2011/12/18

『みんな我が子』(新国立劇場、2011.12.17)

今の日本にも通じる傑作
『みんな我が子』 

新国立劇場公演
観劇日:2011.12.17    14:00-16:25
劇場:新国立劇場 小劇場

演出:ダニエル・カトナー  Daniel Kutner
原作:アーサー・ミラー Arthur Miller
翻訳:伊藤美代子
美術:堀尾幸男
照明:笠原俊幸
音響:長野朋美
衣裳:宮本宣子

出演:
ジョー・ケラー:長塚京三
ケイト・ケラー:麻実れい
クリス・ケラー:田島優成
アン・ディーヴァー:朝海ひかる
ジョージ・ディーヴァー:柄本佑
ドクター・ジム・ベイリス:隆大介
スー・ベイリス:山下容莉枝
フランク・リュピイ:加治将樹
リディア・リュピイ:浜崎茜

☆☆☆ ☆/ 5

久しぶりの観劇であったが、素晴らしい演目と、芸達者達の演技で、大変満足して劇場を後にした。アーサー・ミラーの3つの傑作(『セールスマンの死』、『坩堝』、そしてこの作品)は、多少演技や演出にばらつきはあっても、はずれのない説得力を見せる名作だ。今回は、主演の夫婦を演じた2人は素晴らしい存在感で、失望する訳もない。また、クリス役の田島優成、スー・ベイリスの山下容莉枝が、特に説得力を感じさせた。朝海ひかる、私ははじめて見たと思う。可愛いし、素敵な女優で、爽やかなんだけど、どうしても宝塚の人は、あの作りものの、うわずったような宝塚色が抜けない。他の人なら、とつい考えてしまった。

私はウエスト・エンドとナショナル・シアター(コテスロー)で2つのHoward Davis版を見てしまったので、それと比べてしまうのはどうしようもない。ナショナルでの公演は随分前でもう忘れてしまったが、去年の夏に見たウエストエンドでのデビッド・スーシェ、ゾーイ・ワナメーカー、ジェミナ・ルーパー等の演技は、健忘症の私でもまだ記憶に新しい。欧米人同士であるイギリス人が原文のテキストでやるのと、全く異文化の日本人が、異質の言語である日本語に翻訳されたテキストでやるのでは、基本的なところで違うのは仕方ない。翻訳も、しばしば人工的な台詞が気になった。長塚京三のジョー・ケラーは、スマートすぎ、線が細い。アメリカの田舎町の中小企業のオヤジである。ずる賢く、ふてぶてしい男なんだが、長塚版だと、繊細で都会的に見えてしまう。ケイトも、麻実れいはあか抜けすぎ、町工場の社長の奥様には見えない。とまあ、ケチを付けると少しの不満はあるのだが、それは日本での公演であるから言っても仕方ないこと。

セットも明るくてスマートすぎる印象を受けた。演技が見やすい、明るいセットだが、劇の内容は非常に重苦しいので、いまひとつそぐわないと感じた。逆に明暗のコントラストを感じさせる、という意見もあるだろうが。

目先のビジネスとか、組織の中や地域の評判に捕らわれて、「何とかなるだろう」と道徳的な問題に目をつむり、それが人命に関わる大事件になる。更に、そこで小人根性になって自分の誤りを認められず、嘘を嘘で塗り固め、自己正当化を図り袋小路に陥る・・・、と考えること、この劇と同じような事は、福島の原発事故に関して、(朝日新聞の連載「プロメテウスの罠」で報じられているように)色々な組織で繰り返し見られたことではないだろうか。しかも、日本の役所や企業の場合、ジョー・ケラーのような人で、そのまま嘘の上塗りをして最後までごまかし続け、ケラーのように「会社とは(役所とは/政治とは)そんなものだ」とうそぶいて人生を終える場合が多いのではないか。個人の倫理観が弱く、組織の力が圧倒的に強い日本でこそ、一層説得力を感じる劇かも知れない。

粗筋をお知りになりたい方は、ウエストエンドで見た時のブログ・エントリーをご覧下さい。

2011/11/20

「プロメテウスの罠」(11/20)を読んで

11月20日の朝日新聞朝刊連載記事、「プロメテウスの罠」を読んだ。気象庁気象研究所の有志が地震の後も放射線の測定を続けようとしたが、3月31日に上からストップがかり、予算が出なくなった。仕方なく、予算無しで観測を続けたが、消耗品は「他の大学や研究機関の研究者がこっそり分けてくれた」。これを、この連載で朝日新聞が書いたところ、文科省原子力安全課、防災環境対策室の役人が気象庁や朝日の記者に、どこの大学や研究機関が消耗品を分けたか問い合わせてきたそうだ。というのは、消耗品がよそに分けるほど余っているのなら、その予算は返して貰わなければならないから、だそうである。

記事の筆者、中山由美氏いわく、「半世紀以上も続いてきた観測が途絶えることには興味を示さず、継続のために研究者が融通し合った消耗品の行く方には敏感に反応する。気にかかるのは財務省の意向らしい。」 しかし、中山が問い合わせたところ、財務省の担当主査からは「予算執行はそれぞれ責任もってやることでしょ」という返事だったとのこと。

消耗品の金額、おそらく何千円の単位だろうか。

そもそも、福島原発の大事故で、周辺住民が命の危険があるかも知れないという時、そして、東北、関東の広域が深刻な汚染と健康被害、更にそれに伴う風評被害の危険にさらされたその大事な時に、気象庁はその時最も必要とされており、半世紀続けられてきた放射能の観測を突如ストップさせた。そして今、文科省の役人は、ボランティアで観測を続けようとした研究者やその協力者に対し、更にこうして嫌がらせとしか思えない行為をしている。科学的な知識を持たない私から見れば、狂気の沙汰としか思えない。

公務員が皆こうだとは言えない。しかし、知人から聞きかじったりすると、やはり公務員の世界では、もの凄い非常識がかなりまかり通っているとの疑いを持たざるを得ない。

この連載、毎朝楽しみだ。大震災の時に津波から隣人を助けるために自分も命を落とした人が沢山いた一方、原発事故のデータを握りつぶした役人や組織もあったのは、日本人の良い面、悪い面をあぶり出した。かなりの数の日本人にとっては、民間であろうと官であろうと、上の命令に逆らい、周囲の反発を覚悟しても大胆な行動や発言をするのは、命の危険を冒すより苦しいことなのかもしれない。

2011/11/10

マスコミによる福島の被災地取材(稲塚監督のブログから)

二重被爆者のドキュメンタリー映画、『二重被爆〜語り部 山口彊の遺言』を撮られた稲塚監督が、福島の被災地の撮影を続けておられ、その様子をブログに書いておられる。その中で11月6日の記事の一部を引用させていただきたい。これは彼が南相馬市の原町教会とそこの朴牧師を取材された時の様子である。朴牧師はマスコミの取材にかなりお怒りのようであったそうだ(以下引用):
これまでテレビと新聞、雑誌の取材に応じてきて、取材される側としての憤懣やるかたない様子だった。
まずお話を伺ったところ、最もだった。
私の取材方法が特別ではないが、最近のメディア取材は、あらかじめ決めた結論に導きたがり、その方向のコメントが取れないと、露骨に嫌な顔をするらしい。
また無理な質問を平気でする。
南相馬市で、一般の方に「今後の展望は?」と聞く。
何を取材に来ているのだろうか?展望がない日々をすごす辛さを分かち合わないといけない。今日で5月以降フクシマに来たのは23日目である。
えらそうなことはいえないが、取材する皆さんの言葉をきちんと聞き、向き合い、寄り添えないと思ったら、取材を止めて帰った方がましだと思う。
「クローズアップ現代」の取材班の皆さん、心当たりはありませんか?
ドキュメンタリーの世界で辛苦をなめて生きてこられた稲塚監督の言葉は重い。NHKの人は彼のブログを読んだだろうか。BBCなどのイギリスの記者と比べつつ日本のテレビの記者のインタビューを見ていると、一般人にはずけずけとものを言うが、大物政治家や財界人にはとても低姿勢という印象を持つ。

2011/11/05

ノルマン方言とアングロ・ノルマン方言/中世イングランドの仏語使用

caminさんのブログに書いたコメント(前回のエントリー)に関して、早速返事をいただきました。caminさんは、「アングロ・ノルマン方言とは私の認識では・・・イングランド宮廷および大陸のノルマンディー地方で広く用いられた方言です」と書いておられます。また、こうもありました:

>アングロ・ノルマン方言とノルマンディ方言を区別する考え方は、
>少なくとも私がこれまで参照したことのあるフランス語史や
>古仏語文法の本ではあまり一般的ではないように思います。

そうならば私の認識不足でした。アングロ・ノルマンというからには、しっかりした方言特徴があり、やはり使用されたのはイングランド中心であろう、と思っていましたから。ということで、もう一回caminさんのブログにコメントを寄せました。それを、不要な挨拶などを除き、以下に転載しておきます。

(以下はcaminさんのブログへの私のコメントです。引用はcaminさんの文章から)

>もしかするとYoshiさんはアングロ・ノルマン方言をイングランド人、すなわち
>英語を母語とする話者が使っていたフランス語方言だと捉えておられるので
>しょうか? 

私も、アングロ・ノルマン使用者が必ずしも英語を第一言語としていたとは思っておりません。イングランドでも仏語環境で育ち、仏語を第一言語にした人がいたでしょう。また、方言特徴と書かれたり話されたりした土地が一致する、とも単純に思っていませんが、重要な指標ではあるとは思いました。ただ私自身が原語が読めないに等しいので、アングロ・ノルマンとノルマン方言が形態上ほとんど変わりなく、そして地理的にもノルマンディーからイングランドに至る広い地域で変わりなく使われていたとは、不勉強にてまったく知りませんでした。そうしますと、『アダム劇』の書かれた場所は、おそらく、そうした広い地域のどこかということになりますね。前のコメントで引用したAxtonとStevensの意見、つまりノルマンか、アングロ・ノルマンかを分ける議論をしても価値はないだろう、というのが正しいのでしょうね。

イングランドにおける仏語のひろがりについては、私は生半可な印象しか言えません。最近、英米では大きな研究テーマとして、多数の学者がイングランドの仏語使用について研究しているようで、York大学でも北米の大学と協力したプロジェクトが立ち上げられていました。今後私も少しは文献を読んでみたいテーマです。どういう視点から見るかにより仏語使用の広がりも大きく違うと思います。人口全体、ジェントリー、貴族、宮廷、等々。そして、宮廷だけをとっても、そこにいる人達は様々です。王侯貴族本人達は仏語が自由に出来る人がほとんどでしょうが、中世イングランドの貴族(aristocrats)は中世においては確か多い時で70家族くらいで、非常に数少ないとも言えます。彼らに仕えるまわりの人々についてはどうでしょうか・・・。前のコメントで書いたPaul Aebischerの序文からも分かるように、英米の学者や私達英文学をやっている者は、ついつい英語を優先して考えてしまい、イングランドにおけるフランス語の重要性を割り引いてしまう危険性があるかもしれません。

>英語がマジョリティであるならばわざわざアングロ・ノルマン方言の
>テクストを用意する意味が私にはよくわからない・・・

以前私のブログに書いたチョーサーの女子修道院長の例でも分かりますように、修道院でもかなり仏語が使われたようです。日常会話などで使われた言語がどうだったのか、これは私は寡聞にして知りません。イングランドで12、13世紀に書かれた文献は主にラテン語、そして一部フランス語と英語ですが、英語は特に12、13世紀にはめぼしいものは少なかったと思います。というのは、そもそも英語は書き言葉としては認められていなかったからです。「書く」という行為は、即ちラテン語で書くことを意味しました。当時のイングランド人にとっての識字能力は、ラテン語を読む能力です。これはフランスにおける仏語も同様ではありませんか。英語で書くのは、むしろ特殊な行為であったわけです。丁度、日本において、和語でちゃんとした文書や文学を書くことが考えられなかった時代があったようなものでしょう。チョーサーやガワーが英語で洗練された文学を書こうとしたのは、日本で言うと紀貫之が和語を使用したり、二葉亭四迷の言文一致のような、当時のイングランドの文人としては目新しい事だったと考えられています。ラテン語をそのまま朗読しても分からない人が多く、また英語で書くことは卑しいと考えられていたとすると、ある程度話し言葉としても使われていたフランス語で物語や説教文学を書き残すことがされたのではないかと思います。また英語に比べ、フランス語は上流階級の、より格式の高い言葉であるという認識は広くあったようです。

とは言え、イングランドの仏語使用について、こうして考えてみるとしっかりとした裏付けのない印象論しかなくて、私の知らないことばかりですし、具体的に専門家の意見を挙げることも出来ません。中世イングランドの識字について論じている学者の本を読んだことはありますが(Nicholas Orme, Michael Clanchyなど)、そうした著名な専門家も具体的な想定の数字を挙げられず、エピソード的な事例の積み重ねです。更に、議論はラテン語か英語かで、フランス語が視野に入ることは少ないです。もっと最近の、フランス語使用に絞った専門研究を捜してみないといけませんね。

(以上、コメント終わり)

ということで、私の知識不足のようですね。中世劇では英語にフランス語が混じる台詞もあるので、私にはとても興味を引かれる分野です。専門家のcaminさんに教えていただき、参考になりました。語学力の限界は超えようがないですが、これからも出来る範囲で勉強したいと思います。

方言特徴について考えると、『ベーオウルフ』のことが思い出されます。あの作品は、ほとんどがイングランド南部で使われ、残存する古英語作品の事実上の標準語であるウェセックス方言によって書かれています。しかし、その一部に中部で使われたアングリア方言が混じっているため、元来は中部以北で書かれ、その後ウェッセクス方言に書き直されて残ったということになっていたと思います。しかし、写本のわずかな方言特徴以外に中部であることを示す材料が他にあるのでしょうか。但、写本にアングリア方言が混じってくる為には、元来アングリアで書かれたという理由以外に説明がつきにくいのかも知れませんね。

なお、『アダム劇』に関しては、また別の文献も参照したので、改めてもう少し付け加えたいと思っています。

2011/11/03

『アダム劇』の制作はどこか/中世イングランドの仏語

caminさんのブログ、「フランス中世演劇史のまとめ」に私が付けたコメントを多少修正した上で備忘録としてここにも残しておきます。今回もアングロ・ノルマン(中世フランス語の方言でイングランドで話されていたとされるもの)の劇、『アダム劇』について。

ノルマンディー等、大陸におけるアングロ・ノルマン方言の使用については、私は何も知りませんが、caminさんのおっしゃるとおり、イングランドから戻ってきた写字生がアングロ・ノルマンの方言特徴を持った写本を書いた可能性もあるのだろうと思いました。また写本が残っているのもフランスだそうです。例えばFrancian(パリ付近の方言)で書かれ演じられた劇でも写字生がアングロ・ノルマンの人なら写本はアングロ・ノルマンになることさえあるでしょうから。

ちなみに『アダム劇』がどこで書かれたかについては、どうもこの名作の取り合いの様相もあるようです。英語圏やドイツの学者はアングロ・ノルマンと言い、フランスの学者はノルマンと言っている、とPaul Aebischerは彼のテキスト("Le Mystère d'Adam", TLF, 1964)の序文で書いていました(pp. 18-19)。実際、彼によるとこのテキストでアングロ・ノルマンの方言特徴を示す語は非常に少ないようです。Grace Frank(1954)は、'the author, according to most authorities, was an Anglo-Norman'(p. 76)としています。英訳を出しているRichard AxtonとJohn Stevensによると、'Recent scholars have not yet decided whether the author of "Adam" was Norman or Anglo-Norman; the distinction is perhaps not a valid one to make.' ("Medieval French Plays" [1971], p. xii)。David Bevingtonは彼のアンソロジーの序文で、'quite possibly produced in England'と書いています("Medieval Drama" [1975] p. 78)。皆古い本ばかりなので、最近の見方は分かりませんが。

なお、同じく、ほぼ同時代のアングロ・ノルマン劇、"La Seinte Resureccion"の方は、方言特徴に加え、現存する2つの写本のうち1つはカンタベリーのChrist Church Monastery(カンタベリー大聖堂のこと)で制作されたようだとBevington (p. 122)は書いていて、その写本はイギリスに残っていたようです(今は大英図書館です)。

「アングロ・ノルマン方言の台詞は、アングロ・ノルマンを理解できる人のために書かれたものなので、上演者および聴衆にとって台詞が「外国語」であった、とは考えにくい・・・」(caminさんのブログからの引用)

この点は白か黒かをはっきり分けるのは大変難しいと思います。中世においてもイングランドの圧倒的多数の人々は、フランス語を外国語として学びました。それでも、プランタジネット家の宮廷であればフランス語が第一言語であった人もかなり混じっていたと思われますが、修道院などでは、フランス語は苦労して学ばれ、不完全に使われた「外国語」でしょう。フランス語の使用状況は、宮廷や修道院などでも、分かる人、分からない人、いくらか分かる人などが入り交じった状態であったと思います。勿論、ほとんどの平民はフランス語を使えませんし、フランスにも領地を持つことの多い大貴族とその家族は例外として、時期にもよりますが聖職者や騎士の大多数も仏語は使えなかったか、かなり不完全な使用であったと思います。貴族にしても、彼らが日常的に接する召使いや彼らを育てる乳母、その他の用人のほとんどは英語しかできなかったでしょうし、家族の間では英語を使う人が多かったでしょう。フランス語の訛りのこととか、フランス語でなかなか話が通じないことなどをしるした当時の文章も散見されます。

(私がcaminさんのブログにつけたコメントは以上)

中世イングランドの多言語状況は私にとっても大変興味あるトピックなので、今後も色々と勉強してみたいと思っています。関心のある方、コメントをいただけると幸いです。なお、『アダム劇』については、過去の投稿も見ていただけると幸いです。

2011/10/17

アングロ・ノルマンの『アダム劇』についてのノート

フランス文学研究者caminさんのブログ、「フランス中世演劇史のまとめ」で、12世紀のアングロ・ノルマン劇、『アダム劇』("Ordo Repraesentationis Adae")の項につけた私のコメントを、自分のための備忘録としてまとめてみました。なお、アングロ・ノルマン方言とは、イギリスで使われた中世のフランス語方言です。『アダム劇』はこのフランス語による12世紀の宗教劇で、聖書の物語、特にアダムの楽園追放などの創世記のことが詳しく描かれています。非常にリアリスティックな心理描写、現代劇のように詳しいト書きに特徴があり、中世西欧演劇の中でも出色の傑作と言えます。エーリヒ・アウエルバッハの名著『ミメーシス』でも詳しく取り上げられています。

(以下はコメントから)

英文学では、悪魔の心理をこの劇でのように細かく書いたのは、中世末の聖史劇でも例がなく、おそらくこの次はミルトンの『失楽園』でしょう。そのくらい時代を先取りしていると思います。また、これほどの精緻さはないのですが、アングロ・サクソン時代の古英語詩、"Genesis B"もやはりミルトン的な悪魔を描いています。"Genesis B"、『アダム劇』、そしてミルトンの間に何らかの関連、影響関係などがあるとすると面白いですが・・・。ミルトンの時代にはアングロ・サクソン文学の研究をする国学者や好古家もいましたので、ミルトンが"Genesis B"について何か知っていた可能性が皆無とは言えないとは思いますが・・・。

この劇のテキストはアングロ・ノルマン方言で書かれています。従って、イングランド文学の一部として、中世英文学のアンソロジーに英訳を入れた学者もいます(D W Robertson Jr., ed., "The Literature of Medieval England" [1970] )。ただ、写本だけがイングランドで作られ残されたけれど、もともとの上演はFrancian(パリ付近のフランス語方言)など他の地域でなされた可能性もありますが。ただ、『アダム劇』と並び称される"La Seinte Resureccion"(『聖なる復活』)もアングロ・ノルマン方言の作品であり、この時代のイングランド教会において、高度に発展したフランス語の演劇文化が目覚めていた可能性は否定できません。caminさんが指摘されているような精密なト書き、そしてそのト書きに見て取れる言葉に対する懸念の一部も、若い修道士とか教会学校の子供達と言った、考えられる上演者にとって台詞が外国語であったかもしれないと考えると幾らかは納得がいきます。

イングランドでなされた劇であれば、仏語文学自体が孤立しており、継続的な伝統を形成し得なかったとも言えます。ロマンスや叙事詩に比べ、演劇は写本の伝播によって伝わる確立がずっと低いので、他の仏語地域に写本として広まらなかったのではないかと思えます。一方、同時代のアングロ・ノルマン作品、マリ・ド・フランスの『レ』は、広く読まれたようで、模倣した作品が現れるなどの影響が出ていますね。

『アダム劇』がイングランドでの作品とすると、イングランドでは大陸と比べ典礼劇の写本が少なくて、典礼劇がそれ程行われなかった可能性も高い、ということと、『アダム劇』の後継が現れなかったことの間に、何らかの関係があるかも知れません。まあ、全てはこの劇に関する私の知識不足に起因する勝手な推測ですが・・・。

なおイングランドでは、15世紀の写本でShrewsbury Fragmentsという典礼劇(とも解釈されます)の断片が残っています。これは英語半分、ラテン語半分です。 (caminさんのブログへのコメントはここまで)

アングロ・ノルマンとは言え、仏語劇であり、私も参考書もほとんど持っておらず、暗い分野ですので、読者からの訂正など、色々とお教えいただけると幸いです。

2011/10/10

典礼劇の観衆:'The Fleury playbook'より

前のポストで書いたように、ラテン典礼劇、特に、「聖墓訪問の劇」(Visitatio Sepulchriとか、 Quem Quaeritis playsなどと呼ばれ、イースターに行われたとされる典礼劇)の観衆は一体誰であったのか、興味深い点である。聖職者(修道士など)だけか、他の教会関係者(例えば使用人とか、付属学校のの生徒)も含むか、あるいは広く周辺の町の一般の信徒も見ているのか、分かりにくい。先日、大学図書館に行った折、英語の劇について論文集を捜していると、Dumbar H. Ogdenという学者がこれについて書いている1994年の論文にたまたま出会った(末尾参照)。彼の論文の冒頭に書かれている事を念頭に置いて、David Bevington編のアンソロジー、"Medieval Drama"に収められている、"Fleury playbook"*の「聖墓訪問の劇」のひとつ、Ad Faciendam Similitudinem Dominici Sepulcriを点検した。劇の中で、観衆について興味深い箇所をメモしておく。

この「聖墓訪問の劇」ではキリストが死後、墓所から消えており、墓参りに来たマリア達が驚いて他の者に知らせ、そしてマリア達はその後、復活したキリストと再会する。そこで、庭師(hortulanus)の姿をしたキリストはマリア達に声をかけて言う。以下の引用はラテン語(カッコ内はBevington版についている英訳):

Noli me tangere, nondum enim ascendi ad Patrem meum, et Patrem vestrum, Deum meum, et Deum vestrum.
(Do not touch me, for I have not ascended to my Father, and to your Father, my God, and your God.)

Sic discedat hortulanus. Maria vero conversa ad populum dicat:
(Thus let the gardener [i.e., Christ] depart. But let Mary [Magdalen] say, turn towards the people.)

Congratulamini mihi omnes qui diligitis Dominum, quia quem quaerebam ap[p]aruit mihi, et dum flerem ad monumentum, vidi Dominum meum, alleluia.
(Congratulate me, all you who love the Lord, because he whom I sought has appeared to me, and weeping at the tomb, I saw my Lord, alleluia.)

上記引用文のイタリック部分はト書きであるが、ここで、マグダラのマリアは、'populum' (people)に向かって話しかけている、とある。

この後天使が墓の扉の所に現れてキリストの再生を告げ、「悲しい表情を捨ててこの事を他の者達に告げよ」、と言う(Vultum tristem iam mutate; / Jhesum vivum nunciate)。マリア達は墓から立ち去り、人々に話しかける:

Tunc mulieres discendentes a sepulcro dicant ad plebem:
(Then let the women departing from the sepulchre say to the people:)

Surrexit Dominus de sepulcro, qui pro nobis perpendit in ligno, alleluia.
(The Lord has risen from the sepulchre, who for us hung on the cross, alleluia.)

Hoc facto, espandano sindonem, dicentes ad plebem:
(This done, let them spread out the shroud, saying to the people:)

Cernite, vos socii, sunt corpolis ista beati
Lintea, quae vacuo jacuere relicta sepulcro.
(Behold you companions, here is the shroud of the blessed body
Which lay abandoned in the empty tomb.)

ここではマリア達が2度、'plebem < plebs'(people, plebeians, populace)に呼びかけている。この劇における'populum'や'plebem'は単に劇の役の上での「人々」であり、彼らが教会の外から劇を見にやって来た平信徒を表すとは断定できないと考えることも出来る。しかし、一方で、この劇が教会の外の人々にも開かれていたとしたら、マリアを演じる聖職者達が、劇中の場所と時間から一歩外に踏み出して、劇を見ている観衆である平信徒達に向けて、イエスの復活の喜ばしい知らせを告げていると考えれば、教育的な宗教劇としてこれほど効果的な場面はない。加えて、これはまさに復活祭の朝課(matins)の終わりに上演されているのである。聖職者達が、古代エルサレムにおけるキリストの復活を祝うパフォーマンス(あるいは儀式)に会衆を巻き込み、会衆がエルサレムの町の人々に重ねられることで、永久の神の真実が今この瞬間によみがえる。時と場所を越えて、教会という閉ざされたステージが、世界を象徴する瞬間とも言えよう。

今回のポストは、冒頭に書いているように、次の論文に多くを負うている。

Dunbar H. Ogden, 'The Visitatio Sepulchri: Public Enactment and Hidden Rite', The Early Drama, Art and Music Review, 16 (1994) pp. 95-102; reprinted in Clifford Davidson, ed., The Dramatic Tradition of the Middle Ages (New York: AMS Press, 2004), pp. 28-35.

この論文では、その他、イングランドと大陸の幾つかの典礼劇を検討し、教会・修道院の性格や建物の構造により、典礼劇の上演が平信徒の観衆に開かれたものもあれば、そうではなく、聖職者だけの閉ざされた上演もあったと、説得力を持って論じている。

テキストの引用文は、次のアンソロジーのpp. 43-44から取っている:

David Bevington, ed., Medieval Drama (Boston: Houghton Mifflin, 1975)

* 'The Fleury playbook'は、中世ラテン典礼劇を多く収めた重要な写本であるが、フランスの中央部、ロワレ県(Loiret)にあるベネディクト会修道院、St-Benoit-sur-Loire (Fleury Abbey)において書かれたと考えられている(但、Bevingtonによると、1552年以前に遡ってこのコネクションを証明する証拠はないようである)。この修道院は西ヨーロッパでも最も重要なベネディクト会修道院だそうである。このplaybookについては、Wikipedia仏語版に独立した解説がある


なお、Fleuryの修道院については、Wikipediaの英語版、または仏語版(英語版より詳しい)。

(追記)最初にこのポストを書いた時、「観客」という近代的な言葉を使っていたが、典礼劇の場合、あくまで「劇を見たり聞いたりした人々」の意味であり、「客」とは言えない。劇が儀式でもあるなら尚更であり、彼らは遠くから「のぞき見る者」、あるいは儀式に「参列した会衆」であろう。英語の'audience'なら構わないのだが。強いて言えば「観衆」か「聴衆」のほうが良さそうだ。ちなみに、教会周辺の村や町から来た平信徒の場合、劇はあまりよく見えなくても、作品によっては、彼らの入れない内陣や地下聖堂(cript)からもれ聞こえる修道士の歌声に耳をすませている「聴衆」も多かったかもしれない。現代の大劇場で、遠く離れた天井桟敷の安い席からオペラを聴くつつましい観客のように。おそらく儀式性の強い(しばしば初期の)典礼劇では、平信徒は、謂わば傍観者としてそれを見せて(あるいは、単に遠くから聞かせて)貰ったに過ぎないだろう。しかし、そうした信徒の興味に促され、聖職者達は、この儀式が信徒に神の神秘を教える役に立つことに気づいただろう。そこで、修道院によっては、典礼劇が平信徒の観衆を意識して、時には教育的な意図を持って書かれるに至ったのではなかろうか。

2011/10/09

典礼劇の観衆についての推論

先日書いた記事の続きとして、典礼劇の観衆についてもメモ程度のことを書いておきたい。Caminさん(片山幹生さん)のブログ、「中世フランス演劇史のまとめ」に書かせていただいたコメントを修正したり、書き加えたりした部分が多いことをお断りしておく。

基本的に典礼劇の多くは儀式の形を保っており、実際、復活祭に行われる「聖墓訪問の劇」(Visitatio Sepulcri, Quem Quaeritis plays)は当日の一連のお務めの一端として行われたと思われる。従って、典礼劇の主体は、演技をする人々(あるいは儀式を執り行う人々)も、見ている人々も、教会(修道院)の聖職者、及び使用人等の教会関係者であり、広く平信徒に見せるのが主眼ではないだろう。Caminさんは、典礼劇は基本的に聖職者が聖職者のために執り行ったと考えておられるようだ。これは、あくまでどこを強調するか、という問題だが、私は、観衆としての一般信徒の重要性をもっと考慮して良いと思う。そこで、私は、次のようなコメントをCaminさんのブログにつけた:

教会や修道院にはたくさんの下働きの人達がいました。教会学校もあり、かならずしも聖職者にはならない少年達も出入りしていたと思います。修道院は宿泊施設として貴族などにも使われたでしょう。更に10世紀くらいまでは、少なくともイングランドでは、教区教会そのものが大変少なく、教区も整備されていなかったと思われるようなので、各地の修道院(ミンスター)が地域の宗教の拠点であり、平信徒を指導したと考えられるようです。アイルランドなどのケルト教会ではその傾向は一層強かったようです。また、多くの修道院は大貴族などの寄進による設立で、貴族の私設教会的な意味もあったと思うので、そういうパトロンに典礼劇を見せた可能性もあります。平信徒の入れない内陣で演じられたとしても、町や村の人達が隔壁の間からそれを鑑賞したということもあり得ないでしょうか。いずれにせよ、私にとっては、典礼劇の観衆を理解するためには、当時の修道院と地域社会の関係も勉強してみなければならないという気がしました。 

12世紀以降の『ダニエル劇』とか、アングロ・ノルマンの劇などの場合は、"Quem Quaeritis"劇とは異次元の作品で、昔、一読した印象では、その規模の大きさとか、近代語使用から、地域社会との結びつき無しとはとても思えませんでした。

以上のコメントの中でも、特に私は、中世のベネディクト会などの修道会、カテドラル・チャプター(聖堂参事会)の多くが、現代の私達が考えるような、世俗を捨てた人々の隔絶されたスペースばかりではなく、地域社会と一体化した、人的交流の多いスペースであったことを考慮する必要があると思っている。特に大修道院やカテドラルの身廊(nave)と建物のまわりの構内(precinct)は、ほとんど街角の一部と言える様相を呈しているところもあり、例えばカンタベリーとかセント・ポールの身廊は、平時は色々な用事や、観光も兼ねた巡礼やお参りで訪れる人でごった返していたことだろう。商談や待ち合わせに利用する人もいたのではないか。実際、身廊の中ではないにしても、セント・ポール前の階段は、弁護士がクライアントを捜す決まった場所としてチョーサーでも言及されているし、構内では行商をする人々もいただろう。そういう賑やかな場所であったから、教会周辺での売春婦の客引きに対する不満をどこかで読んだ覚えもある。教会前の広場では雄牛虐めなどの残虐な見せ物が行われることもあった*。更に修道会が世俗の芸人(ミンストレル)を娯楽のために招き入れて芸を披露させることさえある。そのような、世俗との色々なレベルの交流が盛んな多くの修道院やカテドラルにおける典礼劇は、教会に集まる平信徒への教化・啓蒙も目的の一部として上演された可能性が高いように思う。

一方で、修道会の中には、非常に規律が厳しく、閉鎖性の高い修道会もあり、そういうところでは、あくまで、仲間の修道士の間での神をたたえる儀式の一端としての典礼劇であり、世俗の人々は意識されていないだろう。

このように、典礼劇の観衆や、目的には、世俗の観客にも見せることを目的とした場合から、まったくそうでないものまで様々のスペクトラムがあったのではないか、というのが、私の今のところの主観的な感想である。修道会のあり方に大変なバラエティーがあったようであるから、典礼劇にも大きな差があったと思う。個別の典礼劇の上演を、そのテキストに加え、分かるものについては上演された修道院の記録を踏まえた上で検討し、そうした個別研究を総合して始めて、典礼劇の観衆についての像が結びそうである。

以上、ちゃんと勉強していないので、根拠に乏しい推測であるから鵜呑みにしないで欲しい。今後暇を見てもう少し調べることが出来たら、このトピックについてまた書きたいと思っている。

*カンタベリー大聖堂前の広場Butter-marketは、かってBullstakeと呼ばれていた。以前に書いたこのブログ・エントリーを参照

2011/10/05

典礼劇の行われた場所は?

9月30日のポストで触れた片山幹生先生のブログ「フランス中世演劇史のまとめ」のポストをひとつずつ読んでいるが、大変勉強になる。今のところラテン典礼劇について書かれているが、私は20歳代前半に典礼劇を少し読んだだけで、その後は新しい知識を仕入れてないので、素人も同然だ(従って、この後の文に間違いもあると思うので、コメント欄でご教示願いたい)。これらの劇はラテン語で書かれているので、狭い意味での英文学(English Literature)とは言えない。しかし、イングランドで書かれたり上演されたものについては、イングランドの文学(Literature of Medieval England)の一部であると言える。更に、演劇史の一環としては、中世演劇の始まりであり、大変重要なジャンルだから、近代語の中世劇を学んでいる者にとっても、いや西欧の演劇史を学ぶ者はある程度知っておかないといけない。

片山さん(と呼ばせていただきます)は、典礼劇の観衆や上演場所、言語について比較的詳しく解説されていて、学んだり考えさせられたりする点が多い。

典礼劇は10世紀に始まり、11-13世紀頃に最盛期であったと思われる。Chuch Dramaなんて言われたりするが、上演場所は、実際は修道会所属の大修道院やカテドラルがほとんどだろう。例外的な場合はあるかもしれないが、小さな教区教会などで一般の信徒によって行われたとは思えない。というのは、これはラテン語であり、また、劇の多くはそれなりの準備とか(大きな道具類とかセットを必要とする大規模な作品もある)、知識を要するだろうから。基本的には聖職者集団が、神をたたえる儀式の一環として上演した、という性格だろう。

片山さんは、このポストで、最初の「聖墓訪問の劇」(Visitatio Sepulcri / Quem Quaeritis plays)のような典礼劇は、基本的に一般信徒が入れない奥の内陣(chacel)で行われていて、彼らが入れる身廊(nave、教会の入り口から内陣の前まで)は使われなかったのではないか、という可能性を示唆しておられる。学者の意見も分かれる点のようで、興味深い。

カテドラル建築の一例として、カンタベリー大聖堂の例を挙げてみたい(このポスト末尾の写真も参照)。内陣と身廊の間にはスクリーン(screen)などと呼ばれる壁や仕切りがある。カンタベリー大聖堂では、もの凄く大きな門のようなものである。その門を通して中を「のぞき見る」ことは可能であるが、それほど多くの人が出来るわけではない。更に、スクリーンの手前は階段になっており、数段のステップがあるので、のぞき見る人もそう多くはないと思われる。観劇に適したスペースとは言えず、あくまでのぞき見る感じだろう。

そのスクリーンをくぐって内陣に入ると、そこは「教会の中の教会」のようなスペースである。入ったところは両側に階段状のベンチが3列程度しつらえてあり、まるで左右2面からステージを挟む小劇場のようになっている。ここが聖歌隊席(choir, quire)である。中央の廊下状になったスペースはかなり狭い(2〜3メートル)が、しかし、簡単な演劇を上演するには適したスペースではある。内陣を更に奥に行くと、今は木の椅子が置いてある割合広いスペースがあり、その向こうには6段程度の階段があって更に一段高くなっており、そして祭壇(altar)が置かれている。この祭壇前、階段下のスペースも上演に利用できそうである。

片山さんは疑問を呈しておられるが、彼のあげておられる学者のベルナール・フェーブル*によると(以下は片山さんのブログの引用)、
フェーブルは「聖墓訪問」の劇が教会の広大な内部空間をダイナミックに使って上演されたと記述している。彼は典礼劇の専門家ではないので、この部分の記述については文章中で挙げられている他、カール・ヤングやギュスタヴ・コエンなどによる先行研究に参照したに違いない。三人の聖女は教会の東にある内陣から、平信徒が座る身廊を通過し、教会の入口のそばの西側の部分に至る広大な空間を移動したとある。
身廊から内陣まで、教会の空間を一杯に利用した場合、かなりスクリーンが邪魔になり、行われているパフォーマンスがよく見えない時が多いだろう。内陣の聖歌隊席、あるいはその向こうのスペースを使うか、最初から身廊の非常に広い空間を使うか、どちらか一方のほうが合理的に見える。

しかし、そもそも聖史劇の多くは儀式、あるいは儀式の一部であると考えると、「観客/観衆」とか、「観衆がどこにいたか」を考える必要は無いかもしれない。参加者にとって都合が良いスペースであれば良いわけである。また、見ている人々がいるとして、彼らが一箇所にとどまっていたかどうかも怪しく、上演が進むに従って、演技者と共に動くことも考えられる。仮に身廊で演技が始まり、内陣へと移動したとすると、見ている人も演技者の後に続いてぞろぞろと歩いた、謂わば行進したとも考えられる。行列形式の動き(processinal movement)は中世の演劇の特色のひとつである。後の英語の聖史劇の一部が山車の上で行われ、観衆の多くは見たい山車を求めて動いたと推測されるように、中世の演劇は、上演スペースも観衆のいる場所も移動可能である。観衆と上演スペースの「固定化」は、「観客」を一箇所に閉じ込めて入場料を取り、それ以外の人を閉め出すことになった近代劇の産物である。

片山さんが書かれているように、「聖墓訪問の劇」などのシンプルな典礼劇は内陣のみの上演が適していると思われるし、大規模な劇の場合は、内陣のみでは無理なように思えるので、身廊か、あるいは、内陣と身廊の双方が使われたかも知れない。しかし、「聖墓訪問の劇」でも内陣以外のスペースが使われなかったとは言えないだろう。但、以上は何の裏付けもない素人考えであり、今後勉強してみたい課題である。

典礼劇の観衆等については、ポストを改めて書きたい。また、このポストも今後色々と考えて、適宜加筆訂正します。

*片山さんが言及しておられるフェーブルの文献とは、Bernard Faivre, 'La Piété et la fête (des origines à 1548)', Le Théâtre en France du Moyen Âge à nos jour, ed. Jacqueline de Jomaron (Paris: Armand Colin, 1992), pp. 17-101.

カンタベリー大聖堂のスクリーン:



















ここのスクリーンは建物内にある強大な門のようだ。入り口は大きい。

カンタベリー大聖堂のスクリーンから見た内陣(chancel):



















手前が聖歌隊席で、奥に見えるのが祭壇。

カンタベリー大聖堂のスクリーンから見た身廊(nave):



















突き当たりに西の出入り口。

ヨーク大聖堂の身廊部分から見たスクリーン:



















カンタベリー大聖堂のスクリーンとは全く違い、低い屏風のような作り。入り口は大変狭い。

上のスクリーンを拡大した写真:



















ヨーク大聖堂のスクリーンから見た内陣、特に聖歌隊席(choir)付近:

2011/10/01

WOWOWの『下町ロケット』を見て。

直木賞受賞作の小説を原作としたテレビドラマ(全5回)。再放送があり、妻が録画しておいてくれたので、まとめて3日で見た。とても楽しめた。

私の父は小さな下請け企業の管理職をやっていた。最初は事務所もなく、社長の自宅でそろばんをはじいていたらしい。そういう小さい会社。事務職であるから、このドラマで言うと、銀行から出向してきた経理担当の方みたいな役割だ。子供の頃、父の猛烈な働き方を見て、会社員は大変だというのをつくづく感じていた。でも、今振りかえると、大変でもとても充実していたみたいで、会社の頃の知り合いとは退職後もずっと付き合っていて、羨ましい人間関係である。ドラマを見ながら、これほど華々しくはなくても、父の職場でも、幾らかは同様の熱いシーンはあったんだろうな、と思った。

このドラマ、配役が豪華。脇役も、良く知られたベテランを配置し、下手な人がいない。だから、全体にとても厚みを感じる。ストーリーはエンターティメントなので、最後は予定調和のハッピーエンドだし、人物像も複雑なキャラクター作りがされてなくて、皆、善悪がはっきりしていることは物足りないが、番組がそういう性格なんだから仕方ないか。現実は、例えば会社の乗っ取りを謀る側にも、それなりに正当化しうるビジネス上の理屈とかモラルみたいなものがあるんだろうけどね。

寺島しのぶ、一番格好いい! 正義を守る弁護士なんて、今時食っていけないだろうけど、夢物語でも、見て楽しかった。但、彼女を見つつ引っかかったのは、では他の女性はどうか、ということ。皆、恋人とか、奥さんや母親、娘の役割。働く男達と、彼らが保護する女性達のパターン。これ、英語で言うと"patronizing"(イギリス人はとても嫌う態度)。科学者や技術者や営業部員に女性がいないじゃん! きっと現実もそういう時代だったんだよねえ。それがこのドラマを、サラリー「マン」オンリーのドラマにしてしまっていたのは残念。舞台が今の会社だったら、大分違っている(?)と思いたい。

こういう男ばかりのドラマ、イギリスではまず見ないなあ。どんなドラマでも、強い男と同様に、強い女が出てくる。たまには、時代錯誤、と思う程。つまり、そんな昔に女性の管理職がいたのか、とか。でも無理矢理でも主要なキャラクターに女性を入れる気がする。でないと、イギリス人女性が見たら気分を害するのじゃないかな。

2011/09/30

中世フランス演劇史に関するサイト

フランス中世文学研究者の片山幹生先生による中世フランス演劇に関する素晴らしいブログを発見した:

フランス中世演劇史のまとめ」というタイトルで、ブログ形式で更新中だ。今はラテン典礼劇の解説が終わり、愚者祭などの演劇的祝祭についての項目が出たところ。まだフランス語の劇までは進んでいない。私の知らない事が沢山書いてあり、今後、非常に注目したいサイト。専門的な内容ではあるが、研究者だけでなく、一般の読者を対象としているようだ。西欧演劇に関心のある方には大いにお勧めしたい。

ちなみに片山先生は、演劇を良く見ていらして、劇評のブログ、「楽観的に絶望する」も書いておられます。小劇場などを頻繁に見ておられます。

2011/09/25

『ペリクリーズー船上の宴』(梅若能楽学院会館、2011.9.23)

能楽堂とシェイクスピアのロマンチックな交わり
『ペリクリーズー船上の宴』 

りゅうとぴあ公演
観劇日: 2011.9.24   17:00-18:50
劇場: 梅若能楽学院会館能楽堂

脚本:シェイクスピア
翻訳:松岡和子
構成・演出:栗田芳宏
出演:柄谷吾史、田上真里奈、西村大輔、山賀晴代、荒井和真、永宝千晶、星野哲也、大家貴志、岡崎加奈、栗田芳宏

☆☆☆ / 5

日本におけるシェイクスピア作品の上演において、既に一定の評価を確立し、海外公演もしている「りゅうとぴあ 能楽堂シェイクスピア・シリーズ」の第七番目の作品だそうである。私はこのシリーズは、白石加代子主演の『リア』のみ見たことがあり、今回2度目。

面白さから書くと、最初少し退屈したが、段々熱気を帯びてきて、1時間50分という短さもあって、全体としてはほとんど飽きる時もなく見ることが出来た。劇団の持つ人的、資金的制限を考えると、驚くほどの完成度と個性と言えると思う。東京で2日、新潟の本拠地で3日という、たった5日間の公演しかないのが残念である。

『ペリクリーズ』は、次々と不幸に見舞われて東地中海の都市国家を転々とせざるを得ない主人公と、その妻と娘の離別と再会を描いた作品。その究極の材源は、今は失われた古典古代のお話とされていて、中世においては広くラテン語で流布し、イングランドでは、古英語でも翻案があり、更に、中英語では、ジョン・ガワーの『恋人達の告解』 (John Gower, "Confessio Amantis") において取り上げられている。ということで、シェイクスピアはガワーを直接の種としているようで、劇中でも話の引き回し役はジョン・ガワー。語り部によって物語られる、ロマンス的な異国情緒に溢れた劇になっている。それが、東洋の舞台と上手くマッチしていた。

但、お話が結構込み入っていて、30人くらいの登場人物が次々と出てくるので、りゅうとぴあの10人の役者でやりおおせるのは大変で、ある程度無理があるように見えた。あれあれ、どうなったのかな、と筋を見失いそうになる時があった。また、台詞が大分簡略化してあるからか、シェイクスピアの豊かな比喩などが少なく感じ、台詞に聞き惚れることが出来ない。物語を簡素にして、能舞台で見せることにより、シェイクスピア作品の枝葉末節を省いて、根幹にある物語の魅力を再発見するのがこの劇団の意図であると思うので、その点では矛盾しないのだが、今回はあまりにも簡略化しすぎたかもしれない。また、長い長い旅路を経て、やっと家族に再会する、というその「長さ」にも意味があるので、2時間弱は如何にも短い。もし劇団にもう少し余裕があれば、俳優を数人増やし、時間も休憩を入れて30分くらい長くできれば、と思った。特に、ガワー役は物語の外に立つのであるから、他の役との重複を避けて欲しいと思う。

劇団主宰者で、ガワーを始め、幾つかの役をやった栗田芳宏の朗々とした発声が素晴らしく、能舞台と良く調和していた。また、主人公ペリクリーズの柄谷吾史、その妻のタイーサ役の山賀晴代なども印象深い。他の方々も立派に演じておられ、一貫したポリシーを持つ個性豊かな小劇団の仕事として、本当に賞賛に値すると思った。

2011/09/24

『キネマの天地』(紀伊国屋サザンシアター、2011.9.23)

俳優の巧さで大いに満足できた
『キネマの天地』

こまつ座公演
観劇日: 2011.9.23   13:30-16:00
紀伊国屋サザンシアター

脚本:井上ひさし
演出:栗山民也
出演:麻実れい、三田和代、秋山菜津子、大和田美帆、木場勝己、古河耕史、浅野和之

☆☆☆☆ / 5

帰国後初めての観劇。喜劇には日頃あまり関心が無い私も、大変楽しい時間が過ごせた。

演出家小倉虎吉郎(浅野)の妻で、女優の松井チエ子が不可解な死(事故死?他殺?)を遂げてから一年経っていた。築地東京劇場に集められた4人のスター女優。この4人の中に殺人者がいるのではないかと怪しむ演出家の小倉は、助監督島田(古河)、大部屋役者の尾上(木場)の協力を得て、新しい超大作の映画の本読みという口実で、この4人のうちから犯人をあぶり出そうとするが・・・。

出てくる俳優が全員、もの凄く上手い。タイミングが絶妙でおかしい。下手な人がいないので、興ざめな時が全くない。井上ひさしは、女性の嫌らしさを面白可笑しく書くのが上手いのにびっくり。女優4人がまさに大スターなのだが、それを支える、3人の男優も勿論素晴らしい。最後の30分くらいが特に良かった。

強いて無いものねだりをすると、麻実れいが最年長で、三田和代がその下、という設定は無理があったなあ。但、三田和代の演技は、いつもは私から見ると大芝居過ぎてやり過ぎと感じるのだが、今回はデフォルメされた喜劇なので、ぴったり。一番若い大和田美帆、二代目女優と馬鹿に出来ない。面白かったです。

日本の劇だと、英語が分からなくて苦労しなくて済むので本当に楽だわ。それでもいつもの習い性で、ついチラシにある粗筋を開演前に何度も読んでいました(^_^)。

ちなみに故井上ひさしは、大昔から原発には反対だったようである。このサイトで1988年に彼が書いた記事が紹介されている。

2011/09/22

京大原子炉実験所、「熊取六人衆」

イギリスにいたので、色々と知らない言葉や人が増えてしまったが、このブログを読まれる方は、京都大学原子炉実験所の研究者6人、所謂「熊取六人衆」のことはよくご存じの方がほとんどだろう。特に、テレビや著作で有名な小出裕章先生(現職、助教)のことは日本国民のほとんどが知っているのではないだろうか。彼らは、今回の福島の事故のずっと前から、原発の危険性に警鐘を鳴らしてこられ、その為に、色々な不利益や迫害をこうむったとも言われている(これについては、私は正確に判断はできないが、関心のある方は『週刊現代』のこのサイトなど参照)。

そもそも小出先生は定年間近でありながら助教(昔の職位では、助手)であり、また、他の六人衆の方々も助教か助教授どまりのようだ。長らく東大の助手をしていた公害研究者、故宇井純を思い出す。

京都大学原子炉実験所には約80人の研究者が属しており、原発推進派の方のほうがずっと多いようだが、こうした反(脱)原発指向の研究者も抱え込む事が出来た点、京大という組織の健全さをうかがわせる。上記の『週刊現代』の記事によれば、東大の原子力研究者には、反(脱)原発指向の人は皆無だったとのことである。

さて、この熊取六人衆について、大阪毎日放送が2008年にドキュメンタリー番組を作った。そのことについて、稲塚監督がブログで次のように書いておられるので、引用したい:

(以下、引用)
今から数年前、毎日放送がこの6人のドキュメンタリーを放送したら、大事件になったという。
「何を考えている。うちはスポンサーを引き上げる」
関電・・関西電力の力はメディアに対して絶大だ。
反省を強いられ、いかに原発が安全かの教育を受けさせられたというのだ。
福井県では14基がかつて稼動していた。
いずれも関西電力の牙城である。

今は違う、今だけかもしれない。
今は例え6人衆を取材し、放送してもスポンサーを降りると、脅すことはないだろう。
でもいつまでも正常な状態においておかなくてはいけない。
(引用終わり。なお一部誤字と思われるところを訂正させていただきました)


東大や京大で研究者として仕事をしている人は、どの分野でも日本を代表するエリートである。そういう人達が、研究費もろくにもらえず、大学の内外でも昇進や受賞もなく、学会の主流から外れて原子力に警鐘を鳴らし続けるのは、今でこそ注目されているが、これまでは非常に勇気のいることであっただろうと思う。ある意味、学者としては、ノーベル賞レベルの有能な研究をするよりも、ストレスのかかる大変なことだ。

私も3年半前まで大学に勤めていたので実感するが、大学は当然ながら学歴の世界。東大・京大の大学院博士課程出身というような経歴だと、それだけで実力があると思われるし、実際、能力も、研究者としての向上心も非常に高い方が多い。しかし、それについてくるのは、エリート意識である。日本で最高レベルの、つまり世界でもトップクラスの学者であると、プライドも高くなる。私のいたような人文科学分野ではまずあり得ないが、分野によっては、企業やメディアの人々からちやほやされるし、共同研究の提案や飲食などのもてなしもあるだろう。研究上の、あるいは社会人としての謙虚さを保つのは大変難しいのではないかと想像する。昨今は、研究者が大学から決まった額だけ許される個人研究費はかなり減少傾向であり、事務用品と書籍代の一部で消え、本代や学会の費用さえかなり自費を使ってしまうのが私の居た環境では普通であった。研究の上で志のある人は、様々な外部資金を調達せざるを得ず、外部資金の調達をすればそれが業績として、大学からもてはやされる。それだけに、そうした外部資金が得られないのを覚悟で異端的な研究を続けてこられた「熊取六人衆」には感心せざるを得ない。残念なことは、この六人衆のうち、現役の先生は定年前のふたりだけ。その後に若い先生が加わっていないようなのは、何故だろう。

更に、メディアの役割についての稲塚監督の警鐘も、現場の方からの発言であるから、重い。

(先日来、ネット上にある熊取6人衆に関する番組にリンクをはっておりましたが、番組の合法的な使用とは思えないので、削除しました。)

2011/09/14

日米の原発事故安全対策

Mixiに書いたことを転載します。

昨日9月13日の報道ステーション、私は見ていなかったのだが、かってGEで原発技術者をしていた佐藤暁(さとし)さんという方が出演され、日本の原発のリスク管理がアメリカに比べて如何に甘いかを指摘されたそうだ。大津波リスクは、米では100万年に1回起きる大津波を想定し、対策をしているとのこと。外部予備電源では、日本は2回線、米は3-4回線とか7回線。

そのインタビューのまとめを書いてくれた方のブログ

米でそのくらいの準備をしているのを日本の原発科学者は当然知っていたのだろう。起こりえないと高をくくっていたのか?安全だと言い続けてきたので、非常に念入りな用心をすることが危険性を認めることとなるから、アメリカのような準備が出来なかったのか? 日本では自国で原発を作る資格は勿論、輸出する資格なんて無い。辞職した大臣の軽率発言じゃないが、これで原発を輸出したら「死の商人」。

原発関係者や学者にも、日本の原発事故対策がおかしいと思っていた人は多いのだろう。しかし、私のまわりの仕事場などでもいくらでも見てきたが、日本人は長いものに巻かれろで、どんなにおかしいと分かっていても、他人の命や人生全体を左右するような事でも、それは間違っている、とひとりで異議を唱えることが出来ないという欠点がある。

今だって、被災者支援とかチャリティー事業みたいなfeel-goodなことなら皆諸手を挙げて賛成だが、原発をやめようと言うことになると、途端に、意見無し、とか、沈黙、の人が多いだろう。そういういい加減な人よりも、今のような時代でも、リスクがあっても地域振興や職場の維持の為に原発を維持したいとか、脱原発なんて絵空事、日本経済の為には原発は必要だ、とはっきり言う人達はある意味大変誠実だ。イギリスでは、右でも左でも意見を言うことが大事であり、意見を持たない人は軽蔑されると思うが、日本の場合、意見を持たない人、「私は素人なので難しすぎて分かりません」などと言ってマジョリティーに従う聞き分けの良い人が一番歓迎される。先日、イギリスの新聞の、今回の大地震と福島の原発事故に関するネット記事のコメントで、「日本という国は機械みたいに作られていて、日本人は自分の頭で考えることをしない」( "The people don't think for themselves because Japan was set up like a machine")、と書いていたイギリス人がいて腹が立ったが、笑えるだろうか。

最近まで、電力会社の原発広告には実に多くの芸能人が出ていた。蜷川の舞台でお馴染みの鈴木杏、節操のない芸能人の多い中で、Twitterで、原発関連CMに出た事を反省し、脱原発を求めると明言。その他大勢の有名芸能人はどう身を処すのだろうか。金をもらったから宣伝したというだけ? 若い人の方が偉いね!

2011/09/05

帰国しました。

4日にヒースローを出て、5日に無事成田着。今回は片道だけだが、片道切符はまともに買うともの凄く高い。でも以前に繰り返し乗ったイギリスの航空会社のマイルがかなりたまっていたので、少しマイルを買い足して片道乗った。それは良いが、とにかく冷房がきつい。最近2,3回は日本の航空会社だったが寒くなかった。やはりイギリス人の体感に合わせてあるのか?食事はイギリスの会社は日本の会社に比べぐっとまずい。良いことはBBCのドラマなど英語の映画やドラマが充実していること。BBC Oneの"Silk"の第1回をまた見た。2回見ても面白い。 

帰りの空港バスでは一緒にいた家人がぐっすり眠っていて、うっかり眼鏡を忘れた。空港バスでは私も以前に忘れ物をしたことがある。帰りは特に疲労と眠気がひどいので、気をつけたい。その眼鏡はバス会社が見つけてくれ、送ってくれるというので助かった。ここらは、さすが日本のサービス業! 


帰宅して早速販売店に電話して新聞を注文すると、直ぐに夕刊を持って来てくれた。ちょっと便利が良すぎる。日本の常識に慣れると、イギリスは・・・。


テレビをつけると、柔らかな物腰の安住新財務相が質問に答えている。いつも攻撃的なジョージ・オズボーン財務相と対称的。コンセンサス取りまとめ型人間でしか上手くやっていけない日本の政治、アグレッシブで強い主張の持ち主でないと甘く見られるイギリス政界・・・かな。

2011/08/22

Tony Harrison, "The Globe Mysteries" (The Globe Theatre, 2011.8.20)

お手軽すぎるダイジェスト版
"The Globe Mysteries" 


The Globe Theatre 公演
観劇日:2011.8.20, 2:00-4:50, with an interval
劇場:The Globe Theatre

☆☆ / 5



イギリス演劇や現代小説、そして最近は大まじめに原発のことまで書いてしまったが、私が一番興味あることは中世英文学、特に中世演劇であるので、今回は一番嬉しいトピックなんだが、☆は・・・ふたつだけだなあ。

サイクル劇をそのままテキスト通りに上演することは、現代では不可能に近い。昔通りにヨーク・サイクルをやれば、夜明けから深夜までかかりかねない。シェイクスピアのパラ戦争の劇を連続上演する試みが時々あるが、聖史劇を通しでやればそれより長くなるだろう。長い時間をかけて多くのアマチュア劇団が上演する現代のヨーク市の公演でさえ、かなりピックアップされたものを演じていて、演じない部分も大きい。まして、商業劇場であるGlobe Theatreでやるのであるから、大幅なカットというより、サイクルの一部を選択して上演することになるのはやむを得ない。

その場合、ひとつの手段としては、特に興味深い劇を幾つか選び、元のテキストに近い形で演じ。その他は完全に省略するか、簡単になぞる程度にするという選択肢。もうひとつは、全体をバランスの取れるように縮小して、なるべくたくさんのエピソードを盛り込みつつ、サイクル全体を細かい劇の集まりではなく、ひとつのドラマ、天地創造から最後の審判までの人類史、という1本のストーリーであることを強調するやり方。後者の場合、サイクル劇の物語を生かしつつも、上演台本はオリジナルに近くなる。今回の"The Globe Mysteries"は後者のタイプで、脚本はTony Harrison。彼は以前1977年にヨークの劇に基づいたバージョンを出していて、それをNational Theatreが上演した。これはおそらく今も発売されている次のテキストではないかと思う: Tony Harrison, "Plays One, The Mysteries" (Favor and Favor, 1985)。今回のテキストはこのテキストとどう関係しているのか、私は読んでいないが、かなり違うようである。そのうち、この発売されているテキストを読んでみようとは思っている。そのNTの公演は丸一日かかり、しかも劇場の外を使って、中世のように動き回る公演 (a promnade production) だったようだ。

さて、今回の公演、個人的な感想からはっきり言うと、まったく良くなかった。休憩時間を除くと2時間35分くらいの上演時間に、サイクル劇でお馴染みのエピソードはほとんど全部詰め込んでいるので、ひとつひとつがあまりに簡単過ぎて、全く盛り上がらない。初めての人に、聖史劇ってこんな感じです、と粗筋を説明するには適当だが、あまり感動している余裕がない。とりわけ、聖史劇のクライマックスである受難のシーン、特にキリストの裁判が簡単すぎる。カヤパやアンナスが独立したキャラクターとして出てこず、ユダヤの祭司の台詞がほとんどないし、ユダヤ人達がよってたかってキリストを処刑しろと叫ぶシーンも、観客の間に役者が入って少し再現したが、簡単すぎる。最初の方でも、天地創造やアダムとイブの堕罪と楽園追放、ヘロデの嬰児殺害(The Killing of the Innocents)などもさっとなぞっただけという感じである。前半で比較的時間をかけて雰囲気を盛り上げようとしたのは、アブラハムとイサクのエピソードくらいだろう。

その割には、磔刑の後の、地獄の解放(The Harrowing of Hell)やイエスの復活、使徒トマスの疑い(The Doubing Thomas)、イエスとマリアの昇天、そして最後の審判などには、大変長い時間を使っているので驚いた。これらのエピソードは、それ程読まれることも上演されることもない部分なので、それはそれで珍しくて価値があるが、しかし、磔刑以前のエピソードにもっと時間をかけたほうが全体としては説得力があったと確信する。また、上演テキストやHarrison自身の解説がないのでよく分からないが、サイクル劇のオリジナルから大分離れて、Harrisonが創作した部分が大きいのではないか。時間配分から行っても、裁判まで終わったところでインターバルとなり、後半はキリストの磔刑から始まるのだが、最後の晩餐かキリストの捕縛あたりで前半を終え、そこまでをもっと詳しくすべきだ。

2時間半ちょっとという上演時間そのものも短すぎる。休憩を除いても3時間から3時間半は欲しい。私の好みを言えば、幾つかのエピソードに絞って、なるべく原作の現代語訳テキストを使って欲しい。サイクル形式でやることがほとんどで今までそういう試みは少ないようだが、例えば完全な受難劇として、受難のシーンだけやるという選択もあり得るのではないか。

長時間かけて山車を使ってやるヨークでの上演と違い、一箇所の劇場でやる場合、セットを目まぐるしく替え続けることには時間も費用も限界があるので、セットが簡略化されるのは仕方ない。しかし、衣装くらい豪華にして欲しかった。現代服の上演であるが、それにしてもがっかりした。キリストはTシャツにジーンズ("Jesus Christ Superstar"の影響か?)。磔刑になる時もそのままのTシャツを着た格好。磔刑シーンでは、腰布だけで裸体でないと意味が無い。また、父なる神も、だらっとしたカーディガンみたいな服を着た老人。威厳は全くなし。アダムとイブは、子供も多い劇場なので全裸は無理というのは、残念にしても理解はできるが、白い下着を着けていたのは興ざめ。体を隠さない無垢の心こそ、作られた時の人間の姿だからだ(だからキリストも裸体である必要がある)。せめて肌色の布で体を覆い、裸体であることを示して欲しい。キリストを磔刑にした兵隊達が工事の労働者か職人みたいだったのは、観客との距離を縮めて効果的ではあったが。これは、キリストを処刑したのは我々自身、と観客に感じさせるためだろう。観客の間に入った役者から、キリストを糾弾する声を出させるなど、観客がこの劇で描かれる歴史の中に居ることを強調する工夫は随所にあった。しかし、今回のような現代服の上演ならば、ローマ兵や中世の騎士に並ぶ存在であるから、独裁国家の物々しい武装をした兵士などであれば、遙かに迫力があっただろう。

英語がとても分かりにくかったのは、役者がワーキング・クラスの、しかも方言をしゃべっていたからだろう。努めて庶民的な発音にして、観客に身近な出来事に見せようとしているのだろう。しかし、神やイエスまでそういう感じで話していたように見えるのはいただけない。神は神らしく、威厳を持ったトーンが必要だ。とりわけキリストの造形がまずい。聖史劇のキリストは、静かに苦難を耐え忍ぶが大変威厳のある人物。しかし、今回のキリストは、観客に身近になるように意図されていて、街角のお兄さん、という風貌。人類の罪を一身に背負った人の荘厳さは感じられない。カヤパやアンナスもほとんど出番はなく、ピラトの出番もかなり切り詰められており、為政者の言葉をしゃべる人が目立たないのも物足りない。

俳優も特に印象に残った人はおらず、また有名俳優の出演は無いようであり、全体に軽量級のプロダクションだった。イエスをやったWilliam AshはBBC Oneの学園ドラマ、"Waterloo Road"で先生を演じている人。昨年夏、ヨーク市で見たアマチュア劇団を中心とした公演のほうが大分良かったのは確か。

The Globe Theatreが出来、Mark Rylanceの下でシェイクスピア時代の演劇上演を復元しようという意気に満ちていた時代、本当かどうか分からないが、役者は下着まで16世紀仕様のものを身につけたという逸話もある。中世・ルネサンス演劇の研究者にとっては面白い時代だったと思う。今のThe Globe Theatreは商業化し、ロンドン観光を兼ねた観客層が定着して経営は安定しているようだが、16世紀風の劇場でも、中身は古典を良くやる普通の劇場になってしまった気がする。売店に公演の写真が無いのは残念だが、そういうところにも、アカデミックな雰囲気が無くなったことを感じる。

途中かなりの雨が降り、土間に立っていた人達はずぶ濡れで気の毒だった。終わり頃には厳しい日射しが降り注ぎ、2階正面のギャラリー席の人は直射日光でまぶしそう。野外劇場は大変だ。

演出:Deborah Bruce
脚本:Tony Harrison (a new version)
セット:Jonathan Fensom
音楽:Oly Fox
振付:Siân Williams
衣装:Sarah Bowern
Voice & Diarect: Mary Howland
Movement: Glynn MacDonald
Musical Director: Philip Hopkins

出演:
William Ash (Jesus / Issac)
Joe Caffrey (Cain / Abraham / King / Knight / Jacob)
Philip Cumbus (Gabriel /Judas / Ribald)
Marcus Griffith (Adam / King / Soldier / Priest)
David Hargreaves (God the Father)
Adrian Hood (Shepherd / Poor Man / Andrew / Knight / Thomas)
Paul Hunter (Lucifer / Shepherd / Herod / Blind Man / Knight)
Lisa McGrillis (Eve / Woman / Mother / Angel / Mary Salome)
David Nellist (Abel / King / Soldier / Philip Knight)
Matthew Pidgeon (Joseph  / Mak / Pilate / Beelzebub)
John Stahl (Noah / Shepherd / John the Baptist / John / Marlcus / Barabbas)
Only Uhiara (Mary / Gill / Woman / Mary Magdalene)
Helen Weir (Noah's wife / Woman / Mary Mother)

2011/08/19

稲塚監督と大隈記者にお会いしました

8月16日午後、『二重被爆〜語り部山口彊の遺言』のロンドン上映会の前に、日本からはるばる来られた監督の稲塚秀孝さん、及び、朝日新聞長崎支局の大隈崇さんにお会いし、"QI"に関する私の抗議の経緯について、このブログでもご報告した事などをあらためてお話ししました。お二人とも大変誠実はお人柄のようで、熱心さに感銘を受けました。

大隈さんはもともと"QI"の問題がマスコミで話題になったすぐ後にご連絡をいただいて、取材申し込みがあったのですが、東北大震災が起き、それどころではなくなったため、これまで延期されていました。でも、当初の熱意を失わず、今回の上映会を機会に来英されました。日々のニュースに押し流されるであろう新聞の現場で、過去のテーマを忘れずに追い続ける姿勢に感心しました。日本の新聞記事の紙幅は大変短いので、如何にしてその中に言いたい事を含めるか、書きたいことは多いが、大変苦労されるそうです。

稲塚監督については、今回直接お会いするまで、ご自身について何も知らなかったのですが、かってテレビマン・ユニオンに所属されていて、テレビの世界で長い経歴を持っておられます。職業人として、私のような者には想像を絶する大変苦しい経験もしてこられことを、日本放送作家協会のサイトにあったインタビューの記録で知りました。山口さんのドキュメンタリー制作と上映に関する彼の粘り強さも、こうした試練を乗り越えてきた人だからでしょう。主義主張と行動が一致した立派な方とお見受けしました。私はかって大学教員をしていたのですが、研究者には、私自身の自戒も含め、研究内容や言われる事はリベラルでも、学内や学会では自分の研究業績にプラスになることしかしない方は結構おられます。あれで、世の中では著名な学者で通るのか、と思う方もあります(でも、大学者ほど外の仕事で忙しく、また論文等が優れていれば評価されるのは当然ですが)。稲塚監督は、人を大変大事にされる方のようで、そういう華々しいインテリの対極にいるような方とお見受けしました。

稲塚監督は、現在、福島の原発事故周辺の被災者の取材を続けておられます。きっと貴重なドキュメンタリーとして完成されることと思います。それに加えて、"QI"でのあのような山口さんの取り上げ方がどうして起こったのか、追跡しようと思っておられるようです。私は、彼の貴重な時間や、特に独立プロとしての限られた財源を、これ以上あの番組の追跡に割く価値があるのか、疑問に思って、先日監督にもメールでそうお伝えしました。番組の制作者や出演者にとっては、あのエピソードの制作も、我々の苦情の処理も、非常に些細な出来事でしかなかったでしょう。但、BBCとしては、イギリス贔屓な日本人のおかげで、オースティン等の文芸ドラマや"Panorama"のようなドキュメンタリーなどたくさんの番組を輸出し、高額の収入を得ている以上、日本人がBBCへ持つ敬意や好印象を害してはいけないという打算もあって、謝罪したのかと思います。

但、そういう日本人のイギリス文化への偏愛も含め、イギリスという核保有国の広島・長崎への関心/無関心、原爆や原発へのイギリスの国民感情、そして軍事や戦争に関する日本人とは大きく異なる意識は、今後日本の(イギリスは紳士の国!なんて思っている)視聴者にも知らされる必要があると思います。

いずれにせよ、稲塚監督は、山口彊さんの遺言である、海外へのメッセージの広まりを目ざしておられるようですから、"QI"の問題が、彼の今後のお仕事のモーティベーションとなったことは、この事件における不幸中の幸いであったと思いました。今後も彼のなさるお仕事を注目していきたいと思っています。


(8月20日追記)
『二重被爆〜語り部山口彊の遺言』に関連したお知らせ等について書くのも多分これで当分終わりだ。"QI"について報告した時には、もの凄いアクセス数、多数のコメント、コメント以外にもメールなども何通ももらい、びっくりした。私は今回の映画上映について"QI"の時以上に関心を持って考えたり、書いたりした。特に福島原発の大事故が続く中、しかも広島、長崎の原爆投下日、そして敗戦の日と前後した時期に日英で上映会が開かれたのであるから、尚更だった。但、ブログのアクセスは、最近はむしろ減り気味で、コメントもほとんど無く、あまり関心を集めなかったようだ。やはり、広島・長崎の原爆の記憶は薄れているようだ。しかし、私個人にとっては、"QI"のこと、そして福島原発の大事故、更に『二重被爆』2作品のロンドンの上映会を通じ、広島・長崎が、平和を求め続けた戦後日本の原点、日本人のアイデンティティーの欠かすことの出来ない一部だと再認識させられ、私の人生において大変大きな意味を持った半年であった。

"One Man, Two Guvnors" (National Theatre, 2011.8.4)


スラップスティックの芸で大いに楽しめた
"One Man, Two Guvnors"


National Theatre公演
観劇日:2011.8.4  19:30-21:50
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Nicholas Hytner
脚本:Richard Bean
原作:Carlo Gordoni ("The Servant of Two Masters")
セット:Mark Thompson
照明:Mark Henderson
音響:Paul Arditti
音楽:Grant Ording
振付:Adam Penford
衣装:Poppy Hall
Fight Director: Kate Waters

出演:
James Cordon (Francis Henshall)
Jemina Rooper (Rachel Crabbe, one of Francis's masters)
Oliver Chris (Stanley Stubbers, another master of Francis)
Daniel Rigby (Alan Dangle)
Tom Edden (Alfie, a very old waiter)
Suzue Toase (Dolly)

☆☆☆☆ / 5

"One Man Two Guvnors"はまさにタイトル通りの内容の笑い話:一人のおっちょこちょいの男が、二人の主人 (Rachel Crabbe, Stanley Stubbers) に同時に仕えてしまったため、その二人の要求を同時に何とかこなしていくのに大汗かくという話。しかし、その筋書きよりも、主役のJames Cordonのギャグの連続で、劇のかなりの部分は寄席のワンマンショーみたいなのり。スラップスティックなので、台詞は大して分からなくても充分楽しめた。観客をステージに上げて、ちょっとしたギャグを一緒にやったりして、ステージと客席が一体となって楽しみ、また随所に歌を挟んで、全体がバラエティー・ショー仕立てになっている。

脇役も楽しい演技。Jemina Rooperは主人公Francisの主人の1人だが、女性が双子の兄弟に化けていて、『お気に召すまま』のRosalindのようなセクシーさと不器用さが面白い。もう一人の主人のStanleyを演じるOliver Chrisはばかに気取ったところが愉快。歩くのもやっとという風情の年寄りのウエイターAlfieを演じるTom Eddenも最高に上手い。

元はイタリアのコメディア・デラルテの戯曲とのこと。しかし、Richard Beanの翻案では、設定を今世紀前半のブライトンに移している。明るい海辺の保養地の雰囲気が内容にピッタリ合っていた。背景が昔の舞台みたいな板絵なのだが、その古風な背景が、かえって時代設定と調和している。

終わった後には、なんにも残らなくて、数日経ったらすっかり内容を忘れてしまっていた。でも見ている間は最高に楽しかった事だけは確か。

演出はナショナルの芸術監督のニコラス・ハイトナー。彼は、シリアスな政治劇で本領を発揮するが、シェイクスピアのような古典、こうした軽い喜劇まで、どんな作風のものもこなせるところが凄い。大評判になって今回のNTでの切符は売り切れているが、秋に更にウエスト・エンドにトランスファーして公演される。

2011/08/18

『二重被爆ー語り部 山口彊の遺言』を見て、原発について思う

16日夜に見た標記のドキュメンタリーの最後、制作者などのクレジットが出て、これで終わりかな、と思っていたら、今回稲塚監督が付け加えられた山口彊さんのインタビューの一部が映写された。そこで、山口さんは、全ての原子力は人間には最終的に制御出来ないのであり、廃絶しなければいけない、という意図のことを言っておられる。山口さんは、広島と長崎で二重被爆をされ、一生後遺症に苦しまれただけでなく、息子さんを60歳で癌で亡くされた。更に、エンジニアとして働かれていた彼は、原爆だけでなく、原発の危険性を強く感じておられたのではないか。

今、福島原発の事故、そして放射能汚染の問題がいつ終息するとも分からない状況の中、全ての原発を廃止すべき、という声も高まっている。一方で、原発に頼る市町村、電力を消費し操業する経済界、多くの地元中小企業や商店、そしてそこで働く市民と家族にとっては、原発廃止は危険で無責任な夢物語と見えるかもしれない。地震直後のように電力不足で停電をしなければならない事態になれば、暑さ寒さで亡くなる老人も増え、医療など命に関わる現場にもトラブルが起きるかもしれない。そして、緊急に温暖化を防がなければならない、という地球規模の課題もある。それを覚悟しても私達の国は原発を止めることが出来るだろうか。

私は福島の問題が起きる前から原発には個人的には反対で、止めて欲しいとは思っていたが、もともと政治に関わる話をする人間ではないので、それを特に誰かに言ったりしたことはない。日本が国として原発を止められるとは思っていなかったし、今も、上に書いたようなこともあり、その点では大変悲観的だ。ペシミストの私の思う原子力発電の未来はこんな感じになる。今日本には原発が54基あるそうだが、もし福島の事故が起こらなければ、これからもどんどん増え、又海外にも次々に輸出したことだろう。温暖化の問題を考えると、そう遠くないうちに100基代に近づいたのではないだろうか。数年ごとにかなり大きな地震が起こる日本であるから、大小の地震はあったにも関わらずフクシマのような事故がこれまで起こらなかったのは、技術の優秀さ、地震対策の確かさなど、評価されて良いように思うが、しかし、今度ばかりはそれにも限界があることが分かった。こういう事が2度とないと誰が言い切れようか。いや、原発を保持すれば、第二のフクシマは遅かれ早かれやってくると思う。

発展し続けるアジア、特に中国やインドもこれからどんどん原発を作るに違いない。中国人口の多数が日本のような、ミドルクラスの大量消費生活をするようになれば、中国には何百という原発が作られるのではないか。インドも同様だ。両国とも政情には不安定要因があり、テロや争乱も起きている。地震や大洪水に見舞われやすい地域もある。勿論、厳しい安全対策は講じるだろうが、これらの、そして他の多くの国々で、何百という原発が世界中で操業し、老朽化し、あるいは天災や人災で大小の事故を起こす時代、原発や核廃棄物格納施設がテロによって爆破されたり、おそらく原発が戦場のど真ん中に存在したりする時代、それがこれから50年100年先の地球であることは目に見えているのではないだろうか。仮に北欧や日本などで脱原発をしたとしても、他の様々な国や地域で放射能汚染が頻発し、多くの子供が小児癌などで死んでいくが、それをある程度世界の日常として受け止める時代が来る気がするが、違うだろうか。

一方、温暖化も止まるところを知らない勢いだし、国際公約を果たすためにもCO2の削減も厳しい状況だ。原発なくして、それは可能なのか。

今日本は半分程度の原発を休止したまま何とか生き延びている。経済は停滞し、経済の素人の私から見ても、将来の展望も暗いように見える。現在程度の豊かさの国民生活を維持し、高齢化の中で医療や福祉、教育、年金等の公的サービスを守り、また蓄積した国や地方の借り入れを返済するためには、おそらく何とか経済成長を取り戻さないといけない。その為には、エネルギーが必要なのは言う迄もない。化石燃料の使用は増やせず、自然エネルギーには飛躍的な伸びは期待できないとして、原子力以外に一体何があるのか。原子力発電を止めることは、日本経済が坂を転げ落ちるように滅び始める時、と言われる識者も多いだろう。そうすれば、医療や福祉の土台も崩壊し、老人医療や、子供の教育にも甚大な影響が出るだろう。それでも良いと言えるのだろうか。

山口さんだったらどうおっしゃるだろう。あるいは、今80歳を超える世代、広島・長崎の被爆者ならずとも、焼け跡の街で腹をすかしつつ、新しい一歩を踏み出した方々はどう思われるだろうか。

温暖化を防止し、そして脱原発を同時に進める----経済学者じゃないから分からないけれど、その為には少なくとも経済成長を前提とせず、無成長でサバイバルする覚悟が必要な気がする。しかし、その代わりとして失うものも甚大であるから、フクシマで起こったようなリスクを一定程度覚悟で原発と共存しようという決断もあり得るだろう。日本人ひとりひとりが大きな選択を迫られる時代にさしかかった。しかし日本人の決断の如何に関わらず、地球は原発だらけになるのは目に見えていて、原発事故は大規模航空機事故なみには起こる時代は必ずやってくると思える。他国の原発事故による放射能に苦しむ国も多くなるだろう。そう考えると、正直言ってどっちに転んでも同じかという、やけくそな気分になりそうだが、それでも私は日本は原発を止めて欲しい。

今、もし脱原発に舵を切らない場合、来年かも知れないし、50年以上後かも知れないが、第2、第3のフクシマがやってくるのは時間の問題と思う。その時、日本人はどう決断するだろうか。仮にフクシマ以上の大事故が起こって、国民世論が圧倒的に原発廃止を支持しても、その時には原発を止めることは出来ないのではないか。増殖する癌をまだ割合小さい時に切除しなければ、次の重大事故が起こってからでは遅すぎるかも知れない。巨大化した癌を取れば国全体が死んでしまう状況である可能性大だ。例を挙げれば文化大国の顔をしているフランス、素人考えであるが、現在でも総エネルギー使用量の75パーセント前後を原発に頼るあの国は、今後おそらくそう望むことがあっても脱原発にはもう遅すぎる。既に原子力中毒で、癌を切除すると死んでしまう重症患者、原発中毒症、と言えるだろう。日本にはそうなって欲しくないものだ。それとも既にそうなっているのだろうか。

昔の同僚に、あなたはいつも悲観的な事ばかり言う、と職場で叱られたものだが、今の私の杞憂がお笑いぐさであって欲しいものだ。さて、次からは演劇のことでも書こう。

2011/08/17

『二重被爆』(2006年)と『二重被爆ー語り部 山口彊の遺言』(2011年)上映会(ロンドン大学、SOAS)

既にこのブログでもお知らせを転載していた標記のドキュメンタリー映画がロンドン大学のアジアアフリカ学院で上演され、出席してきました。日本からはるばる稲塚秀孝監督が来られ、挨拶をされ、また上演後、観客の質問に答えられました。映画は、最初は、最初は2006年の稲塚秀孝制作、青木亮監督の『二重被爆』、そして後半は、新作で稲塚監督自ら作られた『二重被爆ー語り部 山口彊の遺言』です。2作品については、以前のブログで簡単ですが、紹介と感想を書いております。

今回の会場は140人程度収容の講義室でしたが、ほぼ満員。稲塚監督のブログによると、約4割がイギリス人(ないし、日本人ではない方)のようだったと言うことです。監督のブログには、挨拶の内容も載っています。

私は以前にDVDをいただいて既に見ているのですが、しかし、多くの方と共に、しかも海外で見ると、一層の感慨がありました。21万4千人以上の人々が2発の爆弾で一瞬にして亡くなるという恐ろしさ。今の日本人を皆トラウマ状態にしている東北大震災の死者・不明者数が2万人を超えるということを考えると大変な悲劇ですが、広島・長崎の21万人以上という死者はその10倍であり、原爆が如何に凄まじい兵器かを感じます。イギリスにおいて、ドイツ軍の空爆の最も残虐な例のひとつとしてあげられる1940年11月14日のコベントリーの大爆撃では、一夜にしてこの工業都市がほとんど焦土と化してしまったようですが、死者は約600人程度と言われているそうです。

共同通信、朝日新聞、その他、日本のマスコミ数社からもこの上映会に記者の方が来られました。既に一部のネット・ニュースで共同の記事を配信しています。但、イギリスのマスコミは全く感心を示さなかったようです。

このブログでの呼びかけに答えて、忙しいウィークデイの夜、仕事や学校が終わった後に来ていただいた方も少しいらっしゃるかも知れません。だとしたら大変嬉しいし、深くお礼を申し上げます。

当日の様子が、日本テレビのニュースにより報道されました:


2011/08/16

"Blue Surge" (Finborough Theatre, 2011.8.13)

崩れたシンデレラ物語
"Blue Surge"

Finborough Theatre公演
観劇日:2011.8.13  15:00-17:10
劇場:Finborough Theatre

演出:Ché Walker
脚本:Rebecca Gilman
セット:Georgia Lowe
照明:Neill Brinkworth
音響:Edward Lewis
衣装:Rachel Szmukler

出演:
James Hillier (Curt. a policeman)
Clare Latham (Sandy, a prostitute)
Alexander Guiney (Doug, a policeman)
Kelly Burke (Hether, a prostitute)
Samantha Couglan (Beth, Curt's girl friend)

☆☆☆ (3.5程度) / 5

ハリウッド映画で、ジュリア・ロバーツがコール・ガールをやった『プリティー・ウーマン』という馬鹿馬鹿しいシンデレラ物語があったが、ちょっと似たところがあるが、シンデレラ物語はやはり夢物語、だと知らせてくれるようなストーリー。脚本は2001年の作品。

Curtと同僚のDougはアメリカ中西部の地方都市の白人田舎警官。ある時、売春を行っていると疑われているマッサージ・パーラーを捜索し、それが縁でCurtはSandyという売春婦と関わり合いになる。彼は、身寄りもなく住むところもない彼女を何とか今の惨めな状況から救い出したいと必死になる。Sandyに助力をするうちに、そのことが自分が付き合っていた美術の先生のBethに知られて彼女を怒らせ、更にDougのアドバイスに反して、仕事を犠牲にしてもSandyをかばって、最後には警官の職を失ってしまう。

SandyはCurtに頼ろうと意図していたわけでなく、彼と関係を持って警官の好意を買おうとしたわけでもない。実際、彼は行き場のなくなった彼女を自宅に泊めるが、二人の間には肉体関係はない。

一方、ミドルクラスの出身で、上品な美術教師のBethは、Curtに教養をつけさせ、また警察機構の中で順調に出世して欲しいと、色々なアドバイスをするが、Curtはそれについていけない。彼はどうしても彼女との育ちと教養の差を感じてしまい、例え彼のキャリアを危うくしても、Sandyの手助けをすることで心の安らぎを得る。

サブ・プロットとして、Dougと、やはり売春婦だったHetherの関係が描かれるが、こちらはそつなく世渡りをするDougと彼の子供を妊娠し幸せそうなHetherが、救いようのないCurtとSandyとは対照的に描かれる。メイン・プロットの二人の不幸と比べ、こちらは『プリティー・ウーマン』なみの安易な筋書きという気はするが、軽薄だがしっかり計算だけはして生き残るこの2人のコミカルなところが、劇全体の陰鬱なトーンをやわらげている。

アメリカの白人階級社会の様相を上手く劇化した作品。アメリカ人は、イギリス人よりも、個人のより内面的で文化的な部分における階級の差を感じることが多いのかも知れないと思った。

俳優の演技は秀逸。特に主役の2人の絶望感は良く伝わってきた。ただ、費用のかけられないフリンジの劇場なので、セットが貧弱なのが残念。マッサージ・パーラーにしろ、警察署やCurtのアパートにしろ、費用をかけたセットを作ってアメリカ中西部の田舎町らしい雰囲気を濃厚に出せれば、格段に良くなったことだろうと惜しまれる。今後、他の劇場でも再演されることを望みたい。

2011/08/14

ロンドン暴動からチョーサーにさかのぼる:Magistrates' Courtsが24時間フル操業


(写真:Westminster Magistrates' Court)

ロンドン暴動の法的後始末が始まっている。店を壊して侵入し商品を盗んだりした人々が、法廷に呼び出され、早速刑を言い渡されている。イングランドとウェールズにおいて、こうした軽い犯罪を犯した人を裁くのがMagistrates' Coiurtと呼ばれる簡易裁判所。暴動の時に限らず、日頃から犯罪事件の大多数はこうした軽罪 (misdemeanor, minor offence、これに対し重大犯罪は、felony) であるのはどこの国でも同じであるが、イングランドにおいてはこれらの犯罪で6ヶ月以内の刑を受ける程度の犯罪については治安判事(Magistrate, 別名Justice of Peace、略してJP) による即決裁判となる。判事が警察官や証人、被告等から事情を聞いて、その場で刑を宣告したり、釈放したりする。暴動後数日間、Westminster Magistrates' Courtは、非常時のため、コンビニ並の24時間開廷をし、そしてこの週末もさすがに24時間ではないが夜まで開廷して、裁判を行っているそうだ。暴動に加わり物盗りをした人などはこれで収監される。ひどい怪我を負わせたりして、それ以上の刑になると判断された場合には、通常の刑事裁判所(Crown Court)に回される。その場合には、結果的にMagistrate's Courtが予備審問をしたという役割になる。このMagistratesという治安判事の多くは、無給のボランティア(必要経費は出る)で、選ばれるためには、大学や法曹学院などでの法律教育は必要とされていない(アマチュアのMagistratesの他に、プロの法律家で、法務省に雇われたDistrict Judgeという人達もいる)。但、判事になる前の3ヶ月の研修があり、実際の裁判においては知識と経験豊富な事務官のアドバイスなどあり、また、社会経験の豊かな地元のリタイアした有力者、人格者などが多く選ばれるようである。日本では、参審制の導入に伴い、英米の陪審員制度が、司法における市民参加として広く知られるようになったが、このMagistrates' Courtも同じくらい重要な市民の司法参加である。イングランドの民主主義は、立法府の議員選出における市民の役割と共に、こうした司法における市民参加が重大な柱として欠かせないものになっている。「お上」意識が強く、弁護士や職業裁判官などの「先生」と尊称される専門家を非常にありがたがる日本人には、なかなか理解しがたい制度かも知れない。しかし、これはイギリスの長い民主主義の成立の歴史の中で定着した制度である。

このMagistrateという役割の源は、12世紀のRichard Iの治世にさかのぼることが出来るようだが、制度として確立したのは14世紀前半、Edward IIIの治世である。従ってチョーサーの生きた時代には広く行き渡っていて、『カンタベリー物語』でも出て来る。巡礼のひとりに地主(Franklin, 「郷士」とも訳されている)がおり、彼は金持ちの大地主で、客にいつもふんだんに食事をもてなして気前の良さを見せている。序歌(The General Prologue) での彼の紹介において、チョーサーは次の様に述べる:

At sessiouns* ther was he lord and sire.     (judicial sessions)
Ful oft time he was knyght of the shire.
  . . . . .
A shirreve* had he been, and contour*.    (sheriff / auditor)
Was nowher switch a worthy vavasour*.   (land-holder)
(General Prologue, ll. 355-56, 359-60)

(拙訳)
彼は法廷では裁判官をつとめた。
しばしば彼は国会議員であった。
・・・・
彼は州の代官や会計監査をしたこともあった。
どこにも彼ほど立派な地主は居なかった。

このように、この地主 (Franklin) は大変立派な地域の有力者で、色々と役職をやっている。Knight of the Shireというのは、今で言うところの国会議員、 Member of Parliament (MP)、である。彼は"sessiouns"でlordとかsir、つまり指導者を務めると書いてあるが、このsessionsとは、judicial sessions、つまり裁判のこと。しかし、訓練を積んだ正式の弁護士や裁判官はこの時代既に沢山いたが、彼はそういう人ではなく、法律のアマチュアであるので、治安判事(Magistrate)の役を務めたと仮定できる。詩人チョーサー自身も、本業は税官吏などの公務員であったが、その一方で治安判事を務めたのは、多くの方がご存じだろう。また彼はケント州の国会議員を務めてもおり、従って、このFranklinの背景には自分の経験がかなり重なっていたことと想像できる。飲み食いやもてなしが大好きなこのエピキュリアンの地主の性格は、富裕なワイン商人の家の出身で、残っている写本にある肖像によると、中年太りしてお腹が出ているチョーサーにぴったりである。

更に引用に"shirreve"(今の英語で、"sheriff")とあるが、これはイングランドの州 (shire, county) の長官である。これは中世前半のアングロ・サクソン時代からある国の役職 (royal official) であるが、今のアメリカの州知事とか日本の県知事のような公務員とは違い、もともと各州に住んでいる地元の有力なジェントリーや地主などの間から王室が任命した人達である。こうした州の代官(州長官とも訳される)は、徴税などの行政事務も担当するが、治安維持も重要な仕事で、日本の代官と似て、それぞれ裁判を行い、犯罪を罰したり、市民間の争いを裁定したりした。従って、引用中の"sessiouns"にも、そういう意味もあるかも知れない。この州の代官という仕事(sheriff)については今のところ私はは良く知らないのだが、これから色々と時間をかけて勉強したいと思っているテーマである。というのは、文学にもかなり関係しているから。日本人にもお馴染みのロビン・フッド伝説で出てくるノッティンガムの悪代官は子供向きの本や、ケビン・コスナー主演の映画などで知っている人も多いだろう。ロビン・フッド伝説は中世末から近代初期にかけて多く書かれ、その後も大衆文化に定着したイギリスの義賊の話であるが、このように代官が悪役にされている。同様に、代官の腐敗、あるいは王権との摩擦はしばしば他の中世の文献でも諷刺されている。

なお、sheriffという役職は、米国の保安官の他にも英語圏の各国で今も残っており、イングランドでも"High Sheriff"という儀式などに登場する役割として存在するようだし、スコットランドでは、Magistrates' Courtsの上に位置する裁判所がSheriff Courtsであり、この場合のsheriffは法曹教育を受けたプロフェッショナルで、多くの犯罪における第一審の役割を果たすとのことだ。

courtやlegal court(法廷)と言っても、今と違いその為に専用として使われる立派な建物を指すことはほとんどない。また、そういう建物は中世はほとんど無かった。裁判は野外の広い場所で行われることもあり、また、多くはギルド・ホール(今の市庁舎)の広間のような多目的に使われる広間で行われた。中世や近代初期においては、思い出すのも難しいくらい様々な種類の裁判が存在したが、職業的な法律家によって常設的に開かれるのは首都の王室裁判所(The Court of King's Bench, The Court of Common Pleas, The Court of Exchequer等)くらいで、他の各種の裁判は年に数回とか、月1回など開かれ、数日間続く、といったものが多かった。

14世紀に出来た市民の裁判官による裁判所が、未だに数の上ではほとんどの犯罪を裁いているのがイギリスの司法制度であり、これに重罪を裁く上級刑事裁判所、Crown Courtsでの陪審員制度を加えれば、如何にイギリスの司法に市民が密接に関与しているかが実感される。

(追記)速やかな正義の実現をという世論に押されて、Magistrates' Courtsをフル回転して、暴動に関わった被告を裁くことについては、あまりに性急すぎて、充分な吟味が出来ていない恐れがあるとの声がLaw Society(事務弁護士[solicitors]の団体)から上がっている。裁判官や事務官が夜も寝ずに審理を続けるなんてとんでもないことだ。被告自身も、ちゃんと考えた申し開きが出来にくいし、弁護士も疲労困憊することだろう。軽い刑の判決とは言え、前科がつき、仕事を辞めて刑務所に入れば、被告の人生は大きく違ってくる。日頃と同じだけの時間と慎重さをもって審理して欲しいものだ。これついてはこちらの記事参照。

(お断り:私は、法学や法制史の素人ですから、間違いがある可能性も高いので、鵜呑みにしないで下さい。もし、間違いやMagistrates' Courts、中・近世イングランドの裁判制度等について付け加えて下さることなどあれば、コメント欄でお教えいただければ幸いです。)

2011/08/12

"Loyalty" (Hampstead Theatre, 2011.8.5)

イラク戦争開戦の前後をブレアー首相側近の家庭を通して描く
"Loyalty"





Hampstead Theatre公演
観劇日:2011.8.5  15:00-17:00
劇場:Hampstead Theatre

演出:Edward Hall
脚本:Sarah Helm
セット:Francis O'Connor
照明:Ben Ormerod
音響:Paul Groothuis
衣装:Caroline Hughes

出演:
Maxine (Laura)
Loyd Owen (Nick, Laura's partner and Tony's chief of staff)
Anna Koval (Marisia, their baby sitter)
Patrick Baladi (Tony, Prime Minister)
Stephen Critchlow (Tom, a bureaucrat at Prime Minister's office)
Colin Stinton (James, a former director of CIA)
Michael Simkins (C. a head of British intelligence service)
最後の二人は他にも背景に流れる声で、アナン国連事務総長他、色々な役を演じる。

☆☆☆☆ / 5

大分前に劇場からチラシを送ってきてすぐ切符を買ったが、公演が始まるとあまり評判が良くない。Sarah Helmはジャーナリストとしてかなりのキャリアを持つ人だが、劇作はこれが初めてなので、やはり慣れないことは難しいのか、と思いつつ出かけた。しかし、嬉しいことに予想を裏切って、私にとっては大変面白い公演だった。私はもともとこういう"the state of the nation play"(国家の状況を表現する政治劇)が大好きである。このジャンルの作品で、典型的なのは、David Hareの作品であるが、この劇はHareの傑作、"Stuff Happens"と同じトピックを扱っている。"Stuff Happens"はNationalのOlivierの巨大なステージをたくさんの役者で一杯にして、英米の実名の政治家の台詞によりイラク戦争開戦を分析する大変スケールの大きい意欲作であったが、Hamstead Theatreという小劇場で上演されたこの作品は、ずっと慎ましい。当時の首相Tony Blairの側近、Nickと、彼と同居し子供も居るパートナーのLauraの目を通して、Tony Blairが開戦(2003年3月20日)の直前、どう考え、そしてその後、WMD (Weapons of Mass Destruction、原爆や化学兵器などの大量破壊兵器)が発見されないとはっきりした時に、どのようにそれを糊塗したかを、親密な視点から描く。

描かれていることは既に大抵の日本人でも知っていることである。健忘症の私は忘れかけていた。ブッシュ政権は何とかしてイラク侵攻を始めたくてうずうずしていて、その為にはどんな些細な、出所の怪しい情報でさえも使う。大統領自身は、ラムズフェルドやチェイニーなどの強硬派の言うなりで主体性がない。ブレアーは、何とか多くの国を巻き込み、国連の承認を得て開戦したいと思って奔走する。その国連を説得するためには、イラクが密かにWMDを開発しているかどうかが鍵になっており、アメリカはそのことに間違いはないと言うが、どこにも証拠はない状態で開戦に踏み切る。

勿論、衆知のように、イラク政府の崩壊後、第三者機関による徹底的な調査が行われたがイラクのどこにもWMDは発見されなかった。結果的に、WMDがあるとしたCIAやペンタゴンのでっち上げでしかなかったわけである。

劇中の登場人物は全て実際にいた人物。Nickはブレアーの側近 (Chief of Staff) のJonathan Powell、そして彼のパートナーのLauraはこの劇を書いたSarah Helm自身である。であるから、演劇とは言えドキュメンタリー・ドラマであり、描かれていることのほとんどはHelmが実際に見聞きしたことであろう。

このドラマでは、激しい開戦反対のデモを背景に、ブレアーが国内世論とアメリカ政府の圧力の狭間にあって揺れ動く様子、そして、側近のNickがそのブレアーを忠実に支えようとしながらも、彼自身は内心戦争するだけの理由はないと思っていて、苦しむ様子などが描かれる。更に、NickのパートナーのLauraはリベラルなジャーナリスト出身の作家で、開戦には絶対反対の立場であり、Nickと激しく対立しつつ、自分が彼に持つ影響力を使って戦争をとめさせたいと考えている。そうした関係者同士のloyalty(忠誠、相手への誠実さ)、そして、それぞれの持っている信念に対する自分自身のloyaltyが試される様子が熱を帯びた台詞のやり取りで描かれる。個人と家庭の中での葛藤が、世界を揺るがす決断と連動する秀作。NickとLauraの台所や寝室、首相官邸の執務室などの狭い空間で、少数の人だけで繰り広げられる会話に、世界史の大きな動きが脈打っているところが面白い。

大きな政治の流れとしては、何か特別に新しい事が描かれるわけではないので、主要人物のキャラクターに劇の面白さが左右されると思うが、Lauraを演じたMaxine Peakeが素晴らしい。BBCの"Silk"や"The Secret Diaries of Miss Anne Lister"等のドラマで見てきたのだが、非常に力強い女優。強情な女性をやらせたらこの世代ではピカイチだ。マンチェスター郊外ボルトンの出身だが、はっきりした方言が小気味よい。舞台で見るのはこれが初めてだが、今年West Yorkshire Playhouseで、Terence Rattiganの"Deep Blue Sea"に主演したのは知っていた。リーズまで行けば良かった、と後悔!彼女は、テレビドラマでも演劇でも、はっきりとした社会的、あるいは政治的問題を含む作品を選んで出演しているように見える。そのチャレンジ精神が伝わる演技。

少ないであろう予算を効果的に使い、少人数で、電話の声でブッシュ大統領やアリステアー・キャンベル報道官、コフィー・アナン国連事務総長等を出演させたりして、枠を広げていた。しかし、やはり首相官邸のシーンでは少し登場人物が多ければ、とは思った。また、映像で開戦の様子その他を映し出すことは出来なかったのだろうか。多分、当然考えただろうが、予算の問題や、客席がステージを囲む形式のHampsteadの制約もあったのだろう。

結局、劇中でも現実でも、ブレアーはイラク戦争をしたことは間違っていなかったと言い続ける。この戦争によりフセイン政権下による甚だしい人権侵害やクルド人など少数民族の虐殺を止めさせたから、というのである。WMDがあるとしたのは口実でしかなかったわけだ。ブッシュやアメリカ政府幹部は、WMDがイラクにないのは分かっていたし、ブレアーもそうだろうと充分推測できる状態だった。それでも戦争は始まった。

ということで、内容は興味が持てた上、Maxine Peakeの力演に組み伏せられた公演だった。

褒めすぎかもしれないが、国の抱える最大の政治課題を首相などの実名を交えたドキュメンタリー・ドラマで解剖し、National TheatreやHamstead Theatreなど公的補助を受けている劇場で人気者のスターが主演して上演する、そういう事が出来るのがイギリスの演劇界。

2011/08/04

「二重被爆〜語り部・山口彊の遺言」上映会、英語でのお知らせ/セラフィールドの核燃料再処理施設閉鎖

29日のポストの末尾にも書いてありますが、ジャパン・ソサエティーのサイトでは、標記のロンドンでの上映会(8月16日17:30〜)について、英語のお知らせ、及び、予約フォームがあります。また、SOASのサイトでも英語でのお知らせが出ております。

稲塚監督の8月10日のブログによると、その時点での予約者は、65名とのこと(会場の定員は140名です)。イギリス人の方々にも見ていただきたいですね。英語字幕付きです。

折しも、カンブリアにあるセラフィールドにある核燃料再処理施設の閉鎖のニュースがBBCで報道されていました。これは日本の地震によって起こった原発問題の直接の影響です。すでに記事を翻訳なさった方がおられます。

Wikipedia英語版によると、カンブリア州西部の最大の雇用主は、ひとつはこのセラフィールドの原子燃料工場、もうひとつはBAE Systemsだそうです。後者は、イギリス最大の製造業の会社にして、最大の軍事産業専門会社です。この地域は、これらの会社に生殺与奪の権を握られていると言って良いでしょう。今回のBBCの論調も、従業員が何人解雇されるか、というのが主な問題意識のように感じます。セラフィールドの工場については、過去の大きな事故を始め、色々な問題があるようですが、この施設を存続させてきたのは、日本の原子力産業です。お客さんは日本だけなのですから。

2011/07/31

Thomas Heywood, "A Woman Killed with Kindness" (National Theatre, 2011.7.29)

女性の肉体、女性の値段
Thomas Heywood, "A Woman Killed with Kindness"


National Theatre公演
観劇日:2011.7.29  19:30-21:30
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Katie Mitchell
脚本:Thomas Heywood
セット:Lizzie Clachan, Vicki Mortimer
照明:Jon Clark
音響:Gareth Fry
音楽:Paul Clark
衣装:Lynette Mauro

出演:
Paul Ready (John Frankford)
Liz White (Anne Frankford, John's wife)
Sebastian Armesto (Wendoll, John's friend)
Gawn Grainger (Nicholas, John's servant)
Rob Ostlere (Jenkin, John's servant)
Leighton Pugh (Roger Spigot, John's butler)
Leo Bill (Sir Charles Mountford)
Sandy McAuley (Susan Mountford, Charles's sister)
Tom Kay (Uncle Mountford / Sheriff)
Nick Fletcher (Sir Francis Acton, Susan's suitor and Anne's elder brother)
Louis Brooke (Cranwell, a friend of Sir Charles and John Frankford)
Hugh Sacks (Malby, Sir Charles's friend)

☆☆☆ / 5

Thomas Heywoodの劇は初めて見た。彼の作品はこれまで読んだこともなかったし、どういうタイプの劇作家かも知らなかった。そういう訳でか、今回テキストを半分くらい読んではいたが、劇の世界に入り込むのに大分時間がかかり、最初のほうは眠かったが、AnneとWendollの不倫関係が露見するするあたりからかなり引き込まれ、面白くなった。この珍しい劇を見る機会があって良かった。

2つのプロットが同時進行する。ひとつは、JohnとAnne Frankford夫婦の関係について。夫のJohnが親しい友人だが貧しいWendollを自宅に招き、この家のもの(金銭、物、使用人など)を遠慮なく自分のものの様に使ってくれ、と気前の良いところを見せる。しかし、それに悪のりしたのか、WendollはJohnの妻のAnneを誘惑し(あっという間にAnneが陥落しちゃうのでびっくり)、ついに寝室へと連れ込む。主人に忠実な使用人NicholasがそれをJohnに教え、Johnは留守にすると見せかけて二人の様子を監視。寝室にいるところに踏み込んで、Wendollを追い出し、Anneは自分の所有する別の屋敷に追いやり、二人の子供とも会わせない。Anneは罪の意識にかられ、絶望し、絶食によって自殺する。

サブ・プロットでは、Frankford家の親類で、由緒あるジェントリーの家柄のSir Charles Mountfordと彼の妹Susanが描かれる。CharlesはSir Francis Acton(Anne Frankfordの兄)と賭け事がこじれて喧嘩し、Charlesは激情に溺れて武器をふるい、Francisの使用人を殺害してしまう。彼は逮捕され牢に監禁される。Charlesは家屋敷を除く全財産を売り払い、更に借金も重ねて何とか一旦は牢獄から解放される。しかし、資金繰りが上手くいかず、Charlesは再び牢につながれる。Francisは更にCharlesを追い詰めようと思っていたが、Susanに一目惚れして考えを改め、友人を介してCharlesが出獄出来るようにと資金援助を申し出る。しかし貞女の鏡のようなSusanは、Charlesの動機を良しとせず、それを頑なに断る。Charlesは姉(?)にFrancisの言うなりになって欲しいと説得するがSusanは従わない。しかし、Francisは彼女を純粋に愛しているので、Charlesを救うと共に、Susanと正式に結婚することを申し出て、これは受け入れられる(つまりこれが、"killed with kindness"ということなんだろうけど、現代の感覚で言うと、そうですか、結婚するんならね、と納得は出来ない)。

Lyttelton Theatreの大きな舞台をまず左右2つに割った感じにして、右側6割程度はFrankford家の屋敷、左側4割程度はMountford家の屋敷としている。更に両方の屋敷に階段があって、2階部分も作られており、ステージの左右だけでなく、上下も目一杯使った大がかりで豪華極まりないセットだ。Frankfordの屋敷は新しくピカピカで、調度も整っているのに対し、Mountfordのほうは、殺人事件の後家財を処分し、壁も薄汚れ、如何にも凋落したジェントリーの屋敷らしく見えるように工夫されている。素晴らしいセットで、最初見た時はその豪華さにびっくりした。どちらか一方の屋敷で芝居が進行するわけだが、もう一方の屋敷でも召使いが急ぎ足で歩き回り、物を片付けたり、何かの用意をしたりなど、同時進行でふたつの筋書きが進んでいく。彼らの素早い動作は、まるで早まわりの映画を見ているようだ。ところが私にはこれが非常にマイナスになっていると感じた。もうひとつの屋敷での俳優のせかせかとした動きに気を取られて、今進行中の主たる演技に充分集中出来ない。どちらか一方にして欲しかった。また、いつも2つのセットを使えるので、1つの屋敷でのシーンが終わると、となりの屋敷でのシーンに切れ目なく移行するのだが、これが良いように見えて、実は良くない。観客としては、シーンとシーンの間にそれまでのアクションを消化し、次のシーンに移る頭の切り替えがしづらいのである。これは私の頭が悪いだけかも知れませんけどね。せわしないジャズのバックグラウンド・ミュージックを流し、使用人は振付をされたダンサーさながらに動き回っている。色々なことが賑やかに行われているお屋敷という雰囲気を作っているのだが、その慌ただしさが、描かれる人間ドラマをじっくり味わうのを妨げている気がした。Katie Mitchellが様々の要素を沢山詰め込み、観客が2つの家のコントラストを十分に鑑賞出来るように腐心しているのは良く分かるが、それがかえって、観客の注意力を分散する結果になっていないだろうか。謂わばマルチスクリーンの映画みたいだった。セットはそのままでよいとして、もっと余裕ある進行であると良かった。

プログラムによると、時代設定は1919年、つまり第一次世界大戦の終わった翌年としてあるようだ。Heywoodの原作は1607年、スチュアート朝であり、家庭悲劇(domestic tragedy)と呼ばれる、当時における「現代劇」。古代・中世、そしてギリシャ等の地中海世界やデンマークなど海外を主に舞台に選んだシェイクスピアの劇とは随分雰囲気が違う。当時の庶民の観客から見ると、"EastEnders"や日本の2時間ドラマ(「家政婦は見た」とか)を見ている感覚かもしれない。私の好みから言うと、大金をかけて無理して20世紀初期のピリオド・ドラマにするよりも、そのままスチュアート朝のセットやコスチュームでやったほうがずっと生き生きしたのではないかと思う。台詞には同時代の衣食住にまつわる表現が沢山あるが、20世紀にしてしまうと、それらの言葉のインパクトが霞んでしまう。

俳優は説得力ある演技をしていたように思うが、Heywoodのテキスト自体の問題として、キャラクターの膨らみや個性に乏しいのではないか、と感じた。シェイクスピア作品のような魅力的な、カリスマのある人物が見あたらない。強いて言うなら、召使いのNicholasの独白が光ったくらい。その一方で、私にとって大変面白かった点は、女性の扱い方。人類学者や社会学者が"exchange of women"(女性の交換)とか、"traffic in women"(女性の取引)という様な言葉(概念)で表現してきた伝統的社会の家父長制の仕組みをなぞったようなお話である。家と家の結びつき、男と男の社会的関係を作る交換材料として不動産や家畜同様に女性が使われる。しかし、とは言っても人間であるから、家畜のように思い通りという訳にはいかず、不都合が生じる。しかし、そうした、ここでドラマとなっているような摩擦が尚更女性が取引材料として扱われている社会状況を浮き彫りにしている。特にこの劇の場合、王侯貴族の話でなく、同時代の、所謂ジェントルマン階級の話なので、何かというとお金がからんでくるのである。

Anneは肉欲の罪に汚れた体を、絶食、即ち食餌療法、つまりダイエット、という手段により「罪滅ぼし」をしようとして、死を選ぶ。これは一方では、古代中世の聖女の殉教に通じるスタイルであり、また身近で比較すれば、現代の女性の拒食・過食と通じる面もある。性(セックス)と食餌、肉欲と肉体の自虐の関係について色々と考えをめぐらせることの出来る作品である。そうした女性の身体性を強く意識させたのは、Anneが初夜の時に寝間着を血で汚したり、その後妊娠して大きなお腹をしていたこと。Mitchellの明確な意図を感じさせる。女ってやっぱり肉体的な生き物なのね、とでも言いたいかのような劇。文学作品における女性は何故これほど身体性を意識させられるのか。結局、その理由の一部は、文学作品で描かれる女性たちが男性作家と男性社会の心象概念であるからだろう。

Sir Francis ActonとSusanの場合、愛人じゃ駄目だけど、結婚すればそれは"kindness"になって良いでしょう、というのは、現代人からするとなんともうなずけない。そういうご都合主義が、近代的結婚制度自体が含む女性取引の慣習を浮き彫りにしている。(脱線すると)実際、中世においては、レイプしても相手の女性と結婚すれば法的に許されたのである。従って、極端な話だけど、裕福な家の女性を誘拐してレイプし結婚する、というような強引な手段で、自分の家に利益を誘導するような例もあったようだ。確か、この公演のSusanを演じたSandy McAuleyが最後まで仏頂面をしていたのは、Anneの死に立ち会ったからだけでなく、Katie Mitchellがそういうことを意識していたのかも知れない。

細かい事はテキストを熟読しないと分からないが、1回見ただけでも色々考えさせられた面白い劇だった。余裕があったらもう一回見たいくらいだ。17世紀初期のイングランドに設定して上演してくれたら、私にとってはもっと良かったなと思うな。

しかし、舞台デザイナーのViki Mortimerの活躍ぶりは凄い。今やイギリスの舞台美術を代表する人の1人と言える。かってTPT全盛時代(90年代前半頃?)、ベニサン・ピットで素晴らしい仕事をしていたのが思い出される。Tokyo時代が良い修行期間になったのではなかろうか。近年も何度か日本で大きな仕事をしているようだが、これからも日本でも彼女の素晴らしいコスチュームやセットの腕を見せて欲しいものだ。


(お礼)この劇の切符は、当ブログにしばしばコメントを書いて下さるライオネルさんからいただきました。観劇のためにロンドンにいらしたのですが、他の劇と時間が重なり、行くことが出来なくなったそうで、切符を下さいました。この場を借りてお礼を申し上げます。

2011/07/29

「二重被爆」、「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」、ロンドン上映会案内

先日のブログで、「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」のロンドンでの上映会が催される予定であると書きましたが、詳しい日時場所について、稲塚秀孝監督より、以下のご案内をいただきました。

 ---------------------------------------------------------------------------


「二重被爆」「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」
ロンドン上映会の案内


 
今年1月BBCの番組「QI」において、「世界一運が悪い男」と呼ばれた故・山口彊さん。「二重被爆」の実態を描いた2本のDVDをBBCに送り放送して欲しい、と伝えましたが、いまだ実現はしておりません。しかしながら、山口さんの被爆体験と反核の思いをぜひとも伝えようと、下記のようにロンドンでの上映会を開くことが決まりましたので、お知らせいたします。

実施日時:2011816日(火)
       1700  開場
       1730~ 田上富久 長崎市長 挨拶(DVD
            「二重被爆」(2006年・59分)上映
       1845~ 休憩(15分)、稲塚秀孝 監督挨拶
       1910~ 「二重被爆~語り部・山口彊の遺言」
                    (2011年・70分)上映
       2020~ 稲塚秀孝 監督・プロデューサーへのQ&A
       2055  終了

実施場所:The Khalili Lecture Theatre (Lower Ground Floor)
                 ロンドン大学、アジア・アフリカ学院
           ジャパン・リサーチ・センター内 (Japan Research Centre)
                          (140席)
住所:School of Oriental and African Studies (SOAS), University of London 
   Thornhaugh Street, Russell Square, London WC1H OXG
                (Mapはこちら)

主催:「二重被爆」をロンドンで見る会
後援:長崎市
協力:ジャパン・ソサエティ、ロンドン大学アジア・アフリカ学院
                            (SOAS)
問い合わせ先:タキシーズ 稲塚秀孝
         inazuka@nw-media.net 


---------------------------------------------------------------------------------------------------

以上が監督からのお知らせです。なお、Japan Societyのページにも案内がありましたが、予約をするようになっております。大きな会場ですが、念の為こちらのページの末尾にある連絡先、または予約フォームにより、予約をお勧めします。


(8月10日追記)SOASのサイトでも英語のお知らせが出ました。
 

2011/07/24

Friedrich Schiller, "Luise Miller" (Donmar Warehouse, 2011.7.23)

ドイツの『ロミオとジュリエット』
Friedrich Schiller, "Luise Miller"

Donmar Warehouse公演
観劇日:2011.7.23  19:30-22:00
劇場:Donmar Warehouse

演出:Michael Grandage
脚本:Friedrich Schiller
翻案:Miike Poulton
セット:Peter McKintosh
照明:Paule Constable
音楽・音響:Adam Cork
衣装:Mary Charlton

出演:
Paul Higgins (Miller, a court musician)
Finty Williams (Frau Miller, Miller's wife)
Felicity Jones (Luise Miller, their daughter, age 16)
Max Bennett (Ferdinand, Chancellor's son)
Ben Daniels (Chancellor)
John Light (Wurm, Chancellor's secretary)
Alex Kingston (Lady Milford, Prince's mistress)
David Dawson (Hofmarschall von Kalb, a courtier)
Lloyd Everitt (Chancellor's page)
Alexander Pritchett (Lady Milford's servant)

☆☆☆☆ / 5

フリードリッヒ・シラー(1759-1805)はシェイクスピアに通じていたようだ。この"Luise Miller"(1784年初演)は、大人の社会の陰謀と邪悪に踏みつぶされる純粋な若者の死を悲劇的に描き、『ロミオとジュリエット』に共通する点が大きい。更に、『オセロー』に似た面もあり、シェイクスピアの影響が色濃い。

私はオペラを全く見ないのだが、この戯曲は、ヴェルディがオペラにしていて、そちらのほうが原作よりも有名なくらいなのかもしれない。しかし、この原作も素晴らしく、上演前に脚本を7割くらい読んで行ったのだが、本で読むだけでもかなり引き込まれた。今回の翻訳はNorthern Broadsideが上演した"The Canterbury Tales"、RSCの"Morte D'Arthur"他、かなりの戯曲の翻訳・翻案をしているMike Paultonによる。"new version"とあるのだが、原作をどのくらい忠実に訳しているか、あるいはかなりの翻案か分からない。しかし、言葉は特に現代的にはしておらず、コスチュームやセットも歴史的なものであり、18世紀の古典のオーソドックスな上演だった。

ドイツのある国のChancellor(ドイツでは首相だろう)にFerdinandという若い息子がおり、彼が音楽を習っていた楽士Millerの素朴な娘Luise Millerと身分違いの恋に陥る。そうと知らぬ父親のChancellorは、息子をその国のプリンスの愛人で亡命イギリス人貴族のLady Milfordと結婚させ、自分の地位を強化しようと計画し、息子に命令する。Ferdinandは激しく反発し、父が権力を得るためにした不正な行いをプリンスに通報すると父を脅すので、Chancellorも一旦は引き下がらざるを得ない。Chancellorの腹心で、イアーゴウのように腹黒いWurmは、Chancellorに悪知恵を吹き込み、Luise Millerの両親を投獄。彼らを解放する条件として、FerdinandがLuiseの変心を信じるような手紙をLuise自身に書かせようとする(オセローにとってのハンカチみたいなもの)。オセローさながら、嫉妬に狂ったFerdinandは破滅への道を一気に進む・・・。

新聞の劇評でも指摘されているが、聖者が神を愛するように純粋にFerdinandを愛したLuiseを信じ切れないFerdinandと、インテリジェントでありながらもWurmの策謀に乗せられてしまうLuiseの、後半のキャラクター作りにやや無理がある気がして、そこが原作の欠点と言えば欠点だろうか。しかし、逆に言えば、16歳のLuiseはもとより、二人の未熟さ、若さ故の弱さとも思える。『ロミオとジュリエット』でもそうだが、決定的なところで飛躍や偶然が重なった方が悲劇性が増す場合もあり、私はそう違和感は感じなかった。

「大人の腐敗した世界と純粋な二人の愛」の対立に並行する相として、宮廷や貴族社会と新興中産階級の人々の対立があるだろう。楽士のMillerは、最初、娘がChancellorの息子と付き合っていることに戦々恐々として、娘を思いとどまらせようとするが、彼の妻は意気軒昂に娘の愛を支持する。そのMillerもChancellorが娘を侮辱する言葉を吐いた時には、地位や身の安全を顧みず、敢然と抗弁をし、まるで若いマリアを守ろうと腐心するヨセフのようである。また、LuiseもLady Milfordとの対話で、貧しく慎ましい庶民の彼女自身のほうが、豊かで権力はあっても、その権力の奴隷でもあるLady Milfordよりもましであることを断言し、Lady Milfordもそれに同意せざるを得ない。18世紀も終わりに近づいた時代の劇だけあり、近代市民社会の成熟、彼らの自由への渇望と既成の支配階級への反発を強く感じさせる劇であり、Miller一家がそれを鮮やかに体現していた。

ほとんどセットのない小さな劇場でのシンプルで骨太な劇を支えるのは俳優達の名演。特にBen Danielsの台詞回しと存在感は圧倒的。悪役にしてはちょっと格好良すぎるくらいかもしれない。Paul Higginsの父MillerとLuiseのFelicity Jonesの二人は、庶民の素朴さとその裏に潜むたくましさを良く出していた。Higginsの方言もそうした面を強めていて効果的(彼はスコットランド出身)。屈折した悪賢さを見せるWurmのJohn Light、きざで軽薄な宮廷人Hofmarshall von Kalb役のDavid Dawson、そして権力と運命によって滅ぼされた、謂わばLuiseのシャドウとも言えるLady MilfordのAlex Kingstonなど、ひとつひとつの役柄が印象的であった。

学部生時代の私の恩師のひとりで、私の人生を変えたT先生が、「文学作品には、人生のある年代、特に若い時に読まないといけないものがあるんです」と言っていたのを思い出す。私はこのような青春の悲劇に心の底から揺さぶられるには年を取りすぎてしまったが、それでも大変感動的だった。この上演を、主人公達に近い10代後半や20代で見られる方は大変幸せだ。

2011/07/22

Rose Tremain, "Trespass" (2010; Vintage, 2011)

南仏の憂鬱
Rose Tremain, "Trespass"
(2010; Vintage, 2011) 373 pages.

☆☆/ 5

これまでにこの作家は4冊くらい読んでいる。特に"The Colour"やオレンジ・プライズを受賞した"The Road Home"には大変感動した。好きな作家である。しかし、今回はあまり引き込まれないまま読み終わった。

物語の起こる場所は主として南フランスの寒村。よく英米人のエッセイや小説で取り上げられる爽やかで陽気な雰囲気ではなく、さびれ、外国人などが土地建物を買いあさっている。Mas Lunelという人里離れた農家にAramon Lundという男が、そして彼の土地の直ぐそばの粗末な家に妹のAudrunが住んでいる。Aramonは獣のような男で、かっては亡くなった父親と共にAudrunを虐待しており、Audrunにはその事への恨みが根深くくすぶっている。しかし、Aramonは酒に溺れ、自堕落な生活をし、農場は荒れ放題で、哀れな状態になっていく。

少し離れたところに、一定の成功をしつつあるガーデン・デザイナーのVeronica Vereyが、レスビアンのパートナーであるKittyと住んでいる。Kittyは水彩画の画家志望者であるが、平凡な才能しか持ち合わせておらず、Veronicaの収入に頼っている。Veronicaにはロンドンに高級アンティック家具のディラー、Anthony Vereyという弟がいる。彼はかっては大変羽振りが良く、様々の有名人を顧客に抱えていたが、今はすっかり落ちぶれ、店を訪れる客も少ない。彼は人生をやりなおそうとVeronicaのところを訪ね、南仏の農村が気に入り、自分も家を探し始める。Aramon Lundの住むMas Lunelが大変気に入り、商談を進める。KittyとAnthonyはVeronicaを取りあって、非常に仲が悪く、お互いに相手をどうやって遠ざけるか算段をする。また、AudrunはもしMas Lunelが売られたら、自分の住むところが無くなりかねないと大変心配になる。そういう時、Anthonyが売りに出た物件を見にに出かけたまま行方不明になる・・・。

Anthonyの失踪をプロットの中心に据えた一種ミステリー仕立ての小説。AramonとAudrunの兄妹、VeronicaとAnthonyの姉弟、というふたつの関係、それにKittyとVeronicaのカップルという3組の愛と孤独の物語。これらの5人の人々は、奇妙に地域や友人から孤立し、大変孤独な人々である。更にAramonとAudrunは虐待した者、された者であるが、しかし奇妙な依存関係で繋がっている。VeronicaとAnthonyは堅い姉弟愛で結ばれているが、それは他人を寄せ付けない排他的なものであり、Kittyを限りなく不幸にする。それぞれ自分の必要に応じて他者を愛したり、利用したりするが、5人とも人間としては魅力に乏しい、閉鎖的で自己中心的なキャラクター。カラカラに乾燥した南仏の大地が、彼らの荒れ果てた人生をくっきりと浮かび上がらせる。彼らの孤独感、疎外感が大変よく書けているが、しかし、それは感動を与えるようなものではなく、むしろ彼らのいびつなメンタリティーを掘り下げて見せる。

魅力的なキャラクターもおらず、特に感動的でもなく、私にはあまり楽しめなかった。但、登場人物の孤独感は良く書けている。農村でありながら、精神の孤島に住む人々という感じであった。

Veronica, Anthony, Kittyの共通点として、全員独身で、子供もおらず、地域のコミュニティーとの結びつきもない根無し草。皆、文化的な人々で、自由に人生を変えられるし、いつでも再出発が可能だが、自分の世界に凝り固まっていて、わびしい心象風景。自分の世界を壊されることに恐怖を感じて、何かと自己防御し、心を閉ざす。場所や環境は違っても、こういう人物って現代人に多いのではなかろうか。私自身も他人から客観的に見るとそう見えるかも知れない。そう言う点では大変考えさせられた。

2011/07/19

St Cuthbert Gospel(7世紀末)の行方は?



現在大英図書館にて委託保管されているSt Cuthbert Gospel(別名Stonyhurst Gospel)はアングロ・サクソン時代のラテン語聖書で、現存する中では、ヨーロッパ中世において、最も早く作られた書物だそうである。リンディスファーン修道院の院長で、司教でもあったSt Cuthbertが使っていた聖書だと言われる。しかし現在のオーナーは大英図書館、つまりイギリス国家ではなく、イギリスのイエズス会 (The Society of Jesus) で、まもなく売りに出すとのこと。その前に大英図書館に買い取るかどうかの相談があり、その値段が9百万ポンド(11億円以上)!現在625万ポンドほど都合がついたようであるが、まだ275万ポンド不足しているとのこと。巨額であるが、大丈夫なのだろうか。大英図書館は、こういう大口の寄付をする色々な団体や個人と話し合いをしているらしい。もし大英図書館の手に入れば、ロンドンの大英図書館に半年、ダラムの世界遺産サイトに半年、保管・展示されるとのことである。

この本は、アングロ・サクソン時代に北イングランドにあったノーサンバーランド王国に住んでいたキリスト教の聖者、St Cuthbertの遺体と共に698年頃にリンディスファーンの修道院に埋められた。その後、バイキングの来襲を避けるためにダラム大聖堂に移設されたらしい。アングロ・サクソン時代が終わり、ノルマン朝になった1104年にこの大聖堂で発見された。

私は不勉強で、この聖書についてこれまで知らなかったが、7世紀の書物が美しい表紙も含め、これほど完全な状態で残存していることに大変驚く。大きさは8.9センチx13センチ。表紙は赤い光沢のあるレザーで、文様が刻まれている。この装丁 (binding) は、ヨーロッパ最古のものであるとのこと。

St Cuthbert (c. 635-687)はノーサンブリアに生まれ、Melrose, Ripon, Lindisfarneなどの修道院で活動した。リンディスファーンの修道院長、及び685年には司教となった。禁欲的な生活と、奇跡を起こしたことで知られている。698年には聖者とされている。中世のイングランドにおいて最も強い信仰を集めた、人気のある聖者のひとり。

以下はSt Cuthbert Gospelの1ページと、St Cuthbertの肖像:




Wikipediaの解説 "Stonyhurst Bible"

BBCウェブサイトのニュースより(British Libraryの学芸員によるビデオ解説あり)

2011/07/17

Arnold Wesker, "Chicken Soup with Barley" (Royal Court Theatre, 2011.7.16)

第二次大戦を挟んで労働者階級家族がたどった軌跡
"Chicken Soup with Barley"





Royal Court Theatre 公演
観劇日:2011.7.16  14:30-16:50
劇場:Royal Court Jerwood Theatre Downstairs

演出:Dominic Cooke
脚本:Arnold Wesker
セット・コスチューム:Ultz
照明:Charles Balfour
音響:Gareth Fry
音楽:Gary Yershon
方言指導:Penny Dyer

出演:
Samantha Spiro (Sarah Kahn)
Danny Webb (Harry Kahn, Sarah's husband)
Jenna Augen (Ada Kahn, their daughter)
Tom Rosenthal (Ronny Kahn, their son)
Alexis Zegerman (Cissie Kahn, Harry's sister)
Harry Peacock (Monty Blatt)
Rebecca Gethings (Bessie Blatt, his wife)
Joel Gillman (Dave Simmonds)
Ilan Goodman (Prince Silver)
Steve Furst (Hymie Kossof)

☆☆☆☆ / 5

1958年初演のこの劇は、既に英文学史やイギリス演劇史の本でも触れられている。Arnold Weskerは、John Osborneの"Look Back in Anger" (1956)以降、ワーキング・クラスを描いた一連の作家、Angry Young Menのひとりであり、彼の作品は、所謂kitchen sink dramaのひとつ。しかし、"Look Back in Anger"の主人公達は、やり場のない不満や怒りを抱える、さまよえる魂とでも言うべき浮き草のような連中で、またかなりミドルクラス臭い雰囲気を持っているのに対し、Weskerのこの作品は、ロンドンのイーストエンドのワーキング・クラス家庭、それもユダヤ人で左翼の運動に関わっている人々として、しっかり定義づけられていて、時代と地域に深く根を下ろしている点が、私にとっては大変興味深かった。更に、劇のカバーする時代はナチスの台頭も著しい1936年から、戦争直後の45、46年、そして、戦後のイギリスの社会が確立された55年から56年、という3部に分けられている。イギリス社会の中における左翼ワーキング・クラスの変化を大変分かりやすく見ることが出来、外国人の私にとってはイギリス現代史の勉強にもなり、自国の事をふりかえる機縁にもなる。但、おそらく今75歳くらい以上の人々だと、この劇の時代をかなり生きてきて、生々しい感慨があると思うが、現在のほとんどの観客にとっては、既に歴史的な劇になったという印象はあった。

第1幕は1936年10月4日。ロンドンの下町の屋根裏部屋に住むKahn一家は、近所の友人達と共にデモに出かけようとしている。皆意気盛んで、警察と対決し、イギリスにおけるファシスト、モズリーの黒シャツ達も恐れていない。デモで警官に頭を殴られて血を流して返ってくる者もいるが、彼らは労働者階級の力を信じていて、希望に溢れている。これからスペイン内戦の国際旅団(市民義勇軍)に参加しようという者(Dave Simmonds)さえいる。こうした人達の中心にいるのは、Kahn家の女家長とも言うべき、エネルギッシュなSarah。だらしない夫のHarryを叱咤激励しつつ、皆にお茶や食べ物をふるまい、元気づけ、そして自分もデモに出かけていく。

第2幕の1946年のシーンでは雰囲気はがらっと変わっている。彼らの住居は幾らか良くなっている。しかし、夫のHarryはだらしなくて、景気が良くて求人は多いにも関わらず職を転々とし、この時は失業状態。娘のAdaは成人し、スペインの国際旅団に加わったDaveと結婚しているが、戦争は終わったにも関わらず夫はまだ帰国しておらず、孤独を囲っている。彼女は母Sarahの左翼運動には全く関心を示さない。息子のRonnieは母に感化されたのか、本屋の店員をしつつ、socialist poetになるんだ、という夢のような話をしているが、Sarahは手に職をつけるように勧めている。生活は良くなったが、かってのワーキング・クラスのコミュニティーが徐々にほころびを見せ、一体感が薄れつつあるのが感じられる。しかしSarahは依然としてエネルギー一杯で、元気に、忙しくふるまっている。一方、夫のHarryは途中で(Act Oneの終わりで)脳梗塞になり、かなりの後遺症が残る。元々意志の弱い人だったが、一層だらしなくなり、Sarahに頼り切っている。

第3幕は1955年、56年。イギリスも日本同様、戦後の成長期に入りつつある。また、NHSによる国民皆保険や今も続く社会保障制度が確立している。かってSarah達がデモやストライキをして要求していたものがかなり現実になったようだ。Sarahは社会保障費を貰うための面倒な書類を書いたり、役所の窓口が不親切なのをこぼしている。経済的には改善したようだが、労働者達は幸福になったのだろうか。Harryは2度目の脳梗塞を患い、歩くのも不自由で、失禁することもある状態。Sarahと一緒にデモに出かけたかっての同僚もみなばらばらになり、カード・ゲームをしたり、想い出を語り合いに集まることがあるだけ。更に、1956年、ハンガリー市民による反抗をソビエト軍が血の粛清をしたことが、かって共産主義に夢を託した彼らに決定的な幻滅を与えた。社会の動きに関心を持ち続け、左翼の理想を捨ててはいないSarahも、夫は病気、娘は遠くに住み、社会や政治について議論をする人もおらず、孤独は深い。


この劇の初演は1958年、CoventryのBelgrade Theatreだが、その後すぐにRoyal Courtでロンドンでの初演が行われている。それから半世紀ちょっと経った今、同じ劇場でリバイバルされているわけだ。第3幕の憂鬱な状況の後、イギリスの、いや、日本でもそうだが、労働者階級は、そして左翼運動はどうなったのか、色々と考えさせられた。

主役のSarah Kahnを演じたSamantha Spiroのダイナミックな演技が大変印象的。昨今のキャリア・ウーマンを描いたテレビ・ドラマなんか到底かなわない力強く粘り強い女性の闘士だ。また、劇のキャラクターとしてはSarahの引き立て役でもあるHarry Kahn役のDanny Webbは、夫の意志の弱さ、子供っぽさやだらしなさを大変上手く表現していた。セットや衣装もそれぞれの時代を良く表しており秀逸。脇役の演技やワーキング・クラスのアクセントも含め、隅々まで注意の行き届いたケチの付けようのないプロダクション。各紙の批評家も絶賛。特にGuardianのMichael Billingtonは5つ星だが、如何にも彼の好きそうな劇。座席の後ろは立ち見で見ている人でぎっしりだった。しかし、日本人の私にはやはりやや距離を感じる内容ではある。

同時代のピンターやベケットの抽象的な作品と違い、この劇は社会や政治の流れと密接に結びついているので、どうしても徐々に古びてしまうのは仕方がない。幾ら優れた公演でも、初演時のインパクトにはとても及ばないとは思う。しかし、それをかなり補っているのが家族のドラマ。ワーキング・クラスの一家族、そして彼らを包むコミュニティーの姿が生き生きとよみがえった作品だった。

劇の幕切れで、Sarahの息子Ronnieはハンガリー動乱の悲惨な結果など、左翼運動に徹底的に幻滅している。その思いはSarahも十分理解している。しかし、それでも彼女が言う言葉が感動的だ:

So what if it all means nothing? When you know that you can start again. Please, Ronnie, don't let me finish this life thinking I lived for nothing. We got through, didn't we?  We got scars but we got through. You hear me, Ronnie? (She crasps him and moans.) You've got to care, you've got to care or you'll die.

(拙訳) それで(これまでやって来たことが)全て何にもならなかったとしたらどうなのよ。そう分かったら、もう一度始めるのよ。ねえロニー、私の人生、何にもならなかったなんて思って終わらせないでよ。私達生き抜いてきたじゃない? 傷だらけになったけど、でも生き抜いたわ。ロニー、聞いてる? [彼女は彼を握りしめ、うめくように言う] 世の中のことに関心を持ち続けなきゃいけないわ。関心をね。でなきゃ死んだも同然よ。

(追記)GuardianのウェッブサイトにWeskerのインタビューがあり、この劇についても述べている。大変自伝的色彩の濃い劇のようであり、Kahn家の両親は自分の父母、そしてRonnieが彼自身をベースにしているようだ。彼の母親は一生コミュニストだったそうである。彼は時代の流れを背景にしつつ、家族の崩壊を描きたかったそうである。

2011/07/16

"Double Lesson" (Channel Four, 2011.7.15)

教師が限界に達する時
"Double Lesson"


Channel Four   2011.7.15  19:30-20:00

監督:George Kay
出演:Phil Davis (David De Gale, a secondary school teacher)

たった30分の単発ドラマ。しかも出てくる俳優はPhil Davisひとりで、場所も普通の民家の部屋と玄関口だけ。主人公が勤め先の学校で起こったことを回想するだけのドラマ。モノローグであり、ラジオドラマでも構わないような作品。にも関わらず、私にとっては、これほど衝撃を受けるドラマを見るのは年に1本もあるかないかと思う。イギリスに来て以来では、BBCの"Five Daughters"以来である。おそらく、私が20年以上教師をしていたからだろう。教壇に立った人なら、このドラマは痛切に心に迫るに違いない。しかし、一つの職業人の終わりを描いたドラマとして、素晴らしい作品。

主人公のDavid Galeは中学高校の先生。国語(English)担当のようだ。もうすぐ定年退職を控えている。しかし、妻は病気で(多分乳癌と思う)手術が間近のようで、そのストレスをかなり感じつつ生活している。彼は学校で生徒の嫌がらせにも苦しみ続けているが、自分が管理職であるために相談する人もいない(教師というのはかなり孤独な職業だ)。ある日教室で彼の我慢は限界に達し、生徒に突然暴力行為を働く。彼は殺人未遂で告発される。これから判決を受けるという朝、これまでの苦痛と孤独を淡々と振りかえる。

Phil Davisはこれまでもドラマで何度も見ている。最近では"Whiltechapel", "Sherlock", "Ashes to Ashes"などに出ているようだ。"Whitechapel"での切り裂きジャック・マニアの役は、忘れっぽい私でも良く覚えている。大変印象的な個性を持った俳優だ。演出やシナリオ執筆もする才人のようだ。今回も実力発揮で、画面に釘付けになった。

そのうち再放送もあると思うが、イギリスにおられる方は当分の間チャンネル4のサイトで見ることが出来る。是非お勧めしたい。

2011/07/10

Nikolai Gogol: "Government Inspector" (Young Vic, 2011.7.9)





古典を徹底したスラップスティックにして大成功
"Government Inspector"



Young Vic公演
観劇日:2011.7.9  14:30-17:00
劇場:Young Vic Theatre

演出:Richard Jones
原作:Nikolai Gogol
翻案:David Harrower
セット:Miriam Buether
照明:Mimi Jordan Sherin
音楽・音響:David Sawer
衣装:Claire Murphy

出演:
Julian Barratt (mayor)
Doon Mackichan (Anna, mayor's wife)
Louise Brealey (Maria, mayor's daughter)
Kyle Soller (Khlestakov、フレスタコーフ)
Callum Dixon (Osip, Khlestakov's servant)
Bruce MacKinnon (judge / shopkeeper)
Eric MacLennan (head of hospitals / shopkeeper)
Simon Müller (school superintendent / shopkeeper)
Amanda Lawrence (postmaster / sergeant's widow)
Steven Beard (Doctor / waiter / shopkeeper)
David Webber (police superintendent / shopkeeper)
Jack Brough (Dobchinsky, a local landowner)
Fergus Craig (Bobchinsky, a local landowner)

☆☆☆☆ / 5

この日は体調不良で最低のコンディション。喜劇を楽しむ気分ではなかったにも関わらず、この公演は大変意外なことに、面白かった。脚本を全部読んでいったのだが、読んでいる間は、古めかしくて、これじゃ到底面白い公演にはならないだろうと思っていた。また、これが翻訳ではなく、翻案 (versionとある)のも気に入らなかった。何か変な細工をして、原作が台無しになっているのではないかと。蓋を開けてみると、とんでもない細工だらけ。ところが、予想を裏切りとても面白かった。

ゴーゴリの『検察官』("Government Inspector")はロシアの田舎町の市長や役人、小市民のせこい汚職や腐敗を諷刺した喜劇。田舎町に、首都の下っ端公務員だが、遊び人で、ギャンブルで借金だらけのフレスタコーフ(Khlestakov)が使用人のOsipと共にやってくる。手持ちの金も尽き、宿屋からは食事も出してもらえないで、ひもじい思いをしている有様。ところがちょうどその頃、その町に政府の検察官がやってくるという知らせが市長の親戚からあった。市長や町のお偉方はこのフレスタコーフを、すっかり検察官本人と勘違いしてしまい、町中のお化粧直しをして表面をつくろうと共に、賄賂の嵐で、彼を丸め込もうとする。一方、いい加減極まりない若者のフレスタコーフは、この誤解を幸いとして、精一杯の贅沢をし、賄賂をせしめ、市長の娘や妻を誘惑し、そしてあと一歩でばれそうだという時に、さっさと町を後にする。市長達が気づいた時は後の祭り。しかも本物の検察官が到着したので、出頭せよ、という公文書が市長のもとに届く。

テキストを読んだ時は、今更こんなこと書かれても、という感じの古めかしい社会批判のリアリズム劇と思えた。しかし今回の公演では徹底的にスラップスティックにして、脚本からは感じにくいドタバタ、デフォルメされた演技、表情、衣装などで、地味な風刺劇が、ドリフターズの喜劇みたいになっていた。妙に明るい照明、チープな、学芸会の手作りのような衣装、オーバーな演技、ステージ中を走り回るアクション、前に座っていた母親の観客が思わず連れてきた子供の目をふさいでしまったようなあからさまな濡れ場、おもちゃ箱から飛びだしてきたような小道具(走り回るネズミ、市長の似顔絵が描いてある風船、賄賂を持った手が飛び出してくる花瓶、等々)。普通の喜劇なら明らかにやりすぎかと思えるのだが、やり過ぎもここまで徹底すると、ユニークさになっている。終わってみると、劇全体が一種のファンタジー、検察官と人違いされたために、ワードローブの向こうの国に入ってしまい、願ったことが何もかも思い通りになった若者の一夜の夢、あるいは、ウサギならぬネズミに連れられて別世界に迷いこんだ「不思議の国のフレスタコーフ」、という感じ。「アリス」のように、この不思議の世界も、不協和音、暴力、冷酷に満ちており、単なる馬鹿話ではなく、十分に諷刺の毒も効いている。

ひとりひとりの配役がよく計算されて造形されていて感心した。フレスタコーフや市長は勿論だが、ほとんど台詞のないドクターなどが何かするだけでとても愉快。市長の、大柄な妻と彼の小さな娘のコンビが、安キャバレーのコスチュームみたいな服を着て色気を振りまき、なんともおかしなお笑いコンビになっていて出色。

しばし体調の悪さを忘れ、楽しいひとときを過ごさせてもらった。しかし、前の席のお母さん、びっくりしてる10歳前後の娘達を前にしてえらく慌てていたが、後でどんな説明をしたのやら・・・。

次の写真はYoung Vic前。



















一方、直ぐそばのOld Vicでは、サム・メンデス演出の"Richard III"が始まっていた:

2011/07/07

"The Pride" (Crucible Theatre, Sheffield, 2011.7.5)

愛、孤独、アイデンティティー
"The Pride"





Crucible Theatre公演
観劇日:2011.7.5 19:45-22:00
劇場:Studio, Crucible Theatre, Sheffield

演出:Daniel Evans
脚本:Alexi Kaye Cambell
セット、衣装デザイン:James Cotterill
照明:Johanna Town
作曲:Olly Fox

出演:
1958年
Daniel Evans (Oliver, a children's author)
Jamie Sives (Phillip, a businessman)
Claire Price (Sylvia, Oliver's wife and a painter)
Jay Simpson (The Doctor)

2008年
Daniel Evans (Oliver, a freelance writer)
Jamie Sives (Phillip)
Claire Price (Sylvia, an actor)
Jay Simpson (The Man in Nazi cosume / Peter [a magazine editor] )

☆☆☆☆☆ / 5

この劇は実に台詞が素晴らしい。それで、まずは台詞を一部引用したい。親しい友人同志のSylviaとOliverの会話(2008年のシーン、訳文は下にあり):

OLIVER. Sometimes . . .

SYLVIA. What?

OLIVER. Do you ever get that thing?

SYLVIA. What thing?

OLIVER. When you've just fallen asleep, just before the dreams begin. Or maybe just after you've woken up and your eyes are open even though your mind might still be dreaming.

SYLVIA. What about it?

OIVER. The brevity of life strikes you. The brevity. The randomness. A flash in the pan.

SYLVIA. I've had that.

OLIVER. And I kind of feel then that the only thing that matters is finding some meaning, some reason, something you can slap the face of brevity with. And say I was here. I existed. I was. And then I think that the only two ways to do that are through work and relationships. How you changed people. How people changed you. And how you held on. To each other. Or at least gave it a damn good try. That's what defines your flash in the pan.

SYLVIA. Amen. (p. 94)

Text: Alexi Kaye Chambell, The Pride (London: Nick Hern Books, 2008)

(拙訳)
OLIVER. 時々ね・・・。

SYLVIA. なに?

OLIVER. ああいう気持ち感じることある?

SYLVIA. 何のこと?

OLIVER. 今にも眠りそうになっている時、ちょうど夢が始まりそうな時。それとか、目が覚めてまぶたが開こうとしてるけど頭はまだ夢の中っていうような時ね。

SYLVIA. それで・・・。

OLIVER. 人生の短さにぎょっとするんだよね。あっという間。いい加減で。まぐれの連続みたいな感じ。

SYLVIA. 私も感じたことある。

OLIVER. それで唯一大事なことがあるとしたら、その人生の短さに抵抗するために、何かその意味っていうか、理由を見つけることだと思うんだ。そして、俺はここに居たぞって言えるような。存在したんだ、生きてたんだってね。それをやれるにはふたつしか方法がなくて、仕事と人間関係だと思う。どうほかの人を変えたか。ほかの人が自分をどう変えたか。そしてその人間関係を続けたかどうか。お互いに。少なくとも続けようと精一杯やってみたかどうか。それが、人生のまぐれを決めていくんだよね。

SYLVIA. 異議なし。
(訳文終わり)

名前は同じだが血縁と言ったような直接の関係はない3人の男女、Oliver, Philip, Sylvia、の、1958年と2008年の人間関係を通じて、愛、孤独、アイデンティティーというような人間の基本的な問題に正面から取り組んだ作品。更に、OliverとPhilipはどちらのシーンでも同性愛で、お互いに引かれ合い、関係を持つので、それぞれの時代においてゲイの人々がどう扱われているか、半世紀の間にゲイの人を取り巻く環境が如何に変わったかも鮮やかに示してくれる。しかし、狭い意味のゲイの人達を扱った劇ではなく、現代人の多くが感じる孤独感を掘り下げた作品である。

58年の場面では、PhilipとSylviaは結婚しているが、表面はほがらかで明るく見える2人の夫婦仲は実は虚ろである。ある夜、挿絵作家のSylviaは一緒に仕事をしている児童文学作家のOliverを自宅に招く。OliverとPhilipの間にはすぐに強い電流が流れ始める。しかし、お堅いビジネスマンのPhilipは自分の気持ちを押し殺そうと異常なまでの努力をし、最後には彼の性的欲望を治療しようと医者にかかったりする。何しろこの頃のイギリスでは同性愛は道徳的に堕落した (pervert)、一種の病気とされ、同性愛の行為は違法であり(法律の改定は67年)、50年代には何千人もの人々が逮捕されていたくらいだった。医者は彼に薬剤による一種のショック療法を与えて、同性との性行為に嫌悪感を起こさせるような治療をすることになる。この場面が実によく書けている(以下のシーンの前で、医者が治療方法を説明したところ):

PHILIP. Yes.
  [pause]
The thing is, Doctor . . .

DOCTOR. Yes?

PHILIP. What I need to know is . . . the other things. The other feelings. I mean, the ones that aren't exclusively sexual.

DOCTOR. Yes.

PHILIP. Do they . . .  will they . . .
    There is awkward pause.

DOCTOR. The nurse will be ready for you now. And I will be seeing you again in the morning. (p. 102)

(拙訳)
PHILIP. わかりました。
[沈黙]
あのう、先生・・・。

DOCTOR. 何ですか。

PHILIP. 私が知りたいのは・・・もうひとつのことなんですが。気持ちの問題という。つまり、セックスとかそう言うのじゃない、気持ちのことなんですけど。

DOCTOR. はい。

PHILIP. そういう気持ちって・・・これから・・・。
[しばしぎこちない沈黙]

DOCTOR. そろそろ看護婦が用意しているでしょう。私は明日の朝お会いします。
(訳文終わり)

作者は、ゲイの人が何かというと彼らのセックスで定義される傾向、そしてそれが今もそれ程変わっていないかも知れないと観客に気づかせてくれる。

2008年の場面では、OliverとPhilipはくっついたり離れたりのカップルで、Sylviaは2人の悩みを聞いてやる親しい友人。2人はなかなか壊れない絆を感じてはいるのだが、精神的にも大変不安定なOliverが衝動的に相手構わずセックスをするので、真面目なPhilipは付き合いきれないと言って、関係を切ったところ。要するに異性愛、同性愛に関係なく、色々なカップルで起こりそうなシチュエーションである。半世紀経った今、ゲイの人々をめぐる環境は如何に変わったかが分かる(しかし変わらないところもあるのはOliverと雑誌編集者の会話でうかがえる)。

58年のシーンが大変押し殺された緊迫感に富み、素晴らしい。抑圧された2人の男性。Oliverは何とか自分に素直に生きたいと、積極的に出口を捜し、Philipとの関係を続けようとするが、PhilipはOliverに引かれつつも、何とかそれを押し殺し、自己否定しようと必死である。彼の無理に抑圧された感情が、暴力的な表現を取る時もある。もっとも悲痛なのは1人で苦しむSylviaである。彼女は夫がゲイであることを知るようになり、夫婦の間には超えがたい溝が出来る。彼女は、2人の関係を正直に見つめようとし、夫を理解しようと必死だが、夫は完全に自己否定をしているために、とりつく島もない。彼女は子供が出来たらその孤独感が埋められるかも知れないと、必死に望む。しかし一方で、子供を求める気持ちに疑問も感じている:

SYLVIA. But then I started to question why I wanted it so much. A child. Why it meant everything to me. The desperation. Sometimes I prayed with my whole body. I would lie next to you in bed and pray with my whole body to feel it . . . the beginning of it. The stirrings. A new life inside me. I was sure I'd know  the very night it happened.

PHILIP. For God's sake.

SYLVIA. And I thought it's natural, it's because I'm a woman. To be  a mother. That's all. So I prayed and prayed and prayed.

PHILIP. What are you saying?

SYLVIA. But then I realised that there was something else. I wanted a child because I was frightened of us being left alone. Philip. The two of us. Just us. Alone.  (p. 49)

(拙訳)
SYLVIA. でも、何故そんなに欲しいのか不思議でもあったわ。子供を。何故それが私にとってそれだけ大事だったのか。必死だったのよね。時々、全身で祈ってた。ベッドであなたの横に寝ていて、体中でそれを感じられるよう祈ってた・・・その始めの時を。かすかな動き。自分の体の中で生まれる新しい命。命が始まる最初の夜、それがきっと感じられると信じてたわ。

PHILIP. もうやめてくれ。

SYLVIA. そしてそう感じるのが自然だと思ってた。何故って、わたし女だから。母親になるってこと。それだけだって。それで、子供できて欲しいって、神様にお祈りして、お祈りして、お祈りして・・・。

PHILIP. 君、何が言いたいんだ。

SYLVIA. でも、それから何か別のことがあるって気がついた。子供が欲しかったのは、ふたりで残されるのが怖かったから。フィリップ、あなたと、ふたりだけで。私達、ふたりだけ・・・。
(訳文終わり)

聞いていて痛々しいことこの上ない台詞だった。

台本を7割くらい読んでから出かけたのだが、台本自体が大変面白い。チェーホフとかラティガンみたいな感じがある。現代演劇に関心のある方には、台本を読むだけでもお薦めできる。随所に輝くような台詞がある。但、欠点ではないかと思ったのは、せっかく素晴らしい台詞やシーンが多いのに、58年のシーンと2008年のシーンがかなり小刻みに交互に現れて、ややエピソディックになってしまい、劇全体としてのインパクトを薄めてしまったのではないかという点。また、全体として、2008年のシーンよりも58年のシーンの方に焦点を置いたらもっと力強い作品になったと思う。

4人の俳優は皆芸達者。Olivierを演じたDaniel EvansはCrucible Theatreの芸術監督でもあり、前任者で、大変好評だったSamuel Westに続いて、actor=directorである。端正な容姿に、50年代のお洒落なスーツとネクタイやベストがとてもよく似合っていた(写真左)。神経質そうな微笑みが印象的。Sylviaを演じたClaire Priceを私が見るのはこれが3本目。女優としては地味な人ではあるが、ルネサンスの古典も現代劇でもよどみない台詞回し。孤独感の表現が雄弁だった。

時代に合わせて照明や調度、衣服やヘアースタイルなどに大変細かく気を配ったJames Cotterillのデザインも、2つの時代の雰囲気と半世紀の時の流れを見事に浮き彫りにしていた。

この劇は2008年にRoyal Courtで1ヶ月初演されて以来、イギリスでは2度目の上演とのこと。しかし、既にアメリカ、ドイツ、スウェーデン、ギリシャで上演されているそうだ。2008年にはオリビエ賞と批評家協会賞(Critics' Circle Award)を受賞している。節操がないと思われるくらいイギリスの劇を次々と翻訳上演する日本で、未だに上演がないのは残念。是非やって欲しい。いや、ほとんどのゲイの人達が自分のアイデンティティーを隠して生きざるを得ない日本だからこそ、上演して欲しい傑作。

うーん、ロンドンだったらもう一回見るんだけど、そうできないのが悔しい。この台本、繰り返し読みたい本だ。

(追記)2011年12月、tpt (Theatre Project Tokyo)がこの劇を日暮里の小劇場、「d-倉庫」で上演することが、tptのブログで分かった。上演されるのは嬉しいが、もっと大きな商業劇場や新国立劇場などではないのが残念。

下の写真はCrucible Theatre。