2011/05/28

Lyn Gardnerが書く「演技を批評する」ことの難しさ

5月15日のガーディアン紙オンライン版で、ベテラン演劇批評家のLyn Gardnerが新聞の劇評において演技を批評することの難しさを書いている。


彼女によると、最近ケント大学であった演劇批評についてのシンポジウムで論点としてあがったこととして、イギリスの劇評家は近年あまり俳優の演技に触れなくなったと言うことだ: ". . . one of the issues raised was why today's critics no longer write about acting, or at least not with any of the zest and descriptive power of their predecessors." かっての批評家はより詳しく記述的な(descriptive)劇評を書いたものだ、として、古くはSamuel ColeridgeのEdmund Keen評、そして、W A DarlingtonのRichard Briar評を引き合いに出している。しかし、現在の新聞は昔と比べてあまりに紙幅が限られていて、なかなか詳しい演技評価までは出来ないと言う。彼女の方針としては、特にスターがひどい演技をした場合などを除いては演技についてはネガティブな批評は書かないという方針だそうだ。というのは、(演出家と違い)俳優は劇評が出た後も毎日ステージに上がらなければならないから、とのこと。

更に紙幅の問題だけでなく、過去30年程度の間に、つまりOlivierやAshcroftの時代が終わって後、演劇公演の中心が、俳優から演出家や劇作家に移ったことも挙げている。更に、(イギリスにおいては)スター中心ではなく、アンサンブル中心の公演が増えたことなども一因と言う。

これに関して、私がこの前のポストの"Little Eyolf"の感想で触れたように、Imogen Stubbsの演技について、彼女とDaily TelegraphのCharles Spencerの意見が180度反対だったことにも触れている。GardnerはStubbsの演技が公演に非常に悪影響を及ぼしたと書く(". . . the performance impinges so badly on the production that it is impossible to ignore.") そしてその一方で、演技の評価では意見の一致が難しく、Stubbsの大げさな演技も、他の批評家は大喜びだった、とも認めている(" . . . there is also, perhaps, less consensus today about what constitutes good acting. My horror [and that of some others] at the excesses of Stubbs was matched only by the delight of the others, who raved about her performance" [ここで、Spencerの批評にリンクが貼られている])。

Gardnerは更に続ける。新しい作品の内容が変わり、劇場の大きさや設備等も変わっていく中で、俳優の演技の質もどんどん変わらざるを得ない。何を名演とするかも、大きく変わってきているだろう。

さて以下はこれを読んで私が感じたこと。一演劇愛好者でしかない私は、演技よりもまずは作品のテキストにこだわって欲しいのであるが、そのテキスト(特にシェイクスピアなどの古典的な作品)に真摯に取り組まず、それを書き換えたり、ぶち壊そうとやっきになっている演出家や俳優にだけは腹がたつ。但、Rupert Gooldのように、テキストを生かしつつ、あらゆる新奇な可能性を模索するのは、失敗しても大歓迎だ。また、テキストを神棚に上げたような台詞の言い方をする俳優は公演をひどく退屈にしてしまう。日本語翻訳でシェイクスピアを演じる俳優も、その豊かすぎる程の言葉を上手く発声しつつ、込められたイメージを十分に伝えるためには、翻訳テキストを良く消化し、相当に親しんでいる必要があり、ベテランでも俳優によりはっきりした差が出る。

俳優の鍛錬された技術や肉体が生きるのは、古典的な舞台である。能や歌舞伎はもちろんだが、古い詩文で書かれているシェイクスピアなどを、RSCのメイン・シアターやGlobeなどの大劇場や野外劇場で十分に声を響かせつつ演技するのは、かなりの技術が必要だろうと想像する。日本の古典では、俳優の「芸談」なるものが研究対象になるのもうなずける。

しかし、現代の日常生活を描いた新作などで、個々の俳優の演技を語るのは難しい。それぞれの役に、最も適当な俳優を捜してくるCasting Directorという仕事が、俳優の演技と並んで劇の成否を握っているような気もする。自分の経験の中から、その役柄やシーンにあった感情を捜してきて、役柄を理解しようというスタニスラフスキーの考えも、リアリズム以降の現代劇の演技を訓練することの難しさを物語っているように思える。

但、日本からやって来た演劇ファンとしてイギリス演劇界を見ると、こちらでは、地方劇場やフリンジでマイナーな役をやっている人も含め、ほとんどの俳優が一流のドラマ・スクール(大学院レベル)を出ており、日本でしばしば見られるような、人気のあるアイドルを突然舞台に上げて、台詞回しが明かにたどたどしいという例は問題外であり、演技の最低レベルが非常に高い。また、学部で英文学専攻の人が大変多く、テキストに批判的に取り組む知的訓練が出来ている人が多いだろう。また、政界や学界と同じ程度、オックスフォードやケンブリッジなどの一流大学卒が圧倒的に多いのもこの世界の特徴だ。ここ30年くらいのイギリス演劇が、政治的、社会的、心理的にシリアスな問題に取り組み続けることが可能なのも、スタッフを含めて、演劇を支える人々が、大学院レベルの文学・演劇教育を経ており、良くも悪しくも極めて知的になり*、「芸」や「腕」を競う芸能人から、知的技術者であり、作家、演出家と話し合いつつ公演を作るクリエイターになってきていることによるのではないかと思える。BBCの教養番組などに出てくる俳優が、文芸評論家や学者顔負けの議論を展開するのも、こちらではごく普通だ。色々なメディアで報道される公演準備の現場は、劇団や公演により様々と思うので一概には言えないとしても、日本では、誰々先生に「稽古」をつけてもらうように見える時があるが、イギリスではほとんどが俳優や演出家が共同で行う模索の場、コンスタントなディスカッションの場のようである。

いずれにせよ、「演技の批評」は大変難しく、批評家には同情する。しかし、劇評家は大変影響力の大きな、極めて大事な仕事だ。日本でもイギリスでも、大新聞の劇評家は数えるほどしかおらず、しかも何十年もその仕事を続けることが多い。彼らの批評で、観客の出足も大きく違ってくるし、ミュージカルなどの高価なプロダクションが大幅な損失をこうむり、結果的に早くクローズすることさえある。多くの演劇賞を選ぶのも彼らだ。その影響力に見合うコンスタントな努力をして欲しいものだ。

このブログで既に何度か書いているが、日本の新聞の劇評は批評になっておらず、紹介だけの場合がほとんどである。劇評と思わず、紹介と考えて読むしかない。やはり紙幅の問題もあるが、基本的には、内向きの村社会の日本では、演劇界の一部に身を置く批評家としては、公演をはっきり批判することは出来ないのだろう。

元のGardnerの記事はこちら

*イギリスの俳優や演劇は頭でっかちで面白くない、という声も日本の演劇人から聞くことがある。もっとも、戦前や戦後直ぐまでの日本の新劇人の多くはかなりの知識人だったし、その後の劇団も東大や早稲田の学生を中心に出来たグループもあるのは周知の通り。

(追記)私自身の演技に関する評価についてほとんど書いてないので付け足しておくと、はっきり言って私は演技を見る目が無い。上記のStubbsの演技を見ても、確かに不器用にも思えるが、そうひどくもない気もして、判断に自信が持てない。「彼/彼女は上手い、下手だ」と自信を持って評する人がいるが、感心する。ただ、そう言う人に、ではどこが上手いのか具体的に指摘して貰うと、明確な回答が返って来ないことが多い。つまりそれだけ演技を他の人にも分かる明確な言葉、概念で表すことの難しさ、演技を批評することが個人の趣味に流れやすいこと、を示している気がするがどうだろうか。

3 件のコメント:

  1. こんにちは。とても興味深く読みました。私事ですが、ロンドンで数年前に上演された日本からのある舞台(俳優はすべて日本人、台詞も日本語)について日本のメディアに書きました。それまでにもいくつか小さな記事は書いていたのですが、その劇評には始めて、批判というかロンドンでの反応を正直に書きました。その正直に書いた部分は、没になりました。とても落胆したのと同時に、日本向けの記事では「正直」なことは書いてはいけないことを学びました。以来、本音はブログに書くことにしました。

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  2. 守屋様、コメントありがとうございます。一時、何故かスパム・フォルダーに入って公開が遅れ、失礼しました。

    しかし、舞台批評が削られてしまったとはひどいですね。紙幅が足りないのなら仕方ないですが、新聞のself-censorshipとしたら残念です。基本的に、日本の新聞は、特に文化関係では、情報誌ですね。評価がほとんどありません。直接的な理由としては、新聞社が多くの文化事業に直接間接に関わっているという構造的な問題があります。それ自体は良いことですが、新聞の役割を狭めてしまっています。自社が主催や協賛している事業は批判できず、他の新聞社の事業の批判も遠慮しがちになると思います。他者の事業をけなさずとも、積極的に褒めたり、特集を組んだりすれば、敵に塩を売る、と見なされるかも知れません。

    また、日本と違い、SpencerやBillingtonなど、一流の批評家は概してディレクターのインタビューなどをしたりしないように思います。現場の人と一定の距離を置き、あまりchummyにならないようしているのではないでしょうか。かってのHytnerとBillingtonの喧嘩なんか、有名になりました。日本の批評家は反対で、業界のインサイダーに見えます。読者や観客から見ると、大新聞の批評家は、ステージの向こうの人に見えますね。

    また少なくとも劇評に関しては、日本では批評家の地位が確立しておらず、イギリス並みの尊敬も集めていません。何人か有名な人がいますが、彼らの批評を読むために主に新聞を購読したりする人が多いとは思えません。私がGuardianとObserverを買うのは主にMichael Billington, Lyn Gardner, Susanna Clappの3人の批評を読むためです。日本の演劇批評家(?)は自分の意見をはっきり書かないので、劇に詳しい人にしか過ぎません。読者にとっても、新聞にとっても他の人でも交替可能です。

    イギリスでは、仮にBillingtonが書いたものの為に会社から首になったりしたら、読者から大変な反発を食うでしょうね。また、1年以上前でしたか、Evening Standardの劇評家が引退し、新しい人が選ばれた時には、交替の前に、次は誰になるのだろうかと大変注目されました。Billington, Spencer, Gardner, Clapp等、皆はっきりした個性があり、読むのが楽しみです。

    あからさまな批判を避け、永続的な関係維持を図るのは、地理・言語・民族などで閉鎖的な島国の日本社会では仕方ないとは思います。私の専門分野を見ても、学問の世界一般を見ても、同様ですから、演劇批評ばかり批判は出来ません。英語圏の人々は、米豪加を始め、その他の国でも仕事が出来ますし、それがなくとも社会全体が流動性が高いです。日本では、社会の均質性、意思疎通の容易さ、類似した倫理観、等々により色々な分野で高いレベルを保つことが可能ですが、しかし、異種の知恵が剥き出しで競争することで生まれるような、本当に世界トップレベルのことは、日本では出来ませんね。いつも二流の中の一番、というところでしょうか。 Yoshi

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  3. 上記の私のコメントに捕捉です。ブログもイギリスの演劇関係のブログは凄い!そのまま批評家として飯が食える人がぞろぞろです。有名な"West End Wingers"なんて、大新聞に次ぐ演劇批評としての地位を確立しているように見えます。但、私は回りくどいおどけたスタイルが好きではありませんが。
    http://westendwhingers.wordpress.com/
    他では、例えば、次のサイトなんかなかなか良いです:
    http://oughttobeclowns.blogspot.com/
    こうしたイギリスの主な演劇ブログの凄いのは、好き嫌いではなく、劇を真っ向から論理的な文章で評価していることですね。批評家と全く変わりません。

    ただ、ブログの劇評を読んでいると、英語で読むにはかなり長くて、新聞の、短いけど的を得た批評は、紙幅が少なすぎるように見えて、実は読者にとって丁度良い長さなのだろうと思えます。

    それで、私の文章が長すぎることを反省するのですが・・・。でもここは守屋さんのようにしっかり読んでくださる方はほとんどいないと思うので、私の備忘録でメモ帳の役割が主ですから、許されるでしょう。Yoshi

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