2011/10/10

典礼劇の観衆:'The Fleury playbook'より

前のポストで書いたように、ラテン典礼劇、特に、「聖墓訪問の劇」(Visitatio Sepulchriとか、 Quem Quaeritis playsなどと呼ばれ、イースターに行われたとされる典礼劇)の観衆は一体誰であったのか、興味深い点である。聖職者(修道士など)だけか、他の教会関係者(例えば使用人とか、付属学校のの生徒)も含むか、あるいは広く周辺の町の一般の信徒も見ているのか、分かりにくい。先日、大学図書館に行った折、英語の劇について論文集を捜していると、Dumbar H. Ogdenという学者がこれについて書いている1994年の論文にたまたま出会った(末尾参照)。彼の論文の冒頭に書かれている事を念頭に置いて、David Bevington編のアンソロジー、"Medieval Drama"に収められている、"Fleury playbook"*の「聖墓訪問の劇」のひとつ、Ad Faciendam Similitudinem Dominici Sepulcriを点検した。劇の中で、観衆について興味深い箇所をメモしておく。

この「聖墓訪問の劇」ではキリストが死後、墓所から消えており、墓参りに来たマリア達が驚いて他の者に知らせ、そしてマリア達はその後、復活したキリストと再会する。そこで、庭師(hortulanus)の姿をしたキリストはマリア達に声をかけて言う。以下の引用はラテン語(カッコ内はBevington版についている英訳):

Noli me tangere, nondum enim ascendi ad Patrem meum, et Patrem vestrum, Deum meum, et Deum vestrum.
(Do not touch me, for I have not ascended to my Father, and to your Father, my God, and your God.)

Sic discedat hortulanus. Maria vero conversa ad populum dicat:
(Thus let the gardener [i.e., Christ] depart. But let Mary [Magdalen] say, turn towards the people.)

Congratulamini mihi omnes qui diligitis Dominum, quia quem quaerebam ap[p]aruit mihi, et dum flerem ad monumentum, vidi Dominum meum, alleluia.
(Congratulate me, all you who love the Lord, because he whom I sought has appeared to me, and weeping at the tomb, I saw my Lord, alleluia.)

上記引用文のイタリック部分はト書きであるが、ここで、マグダラのマリアは、'populum' (people)に向かって話しかけている、とある。

この後天使が墓の扉の所に現れてキリストの再生を告げ、「悲しい表情を捨ててこの事を他の者達に告げよ」、と言う(Vultum tristem iam mutate; / Jhesum vivum nunciate)。マリア達は墓から立ち去り、人々に話しかける:

Tunc mulieres discendentes a sepulcro dicant ad plebem:
(Then let the women departing from the sepulchre say to the people:)

Surrexit Dominus de sepulcro, qui pro nobis perpendit in ligno, alleluia.
(The Lord has risen from the sepulchre, who for us hung on the cross, alleluia.)

Hoc facto, espandano sindonem, dicentes ad plebem:
(This done, let them spread out the shroud, saying to the people:)

Cernite, vos socii, sunt corpolis ista beati
Lintea, quae vacuo jacuere relicta sepulcro.
(Behold you companions, here is the shroud of the blessed body
Which lay abandoned in the empty tomb.)

ここではマリア達が2度、'plebem < plebs'(people, plebeians, populace)に呼びかけている。この劇における'populum'や'plebem'は単に劇の役の上での「人々」であり、彼らが教会の外から劇を見にやって来た平信徒を表すとは断定できないと考えることも出来る。しかし、一方で、この劇が教会の外の人々にも開かれていたとしたら、マリアを演じる聖職者達が、劇中の場所と時間から一歩外に踏み出して、劇を見ている観衆である平信徒達に向けて、イエスの復活の喜ばしい知らせを告げていると考えれば、教育的な宗教劇としてこれほど効果的な場面はない。加えて、これはまさに復活祭の朝課(matins)の終わりに上演されているのである。聖職者達が、古代エルサレムにおけるキリストの復活を祝うパフォーマンス(あるいは儀式)に会衆を巻き込み、会衆がエルサレムの町の人々に重ねられることで、永久の神の真実が今この瞬間によみがえる。時と場所を越えて、教会という閉ざされたステージが、世界を象徴する瞬間とも言えよう。

今回のポストは、冒頭に書いているように、次の論文に多くを負うている。

Dunbar H. Ogden, 'The Visitatio Sepulchri: Public Enactment and Hidden Rite', The Early Drama, Art and Music Review, 16 (1994) pp. 95-102; reprinted in Clifford Davidson, ed., The Dramatic Tradition of the Middle Ages (New York: AMS Press, 2004), pp. 28-35.

この論文では、その他、イングランドと大陸の幾つかの典礼劇を検討し、教会・修道院の性格や建物の構造により、典礼劇の上演が平信徒の観衆に開かれたものもあれば、そうではなく、聖職者だけの閉ざされた上演もあったと、説得力を持って論じている。

テキストの引用文は、次のアンソロジーのpp. 43-44から取っている:

David Bevington, ed., Medieval Drama (Boston: Houghton Mifflin, 1975)

* 'The Fleury playbook'は、中世ラテン典礼劇を多く収めた重要な写本であるが、フランスの中央部、ロワレ県(Loiret)にあるベネディクト会修道院、St-Benoit-sur-Loire (Fleury Abbey)において書かれたと考えられている(但、Bevingtonによると、1552年以前に遡ってこのコネクションを証明する証拠はないようである)。この修道院は西ヨーロッパでも最も重要なベネディクト会修道院だそうである。このplaybookについては、Wikipedia仏語版に独立した解説がある


なお、Fleuryの修道院については、Wikipediaの英語版、または仏語版(英語版より詳しい)。

(追記)最初にこのポストを書いた時、「観客」という近代的な言葉を使っていたが、典礼劇の場合、あくまで「劇を見たり聞いたりした人々」の意味であり、「客」とは言えない。劇が儀式でもあるなら尚更であり、彼らは遠くから「のぞき見る者」、あるいは儀式に「参列した会衆」であろう。英語の'audience'なら構わないのだが。強いて言えば「観衆」か「聴衆」のほうが良さそうだ。ちなみに、教会周辺の村や町から来た平信徒の場合、劇はあまりよく見えなくても、作品によっては、彼らの入れない内陣や地下聖堂(cript)からもれ聞こえる修道士の歌声に耳をすませている「聴衆」も多かったかもしれない。現代の大劇場で、遠く離れた天井桟敷の安い席からオペラを聴くつつましい観客のように。おそらく儀式性の強い(しばしば初期の)典礼劇では、平信徒は、謂わば傍観者としてそれを見せて(あるいは、単に遠くから聞かせて)貰ったに過ぎないだろう。しかし、そうした信徒の興味に促され、聖職者達は、この儀式が信徒に神の神秘を教える役に立つことに気づいただろう。そこで、修道院によっては、典礼劇が平信徒の観衆を意識して、時には教育的な意図を持って書かれるに至ったのではなかろうか。

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