2011/07/31

Thomas Heywood, "A Woman Killed with Kindness" (National Theatre, 2011.7.29)

女性の肉体、女性の値段
Thomas Heywood, "A Woman Killed with Kindness"


National Theatre公演
観劇日:2011.7.29  19:30-21:30
劇場:Lyttelton, National Theatre

演出:Katie Mitchell
脚本:Thomas Heywood
セット:Lizzie Clachan, Vicki Mortimer
照明:Jon Clark
音響:Gareth Fry
音楽:Paul Clark
衣装:Lynette Mauro

出演:
Paul Ready (John Frankford)
Liz White (Anne Frankford, John's wife)
Sebastian Armesto (Wendoll, John's friend)
Gawn Grainger (Nicholas, John's servant)
Rob Ostlere (Jenkin, John's servant)
Leighton Pugh (Roger Spigot, John's butler)
Leo Bill (Sir Charles Mountford)
Sandy McAuley (Susan Mountford, Charles's sister)
Tom Kay (Uncle Mountford / Sheriff)
Nick Fletcher (Sir Francis Acton, Susan's suitor and Anne's elder brother)
Louis Brooke (Cranwell, a friend of Sir Charles and John Frankford)
Hugh Sacks (Malby, Sir Charles's friend)

☆☆☆ / 5

Thomas Heywoodの劇は初めて見た。彼の作品はこれまで読んだこともなかったし、どういうタイプの劇作家かも知らなかった。そういう訳でか、今回テキストを半分くらい読んではいたが、劇の世界に入り込むのに大分時間がかかり、最初のほうは眠かったが、AnneとWendollの不倫関係が露見するするあたりからかなり引き込まれ、面白くなった。この珍しい劇を見る機会があって良かった。

2つのプロットが同時進行する。ひとつは、JohnとAnne Frankford夫婦の関係について。夫のJohnが親しい友人だが貧しいWendollを自宅に招き、この家のもの(金銭、物、使用人など)を遠慮なく自分のものの様に使ってくれ、と気前の良いところを見せる。しかし、それに悪のりしたのか、WendollはJohnの妻のAnneを誘惑し(あっという間にAnneが陥落しちゃうのでびっくり)、ついに寝室へと連れ込む。主人に忠実な使用人NicholasがそれをJohnに教え、Johnは留守にすると見せかけて二人の様子を監視。寝室にいるところに踏み込んで、Wendollを追い出し、Anneは自分の所有する別の屋敷に追いやり、二人の子供とも会わせない。Anneは罪の意識にかられ、絶望し、絶食によって自殺する。

サブ・プロットでは、Frankford家の親類で、由緒あるジェントリーの家柄のSir Charles Mountfordと彼の妹Susanが描かれる。CharlesはSir Francis Acton(Anne Frankfordの兄)と賭け事がこじれて喧嘩し、Charlesは激情に溺れて武器をふるい、Francisの使用人を殺害してしまう。彼は逮捕され牢に監禁される。Charlesは家屋敷を除く全財産を売り払い、更に借金も重ねて何とか一旦は牢獄から解放される。しかし、資金繰りが上手くいかず、Charlesは再び牢につながれる。Francisは更にCharlesを追い詰めようと思っていたが、Susanに一目惚れして考えを改め、友人を介してCharlesが出獄出来るようにと資金援助を申し出る。しかし貞女の鏡のようなSusanは、Charlesの動機を良しとせず、それを頑なに断る。Charlesは姉(?)にFrancisの言うなりになって欲しいと説得するがSusanは従わない。しかし、Francisは彼女を純粋に愛しているので、Charlesを救うと共に、Susanと正式に結婚することを申し出て、これは受け入れられる(つまりこれが、"killed with kindness"ということなんだろうけど、現代の感覚で言うと、そうですか、結婚するんならね、と納得は出来ない)。

Lyttelton Theatreの大きな舞台をまず左右2つに割った感じにして、右側6割程度はFrankford家の屋敷、左側4割程度はMountford家の屋敷としている。更に両方の屋敷に階段があって、2階部分も作られており、ステージの左右だけでなく、上下も目一杯使った大がかりで豪華極まりないセットだ。Frankfordの屋敷は新しくピカピカで、調度も整っているのに対し、Mountfordのほうは、殺人事件の後家財を処分し、壁も薄汚れ、如何にも凋落したジェントリーの屋敷らしく見えるように工夫されている。素晴らしいセットで、最初見た時はその豪華さにびっくりした。どちらか一方の屋敷で芝居が進行するわけだが、もう一方の屋敷でも召使いが急ぎ足で歩き回り、物を片付けたり、何かの用意をしたりなど、同時進行でふたつの筋書きが進んでいく。彼らの素早い動作は、まるで早まわりの映画を見ているようだ。ところが私にはこれが非常にマイナスになっていると感じた。もうひとつの屋敷での俳優のせかせかとした動きに気を取られて、今進行中の主たる演技に充分集中出来ない。どちらか一方にして欲しかった。また、いつも2つのセットを使えるので、1つの屋敷でのシーンが終わると、となりの屋敷でのシーンに切れ目なく移行するのだが、これが良いように見えて、実は良くない。観客としては、シーンとシーンの間にそれまでのアクションを消化し、次のシーンに移る頭の切り替えがしづらいのである。これは私の頭が悪いだけかも知れませんけどね。せわしないジャズのバックグラウンド・ミュージックを流し、使用人は振付をされたダンサーさながらに動き回っている。色々なことが賑やかに行われているお屋敷という雰囲気を作っているのだが、その慌ただしさが、描かれる人間ドラマをじっくり味わうのを妨げている気がした。Katie Mitchellが様々の要素を沢山詰め込み、観客が2つの家のコントラストを十分に鑑賞出来るように腐心しているのは良く分かるが、それがかえって、観客の注意力を分散する結果になっていないだろうか。謂わばマルチスクリーンの映画みたいだった。セットはそのままでよいとして、もっと余裕ある進行であると良かった。

プログラムによると、時代設定は1919年、つまり第一次世界大戦の終わった翌年としてあるようだ。Heywoodの原作は1607年、スチュアート朝であり、家庭悲劇(domestic tragedy)と呼ばれる、当時における「現代劇」。古代・中世、そしてギリシャ等の地中海世界やデンマークなど海外を主に舞台に選んだシェイクスピアの劇とは随分雰囲気が違う。当時の庶民の観客から見ると、"EastEnders"や日本の2時間ドラマ(「家政婦は見た」とか)を見ている感覚かもしれない。私の好みから言うと、大金をかけて無理して20世紀初期のピリオド・ドラマにするよりも、そのままスチュアート朝のセットやコスチュームでやったほうがずっと生き生きしたのではないかと思う。台詞には同時代の衣食住にまつわる表現が沢山あるが、20世紀にしてしまうと、それらの言葉のインパクトが霞んでしまう。

俳優は説得力ある演技をしていたように思うが、Heywoodのテキスト自体の問題として、キャラクターの膨らみや個性に乏しいのではないか、と感じた。シェイクスピア作品のような魅力的な、カリスマのある人物が見あたらない。強いて言うなら、召使いのNicholasの独白が光ったくらい。その一方で、私にとって大変面白かった点は、女性の扱い方。人類学者や社会学者が"exchange of women"(女性の交換)とか、"traffic in women"(女性の取引)という様な言葉(概念)で表現してきた伝統的社会の家父長制の仕組みをなぞったようなお話である。家と家の結びつき、男と男の社会的関係を作る交換材料として不動産や家畜同様に女性が使われる。しかし、とは言っても人間であるから、家畜のように思い通りという訳にはいかず、不都合が生じる。しかし、そうした、ここでドラマとなっているような摩擦が尚更女性が取引材料として扱われている社会状況を浮き彫りにしている。特にこの劇の場合、王侯貴族の話でなく、同時代の、所謂ジェントルマン階級の話なので、何かというとお金がからんでくるのである。

Anneは肉欲の罪に汚れた体を、絶食、即ち食餌療法、つまりダイエット、という手段により「罪滅ぼし」をしようとして、死を選ぶ。これは一方では、古代中世の聖女の殉教に通じるスタイルであり、また身近で比較すれば、現代の女性の拒食・過食と通じる面もある。性(セックス)と食餌、肉欲と肉体の自虐の関係について色々と考えをめぐらせることの出来る作品である。そうした女性の身体性を強く意識させたのは、Anneが初夜の時に寝間着を血で汚したり、その後妊娠して大きなお腹をしていたこと。Mitchellの明確な意図を感じさせる。女ってやっぱり肉体的な生き物なのね、とでも言いたいかのような劇。文学作品における女性は何故これほど身体性を意識させられるのか。結局、その理由の一部は、文学作品で描かれる女性たちが男性作家と男性社会の心象概念であるからだろう。

Sir Francis ActonとSusanの場合、愛人じゃ駄目だけど、結婚すればそれは"kindness"になって良いでしょう、というのは、現代人からするとなんともうなずけない。そういうご都合主義が、近代的結婚制度自体が含む女性取引の慣習を浮き彫りにしている。(脱線すると)実際、中世においては、レイプしても相手の女性と結婚すれば法的に許されたのである。従って、極端な話だけど、裕福な家の女性を誘拐してレイプし結婚する、というような強引な手段で、自分の家に利益を誘導するような例もあったようだ。確か、この公演のSusanを演じたSandy McAuleyが最後まで仏頂面をしていたのは、Anneの死に立ち会ったからだけでなく、Katie Mitchellがそういうことを意識していたのかも知れない。

細かい事はテキストを熟読しないと分からないが、1回見ただけでも色々考えさせられた面白い劇だった。余裕があったらもう一回見たいくらいだ。17世紀初期のイングランドに設定して上演してくれたら、私にとってはもっと良かったなと思うな。

しかし、舞台デザイナーのViki Mortimerの活躍ぶりは凄い。今やイギリスの舞台美術を代表する人の1人と言える。かってTPT全盛時代(90年代前半頃?)、ベニサン・ピットで素晴らしい仕事をしていたのが思い出される。Tokyo時代が良い修行期間になったのではなかろうか。近年も何度か日本で大きな仕事をしているようだが、これからも日本でも彼女の素晴らしいコスチュームやセットの腕を見せて欲しいものだ。


(お礼)この劇の切符は、当ブログにしばしばコメントを書いて下さるライオネルさんからいただきました。観劇のためにロンドンにいらしたのですが、他の劇と時間が重なり、行くことが出来なくなったそうで、切符を下さいました。この場を借りてお礼を申し上げます。

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