2011/05/19

英語・英米文学の学会の英語化について

(Mixiで友人に読んで貰おうと思って書いた小文ですが、一般的な関心も引くかと思い転載します)


今年の9月始めに帰国するので、その後日本で開かれる学会で発表することを考えている。最初、その後の論文にも利用しやすいので、英語で発表しようかと考えていたが、どうしたものか迷っている。

原則的には、私は日本の英語・英米文学の学会での発表言語を出来るだけ多く英語にして、もっと海外の研究者の参加しやすいようにして欲しいと思っている。費用を出して招聘しない限り英米の研究者が日本にわざわざ来るとは思えないが、中国、韓国、台湾や、東南アジア、オセアニアなどの人にとっては英米に行くよりも費用が安いとか、時差が少ないなどの利便性がある。また、日本に語学の教師として来ている英米人の先生にも英米文学の大学院卒が多いが、彼らにとっても参加しやすくなる。また、そうして英語で発表し、(紙版も作るにしても)オンラインジャーナル形式の学会誌で(*備考)英語で発信すれば、必ずかなりの人が検索エンジンなどを通じて目にすることになる。海外のビブリオグラフィーにも載りやすく、ビブリオグラフィーに載った場合は、日本語論文では読まれないが、英語論文だと読まれる可能性も高くなる。日本で、日本語で研究発表し、日本語の論文を書くだけでは、どれだけの人がその論文を読むだろうか、価値ある論文であっても、全くその価値が誰にも知られないまま埋もれてしまうことが多いに違いない。

英語学、特に歴史的な英語研究の場合は、日本の研究者の業績はかなり知られており、日本でも国際学会も時々開催され、日本の研究者の海外での発表も多い。しかし、英米文学の場合、研究者数はまだかなりの数に上るにも関わらず、その活動は日本に限られがちである。地理、言語、大学制度や学期の違いなど色々な制約があり、日本の学会が国際化しにくいのは分かる。忙しい先生方にとっては、英語での発表や論文執筆など、手間のかかることをする余裕が無いかもしれない。しかし、英語・英米文学研究の全体として見れば、それを放置したままの状態で良いとは思えない。

但、いざ自分が学会発表をするに際し、英語でやるか、日本語でやるかと考えると、聞く側の人々がほとんど日本人であることを考えると、英語でやることをためらうのも確かだ。発表する側も聞く側も英語力が完全ではなく、しかも聴衆に日本人以外の人が皆無か、ほとんど居ない状態で、英語を使用して発表内容が十分に伝わらなくては馬鹿馬鹿しい気はする。私としては、学会のトップや、大会準備委員会において、基本方針として英語での発表を推奨する事を決め、海外からの研究者の応募も含め、学会の国際化を図る努力を見せて欲しい。でなければ、単独の発表者が英語で原稿を読んでも孤軍奮闘で虚しいだけである。結局、現在日本の学会で英語で発表する日本人の場合、海外の学会で発表するための予行演習的な場合が多いのではないかと思える。

日本の英語・英米文学の学会は、研究者人口が段々縮小している。学会も発表者が少なくなり、大会準備委員は苦労しているだろう。そういう面でも、日本人だけではなく、海外の研究者にも門戸を開き、発表を活気づけたい。海外の研究者も呼んで、学会を国際化するためには、日本英文学会などの大きな学会を活用するのが適当だ。一作家だけに限られた、研究会的な小さな学会では、英語化を進めるのは困難だろう。現在、日本の英米文学の学会は、小さな学会が多くなり、英文学会など大きな学会から、発表者を吸い取ってしまっていないだろうか。むしろ、人文の研究者が少なくなっている今、学会は、集約し、強化すべきであり、細分化し、研究会的にこじんまりまとまるのは、研究者の限られた資金や、時間を消耗することになると思う(**備考)。 英文学会などの大きな枠の中で、特定の作家や時代についての色々なパネルを組むほうが生産的だし、変わった意見が出たりして面白いんだが。 それでなくても、私自身も含め、今の英米文学の研究者は自分のやっている作家作品のことしか勉強しない傾向があるのではないか。せめて、出席する学会において、広い視野を持って関連する分野の発表も聞きたいものだし、その為には大きな学会は大切である。

というような理由で、聴衆の事を考えると日本語でやった方が良いかもしれないし、学会の英語化をして欲しいという個人的な思いもあり、迷っている。そうこうしているうちに、締め切りに遅れてしまい、元も子もなくなるかも知れないが。

*これは私が不満に思っているもうひとつの点。一日も早く学会誌をオンラインジャーナルでも出して欲しい。私の所属している学会では大分前にそういう提案は聞いているのだが、その後の動きが見えない。

** これは演劇など、日本社会の他の分野でも言えそうだが、「村」を作って棲み分けをし、競争を避ける日本人の習性の現れか。「私は(私達は)、この作家については詳しいです、でも他の事は専門ではないので分かりません」という事で安心しようとする気がする。

7 件のコメント:

  1. 興味深いですね。

    「村」というのは学会を意味しているのでしょうか?
    日本は、基本的に学会に所属しないと投稿も発表も出来ないので面倒ですね。
    あと、紹介状が必要な学会もありますし、年会費も馬鹿になりません・・・

    海外のように、オープンに誰でも投稿・発表出来ると良いと思っています。

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  2. Takaoさん、コメントありがとうございます。

    分野により様々と思いますが、人文系の文学や歴史学の場合、英米ではオープン参加の学会が多く、日本では会員のみというのが多いですね。但、英米でも会員のみという学会も沢山あります。日本の英語英米文学の学会では、一般の人や学部生を対象に当日会員制度がほぼ必ずあり、会費は500円程度ですから、聞くだけならオープンです。ただ、発表をするためには会員にならないといけません。英米の学会の場合、会費が高いのが困ります。日本の学会では、年会費5000円から8000円程度払えば費用はかかりませんが、イギリスの場合、一日出るだけで20ポンド以上かかる場合もあります。アメリカ中心の大きな学会の中には、ホテルなどで開催され、参加費が、会員にとってさえ無茶苦茶に高価だったりし、大学に所属し勤務先の補助金があることを前提にされていたりします。

    学会を開くのは費用と手間がかかりますから、年会費でそれを捻出するか、かなり高い参加費を取るか、政府や大学、民間企業等々のグラントなどでまかなうかですね。私は日本の人文の学会の会費は安く、お得だと思います。しかし、その代わり委員になっている先生は手弁当で、しばしば色々と持ち出しているので気の毒ですね。

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  3. Takaoさんの質問に対する答の捕捉です。「村」という言葉を例えとして使いましたが、小さくまとまって居心地良く棲み分けする傾向が日本人には色々な分野であると思います。外とのダイナミックな交流が少ない島国の生きる知恵でしょうか。例えば、演劇の場合でも、能や歌舞伎のような古典だけでなく、ネオ歌舞伎、商業演劇、新劇、新国劇、小劇場系等々が、それぞれの伝統と持ち分を守り、ファンを守って共存しています。常に古い枠をたたき壊し、新しいものを作ろうとする傾向が強いイギリスの演劇界とは対照的です。だからこそ伝統文化が残りますが、切磋琢磨して新しい独創的なものを想像するエネルギーでは見劣りするのではないでしょうか。

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  4. 確かに日本の学会運営は、手弁当な所がありますよね。
    私も学生時代、準備や手伝いにかり出されました。

    海外のジャーナルがどのように運営しているのか?よく分かりませんが、Eジャーナルが普及して、より多くの人が購読するようになれば、そこそこ利益が出るのではないかと思います。

    でも、それが教育・研究機関には大きな負担なんですよね・・・

    >新しいものを作ろうとする傾向が強いイギリス

    そうなんですか・・・
    イギリスが保守的で、日本は革新的なんだと思っていましたけど・・・

    それで思い出しましたが、DVDの価格。
    何でイギリスはあんなに安くて、日本はあんなに高いのでしょうかね。
    日本語訳が入るためか?特殊な販売ルートのために価格が高くなってしまうのか?

    日本もイギリスも同じ島国ですが、日本の人口は倍ですから、自分の既得権益を守り、お互い共存していくために、村を形成する傾向があるのでしょうかね。

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  5. はじめまして、いつも面白い記事ありがとうございます。
    非常に共感できるトピックだったので、はじめてコメントしてみます。

    国際的に情報にアクセスを容易にするというのも有意義ですが、研究分野が英語・英米文学という面で、もともとの研究対象で使われている言葉や文脈について意味を損なわず論文を構成するという面でも学術論文の英語化は良いことだと思います。

    私は研究者でもなんでもないただの英米文学が好きなアマチュアーなので、専門家の意見を知りたくて研究論文を参照したいときがたくさんあります。そういう理由でもオンラインジャーナル化もぜひやって欲しいと思ってます。

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  6. Takaoさん、

    英米のオンラインジャーナルは大学や研究機関が購読することで利益を出していると思います。従っておっしゃるように図書館には財政負担が大きいです。個人で購読されている方は少ないでしょう。但、マイナーな学会誌などは個人購読が主だったり、大学が補助をして無料だったりする場合もあります。(以上あくまで文学や歴史関係のことですが)。

    >イギリスが保守的で、日本は革新的

    これも私の関わっている分野に限ってのコメントでした。科学など他の分野では日本のほうが進取の気性がうかがえる場合も多いでしょうね。ただ、日本と違い、イギリスは言語の壁がありませんので、文学研究などでは北米などの大学の研究者と競争しますから、レベルが上がります。日本の場合は、言語の差が良くも悪しくも大きな壁です。

    Bookwormさま、

    初めてのコメント、ありがとうございます。

    ちょっと別の視点からも書きますと、日本の場合どういう言語を研究言語として使うかは、どの分野でも大変難しい問題です。西欧語が公用語化されている開発途上国などでは、英語や仏語だけがエリートや専門家の言語として使われることにより、国民の大多数が学術・文化情報から排除され、また自国語の文化、いや自国語の知的柔軟性が発達しない、という大きな問題があります。日本でも、仏文学者が仏語だけで、英文学者が英語だけで論文を書き、発表をし、翻訳などをやめてしまったら、日本の文化は大変貧しくなるでしょう。

    学部の学生の勉強にとっても日本語の論文や啓蒙書などの価値は大きいです。ただ、人文・社会科学分野で日本の研究をもっと海外に問い、学術交流がなされないといけないとは思います。Yoshi

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  7. ご意見ありがとうございます。そういう視点もあるんですね。それは大切だと思います。私も翻訳を全てやめて元の言語で議論しよう、とは思わないです。ただ、原文を損なわない努力と、文脈の理解のためにもっと積極的に元の言語を活用したらいいのでは?と思いました。

    確かに私は研究者ではないので論文でどうするべきかについてはあまり分からないですが、普通に小説や映画を見ているときに、それ英語でなんというのか知りたい、文化的な背景も知りたいと思うことも多々あります。翻訳は翻訳でよくて、日本語での議論も必要ですが、元の言語から離れて日本語だけ歩き回ることがかなり多いと感じていたのです。

    それから、新しい投稿も読みました。大変参考になります!これから興味のある論文など、探して読んでみます。

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