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11月11日土曜日の夜、池袋の東京芸術劇場でアントン・チェーホフ原作の『かもめ』の公演を見た。
私は作品を見たことがないが、最近注目を集めているらしい熊林弘高という演出家による作品らしい。日本で伝統的なチェーホフ演出というと、黄昏の帝政ロシアを舞台に、時代に取り残されていく中流以上の人々の哀しみをしっとりとした情感を込めて演ずる、という、まあ一種のステレオタイプというか、観客も公演をする方もそういう思い込みがあるかもしれない。しかし、昨今は、イギリスでも日本でも、シェイクスピア同様、そういう伝統的な殻を壊し、情感を破壊し、高々と笑えるようなスラップスティック風のチェーホフ演出の方が、むしろ当たり前になりつつあるのだろうか。元来ロシアでやるチェーホフは大いに笑えるシーンが多いという話もある。ナショナル・シアターやヤング・ヴィックで見た公演もそういう感じだった。これもそういう趣向の公演。
何だか、昨今の日本の演劇界では、西洋古典というと、そもそもオーソドックスな演出や演技をやった経験もないのに、頭の中のオーソドックスな演出をぶち壊すところから始める人達が多い気がする。この公演も作者や作品に関する愛が全く感じられず、実につまらない。俳優は実力のある人を揃えているのだが、それぞれの強みを引き出しているとは思えず、空回りとしか思えないドタバタが延々と3時間近く続きうんざりした。
チェーホフ作品は、広い意味でのコメディーだと思うし、自然に笑いをかもし出す人物や台詞もかなりある。でも大げさでわざとらしい尾ひれをつけて、スラップステックにして何の意味があるんだろう。「オレの公演、どうだ新しいだろう!」という演出家のエゴばかりが目立って不快だった。また、女性の人物描写で、脚本にあるとは思えない肉感的な表現を俳優にさせているのは、ステレオタイプ的なミソジニーの気配もして、私には見ておれない印象を与えた。
トレープレフ(坂口健太郎)とトリゴーリン(田中圭)の年齢が近く、後者がとても若いので、ニーナ(満島ひかり)を挟むライバル関係が明確になり、完全に若者の三角関係のドラマになったのは面白い試みだが、その一方で、元来戯曲では中心的人物のアルカージナ(佐藤オリエ)がすっかり霞んでしまい、まるでトリゴーリンの母親、トレープレフのお婆ちゃん、にでもなったかのようだ。佐藤オリエ、中嶋朋子、あめくみちこ、の3人の、技術と経験を持っているはずのベテランに、それぞれ哀しみに満ちた役が振られているのに、その哀しみがまったく感じられない。中島の演じるのは特に感動を誘う役柄なのだがが、まるで薹が立ったオールドミスというだけになっていて、良い俳優なのにかわいそう。
昨今の私にとってはかなり高額なチケット代だったけど、まったく楽しめず不満に満ちて劇場を後にした。
これを見ると、蜷川幸雄が演出した『かもめ』が如何に良かったか、記憶力の乏しい私でもその時の感動が思い出される。原田美枝子のアルカージナ、高橋洋のトレープレフ、そして宮本裕子のニーナ、素晴らしかったなあ!懐かしい。 但、トリゴーリンを作家の筒井康隆が演じたが、あまりに素人臭くてひどかったな。
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