12月10日、11日、関西大学で開かれた日本中世英語英文学会に行った。今回はそこで聞いたエモリー大学のジェイムズ・H・モーリー教授の発表についての感想。専門外の方には関心を持てない内容だが、お許し下さい。
今回の学会で私が特に関心を持っていたのは、10日の Sermons and Biblical Narrative Pre- and Post-Arundel というシンポジウム。特に、エモリー大学のジェイムズ・H・モーリー教授(Professor James H. Morey)の講演に期待していた。実際に出席してみて、期待していた通りモーリー教授の講演は大変刺激的だった。彼の主な主張は、今までニコラス・ワトソンなどが提唱してきたアランデル大司教の1409年の教会法令(Constitutions)の影響が、それ程大きくなかったのではないかという点。そして、15世紀にも多くの宗教的文書が書かれ、特に詩ではなく、散文作品が書かれたこと、更に14世紀に書かれた多くの重要で論争を呼ぶような宗教的作品の写本が15世紀になって数多く写されて現在に到っているので、少なくとも当局の検閲がそれほど広く徹底していたとは考えられない、ということだった。モーリー教授も、全体としてはニコラス・ワトソンの論文の主旨に賛成だが、ワトソンはConstitutions の影響を過大評価しすぎている、という論旨だったと思う。
特に彼は、ウィクリフの英訳聖書に象徴される散文による宗教作品が、それまでの韻文による聖書のパラフレーズ作品(所謂「ゴスペル・ハーモニー」など)を駆逐したのではないか、と言う。その点で、ウィクリフ派の散文訳聖書が広まったことの影響は甚大だった、と考えるそうだ。異端の書とは言え、大変に人気があったわけである。このように、詩文から散文へ、という流れを、宗教作品の変化、異端弾圧と検閲などと関連づけて論じてくれたことは大変新鮮だった。
私も、モーリー先生の結論にはうなずける。ワトソンの論文は素晴らしいが、14世紀末から15世紀始めにかけての政府と教会の異端に対する諸政策の全体として英語の宗教作品が作られにくい状況が生まれたのであって、Constitutions はその重要な一部に過ぎない、とは思う。Constitutions が文化史上非常に注目されてきたのは、この法令が聖書の英語訳を明確に禁じたからであり、それは言い替えれば、近現代人にとって、ルターやティンダル等の宗教改革本流における俗語訳聖書に先行した、ウィクリフ派の英訳聖書の歴史的重要性を示していると言える。
私の感想としては、15世紀における識字率の向上により、韻文を耳で聞くよりも、散文を本で読むことが多くなり、それが散文の宗教作品の執筆を後押しした面もあるのではないか、と思った。また、モーリー教授の示した資料によっても、15世紀には韻文・散文を問わず新しい宗教作品が明らかにに減少しているのは確かであり、やはり政府と教会の異端弾圧とそれに伴う自主的な検閲、宗教作品への警戒感の影響が原因となっているのではないだろうか。
モーリー先生の発表を聞いて特に感じたのは、英米の立派な研究者は、大きなスケールで、文学史、文化史的な視点を交えながら話すので、そこで論じられている作品について知らない者でも、大変面白く聞けるということ。色々な意味で、刺激的で、勉強になる発表だった。
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