博士論文提出への長い道のり:(3)再出発から論文の完成へ
さて前回のブログでは2014年の夏頃に始まったスランプのことまで書きました。今回は、その後、スランプを抜け出して論文完成に至るまでを思い出してみます。
論文の方向が見いだせないまま2014年も終わり、2015年も同じ状況のまま数ヶ月が過ぎていきました。ケント大学ではPh.Dの学生は、フルタイムの学生なら毎月、パートタイム学生であれば2ヶ月に1回、先生と直接会うか、あるいはメールやスカイプなどで連絡を取り、研究の進行状況を報告し、指導を受けなければならないと決められています。そしてどのようなやり取りがあったかを大学に報告することにもなっています。これは、私の様にスランプに陥った学生が指導教授との連絡を絶ち、結果的に退学してしまうという状況を防ぐ為だろうと思います。あまり捗ってないときは報告することもなく、面倒でもあるのですが、でも退学を防ぐには良い制度です。当時私はパートタイム学生にして貰っていたので、一月おきにG先生に勉強の報告をしていましたが、この頃先生へ送ったメールを読むと、先生に報告することもなく、進むべき方向を見つけられずに毎日鬱々としていたことが分かります。こうした暗中模索が半年以上続きました。しかし、2015年の初夏には論文全体を組み立て直すための理論的な流れを見出し、イントロダクションのアウトラインを書くことが出来ました。6月に先生に送ったメールを読むと、長い暗闇のトンネルから抜け出しつつあると感じていたようです。
2015年10月のG先生宛のメールを読むと、暑い夏の間に大変苦労してイントロダクションを書き終えただけでなく、その内容には結構面白い点もある、即ちその後に来る本文の内容に関しても楽観できると感じていたことが分かります。それからは私の論文執筆はゆっくりですが着実な前進を始めました。既に書いていた1〜3章を、ほぼ同じ素材やアイデアを使いつつ、構成を変え、新しく書き直しました。イントロダクションで展開した方針に従って、各章が、バラバラの印象を与えず、何とかひとつの結論へと収斂していくようにと、章のあちこちに論文全体のテーマに沿ったコメントをくさびを打つように書き込んでいきました。そうして常に全体のテーマを意識しつつ書いて行くと、各章の初校を書いた数年前には思いつかなかった新しいアイデアが浮かぶこともあり、特に1章と2章は大変改善されたと自分でも感じました。更に、もう削除するか、せいぜい付録(appendix)として残す他ないと思っていた3章も、全体のテーマのもとに組み立て直して、本文に組み込むことが出来ました。こうした全体的な書き直しに2016年いっぱいかかり、2016年の暮れから17年の年頭にかけてはようやく結論を書く作業をしました。
私は現役の教授であるセカンド・スーパーバイザーのB先生の努力で、色々な制度を使って2017年3月末まで学籍を延長していただいていました。その延長期限がどんどん迫ってきたので、2016年の秋には論文の修正をしたり結論のアウトラインを考えつつ、論文全体の英語を直してくれるプルーフリーダーを探し始めました。20ページ程度の雑誌論文であれば、旧勤務校の同僚など知り合いの英米人の先生方に何人かあたって英語を直して貰えるか問い合わせたでしょうし、現役の専任教員の頃はそうしていました。しかし、私の博士論文は最終的に8万5千語程度、246ページになりました。博士論文としてはけして長い方ではありませんが、これを現役の忙しい先生に熟読して直していただくのは無理です。仮にやろうと言ってくださっても、申し訳なくてとてもお願いできません。企業や科研費などの公費がふんだんにある大学教授なら、日本で営業しているよく知られた幾つかの校正業者に発注することも出来ますが、高額で何十万円かかるかわかりません。ある業者のウェッブ上の自動見積もりでは、時間をゆっくりかけて貰う最低価格でも38万円でした。ウェッブで校正業者を検索すると、イギリスや北米の業者も色々とあり値段はかなり安いところもありますが、信頼出来ません。M.PhilからPh.Dへのアップグレードのための論文はそうした業者に発注したのですが、出来上がったドラフトにはまだ間違いが沢山残っていたようで、G先生は、あまり良くない、と言っておられました。そこで、今回は業者ではなく顔の見える人に頼もうと思い、人づてに探し始めました。私の旧勤務校の大学院を修了し、イギリスのリーズ大学でPh.Dを取られたWさんが、二人ほど友人を教えて下さり、ひとりはお忙しくて無理だったのですが、もうひとりの方に落ち着きました。日本の国立大学で長年英語の先生をなさり、数年前に定年退職されて今は自宅でこうした英文校正のお仕事をされているアメリカ人のH先生です。ご自分も博士号をお持ちです。論文の書式はアメリカとイギリスでは大分違いますし、もちろん、綴りが違う単語もかなりありますが、そうした点は自分自身で気を配ることにして、この先生に英語を直していただく事にしました。2017年3月末の提出を目ざし、論文全体の完成を待たずに、出来た章からH先生に送って、沢山の間違いを指摘していただきました。
2017年3月末には何とかして論文を提出したいと思っていたので、H先生のコメントに沿って英語の間違いを直したり、全体の書式の修正や引用文のチェックなどをしつつ、大学の事務局にPh.D論文の提出の予告をしました。Ph.D論文は学生が用意が出来たと思っても勝手に提出できず、ケント大学の規定では3ヶ月前に提出の予告をすることになっています。提出の予告があると、私の所属していたセンターの場合、スーパーバイザー2人に加え、センター長の提出許可が必要です。書式や英語の修正は残っていましたが、ふたりのスーパーバイザーからは提出許可を貰っていましたので、後はセンター長ですが、建前としては、スーパーバイザーとセンター長と私の4人が直接会ってミーティングを開くことになっていました。しかし、私が日本にいてそれは出来ないので、スーパーバイザーの提出許可が出ていることを前提として、センター長とはスカイプで面接をすることになりました。その頃丁度学期末で、センター長が多忙でなかなか連絡がつかず、結局3月末が過ぎ、4月に入ってしまいましたが、スカイプで15分ほどの簡単な質疑応答がありました。センター長は、ふたりの専門家が提出を許可しているので、このインタビューは形式だけです、とおっしゃいました。始めてお話しした方でしたが、和やかにおしゃべりしただけで済みました。
そういう手続きを済ませ、何度も原稿をチェックして、やっと論文が完成。4月上旬に業者に論文の製本をしてもらい、大学の事務局に2部を、更にメールでPDFファイルを送りました。その後の口頭試問や学位授与式については既に先日のブログで書いたとおりです。こうしてふり返ると、最後の半年くらいは、日頃の私らしくない急ぎぶりで作業を進めましたた。3月中という目標からは少し遅れましたが大学からおとがめはなく、ぎりぎりゴールに走り込めたのは幸運でした。まだまだこの後、口頭試問、そして最終評価という関門が残っていたので完全に安心はできないのですが、とにかく提出できたときには大きな安堵感で一杯になりました。この時にはまだ関西のM先生とは連絡が続いており、早速報告の手紙を出し、お返事でお祝いの言葉をいただきました。但、そのお手紙の字が弱々しく、「今年いっぱいの命かも知れない」と書かれているのを見て大変悲しくなりました。
さて、今回まで6回連続で、順序は一部逆になりましたがPh.D課程を始めてから学位授与式までの道程をふり返ってみました。やたら長いし、最初は反面教師としてでも役に立つかもと思ったけれど、劣等生で年配学生の個人的な回想なので、レベルが低すぎて若い優秀な院生さんの役には立ちそうもありません。しかし、私自身にとっては退職後これまでの10年をふり返る良い機会となりましたし、これからも時々読み返して昔を懐かしむことになりそうです。悪文にもへこたれずに通して読んでくださった方がおられましたら、ありがとうございます。
Yoshiさんへ、
返信削除今ずっとさかのぼって、論文完成から提出、口頭試問、学位授与式までの一連のブログ記事を熟読させていただきました。ながいことYoshiさんのブログやミクシーなどから離れていて、ご無沙汰続きで申しわけなく思いつつ、長年の御苦労とそれを回顧される真摯なYoshiさんの、いつもと変わらないひたむきなご様子に、こころより敬意と祝福の念をおぼえました。特に2014年の難局を、全体を貫く理論的な枠組みを見出されたことによって切り抜けられたことは、さすがYoshiさんのご努力と信念の結実だと、感銘を受けました。本当によかったですね。おめでとうございます。
ミチさん、暖かい言葉をたまわり、ありがとうございます。使った時間と費用を考えると、嬉しいのと一抹の後悔とが混じった気持ちですが、家族とか友人知人が喜んでくれて、やっぱり良かったのかな、と思っております。また、口頭試問等の前は、既に書いたように、ミチさんのブログに随分と助けられました。
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