2011/07/17

Arnold Wesker, "Chicken Soup with Barley" (Royal Court Theatre, 2011.7.16)

第二次大戦を挟んで労働者階級家族がたどった軌跡
"Chicken Soup with Barley"





Royal Court Theatre 公演
観劇日:2011.7.16  14:30-16:50
劇場:Royal Court Jerwood Theatre Downstairs

演出:Dominic Cooke
脚本:Arnold Wesker
セット・コスチューム:Ultz
照明:Charles Balfour
音響:Gareth Fry
音楽:Gary Yershon
方言指導:Penny Dyer

出演:
Samantha Spiro (Sarah Kahn)
Danny Webb (Harry Kahn, Sarah's husband)
Jenna Augen (Ada Kahn, their daughter)
Tom Rosenthal (Ronny Kahn, their son)
Alexis Zegerman (Cissie Kahn, Harry's sister)
Harry Peacock (Monty Blatt)
Rebecca Gethings (Bessie Blatt, his wife)
Joel Gillman (Dave Simmonds)
Ilan Goodman (Prince Silver)
Steve Furst (Hymie Kossof)

☆☆☆☆ / 5

1958年初演のこの劇は、既に英文学史やイギリス演劇史の本でも触れられている。Arnold Weskerは、John Osborneの"Look Back in Anger" (1956)以降、ワーキング・クラスを描いた一連の作家、Angry Young Menのひとりであり、彼の作品は、所謂kitchen sink dramaのひとつ。しかし、"Look Back in Anger"の主人公達は、やり場のない不満や怒りを抱える、さまよえる魂とでも言うべき浮き草のような連中で、またかなりミドルクラス臭い雰囲気を持っているのに対し、Weskerのこの作品は、ロンドンのイーストエンドのワーキング・クラス家庭、それもユダヤ人で左翼の運動に関わっている人々として、しっかり定義づけられていて、時代と地域に深く根を下ろしている点が、私にとっては大変興味深かった。更に、劇のカバーする時代はナチスの台頭も著しい1936年から、戦争直後の45、46年、そして、戦後のイギリスの社会が確立された55年から56年、という3部に分けられている。イギリス社会の中における左翼ワーキング・クラスの変化を大変分かりやすく見ることが出来、外国人の私にとってはイギリス現代史の勉強にもなり、自国の事をふりかえる機縁にもなる。但、おそらく今75歳くらい以上の人々だと、この劇の時代をかなり生きてきて、生々しい感慨があると思うが、現在のほとんどの観客にとっては、既に歴史的な劇になったという印象はあった。

第1幕は1936年10月4日。ロンドンの下町の屋根裏部屋に住むKahn一家は、近所の友人達と共にデモに出かけようとしている。皆意気盛んで、警察と対決し、イギリスにおけるファシスト、モズリーの黒シャツ達も恐れていない。デモで警官に頭を殴られて血を流して返ってくる者もいるが、彼らは労働者階級の力を信じていて、希望に溢れている。これからスペイン内戦の国際旅団(市民義勇軍)に参加しようという者(Dave Simmonds)さえいる。こうした人達の中心にいるのは、Kahn家の女家長とも言うべき、エネルギッシュなSarah。だらしない夫のHarryを叱咤激励しつつ、皆にお茶や食べ物をふるまい、元気づけ、そして自分もデモに出かけていく。

第2幕の1946年のシーンでは雰囲気はがらっと変わっている。彼らの住居は幾らか良くなっている。しかし、夫のHarryはだらしなくて、景気が良くて求人は多いにも関わらず職を転々とし、この時は失業状態。娘のAdaは成人し、スペインの国際旅団に加わったDaveと結婚しているが、戦争は終わったにも関わらず夫はまだ帰国しておらず、孤独を囲っている。彼女は母Sarahの左翼運動には全く関心を示さない。息子のRonnieは母に感化されたのか、本屋の店員をしつつ、socialist poetになるんだ、という夢のような話をしているが、Sarahは手に職をつけるように勧めている。生活は良くなったが、かってのワーキング・クラスのコミュニティーが徐々にほころびを見せ、一体感が薄れつつあるのが感じられる。しかしSarahは依然としてエネルギー一杯で、元気に、忙しくふるまっている。一方、夫のHarryは途中で(Act Oneの終わりで)脳梗塞になり、かなりの後遺症が残る。元々意志の弱い人だったが、一層だらしなくなり、Sarahに頼り切っている。

第3幕は1955年、56年。イギリスも日本同様、戦後の成長期に入りつつある。また、NHSによる国民皆保険や今も続く社会保障制度が確立している。かってSarah達がデモやストライキをして要求していたものがかなり現実になったようだ。Sarahは社会保障費を貰うための面倒な書類を書いたり、役所の窓口が不親切なのをこぼしている。経済的には改善したようだが、労働者達は幸福になったのだろうか。Harryは2度目の脳梗塞を患い、歩くのも不自由で、失禁することもある状態。Sarahと一緒にデモに出かけたかっての同僚もみなばらばらになり、カード・ゲームをしたり、想い出を語り合いに集まることがあるだけ。更に、1956年、ハンガリー市民による反抗をソビエト軍が血の粛清をしたことが、かって共産主義に夢を託した彼らに決定的な幻滅を与えた。社会の動きに関心を持ち続け、左翼の理想を捨ててはいないSarahも、夫は病気、娘は遠くに住み、社会や政治について議論をする人もおらず、孤独は深い。


この劇の初演は1958年、CoventryのBelgrade Theatreだが、その後すぐにRoyal Courtでロンドンでの初演が行われている。それから半世紀ちょっと経った今、同じ劇場でリバイバルされているわけだ。第3幕の憂鬱な状況の後、イギリスの、いや、日本でもそうだが、労働者階級は、そして左翼運動はどうなったのか、色々と考えさせられた。

主役のSarah Kahnを演じたSamantha Spiroのダイナミックな演技が大変印象的。昨今のキャリア・ウーマンを描いたテレビ・ドラマなんか到底かなわない力強く粘り強い女性の闘士だ。また、劇のキャラクターとしてはSarahの引き立て役でもあるHarry Kahn役のDanny Webbは、夫の意志の弱さ、子供っぽさやだらしなさを大変上手く表現していた。セットや衣装もそれぞれの時代を良く表しており秀逸。脇役の演技やワーキング・クラスのアクセントも含め、隅々まで注意の行き届いたケチの付けようのないプロダクション。各紙の批評家も絶賛。特にGuardianのMichael Billingtonは5つ星だが、如何にも彼の好きそうな劇。座席の後ろは立ち見で見ている人でぎっしりだった。しかし、日本人の私にはやはりやや距離を感じる内容ではある。

同時代のピンターやベケットの抽象的な作品と違い、この劇は社会や政治の流れと密接に結びついているので、どうしても徐々に古びてしまうのは仕方がない。幾ら優れた公演でも、初演時のインパクトにはとても及ばないとは思う。しかし、それをかなり補っているのが家族のドラマ。ワーキング・クラスの一家族、そして彼らを包むコミュニティーの姿が生き生きとよみがえった作品だった。

劇の幕切れで、Sarahの息子Ronnieはハンガリー動乱の悲惨な結果など、左翼運動に徹底的に幻滅している。その思いはSarahも十分理解している。しかし、それでも彼女が言う言葉が感動的だ:

So what if it all means nothing? When you know that you can start again. Please, Ronnie, don't let me finish this life thinking I lived for nothing. We got through, didn't we?  We got scars but we got through. You hear me, Ronnie? (She crasps him and moans.) You've got to care, you've got to care or you'll die.

(拙訳) それで(これまでやって来たことが)全て何にもならなかったとしたらどうなのよ。そう分かったら、もう一度始めるのよ。ねえロニー、私の人生、何にもならなかったなんて思って終わらせないでよ。私達生き抜いてきたじゃない? 傷だらけになったけど、でも生き抜いたわ。ロニー、聞いてる? [彼女は彼を握りしめ、うめくように言う] 世の中のことに関心を持ち続けなきゃいけないわ。関心をね。でなきゃ死んだも同然よ。

(追記)GuardianのウェッブサイトにWeskerのインタビューがあり、この劇についても述べている。大変自伝的色彩の濃い劇のようであり、Kahn家の両親は自分の父母、そしてRonnieが彼自身をベースにしているようだ。彼の母親は一生コミュニストだったそうである。彼は時代の流れを背景にしつつ、家族の崩壊を描きたかったそうである。

2 件のコメント:

  1. Yoshiさん、
    アーノルド・ウエスカーは私の学生時代の「アイドル」劇作家でした。60年代終わり頃、日本にも来ましたね。私は、(恥ずかしながら、英文科の学生だったので)、あのシェークスピアを全部訳した小田島先生のクラスで、イギリス現代演劇のセミナーをとりました。一言で言うと、ウエスカーは「叙情性=リリシズム」があって、よかったですね。好きでした。「大麦入りのチキンスープ」も翻訳で読んで、作品の雰囲気を楽しみました。でも、だいぶ忘れかけていますし、あの頃(20代前半)の私の理解力はたいしたことなかったと、今にしてよくわかります。「大麦入りのチキンスープ」で覚えていることは、この肝っ玉おっかさんの元気の良いことぐらい。上のYoshiさんの記事で、最後の引用部分など、私の古い古い日記帳か読書ノートをひもどけば、同じようなせりふを書き抜いていたかもしれないという気がしてきます。今、ウエスカーはどうしているのでしょう?生きているんですか?(そこで、今グーグルしてみたら、来年で80歳になるみたいですね。)  ・・・・以上、今日はうれしく、なつかしいウエスカーの記事にめぐり合えて、思わず、迷わずコメントさせていただきました。特に「四季」は、私の青春と重なっています。^-^ありがとうございました。

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  2. ミチさん、コメントありがとうございます。

    そうでしたか、ミチさんの学生時代にとっては、Weskerは今よりずっと身近な作家でしょうね。折しも、学生運動の盛んな時代でもありましたし。上記の本文に追記として足しましたが、彼のインタビューがGuardianにありましたので、是非ご覧になって下さい。まだかくしゃくとしています。ミチさんの思い出に残る「四季」(The Four Seasons)の事もちょっと触れています。それまでのKichen Sink Dramaとは全く違う作風だったので、彼に劇を書かせたRoyal Shakespeare Company(俳優達)の期待を裏切り、上演拒否にあって訴訟になったそうです。

    もうすぐNational TheatreでWeskerの"Kitchen"も始まります。この夏は、ちょっとしたWeskerリバイバルの季節になりました。Rattiganの多くの劇の再演と共に考えると、イギリスの演劇界にとって戦後演劇の流れを振りかえる時期が来ているように見えます。
    Yoshi

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