2011/05/22

Edward Albee, "Delicate Balance" (Almeida Theatre, 2011.5.21)

素晴らしいアメリカン・ファミリー
Edward Albee, "Delicate Balance"

Almeida Thearre公演
観劇日:2011.5.21  15:00-17:40
劇場:Almeida Theatre

演出:James Macdonald
脚本:Edward Albee
セット:Laura Hopkins
照明:Guy Hoare
音響:Ian Dickinson
音楽:Gwilym Simcock
衣装:Helen Lovett Johnson
方言指導:Penny Dyer

出演:
Penelope Wilton (Agnes)
Tim Pigott-Smith (Tobias, Agnes's husband)
Imelda Staunton (Claire, Agnes's sister)
Lucy Cohu (Julia, daughter of Agnes and Tobias)
Ian McElhinney (Harry, Tobias's long-time friend)
Diana Hardcastle (Edna, Harry's wife)

☆☆☆☆ / 5

Edward Albeeと言うと、演劇の好きな人や文学史を勉強した人は現代古典の"Who Is Afraid of Virginia Woolf"が直ぐに思い浮かぶと思うが、その他にどんな作品があるのか私は知らなかった。改めて調べてみると、"The Zoo Story"(『動物園物語』)というのも聞いたことがある。この"Delicate Balance"(1966年初演)も1967年のピューリッツア賞を受賞しているが、確かに素晴らしい公演だった。Albeeは1928年生まれだが、2002年にも新作を発表しており、存命のようである。

1950年代、戦争が終わり、アメリカが最も輝いて見えた頃の、豊かな家庭の居間。金曜から日曜までの週末3日間を3幕に分けて描く。主役はTobias (Tim Pigott-Smith) とAgnes (Penelope Wilton) の初老の夫婦。更に、Agnesの妹で独身のオールドミスであるClaire (Imelda Staunton) がやってくる。始めは眠くなるような、すれ違い気味の、不自然でぎこちない会話が続く。感じとしては、不正確なたとえではあるが、豊かなアメリカ人家庭で起こるPinterとか、Bekett劇の会話みたいな感じ、と言ったら近いだろうか。また、プログラムによると、AlbeeはBeckettとO'Neillの影響を大きく受けているらしい。このリアリスティックでない夫婦のすれ違いこそ、この劇の主要なテーマ、つまり、コミュニケーション不全、疎外、そして、家庭の崩壊(そういう言葉は昔はなかっただろうが、「家庭内離婚」だろう)。Claireはその名前にふさわしく、物事をリアリスティックに、謂わば「身も蓋もない」言い方をして表現するプラクティカルな人間で、観客にとっては、欺瞞に充ち、分かりにくい姉夫婦のすれ違いの会話の翻訳者として機能している面がある。また、アコーディオンの弾き語りをしつつ、他の人物の真面目な会話に茶々を入れたりして、一種の道化として、主要な舞台アクションの周辺部を旋回している興味深い人物である。台詞を言うのに、床に寝転んだり、非常に大げさなジェスチャーをしたり、買い物に行ってトップレスの水着を捜した話を披露して笑わせたり、道化的要素は他にもある。彼女も、笑いでごまかしてはいるが不安を抱えているようで、アルコール中毒。

この、水底は腐食しているが表面は眠ったように静まりかえった家庭に大きな変化を巻き起こすのが、Tobiasの長年の親友、Harryと彼の妻Ednaの突然の訪問。何故かはよく分からないが、この二人も夫婦の危機らしい。自分の家に居られなくなって、断りもなくTobiasの家にやって来て、今は結婚して独立しているはずのJuliaの部屋に居候を決め込む。ところが運悪く、そのJulia(36才)が彼らと前後して出戻ってきた(4回目)ので始末が悪い。自分達の居場所をめぐって、JuliaとHarry夫婦がいがみ合い、その間に立って、元来自己主張が弱くてまわりの人に振り回されているTobiasと、何事についても高等な哲学的警句を言うのに長けているが基本的にはTobiasの決断に任せて責任を引き受けたくないAgnesが、どうして良いか分からずに立ち往生する・・・。こういう風に書くと、とても単純な筋書きの話なのだが、多くの台詞は、Beckett的な謎めいた、癖のある台詞で、微妙にタイミングを外し、自然な流れを崩しつつ繋がっていくような会話になっているところがミソである。

劇が始まってAgnesが台詞を言い始めた途端、何だがシェイクスピアの台詞を聞いて居るみたいだと思ったが、彼女の台詞は妙に様式的で高等で、理屈っぽいのである。彼女は、自分の役割を家庭の"fulcrum"(支柱、支点)と自ら定義づけているが、標題になっている家庭内のdelicate balanceを維持する支柱として、自らを一歩高い視点において自分自身のエモーショナルな安全を確保しつつ、家庭が混沌に陥らないようにバランスを取る役を演じているのである。しかし、そうすることは、Tobiasと共同作業を避けることであり、エモーショナルなコミットメントをしないことでもあるので、最後にパンクしてしまうのは、元来温厚で気配りをする性格であるTobiasになってしまった。

またAgnesは一見理性的で、過去を静かに見つめることが出来るように聞こえるが、実は赤ん坊の時(?)に亡くなった息子の思い出、そして、その後Tobiasが子作りに協力してくれなかったことへのわだかまりを未だに引きずっている。

JuliaとClaireはどちらもTobias夫婦に寄生しているように見え、その後出来た言葉で言えば、「アダルト・チルドレン」ということだろう。特にJuliaはその言葉にぴったりのキャラクターである。子供がだだをこねるような調子で文句を言い、癇癪を起こし、泣き叫ぶ。しかし、そういうJuliaをまったく子供扱いし、彼女の不満とまともに対峙しない両親の、親としての欺瞞も浮き彫りになる。

通底音として流れるのは暴力である。Juliaが癇癪を起こして2回から降りてきた時、彼女は泣きわめきながら、片手には拳銃をぶら下げている。感情の爆発が何か暴力的な事件に発展するのではないか、家庭内暴力みたいな事件が起こるのか、という不安をいただかせる点は、アメリカの劇らしい。

初老の夫婦の性が、夫婦関係と微妙に関わってくるところも興味深い点だ。Tobias夫婦は長男の死亡後、子供を作るかどうかですれ違った。その後は別々の寝室に寝ている。HarryとEdnaも自宅でこれまではセックスは途絶えていたと思われるが、Tobiasの家に来て、二人は接近する(しかし、結局セックスはしなかったようだ)。性的な繋がりのない(あるいは無くなった)夫婦にとって結婚とは何か、そして結婚にとって性的な繋がりとは何か。そもそも、「ファミリー」が空洞化し、肉体的な欲求も乏しい初老や老年の夫婦が、結婚生活を何十年も続けることの意味を問うかのように見える。

更に作者がどれだけ意識しているか分からないが、Agnes、Claire、Juliaの3人とも、女性が職業を持って自立することの出来なかった時代において、家庭しか生息する場のない上流の女性の苦しさが伝わってくると思える。長い昼間の時間、帰宅した夫とのお酒と会話、そして(Claireの水着を買った笑い話にあるように)上品なデパートでの買い物、が繰り返される暮らし・・・。Austinの昔からそうだが、上流の女性こそ、生きるために身体を使って働く労働者の女性以上に、出口の無い家庭という牢獄に捕らわれていたとも言える。近代初期までは、「家」は女の忙しい仕事場であり、一種の同族企業、不動産管理会社であるから、ある意味、愛だ何だと理想を言っている場所では無く、女主人(=女社長)の仕事も手腕を要した。しかし、戦後の企業社会の発達、核家族化や家事の簡素化を経て、多くの女性が本当に籠の鳥になった。そして、「夫婦の愛」が社会的なお題目に終わらず結婚の必要条件(raison d'être)となり、当人達が本気でそれを求めるようになって、夫婦に起きる問題はかえってややこしく、悲惨になったかも知れない(ちょっとシニカルに見ればの話ではあるが)。

劇場に入った途端、今回のセットの豪華さに驚いた。台本だけ読むと、Beckett風の虚ろな空間と感じる時が多いが、セットによって、戦後アメリカの、ミドルクラスでも特に豊かな家庭にしっかりと根を下ろした劇になった。床も壁も光沢のある立派な木材。壁に組み込まれた本棚には革張り(テキストに指定あり)の本が整然と並べられている。立派な金箔のフレームの鏡が壁に掛かっている。革張りの椅子や複雑な織物の布地がはられたソファー。動物の敷物、等々。けばけばしくなく、趣味は良いが、イギリスのお金持ちの家のような歴史を感じはしない。裏に透けて見えるのは富。登場はしないが、使用人が食事を用意し、掃除をするのはもちろんだろう。登場人物は、週末、家でくつろいでいる時ではあるが、大変贅沢な服装である。

Penelope Wilton、Tim Pigott-Smith、Imelda Stauntonの3人の名前が並ぶだけで、このプロダクションが演劇ファンにとって如何に素晴らしい機会か分かる。カリスマ性では、 Ian MckellenやJudi Denchに及ばないにしても、彼らに匹敵する演技力を感じさせる3人だ。この劇のようにタイミングを外した台詞を持った劇の場合、逆説的な言い方だが、おそらくタイミングが一番難しいだろう。台詞がバラバラにならないように劇の有機的な流れを維持しつつ、同時に台詞のぎこちなさ、噛み合わないことを表現しなければいけないのだから。言い替えれば、タイミングを崩すタイミングということだろうか。(俳優が器用すぎ、台詞の角が取れすぎて、劇の台詞が持っていたはずの荒々しさが損なわれてもいけないだろう。)そういう意味で、この劇の俳優達は、申し分ない。疎外感を生かしつつ、退屈にならずに、張り詰めた台詞で緊張感が段々高まった。

結局、Albeeが一番に言いたいことは何なのか? 第2次世界大戦後アメリカの、エナメルで塗られたような輝き、私達の世代がハリウッド映画やテレビドラマで憧れた素晴らしい「アメリカン・ファミリー」の、虚ろな肖像が見事に描かれた劇であることは確かであり、そういう意味で大変政治的な母国文化批判とも言えるのではないか。

色々と含蓄ある台詞が多くて、俳優は台詞を考え尽くして話さないとその魅力が引き出せないだろう。今回の名優達にぴったりだ。2カ所ほど引用してみたい。最初はAgnesとTobiasのダイアローグ。

AGNES: Do we dislike happiness? We manufacture such a portion of our own despair . . . such busy work.

TOBIAS: We are a highly moral land: we assume we have done great wrong. We find things.

次は、ClaireがJuliaに言う台詞。

We're not a communal nation, dear; giving, but not sharing, outgoing, but not friendly.

後者の台詞を読んで、アメリカ人の特色を、一面ではあるが、上手く言い得ていると思う人も多いに違いない。

日本で上演されたことはあるのだろうか。虚ろな家族の姿を問う作品として、言語や文化を越えうる作品かも知れず、日本語でやる価値もありそうだ。しかし、深く考えることの出来る俳優でないとテキストの本当の魅力は引き出せないだろう。

(付け足し)今回も随分長くなってしまいました。ここまで読んでくださり恐縮。次回からは、退屈になったら途中でやめてください。

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