REED North-East (Records of Early English Drama) のウェッブサイトで、ダラムの Boy Bishop(少年司教)の記録を取り上げている。
Boy Bishopは、Feast of Fools(愚者祭)同様、中世の大聖堂や修道院などにおける一種の秩序の逆転の祝祭(あるいは儀式と呼ぶべきかもしれない)で、多くの場所では、12月6日の聖ニコラウス(子供の守護聖人)の祝日から12月28日まで行われた。祝祭においては、聖歌隊員の少年(a chorister)が司教に代わって、ミサを除く多くの儀式を行ったり、行列を率いたりする(ウィキペディア英語版の解説)。
低い地位にある者(この場合、聖歌隊の少年)が祝祭の中でひとときの王とか女王、あるいは司教などの高い位の役を引き受けるというのは、中世の祝祭において良く見られる。愚者祭は勿論だが、世俗では五月祭の王や女王もその類型と思われる。中世カトリック社会における季節的な解放感を味わえる儀式だったのだろうか。北フランスで特に盛んだった愚者祭の場合は、祭のエネルギーが横溢した結果、一種の騒乱に転じてしまうこともあったようだが、イングランドではそのようなケースはないらしく、Boy Bishopも静かに平静に執り行われることがほとんどだったようである。
こうした習俗も広い意味で「ドラマティック」な儀式として、E.K. チェンバースなどの中世劇研究者によって研究されてきており、更にREEDの記録にも多くが収められている。私も中世劇の作品と関連づけられないかと色々と考えていた時期があった。ダラムの Boy Bishopの具体的な内容は良く分かってないようだが、期日は昇天祭の祝日(Ascention Day、復活祭の40日後の木曜日)で、筆者のJohn McKinnell教授によると、聖職者達は少年司教に選ばれた少年を先頭にして市内の教会へと行列し、最後にこの少年司教が教会で説教をすることになっていたようだ。
2018/02/26
中世の主婦 —BBC Historyextraの記事より—
BBCが作っているウェッブマガジン、'BBC Historyextra'、に載った記事、 'What Was Life Like for a Medieval Housewife?' (筆者は歴史作家のToni Mountさん)が面白かったので、紹介したい。西欧の中世末期、庶民の女性がどう暮らしていたかを紹介する一般読者向けの、分かりやすい記事だ。
筆者がこの記事を書くに当たって主な材料としているのは中世の3つの作品。最初は、よく知られている、仏語で書かれた『パリの夫』(Le Ménagier de Paris、英訳名は The Goodman of Paris)。そして、中英語で書かれた二つの面白いバラッドが紹介されている。ひとつは、'How the Good Wif taughte hir Doughtir'、もうひとつは、'A Ballad of a Tyrannical Husband'。特に最後の作品は、農民の家庭の主婦の生活が垣間見えて貴重。これらの短い詩はどちらもMedieval Institute Publicationsから出ている中英語で書かれた短い詩の作品集に載っており、オンラインでも読める。
私にとって面白く感じたのは、「粉屋の話」や「商人の話」のような年齢の不釣り合いな、老人の夫と十代の妻と言った組み合わせは、当時の人々(特に男性?)には、妻にとっても良い結婚であると見なされたということ。つまり人生経験豊富な夫がまだ思春期の若妻に半ば父親のように色々と知恵を授けて教育することで、妻は年寄りの夫が他界した後も、良縁を得、世帯経営の能力あるマネージャーになれるという。まあ、そういう考え方もあるだろうが、一方で、「商人の話」のジャニュアリのように若妻を利用するだけというけしからぬ老人もいて、不釣り合いな結婚に眉をひそめる人々が当時からいたことも確かだ。
'How the Good Wif taughte hir Doughtir'では、「バースの女房のプロローグ」でも見られるように、女性がしてはならないことが(例えば、仕事を放り出してあちこち出かけおしゃべりに耽るなど)、ミソジニーの視点から述べられている。その中で面白いと思ったのは、女性が通ってはならない「悪所」の例。まずは、酒場(tavern)。つまり酒場に通う女性もいたということ!更に、先日のブログでも触れたが、レスリングが上がっている。中世においてもこのスポーツはとても広く行われ、おそらく賭博行為も伴っていたのだろうと推測される。更に、'shooting at cock'(原作では、'cock schetyng') とあるのは何だろうか。オンラインで読めるエディションの注を見ていると、杭に繋がれた雄鳥に向かって石を投げるか、あるいは矢を射るスポーツだったようだ。かなり残酷な遊びだが、これもおそらく金銭を賭けて楽しまれた一種の興業、と仮定すると、女性が自分でやるというより、男達がやっているのを見物し、賭けに参加したのかもしれない。酒場やレスリング、そして雄鳥を射る賭場など、こういうところに出入りする女性は身持ちの悪い女(strumpet)だとその後に書かれている。しかし、こうしてみると、中世の女性も、家の中でおとなしく家事に奔走している人ばかりではなかったとわかり、ちょっとホッとする(^_^)。
その後に紹介されるバラッド、'A Ballad of a Tyrannical Husband' では、外で汗を流して厳しい畑仕事をしている自分と比べ、家にいる妻は十分な働きをしていないと文句を言う夫に対し、あなたは主婦の仕事がどんなに忙しいか分かってない、という妻の苛立ちが書かれている。それで、この夫婦は、「では一日お互いの持ち場を交替して、配偶者の仕事がどれほどのものか体験してみよう」と言うことで合意する。残念ながら、連れ合いの一日を体験した結果までは書かれていないのは、このバラッドが未完ということだろうか。面白いのは、外で働いている男の仕事の大切さと辛さを妻は充分分かってないし、感謝してない、という夫と、私が家で遊んでいるとでも思ってるの、という妻の憤りという夫婦の家事労働に関する認識の違い(あるいは夫の無理解)は中世末期の西欧でも、現代の日本でも、大して変わらないということだ。
この記事の筆者 Toni Mount は、中世西欧を題材にしたフィクション、ノン・フィクションを多く出版している作家。
筆者がこの記事を書くに当たって主な材料としているのは中世の3つの作品。最初は、よく知られている、仏語で書かれた『パリの夫』(Le Ménagier de Paris、英訳名は The Goodman of Paris)。そして、中英語で書かれた二つの面白いバラッドが紹介されている。ひとつは、'How the Good Wif taughte hir Doughtir'、もうひとつは、'A Ballad of a Tyrannical Husband'。特に最後の作品は、農民の家庭の主婦の生活が垣間見えて貴重。これらの短い詩はどちらもMedieval Institute Publicationsから出ている中英語で書かれた短い詩の作品集に載っており、オンラインでも読める。
私にとって面白く感じたのは、「粉屋の話」や「商人の話」のような年齢の不釣り合いな、老人の夫と十代の妻と言った組み合わせは、当時の人々(特に男性?)には、妻にとっても良い結婚であると見なされたということ。つまり人生経験豊富な夫がまだ思春期の若妻に半ば父親のように色々と知恵を授けて教育することで、妻は年寄りの夫が他界した後も、良縁を得、世帯経営の能力あるマネージャーになれるという。まあ、そういう考え方もあるだろうが、一方で、「商人の話」のジャニュアリのように若妻を利用するだけというけしからぬ老人もいて、不釣り合いな結婚に眉をひそめる人々が当時からいたことも確かだ。
'How the Good Wif taughte hir Doughtir'では、「バースの女房のプロローグ」でも見られるように、女性がしてはならないことが(例えば、仕事を放り出してあちこち出かけおしゃべりに耽るなど)、ミソジニーの視点から述べられている。その中で面白いと思ったのは、女性が通ってはならない「悪所」の例。まずは、酒場(tavern)。つまり酒場に通う女性もいたということ!更に、先日のブログでも触れたが、レスリングが上がっている。中世においてもこのスポーツはとても広く行われ、おそらく賭博行為も伴っていたのだろうと推測される。更に、'shooting at cock'(原作では、'cock schetyng') とあるのは何だろうか。オンラインで読めるエディションの注を見ていると、杭に繋がれた雄鳥に向かって石を投げるか、あるいは矢を射るスポーツだったようだ。かなり残酷な遊びだが、これもおそらく金銭を賭けて楽しまれた一種の興業、と仮定すると、女性が自分でやるというより、男達がやっているのを見物し、賭けに参加したのかもしれない。酒場やレスリング、そして雄鳥を射る賭場など、こういうところに出入りする女性は身持ちの悪い女(strumpet)だとその後に書かれている。しかし、こうしてみると、中世の女性も、家の中でおとなしく家事に奔走している人ばかりではなかったとわかり、ちょっとホッとする(^_^)。
その後に紹介されるバラッド、'A Ballad of a Tyrannical Husband' では、外で汗を流して厳しい畑仕事をしている自分と比べ、家にいる妻は十分な働きをしていないと文句を言う夫に対し、あなたは主婦の仕事がどんなに忙しいか分かってない、という妻の苛立ちが書かれている。それで、この夫婦は、「では一日お互いの持ち場を交替して、配偶者の仕事がどれほどのものか体験してみよう」と言うことで合意する。残念ながら、連れ合いの一日を体験した結果までは書かれていないのは、このバラッドが未完ということだろうか。面白いのは、外で働いている男の仕事の大切さと辛さを妻は充分分かってないし、感謝してない、という夫と、私が家で遊んでいるとでも思ってるの、という妻の憤りという夫婦の家事労働に関する認識の違い(あるいは夫の無理解)は中世末期の西欧でも、現代の日本でも、大して変わらないということだ。
この記事の筆者 Toni Mount は、中世西欧を題材にしたフィクション、ノン・フィクションを多く出版している作家。
2018/02/10
中世のイングランドにおけるレスリングの記録
中世や近代初期のイングランドにおけるレスリングについてMiranda Vaneというライターが書評紙、London Review of Books のウェッブページに短いブログを書いている。レスリングは、中世の教会のミゼリコード(聖歌隊席椅子の装飾)で頻繁に彫られているのが見受けられるとのことだ。実際のミゼリコードに彫られているレスリングの写真としてウィキペディアにこの写真が載っている。これがあるのは、シュロップシャーのラドローにある St Lawrence's Church。
この記事を読み、中世イングランドのレスリングということで、まずチョーサーが『カンタベリー物語』のプロローグの中で描いている巡礼の粉屋を思いだした:'over al ther he cam, / At wrastlynge he wolde have alwey the ram'(彼はどこに出かけても、レスリングでいつも雄羊の賞品を勝ち取っていました)。更に、「荘園管理人の話」で出てくる粉屋シムキンも、'Pipen he koude . . . / . . . and wel wrastle and sheete' (彼は笛を吹いたり . . . 、レスリングをしたり、矢を射たりするのが上手に出来ました)と描かれている。都会で宮仕えをする文人チョーサーから見ると、こうした野卑な粉屋たちにぴったりのスポーツが、レスリングというわけだ。
中英語文学には他にも色々とレスリングへの言及があるだろうと思う。それで、中英語のアンソロジーを開いてみると、14世紀後半(1375年頃)の説教詩、Robert Mannyng of Brunneの 'Handlyng Synne' にこういうのがあった:
Karolles, wrastlynges, or somour games,
Whoso euer haunteth any swyche shames
Yn cherche other Yn chercheyard,
Of sacrylage he may be aferd;
Or entyrludes, or syngynge,
Or tabure bete, or other pypynge--
Alle swyche thyng forbodyn es
Whyle the prest stondeth at messe.
キャロルやレスリングやサマー・ゲーム、
そういう恥ずべき行いで、教会や教会の境内に出かける人は皆
神への冒涜を犯していると、恐れなければならない;
あるいは、インタールード(劇)とか、歌を歌うとか、
太鼓叩きとか、笛を吹くとかー
そうした事は皆、司祭がミサをあげている間は
禁じられているのである。
(原文の出典はSisam, 'Fourteenth Century Verse and Prose', p. 4)
これを読んで思ったのは、レスリングも、演劇を含む、あまり望ましくない色々なエンターテインメントの一つと見なされていて、しばしば教会の境内、おそらく時には教会内部の身廊などで行われていたということだ。ミサの間はやっちゃいけない、と言っているのは、恐れ多くもミサの間でもレスリングをやるという不心得者がいたことも示している。
レスリングは、エンターテイメントの一つとして、トロント大学から出ている『英国初期演劇資料集』(Records of Early English Drama) でリストアップされる項目にもなっている。私が持っている巻のうち2,3冊の巻末索引を見てみたが、sports などの項目の下位項目として挙げてあった。但し、索引に全くリストアップされてない巻もある(編集方針の違いか、実際に資料が見つからないのか?)。オックスフォードの巻(2 vols, Vol. 1, pp. 12-13 [Toronto, 2004] )では、ニュー・コレッジ学寮の1398年頃の規則(ラテン語)が、ダンス(saltus)やレスリング(luctacio)、その他の遊びで、学寮の建物の装飾などが損傷したり、あるいは静けさがかき乱されたりすることがあるので、これらの活動を禁止する、と定めている。長々とした規則だが例として一部抜粋する。「チャペルや広間で、ダンスやレスリングやその他の規則違反の娯楽をしてはならない事について」(De Saltribus luctacionibus & alijs ludis inordinatis in Capella vel aula non fiendis)という規則の一部:
. . . per saltus luctaciones alios ve incautos & inordinatos ludos in aula vel in Capella ipsa forsan fiendos defacili & casualiter verisimiliter ledi poterint deturpari ammoueri frangi cancellari seu alias damnificari dictus quoque murus in parte vel in toto deterior fieri vel eciam debilitari. (Vol. 1, p. 12)
(英訳) . . . dances, wrestling matches, and any other careless and irregular games from taking place in the chapel or the aforesaid hall ever at any time, by which (activities), or any one of them, damage or loss could be inflicted on the images, sculptures, glass windows, paintings, or other aforesaid sumptuous works or the aforesaid chief wall in thier construction or structure, in material or in form by any means. (trans. by Patrick Gregory; Vol. 2, p. 913)
他にも初期中英語ロマンスとしては有名な作品の『デーン人、ハベロック』( 'Havelok the Dane' )にもレスリングへの言及はある。古いところではどのくらいさかのぼれるのだろうか?古英語文学ではどうだろう?
中世演劇の勉強をしている私としても、中英語文学におけるレスリングというテーマで調べてみるのも面白そうだと思う。欧米では誰か既にやっていそうだ。
2018/01/16
庶民の女性によるロンドンの教会裁判所の利用
ロンドン大学のInstitute of Historical Studies (IHR) のPh. Dの学生、Charlie Berryさんによる記事を紹介。タイトルは、 'Women, reputation and the courts in late medieval London: the case of Agnes Cockerell'。中世・近代初期における女性による法の利用について研究しているプロジェクトのブログ記事。
ここで取り上げられているのは、1521年にロンドンの宗教裁判所(the consistory court)で訴えた訴訟の記録。ふしだらな(おそらく売春)行為をしているとして教区から追い出されて引っ越しを余儀なくされ、不名誉な噂を広められた女性 Agnes Cockerell が、根拠なく悪い噂を流されたとして彼女の以前の隣人で帽子職人(a capper)のJohn Beckett とその妻 Elizabeth を訴えている。Agnesがロンドンの元々住んでいた地区、the parish of St Sepulcre without Newgate、から追い出された時は、区(a ward)のコンスタブルという、今で言うなら一種の警察官による世俗の権力行使によるものだった。しかし、裁判においては、カトリック教会の管轄下にある the consistory court に訴訟が提出されているのは興味深い。つまり中世や近代初期の人々は、彼らの目的に応じて、世俗や教会の法と裁判所を使い分けていたのであろう。特に、このような道徳や個人の評判、名誉毀損に関する件は教会裁判所が得意とする案件だった。Agnesは、狭い教区内の法権力に訴えても仕方ないと思い、より大きな範囲で裁判権を行使した教会裁判所に訴えたのだろう。更に、このようなおそらくあまり豊かでない女性や職人などが、こういう裁判所をしばしば利用したこともこの記事で分かる。『カンタベリー物語』の The Summoner (教会召喚吏)とか、バースの女房などを理解する上でも良い記事と思う。
なお、この記事は1521年という、中世とは言いがたい時期のものだが、国王至上法などによりイングランドの宗教改革が行われる少し前、カトリック時代の終わり頃である。また、国教会に移行しても、教会裁判所の制度はほぼそのまま引き継がれ、同様のモラルや名誉毀損などの訴訟が争われた。いやむしろ、プロテスタントの時代になり、このような係争は一層増加したのではないかと思われる。
ここで取り上げられているのは、1521年にロンドンの宗教裁判所(the consistory court)で訴えた訴訟の記録。ふしだらな(おそらく売春)行為をしているとして教区から追い出されて引っ越しを余儀なくされ、不名誉な噂を広められた女性 Agnes Cockerell が、根拠なく悪い噂を流されたとして彼女の以前の隣人で帽子職人(a capper)のJohn Beckett とその妻 Elizabeth を訴えている。Agnesがロンドンの元々住んでいた地区、the parish of St Sepulcre without Newgate、から追い出された時は、区(a ward)のコンスタブルという、今で言うなら一種の警察官による世俗の権力行使によるものだった。しかし、裁判においては、カトリック教会の管轄下にある the consistory court に訴訟が提出されているのは興味深い。つまり中世や近代初期の人々は、彼らの目的に応じて、世俗や教会の法と裁判所を使い分けていたのであろう。特に、このような道徳や個人の評判、名誉毀損に関する件は教会裁判所が得意とする案件だった。Agnesは、狭い教区内の法権力に訴えても仕方ないと思い、より大きな範囲で裁判権を行使した教会裁判所に訴えたのだろう。更に、このようなおそらくあまり豊かでない女性や職人などが、こういう裁判所をしばしば利用したこともこの記事で分かる。『カンタベリー物語』の The Summoner (教会召喚吏)とか、バースの女房などを理解する上でも良い記事と思う。
なお、この記事は1521年という、中世とは言いがたい時期のものだが、国王至上法などによりイングランドの宗教改革が行われる少し前、カトリック時代の終わり頃である。また、国教会に移行しても、教会裁判所の制度はほぼそのまま引き継がれ、同様のモラルや名誉毀損などの訴訟が争われた。いやむしろ、プロテスタントの時代になり、このような係争は一層増加したのではないかと思われる。
2014/03/06
Shrove Tuesday(懺悔の火曜日)とその文化
先日3月4日は、今年の「懺悔の火曜日」Shrove Tuesday (Pancake Day) だった。翌6日は「聖灰水曜日」Ash Wednesdayで、四旬節の始まり。Shrove Tuesdayは仏語圏ではMardi Gras(英訳すると、Fat Tuesday、太った火曜日、いや脂肪の火曜日、というべきか)、イタリア・スペイン・ポルトガル語圏では「カーニバル」(英語では、carnival、謝肉祭)となる。
"shrove"は多分動詞"shrive"の過去形から来ている。"shrive"は司祭が「懺悔を聞く」、あるいは「(懺悔を聞いた後)償いの苦行(penance)を課す」といった意味。既にアングロ・サクソン時代の古英語から英語にある、外来語ではない所謂「本来語」で、古英語の不定詞では"scrifan"と綴った。
カトリック圏ではカーニヴァルは好きなものを飲み食いする無礼講の日、という印象があるが、今イギリスではそれはない(と思う)。但、イギリスでも、カトリック時代の中世末期にはそういう傾向はあったみたいだ。道徳劇MankindはShrove Tuesdayの無礼講を背景としている、という解釈をした論文もある。Shrove Tuesdayが終わると禁欲のLent(四旬節)に入る。中世イングランドの代表的なロマンス『ガウェイン卿と緑の騎士』(Sir Gawain & Green Knight)で、主人公ガウェインが謎の城主ベルティラックの城にたどり着いたのは四旬節だったと記憶する。肉が食べられない期間なので、「申し訳ないが、お魚しかお出しできない」というような台詞があった。
Shrove Tuesdayは英語圏ではPancake Dayとして知られている。四旬節(Lent)の間に食べるのを控えられた食物として、肉類だけで無く、卵や乳製品も食べない場合が多かったようで、そのため、四旬節の直前にパンケーキを作って卵やミルクを平らげようとしたことがPancake Dayの名称と関係しているようだ。
Shrove Tuesdayには世界各地で大食いとか無礼講の慣習が残るが、イングランド各地では、Pancake raceという催しが行われる。これは日本で言うとパン食い競争みたいなもの。フライパンとパンケーキを手に持って駆けっこをする一種の障害物競走+仮装行列。男女ともにエプロンをするとか、男性も主婦みたいに女装するとか、それぞれの土地で、ルールが決められているようだ。Pancake Day raceの映像がたくさんネットにアップされており、ロンドンの一例がYouTubeにある。
また、Pancake Dayには恒例のフットボール(サッカー)の試合が行われる場所も幾つかある。プロの試合では無く、町の人々が独自のルールに則って行うお祭りだ。中でも有名なのは、12世紀かそれ以前に始まったとされるダービシャーのアッシュボーンのRoyal Shrovetide Football。この町では、通りも野原や畑も人家の庭も、果ては小川の流れに浸かってまで、町全体を競技場として、何十人もの男達が2つのチームに分かれて午後2時から10時まで、死力を尽くしてひとつのボールを取り合う。以前、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがあるが、フットボールとは言っても、蹴るだけで無く、何でもありのラグビーみたいだった。詳しくはウィキペディア英語版に解説あり。日本にも、玉取祭とか、玉せせり、というお祭りがあるが(福岡県の筥崎宮など)、民俗学的共通点がありそうだ。
四旬節とか、カーニバルというと、私が思い出すのは、ピーテル・ブリューゲルの名作絵画、「カーニバルと四旬節の争い」(1559年)である。絵の真ん中に二人の人物が対峙している。右には、魚をのせたパン焼きに使うしゃもじを持つ痩せ細った男(いや女?)(四旬節の象徴)。左には、串刺しにした肉を持ち、酒樽にまたがった太った男(カーニバルの象徴)。人間生活の2つの面(禁欲と放縦)、がせめぎ合っている。まるでトーナメントに出て来た騎士が槍を構えて相手を威嚇するように、互いに肉の焼き串と、魚をのせたしゃもじを相手に向けている。彼らの周囲では、ありとあらゆる人々の日常の営みが繰り広げられているが、その人達もまた、この「カーニバルと四旬節の争い」を生きている。痩せた「四旬節の寓意」の周りにいる人達は、四角いワッフルだの、まるいパンケーキなんかを食べているし、この人物の足下の台にもパンケーキとプレッツェルが置いてあり、Pancake Dayとの繋がりを思い出させる。ミルクや卵がたっぷり入ったパンケーキやワッフルに対し、プレッツェルは卵もミルクもイーストも要らない質素な四旬節の食物。カーニバルはお祭りであるから、それらしい催しも描かれている。左手前の4、5人は仮面をかぶり、風変わりな服装をしており、仮装行列である。絵の丁度中央には、縞模様の服と角のついた帽子をかぶった道化らしき人がいる。1番左の建物(酒場)の前で、弦楽器の伴奏付きで行われているのは演劇だそうで、その劇のタイトルや詳細も研究されて分かっているようだ。ちなみに、イングランドで宿屋兼酒場(Inns)の中庭を利用したステージでの上演が始まったのも、ブリューゲルの絵と同じ頃の1557年前後。その他、素人でも近代初期の民衆の暮らしについて色々と想像を膨らませられる、見ていると時間を忘れる一枚だ。
この「カーニバルと四旬節の争い」は、西欧文化における伝統的テーマで、文学においてもラブレーの『パンタグリュエル物語』第4の書など、かなりの例があるようだ。季節の祭としてのカーニバルと、文学や説教の寓意(アレゴリー)における禁欲や放縦が結びつけば面白い作品が出来そうであるし、そういう視点で色々な作品の解釈が可能だ。バフチン的解釈とも言えるだろう。例えば、ロナルド・ノウルズ『シェイクスピアとカーニバル—バフチン以後』という研究書もある。第5章は、「シェイクスピアの “カーニヴァルとレントの戦い” ―フォールスタッフの場面再考(『ヘンリー四世』二部作)」というタイトルだ。私は読んでないが、ちょっと覗いてみたい本である。
"shrove"は多分動詞"shrive"の過去形から来ている。"shrive"は司祭が「懺悔を聞く」、あるいは「(懺悔を聞いた後)償いの苦行(penance)を課す」といった意味。既にアングロ・サクソン時代の古英語から英語にある、外来語ではない所謂「本来語」で、古英語の不定詞では"scrifan"と綴った。
カトリック圏ではカーニヴァルは好きなものを飲み食いする無礼講の日、という印象があるが、今イギリスではそれはない(と思う)。但、イギリスでも、カトリック時代の中世末期にはそういう傾向はあったみたいだ。道徳劇MankindはShrove Tuesdayの無礼講を背景としている、という解釈をした論文もある。Shrove Tuesdayが終わると禁欲のLent(四旬節)に入る。中世イングランドの代表的なロマンス『ガウェイン卿と緑の騎士』(Sir Gawain & Green Knight)で、主人公ガウェインが謎の城主ベルティラックの城にたどり着いたのは四旬節だったと記憶する。肉が食べられない期間なので、「申し訳ないが、お魚しかお出しできない」というような台詞があった。
Shrove Tuesdayは英語圏ではPancake Dayとして知られている。四旬節(Lent)の間に食べるのを控えられた食物として、肉類だけで無く、卵や乳製品も食べない場合が多かったようで、そのため、四旬節の直前にパンケーキを作って卵やミルクを平らげようとしたことがPancake Dayの名称と関係しているようだ。
Shrove Tuesdayには世界各地で大食いとか無礼講の慣習が残るが、イングランド各地では、Pancake raceという催しが行われる。これは日本で言うとパン食い競争みたいなもの。フライパンとパンケーキを手に持って駆けっこをする一種の障害物競走+仮装行列。男女ともにエプロンをするとか、男性も主婦みたいに女装するとか、それぞれの土地で、ルールが決められているようだ。Pancake Day raceの映像がたくさんネットにアップされており、ロンドンの一例がYouTubeにある。
また、Pancake Dayには恒例のフットボール(サッカー)の試合が行われる場所も幾つかある。プロの試合では無く、町の人々が独自のルールに則って行うお祭りだ。中でも有名なのは、12世紀かそれ以前に始まったとされるダービシャーのアッシュボーンのRoyal Shrovetide Football。この町では、通りも野原や畑も人家の庭も、果ては小川の流れに浸かってまで、町全体を競技場として、何十人もの男達が2つのチームに分かれて午後2時から10時まで、死力を尽くしてひとつのボールを取り合う。以前、テレビのドキュメンタリー番組で見たことがあるが、フットボールとは言っても、蹴るだけで無く、何でもありのラグビーみたいだった。詳しくはウィキペディア英語版に解説あり。日本にも、玉取祭とか、玉せせり、というお祭りがあるが(福岡県の筥崎宮など)、民俗学的共通点がありそうだ。
四旬節とか、カーニバルというと、私が思い出すのは、ピーテル・ブリューゲルの名作絵画、「カーニバルと四旬節の争い」(1559年)である。絵の真ん中に二人の人物が対峙している。右には、魚をのせたパン焼きに使うしゃもじを持つ痩せ細った男(いや女?)(四旬節の象徴)。左には、串刺しにした肉を持ち、酒樽にまたがった太った男(カーニバルの象徴)。人間生活の2つの面(禁欲と放縦)、がせめぎ合っている。まるでトーナメントに出て来た騎士が槍を構えて相手を威嚇するように、互いに肉の焼き串と、魚をのせたしゃもじを相手に向けている。彼らの周囲では、ありとあらゆる人々の日常の営みが繰り広げられているが、その人達もまた、この「カーニバルと四旬節の争い」を生きている。痩せた「四旬節の寓意」の周りにいる人達は、四角いワッフルだの、まるいパンケーキなんかを食べているし、この人物の足下の台にもパンケーキとプレッツェルが置いてあり、Pancake Dayとの繋がりを思い出させる。ミルクや卵がたっぷり入ったパンケーキやワッフルに対し、プレッツェルは卵もミルクもイーストも要らない質素な四旬節の食物。カーニバルはお祭りであるから、それらしい催しも描かれている。左手前の4、5人は仮面をかぶり、風変わりな服装をしており、仮装行列である。絵の丁度中央には、縞模様の服と角のついた帽子をかぶった道化らしき人がいる。1番左の建物(酒場)の前で、弦楽器の伴奏付きで行われているのは演劇だそうで、その劇のタイトルや詳細も研究されて分かっているようだ。ちなみに、イングランドで宿屋兼酒場(Inns)の中庭を利用したステージでの上演が始まったのも、ブリューゲルの絵と同じ頃の1557年前後。その他、素人でも近代初期の民衆の暮らしについて色々と想像を膨らませられる、見ていると時間を忘れる一枚だ。
この「カーニバルと四旬節の争い」は、西欧文化における伝統的テーマで、文学においてもラブレーの『パンタグリュエル物語』第4の書など、かなりの例があるようだ。季節の祭としてのカーニバルと、文学や説教の寓意(アレゴリー)における禁欲や放縦が結びつけば面白い作品が出来そうであるし、そういう視点で色々な作品の解釈が可能だ。バフチン的解釈とも言えるだろう。例えば、ロナルド・ノウルズ『シェイクスピアとカーニバル—バフチン以後』という研究書もある。第5章は、「シェイクスピアの “カーニヴァルとレントの戦い” ―フォールスタッフの場面再考(『ヘンリー四世』二部作)」というタイトルだ。私は読んでないが、ちょっと覗いてみたい本である。
2013/07/10
学者は食わねど高楊枝?:チョーサーの描く学僧と彼の同輩たち (その2)
(まだの方は出来れば前項の「その1」をまずお読みいただければ幸いです。)
チョーサーが『カンタベリー物語』の序歌で描くオックスフォードの学僧(the Clerk of Oxford)はお金を稼ぐのは苦手のようだし、また、そもそもそういう仕事に就きたいと思っていないのかもしれず、清貧の貧乏学生のままが性に合っているのかもしれない。友人の先生が大学の授業でこの部分に触れた後、学生に感想をきいたら、その学僧はモラトリアムでしょう、という見事な返事が返って来たそうである。現代日本の大学生からそう言われるなんて、笑えた。但し、この学生も勉強とともに、喜んですることがある:
And gladly wolde he lerne and gladly teche.
(そして彼は喜んで学び、喜んで教えました。)
と、チョーサーは彼の紹介を結んでいる。「喜んで」教えた、たぶん無料で誰かに教えてあげたのであろうか。オックスフォードで随分前に論理学を学んだ、つまりかなり学者としてキャリアを積んできた人であるから、個人教授で、あるいは教会の学校などで教えることも出来ただろうし、そういう機会も既にあるのかもしれない。でも「喜んで」というからには、無償で教えているのだろうか、薄謝くらいは徴収しているのか。チョーサーのスタンダード・エディションである"Riverside Chaucer"の注では、セネカが同様なことを書いていると述べている: ("gaudio dicere, ut doceam")。また、こうした考えは既にプラトンに見られるとも書いてある。
聖書ではどうか。マタイ伝の第10章で、イエスは12人の使徒達を呼び寄せ、伝道の心構えを伝えている。そのまま引用すると:
異邦人の道に行くな。またサマリア人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って、「天国が近づいた」と宣べ伝えよ。病人を癒し、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるが良い。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。
ここで重要なのは、「ただで受けたのだから、ただで与えるが良い」という一節。欽定訳聖書では、"freely ye have received, freely give"となっている。キリスト教の教えの伝統の中には、「知識」(scientia)というものは神の無償の贈り物であって、これは無償で分け与えられるべきであり、まるで食物を売るようにお金を取って商ってはいけない、と言う考え方があるようだ。そもそもローマ帝国が分裂し崩壊した時期から中世の大半の時期の西欧においては、文字を習い知識を受け継いだ階層は聖職者、ほとんどは修道士か教区司祭などであった。彼らが得た知識は、教会、そして究極は神から与えられたのであり、それは、信徒、上記のマタイ伝の言葉で言えば「羊たち」、を導く為の神からの贈り物である。この学僧が示す"gladly wold he learn and gladly teach"という態度は、直接的ではないにしろ、マタイ伝の"freely ye have received, freely give"という教えと関連していると言って良いだろう。
「知識というものは、元来神に与えられたものであるから、売られるべきではない」、という基本的な考えは、大学や大聖堂付属学校の教師の報酬と関連して、12、13世紀に学者たち、とりわけ教会法の学者たちによって盛んに論じられたそうである(注を参照)。具体的には、当時の教会法学者たちにとっては、学生に教えるのに授業料を取って良いかどうか、また徴収するとすれば誰からどの程度受け取るべきか、かなり悩ましかったようなのである。これらの教師のほとんどは聖職者であり、修道会から養われているか、その他の聖職禄を得ている者が大多数であろうから、彼らは、丁度マタイ伝に述べられている12使徒たちのように、無償で教えてしかるべき、という考えもうなずける。しかし、貧しい学生からは授業料を取らないにしても、裕福な学生からは謝礼を受けても構わない、あるいは、金持ちも貧乏人も、その人の収入に応じて何らかの授業料を払うべきである、という折衷的な考えが支配的だったようだ。また、こうした議論の前提となる聖職禄を貰ってない者など、教師が貧しい場合は相応な授業料を要求して構わない、と唱える者もあった。また更に、謝礼の申し出は断る必要はないが、自分から要求するようなはしたないまねはしてはいけません、という説もある。このあたり、その1で触れたように、チョーサーの学僧が支援者からの援助を受け取っていた事を思い出させる。
ちなみに、上に引用したマタイ伝では、「働き人がその食物を得るのは当然である」("the workman is worthy of his meat")とキリストは教えている。この言葉は、ルカ伝10.7、テモテへの第1の手紙5.18でも繰り返される。この「働き人」(the workman)は、知識人ではなく、一般の、広い意味での労働者、例えば農民とか職人、と解釈される。聖書の時代において、頭を使い、デスクで仕事をするホワイトカラーの勤め人など数の上ではほとんどいないも同然であったから、知識を売り買いする労働者なんて計算に入ってはいないだろう。しかし中世後半にはまず教師が出て来て、次に種々の役人・官僚の類、そして法律家など、従来の身分制度の範疇に納まりにくい人々が台頭する。これら知的職業、そして彼らのかなり高い収入レベル、蓄財などをどう考えるか、また別の大きな問題になってくるが、今回のエントリーはここまで。
(注)詳しくは、Gaines Post, Kion Giocarinis and Richard Kay, 'The Medieval Heritage of a Humanist Ideal: "Scientia Donum Dei Est, Unde Vendi Non Potest," ' Traditio 11 (1955), pp. 195-234.
2013/07/07
学者は食わねど高楊枝?:チョーサーの描く学僧と彼の同輩たち (その1)
14世紀イングランドの詩人ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』のプロローグで出てくるオックスフォードの学僧(the Clerk of Oxford)は、学問に全身全霊を捧げている清貧の学者であり、チョーサー作品の伝統的な解釈においては、理想的な学者像と見なされて来たと思われる。私が1970年代に習ったアメリカ人の先生も、彼を大変理想化して解説していた。彼はかなり前に論理学を修めているようなので(unto logyk hadde longe ygo)、長期間大学に在籍しているようだ。今で言えば、博士課程の学生か、またはポスドクと呼ばれる博士号を取得後、任期付や非常勤の教職などをしている研究者のような人と比較出来るだろう。古今を問わず、こういう人たちの生活が極めて不安定で苦しいのは同じのようだ。この学僧は熊手のようにやせた馬に乗っているが(As leene was his hors as is a rake)、良い馬を借りる費用がないのだろう。彼自身もうつろな表情をしており、太ってもいない、と書かれているが、ちゃんと栄養のあるものを食べているのだろうか。彼の上着も古くてすり切れ、糸が目立つ程だ(Ful thredbare was his overeste coutrepy)。現代の日本や欧米では、こういう種類の人たちは大学の専任教員になることを望みつつも、職が決まらないまま、非常勤講師や任期付講師の職で長く生活しておられる方も多数いる。中世イングランドの場合、こういう学者にとって目指す安定した仕事と言うと、大学はオックスフォードとケンブリッジしかなく、その教職は限りなく少ないので、何らかの聖職者ということになる。多くの人は豊かな地域の教区司祭志望だろう。また、もともと修道士で大学に来たりする人も多かったようなので、そういう人は修道会に戻るのだろう。しかし、チョーサー描く学僧は、
For he hadde geten hym yet no benefice,
Ne was so worldly for to have office.
(というのも、彼は聖職禄を受けてもおらず、
また、世俗の職に向くほど世渡りも上手くなかった。)
聖職禄(benefice)は、中世カトリック教会の何らかの仕事、多くは教区司祭など、を指す。しかし、世渡りが下手なのか、就活に熱心でないのか、オックスフォードまで出ているのに彼には教会の仕事がない。また"office"もないとあり、世俗の仕事にもありつけないか、あるいは最初から学問とは関連の薄いそういう俗な仕事を嫌がっているのだろう。民間への就活をためらう文学部大学院の学生のように。当時の大学出というと大変な知的エリートであるから、大学ではアリストテレスの哲学などを勉強していても(実際、この学僧はアリストテレスが大好きらしい)、王室(つまり中央政府)とか、大貴族付きの事務職として雇われることはしばしばあるだろう。ウエストミンスターには、大法官府(The Exchequer)とか、財務裁判所(The Chancery)といった役所もあり、そういうところでも雇われる可能性があっただろう。更に、もう少し妥協すれば、ロンドンや他の幾つかの大きな都市には、大金持ちの大商人がかなりいて、彼らも事務官を必要としていたし、またギルドと呼ばれる同業者組合も事務官を抱えていた。当時は今の大学と違い、MBAや何とかビジネス学科なんて臆面もなく金儲け目的の実学部門はなかったので、例え神学や哲学を修めていても、それらの学者のラテン語の読み書きや知的能力が買われて商人に雇われ、会計簿とか、契約書を読んだり作成したりしても不思議はない。でもこの学僧はそうは出来なかった。つまり、
For hym was levere have at his beddes heed
Twenty bookes, clad in blak or reed,
Of Aristotle and his philosophie,
Than robes riche, or fithele, or gay sautrie.
(なぜなら 彼は寝台の側に黒や赤の装丁のアリストテレスの本20冊を持つ方が、
豪華な服や胡弓や華やかな琴を持つよりも
好ましいことだったからです。)
金儲けするより、本を読んでいたかったわけだ。ちなみに、ここにある"robes"という語は、おそらく「お仕着せ」の意味も含蓄していると思うので、就職してご主人からいただく職場のお仕着せのことも考えさせる。脱線すると、日本の事を考えても分かるが、この頃のちゃんとした服というのは、大変高価だった。日本のサラリーマンだって、戦後しばらく、ほとんどの人が近所の仕立て屋さんで背広を作っていた頃は、お父さんの背広の新調は、家計に取って、一大出費だったわけだ。高価なものだから、遺言状で遺産として残されるアイテムのひとつとしてもしばしば見受けられると記憶している。従って、ちゃんとしたお仕着せが雇い主から配布されることは多かったようだ。騎士などの場合、有力な貴族から与えられれ、その主従関係が分かるような紋章の入ったお仕着せ(livery)を来て、虎の威を借るような振る舞いに出ることもあった。
この学僧がまだ手に入れていないとある聖職禄(benefice)は、中世の多くの人々にとって非常に重要な収入源だった。これは教会の無数の役職に付いて来る謂わば「給料」。中世人の多くは土地からあがる収入によって暮らしていた。王侯貴族、騎士やジェントリーと呼ばれる上流階級の地主などだ。また、富裕な商人や役人、法律家なども土地を持って、そこから穫れる農作物の売り上げ、小作料、地代等々を得て、他に生業を持っていても、それを土地からの収入で補完したり、あるいは、土地の収入のほうが元来の生業よりも儲かっていた場合も多いだろう。一方、地主ではなく、それほど豊かでもない中流の人達の収入と言うと、この聖職禄がかなり重要な割合を占めていただろう。聖職者だから、大半の人は結婚は出来ないが、一生涯、禄を受け取る、つまり終身雇用してもらえる、という魅力で、多くの人が苦労して学問を積み、教会に入ったことと思う。時代はずっと後だが、あのプレイボーイ、ジュリアン・ソレルを思い出せば理解しやすい。一方、貧しい下級聖職者の場合、結婚することもあり得た(注1)。また、先ほど書いたような公務員やその種の事務職員の仕事も存在した。しかし、そうした仕事をしている事務職員の多くも、実際は聖職者であり、禄を受けていたのである。前述の大法官府などの事務官(Chancery clerks)なども、そのかなりの人々は独身の聖職者だった。おそらく、彼らが王室から貰う世俗の給与だけでは不十分で、聖職禄も必要だったのではないか。王室(the Crown)の公務員などは英語で"annuity", ラテン語で"annuitas"、と呼ばれる年間給与などを王室から受け取っていた(年金であるが、退職後に貰うのではなく、現役の労働の対価でもある)。しかし、これがエリート知識人のお給金の割にはどうもかなり低額だったらしい。また、中世の王様は戦争を年中やっているので、財政は火の車のことが多くて、こうしたお給金も途絶えがちになる時もあったようだ。これは私見だが、そもそも中世においては、定期的に払われる「給料」という概念がそれほどはっきり定着していなかったと言えるのではないか。また、王室の財政も、長期的に大きな官僚機構をしっかり支えるほどには、安定性にも、計画性も欠けていたのだろう。そこで、王が実質的な給与の財源として使ったのが聖職禄である。これは教会の役職ではあるが、実際は直接日頃から教会の仕事をしていない人、名誉職としてそうした役を得ている人、実務を代理人にやらせている人など、色々な、謂わば「不在」聖職者にも配分されるのであり、その配分権限の多くを王室が握っていたはずである。偉い人は、複数の聖職を兼務し、実務は代理司祭にやらせて滅多に自分の教区に近寄らなかったりした(注2)。一方聖職禄を得ていない事務官も沢山いたが、彼らもやや少ない俸給を他の手段で補おうとした。今であれば公務員の普通の仕事の一部、書類を作るとか手続きを先に進めると言ったことの代価として、彼らは私的な手数料を取ることが多かった。今で言えば、医者に渡す心付けと似通っているだろうか。王室はこうした事務官に役職と幾らかの俸給を与え、事務官はそれらの役職の「名前」を使って、役所を利用する国民から一種の私的手数料を徴収するわけだ。今だったら汚職になるかもしれないが、中世イングランドにおいては当然のものとして行われていた。いや、パブリック・サービスの概念が極めて乏しかったので、こうした私的営利行為が、国の業務の中に組み込まれていたのだろう。
話を元に戻すと、このオックスフォードの学僧は、聖職にも、聖職禄にも、世俗の職にもありついていない。彼はどうも支援者から何かしらの援助、いわば奨学金、を貰っているらしい:
But al that he myghte of his freendes hente,
On bookes and on lernynge he it spente,
And bisily gan for the soules preye
Of hem that yaf hym wherewith to scoleye.
(しかし、彼が友人たちから得たものはすべて
書物と学問のために使いました。
そして、学校で学ぶ為に援助してくれた人々の魂のために
熱心に祈ったのでした。)
この中世版の奨学金であるが、出資者にとっては、全く利他的なものとばかりは言えないだろう。これはその人たちの魂の為に祈るという具体的行為に対する対価と取って差し支えないだろう。日本で言うと、交通安全とか、商売繁盛の為に、神主さんに祈祷してもらうようなものだ。中世においては、死後に人の魂はその人の現世において犯した罪に応じて煉獄で罰を受けると信じられていたので、教会とか礼拝堂を寄進する、聖職者に自分の魂の安寧の為に祈ってもらうなど、罪の深さを軽くするような行為に対して豊かな人々はお金を惜しまなかった。そういうわけで、貧乏学生を助けてあげたいという善意もあろうが、自分の、あるいは自分の亡くなった近親者などの魂の為に祈ってもらう、という「実利」もあったに違いない。
さて随分長くなって、折角の日曜日をほぼ一日使ってしまったので、突然ですが、ここで中断。でももう少し書こうと思っていることがあるので、この後は、いずれ「その2」を書くとしましょう(^_^)。こうして、当然知っているはずのことでも文字にしてみると、私がそうだろうと思っていただけで実は曖昧な知識とか、分からないことが幾つも出て来て、今後の勉強の課題になります。なお、これは学術論文ではないので、私の適当な推測も混じっています。従って学生諸氏はレポートなどの参考にしないように!もし私の誤りに気づかれた方があればコメントにて是非お教え下さい。また、その他のコメントや素直な感想も歓迎です。なお、商用の書き込みを防ぐため、現在コメントは承認制としておりますので、表示までしばらくお待ちください。
(注1)司祭、助祭、副助祭などの更に下の、「下級聖品」(the Minor Orders)に含まれる四階級には結婚が許されていた。
(注2)これは、同じく『カンタベリー物語』の序歌における教区司祭の肖像の中で、皮肉を込めて言及されている:
He sette nat his benefice to hyre
And leet his sheep encombred in the mere
And ran to Londoun unto Seinte Poules
To seken hym a chaunterie for soules,
Or with a bretherhed to been withhold
(彼[教区司祭]は彼の任地を他人に預け、
教区民をぬかるみの中で迷わせたまま、
ロンドンのセント・ポール寺院へ駆けつけて
死者の魂の為にミサを唱えたり
あるいは同業組合に雇われたりするような人ではありません。)
この司祭とは正反対に、自分の教区で少ないながらも安定した禄を得ている一方で、そこをアルバイト聖職者に安い給金を出して任せ、お手当の多い都会のギルドの礼拝堂付き僧となるなど、しばしばあったことだろう。
また、聖職禄が場合によっては如何に便宜的な給与配分の手段であるかは、修道士が教区司祭の禄を受けることがあったという事実からもよくわかる。
(上の絵は『カンタベリー物語』の代表的な写本であるエルズミア写本の挿絵にあるオックスフォードの学僧。やせ馬が描かれている。手に持つ本も赤い。)
For he hadde geten hym yet no benefice,
Ne was so worldly for to have office.
(というのも、彼は聖職禄を受けてもおらず、
また、世俗の職に向くほど世渡りも上手くなかった。)
聖職禄(benefice)は、中世カトリック教会の何らかの仕事、多くは教区司祭など、を指す。しかし、世渡りが下手なのか、就活に熱心でないのか、オックスフォードまで出ているのに彼には教会の仕事がない。また"office"もないとあり、世俗の仕事にもありつけないか、あるいは最初から学問とは関連の薄いそういう俗な仕事を嫌がっているのだろう。民間への就活をためらう文学部大学院の学生のように。当時の大学出というと大変な知的エリートであるから、大学ではアリストテレスの哲学などを勉強していても(実際、この学僧はアリストテレスが大好きらしい)、王室(つまり中央政府)とか、大貴族付きの事務職として雇われることはしばしばあるだろう。ウエストミンスターには、大法官府(The Exchequer)とか、財務裁判所(The Chancery)といった役所もあり、そういうところでも雇われる可能性があっただろう。更に、もう少し妥協すれば、ロンドンや他の幾つかの大きな都市には、大金持ちの大商人がかなりいて、彼らも事務官を必要としていたし、またギルドと呼ばれる同業者組合も事務官を抱えていた。当時は今の大学と違い、MBAや何とかビジネス学科なんて臆面もなく金儲け目的の実学部門はなかったので、例え神学や哲学を修めていても、それらの学者のラテン語の読み書きや知的能力が買われて商人に雇われ、会計簿とか、契約書を読んだり作成したりしても不思議はない。でもこの学僧はそうは出来なかった。つまり、
For hym was levere have at his beddes heed
Twenty bookes, clad in blak or reed,
Of Aristotle and his philosophie,
Than robes riche, or fithele, or gay sautrie.
(なぜなら 彼は寝台の側に黒や赤の装丁のアリストテレスの本20冊を持つ方が、
豪華な服や胡弓や華やかな琴を持つよりも
好ましいことだったからです。)
金儲けするより、本を読んでいたかったわけだ。ちなみに、ここにある"robes"という語は、おそらく「お仕着せ」の意味も含蓄していると思うので、就職してご主人からいただく職場のお仕着せのことも考えさせる。脱線すると、日本の事を考えても分かるが、この頃のちゃんとした服というのは、大変高価だった。日本のサラリーマンだって、戦後しばらく、ほとんどの人が近所の仕立て屋さんで背広を作っていた頃は、お父さんの背広の新調は、家計に取って、一大出費だったわけだ。高価なものだから、遺言状で遺産として残されるアイテムのひとつとしてもしばしば見受けられると記憶している。従って、ちゃんとしたお仕着せが雇い主から配布されることは多かったようだ。騎士などの場合、有力な貴族から与えられれ、その主従関係が分かるような紋章の入ったお仕着せ(livery)を来て、虎の威を借るような振る舞いに出ることもあった。
この学僧がまだ手に入れていないとある聖職禄(benefice)は、中世の多くの人々にとって非常に重要な収入源だった。これは教会の無数の役職に付いて来る謂わば「給料」。中世人の多くは土地からあがる収入によって暮らしていた。王侯貴族、騎士やジェントリーと呼ばれる上流階級の地主などだ。また、富裕な商人や役人、法律家なども土地を持って、そこから穫れる農作物の売り上げ、小作料、地代等々を得て、他に生業を持っていても、それを土地からの収入で補完したり、あるいは、土地の収入のほうが元来の生業よりも儲かっていた場合も多いだろう。一方、地主ではなく、それほど豊かでもない中流の人達の収入と言うと、この聖職禄がかなり重要な割合を占めていただろう。聖職者だから、大半の人は結婚は出来ないが、一生涯、禄を受け取る、つまり終身雇用してもらえる、という魅力で、多くの人が苦労して学問を積み、教会に入ったことと思う。時代はずっと後だが、あのプレイボーイ、ジュリアン・ソレルを思い出せば理解しやすい。一方、貧しい下級聖職者の場合、結婚することもあり得た(注1)。また、先ほど書いたような公務員やその種の事務職員の仕事も存在した。しかし、そうした仕事をしている事務職員の多くも、実際は聖職者であり、禄を受けていたのである。前述の大法官府などの事務官(Chancery clerks)なども、そのかなりの人々は独身の聖職者だった。おそらく、彼らが王室から貰う世俗の給与だけでは不十分で、聖職禄も必要だったのではないか。王室(the Crown)の公務員などは英語で"annuity", ラテン語で"annuitas"、と呼ばれる年間給与などを王室から受け取っていた(年金であるが、退職後に貰うのではなく、現役の労働の対価でもある)。しかし、これがエリート知識人のお給金の割にはどうもかなり低額だったらしい。また、中世の王様は戦争を年中やっているので、財政は火の車のことが多くて、こうしたお給金も途絶えがちになる時もあったようだ。これは私見だが、そもそも中世においては、定期的に払われる「給料」という概念がそれほどはっきり定着していなかったと言えるのではないか。また、王室の財政も、長期的に大きな官僚機構をしっかり支えるほどには、安定性にも、計画性も欠けていたのだろう。そこで、王が実質的な給与の財源として使ったのが聖職禄である。これは教会の役職ではあるが、実際は直接日頃から教会の仕事をしていない人、名誉職としてそうした役を得ている人、実務を代理人にやらせている人など、色々な、謂わば「不在」聖職者にも配分されるのであり、その配分権限の多くを王室が握っていたはずである。偉い人は、複数の聖職を兼務し、実務は代理司祭にやらせて滅多に自分の教区に近寄らなかったりした(注2)。一方聖職禄を得ていない事務官も沢山いたが、彼らもやや少ない俸給を他の手段で補おうとした。今であれば公務員の普通の仕事の一部、書類を作るとか手続きを先に進めると言ったことの代価として、彼らは私的な手数料を取ることが多かった。今で言えば、医者に渡す心付けと似通っているだろうか。王室はこうした事務官に役職と幾らかの俸給を与え、事務官はそれらの役職の「名前」を使って、役所を利用する国民から一種の私的手数料を徴収するわけだ。今だったら汚職になるかもしれないが、中世イングランドにおいては当然のものとして行われていた。いや、パブリック・サービスの概念が極めて乏しかったので、こうした私的営利行為が、国の業務の中に組み込まれていたのだろう。
話を元に戻すと、このオックスフォードの学僧は、聖職にも、聖職禄にも、世俗の職にもありついていない。彼はどうも支援者から何かしらの援助、いわば奨学金、を貰っているらしい:
But al that he myghte of his freendes hente,
On bookes and on lernynge he it spente,
And bisily gan for the soules preye
Of hem that yaf hym wherewith to scoleye.
(しかし、彼が友人たちから得たものはすべて
書物と学問のために使いました。
そして、学校で学ぶ為に援助してくれた人々の魂のために
熱心に祈ったのでした。)
この中世版の奨学金であるが、出資者にとっては、全く利他的なものとばかりは言えないだろう。これはその人たちの魂の為に祈るという具体的行為に対する対価と取って差し支えないだろう。日本で言うと、交通安全とか、商売繁盛の為に、神主さんに祈祷してもらうようなものだ。中世においては、死後に人の魂はその人の現世において犯した罪に応じて煉獄で罰を受けると信じられていたので、教会とか礼拝堂を寄進する、聖職者に自分の魂の安寧の為に祈ってもらうなど、罪の深さを軽くするような行為に対して豊かな人々はお金を惜しまなかった。そういうわけで、貧乏学生を助けてあげたいという善意もあろうが、自分の、あるいは自分の亡くなった近親者などの魂の為に祈ってもらう、という「実利」もあったに違いない。
さて随分長くなって、折角の日曜日をほぼ一日使ってしまったので、突然ですが、ここで中断。でももう少し書こうと思っていることがあるので、この後は、いずれ「その2」を書くとしましょう(^_^)。こうして、当然知っているはずのことでも文字にしてみると、私がそうだろうと思っていただけで実は曖昧な知識とか、分からないことが幾つも出て来て、今後の勉強の課題になります。なお、これは学術論文ではないので、私の適当な推測も混じっています。従って学生諸氏はレポートなどの参考にしないように!もし私の誤りに気づかれた方があればコメントにて是非お教え下さい。また、その他のコメントや素直な感想も歓迎です。なお、商用の書き込みを防ぐため、現在コメントは承認制としておりますので、表示までしばらくお待ちください。
(注1)司祭、助祭、副助祭などの更に下の、「下級聖品」(the Minor Orders)に含まれる四階級には結婚が許されていた。
(注2)これは、同じく『カンタベリー物語』の序歌における教区司祭の肖像の中で、皮肉を込めて言及されている:
He sette nat his benefice to hyre
And leet his sheep encombred in the mere
And ran to Londoun unto Seinte Poules
To seken hym a chaunterie for soules,
Or with a bretherhed to been withhold
(彼[教区司祭]は彼の任地を他人に預け、
教区民をぬかるみの中で迷わせたまま、
ロンドンのセント・ポール寺院へ駆けつけて
死者の魂の為にミサを唱えたり
あるいは同業組合に雇われたりするような人ではありません。)
この司祭とは正反対に、自分の教区で少ないながらも安定した禄を得ている一方で、そこをアルバイト聖職者に安い給金を出して任せ、お手当の多い都会のギルドの礼拝堂付き僧となるなど、しばしばあったことだろう。
また、聖職禄が場合によっては如何に便宜的な給与配分の手段であるかは、修道士が教区司祭の禄を受けることがあったという事実からもよくわかる。
(上の絵は『カンタベリー物語』の代表的な写本であるエルズミア写本の挿絵にあるオックスフォードの学僧。やせ馬が描かれている。手に持つ本も赤い。)
2012/05/30
アングロ・サクソン時代のアクセサリー(ロンドン博物館の展示品から)
3月に撮った写真を少しずつブログに載せているが今回もロンドン博物館 (Museum of London) で撮った写真から、中世初期のイングランド、つまり大体においてアングロ・サクソン時代のアクセサリーから。
最初はブローチ。アングロ・サクソン人もローマ人のようなマントとか、袋状の簡単な造りの服をを身につけることが多かった。そうした服をこうしたブローチとピンで留め、かつ、そのブローチはアクセサリーとなった。このブローチは、square-headed brooch(四角い頭のブローチ)と呼ばれるタイプのもので、このデザインはスカンジナビアの影響らしい。square-headed broochは500-575年くらいに流行したデザインだそうである。6世紀初期 (early 500s) のもの、つまりまだ異教時代である。最初、一種の十字架のデザインかと思ったが、異教時代だし、スカンジナビア起源のデザインとするとそうではないだろう。この形、何か意味があるのだろうか。ロンドンの南部近郊、Micham(ミッチャム)のアングロ・サクソン時代の墓地で発掘された。若い女性の肩の部分に置かれてあり、おそらく衣服を留めていたのだろう。銀に金のメッキ (gilded silver)。このブローチについては博物館のサイトに解説がある。
6世紀から7世紀初期のブローチ。ソーサー・ブローチ (a saucer brooch) と呼ばれるタイプのもの。ティーカップの受け皿のような形をしているのでこの名前があるそうだ。女性が良く身につけたらしい。もともと5世紀初期に大陸のドイツ語圏(ザクセン地方)で始まり、アングロ・サクソン人の来襲と共にブリテン島に移入された。6世紀。銅の合金に金銀のメッキ。
やはりソーサー・ブローチ。前のブローチ同様、Micham(ミッチャム)のアングロ・サクソン時代の墓地で発掘された。6世紀頃のもの。
衣服を留めたピン。銅の合金。コベント・ガーデン付近で発掘。コベント・ガーデンあたりは当時のロンドンの中心地だったらしい。
6世紀と11世紀の櫛。勿論、保存の良い方が11世紀のもの。骨か角を彫って作られている。拡大して彫り物をよくご覧下さい。大変精密。
ベルトの金具。バックルは横3センチくらいで、大変小さく、細かい模様から見ても、庶民の実用品と言うより、豊かな人が所有していたかなり装飾性の高いベルトだろう。職人の技術の確かさが分かる。動物の彫り物あり。ウサギか犬?とにかく精巧なものだ。
最後は、様々のアクセサリー。スズのビーズ、指輪、ブローチ等。11世紀。チープサイド(ロンドン・ブリッジ付近)でまとまって発見された。多くは未完成であり、ここにあった宝飾職人の工房において制作中の品物であろうとのこと。
どれもこれも、細工の精密さに驚く。こうした工芸品も、アングロ・サクソン写本の見事さに負けない高い技術力を感じさせる。
2012/03/23
ロンドン・アングロ・サクソン・シンポジウムに行ってきました。
The First London Anglo-Saxon Symposium
'The Anglo-Saxons: Who? Where? When? Why?'
Institute of English Studies, University of London, 21 March 2012
昨日21日、ロンドン大学のInstitute of English Studies(英文学研究所)で開かれた標題の学会に行ってきた。私はアングロ・サクソンの文学や歴史の研究をしているわけではないが、この学会は、開催の主旨に、一般の、関心のある聴衆も歓迎すると書いてあったので、気軽に聴講できるかな、と思って参加。それに、今年の1月から2月にかけて私自身も初歩的な内容であるが、アングロサクソンについての公開講座を担当したので、久しぶりにあらためて興味を喚起され、もっと学びたいと思っていたところでもあった。
3時から始まり7時過ぎに終わるまで、20分の発表が6つ、15分の発表が2つという盛りだくさんの学会。一般の人らしき聴衆もかなり混じり、また学部生もある程度いたと思う。70-80人くらいだろうか。比較的小さな部屋で、満員だった。イギリスの学会に行くと、いつも自分の語学力の壁で苦労するが、今回も例外でなく、十分に理解して満足できるほど吸収した発表はひとつもない。しかし、ある程度面白く聞けた発表もあり、行って良かったとは思う。一般の聴衆も加わっていることを意識して、発表者は初歩的なイントロダクションも含めて、話をしていたので、内容は普通の学会より理解しやすかった。この学会は、同じように一般聴衆にも開かれた形でこれからも毎年開きたいと、開催者の先生が言っていたので、来年もこの季節にあるかもしれない。たまたまロンドンに来る機会があったら、また聴講したい。日本の大学の先生も一応春休み期間中だが、今頃は絶対に休めない卒業式があり、また新年度の準備で忙しい時期なので、なかなか出席は難しいだろうなあ。私はこの分野の研究書や論文を読むことはないので、講師の先生は私の知らない人ばかりだったが、司会をした先生は、Jane RobertsやClare Leesなど、私でも名前を知っている大御所が含まれていた。
さて、聞いた事で、大分理解できたことの中から、興味を引かれた点を、私の主観的な感想も交えつつ2,3紹介してみたい。ただ、私の英語力も理解力も自分でも全く当てにならないので、発表の正確な報告は出来ないので、その点をご了解の上、割り引いて読んでください。
2つの最初の発表では、アングロ・サクソン人のブリテン島侵略について、歴史学と考古学の2人の先生が論じた。昔の一般的な歴史書や教科書などでは、アングロ・サクソンがケルト人(ブリトン人)を、のちにイングランドと名づけられるようになる地域から追い出した、というように書かれているが、もっと段階的な侵略(かつ移民)であり、またブリトン人との同化のプロセスであった、ということが色々な状況証拠から説明された。こういう人種的な問題については、大昔のことでも、その時代の歴史学者の視点によって記述が大きく変化してきた。19世紀から20世紀始めの学者、特にドイツの学者などはそうだが、ゲルマン民族の民族的優位性を当前とする立場であり、アングロ・サクソン人に肩入れした視点で書く傾向があった。20世紀、特に第2次大戦以降、現在のイングランドはもちろんのこと、歴史的にも連合王国が多民族多文化社会として見直しをされ、また西欧全体としてはホロコーストの深い反省の元にたった現在の歴史学は、基本的な視点が大きく違い、中世のイギリスもいくつもの民族の交じり合った社会と考えるようになったわけである。アングロ・サクソン人の社会にも多くのブリトン人奴隷が存在し、Ine's Lawなどの法律で彼らの処遇について触れてもいる。また、ブリトン人を大量に虐殺したり、ウェールズなどの周辺地域に追い出してしまったりするには、あまりに彼らの数は多かったはずとのこと。Stentonなどが地名にケルト系の名前が非常に少ないことを挙げているが、これもあまり当てにならないらしく、イングランド西部には結構ケルト由来の名前は残るそうだ。そもそも5-6世紀頃は、農耕経済で、大きな町は出来にくく、したがってその後ずっと継承されるような地名も出来にくかったはずだ。そして何よりもこの時代の歴史的文献として最も重要視されるビードの『英国教会史』だが、ビードはブリトン人に大変敵意を持っていたことは明らかなので、その点を割り引いて読む必要があるという。彼の居たのが北イングランドで、北方の異民族との争いにおびえていたことがそうした傾向を生んだのかもしれない。
更に、昔の研究者はアングロ・サクソン人の侵入と言う時点からのみこの過渡期を見がちであったが、前提となるローマ時代のブリテン島についての知識や研究がこれまで不十分であったとのこと。Roman Britainと言っても、単純なものではなく、色々な地域差や民族的な複雑さも含んでいた。たとえばブリテン島に来たローマ兵だって、イタリア半島から来た人なんてごくわずかで帝国の各地からやってきた多民族・多言語の混成部隊で、更にそのローマ人が現地のブリトン人と交じり合っていた。ローマ人はブリテン島にローマ帝国風の建物を建てたというが、ロンドンなど大都市の一部の建物を除き、当時の建物のほとんどは木造の農家で、アングロ・サクソン時代の農家と大して変わりない。ローマ風のVillaがイングランドでも建てられたが限定的で、4世紀に限られるとのこと。また、「アングロ・サクソン人の侵入」というが、実際にはフリージア人の移民も大量にあったそうだ。最近は、DNAの解析から民族移動を調べる研究も行われているが、これはあまり助けになるような成果は上がっていないとの頃。
もうひとつの話で、私の関心を持つことからはかなり遠いが大変面白いと感じたのは、大英博物館の方が話したアングロ・サクソン時代のコインについての話。ローマ人はブリテン島でコインを鋳造し、貨幣経済が発達していたが、彼らがブリテン島を去り、5世紀の始め(510年頃?)にコインの鋳造もストップした。しかし、ローマのコインの使用は終わったわけではなく、その後も数十年間(a few decadesと言っていたと思う)はそれ以前に作られた帝国のコインがの流通が続いた。発掘物によると、コインの使用は東部で多く、西部では少ないそうだ(これは東部が大陸との交易が多いためかもしれない?)。その後、5、6世紀、そして7世紀の始めまで、ブリテン島ではコインは鋳造されないが、その期間の発掘物からもコインが発見され続けている。後の時期の発掘物になるにつれ、ローマ時代のコインから、フランク王国や西ゴート王国のコインに変わってきているようだ。コインは必ずしも金銭として利用されるとは限らず、ペンダントとして、あるいは首飾りにつけられたりして、装身具としても利用されることが多かった。また金銭として利用される際、1枚のコインの金や銀の量を調節するために、コインを半分とか3分の1とかカットしたり、逆に、そうした断片を別のコインに打ち付けて金や銀の量を増やし、価値を増したりもしたそうで、これは大変面白いと思った。更に、まったくコインの形をしていない金や銀の小片も、貨幣として利用されたらしい。
イングランドで鋳造されたコインとしては7世紀始め(620年代から640年代頃)が始まりだそうだが、最初のコインは、金銭としての利用か、ペンダントかはよく分からない。5-7世紀のコインは、貨幣としての機能的な意味に加え、シンボリックな意味も大きかった。つまり、発行した為政者の権威づけ。特に、ローマの、そしてキリスト教徒の支配者としてのアイデンティティーの表現と誇示であるとか、価値体系を支配できるという権力の誇示、そして貴重な金銀を集めてコインを鋳造できるという富の誇示、など。実際に庶民の日常生活での使用頻度はそう高くなかったのではないか(この点は聞き逃した)。なお、サトン・フー遺跡(7世紀)では多くのコインが発見されているが、2009年の大発見、スタフォードシャーのアングロ・サクソン遺跡(7-8世紀)では、3500点もの発掘物があるにもかかわらず、コインは全く無いと言っておられた。Wikipediaによると、スタフォードシャー遺跡では軍事的な色彩の物品が出ており、女性だけが使うものは全く無く、日常生活に使うようなものは少ないようである。
また、コインの話に続いて、『ベーオウルフ』における'Economy'についての発表もあった。 英語の聴解力が十分でないことに加えて、私自身が作品自体に疎いので細部が良く理解できなかったが、それでもこの古典について今まで考えていなかった新しい視点を提供してくれた。この作品は、伝統的には、ゲルマン民族の英雄観とか、キリスト教的な視点からの寓意的解釈、異教的要素の探求などの研究が多かったと思うが、今回の講演では、作品に貸し借りや支払いに関する語句が大変多いことに注目している。たとえば現代英語で言えば、'pay(ment)', 'repay(ment)', 'debt', 'indebted(ness)', 'reward', 'gift'等々に関連した表現である。こうした表現は、アングロ・サクソン人の価値観、主従関係などと密接に関連し、物語の骨格をなしている。一種の'economy of exchanges'(交換経済)が伺える。主人公ベーオウルフは、非常に几帳面にこのexchangeのモラルに忠実だが、それが微妙に崩れた時、波乱が起こる。グレンデルや宝の塚を暴いた盗賊、そしてドラゴンは、そうした交換システムの滑らかな働きを乱すものたちだ。そういう中で、交換の媒体になるもの(ギフト、報酬、女性)に注目したり、それが我々から見て妥当かどうかを検討したりも出来る(ベーオウルフがフロースガールから受けたギフトは、彼の命がけの働きに見合うものだったのだろうか、とも問いかけておられた)。
アングロ・サクソン時代の文字や写本についての講演もあったが、英語が良く分からなかった。ただ、ルーン文字と古英語、そしてラテン語が混在することがあるというのは、当然かもしれないが、言われてみてなるほどと思った。有名な'Franks Casket' {British Museum所蔵)もその一例。一方、'The Dream of the Rood'(十字架の夢)という詩がルーン文字で刻まれていることで有名なラズウェルの十字架(Ruthwell Cross)はルーン文字で刻まれた古英語と共にラテン・アルファベットによるラテン語も刻印されているそうだ。また、写本でも、アルファベットで書かれた写本の余白にルーン文字のコメンタリーが書き加えられているものもあるとのこと。ラテン語と古英語、そしてアルファベットとルーン文字の混在、なかなか面白い。ラズウェル・クロスの場合、古英語の文がルーンで刻まれている。古ノルド語など、他のゲルマン語もルーンで刻まれている例は多いだろうが、では、ラテン語がルーンで刻まれることはあったのかしら。やはりこの文字はゲルマン語と切り離せないものだったのだろうか。
'The Anglo-Saxons: Who? Where? When? Why?'
Institute of English Studies, University of London, 21 March 2012
昨日21日、ロンドン大学のInstitute of English Studies(英文学研究所)で開かれた標題の学会に行ってきた。私はアングロ・サクソンの文学や歴史の研究をしているわけではないが、この学会は、開催の主旨に、一般の、関心のある聴衆も歓迎すると書いてあったので、気軽に聴講できるかな、と思って参加。それに、今年の1月から2月にかけて私自身も初歩的な内容であるが、アングロサクソンについての公開講座を担当したので、久しぶりにあらためて興味を喚起され、もっと学びたいと思っていたところでもあった。
3時から始まり7時過ぎに終わるまで、20分の発表が6つ、15分の発表が2つという盛りだくさんの学会。一般の人らしき聴衆もかなり混じり、また学部生もある程度いたと思う。70-80人くらいだろうか。比較的小さな部屋で、満員だった。イギリスの学会に行くと、いつも自分の語学力の壁で苦労するが、今回も例外でなく、十分に理解して満足できるほど吸収した発表はひとつもない。しかし、ある程度面白く聞けた発表もあり、行って良かったとは思う。一般の聴衆も加わっていることを意識して、発表者は初歩的なイントロダクションも含めて、話をしていたので、内容は普通の学会より理解しやすかった。この学会は、同じように一般聴衆にも開かれた形でこれからも毎年開きたいと、開催者の先生が言っていたので、来年もこの季節にあるかもしれない。たまたまロンドンに来る機会があったら、また聴講したい。日本の大学の先生も一応春休み期間中だが、今頃は絶対に休めない卒業式があり、また新年度の準備で忙しい時期なので、なかなか出席は難しいだろうなあ。私はこの分野の研究書や論文を読むことはないので、講師の先生は私の知らない人ばかりだったが、司会をした先生は、Jane RobertsやClare Leesなど、私でも名前を知っている大御所が含まれていた。
さて、聞いた事で、大分理解できたことの中から、興味を引かれた点を、私の主観的な感想も交えつつ2,3紹介してみたい。ただ、私の英語力も理解力も自分でも全く当てにならないので、発表の正確な報告は出来ないので、その点をご了解の上、割り引いて読んでください。
2つの最初の発表では、アングロ・サクソン人のブリテン島侵略について、歴史学と考古学の2人の先生が論じた。昔の一般的な歴史書や教科書などでは、アングロ・サクソンがケルト人(ブリトン人)を、のちにイングランドと名づけられるようになる地域から追い出した、というように書かれているが、もっと段階的な侵略(かつ移民)であり、またブリトン人との同化のプロセスであった、ということが色々な状況証拠から説明された。こういう人種的な問題については、大昔のことでも、その時代の歴史学者の視点によって記述が大きく変化してきた。19世紀から20世紀始めの学者、特にドイツの学者などはそうだが、ゲルマン民族の民族的優位性を当前とする立場であり、アングロ・サクソン人に肩入れした視点で書く傾向があった。20世紀、特に第2次大戦以降、現在のイングランドはもちろんのこと、歴史的にも連合王国が多民族多文化社会として見直しをされ、また西欧全体としてはホロコーストの深い反省の元にたった現在の歴史学は、基本的な視点が大きく違い、中世のイギリスもいくつもの民族の交じり合った社会と考えるようになったわけである。アングロ・サクソン人の社会にも多くのブリトン人奴隷が存在し、Ine's Lawなどの法律で彼らの処遇について触れてもいる。また、ブリトン人を大量に虐殺したり、ウェールズなどの周辺地域に追い出してしまったりするには、あまりに彼らの数は多かったはずとのこと。Stentonなどが地名にケルト系の名前が非常に少ないことを挙げているが、これもあまり当てにならないらしく、イングランド西部には結構ケルト由来の名前は残るそうだ。そもそも5-6世紀頃は、農耕経済で、大きな町は出来にくく、したがってその後ずっと継承されるような地名も出来にくかったはずだ。そして何よりもこの時代の歴史的文献として最も重要視されるビードの『英国教会史』だが、ビードはブリトン人に大変敵意を持っていたことは明らかなので、その点を割り引いて読む必要があるという。彼の居たのが北イングランドで、北方の異民族との争いにおびえていたことがそうした傾向を生んだのかもしれない。
更に、昔の研究者はアングロ・サクソン人の侵入と言う時点からのみこの過渡期を見がちであったが、前提となるローマ時代のブリテン島についての知識や研究がこれまで不十分であったとのこと。Roman Britainと言っても、単純なものではなく、色々な地域差や民族的な複雑さも含んでいた。たとえばブリテン島に来たローマ兵だって、イタリア半島から来た人なんてごくわずかで帝国の各地からやってきた多民族・多言語の混成部隊で、更にそのローマ人が現地のブリトン人と交じり合っていた。ローマ人はブリテン島にローマ帝国風の建物を建てたというが、ロンドンなど大都市の一部の建物を除き、当時の建物のほとんどは木造の農家で、アングロ・サクソン時代の農家と大して変わりない。ローマ風のVillaがイングランドでも建てられたが限定的で、4世紀に限られるとのこと。また、「アングロ・サクソン人の侵入」というが、実際にはフリージア人の移民も大量にあったそうだ。最近は、DNAの解析から民族移動を調べる研究も行われているが、これはあまり助けになるような成果は上がっていないとの頃。
(サトン・フーの金貨)
もうひとつの話で、私の関心を持つことからはかなり遠いが大変面白いと感じたのは、大英博物館の方が話したアングロ・サクソン時代のコインについての話。ローマ人はブリテン島でコインを鋳造し、貨幣経済が発達していたが、彼らがブリテン島を去り、5世紀の始め(510年頃?)にコインの鋳造もストップした。しかし、ローマのコインの使用は終わったわけではなく、その後も数十年間(a few decadesと言っていたと思う)はそれ以前に作られた帝国のコインがの流通が続いた。発掘物によると、コインの使用は東部で多く、西部では少ないそうだ(これは東部が大陸との交易が多いためかもしれない?)。その後、5、6世紀、そして7世紀の始めまで、ブリテン島ではコインは鋳造されないが、その期間の発掘物からもコインが発見され続けている。後の時期の発掘物になるにつれ、ローマ時代のコインから、フランク王国や西ゴート王国のコインに変わってきているようだ。コインは必ずしも金銭として利用されるとは限らず、ペンダントとして、あるいは首飾りにつけられたりして、装身具としても利用されることが多かった。また金銭として利用される際、1枚のコインの金や銀の量を調節するために、コインを半分とか3分の1とかカットしたり、逆に、そうした断片を別のコインに打ち付けて金や銀の量を増やし、価値を増したりもしたそうで、これは大変面白いと思った。更に、まったくコインの形をしていない金や銀の小片も、貨幣として利用されたらしい。
イングランドで鋳造されたコインとしては7世紀始め(620年代から640年代頃)が始まりだそうだが、最初のコインは、金銭としての利用か、ペンダントかはよく分からない。5-7世紀のコインは、貨幣としての機能的な意味に加え、シンボリックな意味も大きかった。つまり、発行した為政者の権威づけ。特に、ローマの、そしてキリスト教徒の支配者としてのアイデンティティーの表現と誇示であるとか、価値体系を支配できるという権力の誇示、そして貴重な金銀を集めてコインを鋳造できるという富の誇示、など。実際に庶民の日常生活での使用頻度はそう高くなかったのではないか(この点は聞き逃した)。なお、サトン・フー遺跡(7世紀)では多くのコインが発見されているが、2009年の大発見、スタフォードシャーのアングロ・サクソン遺跡(7-8世紀)では、3500点もの発掘物があるにもかかわらず、コインは全く無いと言っておられた。Wikipediaによると、スタフォードシャー遺跡では軍事的な色彩の物品が出ており、女性だけが使うものは全く無く、日常生活に使うようなものは少ないようである。
また、コインの話に続いて、『ベーオウルフ』における'Economy'についての発表もあった。 英語の聴解力が十分でないことに加えて、私自身が作品自体に疎いので細部が良く理解できなかったが、それでもこの古典について今まで考えていなかった新しい視点を提供してくれた。この作品は、伝統的には、ゲルマン民族の英雄観とか、キリスト教的な視点からの寓意的解釈、異教的要素の探求などの研究が多かったと思うが、今回の講演では、作品に貸し借りや支払いに関する語句が大変多いことに注目している。たとえば現代英語で言えば、'pay(ment)', 'repay(ment)', 'debt', 'indebted(ness)', 'reward', 'gift'等々に関連した表現である。こうした表現は、アングロ・サクソン人の価値観、主従関係などと密接に関連し、物語の骨格をなしている。一種の'economy of exchanges'(交換経済)が伺える。主人公ベーオウルフは、非常に几帳面にこのexchangeのモラルに忠実だが、それが微妙に崩れた時、波乱が起こる。グレンデルや宝の塚を暴いた盗賊、そしてドラゴンは、そうした交換システムの滑らかな働きを乱すものたちだ。そういう中で、交換の媒体になるもの(ギフト、報酬、女性)に注目したり、それが我々から見て妥当かどうかを検討したりも出来る(ベーオウルフがフロースガールから受けたギフトは、彼の命がけの働きに見合うものだったのだろうか、とも問いかけておられた)。
アングロ・サクソン時代の文字や写本についての講演もあったが、英語が良く分からなかった。ただ、ルーン文字と古英語、そしてラテン語が混在することがあるというのは、当然かもしれないが、言われてみてなるほどと思った。有名な'Franks Casket' {British Museum所蔵)もその一例。一方、'The Dream of the Rood'(十字架の夢)という詩がルーン文字で刻まれていることで有名なラズウェルの十字架(Ruthwell Cross)はルーン文字で刻まれた古英語と共にラテン・アルファベットによるラテン語も刻印されているそうだ。また、写本でも、アルファベットで書かれた写本の余白にルーン文字のコメンタリーが書き加えられているものもあるとのこと。ラテン語と古英語、そしてアルファベットとルーン文字の混在、なかなか面白い。ラズウェル・クロスの場合、古英語の文がルーンで刻まれている。古ノルド語など、他のゲルマン語もルーンで刻まれている例は多いだろうが、では、ラテン語がルーンで刻まれることはあったのかしら。やはりこの文字はゲルマン語と切り離せないものだったのだろうか。
(Franks Casket)
(Ruthwell Cross)
残りの発表は、残念ながらさっぱり分かりませんでしたが、どうも私には関心の無い内容だったような気がするので、まあいいか。
2012/03/18
中世の靴(Museum of Londonの展示物から)
少し前に中世の靴についてブログに書いたのだが、その後ロンドン博物館(Museum of London)に出かけた際、発掘された中世の靴があったので、写真に撮ってきた。子供の靴もあり、見るだけでなかなか楽しい。また、靴に文様が描かれていて、当時の職人の手作業の技術の高さを実感した。最初は通気の良さそうな夏向きのメッシュの靴と子供の靴:
皮でできたものとして、子供用らしい暖かそうな胴着もあった。右はやはり子供用のミトン:
こうしてみると、中世ロンドンの人々は、色々な工夫をして寒さに対抗していたのだと分かる。
次もやはり大人の靴と子供の靴。どちらの靴にも描いてある細かい模様に注目したい:
中世末期ののファッショナブルな人たちは先のとがった靴を愛用した。模様にも注目:
寒いときにはブーツも。近年若い女性がはいているもこもこしたブーツに似ていない?
次は靴ではないが、皮でできた一種のストッキング。室内履きとして使われたのだろうか?
こうしてみると、中世ロンドンの人々は、色々な工夫をして寒さに対抗していたのだと分かる。
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