2019/08/29

【観劇 ロンドン】"The Doctor" (Almeida Theatre, 2019.8.26)

"The Doctor"

Almeida Theatre 公演
観劇日:2019.8.26 19:30-22:20
劇場:Almeida Theatre

演出:Robert Icke
脚本:Robert Icke(Arthur Schnitzler, "Professor Bernhardi"に基づく)
セット&コスチューム・デザイン:Hildegard Bechtler
照明:Natasha Chivers
音響・音楽:Tom Gibbons

出演:
Juliet Stevenson (Professor Ruth Wolff)
Pamela Nombete (a doctor)
Paul Higgins (a catholic priest)
Mariah Louca (a PR director of the hospital)
Daniel Rabin (a doctor)
Olivier Alvin-Wilson ()
Nathalie Armin (a politician)
Kirsty Rider (a trainee doctor)
Joy Richardson (Ruth's partner)

☆☆☆☆☆ / 5

『1984年』を劇にして演出したロバート・アイクの、アルメイダのassociate directorとしては最後になる演出作品。前評判通り素晴らしかった。但、全体的な流れは理解出来たが、今回も小さめの声で話しているところはほとんど分からなくてフラストレーションが溜まった。テキストを買って終わりの方を読みながら帰ってきて、大分理解出来た。

原作は20世紀初めのオーストリアの作家で医師、アルチュール・シュニッツラーの2012年の劇、『ベルンハルディ教授』(Arthur Schnitzler, "Professor Bernhardi")。これを演出のアイク自身が、設定を現代イギリスに置き換えたアダプテーション。

場面設定は現代の大病院。ユダヤ人のルース・ウルフ教授はその病院を代表する医師で、創立メンバーのひとり。ある時、自分で避妊しようとして重度の敗血症になり死が確実となっている少女の治療をしていた。そこへ突然やって来たカトリックの司祭が、両親の賛同を得ているので少女に死の前の告解の儀式を行いたいと要求する。しかし、ウルフは、本人の同意を得ていないということで、病院のガイドラインに沿って拒否する。これが病院の外の世界で宗教を軽視した行為として広く報道され、宗教だけでなく、人種、文化、階級等々に関する論争が巻き起こり、彼女は医者としてだけでなく、ひとりの人間としてのモラルを多方面から問われる事態に発展する。病院の運営委員会においても、カトリックの医師から激しく追及を受ける。更に、その頃病院では新しい病棟の建設が計画されていたが、その資金確保にも暗雲が立ちこめ、院内政治においてもウルフは苦境に立たされ、マスコミやSNSを通じて謂わば民衆裁判に遭うという状態になる。同僚は彼女を非難し、友人は離れていき、自宅にまで彼女を脅迫する人達がやって来て怒鳴ったりドアを乱打したり、車に鈎十字の落書きをしたりして、ウルフが身の危険を感じる状況だ。ついには、政治家が介入して第三者機関による調査をすることとなる。最終的には彼女は10年間、医師資格を停止するという宣告を受け、職業人としての命を絶たれるという、現代版『民衆の敵』。

ウルフは、医療の倫理として、患者の同意を得ていない場合、患者の病状にとってもっとも良いと医師が判断した治療法が家族や宗教者の判断に優先するとして、自分は間違ってなかったと頑固に主張する。しかし、それは、反カトリック、(ウルフがユダヤ人だったので)ユダヤ人のキリスト教徒差別、(司祭が黒人だったので)黒人差別、(ウルフが高級私立学校の学歴を持っていたので)エリートの傲慢、等々と様々の専門家や利益団体代表から糾弾される。ウルフは若い頃の堕胎など個人的な事も暴き立てられ、社会的な火炙り状態になり、観客から見ると同情せざるを得ないが、一方で医師としての倫理に固執し一切妥協しない姿は、従前から、同僚達からも頑固で尊大な態度として嫌がられていた。

原作者シュニッツラーはユダヤ人医師であり、原作は第1次大戦頃のオーストリアにあったユダヤ人差別などを反映していると思われるが、現代に置き換えると、ウルフが受けた激しい非難や結果としての医師免許の停止という筋書きには、やや無理がある気がした。但、ユダヤ人が、グループとしては大きな資金力と政治力を持ち、高学歴の富裕層に多いという事実により、彼らを敵視する人々もいることは事実だ。医療の問題については、このケースは既に死が決定的になっていた患者に対する最後の告解の儀式の是非という判断が非常に困難なケースであり、20世紀初めのウィーンならともかく、21世紀の現在においては、担当医がこれほどの社会的制裁を課せられるとは考えにくいと私は思うので、劇の核心部分においてやや説得力を欠く気がした。

セット・デザインのヒルデガード・ベクトラーはイギリスの舞台美術の大御所で、先日の"Hansard"の舞台も担当していたが、この作品も効果的なセットだった。ほぼ何もない円形舞台に会議用の長机と幾つかの椅子が置かれているだけ。病院内での会議や、ウルフが半強制的に出演させられテレビの討論番組を通じて、マスコミやSNS、テレビを見ている視聴者も陪審として参加して、ウルフが一種の「人民裁判」にかけられる様子を上手く伝えるセットだった。

ロバート・アイクの舞台にしばしば出ているというジュリエット・スティーヴンスンの熱演が素晴らしかったし、彼女を弁護したり非難したりする役の助演者達も皆説得力があった。今回の渡英で観た最後の劇だったが、私の力不足で台詞が分からないところは多かったとは言え、大変満足して劇場を後にした。

斜め前に柱があり少し視野がさえぎられる席だったので、値段は20ポンド(今のレートで2600円)。でも、見づらさは、小さなアルメイダでは、ほとんど苦にならない程度。世界的なスタッフと主演者による上演をこの値段で見られるなんて、ロンドンの演劇はやはり素晴らしく、その為にイギリスまでわざわざ行く甲斐があると思った。但、以前に増して台詞が分からなくなっているので、そうできる場合には前もってテキストを読んで出かけようと思う。それにしても、今回は体調悪くて、劇もたった5本しか見られず、他にはろくに何もできず、年齢をひしひしと感じた。

2019/08/26

【観劇 ロンドン】"Appropriate" (Donmar Warehouse, 2019.8.24)

"Appropriate" (Donmar Warehouse)

Donmar Warehouse 公演
観劇日:2019.8.24 14:30-17:00(休憩20分を含む)
劇場:Donmar warehouse

演出:Ola Ince
脚本:Branden Jacobs-Jenkins
デザイン:Fly Davis
照明:Anna Eaton
音響:Donato Wharton

出演:
Monica Dolan (Toni Lafayette)
Charles Furness (Rhys, Toni's son)
Steven Mackintosh (Bo Lafayette)
Jaimi Barbakoff (Rachael, Bo's wife)
Isabella Pappas (Cassidy, Bo & Rachael's daughter)
Edward Hoggs (Franz Lafayette)
Tafline Steen (River Rayner)

☆☆☆☆ / 5

脚本のブランドン・ジェイコブス=ジェンキンズは近年目覚ましい活躍で、イギリスでもその傑出した才能が認められつつあるアメリカの新進劇作家とのことだ。この作品はオニールやミラー、ウィリアムズの伝統をストレートに継承するアメリカ合衆国の家族劇。アメリカ文化に染みついた「ファミリー」という、ほとんど幽霊のような怨念を、現代の味付けでアップデートしてみせる。オニールやミラーと違い、シリアスでありながらも誇張された台詞の連続により、半ば喜劇とも言える仕上がりになっている。

劇の設定は、アーカンサス州にあるラファイエット家のかってのプランテーション屋敷(と言っても、そんな大邸宅ではないようだ)。時期は2011年頃の夏。屋敷の主人であった父親が亡くなり、財産を処分するために長女のトニと彼女の息子のライス、長男のボーと彼の妻レイチェルや子供達2人、そして長年音信不通だった次男のフランツとガールフレンドのリバーまでもが突然現れ、一族が空き家になった屋敷に集まる。財産を処分して、出来れば遺産の残りを手に入れたいと思っていた3人だが、父親の残したがらくたの片付けをするうちに、見たくない過去の遺物を見せられて、自分達自身の、そしてラファイエット家の過去を否応なく見直すことになった。

ブランドン・ジェイコブス=ジェンキンズは黒人作家なので、アメリカの黒人家庭をめぐる劇を見ることになるんだろうと何となく想像していたのだが、出てくるのは全員白人。但、ラファイエット家の背景として、かって一家のプランテーションでは黒人奴隷が働かされており、一家の富は奴隷労働によって作られた。そうした奴隷達の埋められた墓地が屋敷のそばにあり、不動産としての売却を難しくしている。更に父親の遺品を整理していると、写真を貼ったアルバムが見つかるが、その写真というのが、死んだ(おそらくリンチされた?)黒人の遺体を撮ったものだった。父親は表面上は露骨な差別は見せなかったようだが、公民権運動の前の南部で半生を過ごした世代であろうから、子供達は知らなかった別の顔を持っていたようだ。更に、ボーの子供がクー・クラックス・クランのマスクらしきものまで発見する。

子供達自身もそれぞれの問題を抱え、自分は一家の中でも特に苦労させられたと思っている。特にフランツは、麻薬やアル中で苦しみ、ローティーンの女児と性交をして警察に捕まった前科もある。トニは父親の介護を押しつけられたと思って不満やるかたなく、ボーは介護費用などを自分が負担したのに感謝されていないと思っている。更に彼は今までは経済的には豊かだったが、丁度失職したところで、父親の遺産が少しでも助けにならないかと思っている。

しかし、この屋敷、この家族に染みついた遺産は、ここで奴隷として働き、名もなく死んで埋められていった数知れぬ奴隷達の遺産なのであるが、ラファイエット家の誰ひとりとしてその事に思いを巡らせる人はいない。それどころか、ボーが父親が残した黒人の遺体を撮った昔の写真がマニアの間では高く売れるらしい、と聞きつけて、皆にわかに興奮する。彼らにとっては、リンチで殺されたかも知れない黒人の遺体の写真も、ボー曰く、価値ある「アンティック」にしか過ぎない。観客としては、登場人物誰ひとりとして感情移入出来ない一家である。劇の背後で白人一家のドタバタを見つめるのは、プランテーションで亡くなった多くの黒人奴隷の魂だろう。

南部のプランテーション屋敷のゴシックな雰囲気を上手く出したセット、照明、音響だった。演技も皆達者で文句のつけようがない。特にトニを演じたモニカ・ドランは迫力があった。但、いつも思うのだが、こういう風に激しく相手を責め合うアメリカのリアリズム劇の会話は、日本人の私にはなかなか想像しづらい面はある。

この前に見た"Hansard"がさっぱり分からなかったのに懲りて、今回はテキストを3分の2ほど予め読んでおいたので、台詞はほぼ理解出来、楽しめた。それに"Hansard"はテキスト自体が難しくて読んでも分からない表現が多かったが、この劇の内容はストレートで分かりやすい。でも私としては、前者の行間を読ませるような台詞のほうが好きだな。分かればの話だが(笑)。

【観劇 ロンドン】"Hansard" (Lyttelton Theatre, National Theatre, 2019.8.22)

"Hansard" (Lyttelton Theatre, National Theatre)


National Theatre 公演
観劇日:2019.8.22 19:30-21:00(休憩なし)
劇場:Lyttelton Theatre, National Theatre

演出:Simon Godwin
脚本:Simon Woods
セット・デザイン、コスチューム:Hildegard Bechtler
照明:Jackie Shemaesh
音響:Christopher Shutt
音楽:Michael Bruce

出演:
Lindsay Duncan (Diana Hesketh)
Alex Jennings (Robin Hesketh)

私の好きな名優ふたりが登場するお芝居に大いに期待していた公演だったが、まったく台詞が分からず、何が起こっているのか大体の筋書きも分からないまま終わってしまった。イギリスでこれまで見た劇でも、これほど内容が分からないままだったのは始めて。とは言え、見たという事を思い出す為、自分の備忘録としてメモをしておく。私はもう10年近く前から、健康診断などで聴力が衰えつつあると診断されているのだが、元々英語のリスニング力の乏しさに加え、改めて聴力の衰えを痛切に感じた。

それで、見終わった後にテキストを買って読んでいるところなので、やっと内容が分かってきた。しかし、英語自体が、イギリス人にしか分からないような諷刺が沢山盛り込まれていて非常に難しく、聞き取れても分からない部分が多かっただろう。実際、辞書を引いたり、ネットで検索したりしないと理解出来ない表現や事項もかなりある。

上記のキャスト一覧のように、出演はアレックス・ジェニングスとリンゼイ・ダンカンのふたり。ジェニングスが演じるのはイングランドの中部、おそらくコッツウォルズ地方の一部を選挙区とする保守党の国会議員(MP)でサッチャー政権の大臣のひとり、ロビン・ヘスケス。ダンカン演ずるのは彼の妻、ダイアナ。プログラムによると、この劇の場面となっているのは、1988年5月28日土曜日のコッツウォルズにある彼らの自宅。英国政治においては、1979年から90年までがサッチャー政権なので、その末期ということになる。ロビンはウィークデイは国会議員としてロンドンや仕事先で過ごし、週末に自宅(本宅)のあるコッツウォルズに帰宅する。この朝も11時に帰宅し、荷物を置いて、自分でトーストを焼いたりコーヒーを入れたりして遅い朝食を食べつつ、妻のダイアナと話し始める。最初はお互いに軽い皮肉を言い合ったりしていたが、そのうち、政治や社会に関するふたりの人生観、社会観の根本的な違い、階級の違い、そして、今までは二人ともなるべく触れないようにしていたらしい、思春期に亡くなった息子のことが話題に上り、険悪な言い争いに発展する。

時代背景として、この1988年にイギリス議会は地方行政法のセクション28(Section 28, the Local Government Act 1988)を通したことは劇の理解に重要だ。この法律により、イギリスの公立学校では、ホモセクシュアリティを是認するような教育が禁止された。ダイアナは、保守党議員としてこの立法を推進したロビンを厳しく責める。

ロビンは代々上流階級で、政治家でありながら貧しい人々や人種やセクシュアリティーにおけるマイノリティーの人々に対してはまったく共感できず、票を入れる人数としてしか考えていない。そして、彼の選挙区は豊かな田園地帯であるコッツウォルズであり、極めて保守的な選挙民が多い地域だ。一方、ダイアナは中産階級の割合慎ましい家庭出身のようで、夫と比べるとリベラルな価値観を持っている。そもそもダイアナは結婚したときから階級の違いで夫の家族とは相いれず、よそ者扱いをされていた。週末だけ一緒に過ごす単身赴任の夫婦であり、しかもダイアナは夫の浮気を疑っている。国会議員としての体裁を繕うだけの夫婦のように見え、長年の気持ちのすれ違いが想像出来る。しかし二人の間に決定的な溝を作っているのは、息子の死だった・・・。

劇場で見ていた間は台詞はほとんど分からなかったけれども、それでも二人の俳優が創り出す緊張感がひしひしと伝わる公演だった。それだけに台詞が分からないのが何とももどかしい。しかし、都合でこれを見た日はプレビュー公演の初日。名優とは言え、特にアレックス・ジェニングは何度が台詞に詰まっていた。また、大きなリットルトン劇場での公演にしては、リンゼイ・ダンカンの声は小さすぎて、おそらくイギリス人でもかなり聞き取りにくいところがあったのではないだろうか。プリビュー期間が終わる頃にはもっと磨きがかかることだろう。

趣味の良い、簡素でありながら高級感ある家具調度を置いたセット。しかし、生活感が乏しいのがこの夫婦の有様を表していた。

テキストを読んでみると、イギリス社会における階級や多様性について多くの事を学べる大変興味深い劇だと分かった。

(注)この法律はStonewallなど、同性愛者の権利を守る運動をしている人々から大きな反発を受ける。2000年には労働党政権がSection 28の破棄を含む地方行政法の改定を議会に提案するが、保守党は賛否が分かれ、貴族院で廃案となった。この時の保守党の影の内閣の教育担当が後に首相になるテレザ・メイで、彼女はこの廃案を「常識の勝利」("A victory for common sense")と賞賛した。しかし、2003年には保守党も党議拘束を外して各議員の自由投票に任せることになり、Section 28の破棄が決まった。但、ケント州の地方議会だけは、Section 28に代わり、学校ではヘテロ・セクシュアリティーに基づく結婚と家族が社会の基礎である、という条例を通したが、この条例はようやく2010年の差別禁止法(Equality Act)により無効となる(ケント州の保守性の分かるエピソードだ)。2009年には当時の保守党党首デヴィッド・キャメロンが、この法律によりゲイの人々を傷つけたことに対し謝罪した。(以上、ウィキペディアの記事を参考にした)。

2019/08/22

【観劇、ロンドン】"A Midsummer Night's Dream" (Bridge Theatre, London, 2019.8.21)

"A Midsummer Night's Dream" (Bridge Theatre, London)

Bridge Theatre 公演
観劇日:2019.8.21 19:30-22:30 (インターバル20分含む)
劇場:Bridge Theatre, London

演出:Nicholas Hytner
脚本:William Shakespeare
デザイン:Bunny Christie
照明:Bruno Poet
音楽:Grant Olding
音響:Paul Arditti
衣装:Christina Cunningham
動作指導 (Movement Director):Arlene Phillips
殺陣指導 (Fight Director):Kate Waters

出演:
Oliver Chris (Theseus / Oberon)
Gwendoline Christie (Hippolyta / Titania)
David Moorst (Puck / Philostrate, Athenian official)

Isis Hainsworth (Hermia)
Tessa Bonham Jones (Helena)
Kit Young (Lysander)
Paul Adeyefa (Demetrius)
Kevin McMonagle (Egeus, Henry's father)

Hammed Animashaun (Bottom)
Felicity Montagu (Quince)
Jermain Freeman (Flute)
Ami Metcalf (Snout)
Jamie-Rose Monk (Snug)
Francis Lovehall (Starveling)

☆☆☆☆☆ / 5

斬新なアイデアに溢れたニコラス・ハイトナーの劇団の快作。観客を楽しませる術を心得た彼の才能が満開の公演だった。

去年の3月にも同じ劇場でハイトナー演出の『ジュリアス・シーザー』を見たが、その時と同じく、平土間に観客の多くを立たせ、大音響のロック音楽と共に、立っている観客を動かしながら公演に巻き込むというスタイル。こういうのを英語で、"a promnade performance"と言うらしい。私はギャラリーの椅子席に座っていたが、劇場全体を公演の祝祭的な雰囲気に巻き込む演出に飲み込まれた。

とにかく種々の斬新なアイデアが一杯だ。既にどこかで見たようなモチーフもあるが、ハイトナーの味付けを得て、生き返っている。まず何と言っても大きなアイデアはシーシアスとタイターニアの役割の転倒、つまり、台詞の付け替えを行って、惚れ薬の魔法でボトムと一夜の情事に耽るのはシーシアスになっているのだ。もともとこの劇は非常に家父長的な筋書きで、シーシアスが戦争で手に入れたタイターニアを支配するところから始まり、彼女や反抗する恋人達を意のままにするというストーリーが基本の流れ。そこをひっくり返して、タイターニアが権力で妻を縛り付ける夫に対し一矢をを報いる、という爽快な筋書きにした。台詞をこれほど大きく付け替えるのは、シェイクスピアのテキストの熱心な信奉者には腹立たしく、そこで評価が大きく分かれると思うが、一種のアダプテーションの試みと考えれば、大変興味深い。こういうのを多くの公演でやるようになるとウンザリしてくるとは思うが、まだほとんどないと思うのでとても面白かった。私にとっては、この劇につきまとう(そして多くのシェイクスピア劇でも同様だが)、家父長的な後味の悪さを払拭してくれた。また、それに関連して、ヘレナとハーミアの友情が昂じてふたりがキスをしたり、さらにはどさくさにまぎれてライサンダーとディミートリアスまでキスするなど、恋愛は異性同士の専有物ではないという今らしい演出もあった。町の職人達も、男女入れ混じったキャスト。但、劇評を読むと、タイターニアとシーシアスの台詞の入れ替えから、つじつまの合わないところが出て来てしまっているらしいが、細かい台詞が分からない私にはその問題も気づかなかった。しっかり台詞が頭に入っていて、しかも良く聞き取れる人が見ると、印象は大分違ってくるかも知れない。

劇は平土間からせり上がってくる幾つかのステージの上で繰り広げられるが、更にその上にベッドが置かれたり、空中にベッドがつり下げられたりして、立体的な空間の利用になっている。また、俳優の多くがベッドの上で演技をするので、劇全体がまさに一夜の夢、お祭り、ファンタジー、であることをコンスタントに思いださせる仕掛けになっている。ベッドに俳優が陣取るのは、中世劇の類推から見ると、『堅忍の城』の写本と同じである。

視覚的に素晴らしかったのは、4人の妖精達を空中を舞うサーカス芸人のように使っていること。実際、プログラムによると妖精を演じたひとりはサーカスの訓練を受けた人、もうひとりは、ポール・アート(垂直の鉄棒使った器械体操)の専門家のようだ。彼らが、天井からつり下げられたり、鉄棒をくるくる回ったりして、劇場空間を立体的に埋めていく。つまり劇場全体がお祭りにやって来たサーカス小屋の雰囲気になっていた。そうした中、ボトムらの職人達はピエロとも言える。サーカスを重ねる演出は以前ウェブスターの劇の公演でも見たし、ピーター・ブルックの『真夏の夜の夢』の延長線上にもある。但、ブルックの真っ白で何もない舞台と違い、ハイトナーの舞台は過剰なまでにカラフルで装飾的なにぎやかさだ。

俳優の中では、オベロンとタイターニアの台詞の入れ替えにより、タイターニアを演じたグェンドリン・クリスティーが大変堂々として、目立った。大柄の女性で、緑のドレスが素晴らしく映えていた。またボトムを演じたハメッド・アニマショウン(Hammed Animashaun )も観客を乗せるのが実に巧み。

土間に立っている観客を演出の意図通りに動かす、アクロバティックな演技を安全に行う、せり上がるステージや動いたりつり上げたりするベッドを使用する、など1つ間違えば劇の進行がストップしたり、怪我に繋がる事故さえ起こりかねない演出だが、時計の歯車が噛み合うように、素晴らしくなめらかに進んでいて驚く。

色々な楽しいアイデア溢れる演出、そしてハイトナーのアイデアを実現する超一流のスタッフに感心する。文字通り「一夜の夢」を見た思いだ。

2019/08/19

【小説の感想】Andrew Taylor, "The Ashes of London" (HarperCollins, 2016)

Andrew Taylor, "The Ashes of London"
(HarperCollins, 2016)  482 pages.

☆☆☆☆ / 5

ロンドンの書店の棚で見て買った本。アンドリュー・テイラーという作家は始めて読むが、クライム・フィクションの分野では既に大変よく知られたベストセラー作家のようだ。これは私の好きな歴史・犯罪小説のジャンルに入る。

小説の舞台は1666年9月のロンドン大火とそれに続く日々。旧市街の多くが焼け落ち、当時からロンドンのランドマークだったセント・ポール寺院もほぼ消失した大災害。またこの時期は1642年から始まった清教徒革命と共和国時代という怒濤の時代が終わりを告げて、1660年に王政復古がなされ、処刑された前王の息子チャールズ2世がその治世を始めて間もない時代であり、イングランドは政治的にも不安定な時期でもあった。

ストーリーはふたりの男女を軸にして進行する。ひとりはジェイムズ・マーウッド(James Marwood)。急進派清教徒グループ、「第5の君主主義者」(The Fifth Monarchists)に属していた印刷職人の父を持ち、王政復古によって非常に難しい処世を迫られており、また認知症で世話が必要になっている父を守りつつ、何とか生活の糧を得ようと奔走している。その彼が大火災の最中に偶然出会い、炎から命を救ったのが若い女性のキャサリン・ラベット(Catherine Lovett)だった。しかしその時は大火災の混乱の中であり、2人はすぐにはぐれてしまう。彼女もまた「第5の君主主義者」の中心人物、トマス・ラベットを父に持ち、その父は前王の殺害者のひとりとしてチャールズ2世に追われる身で、どこにいるか分からない。彼女自身は叔父夫婦の世話になっているが、非常に居心地の悪い思いをしている。

マーウッドは勇ましいスパイや刑事でも、頭の切れる弁護士や学者でもなく、政治や宗教の嵐の中で何とかサバイバルしようとする庶民に過ぎない。しかし彼の父が過激派であったことに加え、偶然王殺し(a regicide)として追われる大罪人ラベットの娘を救ってしまったために役人達の手足として無理矢理利用されることになり、ラベット父娘の行く方を追うことになる。一方、まだ子供のような心を持ったキャサリン・ラベットは、政治にも宗教にも関心はなく、ただ自分の好きな建築デザインの夢を見、紙に建物の図を書いて過ごしている。しかし世話になっていた叔父オルダーリーの息子、つまり彼女のいとこのエドワードからレイプされ、彼女はエドワードの片目をナイフで刺して逃亡する。ジェイムズ・マーウッドもキャサリン・ラベットも、静かに生きたいと願うにもかかわらず、運命の歯車の回るままに、半ば焼け野が原になったロンドンや、廃墟と化したセント・ポール寺院を走り回る。

ジェイムズ・マーウッドは一人称の語りで登場し、彼自身は純朴な若者だが、それほど個性的な人物ではなく、むしろ他の登場人物を結びつける狂言回しみたいな役回りだ。一方、キャサリンはこの時代の女性には考えられないことだったとは思うが、ある叔母の影響で建築に興味を持ち、夢中で建物の絵を描いている間は辛い事も時間も忘れるというユニークな人物。しかし、レイプにあったり、父による宗教の押しつけに苦しんだりして、自分に合った生き方なんて夢のまた夢だ。しかし、彼女の才能に気づいた建築家で、クリストファー・レンの同僚ヘイクスビー(Hakesby)によってしばし匿われる。

歴史的に大変興味深い時代設定と、大火災の後のロンドン、特にセント・ボール寺院の廃墟を舞台にして、歴史小説としての濃密な雰囲気が楽しめる。マーウッドはその役柄から、やや個性に乏しいが、キャサリンやその他の登場人物は良く書き分けられている。特にジェイムズの父が認知症で、昔の過激派活動家時代の事を口走ったり、突然行く方が分からなくなったりして息子が冷や汗をかく場面は、現代の作家らしい工夫で、大変効果的。

エンターティンメント小説として手慣れた筆致だと感じたので、作者アンドリュー・テイラーの他の作品もそのうち読んで見よう。和訳の出ている小説もあるようだ。

(注) "The Fifth Monarchists"という急進派清教徒のグループは作者が作り上げたフィクションではなく、実際に存在し、革命期のイングランドで大きな勢力を持っていた。リンクをはった英語版ウィキペディアに解説がある。「第5の君主主義者」という和名は私が勝手に訳した名称なので、歴史の本では別の名前になっているかもしれない。この名称は元々旧約聖書のダニエル書におけるネブカドネザル王の夢で出てくる過去の王国に由来しており、それらの王国は、バビロニア、ペルシャ、ギリシャ、ローマと解釈された。そして第5の君主主義者達は、次の王国として、この地上にイエスが治める千年王国がやって来ると信じていた。第5の君主主義者の有力メンバー、トマス・ハリソン(Thomas Harrison)やジョン・ケイリュー(John Carew)は共和国政府がチャールズ1世に死刑宣告をした裁判の裁判官(comissioners)であり、王政復古の後は王殺し(regicides)としてむごたらしい手段(絞首刑の後、馬で引きずられ、手足に綱をつけて4つに引き裂かれる)で処刑された。こうした実在した人々がトマス・ラベットのモデルなのだろう。

2019/08/18

【観劇 ロンドン】"Peter Gynt" (Oliver Theatre, National Theatre, 2019.8.17)

"Peter Gynt" (Oliver Theatre, National Theatre)

National Theatre 公演
観劇日:2019.8.17 13:00-16:20
劇場:Oliver Theatre

演出:Jonathan Kent
脚本:David Hare
原作:Henrik Ibsen
デザイン:Richard Hudson
照明:Mark Henderson
音響:Kevin Amos
衣装:Cara Newman

出演:
James McArdle (Peter Gynt)
Ann Louise Ross (Agatha, Peter's mother)
Guy Henry (Ballon / The Weird Passenger)
Oliver Ford Davies (The Button Moulder)
Jonathan Coy (The king of trolls / Begriffenfeldt)
Anya Chalotra (Sabine, Peter's girl friend)

☆☆☆☆ / 5

数日前にロンドンにやって来たが、それでなくてもいつも体調の悪い私は、旅の疲れと時差でずっと具合が悪く宿舎でほとんど寝ていた。今回は観劇の予定も少ないが、17日にやっと観劇に出かけた。

さて、"Peter Gynt"と名前だけ英語化しているが、イプセンの『ペール・ギュント』を現代のイギリスに置き換えたデヴィッド・ヘアのアダプテーション。但、話の筋は原作を忠実に追っているらしい。ウィキペディア日本語版に非常に簡単な粗筋あり。英語版を見ると大変詳しい粗筋。但、台詞は勿論、出来事の背景などヘアがかなり変更している部分もあるようだ。

主人公のピーターはスコットランド人の男性になっていて、演じているジェイムズ・マカードルもスコットランド生まれの俳優。ディヴィッド・テナントが素で話しているような感じ。というわけで、彼や彼のお母さんのアガサの台詞はとっても難しくてさっぱり理解不能。でもとてもカラフルでファンタジックなセット・デザインで、舞台を眺めているだけで楽しめる。

私にとって特に興味深かったのは、この劇の中世劇的な性格が大変はっきりと浮き彫りになっていた点。主人公のピーターと彼を取り巻く様々の世俗的な誘惑は、ヘアの手によって、現代社会の物質的な欲望への諷刺になっている。特にゴルフ・コース場面はトランプを思いださざるを得ない。しかし、そうした欲望を体現する様々な人物はカリカチュアになっており、寓意的。つまり、ピーターという「万人」の寓意と、彼に次から次に近づいては去って行く欲望の寓意を描く道徳劇、という枠組が際立つ。彼を誘う悪徳の中には、ガイ・ヘンリー演じる悪魔らしき人物もいる。そして人生の終わりに近づくと、彼の死を予告するボタン職人(The Button Moulder)が現れて、彼に彼岸への旅立ちの覚悟を迫る。これは正に神の使者である「死」(Death)の寓意か(演じるのは、ベテランのオリヴァー・フォード・ディヴィス)。死期を迎えるピーターは彼の人生の証人を求められるが、欲望や野心、浮薄な暮らしで時間を浪費してきた彼には死の旅路へと送り出してくれる友人はいなかった。しかし、そこに彼を待ち続けていた若い頃の許嫁のサビーネが現れて、彼を慰める。最後の時まで彼に付き添って元気づけるサビーネの姿は、道徳劇で言うと女性の役である「慈悲」(Lady Mercy)だろうか(但、中世において女性の役を演じたのは男性)。

イプセンはノルウェーの民話から大分題材を取ったそうなので、原作ではフォークロア的な感じがあるのだが、今回のモダンなアダプテーションでは現代の道徳劇になっていて、デイヴィッド・ヘアらしい作品だ。前半で出てくるトロール(妖精)の結婚式の場面は、『不思議の国のアリス』みたいで特に見栄えが良くて、楽しいシーン。トロールの王様を演じるジョナサン・コイがピリッと印象的。

『マンカインド』などと同様、随所にユーモラスなキャラクターが散りばめられているので大いに笑えそうなんだが、英語があまり分からない悲しさよ!しかし3時間半くらいの長丁場にもかかわらず、ほとんど退屈しなかった。

ジェイムズ・マカードルは出ずっぱりだが声も枯れず、良く動き、説得力もあって見応えある俳優だ。ガイ・ヘンリーやオリヴァー・フォード・ディヴィスが要所を締めているし、その他の俳優も素晴らしい。ナショナル・シアターの俳優達のクオリティーの高さを堪能した。

自分自身も年齢を重ねて身体も弱ってきて、平和ではあったがほとんど何の成果も残さなかった我が人生をふり返る昨今なので、この劇は可笑しいところは多くても、かなり切実に胸に迫った。

2019/07/30

中世ロンドンのからくり人形:聖ボトルフ教会の聖ジョージとドラゴン

最近読んでいた論文がとても面白いので紹介。中世ロンドンのビリングスゲート区にあった聖ボトルフ教会は1666年のロンドン大火災で焼失した。この教会には、15世紀後半、少なくとも1474年以降に、聖ジョージの竜退治を描く仕掛け細工(an automaton)があったそうだ。中世演劇研究の重鎮、フィリップ・バターワース博士の論文によると、ロンドンのギルドホールに残された写本にこの仕掛け細工の修理マニュアルが約1頁ほど残っており、博士はそれを手がかりに、どのようなメカニズムによりこの仕掛け(ほぼロボットと言って良い)が動いたかを解明している。

基礎となる原動力は人が動かすレバー(a crank)。しかし、その1つのレバーの動きを細いロープで伝え、幾つかの滑車(pulleys)で変換し、馬に跨がった聖ジョージ、ドラゴン、王と妃、乙女(a maid)という5つの人形を動かしている。特に聖ジョージと竜は精密なメカニズムでロボットとも呼べるかも知れない。聖ジョージは片手に剣、もう一方の手に槍を持っており、その両手が動いて、竜に向かって攻撃をする。また、竜の方は聖ジョージの攻撃に対して口を開閉したり、羽を動かしたりした可能性があると筆者は考えている。聖ジョージの頭、彼の乗った馬の耳と尾も動いたことが分かっている。更に馬に乗った聖ジョージと竜の人形はそれぞれ別々の台座の上に置かれており、この台座全体が動いて、両者が近づいて互いを攻撃する動作をしたと考えられている。一方、戦うジョージとドラゴンの側には城があり、その城の上に王と妃が陣取った。またその近くの地面には乙女がいた。彼らも台座の上に載っており、彼らの台座は回転(rotate)する。おそらく彼らの驚きなどを示すためだろう。加えて、王と妃は、上半身が左右に半回転(pivot)したと考えられる。

たった1つのレバーを動かすだけで、これだけの複雑な動きをする、謂わば「ミニ人形芝居」を演じるメカニズムが15世紀末のロンドンの教区教会に置かれていたわけである。残念ながらどういう機会に使われて、誰が見て、どのような反応があったのかは分かっていないようだ。但、作者は分かっており、イングランド中部の都市イプスウィッチの職人ウィリアム・パーネルと彼の息子ジョン、そして徒弟のウィリアム・ベイカーだ。興味深いことにこのパーネル一家はかなり有名な職人集団で、エドワード4世の王妃エリザベス・ウッドビルのノリッジ入場のペイジェントやイプスウィッチの聖体祭劇など演劇関連の仕事に携わったという記録が残っているそうだ。広い地域で、からくり細工の専門家として有名であった可能性が大である。

精密な古文書研究に基づいた、イギリス中世演劇研究のすそ野の広さと面白さを伝える論文だ。バターワース博士はこの聖ジョージのミニ人形芝居セットをダ・ヴィンチの考案したロボットなどのメカニズムに例えている。ダ・ヴインチよりやや早い。

この論文は以下の本に含まれています
Philip Butterworth and Katie Normington, eds. Medieval Theatre Performance (Cambridge UP 2018)

2019/06/23

【観劇】『オレステイア』(新国立劇場、2019.6.22)

『オレステイア』
 
新国立劇場公演
観劇日: 2019.6.22   13:00-17:10
劇場:新国立劇場 中劇場

演出: 上村聡史
脚本: ロバート・アイク(アイスキュロスの作品に基づく)
翻訳: 平川大作
美術: 二村周作
照明: 沢田祐二
音響: 加藤 温
衣裳: 前田文子 

出演:
神野三鈴 (クリュタイメストラ)
横田栄司 (アガメムノーン、アイギストス)
生田斗真 (オレステス)
趣里 (イピゲネイア、カッサンドラ)
音月桂 (エレクトラ、裁判長)
倉野章子
チョウヨンホ

☆☆☆ / 5

オレステスは父の敵を取るために母殺しを犯す。しかし彼は記憶の障害を起こして、自分の犯行を憶えていない。その殺人事件の裁判では、精神科医が専門家として喚ばれて、オレステスの記憶を被告と共に掘り起こす。それを裁判の進行時刻と上演の進行時刻を重ねることで、観客も目撃することになる。つまり舞台上の演技は犯行の再現実験となる。

こうして劇の枠組を書いてみると、なかなか興味深く、素晴らしい発想だ。この点では、私は非常に高く評価。但、最初のほうが静かで説明的であり、私はついうとうと。もうちょっと観客を鷲づかみにした上で本題の2つの殺人の再現に入るともっと効果的だった気がする。映画同様、舞台も「掴み」が大切だ。ギリシャ悲劇はフロイト以来心理学的アプローチがよくされてきたことは素人の私でも知っているが、「法律と文学」の観点からも色々と研究されているらしく、この劇を見て、その種の本を読んでみたいという気になった。私は不勉強にて、アイスキュロスの3部作のうち、最初の『アガメムノーン』のみ昔読んだのみで、それもほとんど忘れている。3部作の3作目が裁判劇になっているようだ。従って、最初のほうの裁判導入場面は、現代だし、完全にアイクの創作なんだろう。でも折角裁判劇にしたんだから、一貫してその枠組を目立たせて欲しかった。時々、「証拠物件」とか言った表示が上部スクリーンに映し出されるが、唐突な印象。

出だしを除いて、全体的に退屈するところはほとんどなく、大いに楽しめたのに、いまひとつ納得感がなく見終えたので、何故かなあといぶかしく思いながら帰宅した。勿論、私の理解力が不十分な事や、ちょっとうとうとした時があったので、自業自得ではある。しかし、今ふり返ると、儀式的な魅力が大きいギリシャ悲劇を現代人の感性による割合平凡で理解しやすい親子の愛や悲しみなどを描く家庭劇にしてしまったことに納得出来ない気がした。ギリシャ劇や中世演劇では、理解や共感を拒む神や国家による不条理とか奇跡・驚異こそが大きな魅力であり、ドラマの始まりで終わりだ。圧倒的な宿命、その背後にある人知では計り知れない神の摂理、そしてその前で絶望しもがく人間、特に女性・・・。それを現代の親子関係とか、臨床心理の枠組で説明しようとするこの劇の枠組に私はちょっと引っかかって不満が残った気がする。

ギリシャ悲劇らしい儀式的な美しさを強調した作品にするか、あるいはギリシャ悲劇のモチーフを一部使いながらも、独立した現代劇として書き起こすか、どちらかに徹底してくれたら、私としてはもっと満足できただろうと思った。

観客を集めるのはアイドル俳優だが、劇の主役はクリュタイメストラとアガメムノーン。特にこの上演では、クリュタイメストラの視点が強調されているように思う。神野三鈴と横田栄司の2人のベテランのやり取りを見ているだけで、充分4時間を越える長丁場を見に来た甲斐はあったし、2人の出る場面ではまったく飽きさせない。但、2人とも真面目すぎる雰囲気が消えてない。しかしこれは脚本の問題でもある。この2人の役柄にはもっと毒々しさ、あざとさが欲しい。アガメムノーンもクリュタイメストラもあまりに小市民的で、既に書いたように、中途半端なギリシャ劇だと感じた。


2019/06/16

【新刊書】安藤聡『ファンタジーと英国文化—児童文学王国の名作をたどる』(彩流社、2019年5月発行)

大妻女子大学の安藤聡先生の新刊『ファンタジーと英国文化—児童文学王国の名作をたどる』(彩流社、本年5月発行)の一部を読んだ。彼は私の旧勤務校に長い間非常勤講師として来られていて、学校でよくお会いした。今も市民講座を定期的にやって下さっている。

私が読んだことのない作品が多く論じられているのだが、まずは序章の「なぜ英国はファンタジー王国なのか」を読んでみた。私の様な門外漢にはあまり縁のない本と思っていたのだが、大変参考になり、興味深く読めた。まず、短い紙幅で大変的確にイギリス児童文学の歴史、そしてその中で特にファンタジーの伝統がどう形成されていったかが実に的確に纏められている。初心者や一般読者にとって、格好の「イギリス・ファンタジー概説」と言えるだろう。特に、産業革命や都市化、イギリスに特有の階級や教育制度との関連、ナショナル・アイデンティティーとファンタジーとの関係など、中世英文学の学問史やmedievalismの発展とも重なることが大きくて、私にも非常に参考になった。

19世紀後半におけるファンタジーというジャンルの発生も、中世英文学研究も、近代の合理主義や産業革命以後の工業化された国の姿へのアンチテーゼという面があり、ブリテン島固有の文化を求めるナショナル・アイデンティティーの追及という面が色濃い。アーサー王伝説、あるいは『ベーオウルフ』などのアングロ・サクソン文学の研究はケルトとゲルマンの双方におけるイングランドのルーツを探求する動きでもある。そういう中世文学研究とその一般読者への広がりは、20世紀になって、ルイスやトールキンといった学者小説家の作品で一体化したとも言える。中世英文学の研究史やmedievalismの文学・文化の発展を考える上でも、参考になる序章だ。

この本の本論の部分は、児童文学の大作家や名作が個別に論じられている。私でもちょっとは分かるかな、と思って第7章の「ジェイン・オースティンと児童文学」を読んで見た。ファンタジーとは最も遠いところで創作をしているように見えるオースティンだが、C・S・ルイスとかJ・K・ローリングやその他かなりの数の児童文学作家に多大な影響を与えていると論じていて、興味深かった。

この本の第三部は、論文と言うにはややカジュアルな筆致の学術的なエッセイがまとめられていて、安藤先生がご自分で行かれたイギリスの町々の姿が児童文学にどう反映されているか、活き活きと描かれていて、楽しい。安藤先生はあちこちの地方を回られているだけでなく、そこにまつわる児童文学なども実に良く研究されていて、驚嘆する。本書を読んで、またオックスフォードなど行ってみたくなった。

それにしても、多くの論文やエッセイ、研究発表に加えて、これで安藤先生の研究書は4冊目!更に昨年は『英国文学概説ー原文で鑑賞するための道標』という教科書も出されているようだ。先生のご活躍には本当に驚嘆すると共に、それを生み出す努力と学識には頭が下がる。

2019/06/03

日本中世英語英文学会、西支部研究発表会に出席

6月1日土曜日、岡山理科大学で開催された日本中世英語英文学会、西支部研究発表会に行ってきた。支部会でありながら、大変充実した会になり、出席者は皆満足されたと思う。前年度の支部長の先生による企画の良さに負うところが大きい。

ひとつの企画は新刊書『いかにしてアーサー王は日本で受容されサブカルチャー界に君臨したか』の紹介。英米でよくある book launch というタイプのイベント。編者のひとりの先生の熱意溢れるスピーチに圧倒された。フロアーからの質問の時間がほとんど取れなかったので、もっと(あと15分くらい)時間があっても良かったかも知れない。こうした新刊書をめぐる企画は、今後もあってよいと思った。登壇されたお二人の編著者は、学部生や大学院生時代から知っているが、すっかり立派な研究者になられて、本当にまぶしいばかり!今や後の方から走っても追いつけない!

もうひとつの企画は、「チョーサーを読む」というワークショップ。具体的には短い(15分)ペーパーを4人が読んで、それについてフロアーと話し合うという形式。出席者の少ない支部会だからこそ生きるスタイルだ(大きな学会であれば、部屋をいくつか分割して複数やれば良い)。このスタイルはシェイクスピア学会で「セミナー」と題して昔からやっているようだし、英米の学会でも一般的。発表者は、議論の叩き台を提供する役目だから、研究報告、問題提起、あるいは先行研究の紹介として話せば良いとすれば気が楽だし、終始一貫していなくても、あるいは特定の結論がなくても話せる。そのようなものと考えれば、研究発表的な要素を最低限に抑え、最初の発表は「問題提起」として時間はそれぞれ10分程度に絞り、その代わりもっと議論を誘発するような仕掛け(例えば多くの問いを投げかけるなど)を考えても良かったのではないかとも思える。今後、東支部や全国大会、各種研究会などでも、必要に応じて取り入れてはどうかと思った。

個人の研究発表をなさったのは大学院生の方が一人だったが、大変良くリサーチされていて、専門外の私にも興味を持って聞くことができた。

学会の役職の関係で行くようになった西支部だが、おかげさまで充実した1日を過ごせ、準備委員のみなさんに感謝している。

2019/05/29

産業革命期カンタベリーの鉄道

またカンタベリー関連の話題。

1830年前後、イギリスでは幾つかの場所で鉄道が開通していて、わが町(地域)が最初、というお国自慢になっているようだ。その中で、日本の歴史の教科書でも書かれているように、マンチェスター〜リバプール線が最初の鉄道として知られるようになったのは、全線、普通の機関車で運行しているかららしい。

カンタベリーと海辺の町ウィットスタブルの間でも1830年に鉄道が開通していて、マンチェスター〜リバプール線より4ヶ月くらい早いと言う記述をカンタベリーの歴史の本で読んだ。でもこの鉄道、カンタベリーの北、ケント大学のキャンパスがある丘陵地を機関車では超えられず、固定した蒸気機関とケーブルでかなりの距離、列車を引っ張りあげたらしい。その後の下り坂は重力で進み、平野部に入ってからは機関車を利用した。だから全線機関車で運行した鉄道とは違うということで、「イギリス最初の鉄道」という名誉を得られず、歴史の中に埋もれているわけだ。確かにあの坂はきつい。最初期の鉄道は、こういう謂わばケーブルカー式との組み合わせが結構あったようだ。でも平野部について言えば、マンチェスター〜リバプール線より開業の早い鉄道だった。次にいつかカンタベリーの歴史について話すことがあったら、歴史トリビアのひとつとして鉄道の事も加えたいな(^_^;)。

2019/05/27

ヒュー・ウォルポールとカンタベリー

先日、カンタベリーと文学者に関して市民講座で話した後も、このテーマで気になることが幾つか残った。ひとつは、カンタベリーのキングズ・スクールで学んだ著名な文学者の中で、私がまったく知らなかったヒュー・ウォルポール(Hugh Walpole, 1884-1941)のこと。近所の市立図書館に彼の和訳作品集『銀の仮面』(倉阪鬼一郎、訳、国書刊行会、2001)があったので、借りてきて読んだ。
国書刊行会の「ミステリーの本棚」という叢書の一冊。謎解きとか、探偵や刑事が活躍するという類の話ではなく、日常生活のふとした出来事から生まれる恐怖とか不安を、巧みなシチュエーションを構築して、ドラマチックな物語にしてみせる、心理サスペンスとでも言えば良いだろうか。なかなか楽しめる。特に冒頭の表題作には引き込まれた。訳文も読みやすい。ウォルポールはカンタベリーで少年時代を過ごしたので、カンタベリーの街が作品の中にも出てこないかなと期待していたが、そのままの地名としてはカンタベリーは出てこなかった。ただし、「雪」と「小さな幽霊」という二つの短編はポルチェスターという大聖堂がある町を舞台としており、しかもその大聖堂には有名な「黒僧正の墓」があるらしい。カンタベリー大聖堂には14世紀の王子「黒太子」(Black Prince)の墓があるので、このポルチェスターのイメージの一部にはカンタベリーが投影されている可能性が大だろう。
この人の名字「ウォルポール」を聞くと、イギリスの最初の首相と言われるロバート・ウォルポール、その息子でゴシック小説の古典『オトラント城』を書いたホレス・ウォルポールを思い出すが、ウィキペディアの記述には、この名家との繋がりは言及されていない。そもそも彼はニュージーランド生まれ。しかし、父親のサマセット・ウォルポールはイングランドのノッティンガムシャーからの移民であり、後年にはまたブリテン島に戻って、エディンバラの司教にまでなった。
しかし、ヒュー・ウォルポールがホレス・ウォルポールと血縁だとすると、ゴシックの血筋が流れていたと言えるんだが・・・。巻末の、ミステリ批評家、千街晶之さんの解説には、ヒュー・ウォルポールは「ホレス・ウォルポール(英国初代首相ロバート・ウォルポールの子)の子孫だと言われている」(p. 263) と書かれているので、はっきりしたことは言えないが、それが定説なのかな。かなり古い出版だが伝記が2冊あるようなので、それらに当たってみるとより詳しく書いてあるのかも知れない。

2019/05/19

市民講座でカンタベリーと文学者について話した。

最近カンタベリーと文学の関連について市民講座の講演を2回やったので、いくらか日頃読まない近現代の文学作品を読んだ。カンタベリーに関連のある作家作品というと、カンタベリー大聖堂そばにあるキングズ・スクールに関連のある作者・作品が目立った。この学校は、元々大聖堂を管轄していたクライストチャーチ修道会の付属学校がルーツと言われ、そうなると、597年の聖オーガスティンのケント王国来訪にまでさかのぼることも可能。従って、現在まで存続しているイングランド最古の学校と言われることもある。但、宗教改革によって修道会は解散し、その時点で新しく国教会の学校として出発したので、歴史がはっきしているのは1530年代以降のようだ。

さてそのキングズ・スクールと関わりのある作家作品の筆頭はサマセット・モームの『人間の絆』。モーム自身キングズ・スクールの卒業生。彼は吃音で苦しんだそうだが、小説の主人公フィリップは足が不自由。内向的で劣等感を感じていた少年期のモームの心象風景が、主人公のフィリップ・ケアリ少年に投影されているようだ。「カンタベリー」(Canterbury)は「ターカンベリー」(Tercanbury)とアナグラムになっている。また、母の死後、フィリップを引き取る伯父の住む町はブラックステイブル(表記は岩波文庫版)(Blackstable)。少年モームも両親の死後ケントの海辺の町に住む叔父に育てられるが、その町はウィットスタブル(Whitstable)。だとすると、前者の発音もモームが意図したのは「ブラックスタブル」だろうか?

『人間の絆』での主人公のキングズ・スクール時代の描写は、悲惨ないじめやら、体罰で生徒を難聴にしてしまう暴力教師やら、全体的に事なかれ主義で改革に抵抗する古めかしい教師達やら、私が中学生の頃通った学校を思い出す。説得力があり、なかなか面白かった。

キングズ・スクールはクリストファー・マーローが出た学校で、モーム以外にも、ヒュー・ウォルポールというかって大変人気のあった小説家も出ている。ウォルポールの作品は日本語にも結構訳されている。また、ディケンズの『ディヴィッド・コパフィールド』におけるカンタベリーのドクター・ストロングの学校もキングズ・スクールをモデルとしているようだ。マーローというと、もう一人カンタベリー出身のルネサンス劇作家ジョン・リリーも思いだす。1564年はシェイクスピアが、マーローが、そして恐らくリリーも生まれた年!リリーがキングズ・スクールに行ったという記録はないようだが、カンタベリーに育ち知識人となったわけで、当時カンタベリーは他にめぼしい教育機関はほぼないことを考えると、彼がキングズ・スクールに通学したことはほぼ確実に思える(但、ロンドンやその他の都市の寄宿制学校に送られたり、自宅で父親や家庭教師に教育された可能性はある)。彼の父親は、文化人として、古い書物の収集家としても有名なカンタベリー大司教、マシュー・パーカーの registrar (書記官、記録係)だったので、靴屋だったマーローの父親と違い、息子にしっかりした教育を受けさせる動機も身分や財力もあっただろう。また、ジョン・リリーの祖父、ウィリアムは、当時の名門校、ロンドンのセント・ポール校の校長で、著名な古典語文法学者だった。このリリー一家は他にも知識人を出しているらしく、今後更に勉強してみたい。

専門外のことについてちょこちょこと断片的な知識をかき集めて素人程度のお恥ずかしい話をしたんだけど、私としては調べている間、とても楽しかった。

2019/03/28

"The Son" (Kiln Theatre)

"The Son"

Kiln Theatre 公演
観劇日:2019.3.16 14:30-16:15 (no interval)
劇場:Kiln Theatre

演出:Michael Longhurst
脚本(オリジナルは仏語):Florian Zeller
翻訳:Christopher Hampton
デザイン:Lizzie Clachan
照明:Lee Curran
音楽・音響:Isobel Waller-Bridge

出演:
John Light (Pierre, the father)
Laurie Kynaston (Nicolas, the son)
Amanda Abbington (Anne, the mother)
Oseloka Obi (nurse)
Amaka Okafor (Sofia)
Martin Turner (the doctor)

☆☆☆☆ / 5

今回のイギリス滞在で最後に見たのは、フランスの劇作家Florian Zellerの新作。前日に見た"Downstate"にも劣らぬ強烈な説得力を持った公演だった。

Upper middle classの豊かそうな家庭における精神不安定な男の子(15才くらいか)と父親の関係を中心に描いた家庭劇。父母の離婚、父親の再婚が引き金になって父子の行き違いからくる争いが生まれ、それが息子の精神を不安定にしていく。自傷行為、自殺未遂、精神病院への強制的な入院、そして退院はするが、その後に起こる悲劇。息子の立ち直りと無事の成長を願う父の思いが切ない。息子を救おうともがく父親、しかしその父の愛情や心配が息子にはストレートに伝わらないどころか、ことごとく圧力となって彼にのしかかり、一層心を病んでいく。見始めたときは、ちょっと退屈な家庭劇かな、と勘違いしたが、最後は圧倒的な迫力で打ちのめされた。父親を演じたJohn Light、母親役のAmanda Abbingtonなど、テレビドラマでも良く見る俳優が出ていた。少年役のLaurie Kynastonは実に素晴らしい演技。また、Lizzie Clachanの純白のパネルを効果的に使ったセットが緊張感溢れるこの家庭の心象風景そのもの。白い床、白い壁やドアで舞台を統一し、その真っ白の中で、感情を爆発させた息子が衣類や持ち物、その他飾り棚とか鉢植えなど、平和な日常生活の小物をぶちまけ、家庭の破滅を象徴する。特に期待していなかった公演だけに度肝を抜かれた。これだからイギリスでの観劇は止められない。

しかし、帰宅後しばらく考えていると、欲を言うと、あの劇は何が言いたいんだろう、という疑問は残った。いくら誠実に愛情を注いでも良い方向に向かない息子に対する父親の焦燥と不安は良く伝わるが、息子の精神の不安定は良く説明されないまま(子供が何を考えているか理解出来ないという典型的な親の視点に立っているからか)。冷たくて杓子定規の医師の姿に、現在の精神医療の問題もちょっと触れられている気もするが、大した扱いではない。クライマックスに向かって緊張感を盛り上げる手法は、こういうシリアスなテーマを扱うにはややあざとい感じもした。ドラマとしての緊張感を創り出すために、観客に考えさせることをやや犠牲にしているような気がした。休憩なしの1時間45分では、こうしたことを深く掘り下げることは出来ないだろう。とは言え、凄い緊迫感の劇。

私はストールの見やすい、良い席のチケットを買ったが、34.5ポンド。私にとっては安い価格ではないが、それでも大変お得だ。

これで今回のロンドンでの観劇は終わり。全部で14本見た。私が準備を始めるのが遅くて、見たいと思った劇の切符が売り切れている場合もあったが、大体において希望した劇は見て、良い劇も多く満足だった。渡英の何ヶ月も前から上演予定の演目に気をつけてないと面白い劇を見逃すことになるのだが、ついつい出発直前に慌てて切符を買うことになってしまいがち。次回は気をつけよう、と今は思っているが・・・。

時差が大きいと体調管理に苦労するのは昔からだが、近年は加齢のために一層ひどくなり、滞在中ずっと体調が悪くて苦しかったし、帰国後も調子悪い。それでも、帰国すると、また行きたいと思わせるのが、イギリス演劇の魅力。研究のほうは昨年博士課程の卒業式に出て、その後、部屋に積み上げていた研究書など沢山処分し、もうお仕舞いという感じになった。今の一番の生き甲斐は、日頃倹約しておいてこうして偶にイギリスに劇を見に行くことかも知れない。

2019/03/27

"Downstate" (Dorfman Theatre)

"Downstate"

National Theatre 公演
観劇日:2019.3.15 19:30-21:55
劇場:Dorfman Theatre, National Theatre

演出:Pam MacKinnon
脚本:Bruce Norris
デザイン:Todd Rosenthal
照明:Adam Silverman
音響:Carolyn Downing
衣装:Clint Ramos

出演:
Glen Davis (Gio)
K Todd Freeman (Dee)
Francis Guinan (Fred)
Tim Hopper (Andy)
Ivy (Cecilia Noble)
Felix (Eddie Torres)
Effie (Aimee Lou Wood)
Em (Matilda Ziegler)

☆☆☆☆☆ / 5

この劇が性犯罪を扱った劇であるとは知っていて、重苦しい作品だろうと予想はしていたが、想像以上にシリアスだった。最初はどういう場所で何が起こっているのか分からなかったが、性犯罪、特に未成年を被害者とする犯罪、で法を犯し、刑期を終えた人々が数人で暮らすグループホームが舞台となっている。皆それぞれ個性豊かだが、これと言って異常なところはなく、むしろ穏やかな人々に見え、高齢で車椅子を使っている住民もいる(Fred)。そこに丁度被害者のひとりAndyと彼の妻がやって来ていて、彼を子供の時にレイプしたFredと一種の和解の話し合いをしているが、まわりの住民の立てる雑音や話し声で度々さえぎられ、上手く進行しない。また、Fredもにこやかに「解ったよ」とは何度も言うが、まるで他人の昔話を笑いながら聞いているような表情で、彼に真の反省や懺悔の気持ちがあるとは思えない。こんな事で和解なんて出来るわけない、と観客としても思うが、案の定、Andyの内面にはもの凄い怒りが蓄積していることが後で分かる。その後、この地区を担当する保護観察官Ivyがやって来て、住民のひとりに図書館に行ったことについて注意したり、色々と聞き取りをしたりする。そこで分かるのは、刑期を終え、一応法的には罪を償った元性犯罪者達も、自由になってからも、実に様々な制約を課されていて、塀の外の世界も一種の牢獄であると言う事実だ。例えば、劇中の人物も、携帯電話は駄目、インターネット接続も駄目、図書館に近づくことも駄目、規則を破ると、身体に追跡装置の装着をしなければならなくなる。まだ若いGioは自分のビジネスを始めようと計画しているが、社会は彼らが普通に生活することを許さない。グループホームの窓ガラスは割れたままテープで補修してあるが、ショット・ガンで撃たれたためだ。時々電話が鳴るが、嫌がらせ電話だと分かっているので誰も取らない。

後半ではAndyがまたやって来て、Fredに自分が作った反省の誓約書を突きつけてサインしろと迫る。Fredは大人しく聞いて、深く悔いていると言い、サインしようとするが、FredをかばうDeeが「彼は刑期を終え、罪は償った。彼に再度刑を科すのか」と抵抗して、Andyと激しい口論となる。劇の幕切れでは自殺者まで出る。台詞を追い切れないところも多々あったが、それでも圧倒的な迫力で観客に迫る。今回の渡英で見た最高の舞台。

性犯罪の被害者(特にこの劇に描かれたような子供の時に被害を受けた人達)や殺人事件の被害者家族の多くは、犯人を一生許せないという事実、その一方、犯人を更正させ、正常な社会人として社会に復帰させるという(先進国の)法における理念。このふたつの間にある大きな隔たりと矛盾をえぐる。被害者から見ると、子供をレイプしたような性犯罪者は一生苦しみ続け、気が狂って自殺するくらないでないと許せないのかもしれない。まともに更正して、立派なビジネスマンになり、幸せな家庭を築いたりしたらどう思うだろう。登場人物のひとり、Gioはそういう方向を目指しているかも知れない。自分の罪の重さに一生苦しみ続けるような人生を送るならば、気が狂ってもおかしくないだろうと思う。答のない問いをこの劇は突きつける。

2019/03/26

"Blood Knot" (Orange Tree Theatre)

"Blood Knot"

Orange Tree Theatre 公演
観劇日:2019.3.14 14:30-16:30
劇場:Orange Tree Theatre, Richmond

演出:Matthew Xia
脚本:Athol Fugard
デザイン:Basia Binkowska
照明:Ciarán Cunningham
音楽・音響:Xana

出演:
Nathan McMillan (Morrie)
Kalungi Ssebandeke (Zach)

☆☆☆☆ / 5

渡英した際には必ず出かけるOrange Tree Theatre (Richmond)にAthol Fugardの劇を見に行った。Finborough Theatreで見た"A Lesson from Aloes"に続いてFugardを2本見ることになったのは偶然だったが、この劇作家のことをより良く知ることが出来た。また、演出したのは、前の日に私を大変楽しませてくれた"Eden"の演出家でもあるMatthew Xia。更に、照明担当のCiarán Cunninghamも共通している。

アパルトヘイト時代の南アフリカ共和国の都市、ポート・エリザベスが舞台。腹違いの兄弟、Morrie (Morris)とZach (Zachariah) がひっそりと助けあいつつ暮らしている。Zachが勤めに出て肉体労働をし、Morrieは家に居てZachを主夫のように甲斐甲斐しく世話している。Morrieはとても色が白くて、白人としても暮らしていける。一方、Zachは黒人としか見えない。Morrieは長年Zachとは分かれて育ち、より良い教育を受けているようで、文字も読めるが、Zachはほとんど読めないようだ。2人は世間から孤立した生活を送っているが、ある時Morrieが新聞でペンパル募集欄を見つけ、Zachの名前で応募する。その後、若い白人女性から返事があり、手紙を交換し始める。但、実際に手紙を書くのは、文字を書けるMorrie。この女性の兄は警官とわかり、2人は怖じ気づく。当時の南アでは人種を越えて男女交際するのはタブーであり、増して彼女の兄が警官であれば、トラブルとなるのは明らかだから。やがて、ペンパルの女性がポートエリザベスにやって来るという手紙が来る。Zachは色の白いMorrieが自分の代わりに相手に会ってはどうかと言い、立派な帽子、スーツ、シャツ、ネクタイなど、彼らの貧しい暮らしにはそぐわない衣服一式を買ってくる。それを着てみたMorrieはまるで白人のような威圧的態度に変化し、Zachに召使い、あるいは奴隷に対するように横柄な口をきく。結局、その女性は白人男性と結婚式を挙げることになり、ポートエリザベス訪問はなくなったが、この出来事で、2人は膚の色の濃淡で作られる違いを強く自覚することとなった。

良く出来たプロットと2人の熟達した俳優による息もつかせぬ濃密な舞台で、かなり楽しめた。南アのアクセントを取り入れた言葉使いだったが、私でも物語の流れを見失わない程度には理解出来て良かった。但、南アフリカ共和国がアパルトヘイトを脱した今、元々この劇にあったであろう切実さの多くは失われているかも知れない。その一方で、いまだに人種や膚の色の濃淡による差別も厳然として残っていることを思い出させる意味もあるだろう。

大変良い公演で、リビューでも褒められているのに、空席が多くて残念だった。観客はほとんどが白人の高齢者。マチネだったし、リッチモンドという土地柄もあるかもしれない。

2019/03/25

"Eden" (Hamstead Downstairs)

"Eden"

Hamstead Theatre 公演
観劇日:2019.3.13 14:45-16:45
劇場:Hamstead Downstairs

演出:Matthew Xia
脚本:Hannah Patterson
デザイン:Jasmine Swan
照明:Ciarán Cunningham

出演:
Laurietta Essien (Alison)
Mariah Gale (Jane)
Sean Jackson (Bob)
Yolanda Kettle (Sophie)
Adrian Richards (Golf Caddie, Journalist, etc.)
Michael Simkins (Chase)

☆☆☆☆☆ / 5

Hamstead Theatreの中にある小さなスタジオ劇場。私はこの公演をシニア料金で見ることが出来、たった10ポンドしかかからなかった。しかもプログラムは無料配布。2,3見たリビューはあまり良くなかったので期待はしていなかったら、意外や意外!とても楽しめた。私の好きなタイプの劇。今回の渡英で観た劇の中でも、最も満足できた公演かも知れない。

シナリオを書いたHannah Pattersonが劇の発想としたのは、スコットランド、アバディーンシャーで実際にあったゴルフ場の開発とそれに伴う自然破壊や贈収賄疑惑。開発をしているのは、The Trump International Golf Links、つまりドナルド・トランプの会社。この事件をベースに、Pattersonは、反対運動を最後まで(死に至るまで、というのも彼は癌を患っているから)貫徹するBob、その娘で地質学研究者のJane、開発会社社長のChase、Chaseの部下で、土地買収の実務に当たる地元出身の女性Sophieの人間関係を通じて、開発によって引き裂かれる人々の複雑な気持ちを描く。Chaseの情け容赦ない傲慢さ、どんな人でも金と物欲を操作すれば動かせるとする彼の考え方が、信念に忠実に生きるBobと対比される。一方、JaneやSophieは仕事と愛情のせめぎ合いで苦悶する(ふたりは、Sophieが町を出る前は恋人同士だった)。町の経済的発展を考えつつも、Bobにも同情する市議会議長のAlisonも良い人物造形だ。

俳優は皆巧みな演技。Chaseを演じたMichael Simkinsはロンドンの演劇界の常連のようだし、Mariah GaleやYolanda Kettleもイギリスのテレビなどで脇役として活躍中。こういうしっかりした俳優の演技を直接劇場で、しかも一番高いチケットでも14ポンドで楽しめるなんて、素晴らしい!脚本のHannah Patterson、演出のMatthew Xiaの名前も、憶えておきたい。

"Shipwreck" (Almeida Theatre)

"Shipwreck"

Almeida Theatre 公演
観劇日:2019.3.12 19:00-22:00
劇場:Almeida Theatre

演出:Rupert Goold
脚本:Anne Washburn
デザイン:Miriam Buether
照明:Jack Knowles
音響:Paul Arditti
音楽:Max Perryment
衣装:Lisa Aitken

出演:
Khalid Abdalla (Yusuf)
Fisayo Akinade (Mark)
Raquel Cassidy (Jools)
Risteárd Cooper (Lawrence, Richard)
Elliot Cowan (Jim)
Tara Fitzgerald (Teresa, Laurie)
Adam James (Andrew)
Justine Mitchell (Allie)

☆☆☆ / 5

トランプ政権下のアメリカを描く新作。ニューヨークに住むリベラルな男女数人が週末を過ごす別荘に出かけるが、大雪でそこに缶詰めになって、延々とトランプについて議論する:何故彼が選ばれてしまったのか、誰が彼に投票したのか、等々。その合間に、他の切り口から、現代アメリカに関する独立したエピソードが挟まれる。繰り返し出てくるのは、アメリカの白人農家の養子になったアフリカの黒人の若者(つまり昔からいる黒人ではなく、新移民のアフロ・アメリカン)。また、悪魔のスーパーマンみたいな扮装をしたトランプとジェイムズ・コーミーFBI元長官のやり取りなど。休憩を含めて3時間にわたる長編。ひとつのドラマに収斂していく作品ではなく、どんどんトピックが拡散していき、まとまった形で終わらない。興味深い劇だったけど説得力には乏しい。アルメイダには珍しく空席も目立ち、観客の評価も高くないようだ。


2019/03/24

"A Lesson from Aloes" (Finborough Theatre)

"A Lesson from Aloes"

Finborough Theatre 公演
観劇日:2019.3.10 15:00-17:00
劇場:Finborough Theatre, London

演出:Janet Suzman
脚本:Athol Fugard
デザイン:Norman Coates

出演:
Dawid Minnaar (Piet)
Janine Ulfane (Gladys)
David Rubin (Steve)

☆☆☆ / 5

ロンドンに来たら必ず行くことにしているフィンバラ劇場の公演。いつも満足できるクオリティーを見せてくれる。

アパルトヘイト時代の南アフリカ共和国において、人種差別に異を唱える劇を書き続けたAthol Fugardの1978年の劇の再演。題名は『アロエからの教訓』。アパルトヘイトの時代、労働組合運動に参加することから政治的活動にも関わっていった白人男性Pietと、精神を病んでいくその妻Gladys、そして、有色人種(カラード)の運動仲間Steveの複雑な関係を、たたみかけるような台詞の連続で描く。劇の始まる時点では、PietとGladysは既に組合や政治活動から遠ざかった老人夫婦で、昔の記憶を反芻しつつ、世間から孤立した生活を送っている。Gladysは精神病院に入ったこともあり、今も不安定。彼女の病状がひどかった頃、Pietは政治活動に入れ込んでいて、妻の世話が十分でなかったかも知れない。やがて、組合運動の仲間だったSteveが訪ねてくるが、Pietがかって官憲の内通者であったのではないか、という疑いがふたりの間に大きな不信を残している。

3人の俳優は大変な迫力のある演技を見せてくれた。しかし私の英語力では、台詞が早すぎ、アクセントのある英語を聞き取るのも難しくて、大まかな筋を追うことさえ出来ず、何を話しているか全く分からないところが多々あり、満足に鑑賞出来たとは到底言えない。脚本を読んでから見るともっと面白かっただろうなあ、と残念。

なお、俳優のひとりDawid Minaarはアフリカナーらしく、アフリカーンスのウィキペディアに紹介があった(読めないけど)。いずれにせよ、3人とも演技は素晴らしかった。David Rubinはロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで教育関連の仕事をしている俳優らしい。

"Medea" (International Theater Amsterdam at Barbican Theatre)

"Medea" (Barbican Theatre)

International Theater Amsterdam 公演
観劇日:2019.3.9 19:45-21:05 (no interval)
劇場:Barbican Theatre

演出:Simon Stone
脚本:Simon Stone, after Euripides
デザイン:Bob Cousins
照明:Bernie von Velzen
音響:Stefan Gregory
翻訳:Vera Hoogstad, Peter von Kraaij
ドラマツルグ:Peter von Kraaij
衣装:An D'Huys

出演:
Marieke Heebink (Anna)
Aus Greidanus Jr (Lucas)
Eva Heijnen (Clara)
Leon Voorberg (Christopher)
Fred Goessens (Herbert)
Jip Smit (Marie-Louise)
Puma Kitseroo (Gijs)
Faas Jankers (Edgar)

☆☆☆☆ / 5

現代版ギリシャ悲劇。エウリピデスの戯曲の大まかなプロットを現代アメリカで実際にあった母親が自分のふたりの子供を殺害するという事件に重ね合わせている。非常に実験的な印象を与える公演。舞台は真っ白の「なにもない空間」。ピーター・ブルックの『真夏の夜の夢』のようなステージ。しかし、時々その舞台を上下に区切り、上半分をスクリーンにして、下の舞台で演じている俳優の顔などをクローズアップして映したりする。昔見たルパージュの公演でもこうした映像の使い方をしていた記憶がある。何だかNTライブを見ているような錯覚を感じた。夫婦を演じる2人が激しく口論し、怒鳴り合い、そして時にはつかみ合いをする。もの凄い緊張感に充ちた劇。ギリシャ劇として思い描くような儀式的な雰囲気は感じない。『エブリマン』のような道徳劇的な雰囲気もある。あまり好きなタイプの劇ではなかったけれど、大変興味をそそられた公演で、見た甲斐はあった。

2019/03/23

"The Price" (Wyndham Theatre)

"The Price"

観劇日:2019.3.8 19:30-22:10
劇場:Wyndham Theatre

演出:Jonathan Church
脚本:Arthur Miller
デザイン:Simon Higlett

出演:
David Suchet (Gregory Solomon, furniture dealer)
Brendan Coyle (Victor Franz, policeman)
Adrian Lukis (Walter Franz, surgeon)
Sarah Stewart (Victor's wife)

☆☆☆☆ / 5

今回のロンドン滞在で唯一のウェストエンドの商業劇場での観劇。David Suchetの名演を楽しめて、無理をした甲斐はあった。滅多に上演されることのない作品だが、ミラー作品に多い父と息子達の相克のテーマを扱う。但、その父親は既に亡くなっていて劇には登場せず、ふたりの息子達、VictorとWalterが、死んだ父の遺産である家具を古物商に売却をする過程で、父親の後ろ暗さ、息子達に対する金銭上の不誠実が明らかになり、息子達は苦しむ。彼らは家具を売る事を通じて、父のことだけでなく、自分達の人生をふり返り、兄弟の間に残る鬱積された不満や罪悪感を吐露することになる。その古い家具を買い取りに来るのが、ユダヤ人商人Gregory Solomonで、演じるのはDavid Suchet。いつもの様に素晴らしい演技でうならせる。Solomonという名前が示すように、彼は一種の賢者であり、また抜け目のない商人でもあって、その真意を測るのは難しく、Suchetがその奥深さを充分に伝えていた。兄のVictorは父の世話をするために犠牲になって、地味な暮らしをしてきた。一方、弟のWalterは大学に進学し外科医になって豊かな暮らしをしており、兄に対して罪悪感を感じている。VictorとWalterを演じるBrendan CoyleとAdrian Lukisも大変説得力があり、そうした優れた演技に支えられた公演だった。ミラーの脚本はいつも女性の影は薄く、Walterの妻を演じたStewartはややもったいなかったが、それでも彼女は実力を発揮して、存在感はあった。贅沢な商業劇場で、ベテランの芸達者達による名演を味わった一夜。高級レストランで芳醇なワインを飲んだような感じ。但、私はお酒は飲めないんですけど(^_^)。

こういう公演を見ると、台詞を大事にするイギリス演劇の良い伝統をつくづく感じる。

"Agnes Colander: An Attempt at Life" (Jermyn Street Theatre)

"Agnes Colander: An Attempt at Life"

観劇日:2019.3.7 19:30-21:30
劇場:Jermyn Street Theatre

演出:Trevor Nunn
脚本:Harley Granville-Barker, revised by Richard Nelson
デザイン:Robert Jones
照明:Paul Pyant

出演:
Naomi Frederick (Agnes Colander)
Matthew Flynn (Otho Kjoge)
Sally Scott
Cindy Jane Armbruster
Harry Lister Smith (Alexander Flint)

☆☆/ 5

"Preface to Shakespeare" 等の啓蒙書でも知られる演劇人、Harley Granville-Barkerの埋もれたままになって上演された事がなかった作品を大御所Trevor Nunnが発掘し演出した。去年、Theatre Royal, Bathで始めて上演されたプロダクション。物語は、イプセンの『人形の家』で、ノーラが旧弊な夫を捨てて家を出た後どう生きたかを描いたような話。

物語のセッティングはイギリスとフランス。主人公のAgnesは彼女を裏切った夫を捨てて3年が過ぎ、画家として新しい生活を始めている。彼女と同棲しているOtho Kjogeは家父長的で彼女を独占しようとし、彼女を慕う若者のAlexander Flintは、彼女を人形の様に理想化してやまない。折角夫を捨てて自由を獲得したように見えたAgnesだが、女性を一人前の人間として扱えない男達に囲まれて、独立した芸術家としての未来が描けない。

ということで、発想は大変面白いが、台詞がまったく噛み合わず、何だか抽象的な議論を延々と聞かされている感じで面白くなく残念。Granville-Barkerは、検閲されるのを恐れてこの劇を上演しなかったと言われているようだが、作品自体にも大いに問題があると自覚していたのではないだろうか。

"Tartuffe, the Imposter" (National Theatre)

"Tartuffe, the Imposter"

National Theatre 公演
観劇日:2019.3.6  14:15-16:15
劇場:Lyttelton Theatre, National Theatre, London

演出:Blanche Mcintyre
脚本:Molière (a new version by John Donnelly)
セットデザイン、衣装:Robert Jones
照明:Oliver Fenwick
音楽・音響:Ben and Max Ringham

出演:
Denis O'Hare (Tartuffe)
Pernelle (Susan Engel)
Olivia Williams (Elmire)
Hari Dillon (Cleante)
Kathy Kiera Clarke (Dorine)
Enyi Okoronkwo (Damis)
Kitty Archer (Mariane)
Kevin Doyle (Orgon)
Geoffrey Lumb (Valere)
Matthew Duckett (Loyal)

☆☆☆☆ / 5

今回の渡英では2本の翻訳劇を見たが、2つともフランスの作品。これはナショナル・シアターらしい豪華なセット、優れた演技陣、そして古典の現代的で斬新な解釈を見せてくれ、かなり楽しめた。

現代の成金の家庭にセッティングを移したモダン『タルチュフ』。John Donnellyによる"a new version"とあり、イギリスで古典を上演する時によくあるように、台詞も英訳するだけでなく、相当に書きかえているのではないかと推測する。

その家の主人、Orgonと彼の母親Pernellに怪しげな新興宗教のグルみたいな男Tartuffeが言葉巧みに取り入っている(何故こんな奴に、とちょっと納得いかないところは問題あり)。Orgonは自分だけでなく、一家の他の者達、娘のMarianeや妻のElmire、Elmireの兄、Cleante等々もTartuffeを信奉するようにと仕向けるが、他の者は納得しない。特にCleanteはTartuffeの詐欺師ぶりを暴こうとする。Orgonは娘をTartuffeに嫁がせようとし、また、全財産を彼にわたすという契約までしてしまい、一家は破滅へと向かうが・・・。最後はOrgonも目を覚まし、事情を察知したPM(首相)の権力により、官憲が介入してOrgon一家は救われる。

面白い演出として、ところどころの場面でホームレスみたいな人達を配置していた。Cleanteは2,3のチャリティーの理事をやっていると言っていたが、金満家のリベラルOrgon一族に対し、Tartuffeをホームレス達のような無産者階級から這い上がってきたペテン師と位置づけているのではないだろうか。チェーホフ等、ロシアの古典のプロダクションでも時々見られる演出だろう。

私には、Tartuffeが単なるチンピラにしか見えなかった。彼のキャラクターが、もう少し魅力的にならなかったものかと思う。何故Orgonがこれほどまでに彼に入れ込んでしまったのか、イマイチ分からない。

劇が始まったとき、Orgon家の居間のセットの豪華さとけばけばしさに思わず息を呑んだ。ああいうセットは、日本では例え商業劇場の資金があってもまず見られない。デザイナーのRobert Jonesのセンスの良さに感服。あれだけでも見る価値があったと思えるくらい。

2019/03/22

"Edward II" (Sam Wanamaker Playhouse)

"Edward II"

Shakespeare's Globe 公演
観劇日:2019.3.5 14:00-:00
劇場:Wanamaker Playhouse, Shakespeare's Globe

演出:Nick Bagnall
脚本:Christopher Marlowe
デザイン:Jessica Worrall

出演:
Tom Stuart (Edward II)
Beru Tessema (Gaveston)
Katie West (Queen Isabella)
Richard Bremmer (Archbishop of Canterbury / Spenser Senior)
Richard Cant (Earl of Lancaster)
Polly Frame ()
Jonathan Livingstone (Mortimer Senior)
Colin Ryan (Spencer Junior)

☆☆☆ / 5

Sam Wanamaker Playhouse で続けて劇を見ることになった。"Richard II" は有色人種の女性だけ、更に多文化を反映した実験的な上演だったが、こちらは打って変わって、背景や衣装など、エリザベス朝らしい雰囲気を出したトラディショナルな上演。こういう上演は今やかえって珍しいので、まさにコスチューム・ドラマを見ている気分だった。役者は有名な人は出てないようで、演技で特に印象深い人はいなかった。Gaveston はやや毒気に欠けるし、Edward はまるで正直者のようにも見えかねない。まあでも戯曲自体が面白いので楽しめた。

"Richard II" (Sam Wanamaker Playhouse)

"Richard II"

Shakespeare's Globe 公演
観劇日:2018.3.3 13:00-15:30
劇場:Sam Wanamaker Playhouse (Shakespeare's Globe)

演出:Adjoa Andoh & Lynette Linton
脚本:William Shakespeare
デザイン:Rajha Shakiry

出演:
Adjoa Andoh (Richard II)
Dona Croll (John of Gaunt)
Leila Farzad (Queen)
Shobna Gulati (Duke of York)
Sarah Niles (Bolingbroke)
Indra Ové (Mowbray / Northumberland)
Sarah Lam (Duchess of Gloucester 他)

☆☆☆☆ / 5

俳優は勿論スタッフもすべて女性、更に全員が有色人種で、多国籍、多文化の背景を担う人々だけで作られた公演。アフリカ系、中近東系、インド等南アジア系、そして東アジア系からなる混成カンパニーだった。彼らは皆、それぞれの文化を反映した民族衣装のような服を着けていた。身体表現や、台詞の言い方、言葉のアクセントなどもそうした点が残され、あるいは強調されて、にぎやかな、多文化のデパートみたいな公演になっていた。但、その分、一貫したまとまりには欠ける気がした。ディレクターの一人は王Richardとして主役も務めるAdjoa Andohn。カンパニーの中には、シェイクスピアは始めてと感じさせるような、あまり演技が出来ていない人もいたが、Andohの演技はとても上手く、説得力があったし、身体の使い方も白人とは違い、ユニーク。歌舞伎がすべて男性だけでやるように、女性だけのカンパニーにも全く違和感感じなかったし、このようにして女優達がシェイクスピアの台詞を体験することが出来るのは良い事だ。テレビ・ドラマの脇役などでしばしば見るベテラン俳優も含まれており、演技は概して良かった。

Sam Wanamaker Playhouse には始めて出かけた。ロウソクだけで照明をするステージを始めて見ることが出来て、興味深い経験だった。普通にしていたら、俳優の顔の表情はとても見づらい。ステージはとても狭く、大きく動き回るスペースはないので、暗がりの中で俳優が立って台詞を言っている、という感じ。俳優は自分自身でロウソクや松明を持って自らの顔を照らしつつ台詞を言うことも多かった。この舞台はかなり狭くてアクションを見せることが難しい。その分、台詞に頼る面が大きいと思った。またアクションに時間を使わないので、大きな舞台でやるよりも上演時間が短くなっている気がした。

"The Cost of Living" (Hamstead Theatre, London)

"The Cost of Living"

Hamstead Theatre 公演
観劇日:2019.3.2 15:00-16:45 (no interval)
劇場:Hamstead Theatre

演出:Edward Hall
脚本:Martyna Major
デザイン:Michael Pavelka

出演:
Emily Barber (Jess)
Jack Hunter (John)
Adrian Lester (Eddy)
Katy Sullivan (Ani)

☆☆☆☆ / 5

しばらくロンドンに劇を見に行ってきた。いつも書いているが、私は極端に記憶力が悪いので、見た劇のことをもうかなり忘れてきたが、そのうち何を見たかもすっかり忘れてしまうので、備忘録として、出演者や今思いだせる印象等を簡単にメモしておきたい。本当は見た直ぐ後に書くべきだったんだけど、今回は体調悪かったりひどく疲れていたりで、劇を見に出かける以外はろくになにもせずに横になっている日が多かった。

さて、最初に見たのは、障害者とそのケアをする人という組み合わせを二組描いたアメリカの戯曲。Aniは交通事故で歩けず、トラック・ドライバーの夫Eddyにお世話になっているが、とても激しい性格で、誰彼構わずいつも罵っている。しかしEddyはとても穏やかな人で、何と言われようとも怒らずに黙々と彼女の世話をする。一方、Johnはお金持ちの家に生まれた博士課程の学生で、貧しい若者のJessを専属のケアラーとして雇用している。台詞はかなり難しかったが、物語の流れはシンプルなので劇の意図は理解出来たと思う。2つの物語は独立して交互に演じられるが、最後にケアラーの二人が偶然知り合いになって終わる。ケアラーの人達のほうが弱い立場。特に、金銭的に苦しんでいて、ケアをされる人と、する人の立場の違いと、身体の弱さ/健常が複雑に交錯して、小品だが、味わいのある良い劇だった。Adrian Lesterの陰影ある演技、特にモノローグが見応え、聞き応えあって楽しめたが、しかし、彼がワーキング・クラスのトラック・ドライバーには到底見えないし聞こえないという矛盾もあった。日本でもよくあることだが、障害者や老人のケアをする人々は、経済的にはケアされる人以上に弱い立場にいることも多い、と気づかされる。なお、障害者の役を演じるふたりの俳優も障害者だった。

2019/01/14

中世ダラムのBoy Bishopの記録

REED North-East (Records of Early English Drama) のウェッブサイトで、ダラムの Boy Bishop(少年司教)の記録を取り上げている。

Boy Bishopは、Feast of Fools(愚者祭)同様、中世の大聖堂や修道院などにおける一種の秩序の逆転の祝祭(あるいは儀式と呼ぶべきかもしれない)で、多くの場所では、12月6日の聖ニコラウス(子供の守護聖人)の祝日から12月28日まで行われた。祝祭においては、聖歌隊員の少年(a chorister)が司教に代わって、ミサを除く多くの儀式を行ったり、行列を率いたりする(ウィキペディア英語版の解説)。

低い地位にある者(この場合、聖歌隊の少年)が祝祭の中でひとときの王とか女王、あるいは司教などの高い位の役を引き受けるというのは、中世の祝祭において良く見られる。愚者祭は勿論だが、世俗では五月祭の王や女王もその類型と思われる。中世カトリック社会における季節的な解放感を味わえる儀式だったのだろうか。北フランスで特に盛んだった愚者祭の場合は、祭のエネルギーが横溢した結果、一種の騒乱に転じてしまうこともあったようだが、イングランドではそのようなケースはないらしく、Boy Bishopも静かに平静に執り行われることがほとんどだったようである。

こうした習俗も広い意味で「ドラマティック」な儀式として、E.K. チェンバースなどの中世劇研究者によって研究されてきており、更にREEDの記録にも多くが収められている。私も中世劇の作品と関連づけられないかと色々と考えていた時期があった。ダラムの Boy Bishopの具体的な内容は良く分かってないようだが、期日は昇天祭の祝日(Ascention Day、復活祭の40日後の木曜日)で、筆者のJohn McKinnell教授によると、聖職者達は少年司教に選ばれた少年を先頭にして市内の教会へと行列し、最後にこの少年司教が教会で説教をすることになっていたようだ。