2011/05/14

Ann Patchett, "Bel Canto" (2001; HarperCollins, 2002)

音楽とテロと恋
Ann Patchett, "Bel Canto"
(2001; HarperCollins, 2002)   318 pages.

☆☆☆☆ / 5

(Bloggerのトラブルのためにこのポストはしばらく表示されていませんでしたが、復活しました。)

作者Ann Patchettに、この小説の着想を与えたのは、1997年にペルーのリマで起きた日本大使公邸の占拠事件だそうである。物語は、南米のある国の首都にある副大統領の公邸を舞台にしている。日本のNanseiという大企業のCEO、Katsumi Hosokawaの誕生日を祝う盛大なパーティーが、各国の大使などを招いて行われる。このパーティーの文字通りのスターは、世界屈指のソプラノで、アメリカのシカゴ在住のオペラ歌手、Roxane Coss。Miss Cossはオペラ好きのMr Hosokawaが最も贔屓にしている歌手であり、この日の為に大金を積んで政府が招いたのだ。勿論、政府はNanseiがこの国に大きな工場を造ってくれることを望んでおり、その為にMr Hosokawaの心象を良くしようと目論んでいる。

しかしこのパーティーの最中、副大統領の屋敷は政府の転覆を狙う反政府軍、つまりテロリスト、の一団によって占領される。国際赤十字社のスイス人、Messnerを仲介に、政府とテロリスト達との交渉が始まり、Miss Cossを除く女性全員や病人、子供などは釈放されるが、その後は政府もテロリスト達も全く譲らず、硬直状態で長い期間が過ぎる。まるでそれが彼らの普通の生活であるかのように、3人のgenerals (将軍) に率いられた兵隊達、その中には、十代の少年少女も含まれる、と人質に取られた数十人の男と1人の女性(Roxane Coss)との、一見平和に見える奇妙な共同生活が始まる。人質達はそれぞれの役割を覚え、料理をしたり、通訳をしたり、Miss Cossの伴奏をして練習の手伝いをしたりする。テロリストの若い女性Carmenは恋人を得、少年のテロリスト、Ishmaelはチェスの才能を発揮し、副大統領と仲良くなる。また、やはり少年のテロリストであるCesarは恐るべき声楽の才を持つことが分かり、Miss Cossが教育を始める。人質達はやがて将軍達から庭に出ることを許され、ランニングで汗を流したり、庭仕事をしたりもする。

こうしたエピソードの中でも特に大きく取り上げられるのは、日本に妻を残して来ているMr HosokawaとRoxane Cossとの恋愛、そして、Mr Hosokawa付きの通訳の日本人Gen Watanabeとテロリストの少女Carmenとの初々しい恋である。閉ざされた屋敷の中、限られた今という時間だけ、未来のないふたつの恋が激しく燃え上がる。それに華を添えるのが、上記のような若いテロリストの少年少女の才能の開花である。彼らは、食うや食わずのジャングルの寒村の出身で、教育も受けておらず、従って文字も読めずテレビも見たことがなく、水洗トイレを珍しがるような若者達である(CarmenはGenに字を学ぶ)。その彼らが、音楽や読み書きやチェスやテレビを見ることの楽しさに目覚める。中高年の人質達の中にはその素直な若い子達を自分の子のように慈しむ者さえ出て、この危機が終わったら、副大統領はIshmaelを養子にしたいと思うまでになる。こうして、眠ったような、不安の中ではあるがゆったりした時間が、籠城の屋敷の中で流れる。しかし、その偽りの平和もやがて終わる時が来る・・・。

この物語の通底音として音楽が常に流れている。天上の音楽のようなRoxane Cossの歌声と、それに聴き惚れる人々、特にMr Hosokawa、を描いたシーンが素晴らしい。また、Nanseiの重役で、それまで全くその音楽の才能も情熱も他人に見せなかったMr Katoが、突然驚異的なピアノの腕前を披露して皆の度肝を抜く演奏をし、Roxane Cossの毎日の練習にとって無くてはならない伴奏者になるところは、不思議なくらい深く感激させられた。私は、このアメリカ人作家により、Hosokawa、Kato、Genという3人の日本人男性が、重要な役割を与えられ、生き生きと描かれたことに驚いた。しかもこの3人が、カリカチュアとも言えるくらいに日本人の理想的なステレオタイプなのである。静かで、礼儀正しく、繊細で、細かな気配りをし、仕事の鬼でありながら、プライベートでは密かに文化的であり、それらの個性が、CossやCarmenを魅了し、またその他の人々も彼らの礼儀正しさに感染したかのようにお辞儀をすることを覚える。同様に、他の登場人物も、それぞれの国のステレオタイプ的な男性像を体現している。フランス人男性は料理にうるさく、妻の事ばかり夢見ているし、ロシア人は無骨でどう猛で情熱的、という風に。

音楽の美しさと文章が絡み合う雰囲気が何とも楽しい。その点では、Rose Tremainの"Music and Silence"を思い出す。言葉の通じない人々をつなぐのはMiss Cossの歌声。そして、多国語通訳のGenの才能である。音楽が偶然同じ場所でとらわれの身になった多国籍の人々を結びつけ、愛と学びのユートピアのようなコミュニティーを作り出す。無惨に壊される時が来ると予感されるだけに、一層夢のような世界である。

但、途中何も起きないところでは、多少中だるみし、退屈なページもかなりある。2002年のOrange Prizeの受賞作であり、既に一定の評価の確立している作品と思われる。山本やよいさんによる翻訳『ベル・カント』(早川書房、2003)も出ている。

自戒も込めて、現実の日本人男性も、少しでもGenやMr Hosokawaのように、静かで、礼儀正しく、教養豊かで、気配りの出来る優しい人間でありたいものだと思わせた。

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