2016/01/28

森有正の先生、リュシアン・フーレ

哲学者でフランス文学者、森有正の『バビロンの流れのほとりにて』(筑摩書房、1968)は私の学生時代の愛読書だった。一気に通読するような本ではないが、かけていたカバーがすり切れるくらいたびたび開き、あちこち気の向くままに繰り返し読んだと思う。その後、ずっと読んでなかったが、ふと今日手にとってパラパラめくってみた。 

それで再び思い出したのは、森が個人教授を受け、大きな影響をこうむったのが、古仏語学者として多くの業績を残したリュシアン・フーレ (Lucien Foulet, 1873-1958) だったことだ。森の別の本、『遙かなノートル・ダム』(講談社文芸文庫、2012、初版1983)、の159-160頁にこのフーレ先生のことがやや詳しく書いてある。非常に几帳面な人だったようで、授業の時間にも、5分早くても5分遅刻してもいけなかったそうである。森はこの先生の自宅でモンテーニュの『エッセー』をテキストにして教わっていたらしい。その個人教授の様子が幾分うかがえる次のような一節がある: 

先生からは字句の定義について深い教えを受けたと思っています。この場合、定義というのは、辞書の中に出ている定義ではなく、その言葉によって現実に指されている事物や観念や精神なのです。いいかえれば、唯一の実在である経験の現実態そのものなのです。先生はいろいろな例をとったり、時には御自分で身振りや妙な発声までして、それを伝えようとして下さいました。(160頁)

このリュシアン・フーレという学者、ウィキペディア仏語版も英語版でも説明がない。ドイツ語版では割合短い解説があるのだが、残念ながら私はドイツ語が読めない。それで、他に彼の事を知る手段がないかネット検索で探したところ、ロマンス諸語の学術誌、Romance Philology 13巻1号(1959年)108-110頁に割合詳しい死亡記事があったので読んでみた。彼は中世フランス語文学作品『狐物語』 (Roman de Renard) の研究、クレチアン・ド・トロワの『ペルスヴァル』 (Perceval) の現代語訳、そして、中世フランス語の統語論や語彙に関する多くの著書や研究論文、書誌を残しているようだ。基本的に、中世の文学作品の正確な理解を助けるテキストの確立と編集、そしてそこに現れる文法事項を精密に研究する伝統的なフィロロジスト(文献学者)であったようだ。 

彼はどうして森を自宅で教えていたのだろうか。フーレはグラン・ゼコールの中でも名門の高等師範学校や高等研究院で学んだ後、数年、リセで教えていたが、アメリカ、ペンシルベニア州の名門私立女子大、ブリンマー・カレッジ(Brian Mawr College)で1900年から1909年まで教えた。1909年にはカリフォルニア大学バークレー校に移り、1912年まで勤め、仏文科に大きな足跡を残した。しかし、1912年、彼は健康問題のためにバークレーを辞職し、パリへ戻った。その後はずっとフリーランスの学者、英語で言うところの independent scholar として生涯を過ごしつつ、変わらぬ情熱を研究に注ぎ続けたらしい。ということで、森有正のような学者を個人的に授業料を取って教えていたのだろう。森にフーレを紹介したのは渡邉一夫だったそうだ(『遙かなノートル・ダム』277頁)。

森有正は1948年に東京大学の仏語仏文学の助教授に就任。1950年、39才で、先輩教授の渡邉一夫などに促されて、なかば嫌々パリに研究留学した。しかし、パリで彼は彼の地でしか出来ない勉強に目覚め、1952年、41才にして、東大助教授という日本の人文研究者としては最も権威ある仕事を辞職してパリに留まった。その後彼は55年まで翻訳や通訳などの仕事をして生計を立てたようだ。55年にソルボンヌ大学付属東洋語学校の教師となり、日本語日本文学を教え始める。そうした森だったから、健康問題でバークリーの名誉ある仕事を失ってフランスに帰ってからも、自宅で営々と研究に励むフーレには共感し、深い敬意を払っていたのだろう。

これに関連した文章として、森は『バビロンの流れのほとりにて』に収められている「流れのほとりにて」というタイトルの文章で、芸術や思想の追及が、一方で展覧会とかコンクール、他方で大学教授の職といった世俗的野心と結びついていることを嘆き、自分がそういう生き方と袂を分かって、パリにおいて思想を深める決意を表明している:

・・・芸術とは、一箇の人間が、人間として深まり、普遍の影を映すようになったそのものだ。だからそれは、本質的に、展覧会や、コンセールや、コンクールや、フェスティヴァルや、雑誌などとは何の関係もないものだ。芸術は今日、何とゆがめられつくしていることだろう。元来名誉とは何の関係もないものが、むしろ旧い名が死んで本当の、無記名の名の誕生にまで延びてゆくはずのものが、顚倒され、旧い名と名誉とのための道具となってしまっている。スポーツや博覧会と本質的に同じものにされてしまっている。思想は大学教授とは何の関係もないものだ。それが大学教授になるために研究され、論文にまとめられている。自分としては、おそらく人間そのものの唯一の道と思われるものがこのようになっていることに、嘆かないでいられようか。しかし僕は、そういうことから離れて、自分の道を行きつくすまで歩いて行かなければならない。この嘆きをも忘れなければならない。自分の道を進むことが唯一絶対のことなのだから。また時の流れは一度しか経過しないのだから。そして経過した時は絶対にとりかえせないのだから。(176-77頁)

この文を森は1957年、留学して7年目、46歳の時に書いている。私は森の哲学的な、あるいは比較文化的な思索などにそれ程関心があるわけではない。それでも今も昔も彼の書き物に引かれるのは、この世俗を忘れて学問に専心しようとする純粋さ故だろう。その意味で、リュシアン・フーレにも興味を持った。

最後に、リュシアン・フーレの主要な著作を挙げておきたい。

A Bibliography of Medieval French Literature for College Libraries, with Albert Schinz and Georges A. Underwood, (New Haven, 1915)

Petite syntaxe de l'ancien français  (Paris 1919)

Le Roman de Renard (Paris, 1914)

(edited) La Chastelaine de vergi : poeme du xiiie siecle  (Paris, 1921)

(translated) Chrétien de Troyes, Perceval le gallois ou le conte du graal (Paris 1947)

亡くなられて半世紀以上経つというのに、今でも新本や古書で手に入る本ばかりだから凄い。Petite syntaxe は以前名前は聞いたことがある。多分、古仏語学習者には良く知られたロング・セラーなのだろう。専門外ではあるが、そのうちどれか一冊買い求めて覗いてみたいと思っている。

0 件のコメント:

コメントを投稿