2011/05/01

"Frankenstein" (2011.4.30, National Theatre)

怪物はFrankensteinの肖像
Mary Shelley原作、"Frankenstein"

National Theatre公演
観劇日:2011.4.30  14:00-16:00
劇場:Olivier, National Theatre

原作:Mary Shelley
演出:Danny Boyle
脚本:Nick Dear
セット:Mark Tildesley
照明:Bruno Poet
音響:Underworld & Ed Clarke
音楽、作曲:Underworld
衣装:Suttirat Anne Larlarb
Fight Director: Kate Waters

出演:
Benedict Cumberbatch (The Creature)
Jonny Lee Miller (Victor Frankenstein)
(上記の2役は、MillerとCumberbatchが日によって入れ替わる。)
Karl Johnson (De Lacey)
Lizzie Winkler (Agatha de Lacey, his daughter-in-law)
Daniel Millar (Felix de Lacey, his son)
George Harris (M. Frankenstein, Victor's father)
Mark Armstrong (Rab, a crofter)
John Stahl (Rab's uncle)
Andreea Padurariu (Female Creature)
Ella Smith (Clarice, a maid at the Frankensteins)
(Victor Frankensteinの婚約者のEizabeth Lavenza役の俳優は
プログラムではNaomie Harrisとあるが、今回は代役で、おそらく
Lizzie Winkler)

☆☆☆☆/ 5

いつもは30分前に開くOlivierのドアがなかなか開かず、多くの人がロビーで立って待っている。どうしたんだろう、といぶかっていると、開演予定時刻の10分ちょっと前に開場。劇場は既に音楽が鳴り響き、それが開演が近づくに連れて大音響となっていく。時々、鐘の音がカーン、カーンと鳴り響く。不吉な赤黒い照明が舞台全体を照らしている。円形の布とその布を縁取る枠のような、直径2メートル以上はある奇妙なオブジェ(幅の薄い太鼓みたいと言ったら良いだろうか)が舞台の中央にあり、回り舞台が動くにつれて、舞台上を大きくゆっくりと回転して動く。いよいよ開演という時間になると、音楽が巨大な鼓動の響きに変わる。そして突然オブジェの布が破れ、中からThe Creature、つまりFrankensteinの創造したモンスターが転がるように、丁度鳥か爬虫類が玉子の殻を破るようにして跳び出てくる。この一糸まとわぬ裸体のCreature (Benedict Cumberbatch) は生きるエネルギーに溢れてはいるが、最初は立つことも出来ず、平衡感覚もない。従って地面の上で痙攣するように苦しげにのたうち回るが、そのうち段々立ってぎくしゃくとながら歩くことを覚える。その間、10-13分くらい、地面の上を這いずり、倒れ、起き上がる。もの凄いフィジカルな演技に圧倒され、観客は一気にこの劇の世界に引き込まれる。普通の人間なら、手足の指の骨を折ったり、肉離れを起こしたりするだろう。きっと生傷も絶えないに違いない。今回はCumberbatchだったが、Millerも含め、2人の俳優の熱演に感謝する。

その後すぐに、Creatureを造ったFrankensteinが登場するが、自分が生んだ生き物を見て怯えたように逃げ去っていく。機関車のような機械が人々を乗せて大音響と共にレールの上を走ってステージに現れ、産業革命の時代であることを観客に知らせる。女が彼の姿を見て恐怖の叫びを上げ、逃げていく。彼は男達から殴られ、町から追い出される。彼は自分が醜悪な怪物であると思い知らされる。

この後、Creatureは寒村に住むDe Laceyの貧しい家に近づく。主人のDe Laceyは目が見えず、息子とその妻の世話を受けている。若い2人が居ない間に、Creatureは目の見えないDe Laceyに近づき、Creatureの醜い姿が見えず偏見のないDe Laceyは彼を親切に受け入れる。その後、息子夫婦が居ない時に彼を家に招き入れて、言葉や様々の知識を教える。しかし、ある日息子と嫁がCreatureを目撃し、Creatureは息子Felix de Laceyにしたたか打ち据えられて逃げ出す。彼は他人を憎むことを覚え、この家に火を放つ。

CreatureはVictor Frankensteinをついに探し出し、彼に自分のために女の伴侶を創造してくれと頼む。そうすれば、彼はその女を連れて、南米の未開の地(つまり、現代のエデンの園)に移り住み、二度と帰ってこないと言う。Frankensteinは、スコットランドの僻地に渡り、死体を使って、彼の為に美しい女のCreatureを創造し、魂を入れる前にその姿をCreatureに見せてやる。Creatureはそれを見て歓喜するが、Frankensteinはこの美しい創造物を自分の手でずたずたに引き裂いて殺してしまう。そこにVictor Frankensteinの父親らが現れるので、Creatureは去るが、復讐をすると約束する。スイス、ジュネーブの自宅に帰ったFrankensteinは許嫁と結婚式を挙げる。祝宴が終わった後、初夜のベッドの側で新郎を待つ花嫁Elizabeth。しかし復讐の念に取り憑かれたCreatureが忍び寄り、破局が訪れる(人々の幸福に嫉妬するベーオウルフを思いだしたシーン)。

最後の場面では、極地と見られる氷と雪の中を主人然としたCreatureと、Frankensteinが進んでいる。CreatureはVictorを駆り立てるが、Victorは力尽きて、氷の上に倒れる。(Mary Shelleyが小説を執筆し始めたのは1816年で、出版は18年。同じ1818年に英国海軍は、最初の北極探検隊を派遣しているが、この計画、あるいは北極への社会の関心が何かMary Shelleyにヒントを与えたのだろうか?)

Creatureは19世紀の科学が生んだ、その時代のアダム。科学の力で生み出された時は、無垢の心を持っているが、田園でも都会でも人間社会に鬼っ子として排除され、また産み落とした親であるVictorに名前もつけてもらえずに、怪物扱いされて捨てられる。盲目のDe Lacey老人、そして、連れ合いとなるはずだった女のCreatureを通じて、人を信ずることや愛する気持ちを覚えるが、それを他の人間、特にVictorから無惨に踏みにじられ、憎悪の塊と化する。裸で、立つことさえ出来ない最初の姿から、全編を通じてCreatureの満たされることなき愛の渇望と絶対的な孤独をCumberbatchが全身で表現する。様々なことを感じ考えさせる劇だが、この絶望的な孤独が、他の何ものよりも強い印象を残した。

Creatureがミルトンの"Paradise Lost"を引用する場面が2,3カ所ある。彼はアダムであると共に、サタンとも言えるだろう。いや、もともとアダムとサタンは神の被造物として、アベルとカインのような表裏の関係にある。悪魔は人間が受けた神の愛に嫉妬して、地上の人間を誘惑し堕落させようと試みる。人間を造るという、神だけに許された技をなそうとしたFrankenstein自身が、謂わば、神の座に座ろうと企てたサタンに類似している。その、神になり損ねた無知で残酷な科学者に造られたCreatureは、サタンやアダムよりも一層不幸であった。その彼が、親であるFrankenstein自身よりも愛を感じる心を備えるようになって、親たるFrankensteinに愛とは何かを教えるまでになったのが大変な皮肉である。(親は子に教えられる。しばしば、児童虐待や養育放棄の事件で、子供が自分を苦しめてきた親を弁護するのを思い出す。)人間が自らの存在を確かめうるのは、我々が周囲の人々から与えられる愛、そして我々自身が与える愛であるとCreatureは示しているようだ。もし愛がなければ、その空隙を埋めるのは絶望と憎悪。

科学の進歩を、その負の可能性や、倫理的な判断を行わずに、知的探求心(あるいは、経済的利益)だけで追い求めるとどうなるか・・・。現代人に常に突きつけられた問題であり、そう考えると"Frankenstein"は大変今日的な文学作品にして演劇だ。勿論、今、日本人が見れば、Creatureを原子力に置き換えて見ざるを得ない。知能こそ持ってはいないが、一旦暴走し始めると造った者にも制御できない原子力発電所は、まるで巨大な怪物ではないか。自分の造ってしまった怪物の憎悪に恐れおののくFrankensteinが、申し訳ないが、事故を起こした原発の暴走を止められない科学者に見えた。科学者だけでなく、科学の恩恵にあずかる国民や企業にも突きつけられた大問題を、既に1816年頃、十代終わりでこの小説を執筆したMary Shelleyは予見しているかに見えた。

人間世界からつかず離れず、孤独に生きる半人半獣の怪物は、西欧文化文学の伝統に根づいているようだ。ベーオウルフやグリーン・ナイト、マリ・ド・フランスの狼男("Bisclavret")がそうであるし、H. G. Wellsの『透明人間』("The Invisible Man")。現代では、『ブレード・ランナー』のアンドロイドやケン・ラッセルの映画、"Altered States"、そして内面の獣を描いた傑作、『エイリアン』などもある。このCreatureもそうしたモンスターの一種であり、近年時々目にとまる怪物研究の視点から専門家に色々分析されていることだろう。これらの怪物が独特の悲しみをたたえているところや、宗教的なニュアンスに溢れるところが面白い。更に、彼らが人間世界の写し絵であり、CreatureがFrankensteinの分身だとすると、ラッセルの映画もそうであるが、スティーブンソンやE T A ホフマンなどが作品に取り入れたドッペルゲンガー伝説とも関連して論じられるかもしれない。

人間が踏み入ってはならない神の領域にFrankensteinが手を出してしまった、謂わば悪魔と契約を結んだとも言える行為は、ゲーテやマーローのファウストを思い出させもする。19世紀キリスト教世界におけるコペルニクス的価値観の転換はダーウィンの『種の起源』(1859)によりもたらされたのだろうが、この原作は、その前夜、神と命の創造に関する価値観が大きく動揺しつつあった時代に書かれている。プログラムの解説によると、Mary Shelleyは科学論文も熱心に読んでいたようである。21世紀の今、生命科学、遺伝子操作、人工知能等々の分野の発達により、この作品の描く問題は、一層身近になりつつある。

もうひとつの視点としては、この劇でCreatureが人々から嘲り追われて行く様子には、身体や精神の障害、特殊な病気(例えばハンセン病など)を、神の烙印として忌み嫌い、社会から排除してきた西欧社会の一面もうかがえる。そう言う点にも宗教性がうかがえるし、少数者、障害者などをどう処するかは、それぞれの社会や宗教自らの鏡でもあると言うことだろう。勿論、日本にも言えること。

巨大な扇形をしたOlivierは、いつもどこか宇宙的な印象を私に与えるが、今回は特にそうだ。人間の創造、無垢の喪失、そして堕罪と殺人・・・これは旧約聖書の創世記の流れであり、中世聖史劇(Mystery Plays)の重要な題材でもある。実際、私は直ぐにKatie MitchellがRoyal Shakespeare Companyで演出した"The Mysteries" (1977-78, The Other Place & The Pit)を思い出したし、昨年夏にヨークで見た街頭の聖史劇も連想した。但、聖史劇ではアダムが静かに姿を成してくるのに対し、Frankensteinの造ったCreatureは、許されない危険な人体実験によって、苦しみ、のたうち回りつつ誕生する。それでも、このCreatureは無垢の心で地上に歩み出すが、白いキャンパスはたちまち偏見と憎悪を塗り込められる。まずVictor Frankensteinの冷酷さを、そして次々とその他の人々の嫌悪を焼き付けられる。丁度、汚れていくドリアン・グレイの肖像だ。あるいは、様々の悪徳の寓意(Vices)に翻弄されるEverymanそのもの。Everymanは最後には美徳の寓意(Virtures)によって助けられ、改悛し、静かに神のもとへと旅立つが、このCreatureは助けてくれる友も愛してくれる伴侶もおらず、それどころか、その伴侶を作ってもらったと思ったらVictorに惨殺される。そして、彼が憎んでも憎み足りない親であるFrankensteinを伴って、極地へと自殺の旅に出る(北は、中世の世界観では悪魔の支配する地獄の方角であり、中世道徳劇『堅忍の城』では、そのように劇場が造られる)。つまり親子心中、地獄への道行きだ。

主役の2人の演技力、そしてそういう演技をさせる事を考えたDanny Boyleの想像力に驚いた。また、台詞の随所に『失楽園』を使ったことも効果的。Boyleは映画監督で有名だが、台詞にたより過ぎず、大きな劇場をいっぱいに活用し、セット、照明、音楽を効果的に利用して、豊かなイメージを繰り広げてくれた。特に、Creatureが生まれる冒頭のシーンは圧巻。National Theatreでは珍しく、観客のほとんどがスタンディング・オベーション。

個人的には、この劇を見終わった後、すっきりとしたカタルシスを感じずに帰宅した。というのは、あまりにも主人公の孤独と絶望の深さに胸打たれ、重苦しい気分になってしまったから。涙を流したいような悲しさを与える劇には時々出会うが、この上演はそれとは違った、もっと息苦しくなるような悲しみを感じさせた。

(追記)今日のブログを書くのに、もの凄く時間を使ってしまい、反省、反省。あなたのブログは長すぎて最後まで読めない、と言われることもあるのにねえ。しかも反響はほとんどゼロ。それにしても、この劇、面白い。原作が凄いんだろう。しかし私は読んでいない。近代文学を専攻してないので、19世紀もディケンズとかブロンテは一応かなり学生時代に読んだが、メアリー・シェリーは読んでない。劇を見て、色々と今日的問題に関連したテーマを見いだせる作品で、驚く。研究も最近のほうが多くなっているようであり、私の親しいS先生も論文執筆や研究発表などされているので、次に会った時にはメアリー・シェリーについてお話しをうかがってみたいものだ。メアリー・シェリーの父親は、政治哲学者William Godwin、 母親は大変著名なフェミニストのMary Wollstonecraft。片田舎で純粋培養されて才能が花開いたブロンテ姉妹とは違い、彼女の夫と共に、一家でまさに時代の先端を走っていた知識人なわけだ。私は以前に"Her Naked Skin"という20世紀初めのフェミニスト達の活動や生活を取り上げた劇をNational Theatreで見ていて、かなり面白かった記憶がある(演出Howard Davis、脚本Rebecca Lenkiewicz)。時代はWollstonecraftやMary Shelleyよりはずっと後だが、先人による女性参政権の活動は、洋の東西を問わず現代の我々がもう一度振り返って学ぶ必要のあるテーマだろう。

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