2017/08/28

メアリー・シェリー『新訳 フランケンシュタイン』田内志文訳(角川文庫)

メアリー・シェリー『新訳 フランケンシュタイン』田内志文訳(角川文庫、2015)

田内志文さん訳のイギリス小説の古典を続けて読んでいて、これが3冊目。彼の文体にもすっかり慣れた。『吸血鬼ドラキュラ』の感想でも書いたように、難しい漢語など避けて訳されており、とても読みやすい。その分、使える言葉の種類が減るわけだが、重複などはほとんど感じず、苦労されているのがうかがえる。訳者あとがきは、作品の背景や作者のことなど過不足なく簡潔にまとめられている。出版年からして、アメリカ映画『ヴィクター・フランケンシュタイン』(2015)の公開に合わせて翻訳されたのだと思うので、時間的制約も大きかったと思うが、良い仕事をされていると思った。私はこの作品もずっと読んだことがなかったが、小林章夫訳(光文社文庫)で始めて読んだ。いまそちらは手元にないので比べられないが、田内訳は一層読みやすい感じがする。

『フランケンシュタイン』は20世紀から21世紀になるにつれて、益々古典としての評価が高まりつつある作品だと思う。近代科学の限界と恐ろしさを描いた作品として、原発、原爆、遺伝子操作、AIなどの開発とそのもたらす危険について、あらためて考えさせられる。知られていない原理を発見したい、新しいものを他人に先駆けて発明したい、という科学者の素朴な情熱に発した研究がどれほど恐ろしい怪物を作る可能性があるか、現代の科学者にも熟読して欲しい名作。また大学や学会に集まる学者の俗な功名心の醜さ、そうした人々の盲目の競争がもたらすものの恐ろしさにも、シェリーは目配りしている。日本の大学でも、クレンペ教授のような人のなんと多いことか。

『フランケンシュタイン』を読んだことのない人にとっては、科学者の主人公と彼の生んだ名前も持たない怪物を混同することが多いのはよく言われていることだ。しかし、これはシェリーの意図したことでもあるような気がした。怪物とフランケンシュタインは、ある意味、同一人物の分身同士、ドイツ発の用語で言うと「ドッペルゲンガー」、とも言える。博士は、自分自身の写し絵として、醜い怪物を凝視し、それを追い続けているとも言えるだろう。田内さんは後書きで親子みたいなものと解説されているが、その表現も正しい。親が子供を見て、自分の醜い習癖などを子供がそのまま受け継いでいてぞっとする瞬間があると思うが、そういう関係を感じさせる。他のイギリス古典小説で類似の例を探せば、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』があるし、田内さんが訳された『ジキル博士とハイド氏』もそうだ。

そうしてみると、「怪物」は博士の内なる邪悪に血肉を付与した寓意的人物とも言えるだろう。こういう人間の内面を、いわば擬人化した「邪悪」、あるいは「善」で示すのは、西欧文学の伝統、特にイギリス文学において顕著で、最も原初的な例は中世道徳劇だろう。無垢な若者が、探究心や好奇心に駆られて研究に没頭し、やがて内なる欲望に負けて罪の果実を味わって転落の道を歩むーーこれは、創世記に始まる聖書の物語でもあり、キリスト教文学の定番を押さえた物語。そういう意味では、この作品は、長い伝統に基づいた作品である。ゲーテの『ファウスト』、マーローの『フォースタス博士』の主人公のように、フランケンシュタイン博士も、近現代の魔術・錬金術たる自然科学という悪魔に魂を売り渡し、神に取って代わって科学の最高の高みを目指すあまり、『失楽園』のサタンのように地獄の奈落に転落してしまったというわけだ。但し、カトリック時代の道徳劇や聖史劇と違い神の恩寵もなく、主人公が到達するのは死と絶望だけ。

他の2作品でもそうだが、研究者である私には、田内訳の注の付け方がやや気になる。括弧で文中につけてあるのだが、単なる括弧だと、最初は原作者の挿入句かどうか、分かりにくい。「原注」と書かれているところもあるが、元の刊本の編者による注か、シェリー自身の注か(多分後者だろうけれど)はっきりしない。また、底本になっている刊本も記されていない。古い作品であるほどそうだが、学問の世界では、どの刊本をベースにして翻訳するかは、非常に重要であり、一般読者を相手にしていても、その点は配慮する必要があると思う。まして、後書きにあるように、シェリー自身により複数回改訂が加えられた作品なら、尚更そうだろう。読者の中には色々な人がおり、英文科の学生・大学院生も、また少数だが専門家もいるし、マニアックな英文学愛好者もいるだろうから、そうした人々にも一定の配慮は必要だろうと思う。ないものねだりの無用な批判を避けるためにも、底本とした刊本と、注の付け方も含め、翻訳のポリシーが簡潔に書かれているとありがたい。田内さんが、また古典的小説の翻訳を試みられることを期待したい。

2017/08/23

ブラム・ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』田内志文訳(角川文庫 2014)

標記の翻訳書を読んだ。翻訳者は、プロの翻訳家で、私の知人の田内志文氏。

ゴシック小説の古典の一つであり、19世紀英文学を論ずる上で欠かせない作品だろうと思うが、英米文学研究者でも専門外だと読んでない人も多いと思う。映画などの二次的作品ばかり有名になった名作だ。私も、英語原作ではないが、田内氏が訳されたので、今回初めて読んだ。実際に読んでみると、たたみかける文体で一気に読ませる力を持っていて、時代を超えて読み継がれる魅力を確認できた。ヨーロッパ文化の境界で起こった異文化接触を扱った作品として見ると、当時のイギリス人の世界観などが伺え、大変興味深かった。日記や手紙、録音記録、電報、そして契約書のようなビジネス文書などの多様な形式のテキストとそれらのテキストの作り手である複数の語り手の視点を組みあせてフィクションを作る作家の手腕にも驚かされる。

私のように、名前だけ知っていて今まで原作は読んでなかった方には是非一読して欲しい作品だ。読みやすい新訳で、訳語がこなれており、学者の翻訳にしばしばありがちな堅さや不器用さがなく、プロの翻訳家が批判を恐れず訳した意味は十分あったと思う。1000円以下で購入できるし、一般読者がこの古典に触れるのには良い訳だろう。

アマゾンのレビューで2,3の評者が指摘しているように、訳注の少なさ、訳語の不統一など、いくつか問題点はあると思う。こうした一般向けの文庫では多数の訳注で読書の流れを阻害するのは良くないだろうが、私も、もう少し固有名詞やキリスト教用語などに注が欲しい気がした。翻訳者の田内氏はプロの翻訳者で、英文学研究者ではないので、水声社版の丹治、新妻訳と専門内容で比べるのはあまりに気の毒(どちらも日本でのイギリス近代小説研究を代表する著名な学者、丹治先生は元日本英文学会会長)。強いて言えば、KADOKAWAくらいの会社ならば、古典の新訳については、専門家の監修者・解説者をつけて、研究面でプロの翻訳家では足りない細かい点を補うなどの配慮が欲しいと思った。

2017/08/20

NHK ETV特集「原爆と沈黙〜長崎浦上の受難〜」

録画しておいたETV特集「原爆と沈黙〜長崎浦上の受難〜」を見た。

長崎の浦上にはカトリック教徒のコミュニティーと被差別部落があった。彼らは長崎市民でありながら、原爆被害者として、そして部落の出身者は更に被差別部落民として二重の差別を受け、沈黙を強いられ、浦上を離れていった。原爆で家族を殺され、後遺症に苦しんだ者同士でありながら、他の市民は部落の人々を差別した。更に、散り散りになった人たちは、移住した先でまた原爆被害者として差別に合う。また、浦上のキリスト教徒と被差別部落は、江戸時代において、権力に利用されて対立を迫られた。幕末には被差別部落民の協力によって多数の隠れキリシタンが弾圧されるという事件もあった。元々あった差別や敵愾心が、原爆によって固定化された面もあったのかもしれない。原爆の恐ろしさが、広島の人々によってより強く伝えられ、原爆ドームが原爆の恐ろしさのシンボルになった陰に、長崎の多くの被爆者の長い間の沈黙があったのかもしれず、それには歴史的背景があったのだろう。

NHK BS1スペシャル「幻の原爆ドーム ナガサキ 戦後13年目の選択」

お盆前後の時期、実家に帰省したり、海外にいたりで、自宅でじっくり戦争に関するテレビ番組を見ることが少なかったが、今年は色々見ている。録画しておいたNHK BS1 のドキュメンタリー「幻の原爆ドーム ナガサキ 戦後13年目の選択」で、浦上天主堂廃墟の破壊について見た。

当時の市長とカトリック教会長崎大司教が、多くの市民や議会の反対を押し切って破壊を決断したこと以外、はっきりしたことは分からないという結論。番組は、遺族や教会関係者などの証言を中心に、過去の痕跡を消して復興を進めようとした二人に同情的な終わり方となっている。

西洋文明の象徴であるカテドラルを、これまた西洋文明が生んだ究極の凶器、原爆が破壊したのであるから、この廃墟が残っていたら、広島の原爆ドームを超える痛みを与えるシンボルとなっただろう。それ故にまた、もう見たくないという人も多かっただろうと推測する。東北大震災の震災遺構にも似た事情は色々とあっただろう。しかし、今となってみれば、破壊されたのは、歴史の教訓の継承にとっては大きな損失と思えた。

2017/08/19

ピーター・ミルワード先生、ご逝去

上智大学名誉教授で、シェイクスピアの研究者、ピーター・ミルワード先生が8月16日に亡くなられた

今50〜70歳代の英文科出身者ならほぼ皆ミルワード先生の教科書や啓蒙書にお世話になっているだろう。戦後日本の英語・英文学の教育と研究に計り知れない影響を与えた方。イエズス会神父だからその文学観は極めてキリスト教的。その点で、文学作品の解釈では相いれない方も、英語英文学やキリスト教文化の基礎を学ぶ上で、ミルワード先生に教わったことは大きいと思う。同僚であった安西徹雄先生や多くの教え子を通じ、研究だけではなく、直接間接に日本のシェイクスピアの上演にも影響を与えたと思う。あれ以上はないほどの温厚な人柄で、誰からも愛され、尊敬された。いつも暖かい笑いを浮かべられ、下手なところが可笑しいユーモアで聞く人を笑わせた。世俗の方ではないが、古き良き時代の「イングリッシュ・ジェントルマン」の理想を体現されていた先生。埃の付いた眼鏡をくしゃくしゃのハンカチで拭く姿が印象的。私は個人的にも大変お世話になり、深く感謝している。

安らかに眠ってください。