14世紀イングランドの詩人ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』のプロローグで出てくるオックスフォードの学僧(the Clerk of Oxford)は、学問に全身全霊を捧げている清貧の学者であり、チョーサー作品の伝統的な解釈においては、理想的な学者像と見なされて来たと思われる。私が1970年代に習ったアメリカ人の先生も、彼を大変理想化して解説していた。彼はかなり前に論理学を修めているようなので(unto logyk hadde longe ygo)、長期間大学に在籍しているようだ。今で言えば、博士課程の学生か、またはポスドクと呼ばれる博士号を取得後、任期付や非常勤の教職などをしている研究者のような人と比較出来るだろう。古今を問わず、こういう人たちの生活が極めて不安定で苦しいのは同じのようだ。この学僧は熊手のようにやせた馬に乗っているが(As leene was his hors as is a rake)、良い馬を借りる費用がないのだろう。彼自身もうつろな表情をしており、太ってもいない、と書かれているが、ちゃんと栄養のあるものを食べているのだろうか。彼の上着も古くてすり切れ、糸が目立つ程だ(Ful thredbare was his overeste coutrepy)。現代の日本や欧米では、こういう種類の人たちは大学の専任教員になることを望みつつも、職が決まらないまま、非常勤講師や任期付講師の職で長く生活しておられる方も多数いる。中世イングランドの場合、こういう学者にとって目指す安定した仕事と言うと、大学はオックスフォードとケンブリッジしかなく、その教職は限りなく少ないので、何らかの聖職者ということになる。多くの人は豊かな地域の教区司祭志望だろう。また、もともと修道士で大学に来たりする人も多かったようなので、そういう人は修道会に戻るのだろう。しかし、チョーサー描く学僧は、
For he hadde geten hym yet no benefice,
Ne was so worldly for to have office.
(というのも、彼は聖職禄を受けてもおらず、
また、世俗の職に向くほど世渡りも上手くなかった。)
聖職禄(benefice)は、中世カトリック教会の何らかの仕事、多くは教区司祭など、を指す。しかし、世渡りが下手なのか、就活に熱心でないのか、オックスフォードまで出ているのに彼には教会の仕事がない。また"office"もないとあり、世俗の仕事にもありつけないか、あるいは最初から学問とは関連の薄いそういう俗な仕事を嫌がっているのだろう。民間への就活をためらう文学部大学院の学生のように。当時の大学出というと大変な知的エリートであるから、大学ではアリストテレスの哲学などを勉強していても(実際、この学僧はアリストテレスが大好きらしい)、王室(つまり中央政府)とか、大貴族付きの事務職として雇われることはしばしばあるだろう。ウエストミンスターには、大法官府(The Exchequer)とか、財務裁判所(The Chancery)といった役所もあり、そういうところでも雇われる可能性があっただろう。更に、もう少し妥協すれば、ロンドンや他の幾つかの大きな都市には、大金持ちの大商人がかなりいて、彼らも事務官を必要としていたし、またギルドと呼ばれる同業者組合も事務官を抱えていた。当時は今の大学と違い、MBAや何とかビジネス学科なんて臆面もなく金儲け目的の実学部門はなかったので、例え神学や哲学を修めていても、それらの学者のラテン語の読み書きや知的能力が買われて商人に雇われ、会計簿とか、契約書を読んだり作成したりしても不思議はない。でもこの学僧はそうは出来なかった。つまり、
For hym was levere have at his beddes heed
Twenty bookes, clad in blak or reed,
Of Aristotle and his philosophie,
Than robes riche, or fithele, or gay sautrie.
(なぜなら 彼は寝台の側に黒や赤の装丁のアリストテレスの本20冊を持つ方が、
豪華な服や胡弓や華やかな琴を持つよりも
好ましいことだったからです。)
金儲けするより、本を読んでいたかったわけだ。ちなみに、ここにある"robes"という語は、おそらく「お仕着せ」の意味も含蓄していると思うので、就職してご主人からいただく職場のお仕着せのことも考えさせる。脱線すると、日本の事を考えても分かるが、この頃のちゃんとした服というのは、大変高価だった。日本のサラリーマンだって、戦後しばらく、ほとんどの人が近所の仕立て屋さんで背広を作っていた頃は、お父さんの背広の新調は、家計に取って、一大出費だったわけだ。高価なものだから、遺言状で遺産として残されるアイテムのひとつとしてもしばしば見受けられると記憶している。従って、ちゃんとしたお仕着せが雇い主から配布されることは多かったようだ。騎士などの場合、有力な貴族から与えられれ、その主従関係が分かるような紋章の入ったお仕着せ(livery)を来て、虎の威を借るような振る舞いに出ることもあった。
この学僧がまだ手に入れていないとある聖職禄(benefice)は、中世の多くの人々にとって非常に重要な収入源だった。これは教会の無数の役職に付いて来る謂わば「給料」。中世人の多くは土地からあがる収入によって暮らしていた。王侯貴族、騎士やジェントリーと呼ばれる上流階級の地主などだ。また、富裕な商人や役人、法律家なども土地を持って、そこから穫れる農作物の売り上げ、小作料、地代等々を得て、他に生業を持っていても、それを土地からの収入で補完したり、あるいは、土地の収入のほうが元来の生業よりも儲かっていた場合も多いだろう。一方、地主ではなく、それほど豊かでもない中流の人達の収入と言うと、この聖職禄がかなり重要な割合を占めていただろう。聖職者だから、大半の人は結婚は出来ないが、一生涯、禄を受け取る、つまり終身雇用してもらえる、という魅力で、多くの人が苦労して学問を積み、教会に入ったことと思う。時代はずっと後だが、あのプレイボーイ、ジュリアン・ソレルを思い出せば理解しやすい。一方、貧しい下級聖職者の場合、結婚することもあり得た(注1)。また、先ほど書いたような公務員やその種の事務職員の仕事も存在した。しかし、そうした仕事をしている事務職員の多くも、実際は聖職者であり、禄を受けていたのである。前述の大法官府などの事務官(Chancery clerks)なども、そのかなりの人々は独身の聖職者だった。おそらく、彼らが王室から貰う世俗の給与だけでは不十分で、聖職禄も必要だったのではないか。王室(the Crown)の公務員などは英語で"annuity", ラテン語で"annuitas"、と呼ばれる年間給与などを王室から受け取っていた(年金であるが、退職後に貰うのではなく、現役の労働の対価でもある)。しかし、これがエリート知識人のお給金の割にはどうもかなり低額だったらしい。また、中世の王様は戦争を年中やっているので、財政は火の車のことが多くて、こうしたお給金も途絶えがちになる時もあったようだ。これは私見だが、そもそも中世においては、定期的に払われる「給料」という概念がそれほどはっきり定着していなかったと言えるのではないか。また、王室の財政も、長期的に大きな官僚機構をしっかり支えるほどには、安定性にも、計画性も欠けていたのだろう。そこで、王が実質的な給与の財源として使ったのが聖職禄である。これは教会の役職ではあるが、実際は直接日頃から教会の仕事をしていない人、名誉職としてそうした役を得ている人、実務を代理人にやらせている人など、色々な、謂わば「不在」聖職者にも配分されるのであり、その配分権限の多くを王室が握っていたはずである。偉い人は、複数の聖職を兼務し、実務は代理司祭にやらせて滅多に自分の教区に近寄らなかったりした(注2)。一方聖職禄を得ていない事務官も沢山いたが、彼らもやや少ない俸給を他の手段で補おうとした。今であれば公務員の普通の仕事の一部、書類を作るとか手続きを先に進めると言ったことの代価として、彼らは私的な手数料を取ることが多かった。今で言えば、医者に渡す心付けと似通っているだろうか。王室はこうした事務官に役職と幾らかの俸給を与え、事務官はそれらの役職の「名前」を使って、役所を利用する国民から一種の私的手数料を徴収するわけだ。今だったら汚職になるかもしれないが、中世イングランドにおいては当然のものとして行われていた。いや、パブリック・サービスの概念が極めて乏しかったので、こうした私的営利行為が、国の業務の中に組み込まれていたのだろう。
話を元に戻すと、このオックスフォードの学僧は、聖職にも、聖職禄にも、世俗の職にもありついていない。彼はどうも支援者から何かしらの援助、いわば奨学金、を貰っているらしい:
But al that he myghte of his freendes hente,
On bookes and on lernynge he it spente,
And bisily gan for the soules preye
Of hem that yaf hym wherewith to scoleye.
(しかし、彼が友人たちから得たものはすべて
書物と学問のために使いました。
そして、学校で学ぶ為に援助してくれた人々の魂のために
熱心に祈ったのでした。)
この中世版の奨学金であるが、出資者にとっては、全く利他的なものとばかりは言えないだろう。これはその人たちの魂の為に祈るという具体的行為に対する対価と取って差し支えないだろう。日本で言うと、交通安全とか、商売繁盛の為に、神主さんに祈祷してもらうようなものだ。中世においては、死後に人の魂はその人の現世において犯した罪に応じて煉獄で罰を受けると信じられていたので、教会とか礼拝堂を寄進する、聖職者に自分の魂の安寧の為に祈ってもらうなど、罪の深さを軽くするような行為に対して豊かな人々はお金を惜しまなかった。そういうわけで、貧乏学生を助けてあげたいという善意もあろうが、自分の、あるいは自分の亡くなった近親者などの魂の為に祈ってもらう、という「実利」もあったに違いない。
さて随分長くなって、折角の日曜日をほぼ一日使ってしまったので、突然ですが、ここで中断。でももう少し書こうと思っていることがあるので、この後は、いずれ「その2」を書くとしましょう(^_^)。こうして、当然知っているはずのことでも文字にしてみると、私がそうだろうと思っていただけで実は曖昧な知識とか、分からないことが幾つも出て来て、今後の勉強の課題になります。なお、これは学術論文ではないので、私の適当な推測も混じっています。従って学生諸氏はレポートなどの参考にしないように!もし私の誤りに気づかれた方があればコメントにて是非お教え下さい。また、その他のコメントや素直な感想も歓迎です。なお、商用の書き込みを防ぐため、現在コメントは承認制としておりますので、表示までしばらくお待ちください。
(注1)司祭、助祭、副助祭などの更に下の、「下級聖品」(the Minor Orders)に含まれる四階級には結婚が許されていた。
(注2)これは、同じく『カンタベリー物語』の序歌における教区司祭の肖像の中で、皮肉を込めて言及されている:
He sette nat his benefice to hyre
And leet his sheep encombred in the mere
And ran to Londoun unto Seinte Poules
To seken hym a chaunterie for soules,
Or with a bretherhed to been withhold
(彼[教区司祭]は彼の任地を他人に預け、
教区民をぬかるみの中で迷わせたまま、
ロンドンのセント・ポール寺院へ駆けつけて
死者の魂の為にミサを唱えたり
あるいは同業組合に雇われたりするような人ではありません。)
この司祭とは正反対に、自分の教区で少ないながらも安定した禄を得ている一方で、そこをアルバイト聖職者に安い給金を出して任せ、お手当の多い都会のギルドの礼拝堂付き僧となるなど、しばしばあったことだろう。
また、聖職禄が場合によっては如何に便宜的な給与配分の手段であるかは、修道士が教区司祭の禄を受けることがあったという事実からもよくわかる。
(上の絵は『カンタベリー物語』の代表的な写本であるエルズミア写本の挿絵にあるオックスフォードの学僧。やせ馬が描かれている。手に持つ本も赤い。)
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