2011/10/09

典礼劇の観衆についての推論

先日書いた記事の続きとして、典礼劇の観衆についてもメモ程度のことを書いておきたい。Caminさん(片山幹生さん)のブログ、「中世フランス演劇史のまとめ」に書かせていただいたコメントを修正したり、書き加えたりした部分が多いことをお断りしておく。

基本的に典礼劇の多くは儀式の形を保っており、実際、復活祭に行われる「聖墓訪問の劇」(Visitatio Sepulcri, Quem Quaeritis plays)は当日の一連のお務めの一端として行われたと思われる。従って、典礼劇の主体は、演技をする人々(あるいは儀式を執り行う人々)も、見ている人々も、教会(修道院)の聖職者、及び使用人等の教会関係者であり、広く平信徒に見せるのが主眼ではないだろう。Caminさんは、典礼劇は基本的に聖職者が聖職者のために執り行ったと考えておられるようだ。これは、あくまでどこを強調するか、という問題だが、私は、観衆としての一般信徒の重要性をもっと考慮して良いと思う。そこで、私は、次のようなコメントをCaminさんのブログにつけた:

教会や修道院にはたくさんの下働きの人達がいました。教会学校もあり、かならずしも聖職者にはならない少年達も出入りしていたと思います。修道院は宿泊施設として貴族などにも使われたでしょう。更に10世紀くらいまでは、少なくともイングランドでは、教区教会そのものが大変少なく、教区も整備されていなかったと思われるようなので、各地の修道院(ミンスター)が地域の宗教の拠点であり、平信徒を指導したと考えられるようです。アイルランドなどのケルト教会ではその傾向は一層強かったようです。また、多くの修道院は大貴族などの寄進による設立で、貴族の私設教会的な意味もあったと思うので、そういうパトロンに典礼劇を見せた可能性もあります。平信徒の入れない内陣で演じられたとしても、町や村の人達が隔壁の間からそれを鑑賞したということもあり得ないでしょうか。いずれにせよ、私にとっては、典礼劇の観衆を理解するためには、当時の修道院と地域社会の関係も勉強してみなければならないという気がしました。 

12世紀以降の『ダニエル劇』とか、アングロ・ノルマンの劇などの場合は、"Quem Quaeritis"劇とは異次元の作品で、昔、一読した印象では、その規模の大きさとか、近代語使用から、地域社会との結びつき無しとはとても思えませんでした。

以上のコメントの中でも、特に私は、中世のベネディクト会などの修道会、カテドラル・チャプター(聖堂参事会)の多くが、現代の私達が考えるような、世俗を捨てた人々の隔絶されたスペースばかりではなく、地域社会と一体化した、人的交流の多いスペースであったことを考慮する必要があると思っている。特に大修道院やカテドラルの身廊(nave)と建物のまわりの構内(precinct)は、ほとんど街角の一部と言える様相を呈しているところもあり、例えばカンタベリーとかセント・ポールの身廊は、平時は色々な用事や、観光も兼ねた巡礼やお参りで訪れる人でごった返していたことだろう。商談や待ち合わせに利用する人もいたのではないか。実際、身廊の中ではないにしても、セント・ポール前の階段は、弁護士がクライアントを捜す決まった場所としてチョーサーでも言及されているし、構内では行商をする人々もいただろう。そういう賑やかな場所であったから、教会周辺での売春婦の客引きに対する不満をどこかで読んだ覚えもある。教会前の広場では雄牛虐めなどの残虐な見せ物が行われることもあった*。更に修道会が世俗の芸人(ミンストレル)を娯楽のために招き入れて芸を披露させることさえある。そのような、世俗との色々なレベルの交流が盛んな多くの修道院やカテドラルにおける典礼劇は、教会に集まる平信徒への教化・啓蒙も目的の一部として上演された可能性が高いように思う。

一方で、修道会の中には、非常に規律が厳しく、閉鎖性の高い修道会もあり、そういうところでは、あくまで、仲間の修道士の間での神をたたえる儀式の一端としての典礼劇であり、世俗の人々は意識されていないだろう。

このように、典礼劇の観衆や、目的には、世俗の観客にも見せることを目的とした場合から、まったくそうでないものまで様々のスペクトラムがあったのではないか、というのが、私の今のところの主観的な感想である。修道会のあり方に大変なバラエティーがあったようであるから、典礼劇にも大きな差があったと思う。個別の典礼劇の上演を、そのテキストに加え、分かるものについては上演された修道院の記録を踏まえた上で検討し、そうした個別研究を総合して始めて、典礼劇の観衆についての像が結びそうである。

以上、ちゃんと勉強していないので、根拠に乏しい推測であるから鵜呑みにしないで欲しい。今後暇を見てもう少し調べることが出来たら、このトピックについてまた書きたいと思っている。

*カンタベリー大聖堂前の広場Butter-marketは、かってBullstakeと呼ばれていた。以前に書いたこのブログ・エントリーを参照

0 件のコメント:

コメントを投稿