2014/02/23

大ベテランの先生に学んだ夜

前回のブログでも書いたが、先日ヒルデガルト・フォン・ビンゲンのコンサートに出た時、たまたま来ておられた高名な中世英語英文学の、大ベテランの先生にお会いし、しばらくおしゃべりした(便宜上A先生としておく)。A先生とは、これまで学会や研究会で立ち話をすることは多くても、今回のようにゆっくり話す機会は始めてで、色々感じることがあった。もう専任をしておられた大学を定年退職され、悠々自適のご身分だが、むしろ退職前以上に、非常に活発に研究活動を継続されていて、日頃からそのエネルギーに圧倒される。

研究活動については、退職される先生を2つに分けることが出来る。退職された途端に学会などにも来られなくなり、あるいは退会されて、老後の生活を楽しまれる方も多い。むしろ退職を楽しみにされ、仕事とは関係ない他の趣味などに生きがいを見つけられるタイプ。私のイギリスの指導教授はこちらのタイプで、一年の3分の1くらいは、世界中を旅行して楽しそうに暮らしている。そういう生活は羨ましくもあり、それを楽しみに一生働いてきたのだから、当然でもある。それに、大学教員としての仕事の一部である研究発表とか論文執筆の義務も無いわけだから、年金を削ってまで研究活動をしないないのも、経済的に見れば当然だ。

その一方で、A先生のように、在職中は授業や大学の事務や管理職の仕事でお忙しかったが、退職してむしろ研究活動に思う存分時間を使えて満足しておられる方もいる。それで収入があるとか、組織の中で評価されるということに関係なく、生きがいとして研究を続行されるタイプだ。これは傍目から見るとなかなか素晴らしく、立派な老後のように見えるが、実行するとなると結構大変だ。理系と違い、文系では実験室や実験機材は要らなくても、しばしば高価な最新の学術書を購入し続け、幾つかの学会費を払い、そして遠方の学会に出かけるというのはかなりの出費になる。更に、本を置く研究室もなく、あるいは、退職した教員は、(名誉教授も含め)それまで所属していた図書館の蔵書を借りることさえ出来ない場合が多い。研究業績が大学内で評価されるということもない。そういう中で、A先生のように未だに一線で高度な研究を続け、国内外の学会で研究発表をし続けるのは、大変な事だと常々感心し、尊敬している。

更に、A先生の場合、後輩の研究者、特に若い院生や非常勤講師の研究や就職に心を砕き、彼らへのアドバイスを惜しまずになさる点も素晴らしい。A先生は著名な研究者だが、名門大学の教授では無かったので、自分の教え子とか、出身大学の系列に関係なく、若い方々と暖かく接し、また学問に関しては忌憚ない意見を言われる。聞く方も、彼女が誠意溢れた方であり、また高度の学識を備えておられるので、素直にそれを受け止めることが出来る。これは大変難しく、起こりがたいことである。というのは、年長の大先生が若い人に意見を言った時、聞く方は「はいはい、分かりました」と耳を傾けてはいても、内心は「先生、もうその考えは古いんだよ」とか、「そんなこと、とっくに知っているよ」とか、「先輩風ふかして知識をひけらかすのはやめてよ」と思っても不思議は無い。でもA先生の場合は、彼女の学識が深いため聞いた方も色々と勉強になるし、しかも偉ぶったところがなく自然にふるまわれるので、話していて世話好きのおばあちゃんの話みたいに受け止めることが出来る。

翻って反省すると、私も長年教員をしてきた為、つい若い人に意見とかアドバイスを言ったり、メールやコメントを書いてしまうことがあるが、私のように学識も人望も無い人間が、求められもしないのにそういう事をやると嫌がられるのが落ち。一方、A先生の意見は、皆喜んで聞かざるを得ない誠意と学識を含んでいる。この点では、私が先生の真似をすると大失敗する(実際、学んでないな、と自嘲することもちょくちょく)。

しかし、退職後も学問への情熱を維持し続けるA先生の粘り強さは、老境を迎え、これから老いに慣れ、老いを学ぶべき私にとっても、大いに真似をしなければいけないなあと思った夜だった。

(追記)なお、私のイギリスの指導教授について付け加えると、悠々自適の引退生活を楽しむ一方で、退職後も出版社や他の学者から依頼された論文や著書の執筆は続けておられ、つい2,3ヶ月前には、500ページを超える単著を出版された。凄い、の一語。「もうこれで研究活動は終わり」と言っておられるが、どうなりますか・・・。彼はロンドンに住んでおられるので、書斎に本を集めなくても、いつでも大英図書館やロンドン大学図書館で研究ができるのが羨ましい。

2014/02/19

『今に響く声:12世紀の修道女』(ビンゲンのヒルデガルト作、歌曲コンサート)

『今に響く声:12世紀の修道女』(ビンゲンのヒルデガルト作、歌曲コンサート)
佐藤裕希恵(歌唱)

2013.2.18   19:30-21:00
東京オペラ・シティー3階 近江楽堂

道路の隅にたくさん雪が積み上げられ、凍るように冷たい風が吹きすさぶ夜、標題のコンサートに行って来た。素晴らしい歌声を聞き、心が暖かくなって帰宅した。体調が悪いのを押していったのだが、休まなくて本当に良かった。

ヒルデガルト・フォン・ビンゲン(Hildegard von Bingen, 1098−1179)は12世紀のドイツのベネディクト会尼僧院の院長だった女性。私は、英語圏以外の中世の事についてろくに知識を持ち合わせず、彼女の多くの作品の何も読んだことがないのだが、名前だけはよく読んだり聞いたりしている。12世紀のダビンチみたいな、ルネサンス的な才能を持ち合わせた知識人だった。神秘的宗教家(a mystic)として最も高名だが、その他にも今の分類で言えば、哲学者、神学者、音楽家、詩人、自然科学者、医学者、家政学者、等々として、様々のジャンルに渡る文章をラテン語で残しているし、女子修道院長という、指導者としても活躍した。12世紀は、近代初期以前に、古典や人文学の知識が花開いた時期として「12世紀ルネサンス」と呼ばれることがあるが、彼女はそういう時代の立役者の1人だ。やはり学者で、尼僧院長だった(アルジャントューユの)エロイーズとほぼ同時代の女性でもある。

私が特に興味を持ったのは、彼女がラテン典礼劇(Latin liturgical drama)、それも、内容から言って最初の道徳劇(a morality play)を書いていることだ。『ダニエル劇』などと共に、12世紀の典礼劇の最高傑作のひとつに数えられている『諸徳目の秩序』(”Ordo Virtutum”)がその作品。

今回は、この春東京芸大の修士課程を修了され、また、現在スイス、バーゼルにある古楽専門の音楽大学、Scola Cantorum Basiliensis、に籍を置いて研鑽を積んでおられる佐藤裕希恵さんが、ヒルデガルトの歌曲4篇(前半)と、”Ordo Virtutum”の抜粋を約1時間半をかけて歌って下さった。 大変美しい声で、心の中を清らかな水が流れていくような時間を過ごすことが出来た。

”Ordo Virtutum”は、後の英語やその他の西欧言語の道徳劇のように、抽象的な徳を擬人化した登場人物(無垢、信仰、希望、従順、神への畏れ、等々)と、悪魔が、人の魂(Anima)をめぐって争うという作品。私は英訳も読んだことがなかったが、今回一夜漬けで、ラテン語原典を半分ちょっと読んで出かけた。面白いのは、徳目の台詞は歌として唱われるが、悪魔の台詞は、音楽が付いていないそうだ。美しい、正に天の歌声のような音楽に、悪魔の台詞は似合わないからだろう。劇として多くの人によってオペラやミュージカルのように演じられるときは、悪魔の台詞は、役者の色々な工夫、大げさなジェスチャーとか威嚇や誘惑の仕草、そしてしゃがれ声など、色々な事がやれそうだ。後の道徳劇と異なり、悪徳のキャラクターは出てこず、悪は悪魔のみで表現される。尼僧院だから、悪魔を演じたのも尼僧だったのだろうか。それとも、その時は、男性の修道士などが「特別出演」したのかしら(^_^)。勇ましく、りりしい女たち(Virtutes)が、力を合わせてデビルをやっつけて、悩んでいる人の魂(Anima)を破滅から救うなんて、考えると楽しい劇だ。

尼僧院で上演されたと考えると、デビルは正に女性を(とりわけ修道女や修道女見習い[a novice])を誘惑する現実の、あるいは想像上の男、とも取れる。修道士、修道女と言えども人間だ。ウンベルト・エコ原作の映画『薔薇の名前』では、若い修道士が修道院に忍び込んだ女性と熱いひとときを過ごすシーンがあったと記憶するが、現実の修道院や尼僧院の中には、風紀が乱れたところがあったのも事実らしい。そもそも現代と違い、多くの人にとって修道会に入るのは生業のひとつでもあった。主として閉ざされた空間の中で、異性ともほとんど交わらない生活に入る十代の男女が誘惑に抗するのは、結構大変かもしれない。こういう劇は若い修道女への教育的なメッセージも持っていたのだろうか。

演劇史において、作者や俳優としての女性の存在は、大変難しく、興味深いテーマだ。中世には、女性が演劇で役者をやることはわずかしか無かったと言われてはいるが、こういう風に、女性が書いて、女性が演じた劇もあった。今で言うなら女子校・女子大演劇って感じ?

典礼劇における”Ordo”というタイトルは、英語ではserviceと訳されることもよくある。”Ordo Virtutum”のような劇は、確かに今の視点から見ると、演劇、一種の宗教ミュージカル、であるが、当時の修道院でこれを演じた尼僧達にとっては、まさに神の力を讃え、その慈悲に感謝する”service”(お勤め、勤行)であったことだろう。観客に向けたエンタティメントとしての演劇とはその目的と本質において、大きく異なる。一方では、もの凄く真面目な内容で、主として身内だけでやる劇でも、やった人は分かるように、楽しかったに違いない。中世12世紀の修道女達が、ワクワクして衣装を工夫したり、劇をやっているところなんて、想像すると楽しい。見ている方も、若い修道女なんか、「キャー、先輩ステキ!」なんて出演者の噂したりして、宝塚みたいだったかも?

勉強や趣味の読書の対象としては、私は中世の女性神秘家にはほとんど興味はない。しかし、ヒルデガルトの典礼劇は、一度最初から全体をちゃんとラテン語で読んでおこうと思った。典礼劇のラテン語は割合簡単なので、注や英訳があれば私の錆びついた語学力でも大筋はなんとか理解できる。私は、典礼劇を、20歳代、大学院生のころ、履修した授業の一環として、英訳テキストや研究論文でいくらか学んだきりだが、英語の中世劇の背景を知る上で、もうちょっと勉強しなきゃ、と思った。今回は良いきっかけになった。ラテン語も学びなおさないとなあ。

当日は、お客さんの中に、私が昔からお世話になっている高名な中世英語・英文学者の先生がおられ、終わった後、しばらくお茶を飲みつつ、色々と中世のこと、ご研究の事などうかがえて、楽しかった。若い研究者の方々の近況や就職などを色々と心配しておられた。

(捕捉)
ラテン語の典礼劇については、中世フランス演劇専攻の片山幹生先生による「フランス中世演劇史のまとめ」というサイトが、日本語の書籍以上に大変詳しい内容を持っているので、関心のある方にはお勧めしたい。このサイトは片山先生の長年の研究と博識が遺憾なく発揮された貴重なサイトで、単行本に匹敵する分量がある。ブログ形式で連載されておりフランス語中世劇についての解説がほとんどだが、最初のほうがラテン典礼劇の解説である。

今回の歌手、佐藤裕希恵さんは2014年10月にスイスの学生達に混じって、向こうの教会でこの劇の上演に参加された。その時のビデオ映像がYou-tubeにアップロードされている。白い服の徳目の中で、他の人に比べて少し背の低い女性が佐藤さん。演出家や俳優などのクレジット・タイトルはビデオの最後に出て、佐藤さんの名前も上がっている。私もまだちゃんと通しで見ていないが、今後テキストを読んだ上で、じっくり全体を見たい。"Ordo Virtutum"のビデオやオーディオはネット上にかなりある。またCDも発売されている。今回の公演は、佐藤さんのブログで知った。私は音楽について評価する能力は全く無いので、どこがどう良いとか、他の公演とくらべてどうだとか言えないが、日本で"Ordo Virtutum"を生の声で聞く貴重な機会を与えて下さったことに深く感謝したい。