博士論文提出への長い道のり:(2)出発してから道に迷うまで
今回は、前回に続き、Ph.D論文の試行錯誤の道のりについてです。特に2014年に方向を見失い、スランプに陥った頃までをふり返ることにします。
私の博士論文の萌芽は2001年度に勤務先の研修制度を利用してケント大学、中世・近代初期研究センター(当時は、中世・チューダー朝研究センター、と呼ばれていました)に1年間留学した時に始まります。日本の学年暦に沿っての留学でしたが、世界的にもよく知られたチョーサー研究の権威で後に私のセカンド・スーパーバイザーをしてくださるB先生のご努力で、MA課程に入学し、修士号を取ることが出来ました。日本の大学院でも修士を修了していたので2つ目の修士号です。普通の学生とは逆の順序で、まず修士論文を書き、次にコースワークをしました。その時、中世イングランドの道徳劇や聖史劇には法律や裁判、法律家などに関する題材や用語が大変豊富であることに気づき、コースワークの一環としてレポートにまとめ、更に帰国後、それを修正して学会誌に投稿、編集者の指示に従って書き直した上で珍しく採用されました。そこで、このテーマで今後研究できるのではないか、と思いました。博士課程に留学することにした時には、入学願書に「中世劇とチューダー・インタールードにおける法と法曹」(Law and Legal Professionals in Medieval English Drama and Tudor Interludes)をPh.D論文のテーマとして研究したい、と書きました。
指導教授は、MA時代同様 G先生になることは決まっていたので、カンタベリーのアパートに入り、日常生活が一応落ち着くと直ぐに彼の指導を受けつつ勉強に取りかかりました。前回までに書いたように、イギリスのPh.DではまずM.Phil課程に登録し、1年前後にある程度の長さの論文を提出して、認められればPh.D課程に変更(アップグレード)するのが一般的です。ケント大学でも1年弱を目処に1万語程度の論文を提出することになっていました。私はG先生と相談し、先生ご自身もかなり詳しくご存じの16世紀のチューダー・インタールードをまず扱うことにして、その時代の劇における法的なモチーフについてまとめて、2009年の初夏に提出しました。審査はG先生と、もう一人はセンター長代理だった法制史の学者、B先生(先程のB先生とは別人)でした。B先生は法制史の専門家ですから、幾らか緊張しましたが、スーパーバイザーのG先生が提出して良いと言われたわけすから、提出できた時点でほぼ安心です。ということで1年弱かかって、Ph.Dにアップグレードできました。その後もこの論文を加筆修正して、1万5千語弱になり、私の博士論文の最終章とすることにしました。しかし最終的なPh.D論文は10万語、少なくとも8万語以上は必要なわけで、長さは気にすることはない、と言われても、先は長いなあ、と溜め息が出ました。単純計算で行くとそれまでの1年で書いた分量の6倍位は書かねばならないわけです。しかもまだ長い旅が始まったばかりで、これから色々な困難があるだろうとは予想できました。
そういうわけで、その後は、まずは論文内容の良し悪しにこだわらず、書けるところから始め、手持ちのアイデアや材料で書けることは全て書いて行き、後で修正しよう、と思いました。ある程度の量を書いて、出来るだけ早く論文完成の目処をつけたいと思ったのです。イギリスに住み、高い授業料を払い続けることの金銭的な問題ももちろんありましたし、その他、研究や金銭問題以外にも、私の年齢になると誰しも抱えている心配事もいくつかありました。
そうして、あまり内容にこだわらず、中味を磨くのは後回しにし、出来るだけの量をコンスタントに書き論文の完成が見えてくるようにしたい、と思って作業を進めていきました。しかし、前回のブログで書いたように、私の能力の限界は如何ともしがたく、時間はどんどん過ぎ、しかし書ける文章の量は最初の1年間のペースのままでした。ひとつには、前回までに書いたように、私が学際的なアプローチを取って文学作品にみる法や法曹について研究したために、それまで全く読んだことのなかった法制史(legal history)の本を必要最小限でも読むために膨大な時間がかかったのです。法制史関連の本を読み、中世劇のテキストを繰り返し読む、という事を同時進行でやるのですが、前者に途方もない時間を使ってしまいました。しかも、既に書いたように、私の読書は、沢山のノートの取りながらのかたつむりのような読み方で、論文は遅々として進みません。結局、7万語程度書き、全体が大体において形を現したと感じ、これから序論と結論に取りかかろうと思った時には、始めてから6年後、2014年になっていました。その大分前、2011年の夏には私は日本に戻り、非常勤講師や家事の傍ら、勉強を続けていました。
それまで私は各章、あるいは長い章の場合はその中のセクション毎にG先生に送ってコメントをいただき、修正していました。また、日本に戻った後も、毎年1度か2度ロンドンで先生と直接会い、指導も受けました。全体が固まりつつあった2014年の夏頃、私はそれまで書いた5章をもう一度一括してG先生に送り、先生は全体を再読して下さいました。しばらくして彼から、長文のコメントが送られてきましたが、それはかなり辛い内容でした。そのことについては既にその当時のブログ「博士論文の行き詰まり」で書いたので、ここではリンクを貼るだけにします。先生がおっしゃるには、要するに、論文草稿の半分以上がそのままでは使えない、大幅な書き直しが必要とのことでした。本文の原稿を通して読んで、理論的な一貫性に欠けていることが分かったそうです。それまでの、まずは書けるだけ書く、というやり方のツケが一気に回ってきたのです。全体の理論的構築を考えつつ各章を書いて行かなければならなかった、とこの時に気づかされました。でもそれまで私は、少しでも先に進むことで精一杯で、正直に言って、論文全体の理論的な一貫性を保ちつつ書ける実力も余裕も無かったのです。私自身、その頃イントロダクションを書こうとして、かなり困っていました。各章がバラバラなので、序論をどう書いて良いか分からなかったからです。
それから1年弱、私の論文執筆期間において一番苦しい時期が続きました。何だかノイローゼみたいになり何もせずにボーッと過ごす日もありました。鬱々としていると、そもそも勉強をするエネルギーが出ないので、論文とは全く関係の無い気晴らしをする日も多かったと思います。毎週1回行っていた非常勤講師の仕事や友人の先生のクラスでのゲスト講義、旧勤務校の市民講座の担当などの仕事は良い気分転換になりました。しかし、そうしている間にも時間は経ち、論文完成のゴールは霞んでいきます。ケント大学がいつまで私の在籍を許してくれるのかもはっきりせず、焦っていました。それまで読んでいた中世劇や法制史の研究書から離れ、理論的な支柱や新しい視点を求めて、「法と文学」のテーマについて書かれた本を捜し、何冊か読んだりもしました。当時読んだ本の中には、文学理論、社会学、建築史などの本に加え、カフカの短編小説もあります。カフカは若い頃から私の好きな作家でしたが、彼は「法と文学」に関する研究で良く題材として俎上に載せられる作家です。こうした無駄な脱線のように見えた読書が私の視野を広げ、その後、イントロダクションを考える上で重要な役割を果たし、私のPh.D論文が息を吹き返すことになりました。
この長いスランプの期間、私は2ヶ月に1回程度イギリスのスーパーバイザー、G先生とメールのやり取りをしていました。彼は「こう書きなさい」という具体的ヒントは与えてくれませんでしたし、また私のやっているテーマには通じていないので、そうしたくても出来なかったとは思いますが、常に励ましの言葉をかけて下さり、私には論文を完成するのに充分な能力があると繰り返し書いて下さいました。そして、今まで書いた章、特に問題の多い1〜3章を無駄だったと思わず、何とか組み立て直して使うように、と指示されました。
さて、今回はここまでとします。最悪の期間を抜け出して論文完成へと進んだ頃のことは次回続けます。
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