(まだの方は出来れば前項の「その1」をまずお読みいただければ幸いです。)
チョーサーが『カンタベリー物語』の序歌で描くオックスフォードの学僧(the Clerk of Oxford)はお金を稼ぐのは苦手のようだし、また、そもそもそういう仕事に就きたいと思っていないのかもしれず、清貧の貧乏学生のままが性に合っているのかもしれない。友人の先生が大学の授業でこの部分に触れた後、学生に感想をきいたら、その学僧はモラトリアムでしょう、という見事な返事が返って来たそうである。現代日本の大学生からそう言われるなんて、笑えた。但し、この学生も勉強とともに、喜んですることがある:
And gladly wolde he lerne and gladly teche.
(そして彼は喜んで学び、喜んで教えました。)
と、チョーサーは彼の紹介を結んでいる。「喜んで」教えた、たぶん無料で誰かに教えてあげたのであろうか。オックスフォードで随分前に論理学を学んだ、つまりかなり学者としてキャリアを積んできた人であるから、個人教授で、あるいは教会の学校などで教えることも出来ただろうし、そういう機会も既にあるのかもしれない。でも「喜んで」というからには、無償で教えているのだろうか、薄謝くらいは徴収しているのか。チョーサーのスタンダード・エディションである"Riverside Chaucer"の注では、セネカが同様なことを書いていると述べている: ("gaudio dicere, ut doceam")。また、こうした考えは既にプラトンに見られるとも書いてある。
聖書ではどうか。マタイ伝の第10章で、イエスは12人の使徒達を呼び寄せ、伝道の心構えを伝えている。そのまま引用すると:
異邦人の道に行くな。またサマリア人の町にはいるな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。行って、「天国が近づいた」と宣べ伝えよ。病人を癒し、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるが良い。財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。
ここで重要なのは、「ただで受けたのだから、ただで与えるが良い」という一節。欽定訳聖書では、"freely ye have received, freely give"となっている。キリスト教の教えの伝統の中には、「知識」(scientia)というものは神の無償の贈り物であって、これは無償で分け与えられるべきであり、まるで食物を売るようにお金を取って商ってはいけない、と言う考え方があるようだ。そもそもローマ帝国が分裂し崩壊した時期から中世の大半の時期の西欧においては、文字を習い知識を受け継いだ階層は聖職者、ほとんどは修道士か教区司祭などであった。彼らが得た知識は、教会、そして究極は神から与えられたのであり、それは、信徒、上記のマタイ伝の言葉で言えば「羊たち」、を導く為の神からの贈り物である。この学僧が示す"gladly wold he learn and gladly teach"という態度は、直接的ではないにしろ、マタイ伝の"freely ye have received, freely give"という教えと関連していると言って良いだろう。
「知識というものは、元来神に与えられたものであるから、売られるべきではない」、という基本的な考えは、大学や大聖堂付属学校の教師の報酬と関連して、12、13世紀に学者たち、とりわけ教会法の学者たちによって盛んに論じられたそうである(注を参照)。具体的には、当時の教会法学者たちにとっては、学生に教えるのに授業料を取って良いかどうか、また徴収するとすれば誰からどの程度受け取るべきか、かなり悩ましかったようなのである。これらの教師のほとんどは聖職者であり、修道会から養われているか、その他の聖職禄を得ている者が大多数であろうから、彼らは、丁度マタイ伝に述べられている12使徒たちのように、無償で教えてしかるべき、という考えもうなずける。しかし、貧しい学生からは授業料を取らないにしても、裕福な学生からは謝礼を受けても構わない、あるいは、金持ちも貧乏人も、その人の収入に応じて何らかの授業料を払うべきである、という折衷的な考えが支配的だったようだ。また、こうした議論の前提となる聖職禄を貰ってない者など、教師が貧しい場合は相応な授業料を要求して構わない、と唱える者もあった。また更に、謝礼の申し出は断る必要はないが、自分から要求するようなはしたないまねはしてはいけません、という説もある。このあたり、その1で触れたように、チョーサーの学僧が支援者からの援助を受け取っていた事を思い出させる。
ちなみに、上に引用したマタイ伝では、「働き人がその食物を得るのは当然である」("the workman is worthy of his meat")とキリストは教えている。この言葉は、ルカ伝10.7、テモテへの第1の手紙5.18でも繰り返される。この「働き人」(the workman)は、知識人ではなく、一般の、広い意味での労働者、例えば農民とか職人、と解釈される。聖書の時代において、頭を使い、デスクで仕事をするホワイトカラーの勤め人など数の上ではほとんどいないも同然であったから、知識を売り買いする労働者なんて計算に入ってはいないだろう。しかし中世後半にはまず教師が出て来て、次に種々の役人・官僚の類、そして法律家など、従来の身分制度の範疇に納まりにくい人々が台頭する。これら知的職業、そして彼らのかなり高い収入レベル、蓄財などをどう考えるか、また別の大きな問題になってくるが、今回のエントリーはここまで。
(注)詳しくは、Gaines Post, Kion Giocarinis and Richard Kay, 'The Medieval Heritage of a Humanist Ideal: "Scientia Donum Dei Est, Unde Vendi Non Potest," ' Traditio 11 (1955), pp. 195-234.
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