたCreatureが忍び寄り、破局が訪れる(人々の幸福に嫉妬するベーオウルフを思いだしたシーン)。

最後の場面では、極地と見られる氷と雪の中を主人然としたCreatureと、Frankensteinが進んでいる。CreatureはVictorを駆り立てるが、Victorは力尽きて、氷の上に倒れる。(Mary Shelleyが小説を執筆し始めたのは1816年で、出版は18年。同じ1818年に英国海軍は、最初の北極探検隊を派遣しているが、この計画、あるいは北極への社会の関心が何かMary Shelleyにヒントを与えたのだろうか?)

Creatureは19世紀の科学が生んだ、その時代のアダム。科学の力で生み出された時は、無垢の心を持っているが、田園でも都会でも人間社会に鬼っ子として排除され、また産み落とした親であるVictorに名前もつけてもらえずに、怪物扱いされて捨てられる。盲目のDe Lacey老人、そして、連れ合いとなるはずだった女のCreatureを通じて、人を信ずることや愛する気持ちを覚えるが、それを他の人間、特にVictorから無惨に踏みにじられ、憎悪の塊と化する。裸で、立つことさえ出来ない最初の姿から、全編を通じてCreatureの満たされることなき愛の渇望と絶対的な孤独をCumberbatchが全身で表現する。様々なことを感じ考えさせる劇だが、この絶望的な孤独が、他の何ものよりも強い印象を残した。

Creatureがミルトンの"Paradise Lost"を引用する場面が2,3カ所ある。彼はアダムであると共に、サタンとも言えるだろう。いや、もともとアダムとサタンは神の被造物として、アベルとカインのような表裏の関係にある。悪魔は人間が受けた神の愛に嫉妬して、地上の人間を誘惑し堕落させようと試みる。人間を造るという、神だけに許された技をなそうとしたFrankenstein自身が、謂わば、神の座に座ろうと企てたサタンに類似している。その、神になり損ねた無知で残酷な科学者に造られたCreatureは、サタンやアダムよりも一層不幸であった。その彼が、親であるFrankenstein自身よりも愛を感じる心を備えるようになって、親たるFrankensteinに愛とは何かを教えるまでになったのが大変な皮肉である。(親は子に教えられる。しばしば、児童虐待や養育放棄の事件で、子供が自分を苦しめてきた親を弁護するのを思い出す。)人間が自らの存在を確かめうるのは、我々が周囲の人々から与えられる愛、そして我々自身が与える愛であるとCreatureは示しているようだ。もし愛がなければ、その空隙を埋めるのは絶望と憎悪。

科学の進歩を、その負の可能性や、倫理的な判断を行わずに、知的探求心(あるいは、経済的利益)だけで追い求めるとどうなるか・・・。現代人に常に突きつけられた問題であり、そう考えると"Frankenstein"は大変今日的な文学作品にして演劇だ。勿論、今、日本人が見れば、Creatureを原子力に置き換えて見ざるを得ない。知能こそ持ってはいないが、一旦暴走し始めると造った者にも制御できない原子力発電所は、まるで巨大な怪物ではないか。自分の造ってしまった怪物の憎悪に恐れおののくFrankensteinが、申し訳ないが、事故を起こした原発の暴走を止められない科学者に見えた。科学者だけでなく、科学の恩恵にあずかる国民や企業にも突きつけられた大問題を、既に1816年頃、十代終わりでこの小説を執筆したMary Shelleyは予見しているかに見えた。

人間世界からつかず離れず、孤独に生きる半人半獣の怪物は、西欧文化文学の伝統に根づいているようだ。ベーオウルフやグリーン・ナイト、マリ・ド・フランスの狼男("Bisclavret")がそうであるし、H. G. Wellsの『透明人間』("The Invisible Man")。現代では、『ブレード・ランナー』のアンドロイドやケン・ラッセルの映画、"Altered States"、そして内面の獣を描いた傑作、『エイリアン』などもある。このCreatureもそうしたモンスターの一種であり、近年時々目にとまる怪物研究の視点から専門家に色々分析されていることだろう。これらの怪物が独特の悲しみをたたえているところや、宗教的なニュアンスに溢れるところが面白い。更に、彼らが人間世界の写し絵であり、CreatureがFrankensteinの分身だとすると、ラッセルの映画もそうであるが、スティーブンソンやE T A ホフマンなどが作品に取り入れたドッペルゲンガー伝説とも関連して論じられるかもしれない。

人間が踏み入ってはならない神の領域にFrankensteinが手を出してしまった、謂わば悪魔と契約を結んだとも言える行為は、ゲーテやマーローのファウストを思い出させもする。19世紀キリスト教世界におけるコペルニクス的価値観の転換はダーウィンの『種の起源』(1859)によりもたらされたのだろうが、この原作は、その前夜、神と命の創造に関する価値観が大きく動揺しつつあった時代に書かれている。プログラムの解説によると、Mary Shelleyは科学論文も熱心に読んでいたようである。21世紀の今、生命科学、遺伝子操作、人工知能等々の分野の発達により、この作品の描く問題は、一層身近になりつつある。

もうひとつの視点としては、この劇でCreatureが人々から嘲り追われて行く様子には、身体や精神の障害、特殊な病気(例えばハンセン病など)を、神の烙印として忌み嫌い、社会から排除してきた西欧社会の一面もうかがえる。そう言う点にも宗教性がうかがえるし、少数者、障害者などをどう処するかは、それぞれの社会や宗教自らの鏡でもあると言うことだろう。勿論、日本にも言えること。

巨大な扇形をしたOlivierは、いつもどこか宇宙的な印象を私に与えるが、今回は特にそうだ。人間の創造、無垢の喪失、そして堕罪と殺人・・・これは旧約聖書の創世記の流れであり、中世聖史劇(Mystery Plays)の重要な題材でもある。実際、私は直ぐにKatie MitchellがRoyal Shakespeare Companyで演出した"The Mysteries" (1977-78, The Other Place & The Pit)を思い出したし、昨年夏にヨークで見た街頭の聖史劇も連想した。但、聖史劇ではアダムが静かに姿を成してくるのに対し、Frankensteinの造ったCreatureは、許されない危険な人体実験によって、苦しみ、のたうち回りつつ誕生する。それでも、このCreatureは無垢の心で地上に歩み出すが、白いキャンパスはたちまち偏見と憎悪を塗り込められる。まずVictor Frankensteinの冷酷さを、そして次々とその他の人々の嫌悪を焼き付けられる。丁度、汚れていくドリアン・グレイの肖像だ。あるいは、様々の悪徳の寓意(Vices)に翻弄されるEverymanそのもの。Everymanは最後には美徳の寓意(Virtures)によって助けられ、改悛し、静かに神のもとへと旅立つが、このCreatureは助けてくれる友も愛してくれる伴侶もおらず、それどころか、その伴侶を作ってもらったと思ったらVictorに惨殺される。そして、彼が憎んでも憎み足りない親であるFrankensteinを伴って、極地へと自殺の旅に出る(北は、中世の世界観では悪魔の支配する地獄の方角であり、中世道徳劇『堅忍の城』では、そのように劇場が造られる)。つまり親子心中、地獄への道行きだ。

主役の2人の演技力、そしてそういう演技をさせる事を考えたDanny Boyleの想像力に驚いた。また、台詞の随所に『失楽園』を使ったことも効果的。Boyleは映画監督で有名だが、台詞にたより過ぎず、大きな劇場をいっぱいに活用し、セット、照明、音楽を効果的に利用して、豊かなイメージを繰り広げてくれた。特に、Creatureが生まれる冒頭のシーンは圧巻。National Theatreでは珍しく、観客のほとんどがスタンディング・オベーション。

個人的には、この劇を見終わった後、すっきりとしたカタルシスを感じずに帰宅した。というのは、あまりにも主人公の孤独と絶望の深さに胸打たれ、重苦しい気分になってしまったから。涙を流したいような悲しさを与える劇には時々出会うが、この上演はそれとは違った、もっと息苦しくなるような悲しみを感じさせた。

(追記)今日のブログを書くのに、もの凄く時間を使ってしまい、反省、反省。あなたのブログは長すぎて最後まで読めない、と言われることもあるのにねえ。しかも反響はほとんどゼロ。それにしても、この劇、面白い。原作が凄いんだろう。しかし私は読んでいない。近代文学を専攻してないので、19世紀もディケンズとかブロンテは一応かなり学生時代に読んだが、メアリー・シェリーは読んでない。劇を見て、色々と今日的問題に関連したテーマを見いだせる作品で、驚く。研究も最近のほうが多くなっているようであり、私の親しいS先生も論文執筆や研究発表などされているので、次に会った時にはメアリー・シェリーについてお話しをうかがってみたいものだ。メアリー・シェリーの父親は、政治哲学者William Godwin、 母親は大変著名なフェミニストのMary Wollstonecraft。片田舎で純粋培養されて才能が花開いたブロンテ姉妹とは違い、彼女の夫と共に、一家でまさに時代の先端を走っていた知識人なわけだ。私は以前に"Her Naked Skin"という20世紀初めのフェミニスト達の活動や生活を取り上げた劇をNational Theatreで見ていて、かなり面白かった記憶がある(演出Howard Davis、脚本Rebecca Lenkiewicz)。時代はWollstonecraftやMary Shelleyよりはずっと後だが、先人による女性参政権の活動は、洋の東西を問わず現代の我々がもう一度振り返って学ぶ必要のあるテーマだろう。